
さざめく春、あなたと 第15話名もなき春が通り過ぎる(最終章)
春の匂いが街を包み始めても、智香の心には冬が居座ったままだった。
あれから、何度スマートフォンを見ただろう。
着信も、メッセージも、ない。
画面の奥で眠り続ける「一博」の名前を、指先でなぞるだけの時間が、ただただ過ぎていく。
——結局、彼は選ばなかった。
私じゃなかったんだ。
怒りは、不思議と湧かなかった。
涙も、もう出なかった。
感情の引き出しが、全部空っぽになったような感覚。
何が嘘で、何が本当だったのか、もう自分でもわからない。
けれど、彼と過ごした時間に嘘はなかったと思いたい自分が、まだどこかにいる。
だからこそ、傷は深かった。
「どうして、最後までちゃんと向き合ってくれなかったの?」
小さく呟いた声は、自分の耳にすら届かないほど頼りなかった。
返事は、もちろんない。
彼からの最後の言葉は、「夜、電話する」
それきりだった。
暖かな風が通り過ぎるたびに、置いてけぼりになった心が少しずつ削れていく。
この恋は、始まったときよりもずっと静かに、終わった。
泣き叫ぶことも、責めることもなく。
ただ、彼が連絡をよこさなかったという、たったそれだけのことで。
だけど、たったそれだけのことが、どんな言葉よりも心を切り裂いた。
智香は深く息を吸い、そして吐いた。
何もなかったように春が来て、また夏が来るのだろう。
そして彼のいない日々に、少しずつ、自分の心を慣れさせていくしかない。
それが、「もう終わった恋」というものなのだと、自分に言い聞かせながら
桜が散るたび、あの頃の記憶が胸をくすぐる。
駅前の並木道。
春色のシャツを風に揺らしながら、あの人と歩いた日々。
ふと目に入ったカフェの窓に、似た横顔を見つけるたび、心が一瞬だけ跳ねて、次の瞬間には静かに沈んでいく。
——もう、何年経ったのだろう。
時間だけは律儀に流れていった。
仕事に没頭できるようになった。友達とも笑い合える。
けれど、誰かを好きになる気持ちだけが、あの日からぽっかり抜け落ちたままだった。
誘いはあった。
食事や映画、街を歩くような関係もいくつかあった。
でも、誰の隣にいても、心がついてこなかった。
ふとした瞬間に、一博の声が、仕草が、記憶の中で立ち上がる。
「もう、終わったことだよ」
何度もそう思った。そう言い聞かせてきた。
それでも、過去の自分が置き去りにされたまま、まだそこに立ちすくんでいる。
——私はまだ、あの時のままなのかもしれない。
恋をするという感覚が、まるで遠い昔の幻のようだった。
心が誰かに揺れることが、怖いのか、面倒なのか、それとも――ただ、もう信じられないだけなのか。
優しさに触れるたびに、疑ってしまう。
温かい言葉に、裏があるんじゃないかと身構えてしまう。
「…バカだな、私」
鏡の前で笑ってみる。
でも、その笑顔はどこかぎこちなくて、自分でも苦笑いするしかなかった。
春の匂いがまた、街に戻ってきている。
だけど、智香の中には、まだ終わらない冬が残っていた。
それでも、止まったままの心を、ほんの少しでも前に進められる日が来ることを、どこかで願っている自分がいることも、薄々気づいていた。
その日、智香は桜並木を歩いた。
風に揺れる花びらの下で、目を閉じる。
あの頃の思い出も、後悔も、優しさも、全部が静かに胸に降り積もっている。
そして、ふと顔を上げたとき――眩しいとも違う不思議なぬくもり。「希望」と呼ぶにはあまりにも小さくて、頼りないものだけれど確かにそこにある静かなはじまりの光だった。
季節は巡る。
春は、いつかまた、彼女の心にもきっと訪れる。
― 終 ―