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ささやかなギフト

    あらすじ
    40年ぶりに再会した里中と麻子が、本を通じて交流を始めると、里中の姉や幼なじみの佐藤が、二人の過去やこれからに興味を抱く。
    里中は、長い年月を経て、麻子も変わったが、自分が彼女を見る目も変わっていることに気づく。そんなある日、姉が、昔、母が世話になった人が麻子だったのではないかと言い出して、佐藤は真相を探ろうとする。
    若い頃、相手の深い想いも知らず、人生の舵を切った二人のこれからは?

    【お土産】
     
     里中が、最近、俳句や川柳に興味を持ち始めたと知った小野麻子が、自分の本を持って、里中の家を訪ねて来てくれた。麻子の学生時代の恩師が出した俳句に関する著書である。麻子自身は一通り興味を持って読んだが、難しくてよく分らなかったから、差し上げますと言う。二人で書斎で話をしていると、麻子が、
     「あ、忘れてた。これ、お土産。」
    と、手提げから小さな紙包みを出して、机に載せる。里中が何だろうと思いながら手に取ると、
    「開けてみて。」
    と言うので、中から取り出してみると、ハーモニカ型のキーホルダーだった。何だ、キーホルダーかと思い、何を期待していたんだろうとおかしくなった。
    「がっかりした?」
    と彼女が聞くので、
    「いや、・・・」
    と答えると、麻子は笑いながら、
    「昔、あなたが、お土産と言って渡してくれた貝殻細工には、がっかりした。あの時、あなたから渡された時、小さな巻き貝をテグスで繋いだ物だったから、わたしは最初ネックレスかと思ったんだけど、プランターカバーだと知って、すごく悲しかった。」
    と話し始める。えっ、と思って里中は、話がどこへ飛んだのかわからなくて、めまぐるしく頭を回転させようとしたが、言葉が出てこない。麻子が続けて、
     「あなたの卒業後のことを何も知らされないまま、5月になって、突然、ロンドンから絵葉書が届いて、半年後には日本に帰国して働くと知った時が、わたしの人生で一番幸せな日だったのに。あなたがイギリスからフランスに渡り、エジプトを回って帰ってきた、そのお土産がプランターを吊るす物だったなんて。女の子に持ってくるならネックレスかブローチでしょうに。」
    笑顔で話していた麻子が、最後はため息とともにうつむく。

     「わたしはかすかに期待した言葉も聞けず、寂しい思いで一人で帰ったけれど、あの時の惨めな自分を、今のわたしでも可哀想に思う。あの時何も言えなかった。そんなわたしをあなたがどう思ったのか、きっと暗くてつまらない女の子としか思わなかったのでしょうね。」
     突然、昔話を聞かされて、里中は面食らった。若い頃、麻子がこんなふうに自分の感情を吐露することはなかった。いつも、彼女は聞き役で、もっぱら、里中だけが話していたような気がする。
     彼女にお土産を渡した、そんなことがあったなとしか思い出せなかった。あの時二人は会話らしい会話もせずに別れたのだったか。台風一過の暑い秋の日だったことは印象に残っていた。彼は遠い記憶を辿ったが、その時の自分の気持ちを、呼び覚ますことは出来なかった。麻子がかすかに期待した言葉とは、何だったのだろうと考えていると、麻子が、
    「それでも、わたし、あの貝殻細工を、そのあとずっと持っていたの。
    一人暮らしのアパートでも実家でも、植物を吊り下げて飾るということをしなかったから、使うこともなく、わたしはあれを、小さな箱に入れて大切にしまっておいた。結婚した時も持って来たの。そして、夫とわたしが家を建てた後も、やっぱり、植物を吊り下げる事はなくて、いつだったか、テグスを切って、貝殻をばらばらにして、庭の土に埋めた。もう、土に溶けて貝はないでしょうね、30年も経ったから。エジプト土産の貝殻が、空を飛んで、うちの庭に眠ることになるとはね。その家も、もう人手に渡った。」
     里中は、麻子の言葉を聞きながら、なんとも言いようがなくて、黙ったままだった。麻子は麻子で、ああ、こんな話をするのではなかった、また、嫌われたと思い、キーホルダーを眺めている里中に、
    「そのハーモニカはちゃんと吹けるのよ。練習したら聞かせて。」
    と言って、さっと席を立つと帰って行った。
     彼は麻子を玄関まで送って、書斎に戻ると、机の上に置いた5センチほどのハーモニカを口に持って行き、息を吹き込んだ。高い音が出た。
     40年前のあの貝殻細工は、彼女に悲しい思いをさせたのか?そんなことを一度だって想像したことはなかった。思えば、自分は不器用だった。彼女が手紙をくれるだけで嬉しかったのに、それを素直に言えず、いつも、素っ気ない態度をとった。
     彼女が示した好意に対して、どこまで本気だろう、どれほどの深さの愛情だろう、いや、友人としての思いしかないに違いない、などと思い迷い、あまり真剣に受け止めたら、ぬか喜びに終わのではないかと恐れ、冷静を保とうとして、節度ある態度を崩さなかった。だから、あの時のお土産も、他の友人達と同じものにした。
     半年の語学留学も親の経済状態からは、少々無理をして行ったものだったから、友人達へのお土産も安価なもので済ませた。そういうことを、いちいち彼女に説明するのも、恥ずかしかった。そんな彼に麻子は、深く踏み込んでは来なかった。里中も麻子も若かったのだ。

    【何も立派なことをしなくても生きていていい】
     
    二日後、
    「里中さん、書斎にたくさん本があったけど、社会学の本も多いんでしょうね。」
    と電話で小野麻子に聞かれて、
    「うん、まあ。」
    と答える。学生時代は社会学部だったが、ろくに勉強もせず卒業して40年余り。
    「ピエール・ブルデュ―があるかしら。図書館になかったから、もし、そちらにあったら借りたいんですけど。」
    「さあ、どうだったかな?探して見るよ。」
    と言って電話を切ると、里中は書斎へ行った。三方の壁は高い本棚で埋め尽くされている。本は増えるばかりで、隣の部屋も書庫となっていて本棚と段ボール箱でぎっしりだ。里中は改めて自分の蔵書を眺めた。人文科学系の本が多い。歴史、哲学、小説、語学に、心理学などが、一応、分類して収めてある。
     社会学の本は、学生時代のものがあったが、熱心に勉強したわけではないから豊富に揃っているとは言い難い。卒業後に買って読んだ本が、多少あったが、麻子の期待するほどのものはない。
     最近は軽いものばかり読んでいるし、古いものは埃をかぶっている。この大量の本も妻子のない自分が死んだら、甥か誰かに処分してもらうことになる。今のうちに処分すべきだと思った。
     翌日麻子がやって来たので、書斎に招き、
    「ピエール・ブルデューはなかったよ。」と里中が言うと、
    「そう、じゃ他の社会学の本は?」
    と麻子が聞く。となりの書庫へ入り、それらの本が集まった箇所を指すと、麻子は背表紙のタイトルと著者名を見て、二冊抜き出すと、パラパラとページを繰り、さっと目を通してから、
    「この二冊を貸してください。」
    と差し出す。
    「社会学に興味があるの?」
    「テレビで紹介されていて面白そうだと思って。」
    と言いながら書斎へ戻ると、そこでも、本をひと渡り見て、また二冊抜き出した。 
    「これも借りようかな。面白い?」
    と聞く手元を見ると娯楽小説である。
    「君はそんな時代小説の剣豪物も読むの?」
    「ええ、結婚するまでは時代小説は読んだことなかったけれど、妊娠中に長い間安静にしてなきゃならなかったから、夫の本棚の本を読んでみたら面白かった。それから時々読むようになって、池波正太郎なんか、何も立派なことをしなくても生きていていいんだって気持ちにさせてくれるから好きだなあ。」
    そう言えば、麻子の夫は刀剣関係の仕事をしていたと聞いた。池波正太郎は夫の好みだったのだろう。
     何も立派な事をしなくても生きていていいのか。里中は改めて、麻子の素直な言葉に彼女らしいと思い、若い頃もこんな風に、いつも彼女の言葉に励まされていたことを思い出した。
    麻子はバッグから筆記用具を出して四冊の書名を記し、その紙片を里中に渡すと、
    「二週間くらいで返します。」と言って帰った。
     

    【読書会】
     
     午後になって、中学時代の同級生、佐藤がやって来た。佐藤は、借りている市民農園で作った白菜や大根を持って来て、
    「一人暮らしでは、食べきれないだろうから、姉さんにでも持っていって、料理してもらえよ。どうせ、いつもたいして料理なんかしないんだろう。」と、台所まで野菜を運んでくれた。
    「いや、一人暮らしも長いからな、料理はお手のものさ。何でも出来る。」と答える。この間も、麻子に、
    「里中さん。毎日の食事どうしてます?」
    と聞かれたときも、同じ事を言ったら、
    「あら、専業主婦だった私でも、何でもできるとは言えないのに。大抵のことができるの間違いでは?」
    と言われた。それを佐藤に言うと、
    「うん、小野さんが正しい。」
    と断言する。
     書斎に入って腰を落ち着けると、佐藤は、机の上に置かれた紙片とその上に載っている、小さな5センチほどのハーモニカのキーホルダーに目を留めた。
    「これは何だ?おまえにしては珍しいものがあるじゃないか。」
    と指を指す。
    「うん、彼女が、先日、実家へ行ってきたお土産だ。それでも曲が吹けると言うんだが。」
    「へえ、静岡の名産はお茶とミカンかと思ったら、そうか、浜松は楽器の街だな。有名なピアノやオルガンのメーカーがある。シンガーソングライターの小椋佳が、浜松の銀行の支店長だったこともあるんだぜ、知ってるか?」
    里中は、フォークソングのことはよく知らないから、そう言われても、首を振るだけだ。
     佐藤はハーモニカを手に取ると吹いて見て、音を探っているうちにド
    レミと出て、🎵咲いた咲いたチューリップの花が🎶と吹き出した。
    「うん、音楽はいいな。うちのかみさんが趣味を持てと言うんだ。俺も何か楽器を練習するかな。そしたら、小野さんと合奏出来る。」
    「おまえ、昔、下手なギターを弾いていたな。ものにならなかったじゃないか。彼女は何か楽器を演奏できるのかな?」
    里中は、麻子が楽器を弾くとは聞いたことがなかった。
    「公園で、オカリナを吹いているよ。数年前から自己流で始めたんだそうだ。」
    「ふうん。」
    佐藤がハーモニカを机の上に戻そうとするので、
    「おい、吹いたら水で洗っておいてくれ。」
    と言うと、佐藤はポケットからエタノール消毒液のついたティッシュを出して、ハーモニカを拭いた。里中は佐藤の用意周到なことに感心した。佐藤は、
    「最近、少年野球の指導もしているし、妻は元看護師だったから、こういうことにはうるさい。いつも消毒できるものを持って外出する癖がついている。」
    と言う。
     佐藤はハーモニカを机の上の紙片に載せて、
    「このメモは何だい?本のようだけど、おまえの字じゃないな。」
    「彼女が借りて行った本だ。律儀に書いていった。二週間くらいで返すとさ。」
    「へえ、二週間で四冊も読めるのかな?この中の一冊は知ってるぞ。なかなか濃厚な濡れ場の描写がある。ああいうのを読んで、小野さんはどう思うのかな?」
    「他に言うことないのか。」
    里中は、佐藤を軽くいなしたが、彼自身もそういうことを思わないでもない。佐藤は、本棚に近づくと、おなじく池波正太郎の本を二冊取り出し、
    「じゃ、俺もこの作者の本を二冊ほど借りて行く。小野さんが本を返しに来る日が分かったら、教えてくれ。ここで二人読書会をする。じっくり、小野さんの感想を聞く。お前も参加したければ、してもいいぞ。」
    と、読書会をすると言ったのが、満更冗談でもないらしく、小野麻子の書いたメモの隅に自分も書名を記した。
    「ここを誰の家だと思っているんだよ。勝手に決めるな。」
    里中の言葉に佐藤は本を持って退散した。
     
     佐藤は里中を通して麻子と知り合った。初めて里中の家で紹介された時、三ヶ月前にこの街に引っ越して来たと言い、里中とはどういう関係かと聞いて見ると、学生時代に知り合ったが、40年も音沙汰がなかったのだと言う。
     たまたま、彼女の息子がこの街に転勤してきて、彼女は夫に先立たれ一人になったので、静岡の家を売却して、息子夫婦の住まいの近くのアパートに居を定めたという。この街に住むようになって、里中との交流が復活したらしい。里中は学生時代から、ずっと東京で暮らしていたが、定年退職したのを機に郷里に帰って、母親と2年ばかり暮らしたが、その母も昨年92歳で亡くなっていた。
     佐藤は、毎日のように、川沿いや市民農園までの道を一時間ほど、妻と散歩するが、時々、麻子が散歩するのに出会うようになり、夫婦共に気さくに麻子と話をするようになった。率直で清潔感のある麻子を、佐藤も妻も爽やかな人だと思った。
     
    【メール】
     
     二週間後、里中が近所に住む姉に頼まれた用事を済ませて、帰って来ると、玄関前に佐藤が立っていて、
    「やっぱりな、俺は15分前までおまえが、今日小野さんが来ると知らせてくれるかと思って待っていたんだが、連絡ないから、やって来た。」
    と言う。
    「何のことだ?」
    「今朝、散歩中に小野さんに会ったら、午後本を返しに行くと言ってたんだ。お前のところへは昨夜、メールして置いたが、今朝まで返信はないと。」
     里中は玄関の鍵を開け、中に入ると携帯のメールを開いた。確かに小野麻子から、(明日午後2時ごろ伺います。)とある。昨夜は遅く、県外の親戚の法事から帰ってきて、今朝は、小学生の見守りと交通教室のボランティアの会議があり、昼食の後は姉の家に行っていて、ずっとマナーモードのままで、スマホを開いていなかった。既に2時である。
    そこへ麻子が、
     「こんにちは。」
    とやって来た。
    「小野さん、こいつは今メール読んだ。」
    と佐藤が言うと、
    「いつもの事よ。読んだか読まないかわからないし、返信もない。」
    「既読つかないの?」
    「この人はラインもしないし、キャリアメールアドレスも教えてくれない。私達、ずっとショートメールでやり取りしてるんだから。」
    と麻子が答えたので、佐藤は呆れた。麻子のスマホは、古い機種で、ショートメールに既読がつかないらしい。
      里中は、言い訳もせず、黙って佐藤と麻子の会話を聞きながら、奥へ入る。
     三人が書斎に入ると、麻子は、
    「四冊返しますね。」
    と言って、バッグから本を出し、
    「社会学の二冊は隣の部屋でしたね。」
    と持って行く。
    「いいよ、私が戻すから。」
    と里中が後に続き、佐藤もついてくる。麻子はこの前、本を抜き出した場所を探すと、
    「ここでよかった?」
    と言って本を戻す。
     本を戻し終えたその時、突然こちらを向いた麻子が、いきなり里中の腕を掴むとそのまま廊下へ出る。里中は驚いて、
    「何?どうした┉。」
    と言い掛けた時、三人の携帯で一斉に緊急地震速報のアラームが鳴りだした。里中はハッとして、
    「佐藤!」
    と部屋の中へ叫ぶと、佐藤が部屋を飛び出し、玄関へ向かおうとする。里中も佐藤の後を追おうとすると、腕を掴んだままの麻子が、
    「外は危険!ここの方がいい。」
    と引き留める。
     その時グラリと大きな揺れが来て、収まるまでしばらくあった。
     里中の住むこの家は、祖父の代からの古い建物だが、工務店を経営している佐藤のアドバイスで、30年前に耐震補強工事はしてあった。
     一旦、揺れが収まると、三人はテレビのある居間に行って、ニュースを見た。震源地は九州で、四国のこの辺りの震度は4であった。幸い大きな被害の出る地震ではなかったらしい。津波の心配も無い。
     
    【予知】
     
     かなり揺れた気がしたが、書斎や書庫の本棚が倒れたり、本が落ちてきたような様子はない。皆ほっとしてテレビを切り、里中と佐藤が書斎に戻ろうとすると、麻子が、
    「今のがいちばん強い地震とは限らないから、しばらくここにいたほうがいい。」
    と言うので、書斎に戻らず、また居間に座った。
    「里中さん、本棚が固定してないのは危険だわ。静岡では本の下敷きになって亡くなった人もいたのよ。この部屋は家具が少ないからいいけど、里中さん、寝室にも本棚や箪笥があるんじゃない?」
    そう言われて里中は頷く。
    「寝室に大きな家具を置かない方がいいわ。この部屋もテレビが飛んで来るかもしれないから固定した方が。それから、食料は家にあるもので数日は困らないでしょうけれど、水だけは用意しておいたほうがいい。水が止まったら給水車が来るまで何もできないし、1番困るのはトイレだから、お風呂に水をためておくのもいいかもしれない。」
    と麻子は続けた。
     これでは地震の時、女性を守るどころではない。何から何まで、麻子の言うとおりである。
    里中がやっと、
    「さすが、地震防災先進県に住んでいただけのことはあるな。」
    と言うと、
    「こちらの人が準備してないことには驚く。」
    と麻子。
     佐藤が、
    「しかしさっきアラームが鳴る前に廊下へ出たのはなぜ?」
    と麻子に聞く。
     里中もそう言えばそうだった、腕を捕まれた時は、まさか地震が来るとは思わず、訳がわからなかったと思い出す。
    「わたし、地震が来るときは何となくわかるのよ。夜寝ていても、なぜか目が覚めて、来るなと思うと地震が来る。」
    と麻子が答えたのには、二人ともさらに驚いた。
     地震のせいで、その日、佐藤や、里中さえも期待していた読書会は流れてしまい、麻子が読んだ本の感想を聞くこともなく、解散となった。
    「読書会は、また日を改めて。」と麻子が帰っていく。

     その夜、佐藤はホームセンターで買ってきた金具を取り付けて、壁と家具を固定した。妻の敬子は、前々から家具の固定をしてほしいと夫に頼んでいたのに、なかなか実行しなかった夫が、やっと今日の地震で、その気になってくれたと思って喜んだ。佐藤が昼間の出来事を話して、
    「一番びっくりしたのは、小野さんの予知能力だ。」
    と言うのを聞いて、敬子は、
    「そういう人っているものよ。特に繊細な人が病気になったりすると、ますますそういう感覚が研ぎ澄まされて、こちらの考えを見透かされたりする。」
    と自分の看護師の経験から言う。
    「それにしても、里中の腕をいきなり摑んで廊下に出た時は何事かと思ったよ。やっぱり里中が大事なんだな。」
    「そりゃそうでしょうよ。あなたの腕なんか摑むわけない。あの二人は昔つき合っていたんでしょう?」
    「いや、つき合っていたとは聞いてないけどな。」
     と、言いながら、佐藤は、果たして、二人の関係は実際どういうものだったのだろう、そしてこれからどうなっていくのだろうと興味が湧いた。

    【人も本も出会うタイミングがある】
     
     三日後に佐藤が、里中を訪ねて行くと、書斎も書庫もそのままだったので、
    「俺はうちじゅうの家具を固定したが、おまえは小野さんの忠告も聞かず何もしてないな。」
    「寝室の家具は移動したんだが、この大量の本は処分することにした。」
    「ふうん、処分したら、小野さんが借りに来られないが。」
    と言えば、
    「うちは図書館じゃないんでね。」
    と冷たく答えたので、佐藤は腕組みして、しばらく考え、
    「ははん、おまえは彼女がここへやって来るのを警戒しているんだな。この間、地震が収まった時、二人だけでいたら、おまえは廊下で壁ドンしてたかもしれない。」
    「カベドンって何だ?カツ丼か天丼の種類か?」
    「全く。後でググれよ。」
     その時、玄関のチャイムが鳴ったので、里中が出てみると小野麻子だった。
    「散歩?」と聞くと麻子は後ろを振り返り、
    「これで来たの。」
    と手で示す。オレンジ色の真新しい電動アシスト自転車である。
    「へえ、君、自転車に乗れるの?」
    昔から、スポーツには興味が無く、里中が贔屓の野球チームや選手の話をしても、黙って聞くだけで、話は盛り上がらなかった麻子である。身体が頑丈でないせいか、活発とはいえず、趣味は読書や絵画など、インドア派の麻子であったから、里中は意外だった。
    「自転車くらい乗れますよ、小学生の時から。都会では必要ないけど、田舎に住んでいたら必需品よ。」
    自転車の前かごには帽子型のヘルメットがある。
     そこへ佐藤も声を聞きつけて出てきて、
    「やあ、こんにちは。小野さんは運動神経は悪くないんだろう?」
    と聞く。すらりとした体型に、やや広い肩幅の麻子は、いつも姿勢が良く、俊敏な印象を受けるからであるが、麻子は、
    「体育の授業以外、運動はしたことないけど、中学の校内陸上大会では走り高跳び二位だった。小学校の時も跳び箱八段飛べたし、水泳も二十五メートルがやっとだけど速かった。」
    「そうか、うちのかみさんが毎週プールに行くんだけど、俺にも行けというんだ。小野さんも一緒にどう?」
    里中が何が魂胆だ?という顔で佐藤を見る。どうせ、麻子の水着姿でも期待してのことだろう。こういうふうに、すぐ機会を捉えて、女性にまめに声を掛ける佐藤を、苦々しく見るが、半分は羨ましくも思う里中である。
    「わたし、耳の鼓膜に穴が開いているから水泳はだめです。」
    と麻子が答えたので、佐藤は、
    「残念だなあ。」
    と言って、里中に睨まれる。里中も麻子の耳が悪いことは初耳であった。
    「小野さん、里中は本を処分するそうだよ。小野さん、借りたい本もたくさんあるだろう?読書会もできなくなる。」
    と佐藤が言うと、麻子は、
    「そうなの?でもいいのよ。本はどこかでまた出会えるから。図書館でも古本屋さんでも。本との出会いも人との出会いと同じで、タイミングがあるんだと思う。それに読書会はどこでだってできるんだから。公園のベンチだっていい。」
    そこでまた、里中は、麻子の生き方の一端を垣間見たような気がした。麻子は、積極的に何かをコントロールしようという気持ちはない。流れのままに、自然に暮らして、何でも良い部分を見ようとする。悪い事実にぶつかっても、静かにやりすごして、不平や不満は言わない。それが、なんとも清々しい。
    「うん、小野さんはいつも、そういう風に考えるんだ。それに比べて里中は……」
    と佐藤は言ったが、麻子は、
    「今日は試運転に来ただけだから。」
    と、颯爽と帰って行った。
     
    【姉の記憶】
     
     麻子が、帰ってしばらくすると、近所に住む姉の良恵が、アジを持ってやって来た。姉の夫は、信用金庫を退職してから、釣り三昧の日々であり、時々、里中も釣った魚をお裾分けされる。
    「あら、佐藤君、こんな所で油を売っていていいの?」
    良恵は、顔なじみの佐藤に遠慮が無い。
    「昼間、家に居ると、かみさんが嫌がるから。」
    佐藤は、還暦を迎えると早々に仕事を退いて、少年野球の指導と市民農園での野菜作りに没頭している。
    「おやおや、工務店を息子さんに任せて引退したら、居場所がないの?しょうがないわね。夫がリタイアして、奥さんが一番心配するのは認知症よ。家でウロウロされるのは、確かに妻はうっとうしいわね。ところで、さっき自転車でここを出ていったのは、小野さんじゃなかった?」
     良恵もしょっちゅう里中の様子を見に来るから、自然と麻子を知るようになった。おしゃべりな良恵が話していても、いつも聞き上手で、時折、的確な質問を挟むので、良恵は、麻子は頭が良く、気持ちの良い付き合いのできる女性だと思っている。
    「うん、自転車を買ったから試運転に来たんだよ。」
    と里中が言うと、
    「私、あのオレンジ色の自転車を見て、何かが引っかかって、しばらくそこで考えていたんだけどね。今、ふと、昔、お母さんがお世話になった女性のことを思い出したのよ。その人がオレンジ色と黄緑色のチェックのブラウスを着ていたの。小野さんの後ろ姿がその人と重なって。」
    里中が、怪訝な顔で、
    「いったい何の話?」
    と聞くと、良恵は、
    「40年以上前だけど、その頃、お母さん更年期で突然動悸がしたり、頭痛がしたりと体調を崩しがちだったのよ。その日も買い物に行って、帰りに具合が悪くなって道端にしゃがみ込んで休んでいたんだって。そしたら、通りかかった若い女性が心配して、家まで送ってくれたのよ。歩いて10分かそこらだったけど、お母さん嬉しかったって。私がベビーカーを押して、反対側の歩道から来たら、ちょうどお母さんがその人と門のところで話していて、すぐその人は帰っていったけど、色白ですらりとした人だった。家に入って、お母さんにどなたと話していたの?ときいたら、名前も聞かなかったけど、言葉が標準語だったから、旅行に来た人じゃないかと言ったのよ。それが小野さんだったんじゃないかと思って。」
     里中も佐藤も、
    「まさか。」
    と言った。里中が、
    「そんなことはないだろう。だいたいそれはいつ?」
    「うん、娘が生まれた年だったから、昭和56年の秋のお彼岸前だったかな?ほら、あなたが出産祝いにアルバムを送ってくれたじゃない。あの年よ。」
    里中は記憶を手繰り寄せた。姉の出産祝いを買ったのは、東京のデパートだった。
    「あ、」
    里中は思い出した。
    「そのアルバムを買いに行った時、小野さんと一緒に行った。その時は、まだ結婚前で松本さんだったが。」
    「そうだったの?その頃、小野さんも東京にいたの?あなたが就職して、しばらく経った頃ね。」
    良恵は感慨深げに言った。
    「そう、冬だった。1月だったかな。その年の梅雨の頃に会ったのが最後だった。彼女はその2年後に、郷里に帰って結婚したと聞いた。」
     里中の言葉に佐藤が、
    「別れた3ヶ月後に、彼女がこの町に現れたのか?」
    「そんな偶然はないだろう。」
    里中と良恵は、顔を見合わせて、佐藤の言葉の意味するところを考えたが、全く、事情は想像できなかった。
     
     「ねえ、小野さんの若い頃の写真はないの?」
    と良恵が聞くが、小野麻子と里中は、互いの写真など持っていない。佐藤が、
    「大学の卒業アルバムがあるだろう。」
    と言うが、二人は別の大学だった。
    「そうだったのか?てっきりR大学の同級生かと思っていたが。じゃ、どうやって知り合ったんだ?」
    「A大学の学園祭に行って。」
    「そこでナンパか?」
    「いや、チェスのサークルに彼女がいて、対局して見たら将棋と違う面白さがあったから、もう一度対局をと言ったら、彼女が断って、こっちは負けたままだったから、」
    「その話はいいわ。」
    とピシャリと良恵が遮る。弟の話はいつも、肝心なところで要領を得ない。だらだらと話されたら、気の短い良恵はイライラする。
     佐藤が、自信満々と、
    「よし、俺に任せろ。」
    と言うので、
    「どうするんだ?」と里中が聞くと、
    「小野さんの若い頃の写真を俺が手に入れてやる。」
    「どうやって?」
    「簡単だよ。見せてくれって言えばいいんだ。メールで送ってもらえば、お姉さんにも見てもらえる。」
    「いや、それは」
    さすがに里中も良恵も言葉を濁す。
    「どうしても確認しなきゃならない訳でもないんだから。」
    と里中が言うので、佐藤は黙って帰った。
     
     しかし、大人しく引き下がる佐藤ではない。良恵にしても、弟の手前、あれ以上のことは聞けなかったが、真相を知りたくてうずうずした。
     小野麻子は、弟とどういう関係の女性なのか?単なる学生時代の旧友とは思えない雰囲気がある。二人は互いに憎からず思っているような気がしてならない。
     里中は三十歳の時、職場の後輩だった女性と結婚したが、数年で離婚した。原因は何だったのか、里中は、詳しい説明を両親にも、姉にもしなかった。
     年に一、二度、二人で、両親の家に帰省してきた時には、何の問題も無いように思えたが、夫婦のことは、傍から見てもわからない。とにかく、
    「離婚した。」という報告だけで、終わった。その頃、職場で、何か問題が起きて、上司の責任を押しつけられ、里中は左遷の憂き目に遭ったらしい。そんな不遇の時、妻は里中を支える気持ちがなかったと言うことかと、良恵は両親と話したのだが、事実は分らぬままだった。
     里中の妻だった女性は、ごく普通の明るくてそつの無い、良い嫁と映ったから、良恵から見て少々気の弱いと思える弟には、似合いだと思ったのだが。
     小野麻子と知り合ってから、良恵は、麻子の、平凡ではない人柄に驚いた。何か透き通った純粋さ、人を見抜く鋭さ、それでいて、思いやりのある穏やかさ。麻子を前にすると、気の引き締まる思いがするが、決して堅苦しいわけではなく、話していれば、こちらを大事にしてくれているという安心感を覚える。こんな人が弟の友人だったのかと思い、佐藤や佐藤の妻が麻子のファンになったのも頷けた。
     聞けば、麻子は夫を亡くして一人だというではないか。もし、麻子が、弟と一緒になってくれたならなどと、良恵の想像はふくらんでいった。

    【写真】 

     三日後、佐藤の妻、敬子が、麻子を自宅のお茶に誘った。佐藤も同席してお茶を飲みながら、何気ない風を装い、
    「小野さんは若い頃、誰かに似ているってい言われなかった?」と聞く。
    「子供の時、大鵬に似ているって言われたけど、太っていた訳ではないのよ。」
    とスマホを取り出し、二、三歳の頃の写真を見せた。
    「あら、可愛いわね。大鵬かしら。」
    と敬子が見て、佐藤に回す。
    「うん、どうだろう?大鵬のお父さんはウクライナの人だったな、確か。色白で整った顔をしていたね。そういうところは似ているかな。小野さんは可愛いと言うより、男前な顔だよね。」
    と佐藤が言う。
    「そうねえ、わたし、男顔かもね。」
    麻子はスマホを手に取り、次に小学生の頃や若い頃の写真を何枚か見せた。
    「あら、これも可愛いわね。小野さん、変わらないわね。」
    敬子が言うと、
    「変わったわよ。」
    と麻子が笑う。
     それから敬子も古いアルバムを取り出してきて、皆でわいわいと昔の写真を見て、昭和の話に花が咲く。佐藤は、麻子がスマホをテーブルの上に置いたままトイレに立った時、素早く麻子のスマホの写真を自分のスマホで写す。敬子が、そんなことをしてというふうに横から恐い顔で見るが、(黙っていろ。)と目で合図して、麻子のスマホを元に戻す。
     その夜、佐藤から送られた麻子の若い頃の写真を見て、良恵は、母を送ってくれたあの時の女性が、麻子だったことを確信した。母は麻子に送られて帰ってきたのだ。
     
     翌日、佐藤は里中のところへやって来ると、スマホを取り出し、
    「ほら、この通り。」
    と麻子の子どもの時の写真を見せる。
    「何だよ、これは?おまえの孫にしちゃ古い写真だな。」
    「分らないかなあ。小野さんだよ。」
    「え、」
    里中はまじまじと写真を見る。
    「次、見たくない?」
    と佐藤が焦らすと、
    「まさか、他の写真も送ってもらったのか?」
    「いや、大きな声じゃ言えないが、無断で拝借した。」
    と20代の頃の写真を出す。
     里中はじっと見た。確かにあの頃の麻子だった。里中がいつまでも目を離さないので、佐藤は、
    「やっぱり、小野さんは昔、きれいだったなあ。今でもきれいだが。それを、おまえは、みすみす逃したんだ。」
    里中が口を開かないので、佐藤はスマホを引っ込めた。

    「変だな……」
    里中がポツリと言うのを聞いて、
    「何が?」
    「いや、確かに昔の彼女なんだが、印象が違うと言うか。」
    「お前の記憶が間違っているんじゃないか?」
    「うん、実物と写真じゃ違うのは確かなんだが、それにしても、昔は美人じゃなかった。」
    「何言ってんだよ、お前の目がおかしかったんじゃないか。」
    里中は、自分が年を取ったせいだろうかと思う。最近は若い人を見ると男でも女でも美しく見える。写真の麻子も美しい。
    黙ってしまった里中に、佐藤は再び、スマホを取り出し、麻子の高校生の頃や結婚後の写真も見せた。里中は、
    「これは順番がめちゃくちゃじゃないか?」
    と妙なところを突いてくる。
    「いや、年の順になっているよ。」
    「そのセーラー服を着たのは、高校時代だろう。その次の20代の頃より、幼子と写っている方が若く見える。そっちは結婚後だろうから30代のはずなのに若返っていないか?」
    「それは、髪型が違うからだろう。女性は化粧や髪型、着るもので変わるから。」
    「彼女は化粧はほとんどしていないから、そう化けるとは思わないが、髪が短い方が可愛くなっているなあ。」
    里中は、学生時代のストレートの長い黒髪の麻子を、真面目で地味な女の子だと思っていたが、里中の大学の親友が、若い頃、こう言っていたのを思い出した。
    「学生時代も社会人になってからも、まわりに同年代で化粧も上手で、髪型も服も流行のもので身を飾っていた女の子がたくさんいたが、その子達が洗練された良い女性だと思ったことはないな。それに比べると、麻子さんは、地味にしていても、飾らない美しさがあった。何より、あの目と清らかな印象はちょっとその辺には居なかった。」

     里中は独り言のように、
    「初めて彼女に会ったとき、こんな人がいるんだなあと思ったよ。」
    「こんな人ってどんな人だ?」
    と佐藤が聞く。
    「うん、今まで会ったことのない人だ。今、気づいた。こんなに真っ直ぐで清らかな人がいるんだなと。」
    佐藤が呆れて、
    「今、気づいたって、どこまでぼんやりしてたんだ。」

    それから里中は、また黙って写真を眺めている。佐藤が、
    「女性は結婚して子供を一人産んだ後が、一番きれいだというが、彼女も確かに若々しくなっているなあ。結婚相手に依るんだろうな。彼女が幸せだった証拠じゃないか?」
    「うん」と里中も頷く。
    「つまり、彼女のご主人が彼女を花開かせたんだ。幼虫が蝶になったというのかもしれないなあ。」

     里中は、佐藤の言葉に、若い頃、麻子を輝かせることができなかったと気づいた。麻子の容姿にも内面の美しさにも、目を瞑り、もっと明るく振る舞ってくれたらと期待していた。彼女にそんなものを期待した自分が浅はかだった。麻子の夫は、きっと麻子の本質を見抜いて、寛い心で麻子を包んでいたに違いない。それに比べると、里中は未熟だった。

     佐藤がスマホをしまい込むのを見て、
    「その写真は早く消せよ。」と里中が言うと、
    「消して良いのか?昨夜、姉さんにも送ったから、もう用済みだ。本当に消すぞ、いいな。」
    「くどい!」
    佐藤は、里中の目の前で、写真を削除した。

     【君は君らしく生きてきた】
     
     しばらく、お節介の姉が何も言ってこないので、里中は却って気になってきた。佐藤から送られた写真を見て、姉は人違いだとわかったのだろうか。それとも、麻子だったのか。何でも先を読み、テキパキと物事を処理して、家族を管理したがる姉が、違っていたら違っていたと言ってくるはずだし、もし、母が世話になったのが麻子だったなら、それこそ、大騒ぎして、里中に報告してくるだろうに。黙っているのが解せないが、姉に聞くのもなんだか気が進まない。
     直接、麻子に聞くしかないと思い、電話してみた。
    「君は昔、ここへ来たことがあった?」
    と姉の話を単刀直入に切り出した。麻子はしばらく沈黙した後、
    「そんなこともありました。」と答えたので、
    「なぜここへ?」
    麻子はさらに考えているようだったが、
    「あなたの将来に、わたしは組み込まれて居ないと知ったから、自分なりに区切りをつけたかった。あの時は、もう二度と里中さんに会うこともなく、これから先の人生は全く別だと思っていたけれど、40年もたってから、自分の息子の勤務地がM市になって、自分もここに住むなんて想像もできなかった。」
     そこまで聞いて、里中は何か言うべきだと思ったが、青春の日に、自分が心ない言葉しか言えなかったことを、素直に謝ることはできなかった。自分に嘘をついて、胸の底に押し込めた思いは、永遠に伝えることはできない。
     黙っている里中に麻子が、
    「昔、君のふるさとを一人旅とかなんとか言う歌があって、Mを見たくなって来たんです。あの時、門まで送った人が里中さんのお母様ではないかと、わたしも思っていましたよ。表札に里中とあったから、もしかしたらと。やっぱりそうだったんですね。」
     里中は、母が世話になったのが麻子だったと知って、何か大きな力が母と麻子を出会わせたのだろうかと思った。

     翌日、麻子のアパートを訪ねて、
    「ちょっと歩かないか?」
    と里中が誘うと、麻子はすぐ支度をして出てきた。
    歩きながら、
    「君はずっと本を読んで、君らしく生きてきたんだね。」
    「ええ、私、本を読めない生活は耐えられなかっただろうから、結婚しても、本を読む時間が充分ある環境に身を置けたのは幸せだった。」
     それは、麻子の夫が麻子を理解し大切にしていたからだろう。麻子の夫は地位も名声も求めず、自分の仕事に誇りと喜びを持って、清廉に生きた。その夫を麻子は支え続けて、里中などよりずっと自由に、学び、成長して、何の拘りもない。
     昔、里中は麻子の純粋さを理解もせず、受け止める度量もなかった。あれこれ考えて、麻子を将来の結婚相手として考えまいとした。心の奥底で、実は、麻子の人間としての深さを愛しながら、自分が気軽につきあったり、友人以上の関係に進むことにためらいがあった。それは、自分に自信がなかったからだ。もし、あの時、既に里中が地位や財産を持っていたら、麻子を結婚相手として考えたかも知れない。
     さらに、それとは別の考えも里中は抱いていた。麻子は、出世やお金や地位を、また、肉体的な欲望や快楽を軽蔑するだろう。人生や毎日の暮らしに求めるものが、里中とは違うのだと、ぼんやりとではあるが感じていた。麻子の求める清廉で高潔な人間になれはしないと、里中は知っていた。
     たぶん、麻子もそれを知っていたのだろう。だから、里中の前から去った。
     里中は、自分と似た平凡な女性を結婚相手として選んだ。相手も、里中に、人並みな暮らしのできる経済的安定と、ある程度の出世を望んで、里中の生活を支えた。しかし、里中の不遇な時期、妻は、里中の人の良さと無能を責めた。里中の不遇は、能力の無さではなく、不運だったのだと慰めてくれることはなかった。里中が、冷徹になれず、甘んじて不遇をかこったことに歯がゆい思いをして、我慢がならなかったらしい。互いに相手に失望して離婚に至った。
     
     麻子が里中の前から去った後、麻子は里中が受けとらなかった思いを胸に、この町に一人でやって来て、偶然母に会い、名前も名告らず去った。
    麻子が、里中と出会って間もない頃、
    「あなたはあなたらしく、僕は僕らしく。」と言われた言葉を支えにして、麻子が誠実な人生を歩いてきたことを、里中は知らなかった。
    二人は長い別々の人生を、互いに何も知らず、ただ、目の前にやって来る問題と向き合って、精一杯生きてきた。不思議な縁が、再び里中と麻子をを出会わせたのなら……。
     昔、天から、かけがえのない出会いと恋を贈られながら、里中はその贈り物のリボンもほどかずに、横に除けた。麻子が悲しい顔をしたのは、里中のために努力したいと思っていた、その努力をさせてくれなかったからだ。
    麻子は歩きながら、しみじみと言った。
    「今、ここに住んでみて、とても落ち着く良い所だと思う。ここで里中さんや佐藤さんとずっと、散歩友達で、読書友達でいられれば嬉しいですよ。」
     長い年月を経て、再び二人が出会えたことは、二人の人生において、ささやかなギフトかもしれない。そのギフトを、どう扱うかで、二人の人間性が試されているといえないか。リボンもほどかずに押し返すような愚かなことをしてはならないと、里中は麻子の横顔を見ながら思った。(終わり)
     
     

     
     
    結婚以来、ずっと専業主婦だったので、特別な技術も、体験もありませんが、今までの人生で学んだこと(健康、子育て、生き方)や、日々の暮らしを、綴っています。 時々、小説らしきものを書いています。

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