
忘れることは幸せ
自分では記憶力が良いほうだと思っていたが、年と共に、それも、覚束なく
なり、図書館で借りてきた本を3分の2ほどまで読んで、
「あ、これは、数年前に借りて読んだ本だ。」と気づいたのが10年くらい前だったか。でも、同じ本を初めて読んだような気分で、何度も読めれば、それも楽しい。
生活の細かい部分から、そこそこ大事な事まで、
「あ、忘れてた。」が増えて、大事な事は忘れては大変だから、必ずメモしたり、カレンダーに記入して何とかまだ、困った事態になっていないのだけれど。
今日も歯科医院へ行き、受付で、診察券とマイナンバーカードを出そうとしたら、
「え、無い。いやいや、確かにバッグに入れた。あ、取り出しやすいように、バッグのポケットに入れたんだった。」と外側のポケットを二つ見たけど無い。
どうして?と内ポケットを見たらあった。
こんな事が増えた。
さて、私の母も記憶力の良い人だったが、よく、昔、姑に言われた言葉を、姑が亡くなって10年も20年も経ってから、私に愚痴ったものだった。私は、そのたびに、
「忘れてしまえば、幸せなのになあ。」と思った。
記憶があるというのは、必ずしも幸せではないと、カズオ・イシグロの小説「忘れられた巨人」を読んで思った事もあった。
先日、親戚のおばさんと話していたら、近所の仲の良かった人が、足が不自由になり、施設に入ったのだけれど、毎日のように電話を掛けてきて、その内容が毎回、
「自宅と隣の境界線5センチ違っているのが心配で。息子には言えない……云々。」と繰り返すのだとか。
いや、ちょっと待って。
その人九十歳過ぎているし、息子さんだって、七十歳近い。もう、息子さんに任せておけば良いことだし、そもそも、そんな隣との境が5センチ違うって話、本当かしら。そんなトラブルが実際あったとして、それはいつの話なんだろう。もしかすると、トラブルなんて無かったのかもしれないし、あったとしても、とうに解決したのではないか。
人は認知症になると、若い時に気にかかっていたこと、悩んでいたことが心を離れず、いつまでも拘るようになるのかもしれない。
理屈でいくら説得しても無理で、その人の不安や気がかりに、
「もう大丈夫だよ。その件は解決したからね。誰もあなたを恨んだりしていないよ。」と言ってあげるしかないのかなと考えた。
心に、しこっている事柄は、たいてい苦しかった事、悔しかったこと、悲しかった事とネガティブな感情だろう。人の記憶は、楽しかったことより、苦しかったことの方が、強く深く長く残りやすい。それは、生きていくために、過去の危険を覚えておいて、次の危険を察知するという本能なのだろうけれど、記憶が自分を苦しめて縛っているなら、忘れっぽい人のほうが、ずっと幸せだし、認知症になりにくいかもしれない。
真面目な人ほど、自分をがんじがらめにして、記憶が消せない。
忘れる練習も必要ではないか。とは言え、忘れようと思えば思うほど、そのことを考えてしまうのだから、いやな記憶が湧き上がってきそうになったら、別のことを考えたり、身体を動かして、気を紛らわせる。そのうち、考える頻度が少なくなっていくというくらいしか思いつかないが、自分の頭を自分の記憶や感情でいっぱいにしない練習も、続けていれば、習慣となる。