
夢の引越し便
あらすじ
大学四年の「僕」は多摩川の土手で、夢を運ぶ業者「夢の引越し便」に夢を預けたという不思議な女性マユミに出会う。彼女に協力しながらいつの間にか心惹かれていく。時を同じくして高校時代の恋人ヒトミから四年ぶりに手紙が届き、忘れてしまった大切な記憶を対話で埋めたいと告げられる。マユミの行方を追ううちに「僕」は記憶を食いつぶす怪物の悪夢に苛まれ始め、ヒトミとの再会の約束も心を揺らす。やがて存在しないと思っていた引越し業者を見つけ、支店長から「夢」をめぐる驚くべき真実を知らされる。
0.プロローグ
一つとても気になる問題がある。それは、「忘却」である。一般的に世間で流行る記憶喪失ドラマのように、何もかもを忘れてしまい特異な人物として扱われるならいざしも、私はなんとか正常な人間として機能しているため、社会から何かしらの結果を期待される日々を送っている。だが、全ての記憶を失った人間より実は私の方がよほど始末が悪い。なぜなら、私の忘却は多くの裏切りや責任逃れ、別れや破滅を呼び起こしてしまっているのだから…。
この物語は、私の人生における一つあるいは複数の記憶を美化したものだ。ある一定の時間が経過することによって私の内部からゆっくりと剥がれ落ちていく記憶。これを書き留めておかなくては、もしくは語らなくては存在していたことすら忘れてしまう。それを「夢」や「憧れ」、「回顧」や「空想」、はたまた「虚構」や「自己陶酔」などと呼んでしまうのであれば、それらはあまりに空しいものになってしまうではないか。
だからこそ、私の記憶を現実の世界に留めておくことを最大の目的としながらも、私は書き留めるだけではなく語りたいと思ってしまった。その本当の理由を自分自身ではうまく説明することができないでいる。
孤独から逃れたいのだろうか?誰かに認めてもらいたいのだろうか?
わからない。これはやってみるしか見えてこないのだろう。
記憶が剥がれ落ちる限界のところで、私なりの時間と労力の使い方でやってみるしかないのだ。
物語などではないかもしれない。
作文かもしれない。
日記かもしれない。
言葉遊びかもしれない。
ただ、それでいいと今は感じているのだ。
記憶が残ってくれるのであれば。
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真っ青な空の中に
形を変えずにたたずむ
白い小さな雲
肌を刺す冷たい空気を
ゆっくりと押しのけてくれる
秋の太陽
流れる車 釣り人の会話
橋を渡る電車
世界がクズであるように
僕もまた無能の人間である
僕は僕を偽り
僕は僕を失い
そして涙を流す
雲は消えていた
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【これは私が大学四年の時に、授業を休み、多摩川の土手に腰掛けて書いた文だ。
ゆっくりと秋の匂いがしてきていて、草むらから虫の声が聞こえていた。上京して3年半が経ち、東京の喧騒には慣れてはいたが河川敷に行くと心が落ち着いた。大学から5分程度で着く距離にあったこともあり、気晴らしとして頻繁に訪れていた。
私は翌年春の就職先が決まっていたが大学を卒業するための単位のほうが足りていなかった。周囲の友人は就職が決まっておらず、あえて留年をすることにしていて、もう一年、学生生活を楽しめると自慢げに語っていた。
私は30社以上の採用試験を受けたが、心から行きたいと考える企業からの内定は得ることができなかった。このまま就職して良いものか、学生生活を終えてしまって良いものかと、少しナーバスになっている時期だった。
私は他に何を考えていたのだろう。何も考えていないようで、実はたくさん考えていたような気もする。そのときの時間は今まで過ごしてきた時間の中で一番ゆっくりと流れ、まるで私が問題の解決法を発見するまで止まっていてくれたように思える。だが、今となっては当時導き出した問題解決法は消えてしまったりアップデートされたり、まったく活用する場面がなくなってしまったりして、ほんのひと握りも残っていないのだ。消えてしまった数多くの記憶とともに。】
1. 多摩川の土手
雲が消えている。
ずっと雲を眺めていたつもりだったのに、いつ空に溶け込んでいったのか分からない。
僕は何か別のことを考えていたのだろうか。僕は大きく息を吸い込み、大学へ行こうと腰を上げようとした。
「ねえ、少しいいかしら?」
それは今までに聞いたこともない声色で、僕の耳ではなく脳を刺激する女性の声だった。
河川敷で聞こえてくる車の音にも、虫の音にも、風の音にも全く影響を受けない声。
それは洋画の日本語吹き替え版における俳優の口の動きと聞こえてくる日本語音声との違和感のような感覚に似ていた。
空気を震わせていないその声を、僕は最初は空耳であると認識した。
僕はゆっくりと立ち上がり、ジーンズについた細かい砂を強めに叩き落とし、改めて周囲の環境音との混ざり合いを把握した。
「ねぇ、聞こえているんでしょ?」
今度は確かに聞こえた。
僕の背後にやっと人の気配というものを感じ取ることができた。
そう、きっと僕に話し掛けているんだ。
僕は振り向きながら他人と接するときの表情を作った。
改めて僕自身が現実逃避していたことに気付きながら。
その女性はにっこりとして僕が振り向くのを待っていてくれた。
僕が振り向かなくてもずっとその場で微笑んでいそうな、とても自己完結的な笑顔だった。
実際に僕が彼女を見つめても、目が合うことが無かった。目が見えないのではないかと惑うくらいにその目は僕を貫き、遠くを見つめている。
恐らく、目の焦点が合わないのだろう。僕は女性の目をじっと見つめ、
「なんでしょう?」とぶっきらぼうに言った。
その女性は少し笑顔を緩め、顔を斜めに傾け僕に軽い会釈をした。
彼女の黒く長い髪がさらっと背中から胸元に移動した。
「ごめんなさい、突然声をかけてしまって。実はちょっと探している場所があって。どうしても見つからないんです。もし知っていたら教えてほしいの。」
「僕もそれほどこの辺りの地理には詳しくないんですけど。どちらへ行かれたいのですか?」
「私の名前はマユミといいます。今日この場所へ引越しをしてきました。以前住んでいたのはここからかなり遠い田舎町です。ここへ来たのは凄く大きな夢があったからなの。でも、その夢が見当たらなくなってしまったのよ!」
「どういうことです?」
まるで名探偵ホームズだ。
「実は引っ越す前に『夢の引越し便』という業者が来てね、私にこう言うの。『お客様、あなたがお持ちの夢は、ご自分で持って行かれるにはいささか重過ぎますよ。遠距離なのですから、途中で忘れたり、盗まれてしまっては困りますでしょう?私どもにその夢を運ばせて下さい。安心してお引越しできますよ。私共にお任せいただければ、お客様が到着なさるころにはこの夢があなたを迎えてくれますよ。素敵でしょう?』って。
私、その業者に依頼したの。だって夢がとても大きかったから。預けたままだから、どんな夢だったのかは分からないのだけれど、その時は預けなくてはならないと感じたの。それくらい大きな夢だったのは記憶に残っているわ。それで実際にこっちに来てみたら着いてないのよ。どうしてもその業者を見つけて返してもらわなくちゃ!私がここに来た意味が無くなってしまう。」
僕は途中から口を開けて呆れた顔をして聞いていた。
「夢の引越し便」なんてあり得るわけが無い。このマユミという女性は少し頭のネジが弛んでしまっているんだろう。よくよく彼女の容姿を眺めると、背は高いのだが顔色が悪く、腕は病的に細かった。着ている服は皺が目立ち、何日も同じものを着ているような感じを受けた。
ただ髪の毛だけは綺麗な艶でまっすぐなのがとても印象的だった。
「申し訳無いのですが、僕は『夢の引越し便』という業者の名前は今初めて聞きました。
だから場所も分からない。ごめんなさいね。」
僕は辺り障りの無いように軽く頭を下げ、その場を立ち去ろうとした。
マユミは困った顔を浮かべたが、目の焦点が合っていないためか、僕には諦めたかのように感じられた。僕は土手の上に止めてあるスクーターの所まで行き、ヘルメットを被りエンジンをかけた。
「ねぇ、とても困っているの。お願い、助けて。」
彼女の細い声が聞こえた。とても心に響く声だった。
振り返ると彼女はまだ10メートル程離れたところから僕の方へ歩いてきている途中だった。
なぜ声が聞こえたのだろう。僕はエンジンを切り、ヘルメットを脱いだ。マユミはようやく土手を登りきり、僕の近くまで来てこう言った。
「ねぇ、とても困っているの。お願い、助けて。」
僕は少し混乱しているのだろう。今日は何か特別な日なのだ。諦めよう。
そう思ったら少しは気持ちが落ち着いた。
「分かりました。では、その『夢の引越し便』の電話番号は知りませんか?送るときに預かり伝票とかはもらわなかった?」
少しくらいは彼女に付き合ってあげよう。それが彼女の為になるかどうかは考えないことにして。
「そうなの。今思えば当たり前のことなのに、もらってないのよ。料金も後払いだからって、行き先だけ教えてそれっきり。」
「そうですか、それではあそこに電話ボックスがあるでしょ?あそこに電話帳があるから調べてみるといい。その業者の名前で検索すれば電話番号と住所が分かるから。」
「そうね、その手があったわね。じゃあ一緒に行きましょう。」
「どうしてです?一人で行けませんか?」
「もし住所が分かっても、一人では怖くて取り返しには行けないわ。きっと向こうは責任逃れをすると思うし、うまく言い包められたら私どうしようもなくなってしまう。」
「うーん。」
僕はしばらく考えたが、すぐそこの電話ボックスまで一緒に行って調べてあげることにした。
結局のところ『夢の引越し便』なんて存在しないのだから。そこで一緒に調べさえすればそれで帰れるだろう。
「じゃあ行きましょう、一緒に取り返しに行ってあげますよ!」
「ありがとう、きっとそう言ってくれると思ってたわ。」
僕はスクーターから降り、マユミの前に立ち、足早に30メートル程先の電話ボックスに向かった。土手の上の細い歩行者用道路の道沿いにその電話ボックスはあり、鳩が数十羽その電話ボックスを取り囲むようにちょこちょこと歩き回っていた。
僕が電話ボックスの扉を開けると、鳩はそれを避けるように後ろから来るマユミの方へ移動していった。その光景はまるでマユミが鳩の使い手のようでおかしかった。
マユミは鳩の群れの突進を慌てながら抜け、電話ボックスに辿り着いた。
僕は公衆電話の下の棚に載せられた今まで一度も開かれていないのではと思わせる程綺麗な電話帳を手に取り、「や行」の欄をパラパラと捲り、「ゆめ」で始まるページを見つけ出した。順に指を当て追っていくと、
□飲食店
夢 クリーニング店
夢 理髪店
YUME 仕出し弁当
夢太鼓 和菓子店
夢の森 スナック
夢晴荘 学生寮
湯元〇〇 個人宅
というものだった。
もちろん、彼女が期待するものは掲載されてはいなかった。
「この電話帳には、この地域に在籍していて、電話番号を持っていて、なおかつ電話帳に載せることを希望した個人と業者の電話番号が全部載っています。」
僕は、104の番号案内オペレーターの真似をし、丁寧に、そして自分にも言い聞かせるように言った。
「もちろん知っているわ。」
「載っていないとなると、掲載を希望していないか、電話番号を持っていないか。この地城ではないか、存在していないかのどれかだね?」
「もちろん分かっているわ。」
ふーっと、大きく僕はため息をついた。
「残念。僕がお手伝いできるのはここまでです。」
彼女の目はまた遠くを見ている。それとも僕を見ているのだろうか?
「ねえ、見つける方法はもう無いのかしら。諦めることは私、夢を捨てるってことなのよ!」
マユミは感情的になった。
瞼にたっぷりと涙が溢れ、彼女は泣くまいと空を見上げた。
空を見る彼女の姿は僕の心を揺さぶった。
何もかもを投げ出し、たった1つの何かを懇願する純粋な少女に見えた。
目の焦点などといったことは全く意味をなさず、しっかりと現実感を伴い、そこに存在していた。僕の心を釘付けにして。
彼女の強い意志は僕の心に入り込み、何かに衝突した。
そしてゆっくりとその塊を掻き混ぜて行く。
最初はひどく気持ちが悪かったのだが、次第に温かく、心地よさを感じた。
内面から広がる力を感じ、僕は耐え切れず頭に手を充て、しっかりと目を閉じた。
目を閉じても彼女の姿ははっきりと見て取れ、まだ空を見つめている。
大きく息をする彼女の呼吸とともに僕の心はさらに広がっていく。空に溶け込んでしまうほどに。
しばらくの間ずっと僕は彼女を見つめ、彼女は大きく目を開け空を眺めた。やがて彼女の瞳から涙がこぼれ落ちたとき、僕の心は急激な強さで締め付けられていった。
彼女は空を見上げるのを止め、僕を見つめている。
ふっと彼女の姿が消え、僕は我に返り目を開けた。
なぜか体が熱くなっている。マユミは涙を流して僕の方を見つめていた。
「僕にいったい何ができるだろう?」僕はボソッと呟いた。
「ごめんね、いやな気持ちにさせてしまって。もういいわ。私。別の場所を探してみる。迷惑をかけてしまったわね。どうもありがとう。」
マユミは目をゆっくりと閉じ、そして、鞄から手帳を取り出すと電話番号を書き、僕に渡した。
「もし、何か思い付いたら、ここに電話をちょうだい。だいたいは家にいるけど、今日みたいに探しに出かけることもあるから、そのときは留守電に。」
「ええ。」
僕はもらった紙を二つに折り ズボンのポケットに入れた。
「じゃあね、今日は本当にどうもありがとう。」
マユミはそのまま土手の細い道を川下の方へ向かって歩いていった。
僕は彼女が去っていくのを見守った。小さくなっていくマユミを見つめながら、空を見上げる彼女の顔を思い浮かべていた。気付くとマユミの姿は見えなくなっていた。
僕は大学へ行った。授業に出たいとは思わなかったのだが、知っている教授や、知人に会うことで何とか現実に戻れるのではないかと思ったからだ。午後からのスペイン語の授業でようやく社会と僕の距離のようなものを掴み取ることができた。教授が笑顔で女生徒にスペインのクリスマスを説明するなか、ほとんどの生徒が居眠りやら落書きやらに勤しんでいた。
僕はひと通りの授業に出席した後、コンビニエンスストアのアルバイトに行き、タ方5時から夜1時まで働き、帰り際にレンタルビデオ店に行き、ゴダールの「勝手にしやがれ」を借りた。
僕なりの現実を確実に取り戻さなくては。そう思った。
2. 警官との対話
アパートに帰る途中で二人の警官に止められた。
「遅くにごめんねぇ。盗難車かどうか確認させてもらいます。」
痩せた方の警官が僕に話し掛けてきた。呆れて笑いが出るほど本当に今日は特別な日だなと思った
「どこまで帰るの?」
やけに太った警官が聞いてきた。
「もうすぐそこです。」
「何やってたんだ、こんな遅くまで。まさか酒なんか飲んでないよな?」
太った警官はいやらしい声質で僕の方へ近寄ってきた。
話し方に嫌味なニュアンスが含まれている。よくある刑事ドラマの取り調べみたいだ。
「飲酒運転の取り調べですか?盗難車の取り調べ?それとも夜勤中の話し相手探しですか?」
僕はわざと棘のある話し方で言った。
「ああ、すまんすまん、登録証見せてくれ。」
割り込むように痩せた方の警官が言った。
僕は太った警官を睨みながらスクーターのシートの中にある登録証を取り出し、痩せた方の警官に渡した。
「あと免許証も見せてくれ」
僕は鞄の中にしまった財布の中から運転免許証を抜き取り、それも渡した。
「ん?登録証の名義とあんたの名前が違ってるなぁ。このバイクどうしたの?」
太った警官の目つきがさらに険しくなった。
「このバイクはもともと大学の先輩のものなんです。それを譲り受けて今は僕が乗っているんです。盗難車じゃありませんよ。第一、バイクの盗難なんてそんな簡単にできるんですか?ほらちゃんと鍵だって持ってるし。自転車じゃないんですから。」
太った警官の顔色が変わった。何て分かりやすいんだろう。彼の憤慨までの顔のパターンは3つだ。
「盗まれて困っている人がたくさんいるからこうして取締りしているんだろうが!おまえ、盗んだんだろ!」
「まあまあ。ごめんね。実はさっき自転車泥棒を捕まえたばっかりなんだよ。そのおにいちゃんがまた反省しなくてね。こいつまだ腹立ててるんだよ。」
「無線で確認してくるからちょっと待ってろ!」
太った方の警官が痩せた方の警官から僕の登録証と免許証を取り、細い路地の奥に隠してあるパトカーの方へ歩いていった。痩せた方の警官はポケットからタバコを取り出し、ピンク色の百円ライターで火をつけた。
「年はいくつ?」
「21歳です。」
「タバコは吸わないの?」
「吸いますよ。」
「ちょっと時間かかるから、一服していなよ」
「いえ、今はいいです。」
「ふうう。いやぁ、ごめんね、早く家に帰りたいだろうけど協力してくれよな。」
痩せた方の警官はタバコの煙りを一気に吐き捨てた後、僕に言った。僕はその言葉を無視して大きなため息をついた。僕のため息も夜の寒さで白くなり、夜空を漂った。
混ざり合う白。吐き気がした。
「あの大柄な方とはいつも一緒なんですか?」
「ああ、まぁそうだよ、どうしてだい?」
「いや、釣り合いが取れてるなと思って。」
「あいつは怒りっぽいんだが鼻が利くんだ。今さっきも怪しいと言うから尋問したら案の定自転車泥棒だったよ。頼りになるやつさ。たまに暴れ出しそうになるからその時は俺の役目なんだ。」
「どこかの映画に出てきそうですね。」
「もし俳優デビューするなら刑事ものはパスだな。殺人事件なんて大嫌いだ。」
「盗難事件なら任せてくれ」
僕は彼の少し高めの声を真似して言った。
「こう見えてもな、結構いい成績を挙げているんだぜ、俺達。普通だったら十人声を掛けても一人も捕まえられない時だってあるんだ。だが俺達はいつも確率五割だ。凄いだろう?」
「で、僕はとても怪しかったわけですね?」
「まあ、こんな夜中だしね。でも。もし君も捕まえてしまったら今日の確率は五割を超えてしまうよ。署長賞もんだな。」
そう言うと痩せた方の警官は高い声で笑った。
僕はふとマユミの顔を思い浮かべた。警官に尋ねてみるのもいいかなと思った。
「1つ聞きたいことがあるんですけどいいですか?」
おそらく、僕が真剣な顔をして尋ねたからだろう。
痩せた方の警官は、
「なんだぁ、盗んだのか?」と一層声を高くして言った。
「いえいえ、全く別の話ですよ。」
警官は不満そうにタバコを地面に投げ捨て、足で踏み消した。
「この辺りに『夢の引越し便』という引越屋さんってご存知ありませんか?」
「なんだその『夢の引越し便』って?やけにメルヘンっぽいな」
「今日知らない人に道を聞かれたんですよ。その人曰く、田舎から都会に出ていく人達に対して『夢』を運ぶサービスらしいんですが」
「はっはっはっ!あんた頭おかしいんじゃないか?どう考えたって夢を運ぶなんて無理にきまってんだろ?キャッチコピーだとしても古臭いネーミングだと思うがね。」
「確かに。」
「それより、知ってるかい?最近引越しする人間が多くなってるんだよ。引越しの値段がパック料金になっていて、安くて便利で簡単に引越しちゃうんだよね。それでいて住所変えても免許証とか盗難保険の登録変更がされていなくてこっちは困りものなんだよ。だいたいコトが起きてからそういうのに気付くやつばっかりだからなぁ。」
「登録変更とか簡単にできる仕組みできないんですかね?あっちこっち出向いて変更届出して面倒すぎて…。」
やがて太った方の警官がのそのそとやってきて、僕の登録証と免許証を僕の胸に当てつけた。
「余計な時間を使っちまった!早くこの登録証の名義変更をしておけよ。」
本当に人の感情に傷をつける言い回しだ。僕は頭にきたが、やっと家に帰れると考え、何とか気持ちを落ち着かせた。痩せた方の警官は、
「時間を取らせてしまって済まなかったな。また会っても協力してくれよ、じゃあな。」
と言った。
その時僕達の横を改造したスカイラインが物凄いスピードと轟音で通り過ぎていったが、二人の警官は全く関心を示さず、近くの自動販売機で缶コーヒーを買っていた。
システムから逸脱しない二人の警官。彼らの盗難検挙率は当然の結果だ。
果たしてプロとはそう言った類のものなのだろうか?
僕はさっき我慢していたタバコに火をつけ、心の中で呟いた。
「世界はクズだらけだ」と。
僕は家に着くとコーヒーを沸かし、「ティーンエイジファンクラブ」というバンドのアルバムを聴きながらハムとチーズとレタスを挟んだサンドウィッチと、玉葱と人参と挽肉を入れたオムレツを作った。時間はそれほど掛からず、ちょうど食べ終わる頃にノーマンは「BALLAD」を唄い、アルバムが終わった。
テレビのスイッチを入れると相変わらずため息が出るほど下らない内容の番組ばかりだった。ニュース番組さえも、視聴率競争にまみれ、バラエティ番組のように誇張した事実を大声で撒き散らしていた。腐ったエンタテインメント。僕は借りてきたビデオを観ることにした。コーヒーとビスケットをソファーの横に用意し、明かりを消した。
主人公ミッシェルは言う。
「女は8日後にすることを8秒後だと嫌がる。8秒も8日も変わらんのに、、、8世紀でも同じだ。」
そして彼は8つ数える。3、4、5、6、7、7と2分の1、 7と4分の3」
パトリシアの顔にはこれでもかとミッシェルのタバコの煙りが吹きかかる。
その度に彼女は少しずつ老けていくように感じた。
パトリシアは言う。
「ねぇ、傷心と虛無、どっちを選ぶ?」
やがて僕はマユミを思い出す。黒く長い髪、ほっそりとした腕、焦点の合わない目。僕は彼女に何をしてあげられただろう?知恵を絞ったか?できる限りの優しさを見せただろうか?
僕は部屋の隅に無造作に積まれた本の山から電話帳を見つけた。それはマユミと一緒に行った電話ボックスの電話帳と同じ地域のものだった。「ゆ」の行には、忘れ去られたかのように「夢の引越し便」の名前は無い。僕はもう一冊、職業別電話帳を手に取り、「引越し業務」を索引した。そこには3ページに渡り、引越し・運送業務の会社がひしめくように自分達に与えられた称号をアピールしていた。一番目を引くところにそれはあった。ページの4分の1を使った広告だった。
(~~夢の引越し便 あなたの夢を運びます!!~~タカハシ運送·関東第2支店 お見積もり無料
電話000-0000)
僕は天井を眺めた。「なるほど。」と独り言が出た。
あの警官はなるべくして警官になっているんだと思った。歯が立たない。
僕はすぐにマユミにもらった電話番号をダイヤルした。
だが彼女が出ることは無かった。2度彼女からもらった電話番号に電話を掛けたが、午前3時を廻っていたので眠ってしまっているんだと思い、翌朝また掛けることにした。僕は「勝手にしやがれ」の続きを最後まで観て、目覚し時計を8時にセットし、ベッドに横になった。久しぶりの特別な日だった。このまま眠って、目が覚めると何もかも忘れてしまっているかもしれない。忘れていなかったとしても、電話帳が変わってしまって、『夢の引越し便』なんて存在していないかもしれない。僕は目覚し時計の針を見つめながら、今日起こったこと、やったことを1時間単位で思い返し、記憶に焼き付けようと努力した。
多摩川でマユミに会ったこと、授業に出たこと、働いたこと。警官に会ったこと、『夢の引越し便』を見つけたこと。順を追って整理する度にそれは現実味を帯びてくるのだけれど、僕の1日には思えなくなっていった。まるで「誰かのおかしな一日」のようだ。
僕は天井を眺め、ゆっくりと目を閉じマユミの顔を浮かべた。彼女の空を眺める姿をもう一度想像しようとしたのだが、うまく思い返すことができなかった。
やがて僕は眠りに落ちていた。
そしてひどく気分の悪くなる夢を観た。
3. 記憶を食いつぶす怪物
僕の記憶を食いつぶす怪物の夢だった。
それは形を成さない無色の、しかし圧迫感を感じさせる存在だった。
僕はひたすら暗い道を歩いている。逃げているのではなく、決して立ち止まれない道だった。後ろを振り向くこともできない、不安定な、とても細い、曲がりくねった道だった。
そして僕は背後に怪物をずっと感じている。僕が一歩前に進むたびに怪物は僕の一個の記憶を貪っていく。僕はその記憶が何であったかを僅かの時間だけ味わう。そしてプツンという音を立てて消えていく。
喜び、悲しみ、友情、愛情、さまざまな感情、事実が後頭部の辺りに渦巻き、僕は前進することを躊躇い始める。
記憶が僕に声をかけてきた。
「前に進め、どうせ君には怪物は倒せない。」
「なぜ僕は前に進まなくてはならないんだ?記憶を捨ててまで。」
「君自身が怪物を生み、そして育てたんだ。ある意味ではそれは君自身が選択した生きる道なんだよ。」
少しずつ怪物は大きくなっていく。僕の記憶を食べ、その記憶に含まれる様々な思念、感情が怪物を大きく成長させているのが分かる。
「僕には捨ててはならない記憶が山ほどある。もう一つたりとも捨てられないんだ。これ以上記憶を食べられてしまったら、僕が僕では無くなってしまうだろ?」
「もう一度言うよ。 君が選んだんだ。」
「だったら僕自身でそれを変えられるということだろ?もうたくさんだ。記憶を捨ててまで前に進むなんて。あの怪物を倒してやる。」
「今の君には無理なんだ。君の記憶である僕が理解してるんだから、それは真なんだよ。」
「君は僕の記憶であり、過去だろ?だったら僕の未来に怪物を倒せないなんて分かるはずが無いじゃないか?」
「ほらね。そこが君の問題、すなわち君の選択なんだよ。」
「ん?」
「理解するんだ。怪物を大きくするのも倒すのも僕達『記憶』なんだよ。そして僕達『記憶』はずっとずっと繋がっているんだよ。いずれ理解するときがきっと来るよ。記憶が消えるよりもっとちいさな音で君は知ることになる。その音を覚えておくんだ。今まで以上の記憶力や集中力を使ってさ。そこから新たな記憶が生まれる。怪物を倒す力を持った記憶がね。いいかい君は…。」
僕は揺らぐ足元から逃れるため、また足を前に踏み出してしまった。
また一つ、記憶は怪物によって食べられてしまった。
僕は天を仰ぐのだが暗闇の中で何も見出せない。
大声を出しても、涙を流しても、大笑いしても、僕の本意を無視して僕の両足はひたすら前に進んでいく。
そして、目覚し時計は轟音を立てた。僕は寝た気がしなかった。ひどく汗をかいていて、疲れが溜まっていた。シャワーを浴び、髭を剃っても一日の始まりとは到底感じられなかった。
僕はもう一度電話帳を見た。
昨日折り目を付けたページにはしっかりと「夢の引越し便」の広告が出ていた。
僕はわざと大きなあくびをした。
その後さらに大きなため息が出た。
もう一度マユミ宛の電話を掛ける。 5回ベルが鳴り、また留守番電話に切り替わった。
初期設定のアナウンスの後に空しく信号音が鳴る。今度は留守番電話に昨日のこと、電話番号が分かったこと、僕の名前と電話番号をメッセージとして残した。
そこからは何も変わらない一日だった。マユミから電話が掛かってくるかもしれないと思い、ビデオを返しに行っただけでそれ以外は外に出なかった。下らないワイドショーを見ながら洗濯をしたり部屋の掃除をしたり、食器を洗ったりして午前中を過ごした。午後になっても電話は一回も鳴らなかった。唯一夜になって掛かってきた電話は、友人からのテストのスケジュールの連絡とボウリングの誘いだった。僕は何かしらの理由をつけてそれを断り、夕方から煮込んだトマトソースを使ってパスタを食べた。
夜の11時を過ぎてもマユミからの電話は掛かってこなかった。マユミはどうしたのだろう?今日も外に出て「夢の引越し便」を探しているのだろうか?早く家に帰り、僕のメッセージを聞いてくれるといいのにと思った。
僕は以前から友人に借りっぱなしになっていた、ヴィム・ヴェンダース監督の「まわり道」という映画を観た。旅に出て一人前の小説家になろうとしている主人公が多くの人間に出会い、様々な経験をする。途中で出会うドイツ人は孤独について語った。
「孤独は実在しない」と。
もっともだ。第三者もしくは客観的自己が彼を指し、 「彼は孤独だ」と感じない限り、彼の孤独さは実証されない。矛盾した論理の中に埋もれる「孤独」という概念は次第にバランスを崩し、最終的に主人公たちの訪問で実感した「孤独」、そして打ち消された「孤独」を求めて彼は自殺をする。それが当たり前のように。
最後に主人公の言う「無意味なまわり道」とは僕が昨夜観た夢に似ているように感じた。まわり道をしなくてはならない理由、記憶を捨てなくてはならない理由。
それは僕達に課せられた決定的なものなのではないのだろうか。
僕はまたマユミを想う。
たった一日しか経っていないのに、僕の想うマユミはひどく抽象化され、どこかの映画に出てきた女優のように華麗な身のこなしをしていた。空を眺める彼女の姿は決して思い出すことができず、僕は自分の薄っぺらな記憶力にうんざりした。僕はマユミからの電話を諦め、ビートルズの「ラバーソウル」を聞きながら眠った。
記憶を食べる怪物の悪夢が頻繁に訪れるようになった。
僕は怪物の存在に気付くとすぐに目を覚まそうと抗い、意識と無意識の境目を漂った。
大きく目を開き、天井の細かい凹凸を凝視して自分の部屋であること、そして起きていることを確かめる。確かめてもすぐに睡魔に吸い寄せられていく。
またもや背後に怪物を感じる。
だんだん自分は寝転んでいるのか、道を歩いているのか分からなくなってくる。
いや起きているんだ。そう言い聞かせる。
意識を別の記憶の引き出しに向ける。
今までに初めて体験したことをいくつか回想する。初めて自転車が乗れるようになった時のこと、初めてオーバーヘッドキックができた時のこと、初めてキスをした時のこと、初めて観た映画のことなど、悪夢を導かないように出来る限り楽しく、温かく鮮明な記憶をたどる。
この繰り返しでいいんだ。そう言い聞かせながら夢を見ない眠りというものをじっと待った。
4. 手紙
「カコン」
玄関のポストに郵便物が放り込まれた音だった。どうやらしばらく眠れたようだった。
郵便受けを覗くと手紙が一通入っていた。
高校時代の恋人、ヒトミからだった。
グレーの封筒に丁寧に書かれた宛先を見た途端に誰からの手紙なのかすぐに分かった。長い間手紙のやり取りをしていて彼女の文字の特徴が記憶に刷り込まれていたからだ。それはおそらく上京してから始めて、つまり4年ぶりに手にするヒトミからの手紙だった。
僕はしまい込んだペーパーナイフを探したが見つけられず、ハサミでゆっくり開封して大きく息を吐いてから手紙を取り出した。書き出しは勝手に決めつけられた「こんばんは」からだった。
~~~
こんばんは。お元気ですか。久しぶりに手紙を書いています。
電話で話をしたかったけれど、いつもそこにあなたはいないようです。
本当にそこに居るのか少し不安です。この手紙が誰か別の人に届いてしまうかもしれません。それともあなたはかなり忙しいのでしょうか。私のタイミングが悪いだけなのでしょうか。
私は昨日、あなたに手紙を書きました、実は。
でも、書き終わる前に少し前にちょっと気がかりなことを発見して、そのことについて手紙を書き改めているのです。今更ながら、こんなことをあなたに聞くのはどうかと思ったのだけれど、気がかりで仕方がないので我慢して下さい。
気を悪くするかもしれません。だから先に謝っておきます。ごめんなさい。
さっそくですが、以前、私とあなたが一緒にいたころ、あるいは、その時から今までの間で、あなたと私との間に何か、とても重要なことがあって、それについてのはっきりとした結論のようなものを私は忘れているようなのですが、あなたにはそれが分かりますか?
何かにはっきり白黒つけて、それを明確にしなければならないのだけれど、私にはそれが何であるのか分からずに苦しんでいるところです。
はっきりさせなければならない何かなんです。
あなたはそれが何であるか知っていますか?
あなたと私との間にあるものに間違いはありません。
そしてそれは少なくとも私にとって、とても重要であるようです。変なこと聞いてごめんね。
今までしっくりきてない感じで、その原因が昨日あなたに手紙を書いているときに分かってしまってからは気になって仕方なくて、それで電話をしました。
何度も。
もしかすると全然何もなかったりして、そのうち思い出すのかもしれないけれど。
それとも、私だけが知ってた事で、あなたには見当もつかない事ってこともありえるしね。
でも、とても大切なことみたいなので、私は早くはっきりしたいのです。
こんな手紙は本当に困らせてしまうと思うし、イヤな思いをさせているかもしれない。
でもあなたには分かると思ったの。あなたなら知っていると思ったんです。
多分、あなたか私しか知らない事なんだと思う。何だろうね。
はずかしい話ですが、私はあなたと会わない間に2度頭を打って一時的に何かを忘れてしまうことがありました。2度も。しかも同じ場所をぶつけて。
でもそれはあくまで一時的なことで、多少生活がストップしたけれど、今はだいたいは前の通りだと思うのです。
つまり、ころんでしまう前のとおりということ。でも自分では分からないの。
全部前の通りになっているのか、それとも忘れていることすら気が付かない忘れたことがあるのか。
今でもたまに、誰かと話していると、自分に覚えのないことを聞くことがあったりして戸惑ってしまいます。
忘れている事は確実にあるみたいだけど、それはささいなことだけだと思っていたのです。
普通に生きていたって、忘れることは沢山あるでしょ?
私は忘れたいことがあったりして、それをとても消したいと思ってしまうと、何かの拍子に本当に消してしまうようなのです。
忘れたいことを含んだある部分をごっそり。情けない話だけど、つまり逃げているの。
良く言えば自分の心を守っているのだそうです。私はとても面倒な人間だと思います。
そんな人は私以外の人間だったら、さっさと縁を切りたいけど。
多分そんなことが2度あったせいなのか、その大切な何かが分からずに、イライラしています。こんな勝手な長い手紙を書いて、あなたには本当に申し訳なく思っています。
あなたにとって私はそれほどの人ではないと思うし。でもあなたに聞くしかないんです。
だからごめんなさい。許してね。
話を変えるけれど、私はこれから先ずっと田舎で過ごします。
小銭を貯めながら生きていくことにしました。彼もあと一年で田舎に帰るそうです。
そういうことで、私は教習所に行っています。
あとの時間は3月5日の国家試験のためにすごく真剣に勉強しています。そんなところです。
あなたが倖せに生きていることを願っています。とても真剣にね。
でもできれば会いたかった。今どんな顔をしているのか見たかった。
あなたはとても忙しそうなので、多分、当分は会えないのでしょうね。残念です。
ヒトミ
~~~
その手紙は僕をひどく混乱させた。この世に今生の別れなんてものは無くて、一方的に同意なく繋がることができるんだと知った。僕のことを想うのは彼女の勝手だけれど、僕が彼女を忘れさせてくれないことへの怒りが込み上げてきた。半面、とても温かい気持ちにもなった。僕はまだ誰かに頼られている。愛されてはいないけれど、彼女の心に僕が存在し続けているのだ。
【ヒトミは青春時代の僕に一番影響を与えた女性である。
それはまるで青空に浮かぶ雲のように、突然どこからか出現し、形を変え、印象を変え、そして突然消えていった。僕は彼女に影響を与えることができたか疑問に思っている。本来、人と人が時間を共有するとき、お互いに何かしらの影響を与え合い、受け合うはずなのだが、ヒトミは僕から何かを得たようには感じられないのだ。それはきっと僕が受けたヒトミからの影響の大きさに起因しているのだと信じて疑わない。】
5. ヒトミとシオリ
高校3年になったばかりの4月、学校の近くの市営図書館で僕とヒトミは出会った。
彼女は僕の2歳年下で、親友の後輩として紹介され、僕が恋に落ちた。
年上に対して物おじしない態度で接してきて、出会ってすぐに僕の長所と短所を指摘してきたこと。
目が優しく、目尻が垂れていて、笑うとより一層垂れて魅力的だったこと。
新しいものを拾うアンテナが高いのに、古き良きものを受け入れるバランス感覚も持ち合わせていたこと。
そしてなにより、親の影響を受けてビートルズを好んで聞いていて、彼女のハミングは僕の耳にとても心地よく聞こえてきたこと。これらがヒトミを好きになった理由だった。
彼女に告白をした覚えがうっすらあるのだが、この記憶は間違っているかもしれない。僕の周囲へのアピールに応じて友人たちは僕と彼女との接し方を変化させ、彼女は僕と付き合っていることを演出し始めたような記憶もある。とにかく、僕たちは4月から夏休みが終わる8月までの5か月間、恋人として付き合っていた。
僕は男子校で、彼女は女子校だった。
放課後、学習室のある市営図書館で勉強をするという口実をもとに、僕たちは友人複数名で集まり、勉強もせず隣接した公園で他愛もない話に時間を費やした。話題は主に好きな音楽と、将来の夢と、嫌いな先生の物まねと、手に入れられないファッションと、来たる寒い冬への愚痴と、都会への憧れだった。
ほぼ毎日夕暮れまでずっと公園で友人たちと過ごし、彼女の下宿先が僕の家の近所だったので、自転車で二人並走して帰る日々だった。
「ねぇ、聞いて。クラスメイトであなたを中学校の時から好きで、今でも好きっていう女の子に出会ったの。それはとても素敵な出会いだと思うの。紹介したいんだけどいい?」
「え?」
「その子、とても大切な友達になりそうなの。」
「紹介ってどういう意味?」
「うん。とってもいい子だから付き合ってほしいの。」
「そういうの、別れたいって伝えてから言ってほしいんだけど。」
「私よりいい子だから薦めることのどこが間違ってるの?」
「それって俺のこと好きじゃないって聞こえるんだけど…。」
「好きとか嫌いとかじゃなくて、あなたにはあの子のほうが似合うって思うのよ。」
「その発想、やめてほしいな。」
「やめないと思うよ。その子と私は仲良くなれて、あなたも私みたいな我儘じゃない子と付き合えるの、とても合理的じゃない?」
「冷めてるよ。それ。いやだな。」
「ふーん…。でもまぁ、会ってみてよ。明日あそこに連れて行くから。」
「俺は断ると思うけど。それでも君が友達として付き合える方法を考えといたほうがいいよ。」
「うーん。」
「なんだよ?その子はなぜそれを今言ってくるんだろう。中学の時に言えばいいのに。俺にとってみたらその子は縁がないか、運が悪いか、君に悪意を持っているとしか思えないよ。」
「もしあなたが、私は恋愛よりも友情を大切にする人間だという理解をしてくれていて、なおかつ、私のコトを大切だと思う気持ちを持ち合わせていれば、あなたはこの提案を受け入れると思ったのです。はーい。」
「学者気取りですか?」
「いえ、こちらは本日導いた私なりの結論です。」
「その言葉遣いやめてほしい。」
「うん。でも、あなたの答えは予想通りだったから。私の想定通り。だから、明日もあなたが考えるように動いていいよ。よろしくね。はい、これ今日の手紙、今日読んでおいてね。」
ヒトミはカバンから小さく折りたたんだ手紙を僕に差し出し、下宿先に向かってまた自転車をこぎだした。
「また明日ね!」
僕は帰宅後すぐにインスタントコーヒーを淹れ、焼き魚の匂いが家中に充満する中、空腹感を抑えて自分の部屋に引っ込んだ。音楽をかけようか悩んだが、それよりヒトミの手紙が気になったので、ベッドに寝転び、カバンから手紙を取り出した。その手紙は恐らく授業中に急いで書かれたようで、粗雑にひし形に折られていて、文体は走り書きで、青色のペンがところどころ滲んだり、文字の訂正が×印で入っていたりしていた。
「今日、これからあなたに会って、あなたのことを好きなクラスメイトの話をします。私は予言します。
『あなたは嫌な顔をして断る』と。
だからフォローの手紙です。
機嫌を直してね。まずはありがとう。私は知っていたよ。
私のことを大切にしたいと思ってくれているから、怒ったんだよね。ありがとう。
そんなあなたが大好きです。
なーんてね。大好きかどうかわからないけれど、書いてみてキャーってなってしまいました。
私ね、まだあなたのことがわからないの。とても不安になる。今まで出会ってきた人たちは、最初に目を見たり、一言会話をしたりすると、敵か味方かが分かったの。(ほとんどが敵だけど笑)だけど、あなたは違ったの。まだ何もわからないの。
正直に言うと今日、もう一通の手紙を書きました。私がクラスメイトを紹介するときのあなたの表情を見て、最後の手紙を渡すことになるかもと思って。さよならのための手紙。ほら、マジックとかであるでしょ? 右のポケットと左のポケットで違うもの入れてて、答えを知ってから同じものをポケットから出すやつ。
今日は反対の手紙を渡さずに済んで良かったと思います。
ただ、彼女(クラスメイトのシオリちゃん)のこと、私は本当に好きになってしまいました。
私レズなのかな? と思うくらい。(女子高は多いんだって。ヒッヒッヒッ。)
すごく真面目で優しくて女神のよう。あなたのことを好きというところも好き。わかる?
私と違ってシャイで、すぐに顔が赤くなるの。先生に指されて赤くなるんだよ。
だから、明日、きちんと、丁寧に話を聞いてあげてくださいよ。
最後に。もうこんなことはしないから怒らないでね。じゃあね。」
僕は、天井を見上げ大きく深呼吸をした。ヒトミは愛くるしいのか、じゃじゃ馬なのか、上手を取りたいのか、なにが目的なのか、いろいろなことが分からなかった。ヒトミの立場で考えてみようとしても、脳に生コンクリートを流し込まれたような異常な重みとザラザラした感触を味わい、思考停止した。
僕は、明日どのような立ち回りをしようかと考え始めた。おそらく黙り込んで最後に断る方法になるんだろうと考えた。シチュエーションをイメージする。うん。できる。きっと丁寧に。
僕は急に音楽が聴きたくなり、母親が衝動買いをして封を開けていないクラシックのCDをかけた。ホルストの組曲「惑星」だった。音楽の授業で聴いた記憶がなくもなかった。
タイトルが「惑星」だから宇宙を連想するだけで、例えばタイトルが「苦悩」だと言われたら、当たり前のように苦しみを連想する。クラシックとはそういうものだと知識のない僕は解釈していた。僕は音楽という授業が嫌いだったのだ。なぜなら担当する音楽教師の全てがレコードをかける前に、作曲家の偉大さと、時代背景と曲の意味を解説してから愉悦に浸りながらレコードに針を落とした。楽曲が始まる前のプツ、プッ、ブツブツ…と聞こえるノイズは、僕には作曲家の愚痴に聴こえていた。
作曲家の思想と言動と振る舞いと死にざまで楽曲の解釈は変わり、聴き手は植え付けられた価値観で楽曲を味わう。もちろん生み出された楽曲は大いに称賛されるべきなのだが、それが後世に残すべき曲か否かなど批評家の解釈次第だろうと考えてしまう。本来はもっと多くの楽曲が現代に残っているべきなのではないかと感じていた。
「プツ、プッ、ブツブツ…そんなつもりで書いてないよ。僕は。」と。
翌日、約束通りヒトミはシオリを図書館に連れてきて僕を紹介した。僕はシオリを見つめ、首を斜め前に下げて挨拶をした。シオリは僕の顔を見ることなく深々と頭を下げた。そこからは前日僕がイメージしたものとはまったく異なる展開になった。ヒトミはシオリを置いてそそくさと図書館へ行ってしまい、僕と二人っきりになったシオリは一切自分から何かを語ろうとはしなかったからだ。新緑に包まれて爽やかな風が吹く公園のベンチにも関わらず、そこはまるで無実の少女を無理やり押し込めた取調室のような重い空気で、僕が取り調べを始めないと何も物事は進展しないような雰囲気になっていた。
「えーっと。同じ中学校なんだってね?気づかなかったよ。」
出来る限り差しさわりのない取り調べをしなければと思い、僕はゆっくりと話し始めた。恥ずかしくさせないように彼女を見ることなく、図書館の方向を見ながら、答えを急がない会話を始めたつもりだった。ただ横に座ったシオリの顔はすでに真っ赤に染まっていた。
僕たち以外にも男子高と女子高の生徒が何人も駐輪場に自転車を停め、図書館に向かう姿が見えた。僕はなぜ今、この子と話しをしなくてはならないのだろうかという答えのない自問自答を始めようとした時、ようやくシオリの意識は3年前まで遡ったようだった。
「・・・。はい。先輩は有名でしたけど、私は1年生の途中で引越しをしてきて、誰からも気づかれないくらい静かに3年間を過ごしました。」
「有名なんかじゃないよ。生徒会には入ったけど、内申書良くするために何回か壇上に登っただけだし、ずっとテニスに打ち込んでいた気がする。」
「はい。テニス部の女の子から、たくさん先輩の情報が入ってきていました。どこに住んでいるとか、朝何時にあそこを通るとか、手首を骨折して団体戦のメンバーから外れてしまったとか、どんな性格だとか。先輩覚えてないですか?先輩が中学3年生の時のバレンタイン、私の友達が先輩にチョコレートを渡しにいった時、横にいたのが私です。」
「あ、覚えてるような、覚えてないような。暗くて寒かった記憶しかない。」
「先輩なぜか、わざわざ手袋とってからチョコもらってたんですよ。」
「それは覚えていない…。」
「その仕草とか、その子がずっと私に刷り込んできた先輩の良いところとかが私にも伝染ってしまって、先輩が卒業するまで1か月間、私はそのチョコを渡した女の子と先輩の取り合いをしていたんです。どっちが卒業式に告白しに行くかを賭けて。」
「・・・。そんなこと知らなかったよ。」
「はい。私がその子を納得させたのに告白しに行けなかったからです。」
「なぜ?」
「わかりません。行けなかっただけです。」
「ふーん。そしてそのまま僕は男だらけの牢獄へ…。」
「ははは。楽しかったですか?この2年間は。」
「うん。何なんだろうね。全然楽しくないかな。横に競い合うライバルがいるのに、みんな見向きもしないで参考書見てる。中学の時は学年で何番だとか気にしてたけど、今は志望校合格するための自分の偏差値としか向き合ってないよね。先生が急に変わってもまったく違和感なく授業が進む気がする。それについていけなくなっちゃったかな。もう学年で後ろから数えたほうが早い順位まで落ちこぼれちゃったよ。」
「そうなんですね。先輩はどこの大学行くんですか?」
「まだ決めていないけど、国立はもう無理かな。県内のあそこへ行っても文系は教員の道しかないし。自分は向いてないよ、教師なんて大変な職業は。」
「東京…。行くんですか?」
「うん、そうしたいかな。」
「また離れてしまいますね。」
「え?」
「いえ、出会ってもすぐに離れていく。2つ上の先輩っていつもそうなりますね。」
「そっか、中学も高校も2才違いだとそうなるね。でもほら、大学へ行くと、3年生で1年生だから、2年一緒になる。」
「先輩が4年制大学へ行って、私が短大だと一緒に社会に出れるのか。」
「短大行きたいの?」
「まだ分かりません。何がやりたいかもまったく。」
「そのうち見つかるよ。」
「はい。見つかるといいなと思います。」
シオリの言葉尻に合わせて緑がそよいだ。語尾を薄めるように風が吹いて、上手く聞き取れなかった。もしかしたら違うことを言っていたのかもしれない。
「先輩、ヒトミからどんな風に聞いてます?」
「ん?今日のコト?」
「はい。」
僕はあまり間をあけず、シンプルにありのままを伝えることにした。
「そのまま伝えると、クラスメイトで中学時代からあなたのことを好きな子に出会った。紹介したい。なんなら付き合ってほしい。あの子と私は大切な友達になる気がするの。だって。」
シオリはより一層顔を赤らめ、下を向いた。
「いえ、ヒトミちゃん、それは言い過ぎです。先輩とヒトミちゃん付き合っているのにそんなつもりありません。」
「ん?」
「私は先輩をもっと知りたいだけで、グループに入れてほしいだけです。図書館にも通いたいし。」
「あー、全然嬉しいよ。今日はみんな帰っちゃったけど、いつも5、6人はいるよ。男の子も。」
「はい。私、もっとたくさん色々しゃべれるようになりたいんです。」
「うん。思っていることをそのまま話したらいい。みんないいやつだよ。」
「ありがとうございます。先輩ってやっぱり聞き上手ですね。」
「ん?そうかな?」
「先輩の前では自然と言葉がでてくるんです。湧き上がるように自然と。」
「なんでだろうね?」
「それはわかりません。先輩のパーソナリティというか、温かみというか。なんでしょうね?」
「はて、さて、そろそろ勉強しましょうかね。行く?図書館へ?」
「はい!」
僕たちは公園のベンチを後にし、池に掛かった橋を渡り図書館に向かった。
学習室は図書館の2階にあり、らせん状の階段を上るとそこは高校生しかいないたまり場になっていた。僕は学習室を利用する同級生になぜ自宅で勉強しないのかを尋ねたことがある。自宅では誘惑が多く、もしくは兄弟がうるさくて勉強に集中できないというのが概ねの回答だった。僕は真逆だった。勉強をするには自宅の自分の部屋が一番はかどったし、隣人の弾くピアノは勉強には最適なBGMだったし、横で勉強をしている姿を見てしまったら気が散って勉強をする気にはならなかった。むしろ図書館で勉強している人間を横目で見て、その時間をもっと有意義な使い方をして思い出を作りたいと考えてしまっていた。
「ヒトミいましたよ。あそこです。」
「ほんとだ。」
「呼んできますね。」
「うん。」
シオリはヒトミを呼びに学習室に入り、僕はそこから少し離れた雑誌置き場から映画雑誌を広げ、リヴァー・フェニックスの追悼記事を読んだ。誰しもが彼の無限の可能性を惜しんでいた。音楽雑誌も同様に自殺したばかりのカート・コバーンの喪失感に浸っていた。映画も音楽もドラッグに塗れ、そして未来への不信に溢れ、新たな救世主を待ちわびているように感じた。
「ちゃんと話聞けた?」
ヒトミが僕の読んでいる雑誌をのぞき込みながら言った。
「どうだろう?君が言っていたこととだいぶ話が違っていたけれど。」
「そう?まぁ仲良くしてよ。きっと何かが生まれるよ。」
「はぁ。好きにしておくれ。」
「私たちもう少し勉強していくから、先に帰っていいよ。今日は手紙書いてないんだ。ごめん。」
「もう少し雑誌読んでる。終わるまで待つよ。」
「そう? じゃあ、あとでね。」
僕はしばらくカート・コバーンの双極性障害について詳しく記事を読み込んだ。抑うつと躁病と、それらの症状のない寛解期を循環すると聞いただけで頭がおかしくなりそうだった。遺伝的要素が強く、一生付き合う病気であること。自殺率が高いこと。芸術性・創造性との関連もあり、ニーチェやヘミングウェイなども双極性障害だったという。結びはカートの死はやむをえない理由だったのだと書いていた。僕はそれを読んで、羨ましさと恐ろしさと不快な感情を同時に味わった。その後、ほんの僅かの時間で僕は自身の疑問符に対してこう結論づけた。「それは病名という枠組みでしか語れない浅知恵だ」と。彼らはそのような病名でカテゴライズされるのではなく、作品や思想や愛する物事をただ素直に表現し承認されたいだけなのではないだろうかと。双極性障害と診断された人間は既に人間ではないような見方をするメディアに強烈な嫌悪感を抱いた。そしてきっとこれから売名目的で双極性障害や鬱病を名乗る人間や、病名を聞いて安心する人間や、その診断を安易にする医者が多くなるだろうと思った。「ああ、風邪ですね。流行ってますよ。」といった具合に。意図せず道を細くされ、今まで知らなかった枠組みに埋め込まれ、それは果たして彼らのためになる方法なのだろうか?僕は深く大きく息を吸い込んで吐き出した。そして、病名すら患者に知らせず治療する医者を想像した。「ちょっと具合が悪かったので、チューニングしておきましたよ。またおいでなさい。『普通』に戻してさしあげますよ。『普通』にね。」
6. ヒトミ
僕とヒトミはその日の帰り道、もう一か所寄り道をし、初めてキスをした。
場所は陸上競技場の観覧スタンドに入るための階段脇だった。あたりは暗く、小雨が降りだしていて、運動をしている人間はだれもいなかった。街灯がうっすらと差し込んでいて、近くのジュースの自動販売機がウーとかゴーッとかガーッといった騒音を2分おきくらいに変化させて存在を主張していた。
僕たちはヘッドフォンステレオでイヤホンを一つずつ分けてビートルズを聞いていた。アルバムは『ラバーソウル』だった。ヒトミが『ミッシェル』を聞きたいと言い出して頭出しをした。彼女は曲に合わせてハミングをし始め、僕はイヤホンを反対の耳につけなおして、彼女のハミングを聞き取れるようにした。曲が終わると同時にヒトミは話し始めた。
「ねぇ、私、ジョンとポールだったら絶対にジョンのほうが好きなんだけれど、好きな曲は全部ポールの曲なの。『ミッシェル』も『ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード』も。」
「俺はジョンが好きで、ジョンの曲が好きだよ、『イン・マイ・ライフ』とか『アクロス・ザ・ユニバース』とか。」
「そういうの聞くと、自信を無くしちゃうの。辻褄合わないっていうのかな?本当に好きかと言われたら好きなのに、歪んでいるみたい。前期後期の好みだと前期が好きなのに一番大好きな曲は『イエローサブマリン』なの。おかしいのかな?」
「そんなことないんじゃない?ビートルズが大好きでもジョンだけが素晴らしいとも思わないし。ジョージだって良い曲を書いたよ。なのにパティ・ボイドを諦めたことはさっぱり俺には理解できないけどね。」
「ねぇ、聞いて。あなたには私の全部を知ってもらってもなお、好きでいて欲しいと思うの。」
「どうしたの?」
「私ね、本当の名前は違うの。」
「ん?」
「本当の名前はもっと長くて、ミドルネームがあるの。」
「それってどういう意味?」
「両親がカトリックで、物心がついたころ洗礼を受けたの。だから私も教徒なの。」
「うん。」
「平日はおじさんの家にいるんだけど、土曜日に親が迎えに来て、日曜日は礼拝に行くの。神様にお祈りをするんだよ。」
「うん。それで?」
「驚かないの?私が神様信じてること。周りとは全然違うのよ。」
「宗教とか宗派とか、まだよくわからないんだ。爺ちゃんは最近念仏を唱え始めたけど、両親は何もしていないし、墓を受け継ぐことは何となく理解しているけど、押し付けられるものという感じもしなくて。」
「そっか。あなたのお父さん怒るかもね。私がカトリックだったら。」
「え?」
「それにね、カトリックは結婚するまで純潔を守らなくちゃいけないの。」
「じゅんけつって何?」
「知らないの?処女を守るのよ。」
「そんなに厳しいの?」
「うん。厳しいよ。ねぇ、この話を聞いて、私とキスしたいと思う?」
「え?」
「あなたはずっと私とキスしたいと思ってた。」
「なぜそう決めつける?」
「普通の人はこの話を聞いて引くと思うよ。」
「質問の答えになってないよ。それに俺は普通の人間なのだろうか?」
「いいよ。キスして。」
僕たちは肩を並べて競技場のトラックを向いていたのだが、僕がゆっくりと向きを変えてヒトミの正面に回ってキスをした。僕のイヤホンはキスをして顔を離すときに外れてしまった。
ヒトミは笑って『アイム・ルッキング・スルー・ユー』をハミングしながら言った。
「悪魔ね。悪い男。」
僕はその場から動けなくなった。腰に物凄い太い楔を打たれたような激痛を感じた。
目をつぶり彼女の唇の柔らかさを思い返して忘れまいとした。
気付かないうちにヒトミがそっとキスをしてきた。今度は長いキスだった。
「君が悪魔なんだよ。」
ヒトミはイヤホンの一つを僕の耳に入れ、『イン・マイ・ライフ』を聞かせてくれた。
そして反対の耳に顔を近づけて囁いた。
「知ってるよ。この曲のオルガンは悪魔も認めるほど素敵よね。」
僕たちはアルバム『ラバーソウル』を聴き終えるまでの間、抱きしめたり、キスをしたり、笑ったり、鼻をつまんだり、頬を撫でたり、目尻の皺を指でなぞったりして過ごした。
雨が少しずつ強くなっていたことにはまったく気づかなかった。
自転車でずぶ濡れになって帰った後も、僕は何か特別大きなものに包み込まれた感触のまま、ただ茫然と天井を眺めヒトミを想い続けた。
それから3か月ほど、僕とヒトミは土日を除いた放課後の全てをほぼ一緒に過ごした。図書館で勉強をしたり、公園でシオリを含めた友人たちと無駄話をしたり、手紙のやりとりをしたり、たまに僕の自宅に訪れ、音楽を聴いたり、雑誌を読んだり、一緒に勉強したりした。それぞれ自宅に帰った後もこっそり家を抜け出して近所で落ち合って散歩をしたこともあった。土日は自宅から電話のやりとりもした。楽しい話題もあったが別れ話をすることも多かった。それらは手紙での認識違いが多く、その時、僕は伝える力が足りないと謝った。もしくは来たるべく翌年の卒業後に離れ離れになることへの憂いだったため、僕は未来の明るい楽しい話題を提供することによってヒトミを慰めたり、夢を共有して絆を深めたりしていた。
また、僕たちはキスより先に進むことはなかった。ヒトミがそれ以上求めていないと感じていたし、僕自身、それ以上進ませるイメージを持ち合わせていなかった。
ある時、夢の中でヒトミと抱き合ってその流れのままセックスをしたという話しをしたら、ヒトミは笑って言った。
「男って本当にクズよね。」と。
なるほど男は低俗なのだと理解した。
彼女が僕に伝えた「純潔」という貞操を僕は破るつもりはなかったし、このままずっと恋人という関係を続け、それぞれがやりたい職を見つけたうえで一緒になるんだろうと考えていた。
僕は7月に両親を説得し、東京の大学を推薦入試で決め、勉強という束縛から解放されていた。
ごくまれに彼女は僕を礼拝に誘うことがあったが、僕は何かの理由をつけ、やんわりとその誘いを断った。そのたびに彼女は怒ることも無理強いすることもなく綺麗に話題を転換した。
「海外の音楽には宗教が密接に関わってるの。だから詩やメロディに深さや味わいがあるんだってお父さんが言ってたの。家族の絆もそうだけど、神様との関わり合いって大切だと思う。お父さんとお母さんの出会いは教会で二人ともビートルズ好きだったんだって。」
「へぇ。素敵な出会いだね。」
「聴こうよ、『ヘイ・ジュード』。ポールが子どもに贈った曲だよ。」
僕の宗教観は彼女と過ごしても何も変わることはなかった。礼拝に行っても良いと思ったこともあったが、僕が継続的に何かをやり続ける人間でないことは僕自身がよく理解していたので、中途半端な入信はヒトミに失礼だと思ってしばらくは断ることにしていた。
7. 記憶の欠落
夏休みを目前にして、ヒトミは僕をキャンプに誘ってきた。
「夏休みにビッグイベントのお知らせがあります。いつものメンバーでキャンプです。」
「そんな話あったっけ?」
「だいぶ前からやりたいねって言っていたよ。」
「そうだっけ?」
「うん。8月の最後の土日でお城跡の近くでやろうってなってるんだけど、来れる?」
「俺、夏休みの後半は従妹の家に泊まり込んでバイトすることになってるなぁ。」
「そうなのね。あなたが行かなくても私は行くからね。シオリも来るし。」
「うん。キャンプ、いいね。シオリが一番多く蚊に刺されるよ。きっと。」
「顔赤くしたら蚊は寄ってくるのかな。それ、試してみるね。」
夏休みのある日、ヒトミが泣きながら僕に伝えてきたことがある。それはあまりに抽象的で、僕を批判しているようにも聞こえたし、二人の関係を終わらせたいようにも聞こえた。
「あなたは多分、たくさんの人から頼られる大人になると思う。お願いごとに一生懸命応えるし、きちんとゴールにたどり着く。でもそれは私にとっては悲しいことなの。あなたは人の夢を叶えることはできるけど、人を幸せにできない人なのよ。人と共感しあっても、幸せに辿り着かないのよ。」
「意味が分からない。」
「大学を出たらどんな仕事をするつもり?」
「まだ詳しく決め切れていないけれど、人を感動させる仕事がしたい。」
「私と本当にずっと一緒にいるつもり?」
「そのつもり。」
「そのつもり。」
「なに?」
「不安しかないのよ。あなたはきっと私を幸せにできないの。あなたの心がどこにあるかわからないの。本当に。本当によ。」
困ったことに、このヒトミとの会話の先から記憶が極めて曖昧だ。
いくら辿っても行き止まりになってしまう。
細い細い糸が垂らされていて、手繰っても手繰っても答えを手に入れられない。
結果だけは確かなものとして僕の脳裏にこびり付いて剥がれない。
ヒトミは僕ではなく、僕の友人の子を身籠って、堕胎をした。
僕が行かなかったキャンプでヒトミは僕の普段から一緒に過ごしていた友人と寝ていた。
曖昧なことが幾つもある。
夏休みを終えてからその事実を知るまでどれくらいの時間があったのか。
僕とヒトミがその後、どれくらい顔を合わせていたのか、もしくは合わせていなかったのか。
ヒトミと僕はその時別れていたのか。
僕はヒトミと寝た男を殴った記憶があるのだが、その男はいつから登場して僕たちのグループに入ったのか。その仲間とどんな共通の話題があったのか。事実を聞いたあと、僕はどうしたのか、どのような話をしたのか。どんな結論を見出したのか。
様々な記憶が完全に欠落している。
僕はシオリを通じて、ヒトミは襲われたのではなく、同意のうえでその男と寝たということを知った。周りの仲間たちはその流れを止められなかったのかと聞いたら、とても楽しそうだったという答えが返ってきた。僕は学校を結果的に一週間休み、図書館に行くことをやめた。
その時、冷静さを取り戻すために、初めての経験だからだと常に言い聞かせた。
恋人に裏切られたこと。
身近で新しい命が芽生え、わずかな時間で消えたこと。
なんでも話し合えて、気心知れた仲間を失ったこと。
初めて味わう喪失が重なってしまったから、僕はこんなに混乱しているんだと言い聞かせた。
さらに言い聞かせる。何度も何度も言い聞かせる。
時間をかけて描いた夢があったが忘れてしまったんだ。
神を信じるならば共に信じようと思ったが神がどこにいるか忘れてしまったんだ。
ゆっくりと温もりを身に纏おうと思ったがどうすればいいか忘れてしまったんだ。
誰も知らない彼女の傷を癒やそうと思ったが傷がどこにあるのか忘れてしまったんだ。
忘れてしまうことでぽっかりと心にスペースができるような気がした。
僕は誰からも邪魔されない僕だけが入り込めるスペースを僕の心の中に作った。
暗闇で良かった。何も思い出せない暗闇が心地よかった。
そうして僕は18歳を迎え、高校を卒業して上京した。
8. 葛藤と約束
多摩川の土手はいつもより冷ややかで、僕はTシャツとジーンズだけで来たことを後悔した。川は昨日まで降り続いた雨の影響でたっぷりと土砂を含み、勢いよく流れていた。風もそれに合わせて急ぎ足で山側から海へ向かって吹いていた。
「お昼までには海に着きたいね。」レジャーに向かう家族のように心地よく進んでいるようだった。
大きくため息をついてみても状況も心境も変わることはなかった。もう、あれから4年も経っている。
僕は自分に言い聞かせた。声に出して言ってみた。「もう4年だよ。」その声はかすれていて、僕の声には聞こえなかった。まるで砂埃と米糠を吸い続けて精米室から出てきた老父のような声だった。
今、ヒトミはいったい何を知りたいんだろう。
頭を打って何を忘れてしまったんだろう。
僕も忘れたい事象を放り投げてきた人間だ。
思い出そうとすると悲しみが溢れてきて、カップからこぼれるコーヒーのように行き場と目的を失い、記憶を広げる真っ白なテーブルを薄茶色に染めていくだけだった。
「さて。」と老父のかすれた声で僕はまた呟いた。
僕は土手に作られたコンクリートの階段から横の草むらに体を放り投げるように寝転んだ。土手はまだ湿り気があり、服には草や土や蟻が貼り付いた。
僕は青空を眺めながらヒトミのクシャっと微笑む顔を浮かべたあと、マユミの空を眺めて涙ぐむ顔にイメージを転換しようとした。それはSF映画のようには上手くいかず、切り替わるまでカラーバーやスノーノイズや意味のない映画のワンシーンが混ざった転換になった。
妄想は続く。
次にマユミに会えたらと考えながら、マユミに質問をする僕をイメージする。
「僕も何かを忘れてしまったよ。」
「それはとても大きな夢だったの。」マユミは僕の話に応えているのかどうかわからなかった。僕は続ける。
「思い出さなくてもいい記憶があっても良いと思わないかい?」
「どうしても思い出さなくちゃならないの。」
「僕はあの時、違うアプローチや意思決定をしなければいけなかったのかな?」
「一緒に探して欲しいのよ」
僕の求める答えなどマユミは答えてはくれない。
僕は何をしたいんだろうと我にかえった。
混乱は収まらなかった。
少なくとも僕がこじ開けられた記憶の扉と悲しみをなんとかしなくてはならない。
恐らく僕はヒトミとマユミに会わなくてはならないんだろう。
会わなくては何も進まないんだろうという思考に切り替えた。僕の感情に関係なく、やらなくてはならないことなのだと言い聞かせた。
僕は自宅に戻り、ヒトミに手紙を書いた。
驚いたこと、忙しくなんてないこと、電話がかかってきた様子はないこと、僕の記憶も欠落していること、都内で会うなら都合をつけられること、気持ちが変わっていて会いたくないなら無理に連絡は不要であることを簡単にまとめ、ヒトミから受け取った手紙に書かれていた住所へ僕の電話番号を添えて投函した。
僕が今もなお、ヒトミから頼られて嬉しい感情を持ったことはあえて書かなかった。今の僕はいささか混乱しているし、もしヒトミも同様に混乱しているのならば、そのような心象を伝えても良い方向には向かうはずがないと考えたからだ。
手紙を書くのはとても久しぶりだった。
それは僕の心を少しばかり安寧にし、大げさに言えば生きた証を残したような気持ちになった。
ヒトミから電話がかかってきたのはそれから3日後だった。ヒトミの声色は4年前とは明らかに異なっており、暗く、そして、か細かった。
「もしもし。久しぶり、それから、ごめんなさい。」
その声はまるで氷の魔女の吐息を全身に浴びたかのような寒々しい震えと怯えを感じさせるものだった。
電話口の先にはカチカチと歯の鳴る音がうっすらと聞こえた。寒い場所にいるのだろうか? まだ秋だ。そんなはずはないと思いながら、僕は声すら出せなかった。少し間が空いて今度は遥か遠い場所にいるような距離感でヒトミは口を開いた。
「元気でしたか?」
「それなりにはね。」
4年経ってようやく出てきた僕の言葉があまりに凡庸でうんざりした。
「生きててくれて良かった。」
「え?」
「もう死んでるかと思ったの。あなたのお母さんに連絡してあなたの電話番号を聞いて何度もかけたのよ。」
「いつ?」
「覚えていない。何年も前。」
「こっちへ来てから番号は変わっていないよ。」
「うん。あなたが手紙に書いてくれた番号とお母さんから聞いた番号が違ってた。」
「なるほど。」
「会うな、ということだったのかな?」
「うちの母親はそんなイタズラしないよ。」
「ううん、そうじゃないよ。」
僕は電話機の側に置いてあったヒトミからの手紙を手に取り、ヒトミの文字を見ながらゆっくり深呼吸してから息を止め、息を呑み、ベッドに寝転んだ。
「ヒトミさん、いったい何を忘れてしまったんだい?」
「待って。まだあなたのリズムに慣れていないの。」
「リズム。俺のリズム。」
僕は黙り込んだ。ヒトミもすぐに何かを話し始めるような気配を持っていなかった。
チチチチ、カチカチッ。
確かにヒトミは震えているようだった。僕は言葉を探した。しかしどんなに見回しても適切な言葉は見つからなかった。すぐに言葉を探すことを諦め、僕のリズムなんて存在するのかを考えた。今まで考えたことが無かった。どんなリズムなのだろう。僕はずっと誰かのリズムに合わせて来たつもりなのに。
「・・・。手紙に書いた通りなの。何か大切なことを忘れてしまったの。」
「うん。読んだよ。」
「それが何か、本当に知りたいの。」
「知ってどうなるんだろう。何かが変わるとは思えない。」
「ううん。変わるとか変わらないではないの。それは死ぬまで覚えてなきゃならないことだと感じるの。自分の名前のように。自宅の住所のように。」
「うん。でもよく考えてごらん。君が忘れたことを思い出すには、俺は君と出会ったときから離れるまでの間で、記憶がある限りの君とのことを全て思い返して説明しないといけないんだよ?それも極めて客観的におこなう『確かめ算』だよ。さらには君の意思を無視した不完全な確かめ算じゃないか。それは俺にとっても君にとっても酷く苦痛なことだと思う。すでに俺の記憶も欠けているし、俺なりの解釈で過去に妄想を加えてしまっているよ。絶妙に味付けされている。俺の都合の良いように。」
「それでもいいの。受け入れる。だって、このままでは何も前に進めない袋小路なのよ。」
「申し訳ないけれど俺はそんなことやりたくないから。君は君の力で、君の都合が良いように穴埋め作業をしたらいいと思うよ。」
「いやなの。それは許せないの。あなたと認識を一致させたいのよ。」
「それにどんな意味があるんだい?まったく分からないよ。」
ヒトミはまた黙り込んだ。息遣いも震えも存在感も消えていた。通話が切れたような無がそこに存在した。
「会いたい。そして私はどうやら、あなたと寝なくてはならないようなの。」
ヒトミは音も光も、ひょっとすると空気すらない場所から救いを乞うような声で囁いた。
僕の張り詰めていた気持ちがさらに増した。天井がいつもより低いような錯覚をした。体全体が痺れてくる。僕は怒りでも嫌悪でも呆れでもなく、恐らく「悲痛」という部類の感情で溢れだした。
「それで君が救われるのかい?今の言い方、俺には神だか誰かに突き動かされて、やむを得ず寝たいと言っているような被害者の声にしか聞こえないんだけど。それは侮辱とも呼べるほど相手に失礼で、今の彼に対してもひどい裏切りになるんじゃないのかい?」
「わかってる。言葉も選んでいるつもり。でも私が辿り着く結論は何度考えてもこれなの。ねぇ、もう4年も同じことを考えている私の気持ちは少しは伝わった?こんな結論にしたくないのよ。私にもあなたにもそれが不幸なことだとわかっているの。それでもこれを言わなくてはいけないと言う私がいるの。」
「何かしてあげたいと手紙をもらった時は思ったよ。でも今はそんな風に帰結していた君に対してよくわからない感情を抱いているよ。俺が君に言えるのは、忘れた記憶は忘れるべくして失ったものだと割り切ってしまえば、何ら不安に憑りつかれることはないだろうということと、俺を巻き込むならもう少し違う方法で君が望むことを叶えるようなアプローチをしたほうが良いよということだね。」
「うん。あなたが言っていることはいつも正しい。わかってる。でも世の中には間違っていると分かっていても伝えなくてはいけなかったり、やらなくてはいけないことがあったりするのよ。」
僕はなぜか泣いていた。
自分の無力さを感じての悔しさなのか、どうにもならない悲しみなのか、色々な感情が入り混じって、体から押し出されるように涙が溢れてきた。
「泣いているの?」
「よくわからないよ。4年も経って、離れていってしまった人に対して何をするべきか、何を取り戻すべきか、何を共有するべきかなんて。」
「あなたの気持ちは私には分からない。私の気持ちもあなたに全て理解してもらおうとは思わない。それは絶対に無理だから。でも少なくともポッカリと空いてしまった穴をお互いに埋めるべきだと思うの。」
しばらく僕とヒトミは沈黙を作った。
時間は急かすこともなく、僕の結論を待ってくれていた。
ヒトミも同様に僕の判断を待っているように感じた。
「君が望むなら、会って話をしよう。記憶を共有するよ。細かいディテールは気にしないで欲しい。間違っていると感じたらそう言ってほしい。」
「うん。ありがとう。本当にありがとう。」
僕は落ち着かせるためにタバコに火をつけた。
鼻が詰まっていて味がせず、揺らぐ煙を眺めるだけにした。
「いつにしようか?俺はいつでもいいよ。」
「できればあの図書館で会いたいの。あれから行っていないのだけれど、あそこにあなたと行ったら思い出せる気がするの。」
「次の日曜なら帰れるよ。」
「うん。合わせる。」
僕はヒトミと会う時間を取り付けて電話を切った。
訪れた沈黙はさっきの沈黙とは違い、全く温度を持たないものだった。
僕はボブ・ディランのLike a rolling stoneを聞き、エリック・クラプトンのLaylaを聞き、オアシスのWhateverを聞いて、エンディングの叫び声でようやく現実を取り戻した。
僕は日曜日を迎えるまで、心が落ち着かないままだった。ほぼ眠れず、何をしてもヒトミの事を考えてしまっていた。茹でたパスタは茹で過ぎになり、大学に行っても講義は耳に入らず、借りたビデオは話の筋を理解するのに3回も頭から見直さなくてはならなかった。
ヒトミに会ったら何から話そうか。
僕達で共有した時間はどんなものだったか。
客観的に見ても2人は同じ意志を持っていたのか。
考えれば考えるほど記憶に自信がなくなり、それらは全て僕が作り上げた幻想のように思えてきた。
「あなたと寝なくてはならないようなの。」
聞き間違えていなければ、ヒトミはそう言った。
僕には理解できない発想だった。
いったいどこに別れた男と寝なくてはならない女がいるのだろうか?
ヒトミが数年考え抜いて選んだとされる、その強制的で受動的な言葉を、僕は何度も何度も一文字ずつ分解して咀嚼して想像して分析してみたが、神の啓示以外に理解できる答えは出て来なかった。
僕は気持ちを切り替えるためにマユミを思い出した。それはマユミに対してとても失礼な事なのだろうと感じたが、ふと頭に思い浮かべた人物が映画俳優でも友達でもなく、マユミだった。
彼女とはその後全く連絡が取れなくなっていて、ヒトミからの手紙を読んでから気にかけなくなってしまっていた。
彼女は今どうしているだろうか?
僕はマユミにもう一度会いたくなった。
それは彼女が持っていた夢が何だったのかを知りたいという気持ちと、夢を預けるという純粋さの根拠に興味があったからだ。
僕は今一度マユミの電話番号をダイヤルした。
二度コール音がして電話が繋がった。
9. 再構築と喪失
「・・・」
反応が無いのだが電話口の先に空間がある気配がした。人の気配なのかわからないが、空気がある気がした。そのまま留守電の電子音が鳴るのかと思ったが、聞こえては来なかった。
沈黙に耐えきれず、僕から切り出した。
「マユミさんですか?」
反応がない。僕は目をつぶり、耳に意識を集中して繋がった相手先の音をかすかでも拾おうとした。しかし、何かが動く音すら聞こえなかった。それでもそこに何かがあることは感じ取れた。何かと繋がっている感覚だった。
「聞こえていますか?」
次に発した僕の声は、ほんの少しだけ遅れて僕の鼓膜を振動させた。僕の声が相手の電話機を通じて反響しているのだということに気づいた。
なぜか電話を切る気になれなかった。
マユミが何かの理由で話せないが電話を取ったのではないかと考えた。
しかし、電話口の先には人の存在を感じ取れなかった。
「聞こえていたら、何か音を・・・。」
僕の声は数秒遅れて僕の耳に届いた。不自然な反響だった。
耳に届いた僕の声は精気を欠いていた。僕は音への集中を解き、目を開いたが、そこは僕の部屋ではなく、真っ暗な闇だった。もう一度目を閉じてまた開いても変化はなく、そこはただの「暗闇」だった。
「困った。」という言葉が漏れた。今度はしばらく経ってから「困った。」と聞こえた。
僕は全身から感じる痒みを抑えながら、額の上の部分だけを掻き毟った。痒みは収まらなかった。次第に体が震えだした。まったく寒くないのにガタガタと肩の辺りから震えが全身に伝わっていった。
僕は混乱していた。何をしていたのかをもう一度思い返す。
そうだ。マユミに電話を入れたはずだった。通話は始まったのに声が聞こえてこなかったのだった。僕の声が反響した。目を閉じて、目を開いたら暗闇だった。何も見えなかった。
一体どうしたんだろう。首を上下左右に動かしながら光を探したが、そこは濃度すらない、ただただ黒い闇だった。
僕はしばらく考え、自分が視覚を失ったのだということを理解した。
呼吸を整えようとしたが、体の震えとともに乱れる一方だった。
徐々に耳鳴りの音が大きくなった。高音の電子音が断続的に聞こえ、ジジジジジという蝉の鳴き声のような騒音も耳を圧迫してきた。
やがてゴソッという音とともに、僕は視覚に続いて聴覚を遮断された。
確かめるために声を出す必要はなかった。空間を把握できなくなったからだ。空間というものは耳で空気の動きを感じて認識していたのだということを知った。
僕は手に持っていた受話器を電話機があるであろう場所に置き、両手を組んで左親指の爪を右親指のはらで擦った。何度も何度も擦り、恐怖から逃れようとした。荒れた呼吸を落ち着けようとした。しかし、自分の意志ではどうにもならず、ただ震えだけが激しくなり、呼吸すらどうなっているかを感じ取れない状態になっていた。
視覚と聴覚を失った僕は、虚無と焦燥を感じていた。それらは今まで体験してきたものとは比べ物にならないものだった。虚無感は風船のように無を漂う孤独で、焦燥は見識のない異質な生物に突然変異させられたような特別な不安を抱かせるものだった。僕は僕では無くなっていることを認識し、何を目的に存在しているのかを感じ取れなくなっていた。
凍るような寒さを感じているにも関わらず、汗は止まらなかった。膿を潰したような嫌な匂いがする汗だ。冷や汗の類なのだが、からだの皮膚のすべてから噴き出しており、僕の体温を恐ろしい勢いで奪っているようだった。それに抗うように動悸が激しくなり、肩で息をする必要があった。
まずは落ち着かなくては。そう考えて僕は呼吸を整えようと目をつぶり、拳を軽く握り、首の力を抜ききって俯き、少しずつ田舎の風景を膨らませた。
僕が育った景色と体感した音を回想した。生い茂った広葉樹からこぼれる緑色の柔らかな光。南から吹く風に力強くそよぐ葉音。藻をたっぷり含んだ深緑色の水面からは水鳥の着水の波紋が見え、何かを探し求める鳴声が聴こえる。僕はゆっくりとそこに空間を創り出し、僕の周囲360度にジグソーパズルを埋めるように、白い空きスペースに形のあるもの、彩のあるもの、そして音を伴うものを当てはめていった。
そこは僕の記憶が持ちうる限りの図書館と公園になっていた。良く晴れた盛夏のそれだった。
僕は公園のベンチに座っていた。
さらに僕はそれらの景色に配置されたパーツごとにもっと細かいディテールを創り上げる。
図書館の大きな窓ガラスにある幼児の手あと。上下3メートルを超すブラインドからぶら下がる弛んだクリーム色の紐。斜めに傾きながら借りられていった隣人を待ち詫びる文芸書棚。緑色のフェルト製の掲示板に画鋲で貼られた読み聞かせ教室の告知チラシ。無機質に業務をこなす司書がうっすらと流れるクラシック音楽に合わせてスマートに打ち込むタイピング音。新聞を読み込む老人の銀縁の眼鏡まで。僕はベンチから見える図書館の光景とそこに聴こえるであろう音をゆっくりと創り上げた。
その後、僕がいる公園の周囲も創り上げていった。
自転車置き場の屋根は濃い灰色の溝が深いトタンで、新しいのに雨どいにはすでに穴が開いていて、草や石や空き缶が挟まっている。自転車置き場から図書館とは逆側に向かう狭い泥の道を進むと公衆トイレがあって、暗く、湿気があり、便器には黄ばみがひどく、蜘蛛の巣が張り巡らされている。
雨を待ち続けて疲れ果てた向日葵の花壇は周囲に太陽を遮るものがない。尖った砂利ばかりで舗装されていない遊歩道を進むと象の形をしたトンネルと滑り台が付いた子供用遊具があり、象の鼻の滑り台からは陽炎が出ていた。ボロボロのベンチは何度もペンキが塗りなおされていたが、毛虫が這う石テーブルとイスは30年前に一度だけ塗られたような色あせたピンクとイエローだった。木製のアーチ型の橋は小学生3人が同時に渡ると軋みだし、苦しそうな音をたてる。2つの橋が架けられた中央の休憩小屋の床は吐き捨てられた唾だらけで、ファーストフードの容器と紙袋でいっぱいになったゴミ箱の周りをハエが数匹飛び回っていた。
よくある公共施設と言ってしまえばそれまでだが、古いながらも人間を受け入れる意欲をもった佇まいだった。緑と水と歩道とベンチと風を感じることができる吹き抜けの休憩小屋。居心地は悪くなかった。
「ねぇ。」
ヒトミの声だった。僕は顔を上げると、隣のベンチに制服を着たヒトミが座っていた。
さらにヒトミの横には制服姿の僕が座っており、ヒトミと話をしている「僕」を、僕が見ているのだということに気づいた。
僕の高校時代の欠落した記憶であることが分かった。
「ん?」
遠くを眺める僕に対して、ヒトミは僕をしっかりと見つめ話し始めた。
「大学へ行って、どんなことをするの?サークルは?ゼミは?アルバイトは?どこに住むの?家で料理は作るの?休みは何をするの?どんな趣味を持つの?彼女は作るの?」
「質問責めはやめてよ。そんなに一気に答えられない。」
「溶け合うってわかる?」
「え?とけあう?」
「私ね。とにかく人間が嫌いなの。何を考えているのか、全部を表に出さずにほんの僅かな言葉だけで相手とやりとりするじゃない?そんなことで分かり合えるとは思えないの。結局溶け合わないし、溶け合おうともしない。それじゃあ何も生まれないの。」
「それは理解できるけど、割り切ったら平気なんじゃないの?コミュニケーションってそもそもそういうものでしょ?」
「家族でも、恋人でも、自分の子供でも、同じこと言える?この状況では言うべきではないとか、慮れとか。」
「意思疎通のために必要最低限の言葉を選んで、タイミングを掴んで、相手のリアクションを見ながら話すのが会話でしょ? 躊躇わずにすべての人間が語り始めたら主義主張を押し通す混沌が生まれるよ。」
「私が言いたいのはそんな次元の話じゃないのよ。あなたと話しているの。まだ分からない?私があなたのことを理解できないでいるのよ。」
「うん。」
「うん。と言ってもあなたは全然変わらない気がするの。何を考えているかを伝えてくれることが少ないし、あなたが何を望んでいるかが分からないの。我慢していることがあるんじゃないかとか、本当は違うことを考えながら私の意見を聞いてくれているんじゃないかとか、私の置かれている環境を知って、あなたはうんざりしているんじゃないかとか、2年という年の差はいずれ老いて埋まるものなのかとか。あなたは寡黙に私と時間を過ごしていて楽しいの?満足なの?」
僕はしばらく間をおいた。考えているふりをしているのがヒトミには伝わっているようだった。僕は言葉を無理やり掴みながら話していた。
「君と一緒で、俺も人間が苦手だよ。自分に自信がないから主張することなんてほとんど考えていない。人に嫌われることが嫌いだから、人を好きになることなんて早々ないし、人に好かれていると感じたら相応の関係値を築く。頼られたら頼られた分だけ目標に近づけるように頑張るし、相手が何を考えているかは自分なりに想像を膨らませる。できる限り人の心の奥に触れずに生きていきたいと思っている。それでも君を好きになったことには自信を持っているし、君にとても興味を持っている。聞きたいことは山ほどあるし、共有したいことだってたくさんある。一緒に行きたいところもあるしイメージは毎日している。でも今話してすぐに出来ないことや、言ってしまって君の気持ちが悪いほうに向かってしまったらと思うと、それらは伝えるべきではないと感じてしまう。俺はお互いが溶け合うなんてことは絶対にないと思ってるし、必要な時に自然と言葉になって出てくるものだと思っている。だから、もし君が、今の俺が言葉足らずだと感じるんだとしたら、間違っていないし、俺が変わるしかないんだろうね。」
「あなたは変わらないわ。」
「うん。変わらないと思う。」
「でも今、私はあなたのことが好きなの。人間が大嫌いで、溶け合うことが嫌いで、語ることが好きなくせにどう思われるかを気にかけているあなたを私が溶け合って変えたいの。」
「それはそんなに急ぐことなのかな?」
「急いだほうが良いと思うよ。」
「ねぇ、ヒトミ。」
「なに?」
「得意ではないんだよ。言いたいことが上手く言えないんだ。言葉のイメージがフワッと浮かぶんだけど、発する言葉は自分がイメージする言葉じゃないんだ。とても嫌になる。いつも足りない。たまに逆になる。だからなるべく言葉は少なく、わかりやすく、差し障りなく、言い逃れできる、そんな言葉を選び始めたんだ。」
「とてもよくわかるよ。だからこそ何度も何度も伝えて、伝えなおして、また伝えたらいいんだよ。あの時はこう言ったけど
今の言葉が正しいと思うって言えばいいじゃない?私はそうして欲しい。自然に出てくる言葉に悩まないでよ。出てきた言葉はあなたの言葉だし、創り上げた言葉なんて全然嬉しくない。」
「嫌なんだよ。完璧主義でもなんでもない。ただ、ただ嫌なんだ。もっとまともな、もっと正確な、、、いや、、、。」
言葉を失ってしまっていた。
ヒトミは僕のことをじっと見つめていた。僕は見つめ返すことなく橋や木々や水鳥を焦点も合わすことなく順に眺めていた。それでもヒトミは首をかしげて僕の次の言葉を待ってくれていたが、僕から言葉は出てこなかった。
「うん。わかった。待つよ。あなたが納得する言葉で話してくれることを。でも覚えておいて。こうしてる間もあなたと私の大切な一緒の時間がどんどん流れていく。それは私にとって、とても悲しいことなのよ。」
僕はめまいを感じた。
薄く塗った糊が粘着力を失って剥がれていく壁紙のように、創り上げた風景は裏面の白みを見せながら次々と消えていった。
やがて訪れたのは、無音の暗闇と強烈な眠気だった。僕は脈が落ち着いていることを確かめ、ゆっくりと眠気に全身を預けていった。
10. 訪問
遠くで微かに部屋のチャイムが鳴った。
音が聴こえていることを感じる。空気を感じる。
ようやく安寧が訪れた。
ゆっくりと目を開く。瞼を開く前から、周囲に明るさを感じていた。
間違いない、僕の部屋だ。瞬きをする。目を閉じてまた開く。何も代わり映えしない、いつもの僕の部屋、いつもの僕の部屋のベッドだった。
もう一度、今度は確かにドアチャイムが鳴らされていることを認識する。
枕もとのデジタル時計に目をやると、7時32分に見えた。
まだ起き上がりたくはなかった。起き上がるエネルギーを持ち合わせていないような感覚だった。そもそも僕の家に来る人間なんて限られている。新聞屋か宗教の勧誘だろう。でも何故こんな早くに来るのだろうか。また、チャイムが鳴る。僕は気だるい体をなんとか起こして髪の毛を整え、玄関に向かいながら何を着ているかを見直し、ドアを開けた。そこには作業服姿の男が立っていた。
「朝早くすみません。タカハシ運送です。」
その男は7時半とは思えない表情、姿勢、声量で僕の眠気を吹き飛ばした。
「タカハシウンソウ?」
「はい、タカハシ運送のタナベと申します。」
彼の作業服の胸ポケットには「タカハシ運送」という名前と、見た事も無いネコのマークの刺繍がされていた。僕はそれを見て初めて、マユミの探していた「夢の引越し便」であることに気がついた。僕はなぜ彼が僕の部屋を訪ねてきたのかが分からず混乱した。彼は僕の様子など気にすることなく、礼儀正しく淡々と話し始めた。
「実は、先日ワタナベマユミさまよりお預かりした荷物をお届け完了しまして、料金のご請求に伺ったところ、2日続けてお留守なようでしたので、管理人さまの許可のもと、ご自宅を拝見させていただきました。その際にあなた様からの留守番メッセージを聞きましてお知り合いであり、事情を理解されているあなた様にご請求に上がった次第であります。」
「3つ問題がある。」
「なんでしょう?」
「何故たった数日で彼女の部屋に入ってしまうんだろう?2日家を空けることなんてよくあることじゃないかな。 2つ目は、僕は彼女の知り合いと呼べるほどの者じゃない。つい先日一度会ったきりで、多摩川で偶然彼女の依頼を耳にしただけだ。そんな人間がなぜ彼女に対しての請求額を支払わなければいけないんだ?そして最後に、これは彼女が言っていたことなんだけど、届け物は彼女の手元に渡っていない。それなのに金額を請求するのかい?」
僕は彼のペースに巻き込まれていると感じながらも、早朝とは思えない頭の回転で必死に抵抗した。もちろん、夢を運んでいるなんていう非現実的な事象には触れずに。
「私の口からは最初の1つについてだけお答えできます。我々は引越し業者ですから、お客様のお宅を拝見する理由などいくらでも作れるんです。実はお客様とのお約束の中で、お支払いは荷物到着時に現金一括払いという事になっておりまして。私共の扱っている荷物は大変貴重なものばかりですので、金額も相当高額になっております。当方の都合ですが、今月は「料金の回収強化・徹底月間」になっておりまして、私もお給料がかかっておるのです。恥ずかしながらもう一日も遅れることができないのです。なにとぞご理解くださいませ。」
「他の2個の問題については?」
「はい、その件についてですが、今あなた様のご不安を感じ取りまして、ここからは弊社支店長より直接お話させていただいた方がよろしいかと。なにぶん秘密事項が多い事柄ですので。こちらも当方の都合で恐縮なのですが、あいにく支店長は社外に出ない人間でして。できましたらこれから車に同乗いただき、弊社にお越しいただけませんでしょうか?」
僕は新手の宗教団体を想い描いた。こんな方法も一つの手だなと。
ただ僕の中で引っかかっている事実を明らかにするために、僕は彼の依頼を承諾することにした。
「準備をするから15分ほどもらえませんか?」
「ええ。どうぞどうぞ。ゆっくりお支度ください。私は事務所に連絡をしまして、車の中でお待ちいたしております。」
彼は僕に丁寧にお辞儀をし、アパートの階段を駆け足で降りていった。
僕はシャワーを浴び、テレビを見ながらジーンズとトレーナーを着た。
天気予報は午後から雨が降りそうだと伝えていた。僕は折りたたみ傘をバックに入れ、部屋を出た。
マユミに電話を入れておこうかと思って立ち止まったが、きっと居ないだろうと思い、戻るのをやめた。
彼は車の中で演歌を聞いていた。僕が助手席のドアを開けると急いでボリュームを絞り、
「やけに早かったですね。まだ、髪が濡れてますよ。」と言った。
「場所はどこにあるんですか?」
「登戸です。出発しますね。」
「ちなみに料金っていくらなんですか?」
「35万7千円です。」
僕は歩道に唾を吐きながら歩いているサラリーマンを眺めた。そのあと、35万円以上の価値があるものを浮かべていった。車、時計、アクセサリー、授業料、旅行、それらと同列で夢の引越しをイメージしたが、実感を沸かせることなどできなかった。
タカハシ運送は、ごく普通の景気の悪い運送業者のようだった。広いトラック乗降場と簡素な事務所。門には錆びが目立った鎖が干からびた蛇のように地面にこびりついていた。
門の傍に立てかけられた横幅2メートル程の看板は、知っている人間だけが「夢の引越し便」と読めるくらい塗装が剥げ落ちており、看板の裏面には何年か前のものと思われる選挙の宣伝ポスターがしわしわになって貼りついていた。
僕はトラックから降り、事務所の中に案内された。事務所の中には誰もいなかった。埃が舞い、黴臭く、事務仕事が進む環境には到底思えなかった。
青色の羽の扇風機、黒電話、どこかの硝子屋が用意した社名入りの鏡など、古臭いものを日本中から集めて展示会を行なっているかように、その事務所は現代を感じさせるものなど何一つ存在していなかった。
「ただいまお茶をお出ししますので。少しお待ちください。温かいお茶でよろしいですよね?」
彼は僕の返答を待つことなく奥の給湯室と思われる小さな部屋へ入っていった。どこにも客が座れるような椅子は無く、僕は立ったまま、辺りを見まわすしかなかった。
薄汚れた壁には大きなカレンダーを裏返したような艶のある紙に「料金の回収強化・徹底月間」と太い黒マジックで書かれた指針が貼られていた。
2つ向き合うように置かれた灰色の事務机の上には書類やファイルなどは一切無く、朝刊と灰皿が置かれているだけだった。
「お待たせいたしました。さあどうぞ。社員の机ですけど。そちらにお掛けください。」
彼が持ってきたお茶は、僕が想像した通りの青い縦縞の湯呑で、お茶の味などこれっぽっちもしない酷いものだった。
「あと5分ほどで支店長の電話会議が終わりますので」
「電話会議?」
「ええ。支店長の部屋はこのフロアの下にありまして、毎週木曜日の朝は、全国の支店長との電話会議を行うことになっているんです。」
「この事務所からは全く想像できないことをやっていますね。」
僕は感じたことを正直に言った。
「支店長は、以前は東京本社で勤務していたエリートです。詳しい実績はお教えできませんが、会社の発展にとても貢献した人間なんですよ。」
「会社の発展。」
「ええ、会社は発展しました。」
「そうですか。」
「あの人がいなかったら今の私はありません。」
「そうですか。」
「ええ、家族を養っていく事だって。」
「ところでそのネコのマーク、何か意味があるんですか?」
「意味ですか?」
「ええ。」
「さあ、これも支店長が考えたマークですけど、今まで意味など考えた事も無かったです。」
「そうですか。」
僕はもう一度辺りを見まわしたが、これといって興味を引くものは見当たらなかった。
「そろそろ行ってみましょう。」
彼はすっと背筋を伸ばし、立ち上がった。僕は無意識にお茶を全部飲み干し、彼の後についていった。いったん事務所の外にでて、裏側に周るとコンクリートの階段があり、奥にはピンク色の鉄のドアが見えた。
「この下に支店長がおります。私は事務所で電話番をしていますので、どうぞごゆっくり。」
と言うと彼は頭を深く下げ、事務所に戻って行った。
階段はとても細く、そして急で、僕は両手で壁を伝いながらゆっくりと階段を降りていった。ドアの前まで来た時、やけに冷ややかな感覚がドアの方から感じられた、僕は深呼吸をしてからドアを開けた。
目の前には薄暗い部屋がただ一つあるだけだった。
3メートルほどの高さの天井から垂れ下げられた蛍光灯が2本点いている。背の高さくらいの本棚が幾重にも重なるように並んでいて、部屋全体を見通す事はできない。
僕はもう一歩踏み出して、
「すみません」と小さな声でいった。
「はい、どうぞ」
本棚の奥から声がした。支店長と呼ばれていたのは女性だった。スリッパを引きずる音がして、彼女は僕の前に現れた。支店長は40代くらいで全体的にふっくらとしていて、紺色のカーディガン、黒の膝丈のスカートが図書館の司書を思わせた。支店長は笑顔を浮かべ、手を応接セットの方に向け、僕を奥座に誘導した。
「あなたが、ここの支店長さんですか?」
「はい、そうです。あなたがいらっしゃるという話はタナベから聞いております。わざわざお越しいただいてしまい申し訳ありません。」
「いえ、僕もいろいろと知りたいことがあったので。」
「何から話しましょうか?今回のあなたのような件は、私たちにとっても特別な事例になりました。全てをお話する必要があるかもしれませんね。」
「時間はあります。僕が理解できるように話していただけますか。」
「わかりました。では、私達の会社のお話から。」
「ええ。」
僕は、上の事務所の椅子とは格段に違う座り心地の良いソファーに深く腰を沈め、首を1回転させた。
支店長は僕の目を見ず、蛍光灯の薄い明かりをぼんやりと眺めながら話し出した。
「私達タカハシ運送は、「夢の引越し便」チェーンの一つの支店です。
4年前までの当社は通常の引越し業務を専門とした会社でした。
他社に比べてこれと言って大きな宣伝もしていませんでしたし、強みもありませんでした。車両数の関係で都内から都内への引越ししか請け負えませんでしたし、家族経営だったのでのんびりとした危機感が無い仕事をしておりました。いずれそうなるとは感じていたのですが、大手の引越し業者がニーズに合った引越し価格の設定、便利さなどを打ち出していった結果、私達はお客様を失い、食べて行けなくなってしまったのです。」
支店長は一度頭を下に落とし、その後ゆっくりともう一度上げ、僕の方を見た。
「その時社長だった私の主人は経営に自信を失い、ある日蒸発してしまったのです。やむを得ず引き継いだ私もずっと厳しい生活が続きました。」
「いまだにご主人は戻って来ていらっしゃらないのですか?」
「それがいなくなって1年くらい過ぎた頃、突然目を輝かせて戻ってきたのです。」
「それは良かった。」
「『見つけた。本当にやりたかったことが!』なんて言いながら。そうなんです。主人がこの『夢の引越し便』という会社を見つけてきたんです。
今は北関東に分社した会社の支店長をやっています。」
「本当にやりたかったこと、それが『夢』を運ぶことなんですか?」
「そう、普通の人では考えられないでしょ? 『夢』を運ぶなんて。」
「もちろん。僕は今でも。」
「それができるんですよ、ある能力さえ身につければ。」
「ある能力?」
「ええ。 『夢』を吸収する能力です。」
「夢を持っている人から、情報を詳細に聞き出し、それを自分の夢として自覚し、保護し、運ぶんです。もちろん、訓練を受けないとそこまですることはできません。他人の夢なんて所詮他人の夢なんですから。」
「もし。仮に『夢』を運ぶことができたとして、依頼する理由なんてあるんですかね?今回のマユミさんは『あまりにも大きい夢だったから』って言ってたけど、普通夢なんて他人に運んで貰おうなんて思わないですよね?」
「理由ならいくらでもありますよ。たとえば、上京する時に何かしらの夢を持って上京するでしょ。その人達は、おそらく沢山の不安を抱えているはずなの。本当に叶う夢なのか、どうしたら実現できるだろうか。この夢が自分の本当の夢なのだろうかとかね。私達の仕事は引越し前にその不安を取り除き、引越しの踏ん切りをし易くすること、そして、ここからがとても重要なのだけれど、《『夢』を忘れさせない》ことができるの。私達が、運ばせていただいた『夢』に向かって、お客様はずっとそれを追い続けることができるの。」
「どうしてです?」
支店長は体を前に乗り出し、僕の眼だけを見て話し出した。
「一般的には夢は自分で抱えているものでしょ。自分にとって大切な人には話すかもしれないけど。でも、それはさっきも話したけど、とても意味の薄いことなの。自分だけで抱えている夢ほど壊れやすいものはないわ。初めからそんな夢なんて持ってなかったって思えるんだもの。人間は逃げられることを知ると必ずと言っていいほど逃げてしまう生き物なの。でもね、私達に依頼するとその『夢』は絶対に壊れない強固なものになる。これは精神論ではなくて経験上確かなことなのよ。理由は2つあって、一つは一度その夢が自分の心から完全に離れることによって、移動して戻ったときにとてつもない愛着と執着心が生まれるの。もう一つは、私達が『夢』を扱うプロだから。この場所にある沢山の本はすべて伝記なの。過去の歴史に残る偉人たちの自伝やそうでない一般の人間の日記まで、全支店それぞれに違った伝記が保管されているの。私達はお客様とお話をしていない時はほとんどここで本を読み、様々な人の「夢」や「志」を蓄えるのよ。そうすることによってお預かりした『夢』をひとかけらも壊すことも加工することもなく、ただ強くしてお届けすることができるの。」
「依頼者は相当な覚悟がいるわけですよね。一度心から離れてしまうことを怖がらないのですか。」
「そうね。だから『引越し』なのよ。これはビジネスだからとても泥臭い話になってしまうけど、上京前の希望に満ち溢れた人達に対して営業していった方が、夢を預けていただけると思わない?上京してしまって様々な誘惑や夢の選択肢を知ってしまった人達に『夢』をしっかり追いかけなさいって言っても重宝されないわよね。」
「なるほど。」
「もちろん、私達はそういう観点だけでこの仕事をしているんじゃないわ。『夢』を実現させようとしている人達はとても輝いている。その人達の手助けってとても素敵だと思うの。主人もそう思っているわ。」
僕はなぜか無性にタバコが吸いたくなったが、灰皿が見当たらなかったので我慢することにした。
支店長は僕の気持ちを察したのか、「コーヒーでも飲む?」と言って部屋の隅のほうから、温かいコーヒーを持ってきてくれた。シナモンの香りがするとても美味しいコーヒーだった。
「さて、ここからが本題なのだけれど、さっき今回の件が特別だって言ったけど、何故だか分かる?」
「マユミさんが依頼したにもかかわらず、請求が僕に来たこと。それにマユミさんにはその『夢』がまだ届いていないこと。」
「そうね。その通りだわ。でもそれは結果が見えていないからなのよ。」
「結果?」
支店長は大きく息を吸い込んだ、右手で左胸を押さえた。
「私達は約束通り、マユミさんの『夢』を届けたわ。」
「いや、彼女は『まだ届かない』と言っていたんですよ。」
「そう。その時は届いていないの、厳密にはね…。まだ分からない?」
「彼女の夢は『あなたに会うこと』だったのよ。」
「え?」
「言い直すわ。『あなたに会って溶け込むこと』だったの。そして、これは私も後から気付いたのだけれど、マユミさんは、あなた自身だった。あなた自身があなたに溶け込もうとしていたの。マユミという空想の人間を創り出してね。おそらくあなた自身の消えかけた『思念』というのかしら、『記憶』と呼んだ方が正しいかな。それを運び、『夢』を導き出すために彼女は現れたのよ。」
「なぜ、そんなことを。」
「きっととても大切にしている『夢』が何かの影響で消えかけてしまったからじゃないかしら。それは私にも理解できないわ。だって、私自身も彼女と彼女が依頼してきた『夢』を実際にあるものとして認識してしまったのよ。それ以上に強い『夢』があなたに内包されているとしか思えない。」
僕は手のひらの上に載せたコーヒーカップを眺めながら、マユミと会った日のことを思い返した。
空を見上げるマユミの姿が水滴で曇ったガラスをタオルで拭き取る時のように少しずつ鮮明になっていく。確かにマユミは僕の中に入ってきたのだ。僕の心の中に。こぼれる涙とともに。
『記憶』が怪物に食べられていくそれを、彼女は阻んだのだ。もしくは、ヒトミとの記憶を思い起こさせたのはマユミなのかもしれないと感じた。
「でも、彼女を受け入れた今になっても僕は自分の夢を明確に表現できないでいる。」
「それは無理よ。だってあなたは今、『夢』を導き出すための『記憶』を手に入れたばっかりなのよ。これから消えない『記憶』があなたの『夢』を導き出すんじゃない?とんでもなく大きい『夢』がね。きっと出てくるわ。」
僕は僕でない気がする。とても。それは、日常的なことだ。
だが、受け入れなければならない気がしていた。
「さて、素晴らしい引越し作業だったわ。あなたに感謝しなきゃ。絶対に忘れることなんてできない。私も自分の夢を以前より強固なものにすることができたし。今回はあなたに依頼した意識がないことと、私達プロがマユミさんを見抜けなかったのだから料金はいらないわ。ただ、あなたの『夢』がはっきりしたら、また私のところに来てね。絶対に壊れない強い『夢』にして差し上げるから。」
支店長は僕の眼を見つめ、微笑んだ。
そして僕に向かってゆっくりと手を差し伸べた。
僕は大きく息を吸い込み、支店長の手を握った。
支店長の手はとても温かく、
僕に特別な力を注いでくれたように感じた。
「いってらっしゃい。」