
鳥取城
別名:久松城、久松山城
所在地:鳥取県鳥取市東町,因幡国
形式:梯郭式平山城(山麓部)と山城
遺構:曲輪、石垣、天守台、横堀、井戸、登石垣、巻石垣、虎口など。近年は中ノ御門・擬宝珠橋なども復元
主な城主:山名氏、吉川氏(吉川経家)、宮部氏(宮部継潤・長房)、池田氏。
指定:国指定史跡
──日本城郭史の全貌を宿す多層構造体
──「兵糧攻め」だけでは語れない、日本城郭の縮図
鳥取城(鳥取県鳥取市)と聞いて連想されるのは、天正9年(1581年)に羽柴秀吉によって敢行された戦国史上屈指の兵糧攻め「渇え殺し(かつえごろし)」や、城兵の命と引き換えに自刃した名将・吉川経家の悲劇である。しかし、鳥取城の歴史的価値を「一つの凄惨な戦い」のみに収斂させる評価は、この遺構が持つ多層的な価値を見落とす結果となる。
標高約263mの久松山(きゅうしょうざん)に築かれた鳥取城は、16世紀半ばの山名氏による中世山城の成立に始まり、宮部継潤による織豊系石垣改修、池田長吉・光政・光仲らによる近世城郭化と平山城への発展、そして明治の廃城に至る300年以上の歴史を有している。この間、日本における城郭建築は、軍事的防衛拠点から、石垣構造の導入、政治的威信を示す天守・櫓群の建設、そして藩政統治の政庁(御殿)へとその機能を変化させてきた。鳥取城は、これら各時代の構造が単一の敷地に重層的に残存する稀有な史跡であり、まさに「日本城郭史の博物館」と呼ぶにふさわしい存在である。

本内容では、鳥取城が描く300年余の変遷を包括的に解元し、歴史的意義を再考察する。
羽柴秀吉の「渇え殺し」と太閤ヶ平
鳥取城が秀吉による包囲作戦の舞台となった要因は、鳥取城が当時「日本にかくれなき名山」と評されるほど防衛能を備えた山城であったという点に求められる。
兵糧攻め(渇え殺し)選択の戦術的必然性
天正8年(1580年)の第一次鳥取城の戦いにおいて、城主・山名豊国は秀吉に降伏し開城したものの、織田家への服属を拒む中村春続や森下道誉ら家臣団は豊国を追放し、毛利氏の吉川元春に救援と新たな城将の派遣を要請した。これに応じた石見福光城主の吉川経家は、天正9年(1581年)3月に入城した。

播磨の三木城攻め(「干殺し」)において、城内に蓄積された多大な兵糧により1年10か月もの長期戦を余儀なくされた秀吉は、鳥取城攻略にあたり糧食断ち作戦を実行した。若狭の商人らを用いて事前に因幡国内の米を時価の数倍という高値で買い占め、城内の供給源を絶った。さらに戦端が開かれると周縁の村々を破却して近隣の百姓らを鳥取城内へ追い込み、城内の食糧消費を加速させる囲い込みを行った。包囲網は総延長3里(約12km)に及び、袋川沿いには柵や逆茂木を設置し、千代川河口からの海上補給路も支城(丸山城・雁金山城)の攻略により遮断した。
包囲からわずか数か月で城内は飢餓に陥り、馬や草木、木の皮のみならず、餓死した者の肉を削ぎ合って貪る地獄絵図と化した。経家は自らの首と引き換えに城兵の助命を条件として開城を決断し、10月25日に自刃した。経家が主家や子供たちへ書き送った「末代までの名誉」とする遺書に見る武士の気概は、命日に法要が営まれるなど尊崇を集め続けている。
太閤ヶ平(たいこうがなる):対毛利大決戦を見据えた臨戦陣城の構造的意義
鳥取城本丸からわずか約1.3km東方の帝釈山(標高約251m)に構築された秀吉の本陣跡「太閤ヶ平」は、包囲陣の枠を超え、土で築かれた陣城群として国内最大規模を誇る構造物である。

一辺約50mの方形主郭を高さ数mの土塁と二重の空堀で周郭し、鳥取城側には二重竪堀や横堀、切岸を配した城郭構造を備えている。この破格の陣城が建設された構造的理由として、秀吉が鳥取城内わずか1,400余の籠城兵のみならず、背後に控える毛利元春や小早川隆景らの本隊による救援攻撃、ひいては織田信長自身を迎えての毛利氏との決戦を想定していた点が挙げられる。太閤ヶ平は、織田・毛利両権力の最前線地帯としての緊迫感を伝える土の遺構の傑作である。
「城郭の博物館」
鳥取城が「城郭の博物館」と評価される理由は、特定の時代の完成形で固定化されず、中世山城から江戸藩政の平山城、さらに幕末の防衛強化に至るまでの遺構が層状に保存されている点にある。
山上ノ丸と山下ノ丸の二層構造と変遷
鳥取城の構造は、久松山頂(標高約263m)を中心とする「山上ノ丸」と、その山麓に広がる「山下ノ丸」に大別される。

中世の様相を残す「山上ノ丸」は、久松山頂から派生する尾根筋を自然地形の切岸や堀切で区画した曲輪群からなり、黒田孝高や加藤清正、藤堂高虎ら戦国武将が見た自然地形を活かした山城の景観を今に伝える。開城後に入城した宮部継潤により山上ノ丸本丸や出丸が総石垣化され、西国方面への警戒を鮮明にした。
一方、関ヶ原合戦後に入封した池田長吉、そして池田光政・光仲らによって山麓の「山下ノ丸」に二ノ丸・三ノ丸・天球丸が拡張され、広大な外堀・中堀(袋川・薬研堀)と城下町が造成された。藩政の中枢は山頂から利便性と威信を高めた山麓へと移転し、梯郭式の平山城として完成をみた。

特殊な構造物と技術的進化
鳥取城には、他城に見られない独自の建築技術・構造が多数観察される。
二重天守への改築:山上ノ丸にはかつて天正年間に天神山城から移築されたと伝わる三重天守が存在したが、慶長7年(1602年)に池田長吉により最上階が撤去され二重天守へと改められた。厳しい風雪に晒される山陰地方の山頂環境における建物の維持管理を考慮した実用的改築とされる。元禄5年(1692年)の落雷焼失後は再建されず、天守台石垣のみが残る。
二ノ丸三階櫓(天守代用): 山上の天守焼失後、城のシンボルとなったのが山麓二ノ丸の高石垣上に構えられた三階櫓である。初重8間四方から三重4間四方へ規則的に減じる層塔型櫓で、黒線入りの下見板張りと連続出格子窓が美しく調和していた。享保5年(1720年)の石黒大火で焼失後も、幕府の特例許可を得てほぼ同形式で再建された。
天球丸の巻石垣(球状石垣): 文化4年(1807年)頃、地盤沈下や背後石垣の孕み(膨らみ)を防止する補強工法として築かれた球面状の補強石垣である。河川工法の応用と考えられ、城郭遺構としては全国で唯一現存・復元されている。
登石垣(堅石垣): 宮部期に三ノ丸背後に築かれた初期の登石垣に加え、嘉永2年(1849年)の二ノ丸拡張に伴い北端に築かれた幕末の登石垣は、幕末期の現存遺構として国内唯一のものである。

戦国期(16世紀半ば〜)-山名豊国-久松山頂の地形を利用した中世山城。切岸と曲輪群を中心とする自然防衛体制。-山上ノ丸の切岸、尾根筋の堀切
織豊期(1581年〜)-宮部継潤、宮部長煕-山上ノ丸の総石垣化、野面積み石垣の導入、山麓への初期登石垣・楯蔵下の構築。-山上ノ丸本丸大手石垣、楯蔵下石垣、初期登石垣
慶長期(1600年〜)-池田長吉-山上天守の二重化改築、山麓部(山下ノ丸)の整備と打込接石垣の導入。-天守台(拡張跡)、車井戸、三階櫓台石垣
元和・寛永期(1617年〜)-池田光政、池田光仲-鳥取藩32万石に相応しい近世平山城化。二ノ丸・三ノ丸・天球丸の拡張、二ノ丸三階櫓新築。-二ノ丸・天球丸高石垣、内堀、中ノ御門跡、擬宝珠橋
江戸中・後期(18〜19世紀)-鳥取池田家(中興)-藩政中心の三ノ丸移転、三階櫓再建、天球丸「巻石垣」による地盤補強。-天球丸巻石垣、三ノ丸切石積石垣
幕末期(1849年〜1863年)-池田慶徳-二ノ丸拡張に伴う登石垣設置、宝隆院庭園の造営。-幕末の登石垣、宝隆院庭園(宝扇庵)

石垣改修の真相と「姫路城の弟城」の建築美学
一般的に「秀吉が落とした城」という戦国エピソードが強調されるため、鳥取城に見られる石垣群や虎口構造も秀吉の手で完成されたと誤解されがちである。しかし実際には、秀吉の側近であった宮部継潤・長煕父子、関ヶ原合戦後に入封した池田長吉、そして池田光政・光仲ら池田一族の3世代にわたる段階的な普請によって完成された。

「姫路城の弟城」と称される建築的・血縁的背景
鳥取城は鳥取市の資料や史跡解説において「姫路城の弟城」と称される。この呼称の背景には、血縁的文脈と技術的文脈の2つの連関(れんかん:二つ以上の物事や事象が互いにかかわり合ってつながっていること、およびその関係性)とが存在する。
第一に血縁・配置的文脈である。関ヶ原合戦後に鳥取6万石に入った池田長吉は、姫路城を改修した池田輝政の弟である。当時、鳥取城と姫路城は連携して西国の毛利氏ら豊臣系大名に対する抑えの機能を担っていた。
第二に技術的・職人的文脈である。大坂の陣を経て元和3年(1617年)、輝政の孫である池田光政が姫路から鳥取22万5千石(のち32万石)へ移封された際、二ノ丸や天球丸の大改修が行われた。この普請には、現存する姫路城大天守の築城を終えてわずか10数年しか経過していない播磨の技術者や石工・大工集団がそのまま動員された。そのため、高石垣の積石技術(打込接乱積)や城門・多門櫓の構造、美意識において、姫路城と同じくする建築技術が多用されたのである。

徳川幕府の西国支配拠点と「葵紋瓦」の政治的意味
寛永9年(1632年)、備前岡山藩との公領交換(国替え)により、池田光仲が因幡・伯耆32万石の領主として鳥取城に入城した。光仲は、父・池田忠雄(家康の外孫)と母・三保姫(松平信康の曾孫)の間に生まれ、徳川家康の血を濃厚に引く曾孫であった。
外様大名でありながら「徳川一門準拠」の破格の待遇
鳥取藩池田家は分類上「外様大名」でありながら、将軍家との緊密な血縁関係から徳川一門(親藩・準家門)の格別な重用を受けた。
その象徴的証拠が「葵紋瓦(あおいもんがわら)」の使用許可である。本来、徳川家の象徴である三葉葵の紋章を建造物に使用することは制限されていたが、鳥取池田家は外様大名の中で唯一、鳥取城大手門(中ノ御門)などの屋根瓦に葵紋を葺くことが許された。

山陰道と山陽道を結ぶ要衝・鳥取に、家康の血を引く信頼の厚い大名を配したことは、徳川幕府にとって西国大名に対する監視格子となるとともに、日本海の拠点として鳥取城を機能させる意図に基づいていた。
宮部継潤・長煕-1581年〜1600年-豊臣秀吉の側近・奉行-織豊政権の山陰統治拠点。中世山城の近世石垣化を始動。
池田長吉・長幸-1600年〜1617年-徳川家康に与した東軍(姫路池田家弟家)-関ヶ原後の豊臣系西国大名(毛利等)に対する前線牽制拠点。
池田光政-1617年〜1632年-徳川家康の外孫(姫路池田家本家)-大坂の陣後の西国支配強化。32万石に見合う大大名の居城へ大改修。
池田光仲〜12代-1632年〜1871年-徳川家康の曾孫(松平姓許容・葵紋使用許諾)-徳川一門に準ずる高い格付け。山陰防衛および西国統治の要衝。

結論:近代の破却を越えて刻まれる歴史的記憶
明治維新において、鳥取藩は12代藩主・池田慶徳(水戸徳川斉昭の子、最後の将軍・慶喜の実兄)の下、高性能な反射炉を建造し、軍事力を背景に新政府軍の官軍として戊辰戦争で活躍した。しかし、維新後の明治9年(1876年)、鳥取県が島根県に一時併合されるという「鳥取県消滅」の憂き目に遭う。

この際、「1県に2つの城(松江城と鳥取城)は不要」という行政方針により、明治12年(1879年)までに鳥取城内のほぼ全建造物が解体・払下げに追い込まれた。その後、市民による鳥取県再置運動と実効化を経て、14代当主・池田仲博による久松公園としての開放、昭和18年(1943年)の鳥取大地震による石垣大崩落や昭和27年(1952年)の鳥取大火という二重の災害を乗り越え、史跡の保護と石垣修復が連綿と進められてきた。

近年では「史跡鳥取城跡保存整備基本計画」に基づき、平成30年(2018年)には木造最長級の擬宝珠橋(ぎぼしばし)が復元され、令和7年(2025年)には高麗門と櫓門からなる中ノ御門(大手門)が完全復元を遂げた。埋もれた江戸時代の橋脚遺構を保護するためにステンレス製の水中梁を用いた現代技術と、伝統工法による意匠の再現は、鳥取城が歴史的記憶の継承の場として現在も進化し続けている証左である。

鳥取城は、凄惨な合戦の記憶を宿しながらも、山城から近世城郭への建築的進化、そして徳川統治の軍事的要衝としての歩みをその身に刻み込んできた。一つの戦いにとどまらない「日本城郭史の全貌」を解き明かすことこそが、鳥取城という史跡の深遠な魅力を現代に伝える確かな視座となる。
この内容はGeminiを基に、投稿者との対話を繰り返して作成した
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