
経済小説【迂路の果て】(連載統合版)
迂路の果て
あらすじ
正しい答えは、最初から見えていた。それでも、誰も選べなかった——。
矢代直哉の引き出しには、「未提出」の付箋が貼られた封筒——更生手続開始申立書のドラフトが眠る。日付の欄は一年間、空白のままだった。企業再建のプロが五兆円企業・帝央電機で掘り当てたのは、底の見えない二層構造の会計不正。最善手は会社更生法だと分かっていた。だが九十歳の創業者は「俺の城を、裁判所に渡せるか」と拒み、法的整理を避けるために招いた海外アクティビスト連合は議決権三四%を握った。妻には何も話せず、娘は父の会社と「倒産」を並べて検索する。迂路の果てに残るものは何か。
企業法務のリアルで描く、敗北と再生の物語。「おかえり」の一言にたどり着くまで。
第1話 未提出
誰もいないフロアに、冬の光が斜めに差していた。
矢代直哉は自分のデスクに座っていた。パーティションの向こうに人の気配はなく、キーボードを叩く音も内線の音もしない。壁の時計は午後3時を少し過ぎている。帝央電機ホールディングスの本社ビル12階、業務改革本部。15人が座っていたフロアに、今は矢代1人だった。
フロアの奥の窓からは、大手町の街が見える。オフィスビルが高さを競い合い、その谷間をタクシーの列がゆっくりと流れている。銀座方向の空は淀んだように薄く曇っていた。矢代が着任した2年前も冬だった。このフロアも人で溢れていて、年度末の業務改革の成果を巡る議論が昼夜交わされていた。その声が、今はどこにもない。
デスクの引き出しを開けた。底に茶封筒がある。付箋が1枚、貼ってある。
「未提出」
矢代は封筒を手に取った。中身は確認するまでもない。更生手続開始申立書のドラフト。東京地方裁判所民事第20部宛て。日付の欄は空白のままだった。封筒は薄くても、矢代の手の中で、思ったより重い。この1年、何度も持ち上げ、何度も引き出しに戻した。
壁に、額装された文字がある。創業者の座右の銘だ。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
この1年、あの言葉に翻弄された。しかし矢代が最後に守ったのも——
封筒をデスクの上に置いた。正解は最初から見えていた。最初に見えていた正解は、最後まで正しかった。ただ、自分はそれを選び切れなかった。
この1年で、何を間違えたのか。
1年前。令和6年の暮れ。
矢代が帝央電機ホールディングスに入社して、まもなく1年が経とうとしていた。
大手町の本社ビルは築20年で、ロビーの大理石には細かい罅が入り始めている。だが建物の古さよりも、矢代が気になるのは静けさだった。連結売上高5兆円、グループ従業員10万人超の企業にしては、人の動きに覇気がない。誰もが端末に向かって黙々とキーボードを叩き、声を上げて議論する人間がいない。
外資系コンサルティングファームから転じて執行役業務改革本部長に就いた矢代にとって、この静けさは奇妙だった。前職では朝から怒号に近い声が飛び交い、会議室のホワイトボードは書き殴られた数字で埋まっていた。
矢代はコンサル時代、15年間で延べ20社の再建に携わった。その多くは赤字部門の構造改革だった。流通子会社の統廃合、営業所の集約、製造工場の閉鎖。「この部門は創業者の代から続く事業です」「この工場はこの地域の雇用を支えています」。そうした異議の1つ1つに、矢代は根気強く数字を見せた。相手が納得するのを待たず、むしろ相手が惨事に気づく前に決定を実行することもあった。それが再建実務家の仕事だ。
古賀から声がかかったのは、入社の数ヶ月前だった。帝央電機がヴェクトラ・システムズとの経営統合後、PMI——経営統合後の組織・業務の統合作業が難航しているという話だった。ヴェクトラはもともと海外コンピュータメーカーの日本法人が母体で、独自開発のERPパッケージと産業用IoT基盤技術で成長した企業だ。帝央電機とは企業文化も管理体制もまるで違う。「外から来た人間の目が要る」と古賀は言った。矢代は迷わなかった。コンサルとして外から数字を見るのではなく、中に入って動かす——それは矢代が長く望んでいた仕事の形だった。
だが帝央電機に来て3ヶ月もしないうちに、矢代は気づいた。この会社は、自分が以前に見た企業たちとは異なる何かを抱えている。統合の齟齬だけでは説明のつかない、より根の深い静けさだ。
ここでは経営会議の資料すら、事前に回覧されて静かに承認される。反対意見が出ない。出たとしても、すぐに引っ込む。再建の現場では、反対意見が飛び出すのが常だ。「こんなことをすれば、現場は潰れます」「顧客との関係がこじれます」。
だが帝央電機ではそういうことが起きない。上が望む方向で、静かに組織が動く。
矢代の直属の部下は15人だが、フロアで声をかけてくる人間はほとんどいない。外資系コンサル出身の執行役。取締役ではない。代表執行役でもない。進言はできるが、取締役会での議決権はない。署名するのは代表執行役CEOの古賀義隆であって、矢代ではない。その微妙な立ち位置を、社員たちは正確に嗅ぎ取っている。
唯一、遠慮なく話しかけてくるのはコンサル時代の同僚で、自分が引き抜いた小野寺だった。
「本部長、経理から戻ってきたデータ、やっぱりおかしいです」
12月の第3週、小野寺が矢代のデスクの横に立った。手にはノートパソコン。画面にはERP——統合基幹業務システムから抽出した原価データのスプレッドシートが開いている。
「どこが」
「第3四半期の原価配賦です。統合前の帝央電機側と、ヴェクトラ側で、同じ仕組みのはずなのに動きが違う。帝央電機側だけ、四半期末に配賦基準が変わっている痕跡があります」
矢代は画面を覗き込んだ。数字の列が並んでいる。経営統合から7年、旧帝央電機と旧ヴェクトラ・システムズのERPを統合した後も、原価管理のロジックには旧2社の痕跡が残っている。そこに、四半期ごとの不自然な振れがあった。
「統合時のPMIの残滓かもしれない」と矢代は言った。
「かもしれません。でも残滓にしては、方向が一定すぎます」
小野寺の指摘は正しかった。矢代もそれは感じていた。数字に何かがある。まだ言語化できない。だが、複数の再建案件を手がけてきた矢代の勘が、そう告げていた。
ERPの画面を閉じて、矢代は窓の外を見た。皇居の緑が見える。風がなく、12月にしては穏やかな午後だった。
入社して1年になる。統合前は連結売上高3兆円だった帝央電機が、ヴェクトラを呑み込んで5兆円になった。しかし規模が膨らんだ分だけ、組織の継ぎ目に齟齬が生まれている——古賀はそう説明した。矢代が外から見た帝央電機は、戦後の創業者が一代で築いた名門企業グループだった。半導体、産業機械、情報通信。技術力に定評があり、株価も安定していた。
だが中に入ってみると、見えるものが変わった。
古賀CEOは67歳、高卒で入社して49年。創業者の御子柴剛造に直接見出された人間で、社員の名前をよく覚えていた。茨城の工場を訪問するたびに、作業員と言葉を交わす。面倒見がいい。部下に慕われている。
しかし矢代が着任して最初に受け取った経営会議の資料は、古賀の方針を裏付けるために作られたものだった。結論が先にあり、数字がそれに合わせて並んでいる。前職で見てきた企業のいくつかと同じ匂いがした。上が望む答えを下が作る。下が望まない数字は上に届かない。
それだけなら、どの大企業にもある話だ。矢代が引っかかっているのは、もっと底の深い何かだった。
12階の一角に、額装された文字がある。矢代は入社初日にそれを見た。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
武田信玄の言葉だ。創業者の御子柴剛造は信玄に心酔し、この一節を座右の銘としていた。社員が説明してくれた。剛造は城を持たなかった信玄の統治に自らを重ね、制度ではなく人を信じる経営を貫いた。ルールで縛るのではなく、1人ひとりの自律に委ねる。創業者がラジオ屋向けの電子部品商から始めて5兆円企業を育て上げた哲学だと。
矢代はその言葉を読んで、何も言わなかった。再建の現場で何度も見てきた。成功した創業者が掲げた言葉が、巨大化した組織で別の意味を帯びていく。「人を信じる」が「統制を嫌う」に変わり、「情けは味方」が「身内の問題には目をつぶる」に変わる。
それがこの会社でも起きているのかどうか、矢代にはまだ分からなかった。ただ、数字の動きが妙だった。原価配賦の振れだけではない。営業利益の季節変動、子会社間の取引価格、連結調整の推移。どれも単体で見れば説明がつく。しかし全体を並べると、ある方向に揃いすぎている。
12月の中旬、年末の忙しさが本格化する前の夕方。矢代は自室にこもって、数四半期分の連結決算資料を広げていた。その間、リビングでは別の世界が動いていた。聡子は中学1年生の莉子に数学を教え、紬は塾の冬期講習の準備をしていた。鉛筆の音。聡子の淡々とした説明。莉子の「はい」という返事。それは父親には聞こえない世界だった。
その頃、莉子が学校を休んだ日があった。
帰宅すると、リビングのテーブルに聡子のメモが置いてあった。達筆な字で、簡潔に。「莉子、腹痛で欠席。午後から寝ている。紬はサッカー、5時に迎え。夕食はカレー」。矢代がそのメモを読んだのは、帰宅して40分後だった。その間に聡子は、莉子のために消化の良いおかゆを作り、冷蔵庫の一角に置いていた。メモの下には、小さい字で「温めて食べさせてください」と記されていた。矢代はその字を見て、何か言おうと思った。でも何も言わなかった。
矢代は廊下を歩いて、莉子の部屋の前に立った。薄い明かりがドアの下から漏れている。起きているのだろう。ノックしようとして、手を止めた。
何を言えばいいのか分からなかった。「大丈夫か」と聞けば、莉子は「大丈夫」と答えるだろう。13歳の娘は、もう父親に本当のことを言わない年齢になっている。中学に上がってから、莉子は矢代と目を合わせる時間が短くなった。桜葉中学校——聡子が選び、矢代も同意した女子御三家の中高一貫校に通っている。成績は悪くないと聞いている。聞いている、という程度にしか知らない。
矢代は手を下ろし、寝室に戻った。
かつて、ある再建先の社長に言ったことがある。「会社を立て直すのは、家庭を立て直すより簡単です。数字は嘘をつきますが、嘘のつき方に法則がある。人間の感情には法則がない」。社長は苦笑していた。矢代自身はその言葉を、冗談のつもりで言った。今は冗談に聞こえない。
1月6日、正月休みが明けた朝。
矢代が寝室から出たのは、朝の光がカーテンを通して白く落ちている時間だった。6時過ぎ。いつもより遅い。眠れぬまま夜中を過ごし、疲労感に任せて数時間の眠りに落ちたのだろう。寝ぼけた頭を振りながら、洗面台に向かった。鏡に映った自分の顔は、1週間前より明らかに痩せて見える。あるいは、寝不足の影響かもしれない。
リビングに朝食の匂いがしていた。聡子がトーストとスクランブルエッグを並べている。火を止める直前にバターを落とす手際は、毎朝同じだった。ガスコンロの炎の色も、卵の焼き具合も、何もかもが予定通りに進む。その予定通りという安定感が、矢代にはいくらか重く感じられた。何かが動きながら、何もが動いていない。その矛盾の中に自分がいるのだという自覚。
紬がテーブルについていた。日焼けした短髪の9歳。冬休みもサッカーの練習に行っていたから、頬が赤い。靴下の片方が脱げかけている。こんなことで気になることか、と自分に言い聞かせながら、矢代は視線を落とした。
「お父さん、今年はお正月どこにも行かなかったね」
紬が言った。トーストを齧りながら、特に責める調子でもなく、ただ事実として。その事実の指摘の正確さに、矢代は答え方に困った。
矢代は答えに詰まった。年末年始、矢代は自室のデスクにこもって資料を読んでいた。聡子は何度か初詣に促したが、矢代は毎回「今は忙しい」と答えた。嘘ではない。本当に忙しかった。
「来年は行こう」と矢代は言った。
紬は「うん」と言って牛乳を飲んだ。聡子は何も言わなかった。シンクに向かって食器を洗っている。背中だけが見えている。背中の線が、いつもより硬かった。
莉子はまだ起きてこなかった。
聡子が振り向いた。「今日は何時?」
「分からない。遅くなると思う」
「そう」
それだけだった。聡子はいつもそうだ。追及しない。問い詰めない。ただ静かに、事実だけを確認する。矢代は時々、聡子が何を考えているのか分からなくなる。法曹一家で育った女性だ。父親の峰岸宏達は大手法律事務所のパートナー弁護士で、食卓では常に論理的な会話が交わされる家庭だったと聞いている。聡子は感情を論理で包む。怒っているときほど声が静かになり、言葉が正確になる。
今朝の聡子は、怒ってはいなかった。ただ、待っている。何かを。
紬が「行ってきます」と玄関に向かった。港区立の公立小学校は白金台から歩いて10分ほどだ。矢代も鞄を持って立ち上がった。三田線で大手町まで20分。
玄関で靴を履いていると、莉子の部屋のドアが開く気配がした。振り返ると、廊下の奥で莉子がパジャマ姿のまま立っていた。腰までの長い髪が片方の肩に流れている。逆光で表情は読めなかったが、立ち姿の輪郭が聡子に重なった。目が合った。
「行ってくる」と矢代は言った。
莉子は小さく頷いた。何か言いかけて、やめた。矢代はそのまま玄関を出た。
1月の最初の週、矢代は古賀に呼ばれた。
CEOの執務室は15階にある。秘書に案内されて入ると、古賀は革張りのソファに深く座っていた。ネクタイを少し緩めている。デスクの上には年始の挨拶状が山のように積まれていた。
「矢代君、正月休みは取れたかね」
「はい、おかげさまで」
嘘だった。古賀も分かっているだろう。
「今年は忙しくなる。3月決算に向けて、統合の仕上げをやらなきゃならん」
古賀は穏やかな声で言った。この人は、声の調子を変えない。良いニュースも悪いニュースも、同じトーンで話す。矢代はそれが古賀の強みであり、同時に危険な特質だと感じていた。声の調子が変わらないから、周囲が問題の深刻さを測れない。
「統合の仕上げ、というのは具体的には」
「PMIの最終段階だよ。ヴェクトラ側の管理体制を、うちに完全に合わせる。ERPはもう統合してあるし、IoT基盤のほうも茨城の工場で使い始めている。だが運用ルールがまだ揃っていないところがある」
矢代は頷いた。運用ルールの不統一は事実だ。しかし矢代が気になっているのはルールの不統一ではなく、統一されたはずのERPの中で起きている不自然な数字の動きだった。
「古賀さん、1つ確認させてください」
「なんだ」
「経理部門の決算プロセスについて、もう少し詳しく見たいと思っています。統合後の原価配賦のロジックに、少し気になる点があります」
古賀の表情は変わらなかった。コーヒーカップを手に取り、1口飲んだ。カップはペアテーブルウェアの古い磁器で、高級なものではなく、どちらかといえばくたびれた印象だった。古賀らしい選択だ。新しいものより、使い込まれたものを好む。
「経理のことなら志村に聞いてくれ。あいつが全部分かっている」
志村恒一。執行役CFO。48歳。副社長の御子柴啓介と高校時代からの盟友で、大学を首席で卒業した秀才だと聞いている。矢代はまだ志村と踏み込んだ話をしていなかった。着任して1年、志村は矢代に対して丁寧だが、距離を置いている。矢代が外部から来た人間であること。数字の細部に首を突っ込もうとしていること。そうしたことを志村は察しているのだろう。
「志村さんには個別にお時間をいただきます」
「うん、そうしてくれ。志村は気難しいところがあるが、数字のことは任せておけばいい」
古賀はそう言って、話題を変えた。茨城工場の設備更新の話。新年度の人事異動の話。いつもの古賀だった。現場の話になると生き生きする。
「矢代君、茨城に行ったことはあるかね」
「いえ、まだです」
「そうか。一度見に来てくれ。宮田班長のセラミック軸受けの開発が面白い。あれは本当に、この会社の技術力の象徴なんだ。旧帝央電機の時代から40年、同じ工場で研究し続けた結果だ。ヴェクトラとの統合後も、宮田たちは諦めなかった。公差を1000分の1ミリメートルまで詰める仕事。機械では無理で、手と目と勘でやっている。そういう技術が——」
古賀は言葉を切った。矢代を見つめて。
「——この会社にはある。多くある。世の中が何と言おうと、我々は何十年もそれを積み重ねてきた。だから大丈夫だ。統合の痛みは一時的なものだ。本業は生きている」
その目は、確実に光っていた。愛情を湛えた、強い光。矢代はそれを見て、何かが胸に詰まった。
この人は本当に、自分の会社を愛している。その愛は本物だ。なのに、なぜ数字を見ないのか。あるいは、見えていても名前をつけないのか。
矢代は古賀の執務室に来るたびに、この矛盾に直面する。古賀の言葉は真実だ。セラミック軸受けは本当に素晴らしい技術なのだろう。茨城の工場には、マニュアルに載らない知識と技能が、幾世代にもわたって蓄積されている。それは、誰かが意図的に隠そうとしている何か——数字の違和感——とは別の層の話だ。
矢代は古賀の執務室を出た。廊下に出ると、正午過ぎの光が窓から斜めに差し込んでいた。北側のビジネス街。建設中のビルが視界の端にあり、パイル打ちの音が遠く聞こえている。矢代は廊下をゆっくり歩いた。歩きながら、古賀の言葉を反芻している。「本業は生きている」。しかし存在しているだけでは、数字は救われない。
エレベーターホールに着いた。壁に額装された創業者の座右の銘がある。15階のものは、12階のものより額縁が立派だった。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
矢代はその文字をしばらく見つめてから、エレベーターのボタンを押した。美しい言葉だ。しかし再建とは、多くの場合、創業者の言葉を疑うことから始まる。それは矢代がコンサル時代に学んだ、最初の教訓だった。エレベーターが閉じた。矢代は12階に向かった。
その週の金曜日の夜、矢代は銀座にいた。
並木通りから1本入った雑居ビルの4階。「ファーム」という看板は出ていない。エレベーターを降りると、重い木のドアがあり、その向こうに薄暗いカウンターがある。席は12。奥に個室が2つ。カウンターの端の棚に、戦前の古い算盤がひとつ置いてある。店の前身が何なのか、矢代は知らない。
高瀬冴子がカウンターの中に立っていた。49歳。30代前半で独立してこの店を開いた。矢代がファームに通い始めたのは前職のコンサル時代からで、もう8年になる。冴子の過去について、矢代はあまり知らない。実家が商売をしていて潰れたことがある、とだけ聞いたことがある。経営者や銀行員を相手に商売をしてきた女だけに、数字と人を見る目は鋭かった。
「あけましておめでとう」
冴子がおしぼりを差し出しながら言った。
「おめでとう」
矢代はカウンターに座った。他に客は2人。奥の席で静かに飲んでいる。矢代の顔を見て軽く会釈したが、話しかけてはこなかった。銀座のこの手の店では、客同士が干渉しないのが作法だ。音楽も出ていない。ただ、グラスにウイスキーが注がれる音。氷が溶ける音。そうしたものが聞こえるだけ。
冴子が水割りを作り始めた。矢代の好みを覚えている。角瓶のハイボールではなく、バランタインの水割り。氷は2つ。手際よく、新しいグラスに氷を入れ、バランタイン・ファイネストを注ぎ、ミネラルウォーターを足す。氷が音を立てる。その音は毎回同じだ。矢代の目の前に置かれたグラスは、常に一定の温度を保つ。冴子の仕事は完璧だ。
「正月、暇だったでしょう」と冴子が言った。
「忙しかった」
「仕事で?」
「資料を読んでいた」
「お正月に?」
矢代は水割りを受け取って、1口飲んだ。喉を通る冷たさが気持ちいい。バランタインの香り。ミネラルウォーターの淡白さ。毎回同じ味だ。ファームでは、矢代は少し砕けた口調になる。会社では執行役として、家では夫として父として、それぞれの言葉を使い分けているが、ここではその境界が曖昧になる。ここだけが、そういう場所だ。
「今年は長い1年になる」
矢代は言った。家では言えなかった一言が、ここでは自然に出た。
冴子はグラスを磨きながら、矢代の顔を見た。その目は、矢代の内面を覗き込もうとしている。長年、経営者たちを相手に商売をしてきた女の目だ。「去年もそう言ってたわよ」
「去年と今年は違う」
「どう違うの」
矢代は答えなかった。守秘義務の問題ではない。まだ言葉にできなかった。正体不明の数字の違和感。小野寺が見つけた配賦基準の不自然さ。古賀の強すぎる光。そうしたものが、まだ矢代の中で言語化されていない。
冴子はグラスを1枚、カウンターに置いた。その動作は何の無駄もない。新しいグラスを丁寧に磨く。その手の動きを見ていると、矢代は自分が何も言う必要のない場所にいることを感じる。
「顔が険しいわよ」と冴子が言った。「去年とは違う顔してる」
矢代は何も言わなかった。冴子はそれ以上踏み込まなかった。この店ではそれが作法だった。客が話したいときに話す。話さないときは黙って水割りを作る。
「今度、娘さんの話聞かせてよ」と冴子が言った。「前に写真見せてくれたきり」
「莉子は——」
矢代は莉子の名前を口にして、止まった。腹痛で学校を休んだ日のことを思い出していた。パジャマ姿で廊下に立っていた莉子の顔。何か言いかけて、やめた顔。あの静寂。
「どうしたの」
「いや、元気だよ。中学校に通っている」
「下の子は? サッカーやってるって言ってたわね」
「紬は元気だ。日焼けしてる」
冴子は笑った。矢代も少し笑った。この店にいるときだけ、笑えるような気がする。冴子が何かを言わない。追求しない。ただ、矢代の言葉を受け入れる。それが、この店の空気だ。
2杯目の水割りを飲み終わって、矢代は店を出た。並木通りの夜風が肌を刺す。ビル群の谷間から吹いてくる冷気だ。タクシーを拾って白金台に向かう。
深夜のタクシーの中で、矢代は携帯電話の画面を見た。聡子からのメッセージが1件。「莉子、明日も学校休みたいと言っている。どうする?」
矢代は返信を打った。「聡子に任せる」。その言葉を見て、手を止めた。任せる。いつもそう言っている。莉子のことは聡子に任せる。紬の塾のことも聡子に任せる。家のことは全部、聡子に任せる。画面の上で親指が止まった。何か付け加えるべき言葉がある気がした。「莉子はどうしているのか」「今日は何があったのか」「大丈夫か」。そうした言葉が浮かんだ。しかし指は動かなかった。送信ボタンを押して、画面を閉じた。タクシーの窓越しに、東京タワーが見えた。
タクシーが白金台のマンションの前に停まった。築15年の4LDK。コンサル時代の収入で頭金を入れ、帝央電機の報酬でローンを返している。エントランスを通って、エレベーターで7階に上がる。鍵を開けると、リビングの明かりは消えていた。聡子と娘たちは寝ている。
廊下を歩いて、莉子の部屋の前を通り過ぎた。ドアの下に明かりは見えない。眠っているのだろう。矢代は立ち止まらなかった。
自室のデスクに向かい、ノートパソコンを開いた。小野寺から送られてきた原価データの分析ファイルが届いている。午前1時。矢代はファイルを開き、数字の列を眺め始めた。
背後から、聡子の気配はない。リビングの明かりも消えていたはずだ。誰もが寝ている。家の中は矢代1人のものだ。そのことが、今は幾分か気が楽だった。デスクのスタンドだけが点いている。狭い机の上に、2つのモニター。その画面に反射した矢代の顔が見える。瞳に疲労の色が濃い。
ERP システムから抽出された原価配賦データ。複数の四半期にまたがる連続した数値。同じパターンが繰り返されている。四半期末。月末。その節目ごとに、配賦基準が変わっている。痕跡を消すために変わっているのではなく、意図的に配賦基準そのものを操作している。数字の流れが示しているのは、1つの構造だ。その構造が何を意図しているのか、まだ矢代には分からない。
指でキーボードをタップする音が、自室に響く。その音は外の夜の静寂に吸い込まれる。窓の向こうは、港区の夜景だ。マンションの向かいの建物の窓々から、まばらな光が漏れている。この時間に起きている人たち。矢代と同じように、この時間に何かを見つめている人たち。そういう人間が、この街には何人もいるはずだ。
何かがある。まだ見えていない。しかし、もうすぐ見えるだろう。
年が明けて、令和7年。帝央電機ホールディングスの連結決算期末まで、あと3ヶ月だった。
残現金:約2,500億円/株価:1,840円/時価総額 約1.84兆円/銀行団の姿勢:通常対応/家庭:表面上は平穏、しかし沈黙の予兆
第2話 二層
1月の第3週、矢代は関口達也に会った。
中央あおば監査法人の帝央電機担当パートナーである。50歳。旧中央監査法人の時代から帝央電機を担当してきた。会議室に入ってきた関口は、矢代の顔を見てわずかに表情を引き締めた。半年前の挨拶では「矢代さんが入って、会社が変わるといいですね」と社交辞令を言っていた男に、今日その余裕はなかった。
「期中監査の過程で、いくつか確認したいことがあります」
関口はそう切り出した。席についたのは関口の他に、業務執行社員がもう1人。旧あおば側から来た人間で、矢代とは初対面だった。挨拶は最小限で、すぐに本題に入った。
「原価配賦の基準変更について、経理部門から十分な説明が得られていません。統合後のERPにおける配賦ロジックの変更が、四半期ごとに複数回行われている。その根拠となる稟議書が一部欠落しています」
矢代は黙って聞いていた。小野寺と見ていたデータの裏付けが、監査法人の側からも出てきたということだ。
「矢代さんにお伝えしておきたいのは」と関口が声を低くした。「これ以上の意見不表明は、我々のリスクになるということです」
意見不表明。監査法人が決算の適正性について判断を留保する、という意味だ。前期の決算では、関口は「限定付適正意見」で踏みとどまった。しかし今期はそれが持たない、と関口は言っている。
「旧中央監査法人時代の対応について、詳しく聞かせてもらえますか」
矢代は慎重に切り出した。関口の顔が一瞬、青くなった。
「その——よろしいですか。旧中央とあおばの合併の背景をご存知ですか」
関口は説明を始めた。三年前の合併は、上場会社等監査人登録制度への対応が目的だった。旧あおば側が持ち込んだ品質管理体制——旧中央にはなかった「異議申し立て」の仕組み——に、合併後の法人は依存している。旧中央時代のやり方では、もう通用しない。
「この会社については」と関口が続けた。「旧中央時代、私が判断の責任を持っていました。売上の前倒し計上、開発費の資産計上——これらは、その時々の業績圧力に対する『対応』として、経営層の要望に応じて監査意見の形で処理されていた。不正とは明確に言えない領域で、しかし——」
関口は言葉を止めた。旧あおば側の業務執行社員が、促すように関口を見ていた。
「現在の品質管理委員会は、当時のような『パートナー裁量』を認めません。それが合併の意味だと、正直に言えば、旧あおば側は強く主張しています」
「具体的にはどのレベルの話ですか」
「2つの層があります」
関口は手元の資料を開いた。
「1つ目は、統合前からの帝央電機の問題です。売上の前倒し計上、開発費の不正資産計上、子会社への簿外保証。これらは旧中央監査法人の時代から——率直に言えば、パートナーの裁量の範囲で処理されてきたものです」
矢代は関口の顔を見た。関口は自分の前任者たち——あるいは自分自身が——見逃してきたものを、今、口にしている。その重さを関口自身が分かっているのだろう、声に苦みがあった。
「過年度修正をするとしたら、規模は」
関口はためらった。それから数字を言った。
「売上の前倒し計上で150億。開発費の資産計上で200億。簿外保証の引き当て、その他を合わせて100億前後。合計で400から500億円の過年度修正が必要になると見ています」
400から500億。矢代の脳裏に、帝央電機の直近の連結決算が浮かぶ。自己資本は約1兆6,000億円。しかしそのうち1兆円は、ヴェクトラ統合で計上したのれんだ。のれんを除いた実質の自己資本は6,000億円しかない。500億が吹き飛べば、実質の1割近くが消える。そしてのれんの前提が崩れれば——消えるのは500億では済まない。
「2つ目は、統合後に発生したものです。ERPの原価配賦ロジックを悪用した損失の付け替え。統合シナジーの過大計上。これは旧来型とは質が違う。仕組みを使った不正です」
二層構造。旧来型の不正と、統合後の新種の不正。矢代の脳裏に、小野寺が見せたスプレッドシートの数字が浮かんだ。4半期末ごとに配賦基準が変わっていた理由が、これで分かった。損失を隠すために、ERPの仕組みを逆手に取っていたのだ。
「金額の規模は」
「旧来型が400から500億。統合後の分が、まだ見えていない。我々の品質管理委員会は、これ以上パートナー個人の判断で処理することを認めません」
旧あおば側の業務執行社員が、初めて口を開いた。「合併前の中央監査法人であれば、こうした問題はパートナーの裁量に委ねられていたかもしれません。しかし合併後の体制では、組織的な審査を経ない意見は出せません」
関口は何も言わなかった。
「関口さん、率直に聞きます。今期の監査意見は出せますか」
「監査意見を出すためには、会社が過年度の修正に着手する必要があります。現状のままでは、意見を出せない」
「意見不表明になれば」
「上場廃止の審査入りです」
会議室を出た矢代は、エレベーターホールで立ち止まった。窓の外は曇っていた。午後3時。冬の太陽がビルの谷間に隠れている。
二層構造。矢代は歩きながら考えた。1つ目の層だけなら、規模は限定的だ。過年度の修正と経営刷新で対応できる。しかし2つ目の層——ERPを悪用した新種の不正——が上乗せされることで、損失の全容が見えなくなる。400から500億という数字は、氷山の一角に過ぎないかもしれない。その「底が見えない」という事実が、あらゆる判断を狂わせる。
翌日、矢代は志村恒一に会いに行った。
CFOの執務室は13階にある。天井に埋め込まれた複数のスクリーンが、経営情報を映していた。株価。通貨レート。各工場の稼働率のリアルタイムデータ。矢代が入ると、志村は画面に向かったまま5秒ほど待たせてから、「どうぞ」と言った。それは意図的な待たせ方だった。相手の立場を確認し、落ち着かせ、均衡を保つための——矢代はそう読んだ。
志村は矢代より3歳年上の48歳だが、見た目はさらに上に見える。痩せていて、眼鏡の奥の目が鋭い。肌は白く、身体は緊張している。顔には疲労の線が刻まれている。副社長の御子柴啓介とは附属高校の同期で、大学を首席で卒業した。外資系金融の内定を蹴って帝央電機に入ったのは、創業者の剛造に「数字が分かる若い人間が要る」と乞われたからだと聞いている。
志村という人物は、本来なら一流投資銀行のパートナーになっていたはずの人間だ。なぜこの会社に留まっているのか——矢代はそれを考えたことがあるが、答えは出ていない。
「関口さんから話を聞きました」と矢代は言った。
志村の目が動いた。一瞬だけ、矢代の顔を正面から見た。それからまた画面に視線を戻した。
「何を聞いたんですか」
声は無表情だった。感情を排除した音だけ。
「原価配賦の問題です。統合前と統合後の二層構造について」
志村は椅子の背にもたれた。
「配賦の話であれば、経理部長の増田に聞いたほうが正確だと思います。実務は増田がやっていますので」
「志村さんに聞いています」
沈黙が落ちた。志村は矢代を見た。
「矢代さん、あなたはコンサル出身だから、数字を見ればある程度のことは分かるんでしょう。でもこの会社の数字は——少なくとも外から見ただけでは、おそらく分からないと思いますよ」
「中から見せてもらいたいから、ここにいます」
志村は薄く笑った。その笑みは皮肉に満ちていた。
「旧来型の話は——まあ、名誉会長の時代から、うちの経理はそういうものだったと言っていいと思います。増田が1番知っている。聞けば、おそらく答えるでしょう。あの人は善人ですから」
善人。志村の口調には苦みがあった。
「統合後の話は」
志村の指が止まった。
「統合後の話は、また別だと思っています」
「どう別なんですか」
志村は答えなかった。画面のグラフに視線を落とした。
「底は、正直に言って、僕にも見えていない」
経理部長の増田誠一は、志村とは対照的に穏やかな人物だった。50代後半、温和な顔をしている。すぐに応じるような、どこか謙虚な雰囲気を持っている。矢代が業務改革本部の会議室に呼ぶと、素直にやってきた。特に躊躇もなく、抵抗もなく。
矢代は小野寺と3人で、原価配賦のデータを広げた。増田は資料を見て、しばらく黙っていた。その沈黙は、自分が見ているものの重さを計っているような沈黙だった。
「これは、名誉会長の時代からのことです」
増田は静かに言った。声には、一種の諦観があった。
「旧来型の部分ですね」
「はい。売上の前倒しは、4半期末に営業部門から依頼が来ます。『今期はどうしても』という話が。開発費の資産計上も、技術部門と経理の間で長年の慣行がありました。原価の付け替えも同様です。いずれも、志村——CFOの指示で動いています」
増田の口調に自己弁護の響きはなかった。構造そのものを客観視しているようだった。
「名誉会長は知っていたんですか」
「名誉会長が細かい数字を見ることはありません。ただ、古賀社長に対して常に業績を求めていました。『今年はいくら稼ぐのか』『目標を超えろ』という世界の人です。そうした環境の中で、古賀社長が志村に言い、志村が経理に下ろす。そういう構造が、自然と出来上がっていったんだと思います」
増田はそこで1度、矢代の顔を見た。何かを確かめるような目だった。矢代は黙って頷いた。増田は小さく息を吐いた。
「増田さん、統合後の問題については」
増田の表情が変わった。穏やかさの奥に、困惑と、もう1つ別の感情——恐怖に近いものが、浮かびあがった。
「統合後のことは——正直に申し上げて、私には全容が分かりません。ERPの配賦ロジックが変更されていることは知っています。しかし、なぜそうなっているのかは、経理部の中でも一部の人間しか知らない」
「誰が知っているんですか」 「志村です。あとは、統合時にヴェクトラ側から移ってきたシステム担当の何人か。詳細は——」
増田の言葉は途切れた。
「見ようと思えば、見られますか」
増田は矢代の目を見た。明確に、正面から。
「見ようと思ったら、経理部としては見ることができます。ログを追跡することも、修正プロセスを遡ることも。しかし——」
「しかし」
「それをすることは——自分たちが関与していたことを、自分たちで証明することになります」
矢代は小野寺と目を合わせた。
増田が帰った後、小野寺が言った。「本部長、これは——」
「言わなくていい」
矢代は窓に向かって立っていた。皇居の木々が冬枯れている。
「債務超過リスクの試算を始める。過年度修正を全額反映した場合の自己資本の毀損額と、コベナンツへの影響を数字にしよう」
企業再建の現場で矢代が最初に手をつけるのは、いつもこれだった。損益ではない。バランスシートだ。不正による過年度修正がどこまで膨らむか。それを自己資本に当てたとき、何が起きるか。債務超過に転落すれば、コミットメントラインの財務制限条項に抵触する。売上が回っていても、信用が死ねば会社は死ぬ。
矢代は社内調査委員会の設置を古賀に進言した。古賀は少し渋い顔をしたが、「監査法人にそう言われたなら仕方がない」と了承した。調査委員会の設置が決まったことで、TDnetへの適時開示が必要になった。
「不適切な会計処理の疑いに関するお知らせ」
IR担当が文面を作り、法務部門がチェックし、取締役会の承認を経て、TDnetに掲載されたのは1月下旬の金曜日、大引け後だった。矢代は自分のデスクで、掲載の瞬間を見た。
取引時間は終わっている。株価は動かない。しかし情報は動き始めた。
掲載から1分で、社内のメールサーバーに記者クラブからの問い合わせが入り始めた。5分後にはIR担当の電話が鳴り続けていた。10分後、矢代のフロアの空気が変わった。社員たちがスマートフォンの画面に目を落としている。ニュースアプリの速報が出たのだ。一部のメディアは、既に「粉飾の可能性」という文字を使い始めていた。
矢代は報道を見た。記者たちは慎重な言葉遣いをしていたが、その言葉の奥には、最悪のシナリオを想定する警戒があった。株式市場が月曜日の寄り付きをどう受け取るか——その予測はほぼ1つだった。
週末を挟んで、月曜日。寄り付きからストップ安に張り付いた。値がつかない。火曜日も売り気配のまま推移し、午前中にようやく値がついた。水曜日、3営業日で株価は4割下落していた。1,840円から1,100円。時価総額が7,000億円以上消えた。
その間、社内は無言だった。あるのは、スマートフォンの画面を見つめる視線と、エレベーターの中の沈黙だけだった。社員食堂は昼どきなのに人がほとんどいなかった。営業部門には「帝央電機で大丈夫か」という顧客からの問い合わせが殺到していた。
矢代のデスクに内線が入った。梶原俊彦。帝都銀行常務。メインバンクの担当である。
「矢代さん、状況は把握しています」
梶原の声は温度がなかった。事実を伝えるための声だった。矢代はこれまでのキャリアの中で、何度もこの温度を聞いている。銀行が「注視」から「懸念」に切り替わる瞬間の、その冷たい声だ。
「今後の推移によっては、コミットメントラインについて改めてご相談させていただくことになるかもしれません」
CL——コミットメントライン。帝都銀行が主幹事を務めるシンジケート方式の3,000億円の融資枠。コロナ禍以来、約500億円を利用中だ。CLにはコベナンツ——財務制限条項がある。純資産維持条項に抵触すれば、期限の利益を喪失する。債務超過はその最も明白なトリガーだった。梶原は「凍結する」とは言わなかった。「ご相談」と言った。しかし矢代には、その言葉の温度が分かった。それは経営判断ではなく、決定だ。銀行とて、放射性物質の上に立つ融資をしてはいられない。
梶原は続けた。「6行で構成するシンジケートの意思確認をさせていただく必要があります。矢代さんの見通しについて、詳しくお話し願えますか」
6行のシンジケート。帝都銀行が主幹事として2割を持ち、残りをメガバンクと準大手が分け合っている。信用供与の決定は6行の合意による。1行でも「凍結」と言えば、全体のコミットメントは凍結される。
「承知しました。状況が整理でき次第、ご説明の場を設けさせてください」
「できれば今週中に」
梶原は言った。
「承知しました」
電話を切った後、矢代は画面の株価を見た。1,100円。先週まで1,840円だった数字が、1,100円になっている。数字が変わっただけだ。しかしこの数字の向こうに、何万人という株主がいる。年金基金がある。個人投資家がいる。その人たちの資産が、3日で4割消えた。その向こうで、誰かが悲鳴を上げているはずだ。
矢代は小野寺に電話を入れた。「試算を急ごう。梶原が6行協調融資の再検討を始めている。数字がなければ、対応のしようがない」
深夜、矢代はエクセルの前に座っていた。小野寺との共同作業。帝央電機の連結決算をベースに、400億から500億の過年度修正を当てる。その修正額には、監査法人が「見えていない」第2層の不正が含まれていない。含まれていないから、この試算は「楽観的シナリオ」だ。矢代はそれを分かっていた。しかし数字にしなければ、銀行には何も伝わらない。
監査委員会の吉岡委員長には、矢代は直接報告に行った。社外取締役の吉岡信彦は元大学教授で71歳。矢代が社内調査委員会の設置と適時開示の経緯を説明すると、吉岡は腕を組んで黙っていた。その沈黙は、かなり長かった。
「それは執行側の仕事でしょう」
吉岡はそう言った。責任を避けているのではない。自分の領分を、頑なに守っているのだ。
「監査委員会としての対応をお願いしたいのですが」
「私は学識経験者として招かれています。実務的な対応は執行役の皆さんにお任せします」
矢代は部屋を出た。廊下で、もう1人の監査委員である笹本久美とすれ違った。笹本は50代の弁護士で、社外取締役の中で最も若く、実務能力が高いと矢代は見ていた。
「矢代さん」
笹本が足を止めた。
「議事録に残しておきます。私が監査委員会で発言した内容は、すべて記録に残します」
矢代は頷いた。笹本は委員長を差し置いて動けない立場にある。だからせめて、記録を残す。その記録が、後の何かの判断基準になるかもしれない。弁護士としての、一種の防御的な配慮だ。
副社長の御子柴啓介が、矢代に連絡を取ってきたのはその週の終わりだった。
「少し話せますか」
午後9時過ぎ、矢代のオフィスに内線が鳴った。 啓介の声は穏やかだった。48歳。創業者の次男。米国でMBAを取り、外資系投資銀行に3年いた後に帝央電機に入った。社内の叩き上げからは「所詮はボンボン」という視線を向けられているが、矢代は啓介の知性を甘く見てはいなかった。
矢代は啓介と社内のラウンジで会った。夜間営業のラウンジは、この時間ほぼ無人だった。
「矢代さんは、この会社をどう見ていますか」
「見えている範囲でしか答えられません」
「見えている範囲で結構です」
「不正の規模が読めません。旧来型の部分は500億前後。しかし統合後の部分は、まだ底が見えない」
啓介は頷いた。「要するに、こういうことでしょう。監査法人も市場も、この会社の数字を信じていない」
「有利子負債が、のれんを除いた実質自己資本の3倍以上ある。過年度修正でさらに悪化すれば、銀行は融資を引き上げる。そこまでは分かっています」
「矢代さん、1つだけ覚えておいてください」
啓介はコーヒーカップを置いた。
「この会社は、僕の父が作った会社です。それだけは——変わらないんです」
矢代は何も答えなかった。
その夜、矢代は帰宅した。いつもより少し早い、午後10時過ぎだった。
玄関を開くと、莉子のスクールシューズが脱ぎ散らされていた。いつもは靴を揃えて脱ぐ子だ。矢代は莉子の靴下を拾った。
リビングの明かりがついていた。聡子がダイニングテーブルで、何かを読んでいた。矢代が入ると、聡子は顔を上げた。その顔には、矢代を待っていた痕跡があった。
「莉子が学校で聞かれたって」
「何を」
「『お父さんの会社、大丈夫なの』って。同級生に。月曜日の朝、靴箱の前で」
矢代はスーツの上着を脱ぎながら立ち止まった。月曜日。株価がストップ安に張り付いた日の朝だ。
「何て答えたんだ」
「『大丈夫だよ』と答えた。莉子が。その場ではね」
「その後、莉子が『でも大丈夫じゃないんでしょ』って。帰ってきてから、私に」
矢代は着替える手を止めた。
「莉子、何時に寝た」
「7時。学校から帰って、すぐに。晩ご飯も食べなくて」
聡子がテーブルに視線を戻した。その手には、雑誌を持っていた。経済週刊誌だ。『帝央電機 不正の内幕』という見出しが目に入った。聡子はそれを読んでいた。
「大丈夫だよ」と矢代も言った。
聡子は顔を上げなかった。記事のページを繰った。
矢代は着替えに寝室に向かった。廊下を歩きながら、莉子の部屋の前を通った。明かりは消えている。
自室のデスクに向かい、ノートパソコンを開いた。小野寺と作り始めた債務超過リスクの試算ファイルが画面に映った。400から500億の過年度修正。のれんを除いた実質自己資本6,000億の、1割近くが消える。そして第2層の不正が——その規模が——まだ見えていない。
このままなら——矢代は数字を睨みながら考えた。このままなら、自己資本が持たない。銀行のコミットメントラインが凍結される。そうなれば、あらゆる選択肢が——1つだけを除いて——消える。
封筒の中身。未提出のままだ。しかし数字が示す方向は、1つしかなかった。
残現金:約2,500億円/株価:1,100円(▲40%)/時価総額 約1.10兆円/銀行団の姿勢:融資再検討開始/家庭:聡子は待つ。莉子は部屋で目を開けたまま
第3話 債務超過
債務超過リスクの試算が完成したのは、2月の第1週だった。
小野寺と矢代が業務改革本部の会議室に籠もって2週間、社内の各部門から集めたデータを1つずつ数字に落とし込んだ。不正による過年度修正の想定額、のれんの減損リスク、不採算事業の固定資産の減損、繰延税金資産の回収可能性——すべてを自己資本に当てたときに何が起きるか。帝央電機の自己資本は約1兆6,000億円。しかしヴェクトラとの経営統合で膨らんだのれんが1兆円あり、これを除いた実質は6,000億円しかない。不正による過年度修正が1,300億、シナジーの嵩上げが確定すればのれんは大幅な減損を免れず、赤字転落で繰延税金資産の取崩しと不採算事業の減損も迫る。4つの爆弾が同時に炸裂すれば、1兆6,000億の自己資本は丸ごと吹き飛ぶ。
画面にはバランスシートのシミュレーションが3つ並んでいる。楽観シナリオ、基本シナリオ、悲観シナリオ。楽観でも自己資本は半分近くまで減る。基本シナリオで債務超過すれすれ。悲観シナリオでは3月末の決算期末に債務超過に転落する。
「本部長」と小野寺が言った。
矢代は画面を見つめたまま頷いた。
「基本シナリオで、3月末に債務超過すれすれです。悲観シナリオなら転落します。CLのコベナンツに純資産維持条項がある以上、債務超過は期限の利益の喪失事由です」
小野寺の声は平坦だった。コンサル時代から修羅場を一緒に潜ってきた人間だけが出せる、事実を事実として伝えるだけの声だった。
「営業CFは回っている」と矢代は言った。「月に約290億。売上は落ちない。現金が尽きるわけではない。しかし——」
「しかし、債務超過が確定すれば銀行団が動きます」
矢代は画面を閉じた。
「田島先生に連絡を取る」
MN法律事務所は神保町のビルの3階にあった。パートナー四名の小さな事務所だが、壁に並ぶ案件の記録は日本の大型倒産史そのものだった。
田島利男は56歳。企業再建専門のブティック事務所のパートナーだ。大型倒産案件の申立代理人と管財人補佐を数多く務め、東京地裁民事20部——倒産部——との実務上の信頼が厚い。矢代とはコンサル時代に仕事で組んだ旧知だった。
矢代が峰岸——聡子の父親——に相談したのは1月末のことだった。大事務所のパートナー弁護士として企業法務の最前線にいる峰岸は、帝央電機の状況を聞いてこう言った。
「矢代くん、私は法律上この案件に関与できない。顧問先との利益相反がある。それに私が動けば、娘婿の独立性にも疑義が生じる。しかし1つだけ言える。この規模と有利子負債の大きさなら、担保権者も取り込める更生法が最善だ。民事再生では銀行団がばらばらに動く。今すぐ動くなら、まだ傷は浅い」
峰岸は別れ際に田島の名前を出した。矢代はその言葉を持ち帰り、2月に入ってすぐ田島に連絡を取った。
田島はコーヒーを1口飲んで、債務超過シミュレーションのスプレッドシートを指でなぞった。太い指が数字の上を滑っていく。
「3月末に見えますか」
「基本シナリオで債務超過すれすれ。悲観なら転落です。CLのコベナンツが飛びます」
「矢代さん、会社更生法の申立てを検討すべきです。この規模の企業で、不正の底が見えない、銀行団の足並みが揃わない、加えて経営陣が正面から数字に向き合えていない。事業再生ADRでは収まらない」
矢代は頷いた。正解は分かっている。
「手続のスケジュールを教えてください」
田島は手帳を開いた。
「3月に申し立てれば、保全命令と保全管理人の選任が即日。管理処分権が移転します。開始決定と管財人の選任が約1ヶ月。第1回関係人集会が3ヶ月。財産評定と債権調査に6ヶ月。更生計画案の提出が10ヶ月前後。年末には認可に至る可能性が高い」
10ヶ月。3月に申し立てれば年末には終わる。DIPファイナンスで事業を回しながら再建できる。産業用モーターの技術者は残る。茨城工場の炉は動き続ける。
「問題は」と田島が言った。「申立ての委任状には代表執行役の印鑑が必要だということです」
「代表印ですね」
「ええ。矢代さんは執行役ですが、代表執行役ではない。進言はできるが、申し立てはできない」
矢代は頷いた。分かっていたことだった。しかし田島の口から改めて聞くと、権限の壁が一段と高く見えた。
田島が付け加えた。「申立書と委任状のドラフトは、こちらで用意します。矢代さんが持っていてください。古賀さんが代表印を押す気になったときに、すぐ動けるように」
古賀のオフィスは15階の角にある。ドアを開けると、古賀はいつものように窓際に立っていた。皇居の方を見ている。晴れた日は朝と夕方に窓際に立つのが古賀の習慣だった。
「矢代君、何か」
古賀が振り返った。剛造は古賀にとって恩人であると同時に、自分の人生を肯定してくれた唯一の存在だと矢代は理解していた。
矢代は債務超過シミュレーションを古賀に見せた。
「3月末の決算で債務超過に転落する恐れがあります。コベナンツに抵触すればCLが止まります。会社更生法の申立てを進言します」
古賀はシミュレーションを受け取った。ページをめくる手が途中で止まった。2枚目の、債務超過転落の想定日が赤字で印刷されたページだった。古賀はそのページを見たまま、しばらく動かなかった。しかしその目は数字を読んでいなかった。
「名誉会長に何と説明する」
古賀の最初の言葉がそれだった。
事業のことでも、従業員のことでもなかった。
「名誉会長にも直接お話しすべきだと思います。私からお願いします」
古賀は窓に視線を戻した。しばらく黙っていた。
「矢代君、法的整理というのは、裁判所に会社を渡すということだ。49年間——俺がここに入った日から今日まで、この会社は裁判所の世話にならずにやってきた。数字が苦しい時期は何度もあった。しかし自分たちで何とかしてきた」
「今は、自分たちだけでは何とかできない状況です」
古賀は振り返りかけて、やめた。窓に向かったまま言った。
「分かっている。数字が分かっていないわけじゃない」
古賀の声は穏やかだった。しかし、シミュレーションを持つ手の指先が白くなっていた。
「しかし矢代君、あの方にそれを言うのか」
古賀はそこで言葉を切った。天井を仰いだ。それから、声を落として続けた。
「あの方の前に立って、あなたの会社は裁判所に預けたほうがいいと。90歳の創業者に、その言葉を言えるのか」
「言います。私が言います」
長い沈黙が落ちた。古賀は振り返った。矢代の目を見た。矢代は逸らさなかった。
「分かった。名誉会長には——」
古賀は一度口を閉じた。
「矢代君から話してくれ。俺には、言えない」
古賀はそう言って、窓際のソファに座った。シミュレーションの束をテーブルに置く手が、かすかに震えていた。急に小さく見えた。
矢代は部屋を出た。古賀は悪人ではない。名誉会長の期待に応え、取引先と従業員を守るために数字を少し動かした。それが49年間のやり方だった。だからこそ古賀は署名できない。
進言するのは矢代の仕事だ。しかし署名するのは古賀だ。
成城の自宅は、都心から車で40分ほどだった。
2月の日曜日の午前。矢代は前日に秘書室を通して面会を申し入れていた。名誉会長の御子柴剛造。90歳。帝央電機の創業者にして、この会社の文化そのものを作った人間。法的な権限は持たない。しかし古賀も指名委員会も逆らえない。それが現実だった。
門を入ると、手入れの行き届いた庭が広がっていた。冬枯れの枝が青空に突き出ている。紅梅が1本、つぼみを膨らませていた。玄関で出迎えたのは家政婦だった。応接間に通されると、剛造はソファに座っていた。
小柄な老人だった。しかし背筋はまっすぐで、目に力があった。矢代を見ると、かすかに頷いた。
「矢代くんか。古賀から聞いている。数字の話だろう」
剛造の声は思ったより通った。90歳の声ではなかった。
「名誉会長、単刀直入に申し上げます。不正の過年度修正を反映すれば、3月末の決算で債務超過に転落する恐れがあります。銀行団のコミットメントラインが止まります。会社更生法の申立てを検討すべき段階にあります」
剛造は矢代の顔を見つめていた。表情は変わらなかった。テーブルの上に、2人分の湯飲みが置いてある。家政婦が入れたお茶だろう。矢代のものはまだ湯気が立っている。剛造のものは半分ほど減っていた。
長い沈黙があった。庭で鳥が鳴いている。剛造は目を逸らさなかった。矢代も逸らさなかった。
「更生法というのは」
「裁判所の管理の下で、事業を再建する法的手続です。管財人が選任され——」
「俺の会社を裁判所に渡すということだ」
古賀と同じ言葉だった。いや、古賀が剛造の言葉を繰り返していたのだ。49年間、古賀はこの人の言葉を自分の言葉にしてきた。
「事業の一体性は保てます。技術も、従業員も——」
「矢代くん」
剛造が遮った。声は静かだったが、遮る力があった。矢代は口を閉じた。
「俺は戦後、丸焼けの東京で部品屋を始めた。ラジオ屋に真空管を売って歩いた。リヤカーを引いて神田から秋葉原まで部品を運んだ。工場を建てたときは、1人ずつ面接して、1人ずつ名前を覚えた。工員が結婚したら祝い金を出し、子どもが生まれたらうちの名前を入れた製品を持たせた。そうやって、1人ずつ城を積んできた」
剛造は膝の上で手を組んでいた。節くれ立った指が、微かに動いている。
「法廷に会社を持ち込むということは、俺の人生を否定するということだ。俺が作った城を、裁判官に明け渡すということだ」
「名誉会長の人生を否定するつもりはありません。しかし、このままでは——」
「このままなら潰れる、と言いたいんだろう」
剛造は矢代の言葉を手で制した。
「潰れるかもしれん。しかし潰れるにしても、裁判所に預けるんじゃなく、自分たちで処理すべきだ」
「自分たちで処理する時間が、もうないのです」
矢代の声が、自分でも思わなかったほど大きくなった。剛造の目が1瞬細くなった。90歳の老人を前に声を荒らげた自分に、矢代は気づいた。しかし撤回しなかった。
剛造は矢代を見た。90年の時間が積もった目だった。その正当な誇りが、最善の選択肢を閉ざしている。
剛造は湯飲みに手を伸ばし、1口飲んだ。湯飲みをゆっくりと置いた。その間、矢代を見なかった。
「俺は承知しない」
剛造はそう言った。口調は穏やかだったが、撤回の余地はなかった。
矢代は立ち上がった。お辞儀をして、部屋を出た。玄関で靴を履いているとき、家政婦が小走りに追いかけてきた。
「矢代様、名誉会長がもう一言おっしゃっておりました」
「何と」
「『あの若い人には、もう1つの道を考えてもらいたい。俺の会社を裁判所に渡さない道を』と」
矢代は門の外で車に乗り込み、目を閉じた。「もう1つの道」。裁判所だけは嫌だ。その感情は理解できた。しかし感情でバランスシートは動かない。
車が世田谷の住宅街を抜けて環八に出た。日曜日の昼前で、道は空いていた。矢代は後部座席で携帯電話を取り出した。田島に報告を入れなければならない。
「田島先生、名誉会長は承知しませんでした。古賀社長も代表印を押す意思はありません」
田島は電話の向こうで少し間を置いた。「予想通りです。しかし矢代さん、申立書は手元に置いておいてください。状況が変われば、人の判断も変わる。3月末が1つの区切りになるかもしれない」
矢代は電話を切った。3月末。あと6週間。法的整理を避けるために増資に走れば、引き受け手は市場のプレイヤーだ。そして市場のプレイヤーは、会社の延命ではなく、自分たちの利益のために金を入れる。
車は首都高に入った。
2月中旬、「過年度決算の訂正の可能性および第3四半期決算短信の開示延期に関するお知らせ」がTDnetで開示された。
過年度の有価証券報告書に虚偽記載のおそれがあること。それに伴い、第3四半期決算短信の開示を延期すること。IR担当が文面を作り、法務部門がチェックし、取締役会の承認を経て、大引け後に掲載された。
翌営業日の朝、矢代がフロアに着いたとき、空気が1月末とは違っていた。1月末の株価急落のときは、周囲に衝撃と動揺があった。今回はそれとは違う、重く冷えた空気だった。監理銘柄。その二文字が社内に広がっていた。東証が帝央電機を監理銘柄に指定したのだ。上場廃止の審査入り。
株価はさらに下がった。開示翌日は買い手がつかないままストップ安に張り付き、800円で引けた。翌日はいったん850円まで戻したが、戻り売りに押されて長くは続かず、2月末には700円を割り込んだ。1月中旬の1,840円から6割以上の下落。時価総額は約7,000億円にまで縮んでいた。
矢代はその数字を見て別の計算をした。時価総額7,000億。有利子負債1兆8,000億から手元現金を引いた純有利子負債を足せば、企業価値は約2兆3,000億。しかし帝央電機の事業を1つずつ切り離して売れば、産業用モーターだけで8,000億、IoT基盤で数千億、医療機器、不動産——合計すれば優に2兆5,000億を超える。丸ごと買って分解した方が儲かる。そういう水準にまで、株式市場はこの会社を値踏みしている。
社員食堂で昼食を取ると、周囲のテーブルの会話がときどき途切れた。矢代が近づくと黙り、矢代が去ると再開する。空いている席はあるのに、誰も矢代の隣に座ろうとしなかった。
小野寺が手を挙げて、奥のテーブルから矢代を呼んだ。
「本部長、こっちです」
小野寺の向かいに座った。味噌汁を1口飲んだ。味がしなかった。
「上場廃止の観測が出ています」と小野寺が声を落として言った。「アナリストレポートが3本。うち2本が上場廃止の可能性に言及しています。証券会社のレーティングが3社同時に引き下げられました。投資判断は全てアンダーウェイト。それと、有力な経済紙の朝刊が一面で特集を組んでいます。『帝央電機、上場維持に黄信号』と」
矢代は味噌汁の椀を手に持ったまま動きを止めた。メディアが書けば取引先が動き、与信枠が狭まる。負のスパイラルがもう一段、回転を速める。
「堂島は」
「リストの作成を始めています。第三者割当増資の引受先候補です。国内の事業会社を中心に」
増資。法的整理が拒否された以上、これしかない。しかし延命は治療ではない。
「ERPの分析はどこまで進んだ」
「第2層の不正は、配賦ロジックの変更が4半期ごとに行われていたことまでは特定できました。しかし変更の承認者が複数で、稟議書の一部が欠落しています。ヴェクトラ側から移ってきたシステム担当の何人かが鍵を握っているはずですが、彼らに接触すると志村のラインに情報が漏れる可能性がある」
「全容把握にはまだ時間がかかるということだな」
「はい。ただ、1つだけ分かったことがあります」
小野寺が声をさらに落とした。
「不正がなくても、この会社の収益力は資本コストを下回っています。投下資本利益率が、表面上は加重平均資本コストをわずかに上回っているように見えていた。しかし不正分を除外して再計算すると、下回る。つまり株主の金で価値を壊し続けていたということです」
矢代は箸を置いた。不正がなくても資本コスト未達。その事実は、この会社の問題が会計不正だけではないことを意味している。経営そのものが、株主から預かった資本を毀損していた。アクティビストがもし現れたら、その点を突いてくるだろう。
不正の全容が見えない。底が見えない会社に数1000億円を入れる企業はない。すべての歯車が、そこを起点に狂っている。
梶原から電話があったのは2月の第三週だった。
「矢代さん、1つご報告しておかなければならないことがあります」
梶原の声は、前回よりもさらに温度が低かった。
「銀行団の中で、帝都銀行の審査責任を問う声が出ています。経営統合時のシンジケートローンの主幹事は帝都銀行です。不正を見抜けなかったのは帝都の責任だと」
「具体的にはどの行ですか」
「それは申し上げられません。しかし二行が明確に主張しています。私は社内でも防戦を強いられている」
梶原は1瞬、間を置いた。
「コミットメントラインの維持については、引き続き全力で支えます。しかし条件が必要になるかもしれない。具体的には、増資計画の提示です。会社が自力で資本を調達する道筋を見せてもらわないと、銀行団を説得できない」
「増資計画を出せば、CLは維持されるということですか」
「それだけでは十分ではありませんが、最低限必要な条件です」
電話を切った。
梶原は味方なのか。少なくとも敵ではない。しかし利害が重なっている間だけだ。利害が分かれた瞬間に、梶原は銀行の人間に戻る。
翌日、堂島が第三者割当増資の候補リストの第一稿を持ってきた。
八重洲証券のFA部門を率いる堂島慎一郎は52歳。旧来型の日系証券マンで、経営統合時以来のFAとして帝央電機を担当している。古賀との個人的信頼が強く、会議室に入るとまず「古賀社長にはもうお見せしましたか」と聞くのが堂島の癖だった。不正の全容が未確定の企業に出資する国内企業はない。堂島もそれを分かっているはずだった。しかし堂島はリストを九社分作ってきた。
リストには九社が並んでいた。日立山グループ、丸善物産、日本成長投資機構をはじめとする国内の大手企業と政府系ファンドだ。
「上位3社には矢代さんが直接面談されるのがいいと思います。帝央電機の規模を考えると、引き受け可能なのはこの3社がまず第一候補です」
矢代はリストを眺めた。名前は知っている企業ばかりだった。しかし不正の底が見えない会社に、このうちの何社が本気で金を入れるのか。矢代にはその答えが見えていた。
「堂島さん、このリストの9社が全滅した場合のことを考えておいてください」
堂島の顔がわずかに引き締まった。「全滅という想定ですか」
「想定は常に最悪から置きます」
「分かりました。ただ、矢代さん、国内が全滅した場合の選択肢は非常に限られます。海外のファンド——しかもこの規模を引き受けられるファンドとなると」
「分かっている」
矢代は堂島の言葉を遮った。海外のファンドに頼れば、増資と引き換えに議決権を渡すことになる。延命の代償として、会社の運命を外部に委ねることになる。
堂島は立ち上がりかけて、一度腰を下ろした。何か言いたげだった。しかし口を開いたのは別のことだった。
「北村先生にも増資の法務論点を相談しておきます」北村綜合法律事務所の北村雅彦。金商法の専門家だ。有利発行、希薄化、届出手続——法務の論点は山積する。時間がない。
堂島が帰った後、矢代は窓際に立った。
矢代はデスクトップに新しいフォルダを作った。
「更生」。
古賀が拒み、剛造が拒んだ。しかし田島が送ってきた申立書のフォーマットとドラフトの雛形を、矢代は捨てなかった。フォルダに入れて保存した。
正解は消えていない。消えているのは、正解を選ぶ権限と、正解を選ばせる力だけだ。
矢代はマウスを動かして、フォルダをデスクトップの端に置いた。目立たない場所に。しかしいつでも開ける場所に。
小野寺がドアをノックした。
「本部長、志村さんから電話です。明日の会議の件で」
「分かった」
矢代は画面の隅にある「更生」フォルダを一瞥した。志村のCFOとしての協力がなければ、増資の候補先に提示する財務データも作れない。しかし志村は不正の当事者でもある。志村と仕事をすることは、不正の上に増資を組み立てることと同じだった。矢代はそれを分かっていて、志村の電話に出る。田島の申立書をフォルダに入れたまま。
まだ別の道がある。矢代はそう自分に言い聞かせた。増資で時間を稼げば、不正を処理する猶予が生まれる。事業は生きている。本業が回っている以上、まだ私的整理で戻せるはずだ。
その自負が——コンサル時代に何度も修羅場をくぐり抜けてきた人間の職業的自負が——法的整理の決断を、もう1日、もう一週間と先に延ばしていた。
その夜は11時過ぎだった。マンションの鍵を開けると、リビングに明かりが残っていた。聡子がダイニングテーブルで何かを読んでいる。
「遅くなった」
「うん」
聡子は顔を上げなかった。テーブルの上に広がっているのは、塾のパンフレットだった。紬の中学受験のための進学塾。説明会が先週あったはずだ。
「説明会、どうだった」
矢代は上着を脱ぎながら聞いた。
「行ってきた」
「1人で?」
聡子はようやく顔を上げた。何かを言おうとして、一度口を閉じた。それから言った。
「1人で行って、1人で話を聞いて、1人で帰ってきた。紬は4年生の2月から始めないと間に合わないって。カリキュラムの説明を受けて、費用の計算をして、通塾の曜日を確認して。全部1人でやった」
「すまない。仕事が——」
「知ってる」
聡子の声は静かだった。怒っているときほど声が静かになり、言葉が正確になる。矢代はそれを知っていた。峰岸家の食卓で鍛えられた話法だった。
「塾のことは私が決めるから、あなたはもういい」
矢代は黙った。「もういい」は「もう頼らない」という意味だった。
「紬はどう言ってる」
「サッカーの練習と曜日が被るって。揉めた。私が押し切った。紬は泣いた。あなたがいれば違ったかもしれない」
矢代は何も言えなかった。
「紬が何て言ったか、聞きたい?」
聡子が矢代の目を見た。
「『お母さんはお父さんの代わりに怒ってるだけじゃん』って」
沈黙が落ちた。矢代は言葉を失った。聡子がどれだけ傷ついたか。そしてそのときの聡子の顔を、矢代は見ていない。
聡子は一瞬だけ目を伏せた。しかしすぐに顔を上げた。弱みを見せることを自分に許さない人間の動作だった。パンフレットを閉じて、話を変えた。
「莉子のことなんだけど」
「どうした」
「2月に入って、週に1日か2日、学校に行けない日がある。保健室登校を試してみたけど、教室に上がれない。校門の前で足が止まるって」
矢代は椅子に座った。莉子の部屋は廊下の奥にある。ドアは閉まっているだろう。明かりは消えているだろう。13歳の娘が、自分の部屋で1人で夜を過ごしている。
「何かあったのか」
「本人は言わない。でも、同級生に何か言われたんだと思う。ニュースのことで」
帝央電機のニュースは連日報道されている。同級生の親たちは知っているだろう。
「担任とは話したのか」
「私が話した。あなたの名前は出さなかった。出せるわけがない」
聡子は立ち上がった。パンフレットを棚に片付けている。
「莉子のことは私が見る。あなたは会社のことをやって」
聡子はキッチンに向かった。水を1杯飲んで、グラスを洗って、水切りに伏せた。
「ただ——」
聡子が振り返った。矢代の目を見た。
「私は、もう待たないから」
聡子はリビングの明かりを消して、寝室に向かった。矢代はダイニングテーブルに1人残された。テーブルの上に、紬が折った赤い折り鶴が1つ、置いてあった。なぜ折っているのか、矢代は知らない。
矢代は自室のデスクに向かった。ノートパソコンを開いた。田島から送られてきた申立書のドラフトを開いた。更生手続開始申立書。帝央電機ホールディングス株式会社。
委任状の代表印の欄は空白のままだ。
古賀が判を押さない限り、この書類は紙の束にすぎない。剛造が拒み、古賀が拒んだ。
矢代はファイルを閉じた。保存して、「更生」フォルダに入れた。
窓の外は暗い。2月の夜。東京の空に星は見えない。
携帯電話が光った。堂島からのメールだった。「候補9社のうち、日立山グループとの面談が来週月曜に確定。丸善物産は日程調整中。日本成長投資機構は投資部長を窓口として指定してきました」。堂島は動いている。増資の候補探しは始まっている。しかしその候補が全滅する可能性を、矢代は捨てられなかった。
テーブルの上の赤い折り鶴を、矢代は手に取った。紬の指が折ったものだ。9歳の指で、正確に角を合わせて折っている。
矢代は折り鶴をテーブルに戻して、ノートパソコンを閉じた。
深夜1時。デスクライトを消した。廊下に出ると、莉子の部屋のドアの下に薄く光が漏れていた。まだ起きている。矢代はドアの前で足を止めた。ノックしようとして、手を止めた。
何を言えばいい。大丈夫だよ、と言うのか。1月に聡子にそう言ったばかりだ。あのときも嘘だった。今はもっと嘘だ。
矢代はドアの前に立ったまま、しばらく動けなかった。やがて手を下ろして、寝室に向かった。
残現金:約2,100億円/株価:700円(▲62%)/時価総額 約7,000億円/銀行団の姿勢:コベナンツ抵触を警告、CL維持条件を協議/家庭:聡子が「もう待たない」と宣言
第4話 全滅
堂島慎一郎の声が、日を追うごとに小さくなっていった。
「日立山グループ、辞退です」
2月の最終週、月曜の朝だった。堂島が矢代の執務室に来て、立ったまま報告した。八重洲証券のFA部門を率いる52歳の男は、ネクタイの結び目だけがいつも通りきちんとしていた。
「藤井本部長の判断ですか」と矢代は聞いた。
「トップではなく経営企画本部長が応接に出た時点で答えは見えていました。藤井さんの言い方は丁寧でしたが、内容は明快です。『不正の底が見えないと投資委員会を通せない』と」
矢代は頷いた。先週、日立山グループの本社で藤井と向かい合った90分を思い出した。藤井は矢代が持参した資料を丁寧に読み、質問も的確だった。しかし帰り際に握手を求めてこなかった。あの瞬間に分かっていた。
「丸善物産は」
「先週の面談、出てきたのは戦略投資本部の担当者だけでした。正式な回答はまだですが、同じ結論でしょう。古賀さんと副社長がゴルフ仲間でも、面談の席にトップが出てこない」
堂島はそこで一度言葉を切った。
「矢代さん、9社のリストのうち上位3社が全部トップを出さなかった。これは偶然じゃありません。市場が帝央電機をどう見ているか、各社の経営企画が同じ結論に達しているということです」
矢代はそれを否定しなかった。否定できる材料がなかった。
1週間前に遡る。
上位3社との面談が1週間のうちに集中した。月曜日の日立山グループを皮切りに、丸善物産、日本成長投資機構。
丸善物産の面談は翌火曜日だった。副社長がゴルフ仲間だという古賀の期待とは裏腹に、出てきたのは戦略投資本部の部長と課長の2人だった。質問の1つ1つに、矢代は「投資しない理由を確認している」というニュアンスを感じ取った。
「事業シナジーの見込みが弱いんです」と部長は言った。「東南アジアのインフラ案件でご一緒した縁はありますが、うちの投資委員会に商社の経営資源を入れる合理性を説明するのが難しい」
矢代は「不正の全容が見えれば状況は変わります」と返した。しかし部長の表情は変わらなかった。
日本成長投資機構との面談は木曜日の午後だった。政府系ファンドの投資部長は50代前半で、穏やかな口調だった。質問は的確だったが、1つとして前向きなものがなかった。
「当機構の投資方針とのフィットが難しいと考えています」
投資部長はそう言った。不正会計の疑いがある企業への出資は大臣に説明がつかない——政府系ファンドにとっては政治的リスクの判断だった。
3社との面談が終わった金曜日の夕方、矢代は小野寺と向かい合っていた。
「3社とも同じ理由です」と小野寺が言った。「不正の底が見えない。それは裏を返せば、底が見えても入らないかもしれないということです。底が見えたときに残る事業に投資する価値があるか分からない」
矢代は黙って聞いていた。
日立山の辞退を告げた月曜日から、残りの報告は立て続けだった。
「4社目、辞退です」
月曜日。
「5社目も」
火曜日。堂島の声がまた少し小さくなった。
「6社目、条件を聞く前に断られました。『市場の反応を見てから判断する』と」
水曜日。「市場の反応を見てから」は「他社が入れたら考える」の婉曲表現だった。しかし他社は誰も入れない。
「7社目」
木曜日。堂島はもう社名すら言わなくなった。
「8社目と9社目、まとめて報告します。いずれも辞退」
金曜日の昼前だった。堂島は矢代の机の前に立ったまま、淡々と報告を終えた。9社のリストが1週間で白紙に戻った。
堂島は報告を終えた後も立ったまま、矢代を見ていた。矢代は堂島の視線に、問いかけを読み取った。次はどうするのか。国内がだめなら、どこに行くのか。
「座ってください」と矢代は言った。
堂島が椅子に腰を下ろした。
「海外のファンドに当たります」
堂島の表情が微かに動いた。
「矢代さん、それは——」
「分かっています。アクティビストが入ってくる可能性がある。というより、この規模の第三者割当を短期間で引き受けられるのは、最初からこの案件を見ている相手だけです」
堂島は腕を組んだ。
「グラント・キャピタルですか」
名前が出た。矢代は頷いた。グラント・キャピタル・マネジメント。ニューヨークに本拠を置く運用資産約4兆円のアクティビストファンド。代表のルーカス・グラントは元シルバーマン・シックスのM&Aバンカーで、「非効率な複合企業を適正単位に分解し、各事業の本来価値を市場に認めさせる」ことを投資テーゼとする。
「去年の秋から帝央電機を見ています」と矢代は言った。「真壁から聞いています。公開情報をもとに独自の分析を進めている」
不正の公表直後、矢代はアクティビストの動向を探るため、ウィンスロップ・ブラザーズ東京支店のMDで、アクティビスト対応の助言を専門とする真壁圭吾に連絡を取っていた。大手町のオフィスで向かい合ったとき、真壁は何気なく漏らした。「グラントの東京チームが帝央電機のアニュアルレポートと有報を精読している。セグメント別の資本効率まで分解しているようだ」。あの時点では単なる市場観察だった。しかし今、その情報の意味が変わった。
堂島は黙って矢代を見つめていた。
「古賀さんには私から話します」と矢代は言った。
「矢代さん」と堂島が言った。「海外のファンドが入ったら、株主総会で何が起きるか。分かっていますか」
矢代は堂島を見た。
「分かっています」と矢代は言った。「しかし、資金が入らなければ株主総会そのものがありません」
その夜、矢代は業務改革本部のオフィスに1人で残った。
パソコンの画面にメールの下書きが開いている。宛先はグラント・キャピタル・マネジメントの東京窓口。英語で書いた。
Dear Mr. Grant,
I am writing on behalf of Teio Electric Holdings.
矢代は三行目で手を止めた。この一通を送れば、帝央電機の運命が変わる。国内の資本で再建するという前提が崩れ、海外のアクティビストファンドに会社の一部を渡すことになる。いや、一部ではないかもしれない。グラントが求めるのは影響力だ。取締役の選解任を左右できるだけの議決権。会社提案を否決に追い込めるだけの持分。それは第三者割当増資の規模と条件次第で、3割にも4割にもなり得る。
しかしグラントに打診した時点で、帝央電機は「救済される側」ではなく「投資対象」になる。分解されなければ、潰れる。
矢代はメールの本文を書き進めた。帝央電機の現状、過年度修正の概要、債務超過リスクの見通し、第三者割当増資の検討状況。守秘義務に触れない範囲で、しかしグラントが判断に必要な情報を過不足なく書いた。
最後の一文を書き終えたとき、時計は午前1時を回っていた。
矢代はカーソルを送信ボタンの上に置いた。
指先が微かに震えた。
マウスをクリックした。送信済みトレイにメールが移動した。矢代は画面を見つめた。取り消せない。もう取り消せない。国内の救済連合が全滅した時点で、道は1つしかなかった。しかしその道を自分の手で選んだという事実が、矢代の指先に残っていた。
メールを送る前日に遡る。
「過年度決算の訂正(見込み)及び業績予想の修正に関するお知らせ」の適時開示がTDnetに掲載されたのは、取引終了後の午後4時だった。IR担当の作成した文面は矢代と関口が確認したものだった。過年度修正の暫定額と通期業績予想の大幅な下方修正。夜のうちに経済メディアが速報を打ち、翌朝には記者クラブからの問い合わせが殺到した。
矢代が出社したとき、小野寺がモニターの前に立っていた。
「開きました。寄り付きから売り気配です」
株価は前日の700円から急落した。寄り付きは645円。その後も売りが止まらず、午前中に560円台まで下げた。引けは550円。1日で2割以上の下落だった。時価総額が7,000億円から5,500億円に縮んだ。
「引けでストップ安です」と小野寺が言った。「明日も売りが続けば、寄りから張り付くかもしれない」
矢代はモニターを見つめた。1月中旬の1,840円から、2ヶ月で7割下落した。丸ごと買って分解した方が儲かる水準だ。グラントが見ている数字はこれだった。
梶原からの電話は午後2時だった。
「矢代さん、適時開示を見ました」
帝都銀行常務の声は低く、抑制されていた。矢代は梶原の声のトーンで、用件を察した。
「コミットメントラインの件ですか」
「銀行団の中で意見が割れています。帝都としてはすぐに凍結するつもりはない。しかし他行が——」
梶原はそこで言葉を切った。矢代には続きが分かった。
「矢代さん、率直に聞きます。増資の見通しはあるんですか」
「国内の候補は全滅しました」
電話の向こうで、梶原が息を吐いた。
「それは——」
「海外のファンドに打診を始めています」
長い沈黙があった。梶原は帝都銀行の常務として、海外ファンドの意味を理解していた。
「矢代さん、CLの凍結を止めるには、増資の確度を示す材料が必要です。海外のファンドでもいい。引受けの意思確認が取れれば、銀行団を説得できる。しかし材料がなければ——」
「分かっています。できるだけ早く動きます」
電話を切った後、矢代は椅子の背にもたれた。時間がない。グラントからの返信を待つ時間すら、贅沢になりつつあった。
席を立つとき、窓際のテーブルに志村恒一が座っているのが見えた。矢代と目が合った。志村は箸を止め、矢代に小さく頷いた。矢代も頷き返した。
グラントにメールを送った翌日の夜、受信トレイに返信が入った。ニューヨークの朝を待って返事が来た形だった。
Interest confirmed. We have been following Teio Electric for some time and have conducted preliminary analysis. Would welcome the opportunity to discuss further at your earliest convenience.
Lucas Grant
通常、この規模の投資案件で「関心あり」の返事が1日で来ることはない。グラントは最初からこの瞬間を待っていた。帝央電機が国内の救済先を見つけられず、海外に手を伸ばさざるを得なくなる瞬間を。
矢代は真壁に電話した。
「グラントから返事が来ました。初回のコールを設定してもらえますか」
真壁は短く答えた。
「来週の月曜で取れる。グラント側は即日でもいいと言うだろうが、こちらの準備が要る。資料は私が見繕う」
梶原との会話は、翌日の午後にもう一度あった。今度は面談だった。帝都銀行の本店、10階の応接室。梶原は1人で待っていた。秘書もアナリストもいない。2人だけの空間だった。
「古賀さんには話しましたか」と梶原が聞いた。
「これから話します。グラントとの初回コールが終わってからにするつもりです」
梶原は窓の外を見た。皇居の緑が遠くに見える。梶原も古賀と同じように窓の外を見る癖があった。しかし見ているものが違う。古賀は皇居の森を見る。梶原は森の向こうの市場を見る。
「CLの件ですが」と梶原が言った。「今回の適時開示で、コベナンツの財務制限条項に抵触する可能性が出ています。加えて、MAC条項——重大な悪影響条項——の適用を検討せざるを得ない。今すぐの凍結はしない。しかし増資の枠組みが見えるまでは、新規の引出しには応じられません」
矢代は頷いた。MAC条項が発動されれば、銀行は新規貸出を拒否する法的根拠を持つ。CLの未使用枠からの新たな引出しは止まる。つまり今ある手元現金だけで回さなければならない。債務超過リスクの試算がまた一段厳しくなる。
「矢代さん」と梶原は声を落とした。「海外のファンドが入るのであれば、条件を見せてください。銀行団としての維持条件を設定する必要がある。古賀さんの求心力が——正直に言って、落ちている」
梶原の言葉は慎重だったが、意味は明快だった。
グラントとの初回コールは翌週の月曜日、東京時間の午後8時だった。ニューヨークは午前6時。真壁がウィンスロップ・ブラザーズの会議室を手配した。
矢代は1人でヘッドセットをつけた。画面の向こうにルーカス・グラントの姿が映った。51歳。灰色のスーツに白いシャツ。ネクタイは締めていない。元シルバーマン・シックスのM&Aバンカーは、ファンドの代表になってからネクタイを外した。
「ミスター・ヤシロ、お時間をいただきありがとうございます」
グラントの日本語は流暢ではなかったが、冒頭の挨拶だけは日本語だった。以降は英語に切り替わった。
「テイオー・エレクトリックの状況は把握しています。過年度修正の規模、債務超過リスク、国内の救済先が見つからなかった経緯。我々は半年前から独自に分析を進めてきました」
グラントの声は落ち着いていた。早口ではなく、1つ1つの単語を正確に置いていく話し方だった。
「我々の関心は明確です。テイオー・エレクトリックには優れた技術資産がある。産業用モーターのセラミック軸受け技術は世界でも3社しか持っていない。しかしその技術が、非効率なコングロマリット構造の中に埋もれている」
グラントはそこで言葉を止めた。矢代の反応を待っている。矢代は黙って聞いていた。グラントの分析は正確だった。反論する材料がない。グラントは矢代の沈黙を確認してから、声のトーンを変えた。
「ミスター・ヤシロ、1つお聞きしてもいいですか」
「どうぞ」
「あなたは会社更生法を進言されたと聞いています」
グラントは一拍置いた。画面越しに、矢代の表情を読んでいた。
「それを拒否されたから、今ここで私と話している。そうですね」
矢代は一瞬、言葉を失った。グラントがどこからその情報を得たのか。しかし考えてみれば不思議ではなかった。半年間の独自調査で、社内の情報源を持っていてもおかしくない。
「その通りです」と矢代は答えた。
「更生法が最善だったと、今でも思いますか」
矢代は迷った。正直に答えるべきか。交渉の場で自社の経営判断を否定することになる。しかしグラントの目は、嘘を許さない目だった。
「思います」
グラントは短く笑った。笑い方に嘲りはなかった。しかし笑みはすぐに消え、グラントは身を乗り出した。
「私も同じ結論です。しかし経営陣がそれを選ばない以上、次善の策を考えなければならない。我々は次善の策になれます。ただし条件がある」
「聞いています」
「基準日の前に払い込みを完了すること。議決権のない投資に2,500億円は出しません」
グラントは指を1本立てた。
「それから、CBを含めること。転換社債は我々にとって保険です。転換は払込から6ヶ月後。それまでは行使しない。しかし6ヶ月経っても経営陣が約束を守らなかった場合の——」
グラントは言葉を選んだ。微かに顎を引いて、矢代の目を見た。
「レバレッジです」
矢代にはその意味が分かった。6ヶ月のロックアップは一見、会社側への配慮に見える。しかし3月末に払い込めば、転換が解禁されるのは9月末だ。6月の株主総会では34パーセントの議決権しかないが、9月に転換すれば約40パーセントに跳ね上がる。残りの機関投資家票を取り込めば過半数に届く。ロックアップは猶予ではなく、期限だった。
「条件は持ち帰ります」と矢代は言った。
グラントは椅子の背にもたれた。一瞬、コールが終わるのかと思った。しかしグラントは動かなかった。
「ミスター・ヤシロ」とグラントが言った。「もう1つだけ」
「何でしょう」
「あなたの会社の創業者が好んだ言葉を知っています。"人は城、人は石垣"」
グラントは間を取った。矢代の反応を見ている。矢代は表情を動かさなかった。
「我々も人を大切にします。しかし城には壁が要る。壁のない城はただの野原です」
グラントは画面越しに矢代を見つめた。矢代は視線を返した。言い返す言葉を探した。見つからなかった。
コールが終わった後、矢代はヘッドセットを外してしばらく動けなかった。グラントの指摘は正しかった。それが最も苦しいことだった。
社内の掲示板に、帝央電機の株価チャートを貼り付けた匿名の書き込みがあった。小野寺が見つけて矢代に報告した。書き込みの下にコメントが続いていた。「再建は無理」「転職活動を始めるべき」「経営陣は責任を取るのか」。小野寺は掲示板のモニタリングを始めたが、書き込みは消しても新しいものが現れた。
「社員は知っています」と小野寺は言った。「株価が550円に落ちたことの意味を。ここにいる人間は馬鹿じゃない。5兆円企業の時価総額が5,500億に縮んだら、何が起きるか分かっている」
矢代は頷くだけだった。社員に伝えられることは何もなかった。増資の交渉中であることも、海外ファンドに打診したことも、コミットメントラインが実質的に凍結されつつあることも。守秘義務の壁の向こう側で、社員の不安だけが膨らんでいく。
矢代が古賀に報告したのは翌日の朝だった。
古賀は窓際に立ったまま聞いていた。皇居の緑を背にした67歳の横顔に、矢代は疲労を読み取った。
「海外のファンドか」と古賀は言った。
「はい。グラント・キャピタルがアンカー投資家として最大ロットを引き受ける意思を示しています。他のファンドも、グラントが入るなら追随する可能性が高い」
「アクティビストだな」
「そうです」
古賀は窓の外を見たまま、長い沈黙に沈んだ。矢代は待った。
「名誉会長に何と説明する」
「国内の候補が全滅したこと、このままでは債務超過に転落すること、海外ファンドの引き受けが唯一の選択肢であることを、そのまま伝えるしかありません」
古賀は振り返った。
「矢代君、あの人にそれを言えるか。戦後の焼け野原から1人で会社を作った人に、外国のファンドに株を渡すと言えるか」
「債務超過に転落すれば、名誉会長に説明する機会すらなくなります」
古賀は目を閉じた。
「進めてくれ」
声は小さかった。敗北を認める声だった。
その日の夕方、帰りがけに啓介が矢代を呼び止めた。
場所は本社ビル1階のエントランスだった。退社する社員が流れていく中、啓介は矢代の横に並んで歩いた。48歳の副社長は、スーツの上にカシミヤのコートを羽織っていた。3月の風はまだ冷たかった。
「海外のファンドが入ったら、株主総会で何が起きるか。見えていますか、矢代さん」
啓介の声は穏やかだった。質問というよりも、確認だった。
「見えています」と矢代は答えた。
「取締役の選解任に口を出してくる。社外取締役の追加、事業の切り離し。最終的には会社の分解まで行く可能性がある」
「その通りです」
啓介は歩きながら、前を見ていた。
「要するに、こういうことでしょう。ファンドに金を出してもらえば当座は凌げる。しかし一度入れたら最後、出口は向こうが決める。古賀さんは、そこまで分かっているのかな」
矢代は答えなかった。
「矢代さん」と啓介が言った。「選択肢は3つあります。1つは、何もせず債務超過を迎える。2つ目は、ファンドに入ってもらい、向こうのルールで再建する。3つ目は——」
地下鉄への連絡通路の先で、啓介は足を止めた。改札の手前だった。
「ファンドに入ってもらうが、こちらが主導権を握る形で組む。私は3つ目を選びたい」
矢代は啓介を見た。48歳の副社長は穏やかに微笑んでいた。しかしその微笑みの奥で、すでに次の手順を組み立てている目をしていた。
「考えておきます」と矢代は言った。
啓介は微かに頷いて、改札を通った。
3月5日、水曜日。成城の御子柴邸を訪れた。
古賀が同行するはずだったが、前日になって「体調が悪い」と連絡があった。矢代は1人で世田谷の住宅街を歩いた。御子柴邸は成城の一等地にある木造2階建てで、庭に松の木が何本も植わっていた。90歳の名誉会長は、奥の和室の畳に座布団を敷いて待っていた。
「矢代か。1人か」
「古賀社長は体調を崩されまして」
剛造は矢代の顔を見据えた。矢代の言葉を吟味するように、数秒黙った。
「嘘をつくな。あいつは私の前に来られないんだ」
剛造の声は枯れていたが、鋭さは失われていなかった。矢代は否定しなかった。畳の上に正座した。
「国内の引受先は見つからなかったそうだな」
「はい。九社に打診しましたが、全社辞退しました」
「9社」と剛造は繰り返した。その声に、矢代が思ったものとは違う感情が混じっていた。怒りではなかった。「9社が断ったか」
「はい」
「で、外国のファンドか」
矢代は頷いた。剛造は痩せた手で膝を叩いた。1度、2度。それから手を止めた。
「俺が作った会社を、外国人に売るのか」
「売るのではありません。増資です。新しい株を引き受けてもらう」
「同じことだ」
剛造は矢代を睨んだ。90歳の目に、戦後の焼け野原からラジオ屋向けの電子部品を作り始めた男の意地が残っていた。
「名誉会長」と矢代は言った。「このままでは3月末に債務超過に転落します。増資が入らなければ、会社は——」
「分かっている」
剛造は矢代の言葉を遮った。しかしその声は、前回の「俺は承知しない」とは違っていた。
「分かっているから、こうして座っているんだ。お前の話を聞いてやろうと思って」
矢代は黙った。
剛造は庭に目を向けた。紅梅が咲いていた。前回来たときはつぼみだった。長い沈黙が降りた。矢代は待った。
「やれ」
剛造は庭を見たまま言った。それから矢代に向き直った。
「ただし、技術は守れ。茨城の工場だけは——あれだけは守れ」
矢代は頭を下げた。
矢代はそれを約束した。約束できるかどうか分からないまま。
その夜、矢代はマンションの鍵を開けた。リビングに明かりが点いていた。聡子がソファに座って本を読んでいた。
「成城に行ってきた」
「名誉会長のところ?」
「うん」
矢代は靴を脱いで上がった。聡子は本を閉じた。
「ねえ」と聡子が言った。「1つ聞いていい」
「何を」
「うちの父にも相談したら」
矢代は足を止めた。
「義父には迷惑をかけたくない」
矢代の声は反射的だった。聡子は矢代を見つめた。
「迷惑じゃないでしょう。父は力になれるかもしれない」
「利益相反がある。峰岸先生の事務所は——」
「知ってる。でも相談するだけなら」
矢代は首を横に振った。
「分かった」と聡子は言った。声は静かだった。
聡子は本を開き直した。
矢代は廊下を歩いて莉子の部屋の前を通った。ドアの隙間から光が漏れていなかった。3月に入ってから、莉子はほぼ毎日学校を休んでいた。2月は週に1日か2日の欠席だったのが、3月に入って急に悪化した。聡子が担任と面談を重ね、スクールカウンセラーとも連絡を取っている。矢代はその報告を聡子から受けるだけだった。
矢代はドアの前で立ち止まった。ノックしようとして、手を下ろした。ドアの前を通り過ぎた。
紬の部屋を通りがけに見ると、ドアが半開きで、机の上に赤い折り鶴がまた1つ増えていた。
自室でスーツを脱ぎ、寝室のベッドに横になった。目を閉じた。明日の朝、グラントとの条件交渉が始まる。
残現金:約1,800億円/株価:550円(年初来▲70パーセント)/時価総額 約5,500億円/銀行団の姿勢:CL凍結を示唆/家庭:聡子が峰岸の名を出すも矢代は拒絶
第5話 怖いんでしょう
3月6日、木曜日。午前10時。
八重洲証券の会議室で、真壁が黒い革のバインダーからタームシートを取り出した。A4で6枚。矢代は1枚目を手に取り、目を走らせた。
普通株4億株。発行価格459円。総額約1840億円。加えて転換社債型新株予約権付社債700億円。転換価格510円。払込から6ヶ月間のロックアップ付き。合計2540億円。
「発行価格の459円は」と矢代は言った。
「直前営業日の終値510円に対して9掛けです」と真壁が答えた。「日証協指針の上限に張り付いています。形式的には有利発行に該当しません」
堂島が付け加えた。「彼らは初回コールの前から条件を組んできています。ロックアップの6ヶ月もCBの転換価格も、すべて整合している。即興で作った条件ではない」
矢代はタームシートの2枚目を見た。引受先一覧。7社の名前が並んでいた。
グラント・キャピタル・マネジメント。アトラス・ストラテジック・パートナーズ。パシフィック・リッジ・キャピタル。ノルドヴィスト・アセットマネジメント。ヘリオス・バリュー・ファンド。翠嵐キャピタル。八重洲バリューパートナーズ。
海外5社、国内2社の連合だった。矢代は国内2社の名前を指で追った。翠嵐キャピタル。自社名義で前年9月から保有。八重洲バリューパートナーズ。帝都カストディ銀行名義で前年8月から保有。
「会社はこの二社の存在を認識していませんでした」と小野寺が言った。真壁の隣に座る堂島を見ている。
堂島が頷いた。「翠嵐は自社名義で約800万株。八重洲は帝都カストディ銀行の包括名義に紛れて約500万株。いずれも大量保有報告書の提出義務が生じない水準です。しかし——」
「株主提案権の保有期間要件は満たしている」と矢代が言った。6ヶ月以上の継続保有。会社法303条2項。翠嵐は前年9月、八重洲は前年8月。どちらも6月の定時株主総会の時点で要件を充足する。
堂島が小さく頷いた。
矢代はタームシートの残りを読んだ。7社はそれぞれ個別の引受契約を結ぶ。共同保有契約は締結しない。7社を束ねる法的な枠組みはない。あるのはグラントを中心とした暗黙の了解だけだった。共同保有契約がないということは、7社と個別に話さなければならないことを意味する。
招待状だ、と矢代は思った。八重洲と翠嵐が先回りして保有期間を満たしていたということは、増資の話が出る前からこの日を見据えていたということだ。国内9社が全滅した時点で声をかければ、この条件で入れることを知っていた。
真壁が言った。「グラントは7社の取りまとめ役です。各社との条件交渉はグラントを窓口にして進めることになります。ただし契約は個別です。1社でも払込が不履行になれば、他社への連鎖リスクがあります」
矢代はタームシートを閉じた。
翌日午前、北村綜合法律事務所。溜池山王のビルの23階。
北村は50代半ばの白髪の弁護士で、企業法務の案件を30年以上扱ってきた男だった。矢代と堂島が向かい合い、北村の隣に若手の田所が座っていた。
「発行価格459円は、日証協指針上は問題ありません」と北村は言った。書類を見ながら、読み上げるのではなく確認するように。「ただし、株価が連日下落している局面の終値を基準にしていますから、この510円が正常な市場価格かどうかを争われるリスクはあります。議事録には算定根拠を丁寧に記載してください。第三者の株価算定書を取得することも検討すべきでしょう」
田所がバインダーから書類を取り出した。「届出書のドラフトです。リスク要因の記載について1点確認させてください。CB転換後の議決権比率ですが、全額転換された場合、アクティビスト連合の議決権は約40パーセントに達します。これをリスク要因として記載する必要があります」
矢代は田所の書類に目を通した。数字の羅列の中に、1つの構造が浮かび上がる。普通株で約34パーセント。CBを全額転換すれば約40パーセント。残りの機関投資家票を取り込めば過半数を超える。
「CB転換は支配権移動の装置になり得る、ということですね」
北村が矢代を見た。老弁護士の目は穏やかだったが、その穏やかさの奥に、同じ構造を何度も見てきた人間の醒めた認識があった。
「法律は構造を記述しますが、構造の帰結を止めることはしません」
堂島が補足した。「ロックアップが切れるのは9月26日です。6月の定時株主総会にはCBの議決権は間に合わない。しかし9月以降、いつでも転換できる。臨時総会を招集されれば、そこで40パーセントの議決権が出現します」
同日午後。関口との第一次面談。
監査法人の会議室に通された。窓の外に首都高の高架橋が見えた。関口の態度は矢代が想像していたより柔らかかった。増資の枠組みが見えたことで、微かに軟化している。矢代が関口の口から「前向き」という語を聞いたのは初めてだった。
「条件があります」と関口は言った。「届出書への暫定数値の記載と修正スケジュールの記載。それから監査意見の反映手続の担保。この3点です」
矢代は頷いた。どれも想定の範囲内だった。関口はそこで一度言葉を切り、テーブルの上の資料に目を落とした。表情が変わった。「前向き」の温度が消え、監査人の顔に戻った。
「もう1点。東南アジアの海外子会社3社について、追加損失の可能性があります」
会議室の空気が変わった。矢代は動かなかった。小野寺が隣で微かに姿勢を正した。関口は顔を上げず、資料を見たまま続けた。
「経営統合時の資産評価と、その後の減損テストの前提が整合していない。旧ヴェクトラ側の海外子会社に、統合時ののれんが過大に残っている可能性があります。全容はまだ把握できていません。数百億の規模です」
数百億。増資で2500億を入れても、底に穴が空いていれば水は溜まらない。
面談が終わり、関口のチームが退室した。矢代は廊下で関口に追いついた。関口は歩みを止めなかった。矢代は並んで歩きながら言った。
「議事録の外で一つだけ聞かせてください。正しい数字を全部出したとして、この会社はやっていけますか」
関口は足を止めた。振り返らなかった。しばらくの沈黙があった。首都高を走るトラックの音が遠くに聞こえた。エレベーターホールの蛍光灯が、二人の影を灰色の壁に落としていた。
「事業ポートフォリオに構造的な問題がある。不正を全部取り除いても、資本コストを——」
関口はそこで口を閉じた。言いすぎたという顔だった。振り返り、矢代の顔を見た。
「それは監査人の言うべきことではありません」
関口は会議室のドアを開けて中に戻った。ドアが閉まった。矢代は廊下に一人で立っていた。
その日の引け、株価が510円をつけた。年初来マイナス72パーセント。1840円から510円。底値だった。
小野寺とスケジュールを逆算した。3月11日に臨時取締役会決議。同日TDnet開示。有価証券届出書の待機期間を経て、3月26日に払込。通常6週間かかる手続きを3週間に圧縮する。
「不可能ではないが、一日も遅れられない」と小野寺が言った。ホワイトボードにマーカーでタイムラインを引きながら、手が止まった。振り返って矢代を見た。
「一つ聞いていいですか。矢代さんは、どちらの味方ですか」
矢代はホワイトボードのタイムラインを見つめた。3月11日から26日までの15日間。その短い線分の中に、帝央電機の命運が詰まっている。
「会社の味方だ」と矢代は言った。「ただし、会社が何を意味するかは、これから何度も変わるかもしれない」
小野寺は何も言わなかった。マーカーのキャップを閉めた。
夕方、志村のオフィスを訪ねた。志村は疲れた顔で自席のスプレッドシートを見ていた。この2ヶ月、過年度決算の修正作業を率いてきた男だった。正しい数字が何を意味するかを、志村は誰よりも知っていた。
「ROIC4.6パーセント。WACC4.3パーセント」と志村はモニターの数字を指で示した。「差はたった0.3パーセントだ。これが不正を除いた公式の数字。しかし不正修正後の実態ROICはWACCを大幅に下回る」
矢代は立ったまま志村を見た。
「正しい数字を出せば、この会社はおそらく終わります」と志村は続けた。声は平坦だった。感情ではなく、事実を述べる声だった。「株主の金で価値を壊し続けている会社に、誰が追加で金を入れますか」
「出さないでください」
矢代の声は低かった。自分でも驚くほど低かった。正しい数字を出すな。CFOに対して言う言葉ではない。しかし今、増資の手続きが動き始めている。ここで実態ROICの数字が市場に出れば、7社が手を引く可能性がある。増資が流れれば、3月末の債務超過は確定する。
志村は矢代を見上げた。数秒の沈黙が落ちた。
「あなたと俺は、やっていることの構造が同じだ」と志村が言った。「正解を知っていて、正解を選ばない人間同士だ」
矢代は何も答えなかった。
3月10日、月曜日。午後2時。
古賀のオフィスで条件を報告した。タームシートの内容。7社の構成。議決権比率。CB転換後の支配権の構造。矢代は数字を淡々と並べた。古賀は窓際の椅子に座り、額縁の社訓を見つめていた。「人は城、人は石垣、人は堀」。創業者が揮毫した書が、CEO執務室の壁に30年掛かっている。矢代が説明を終えても、古賀はしばらく社訓を見ていた。
「議決権を渡さなければ、誰も2500億は出しません」
古賀が矢代に目を戻した。67歳の顔には、怒りも諦めもなかった。ただ何かを確認するような目だった。
「城壁を売るんだな」
古賀の声は静かだった。矢代は答えなかった。古賀は社訓から目をそらした。矢代を見た。
「3月11日だな」
「はい」
「分かった」
それだけだった。古賀は椅子を回して窓に向き直った。背中が小さく見えた。矢代は一礼して退室した。
条件が固まった。残された時間は15日。堂島のチームが手続き圧縮の実務に入った。7社分の払込口座の開設、5つのタイムゾーンをまたぐ送金手順の確認、着金確認のホットライン設定。堂島のチームと小野寺が24時間体制で処理を回した。チェック項目が一つずつ潰されていく。しかし一つでも欠ければ、すべてが止まる。
その夜、啓介が矢代を赤坂の割烹に誘った。
座敷の奥、二人きりの席。仲居が料理を運んで下がると、啓介は冷酒を注ぎながら言った。
「彼らの言っていることは正しい。でも、正しさだけで会社は語れないでしょう」
矢代は杯を受けた。
「増資が終われば、次のフェーズが来る」と啓介は続けた。箸を置き、矢代の目を見た。「分解するか、非公開化するか、あるいは戦略的な再編か。選択肢はいくつかある。そのとき、堂島さんのFAの報告を私にも直接共有してもらえると助かるんだが」
「それはできません」
啓介は微かに笑った。怒りはなかった。断られることを予期していた笑みだった。
「そうですか」
啓介は杯を持ち上げ、日本酒を一口含んだ。窓の外に赤坂の夜景が見えた。
「まあ、いずれにしても。増資の後に何が来るか、考えておいてください。私も考えますから」
矢代は箸を置いた。啓介が堂島にも直接連絡を取っていることを、矢代はまだ知らなかった。
割烹を出て、タクシーの中から堂島に連絡を入れた。啓介の要請を伝えた。堂島は電話の向こうで少し黙った。
「グラントの投資テーゼはコングロマリットの分解です。株価が上がれば出ていくような相手ではありません」
矢代は窓の外を見ていた。夜の赤坂を走る車のテールランプが、赤い光の列を作っていた。
「古賀さんはそれを分かっていない。分かっていないことが、社内の士気を支えている面もある」
堂島の声は乾いていた。FAとしての冷静な分析。グラントにとってこの増資は出口ではなく入口だ。矢代はそのことを理解していた。
深夜、マンションの鍵を開けた。リビングの明かりが点いていた。
聡子がソファに座っていた。本ではなく、スマートフォンを手にしていた。矢代の顔を見て、画面を伏せた。
「莉子のことなんだけど」
聡子の声は平坦だった。感情を抑えているのではなく、どの感情を出せばいいか分からないという声だった。
「莉子のスマートフォンの閲覧履歴を見た。帝央電機、不正。帝央電機、倒産。帝央電機、株価」
矢代は靴を脱ぐ手を止めた。3つの検索語が、暗い玄関に落ちた。13歳の娘が、父親の会社の名前と「倒産」を並べて検索している。
「大丈夫じゃないことは、莉子にも分かってるのよ」
矢代は何も言えなかった。聡子の目は怒っていなかった。疲れていた。
矢代は自室に入った。
3月11日、火曜日。臨時取締役会。
矢代が増資の枠組みを説明した。普通株4億株、発行価格459円。CB700億円、転換価格510円。引受先7社の連合構造。議決権比率の推移。CB全額転換後の希薄化。スケジュール。3月26日までの手続きの各ステップ。矢代は配布資料を手元に置いたまま、数字を暗誦するように説明した。2ヶ月間、この数字と向き合ってきた。
笹本が手を挙げた。監査委員の弁護士で、社外取締役の中で唯一、矢代の説明に対して常に質問をする人間だった。渉外系大手事務所で鍛えた目で取引の構造を見る。
「確認させてください。CB全額転換後のアクティビスト連合の議決権比率は約40パーセント。これは支配権の移動に相当する水準だという認識で、議事録に残してよろしいですか」
「その認識です」と矢代は答えた。
笹本は続けた。「希薄化は四割で、本来は東証の規程が独立第三者の意見か株主の意思確認を求める水準です。債務超過回避の緊急性の例外によること、社外取締役全員の賛同も、議事録に残します」
議事録に残す。後から「取締役会は認識していなかった」と言われないための布石だった。他の取締役から質問はなかった。
採決。全員一致で可決。議長の古賀が「可決されました」と告げた声は、いつもの取締役会と変わらなかった。しかし古賀の右手がテーブルの下で微かに震えていたことを、矢代は見ていた。帝央電機ホールディングスの取締役会は、全員一致で城壁を売る決議をした。
IR部門が即座にTDnetに開示文を送信した。「第三者割当による新株式及び第一回無担保転換社債型新株予約権付社債の発行に関するお知らせ」。翌朝、記者クラブから問い合わせが殺到した。株価は540円で寄り付き、引けは530円。「債務超過リスクの後退」と「アクティビストに会社を渡した」の解釈がせめぎ合った。社内掲示板に「外資に乗っ取られるのか」「茨城工場は大丈夫か」という書き込みが並んだ。
3月11日の夜、銀座に寄った。
先客が2人いたが、矢代がファームのいつもの端の席に座ると、冴子が水割りを出した。
「増資の話、ニュースで見たわよ」
矢代はグラスを傾けた。冴子はカウンターの向こうで布巾を畳んでいた。先客が帰り、店には矢代だけになった。
「奥さんには言ってあげなさいよ。本当のこと」
冴子の声は軽かった。しかし軽さの中に、男の沈黙を何百と見てきた女の確信があった。
「守秘義務がある」
冴子の手が止まった。布巾を置いて、矢代を見た。銀座の夜を30年見てきた目だった。酔った男の嘘と本音を聞き分けてきた目だった。
「守秘義務じゃなくて、怖いんでしょう」
矢代はグラスを置いた。氷が鳴った。冴子の言葉が、胸の奥で何かに触れた。義務ではなく、恐怖だった。
冴子は何も言わなかった。水割りをもう一杯出した。
深夜、帰宅した。マンションの廊下は静かだった。リビングに明かりはなかった。暗闇の中を通り抜けるとき、テーブルの上に何かがあった。手を伸ばした。折り鶴だった。紬が折ったものだ。指先に触れる折り目の感触。手に取って、台所の常夜灯のほうに持っていった。前に見たときは赤かった。今夜の折り鶴は青だった。色が変わっている。矢代はそれをテーブルに戻した。なぜ色を変えたのか。赤から青へ。意味があるのか、ないのか。考える余裕はなかった。冴子の言葉がまだ胸の中にあった。怖いんでしょう。
3月12日、水曜日。朝。
梶原から電話が入った。
「CL維持の条件として、3月26日の払込完了を最終警告とする。これは前回お伝えした通りだ」
矢代は受話器を握った。梶原の声は事務的だったが、いつもより早口だった。言いにくいことを先に済ませようとする口調だった。
「加えて1点。2月に話した審査責任の件だが、もう2行ではない。4行が帝都の責任を問う書面を準備している。次の銀行団会議で議題に上がる。3月26日に着金しなければ、私は銀行団を抑えられない」
電話が切れた。
同じ日の午後、茨城工場の技術者が社内掲示板に実名で投稿した。「私たちの技術はどこに行くのですか」。小野寺がその画面を矢代に見せた。投稿者の名前にマーカーで線が引いてあった。産業用モーターの設計を20年やってきたエンジニアだった。掲示板のコメント欄には、賛同と不安と怒りが入り混じった書き込みが続いていた。大手町の会議室で決まったことが、2時間後には茨城の工場で読まれている。
3月12日から、関口のチームとの脚注作業が始まった。
「一定の追加損失が発生する可能性がある」。届出書に入れるこの一文の、一語一語を詰める作業だった。「可能性」か「見込み」か。「一定の」か「相当の」か。一語の差が市場への信号になる。「見込み」と書けば、損失はほぼ確定しているという意味になる。「可能性」なら、まだ不確定だという含みが残る。関口は監査人として「見込み」を主張した。監査意見の整合性がかかっている。矢代は「可能性」を求めた。払込前にこの一語で七社が動揺すれば、すべてが崩れる。二日間、同じ会議室で同じ文言を何度も読み返した。末尾の句読点の位置まで検討した。最終的に「可能性」で着地した。関口は不服だったが、「脚注の存在そのものが注意喚起になる」と矢代が説得した。
3月13日、有価証券届出書を提出。金商法上の待機期間に入った。
3月17日、堂島が7社すべての送金手続確認の完了を報告した。
その間にも掲示板は動いていた。茨城工場の宮田班長が若手に言った言葉が、誰かの手で書き込まれた。「上が何を決めても、俺たちの技術は俺たちのものだ」。返信がついた。「技術が俺たちのものでも、工場は会社のものだ」。大手町と茨城の間に言葉の断層があった。「アクティビスト」という語を掲示板で初めて知り、ネットで意味を調べた現場作業員もいた。
3月25日、火曜日。夜。
堂島から最終報告があった。「7社すべての送金指示が発信されました。明日の午前中に順次着金する見込みです」
矢代は受話器を置いた。デスクトップの「更生」フォルダが視界の端にあった。田島の協力で作成した更生手続開始申立書のドラフト。提出されないまま、そこにある。小野寺が矢代の傍を通りかかった。
「着金しなかったら更生法ですか」
矢代は答えなかった。
オフィスを出たのは午後11時を過ぎていた。タクシーの中で目を閉じた。この3週間、毎日こうだった。朝7時に出社し、深夜に帰る。聡子とは朝食の席でもほとんど言葉を交わさない。莉子の部屋のドアは閉まっている日が増えた。紬だけが変わらず朝食を食べている。
マンションに帰った。聡子はすでに寝室に入っていた。冷蔵庫にラップをかけた食事があった。その横にメモが二枚。「莉子、今日も休みました」「紬の個人面談、来週火曜です」。聡子の筆跡は几帳面で、感情を排した字だった。家庭の報告が、付箋紙に収まる量まで圧縮されている。
廊下を歩いた。莉子の部屋から光が漏れている夜と、そうでない夜がある。今夜は暗かった。紬の部屋の前を通ると、ドアの隙間からデスクライトの光が見えた。9歳の娘はまだ起きている。最近、紬と聡子の衝突が増えていた。「お母さんはお父さんの代わりに怒ってるだけ」と紬が言ったことを、矢代は聡子から聞いていた。
リビングに戻ると、暗闇の中で水を飲む音がした。聡子が台所に立っていた。
「莉子のことで相談したいことがあるの」
矢代は足を止めた。聡子はコップを持ったまま、矢代のほうを向いていた。暗いリビングの中で、台所の常夜灯だけが聡子の輪郭を浮かび上がらせていた。
「でも、あなたは答えられないんでしょう」
矢代は口を開きかけた。聡子は首を振った。小さく、しかしはっきりと。
「いいの。自分でなんとかする。いつもそうしてきたから」
聡子は寝室に戻っていった。ドアは閉めなかった。矢代にはその意味が分からなかった。閉めないのは招き入れているのか、それとも閉める気力もないのか。
矢代はしばらくリビングに立っていた。テーブルの上に折り鶴があった。手に取った。白い折り鶴。前は青だった。その前は赤だった。色が変わるたびに、何かが進んでいる。矢代には、それが何なのか分からなかった。
折り鶴を置いた。別の折り鶴がもう1つ、テーブルの端にあった。黄色だった。4色目。紬はいつの間にこれを折ったのか。何のために折っているのか。聞く時間がなかった。聞く言葉もなかった。
矢代は暗いリビングを横切り、自室に向かった。寝室の方向から、聡子の寝息は聞こえなかった。開いたままのドアの向こうで、聡子もまた眠れずにいるのかもしれなかった。
残現金:約1800億円/株価:510円(底値・年初来マイナス72パーセント)/時価総額 約5100億円/銀行団の姿勢:CL維持は3月26日払込完了が条件(最終警告)・4行が帝都の審査責任を問う書面を準備/家庭:冴子が矢代の「恐れ」を言語化、莉子がスマートフォンで父の会社の倒産を検索、聡子が「自分でなんとかする」
第6話 時限爆弾
3月26日、水曜日。午前8時40分。
矢代は大手町の本社12階、業務改革本部の会議室にいた。窓のブラインドを開けると、3月末の日差しが長机の上に並んだノートパソコンを白く照らした。小野寺が隣に座り、志村のチームから出向してきた経理部の若手——安田と前川——がそれぞれの端末を開いている。
午前9時。東京証券取引所の前場が始まる時刻だが、矢代が見つめていたのは株価ボードではなかった。帝都銀行のオンラインバンキング・ダッシュボードの画面。払込口座の残高。ゼロ。
払込期日だった。梶原の最後通告が矢代の頭に残っていた。「増資が3月26日に完了しなかった場合、コミットメントラインは3月末日をもって凍結する」。今日、7社からの着金がなければ、帝央電機は5日後に運転資金の命綱を失う。
9時12分。画面は動かない。矢代は腕時計を見た。海外ファンドからの国際送金は、中継銀行を経由する。ニューヨーク、ロンドン、シンガポール——送金指示は前日までに各社のプライムブローカーから発信されているはずだった。タイムゾーンの差、中継銀行の処理時間、コンプライアンスチェック。1件ごとに数十分の遅れが生じうる。
安田が言った。「本部長、帝都銀行の資金管理部から連絡がありました。グラント・キャピタル名義の送金が中継銀行に到着しています。着金処理中です」
矢代は頷いた。喉が渇いていた。手元の紙コップに手を伸ばしたが、コーヒーはすでに冷めていた。
9時20分。画面の口座残高が動いた。
グラント・キャピタル・マネジメント。普通株1億5000万株、1株459円。合計688億5000万円。
688億5000万円という数字が、口座残高の欄に現れた。
小野寺が小さく息を吐いた。「1件目、着金確認」
9時35分、アトラス・ストラテジック・パートナーズ。9時52分、パシフィック・リッジ・キャピタル。矢代は着金のたびに画面の数字を確認し、安田が帝都銀行の資金管理部に電話で口頭確認を取り、前川がスプレッドシートに記録した。10時8分、ノルドヴィスト。10時25分、ヘリオス。10時41分、翠嵐キャピタル。
6社が終わった。残り1社。矢代は椅子の背にもたれた。ここまでの合計、1721億2500万円。
11時を過ぎた。7社目の着金がない。安田が帝都銀行に確認を入れた。中継銀行でのコンプライアンスチェックに時間がかかっているという回答だった。矢代は時計を見た。11時8分。11時15分。小野寺が矢代を見たが、何も言わなかった。
送金が1件でも不成立になれば、引受契約全体が揺らぐ。7社はそれぞれ個別の引受契約を締結しているが、払込の不履行があれば他社にも動揺が走る。そして梶原の最後通告——3月26日に完了しなければ、コミットメントラインの凍結。
11時23分。画面が動いた。
八重洲バリューパートナーズ。普通株2500万株。114億7500万円。
小野寺が言った。「普通株合計、4億株。1836億円。全社着金完了です」
会議室の空気が変わった。安田と前川が同時に背筋を伸ばした。矢代は画面を見つめたまま、数秒間、動かなかった。
小野寺が立ち上がり、窓のところまで歩いて行って、それからまた戻ってきた。目が赤かった。
「まだ終わっていない」と矢代は言った。「CBの着金は明日だ」
小野寺は頷いた。
「梶原さんに連絡を」と矢代は言った。
小野寺が頷いてスマートフォンを取り出した。梶原には着金完了を即座に伝える手はずになっていた。コミットメントラインの凍結回避は、この1報にかかっている。
小野寺が電話を切った。「梶原さん、確認したと。CL維持の条件は充足。ただし、次の条件協議は4月中旬に設定したいと」
矢代は頷いた。
残りはCB——転換社債型新株予約権付社債700億円。これは翌日の払込だった。
矢代は15階のCEO執務室に向かった。古賀に報告するためだ。エレベーターを降りて廊下を歩くと、秘書室の前を通る。秘書の1人が矢代の顔を見て、小さく頷いた。中に通していいという合図だった。
古賀は執務室の窓際に立っていた。背を向けたまま、窓の外を見ている。矢代が入ったことには気づいているはずだが、振り返らなかった。
「払込が完了しました。普通株4億株、1836億円。全7社の着金を確認しています」
古賀はしばらく黙っていた。それから低い声で言った。
「名誉会長に、報告しなければならんな」
矢代は答えなかった。
古賀が振り返った。67歳のCEOの顔には、安堵も怒りもなかった。ただ疲労があった。
「矢代君。これで当面は持つんだな」
「債務超過は回避できます。CLも維持されます。ただし——」
「分かっている」
古賀は右手を上げて矢代の言葉を遮った。「分かっているんだ。延命と引き換えに何を渡したか、くらいは」
矢代は頷いて、執務室を出た。
3月27日、午前。CB700億円の着金を確認した。転換価格510円。全額転換されれば約1億4000万株の新株が発行される。
新株4億株に、前年からの先行保有と、株価急落の局面で市場から拾われていた分を合わせ、普通株で約34パーセント。CBが転換されれば約40パーセント。34パーセントの実弾と、半年後に解禁される転換権という時限爆弾だった。
27日から28日にかけて、帝央電機からJASDEC——証券保管振替機構——に新株の新規記録通知が発出された。4億株の振替口座簿への記載。基準日は3月31日。この日時点で振替口座簿に記載されていなければ、アクティビスト連合は6月の定時株主総会で議決権を行使できない。グラントが「基準日前の払込」を条件にした理由がここにある。
3月31日。月曜日。基準日。
堂島が矢代のオフィスに来て報告した。「JASDEC記載、完了しています。7社とも振替口座簿に反映されました」
矢代は頷いた。発行済株式数は10億株から14億株に増えた。希薄化率40パーセント。既存株主の持分比率は3割近く薄まった。
しかし株価は反発した。510円の底値から、4月に入って620円まで上がった。21パーセントの反発。希薄化は悪材料だったが、それ以上に「債務超過に転落しない」という安心感が市場に広がった。増資で2500億超の現金が入り、自己資本が回復した。CLのコベナンツ抵触も回避された。格付機関も「ウォッチ・ネガティブ」を維持しつつ、「短期的な財務リスクは大幅に低下した」とのコメントを出した。
市場が歓迎したのは帝央電機の延命ではなく、経営陣に改革を迫る圧力のほうだった。
4月の第1週、矢代は7社のプロフィールを1社ずつ読み込んだ。
真壁圭吾が資料を持ってきたのは4月3日の午後だった。真壁は増資の公表直後から、独自に7社の投資テーゼ、過去の投資実績、出口戦略を調査していた。
「矢代さん、連合の顔は1つじゃない」
真壁は会議室のホワイトボードに7社の名前を書いた。マーカーのインクの匂いが部屋に広がった。
「まずグラント・キャピタル。連合の主導者で、新株に市場で買い集めた分を合わせて約1億7000万株。連合内最大の持ち分です。コングロマリット・ディスカウントの解消が投資テーゼ。要するに、非効率な複合企業を適正な事業単位に分解し、それぞれの本来価値を市場に認めさせる。帝央電機を丸ごと残す気はない。分解が出口だ」
真壁はホワイトボードにグラントの名前を赤で囲んだ。
「次にアトラス・ストラテジック。ボードルームの戦いに特化しているファンドです。経営者の交代を求める。過去5年で8社のCEO交代を実現しています。帝央電機でも狙いは同じ。古賀さんの首を取りに来る」
「古賀さん個人を、ですか」
「個人というより、現経営体制そのものです。社外取締役の独立性がない、監査委員会が機能していない。指名委員会等設置会社なのに、指名委員会に古賀さん本人が入っている。アクティビストにとって格好の攻撃材料です」
矢代は黙って聞いていた。アトラスの指摘は、矢代自身が入社直後に感じた違和感と同じだった。
「3番目、ヘリオス・バリュー。ディストレスト投資の専門ファンドです。経営危機の企業を安値で買い、再編後に売り抜ける。7社の中で最も短期志向で、出口は高値売却しかない。裏を返せば、ヘリオスにとっては株価さえ上がれば手段は問わない」
真壁はペンを置き、残りの4社について続けた。パシフィック・リッジはグラントと投資スタイルが近い中規模ファンド。ノルドヴィストは北欧系の運用会社で、ESGの観点からガバナンス改革を重視する。どちらもグラントの方向に追随する。
「注意すべきは国内2社です」と真壁は声を落とした。「翠嵐と八重洲は前年から株を仕込み、6ヶ月の保有要件を充足している。株主提案権の行使が可能です。連合は『増資で突然現れた』のではない。少なくとも半年前から準備されていた」
矢代は椅子の背にもたれた。増資は機会であって、計画の起点ではない。
「連合は一枚岩ですか」
「共同保有契約はありません。法的にはそれぞれ独立した投資家です。しかし事実上の協調行動を取っている。グラントが方向を示し、他社が追随する構造です。ただし出口戦略が違う。グラントは分解、アトラスはCEO交代、ヘリオスは高値売り抜け。出口が違うということは、いずれ内部で温度差が出るということです」
「温度差が出るのは、いつですか」
真壁は腕を組んだ。「会社の価格が決まるとき。MBO、TOB、いずれにせよ価格交渉の局面で、出口戦略の違いが表面化します。グラントは分解して各事業の価値を最大化したい。ヘリオスは1刻も早く高値で売り抜けたい。この2つは短期的には同じ方向を向いていますが、具体的な金額が見えた瞬間に利害が分かれる」
矢代は真壁の資料を閉じた。7社と個別に対話しなければならない。共同保有契約がない以上、連合として1括交渉に持ち込むこともできない。1社ずつ、個別に。それぞれの論理を聞き、それぞれの利害を把握し、それぞれの出口を見極める。
「もう1つ。株価が上がればアクティビストは出ていく、という楽観は禁物です。グラントの出口は高値売り抜けじゃなく分解です。株価が上がるほど、グラントの発言力はむしろ強まる」
矢代は頷いた。
小野寺が社内掲示板のモニタリングを始めたのは、増資払込の翌週からだった。
「本部長、見てください」
小野寺がプリントアウトを持ってきた。社内の匿名掲示板——正式な社内システムではなく、誰かが外部のサービス上に非公式に立ち上げたものだ——に書き込みが急増していた。
「外資に会社を売り渡した経営陣を許すな」「株価は年初から3分の1になった。持株会で積み立てた金が溶けていく」「終わりの始まりだ」「グラント・キャピタルって何者? ハゲタカじゃないのか」「リストラが始まるぞ。工場は全部売られる」
矢代はプリントアウトを1枚ずつ読んだ。怒り、不安、諦め、攻撃——さまざまな感情が匿名の言葉に凝縮されていた。書き込みの時間帯は昼休みと深夜に集中している。社員たちは仕事中は顔を上げて働き、昼と夜に不安を吐き出している。
「グラントのキャンペーンサイトのURLが貼られています」と小野寺が続けた。「このURLから、リストラの噂が広がっています」
グラントが「帝央電機を株主の手に」と題したキャンペーンサイトを立ち上げたのは4月上旬だった。経営陣の統治失敗を列挙し、事業分解による価値最大化の試算を数字と図表で示し、株主提案への賛同を呼びかけている。帝央電機を5つの事業に分解して個別に上場させれば、合計時価総額は現在の2倍以上になる——数字は正確だった。矢代はそのことを認めざるを得なかった。
「社内掲示板に、このサイトへのリンクが23件」と小野寺が言った。「閲覧数は推定で社員の1割以上です。リストラの噂と直結しています」
「放置しろ」と矢代は言った。
「放置ですか」
「消すと余計に騒ぐ。それに、掲示板の書き込みは社員の本音だ。本音を聞いておくことに意味がある」
小野寺は頷いた。
「人事部にも共有しておきます」と小野寺が言った。「退職者数のモニタリングを強化してもらう」
矢代は窓の外を見た。4月の東京。街路樹の色が、白からうっすらと緑に変わり始めていた。
その日の午後、志村が業務改革本部に来た。CFOは普段、矢代のオフィスには来ない。矢代が志村の執務室に出向くのが通例だった。
志村は立ったまま、小野寺のプリントアウトを手に取った。掲示板の書き込みに目を通し、眉間に皺を寄せた。
「持株会で積み立てた金が溶けていく、か」
「株価は年初の3分の1です。事実です」
「俺が聞きたいのは事実かどうかじゃない。この怒りが——6月の総会で、どういう形で出てくるかだ」
志村はプリントアウトをテーブルに置いた。矢代を見る目には、入社当初にあった警戒の色はもう薄れていた。代わりに、同じ船に乗っている人間同士の諦めに似た連帯があった。
「古賀さんは、おそらくまだ『社員は分かってくれる』と思っているんでしょう」
矢代は答えなかった。古賀のことを志村の前で批評する立場にない。
「俺はな、矢代」志村は声を落とした。「増資の数字を作ったのは俺だ。希薄化も、それが社員に与える影響も、少なくとも概算は分かった上で取締役会に諮った。だからこの掲示板の言葉は——正確に言えば、俺にも向けられている。そう思っている」
志村はそれだけ言って、出て行った。矢代は志村の背中を見送った。
4月第2週の夕方、啓介が矢代のオフィスに来た。
啓介は矢代の向かいの椅子に座り、足を組んだ。48歳の副社長は、増資が完了してからどこか余裕を見せるようになっていた。スーツの着こなしに隙がない。外資系投資銀行に3年いた人間の匂いが、仕草の端々に残っている。
「7社の分析は進んでいますか」
「真壁に手伝ってもらっています」
「グラントの出口は分解。アトラスはCEO交代。ヘリオスは高値売り抜け。——だいたいそんなところでしょう」
矢代は啓介を見た。真壁の分析を、ほぼ正確になぞっている。自分で調べたのか、独自の情報源があるのか。
「啓介さんは、連合をどう見ていますか」
「彼らの言っていることは正しい。ガバナンスが壊れている。資本コストを稼げていない。——全部正しい。厄介なのは、正しさの向こうに利益があることです。正しさが利益に直結しているから、彼らは最後まで正しいことを言い続ける」
矢代は黙った。
「矢代さん、6月の株主総会は荒れますよ」
「承知しています」
「総会の後のことも、考えておいたほうがいい」
啓介は立ち上がった。ドアに向かいながら振り返った。その目に浮かんでいるのは、不安ではなかった。
ドアが閉まった後、矢代はしばらくその場に座っていた。
その夜、矢代は午後10時過ぎに帰宅した。いつもより少し早い時間だった。
玄関のドアを開けると、リビングからテレビの音が聞こえた。靴を脱いでいると、紬の声が飛んできた。
「お父さん、テレビで言ってた。外国の怖い人たちがお父さんの会社を買ったって」
紬はソファに座って、テレビのリモコンを手に持っていた。9歳。サッカー焼けした顔で、矢代をまっすぐ見ている。テレビ画面にはバラエティ番組が映っていたが、その前にニュースを見ていたのだろう。
矢代はリビングに入って、紬の隣に座った。言葉を探した。
「怖い人たちじゃないよ。投資家だ」
「投資家って何」
「お金を出して、会社が良くなるように手伝ってくれる人たちだ」
紬は首を傾げた。テレビのニュースでは、そういう言い方はされていなかっただろう。「ハゲタカ」「乗っ取り」「株主戦争」——9歳の耳にも、そういう言葉は届く。紬は何か言いかけて、やめた。それから少し考えて、もう1度口を開いた。
「お父さんの会社、なくなっちゃうの?」
「なくならないよ」
矢代はそう言った。
聡子がキッチンから出てきた。矢代の顔を見て、一瞬だけ眉を動かした。それからテレビのチャンネルを変えた。紬が「まだ見てたのに」と抗議したが、聡子は答えなかった。
矢代が着替えに行こうとすると、聡子が小声で言った。
「莉子がスマートフォンで帝央電機のニュースを検索していたの。見つけて、叱った」
矢代は足を止めた。
「ニュースを見ること自体は——」
「見出しに何が書いてあるか分かる?」
聡子は矢代の言葉を遮った。矢代を振り返る目が据わっていた。
「『帝央電機、ハゲタカファンドに身売り』『会計不正の闇、底なし』。13歳の子どもがそれを読んで何を思うか、考えたことある?」
聡子の声は抑えられていたが、強かった。矢代は何も言えなかった。莉子はまた学校に行けなくなっていた。三月はほぼ毎日休み、四月の新学期に三日だけ通ったが、それきり続いていないという。朝、起き上がれないのだと聡子は言っていた。起きられないのか、起きたくないのか。その区別は、矢代にはつかない。同級生の間で父親の会社のニュースが話題になっているのだとしたら、莉子にとって学校はさらに居場所のない空間になる。
「何か、話したほうがいいのか」
「何を?」
聡子の声が硬くなった。矢代を見る目に、怒りだけではない何かがあった。
「会社が大変だけど大丈夫だよ、って? あなたがそう言って、莉子が安心すると思う?」
矢代は口を開きかけた。しかし言葉が出てこなかった。
聡子は矢代の顔をしばらく見ていた。何かを言おうとして、やめた。それからキッチンに戻った。食洗機が回る音がした。
莉子の部屋のドアは閉まっていた。その下に光は漏れていない。矢代はドアの前で立ち止まった。ノックしようとして、手を止めた。どの言葉も、ドアの向こうの13歳に届く気がしなかった。
矢代は手を下ろした。冴子の声が耳の奥でかすかに響いた。手のひらが冷たかった。ドアの前を通り過ぎた。廊下の先に、紬の部屋から微かに明かりが漏れていた。
リビングに戻ると、紬がまだソファにいた。テレビはバラエティ番組に変わっている。紬は矢代を見上げて言った。
「お父さん、会社大丈夫?」
「大丈夫だよ」
矢代はそう答えた。紬はしばらく矢代の顔を見ていた。何かを探すような目だった。それから何も言わずにテレビに目を戻した。
自室のデスクに向かった。ノートパソコンを開くと、メールが溜まっていた。真壁からの7社分析の追加資料。堂島からの増資後の株主構成整理。北村綜合法律事務所からの株主総会想定論点。矢代はメールを1通ずつ開いた。
矢代はメールの返信を打ち始めた。1通ずつ、丁寧に。打てることを打つ。動ける範囲で動く。
デスクトップの「更生」フォルダは、まだそこにあった。
壁の時計の秒針の音だけが響いていた。午後11時を過ぎていた。リビングのテレビの音はもう消えている。紬は寝たのだろう。聡子がキッチンの片づけを終えて寝室に向かう足音がした。矢代に声はかけなかった。
矢代は画面に向かったまま、しばらく動けなかった。
残現金:約3,500億円(増資着金)/株価:620円(+21%反発)/時価総額 約8,680億円/銀行団の姿勢:CL維持(条件付き)/家庭:会社の情報が家庭に制御不能に流入
第7話 城壁のない城
4月の最終週、関口が本社に来た。
業務改革本部の会議室に、矢代と志村と小野寺。関口は書類の束をテーブルに置いた。中央あおば監査法人のロゴが入ったファイルだった。
「過年度修正額が確定しました」
関口の声は平坦だった。50歳のパートナーは、この数字を矢代に伝えるために2ヶ月かけて精査を進めてきた。
「旧来型不正——売上前倒し、原価付け替え、不採算案件の損失先送り——の合計が約520億円。第2層、経営統合後のERP接合部分で発生した不正が約780億円。合計、約1300億円です」
会議室が静まった。1300億円。帝央電機の連結純利益の約1年分が消える。
志村が最初に口を開いた。「第2層の780億は、全容と見ていいんですか」
「現時点で把握できる範囲の全容です。ただし東南アジア子会社3社については精査が未了です。追加の可能性はある」
志村は目を閉じた。
「過年度の修正再表示として処理する方針でよろしいですか」と関口が言った。
矢代は頷いた。「一括で出す。市場には一回で全額を見せる」
「追加が出たら」
「出たら、そのときにまた出す。今出せるものを隠す理由はない」
関口はファイルを閉じた。帰り際に矢代を見て、小さく頷いた。
志村は会議室に残った。窓の外を見ている。
「1300億か」志村が呟いた。独り言のようだったが、矢代に聞かせる意図があった。「第1層はな、管理していたつもりだった。売上の前倒し、原価の付け替え——どれも数字を『整える』程度の話だった。少なくとも、当時の俺はそう認識していた」
矢代は立ったまま、志村の背中を見ていた。
「第2層は違う。ERPの接合部分で何が起きていたか、正直に言えば俺にも全容が見えていなかった。おそらく、旧ヴェクトラ側のシステムと旧帝央電機側のシステムが噛み合わない部分で、現場が独自に数字を動かしていたんだと思う。それを知ったのは——」
志村は言葉を切った。矢代は待った。
「知ったのは、お前が来てからだ」
矢代は何も言わなかった。
翌日、1300億円の過年度決算訂正がTDnetに開示された。取引時間終了後の発表だったが、翌朝の株価は寄り付きから売り気配が優勢で、前日比マイナス60円の560円で始まった。3月の増資後に620円まで反発していた株価が、再び500円台に沈んだ。小野寺が社内掲示板のモニタリングを報告した。「増資で集めた金が損失に消える」「外資に2500億渡して、1300億が不正で蒸発。差し引きで1000億しか残らない」。数字の正確さはともかく、社員の怒りは矢代にも理解できた。
翠嵐キャピタルが株主提案を提出したのは、その2週間前——4月15日のことだった。
社外取締役2名の追加選任と、事業ポートフォリオ見直し委員会の設置。提出者は翠嵐1社だが、その背後にアクティビスト連合7社の34パーセントが控えている。
矢代は北村綜合法律事務所の会議室で、提案書のコピーを読んだ。北村が法的分析を伝えた。
「翠嵐は前年9月から6ヶ月以上保有しており、株主提案権の行使要件を充足しています。提案内容に瑕疵はありません。取締役会として対応が必要です」
矢代は翠嵐の提案書をもう1度読んだ。事業ポートフォリオ見直し委員会。委員の半数以上を社外取締役とすること。見直しの結果に基づき、非中核事業の分離を含む抜本的な事業再編を検討すること。グラントの主張そのものが、翠嵐の名前で提出されていた。
「6月の総会が本番だ」と矢代は言った。
北村が頷いた。「委任状争奪戦になります。34パーセントの議決権は確定票です。過半数まであと16パーセント——ISS・グラスルイスの推奨次第で、機関投資家票が流れれば到達は現実的です」
矢代は法律事務所を出て、大手町に向かった。タクシーの中で真壁に電話した。
「プロキシアドバイザーが要る。国内の機関投資家の議決権行使方針を個別に分析できる人間だ」
真壁は即座に答えた。「桐生奈央。日本プロキシサービス。元大手証券のIR部門。委任状勧誘の実務では1番信頼できる」
矢代はその日のうちに桐生に連絡を取った。
桐生は翌日、本社に来た。
桐生は矢代のオフィスで、ノートパソコンの画面を開いた。基準日時点の実質株主リストが表示されている。
「矢代さん、まずシェアホルダー・マップを見てください」
桐生は画面を指で示した。「アクティビスト連合が約34パーセント。議決権行使率を考慮すると、行使構成比では約38パーセントに増幅されます。個人株主の行使率が低いためです」
「38パーセント」
「ええ。会社側の固定票——創業家の資産管理会社と財団——は合計約11パーセント。行使構成比で約13パーセント。残りの約49パーセントが浮動票です」
桐生はリストをスクロールした。「浮動票を3つに分けます。第1群、ISS追随型のパッシブファンド。行使構成比で約9パーセント。ISSの推奨にほぼ機械的に従います。第2群、独自判断型のアクティブファンド。約13パーセント。ISSは参考にするが、自社の議決権行使基準で判断する。個別面談が効きます。第3群、対話重視型の国内大手運用。約16パーセント。会社との直接対話で判断する。ここが最大のブロックです。残る約11パーセントは個人株主と取引先の政策保有。組織的な働きかけが難しく、読みにくい票です」
矢代は数字を頭の中で組み立てた。38パーセント対13パーセント。25ポイントの差を、浮動票で埋めなければならない。
「勝てますか」
桐生は即答しなかった。画面を閉じて、矢代を見た。
「ISSが全面賛成なら勝てます。しかしISSが古賀さんと啓介さんに反対推奨を出した場合——そしてその可能性は高いのですが——対話重視型の離反を1割以下に抑えなければ、古賀さんと啓介さんは否決圏に落ちます」
「1割以下」
「はい。対話重視型の2割が離反すれば、古賀さんの賛成率は48パーセント程度。否決です。1割の離反でようやく51パーセント。拮抗です」
矢代は黙った。
「改革案が必要です」と桐生が言った。「機関投資家が聞きたいのは、『現経営陣を選任する理由は何か』です。不正を起こした経営陣をもう一期続投させる合理的な理由。それを説明できなければ、票は取れません」
「CEO交代のスケジュールを示す必要がある、と」
「少なくとも、後継者選定プロセスの開始と、不正再発防止策の具体的なロードマップ。それなしに機関投資家を説得するのは困難です」
桐生は立ち上がり、窓際に歩いた。「矢代さん、もう一つ。グラントのキャンペーンサイト、ご覧になりましたか」
矢代は頷いた。
「あのサイトはISSのアナリスト向けに設計されています。論点の整理、エビデンスの付け方、反論への先回り——全てがプロキシファイトの教科書通りです。グラントはこれまでに北米で5回、欧州で3回の委任状争奪戦を経験しています。日本では初めてですが、準備は万全です」
5月第1週。矢代はアクティビスト連合とのSR——シェアホルダー・リレーションズ——の第1回を迎えた。
グラント・キャピタルのルーカス・グラントが来日していた。面談場所は大手町のパレスホテル東京のスイートルーム。グラント側は3人——グラント本人、東京駐在のアナリスト、ニューヨークの法務担当がビデオ通話で参加。帝央電機側は矢代と真壁。
グラントは51歳。長身で、グレーのスーツに白いシャツ。ネクタイはしていなかった。握手は短く、乾いていた。
「矢代さん、お会いできて光栄です。あなたが増資を設計したことは知っています」
英語だった。通訳はいない。矢代も真壁も英語で応じた。グラントの東京駐在アナリストはメモを取っていたが、一言も発しなかった。ニューヨークからビデオで参加している法務担当の画面は小さく、時折ペンを動かす手だけが見えた。
「増資のおかげで、帝央電機は破綻を免れました」と矢代は言った。
グラントは薄く笑った。「免れた。しかし問題は解決していない。破綻は避けた。では次の問いは、なぜこの会社が今の形で存在し続ける必要があるのか、です」
矢代は答えなかった。グラントは待たずに続けた。
グラントはテーブルの上にタブレットを置いた。画面にはキャンペーンサイトと同じ試算が表示されている。帝央電機を5つの事業に分解した場合の合計時価総額。
「帝央電機の時価総額は約8700億円。しかし事業ごとに分解すれば、合計で1兆7000億円以上になる。差額の8000億円以上が、コングロマリット・ディスカウントとして消えている。株主の金が、非効率な組織構造に吸い取られている」
矢代は答えた。「シナジーの数字は前提次第で変わります。事業分解のコストを織り込んでいますか」
「織り込んでいます。分解コストを差し引いても、1兆4000億円は残る。現在の時価総額の1.6倍以上です」
グラントはタブレットを脇に置いた。矢代を見た。目は冷たかったが、軽蔑はなかった。相手を正確に見る目だった。
「矢代さん、あなたは外資系コンサルティング会社にいた。企業の分解と再構築は、あなた自身が手がけてきた仕事のはずです。帝央電機のコングロマリット・ディスカウントが解消できていないことは、あなたにも見えているはずです」
矢代は黙った。
グラントは矢代の沈黙を見て、次の一手を繰り出した。
「もう一つ」とグラントが言った。「私は帝央電機の企業理念を読みました。創業者の座右の銘——『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』」
グラントは日本語で、一語ずつ正確に発音した。アクセントはほぼなかった。練習したのだろう。何度も。矢代は不意を突かれた。真壁も表情を動かさなかったが、手元のペンが止まっていた。
「素晴らしい言葉です」とグラントは英語に戻った。「人が城であり、人が石垣であり、人が堀である。制度ではなく人を信じるということ。私はこの哲学を尊敬します」
1拍の間があった。グラントの目が冷えた。
「しかし、お聞きしたい。『人は城』と言いながら、あなたたちは城壁どころか堀すら作らなかった。内部統制を整備しなかった。監査委員会を機能させなかった。ERPの接合部分を放置した。人を信じるということは、人に任せて放置することとは違う。統制がないことを哲学と呼ぶなら、それは怠慢を別の名前で呼んでいるだけだ。それで城が落ちたら株主のせいですか」
沈黙が降りた。パレスホテルのスイートルームの窓から、皇居の緑が見えていた。グラントのアナリストはメモを取る手を止めていた。ニューヨークの法務担当の画面も動かなかった。
「改革案を提示する準備をしています」と矢代は言った。
「改革案の中にCEO交代は含まれていますか」
矢代は1瞬、答えを迷った。「現時点では、取締役会で議論中です」
グラントは頷いた。しかしその目は、答えを見透かしていた。CEO交代が含まれていないことを。
面談は一時間で終わった。矢代と真壁がエレベーターで降りるとき、真壁が言った。
「グラントの日本語、練習してきていましたね」
「ああ」
「あの引用は計算です。しかし計算だからといって、間違っているわけではない」
矢代は何も言わなかった。グラントの「城壁のない城」という比喩が、頭から離れなかった。
その週、社内掲示板にグラントのキャンペーンサイトのURLが貼られ、スクリーンショットがメッセンジャーグループで拡散した。書き込みは2つに分かれていた。「外資に食い物にされる」と反発するものと、「この数字が本当なら、今の経営陣が価値を毀損している」と冷静に分析するもの。
5月上旬のある午後、矢代は古賀の執務室を訪ねた。
「古賀さん、6月の総会に向けて、改革案を提示する必要があります。機関投資家を説得するために——」
「改革案は出す。しかしCEO交代のスケジュールは出せん」
古賀の声は静かだったが、動かなかった。67歳のCEOは机の上の書類から目を上げず、矢代の方を見なかった。
「後継者の選定プロセスを開始したという事実だけでも——」
「矢代君。後継者を選ぶのは指名委員会の仕事だ。私が退任時期を公表すれば、それは古賀が辞めると宣言するのと同じだ。レームダックのCEOに銀行も取引先もついてこない」
矢代は黙った。
「改革案が具体的でなければ、機関投資家は動きません」
「分かっている。しかしCEO交代は出せん」
古賀は立ち上がり、窓に歩いた。大手町のビル群が午後の光を受けている。
「矢代君。名誉会長が俺を取締役にしたのは、俺が数字を読めたからじゃない。現場の人間の顔を覚えていたからだ。俺が辞めれば、茨城の連中は誰に頼ればいい。経産省か。アクティビストか」
矢代は答えなかった。
矢代は執務室を出た。
5月の連休明け、矢代は茨城に向かった。
帝央電機の茨城工場は東京ドーム10個分の敷地に広がっている。戦後の復興期に取得した土地だった。70年の歴史を持つこの工場は、帝央電機のものづくりの心臓部だった。産業用モーターの生産ライン、半導体の検査棟、素材技術の研究棟。
工場長に案内されて生産ラインを回った。敷地の奥に創業時から稼働している高温炉がある。温度管理データは門外不出で、この炉でしか実現できない素材があると工場長が説明した。作業員たちは矢代の存在に気づいていたが、目を合わせなかった。本社から来た執行役に声をかける空気ではない。食堂の自動販売機の前で、若い社員が2人、スマートフォンの画面を見ていた。グラントのキャンペーンサイトだった。
午後、矢代は第3棟の産業用モーターの組立ラインに足を運んだ。ラインは清潔に保たれていた。コンクリートの床に油染みはなく、工具は棚に整然と並んでいる。そこで班長の宮田和也に会った。53歳。高卒で入社して35年。帝央電機の産業用モーターの品質を支えてきた人間だった。手は油で黒ずんでいたが、動きには職人の精度があった。
宮田は矢代を見て、一瞬だけ目を細めた。それから工具を置いて、矢代に向き直った。
「本部長さん、一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「この工場は、どうなるんですか」
矢代は正直に答えた。「分からない。6月の株主総会の結果次第で、いくつかのシナリオがあります」
宮田は頷いた。それから静かに言った。
「技術を残してくれるなら、会社の名前はなくなってもいい」
矢代は言葉を失った。
宮田は続けた。「俺たちが作っているモーターは、世界で3社しか作れない。この工場と、この技術と、ここにいる人間がいれば、看板は何でもいいんです。帝央電機じゃなくなっても、モーターは回る」
矢代は「分かりました」と言った。それ以上の言葉が出なかった。
宮田は頷いて、また工具を手に取った。ラインが動き始めた。モーターのローターが回転する低い振動が、工場の床を通じて矢代の足裏に伝わった。帰り際、工場長が敷地の端を指した。高温炉の煙突から薄い排気が上がっている。「あの炉を止めたら、同じ温度に戻すのに3ヶ月かかります。70年間止めなかったのは、止めたら元に戻らないからです」。矢代はその煙突をしばらく見ていた。
その夜、矢代は工場近くのビジネスホテルに泊まった。国道沿いの、古いが清潔なホテルだった。フロントの女性は矢代を見て「帝央電機さんですか」と聞いた。この辺りではホテルに泊まるスーツ姿の人間は大抵そうなのだろう。
部屋に入り、ジャケットを脱いでベッドに座った。靴下に工場の床の振動がまだ残っているような気がした。宮田の言葉が頭から離れなかった。「技術を残してくれるなら、会社の名前はなくなってもいい」。その言葉と、グラントの「城壁のない城」が、矢代の中で重なった。
午後9時過ぎ、聡子に電話をかけた。
「今日は茨城にいる。工場を見てきた」
「紬の塾のこと、どうする?」
聡子の声は平坦だった。
「紬が嫌がっているなら、無理に行かせなくていい」
「嫌がっているかどうかは本人に聞いてほしい。紬はお父さんに聞いてほしいの。私が代わりに全部決めるの、もう疲れた」
矢代は黙った。
「莉子は」
「ほとんど行けていない。今日も欠席。担任から電話があった。保健室登校はどうかと言われたけど、莉子は校門の前で止まるの。足が動かないって」
「分かった。帰ったら話す」
「帰ったら、ね」
電話を切った。
しばらくして、矢代はスマートフォンを手に取り、別の番号に電話をかけた。
「冴子さん」
「あら。珍しい。出張先から?」
冴子の声は柔らかかった。
「茨城の工場にいる」
「工場? あなたが」
「班長に言われた。技術を残してくれるなら、会社の名前はなくなってもいい、と」
冴子は少し黙った。それから言った。「重い言葉ね。でもその人の気持ちは分かる気がする。看板より中身——実家も昔、看板が降りたことがあるの。でもね、残るものは残る」
「会社は名前じゃない、か」
「名前にこだわっているのは、中にいる人じゃなくて、外から見ている人でしょう。経営陣とか、株主とか。現場の人間は、自分の手で何を作っているかしか見ていない」
矢代は冴子の言葉を噛んだ。
「うちにもね」と冴子が続けた。「銀行の人が来るの。帝央電機の話をするお客さん、増えたわよ。梶原さんも先週いらしたわ。銀行も動いている感じがする」
矢代は少し驚いた。梶原がファームに来ている。
「ねえ矢代さん」と冴子が言った。「その話、奥さんにもしたの?」
矢代は答えなかった。
「店に来なさいよ、帰ったら」
「ああ」
電話を切って、矢代はベッドに横になった。
ホテルの窓の外に、工場の夜間照明が見えた。高温炉の煙突の先端に、かすかな赤い光が灯っている。70年間消えなかった火。生産ラインは24時間稼働している。矢代が悩んでいる間も、モーターは回っている。
桐生は翌週から機関投資家への個別訪問を開始した。矢代も同行する。改革案の提示。ガバナンス強化のロードマップ。不正再発防止策。具体的な数字と工程表を持って、一社一社を回る。
最初の訪問先は、対話重視型に分類された国内大手運用会社だった。桐生は事前に議決権行使方針を分析し、この運用会社が「取締役の在任期間と不正発生の関係」を重視していることを矢代に伝えていた。
矢代は改革案のスライドを順に説明した。内部統制の再構築。ERP接合部分の全面監査。第三者委員会による検証と再発防止策。監査委員会の実効性強化。説明は滑らかだった。しかし質疑で必ず同じ問いが来た。
「CEO交代のスケジュールは」
矢代は答えた。「指名委員会で後継者選定プロセスを開始しています。ただし具体的な時期はまだ——」
相手のアナリストがペンを置いた。「矢代さん、率直に伺います。古賀CEOは次の株主総会を最後に退任する意向はありますか」
矢代は沈黙した。2秒か3秒。しかしその沈黙が答えだった。
帰りのエレベーターで、桐生が言った。「沈黙は答えになります。次からは別の返し方を考えましょう」
しかしその改革案には、CEO交代のスケジュールが入っていなかった。矢代はそのことを知りながら、機関投資家の前に座り続けた。2週間で14社を回った。手応えがあったのは4社。明確に反対を示唆したのが3社。残りは態度を保留した。「ISSの推奨が出るまで動かない層です。推奨が5月末に出る。そこから総会まで3週間」と桐生は言った。
残現金:約2,900億円/株価:570円/時価総額 約7,980億円/銀行団の姿勢:総会の結果待ち/家庭:宮田の言葉を聡子には話せない
第8話 折り鶴
5月の最終週、ISS——インスティテューショナル・シェアホルダー・サービシズ——のレポートが出た。
桐生が矢代のオフィスに入ってきたのは朝8時過ぎだった。ノートパソコンを開き、画面を矢代に向けた。英文のレポートが表示されている。
「古賀CEOと御子柴副社長に反対推奨。他の取締役候補には賛成推奨です」
矢代は画面を読んだ。ISSは会計不正発覚後の経営陣の対応を「不十分」と評価し、古賀と啓介の二名について反対推奨を出した。反対推奨の理由は三点に整理されている。第一に、不正発覚後のCEO交代スケジュールが未提示であること。第二に、内部統制の再構築に向けた具体的な工程表が不十分であること。第三に、御子柴副社長が創業家出身であり、ガバナンス改革の実効性に懸念があること。社外取締役については「独立性に一定の課題はあるが、現時点での交代は却って統治の空白を生む」として賛成推奨。株主提案の二議案——社外取締役追加選任と事業ポートフォリオ見直し委員会設置——には、いずれも賛成推奨を出した。
「グラスルイスは」
「明日か明後日に出ます。ほぼ同内容で追随するとみています」
桐生は椅子に座り、両手を膝の上に置いた。「矢代さん、これで票の構図が変わります。ISS追随型のパッシブファンド——行使構成比で約9パーセント——の大半が古賀さんと啓介さんに反対票を投じます。問題は独自判断型と対話重視型です」
「2週間で14社を回った。手応えがあったのは4社だ」
「はい。しかしISS推奨が出たことで、態度を保留していた層の一部が動きます。推奨に引きずられて反対に回る社もあれば、逆に『ISSが反対を出したからこそ自分たちは独自判断で会社を支持する』と考える社もある。ネットで3から5パーセントが動く。ギリギリです」
矢代は黙って計算した。固定票13パーセント。手応えのあった4社で7パーセント。合わせて20パーセント。ISS推奨後に保留層から上積みが3パーセントとして、23パーセント。過半数まであと27ポイント。残りの対話重視型と独自判断型のうち、どれだけを最後の3週間で引き寄せられるか。
「足りますか」
桐生は首を横に振った。「足りません。このままでは古賀さんと啓介さんは否決圏です。他の取締役候補は50パーセント台後半で可決できますが、2人だけが落ちる可能性が高い」
「落ちたらどうなる」
「古賀さんが取締役に選任されなければ、実質的にCEOの地位を失います。制度上は取締役でなくても執行役に留まれますが、株主が取締役選任を否決した人間を、取締役会が代表執行役として残す正統性はありません。残せば、取締役会自体の信任が問われます」
矢代は窓の外を見た。大手町のビル群が朝日を受けている。古賀が消えれば、誰がCEOになるのか。啓介か。しかし啓介も反対推奨の対象だ。二人とも否決されれば——取締役会に社内取締役は志村だけになる。
「水城さんに伝えてください。総会の想定シナリオを更新する必要があります」
桐生は頷いて立ち上がった。ドアの前で振り返った。「矢代さん、あと三週間です。三週間でできることをやりましょう」
水城凛子が帝央電機の総会準備に本格的に関与し始めたのは、5月の第2週からだった。
北村綜合法律事務所の会議室。長テーブルに広げられた資料の山。水城は37歳。黒のパンツスーツに、白いブラウス。髪は後ろで1本に束ねている。表情は穏やかだが、目は冷たかった。
「電子提供措置の開始が6月1日、招集通知の発送が6月8日、総会が6月23日。招集通知は中14日でぎりぎりですが、これ以上前倒しすると校正が間に合いません」
水城はホワイトボードに時系列を書いた。一つ一つに法的根拠を付している。それから招集通知と電子提供資料の記載事項を一行ずつ検証し始めた。法律の条文を諳んじながら、校正刷りに赤ペンを入れていく。わずかなミスが決議取消訴訟の根拠になり得る。水城はそのことを、実務で何度も見てきた。
水城の隣に座っていた宮内彩——北村綜合のアソシエイト、20代後半——が想定問答のドラフトを広げた。質疑応答で想定される質問が42項目、それぞれに対する回答の骨子と、回答してはならない地雷が赤字で示されている。
「水城さん、一つ確認があります」と矢代が言った。
「検査役のことですね」
矢代は頷いた。東京地裁商事部が株主総会検査役として丸津陽平弁護士を選任したという通知が、前日届いていた。
水城は表情を変えなかった。「丸津先生は私が指導した案件でも検査役を務めています。こちらの手法は知り尽くされている。手続的な瑕疵があれば即座に記録される。逆に言えば、瑕疵がなければ記録が味方になります」
「検査役は会社側にも株主提案側にも属さない。中立の記録者だ」
「はい。ただし中立であることと無害であることは違います。丸津先生の検査報告書は東京地裁に提出され、仮に総会決議取消訴訟が提起されれば証拠として使われます。一つの手続的ミスが、総会決議そのものを覆す可能性がある」
水城はホワイトボードに「丸津検査役」と書き、その下に「招集手続」「議事運営」「採決方法」「集計過程」と四つの項目を並べた。
「4つとも完璧でなければなりません」
矢代は黙って聞いていた。
6月に入ると、矢代の日常は2つに割れた。昼は機関投資家への訪問と総会準備。夜は水城・桐生・永田との会議。
永田真理が委任状の回収状況を報告したのは、6月13日の夕方だった。東邦信託銀行の会議室。永田は40歳。帝央電機の証券代行を5年以上担当している。書類の束を手に、数字を淡々と読み上げた。
「6月13日時点。議決権行使書の返送率は約3割。うち会社側賛成が約53パーセント、株主提案側賛成が約47パーセントです」
桐生がメモを取りながら聞いた。「重複行使は」
「3件。いずれも同一株主が会社側に議決権行使書を返送した後、アクティビスト側の委任状にも署名しています。後着優先の原則により、3件とも株主提案側が有効です」
矢代は数字を頭の中で組み立てた。返送率3割の時点で会社側53パーセント。しかしこの数字は機関投資家の電子投票を含んでいない。ICJプラットフォーム経由の電子投票は総会前日の午後5時まで変更可能であり、最終的な賛否は総会前夜まで流動的だ。
「電子投票の集計は」
永田が別の書類を出した。「機関投資家の電子投票は6月13日時点で約7割が行使済みです。残り3割は締切直前まで動きます」
水城が口を開いた。「永田さん、当日出席者の処理について確認します。電子投票・議決権行使書・委任状のいずれを提出済みであっても、当日本人が出席した場合はすべて無効です」
「はい。当日受付で株主番号を照合し、事前行使の有無に関わらず投票用紙を配布します。当日出席した株主の事前行使分は、集計時に除外します」
水城は頷いた。「個人株主の当日出席が増える可能性があります。テレビカメラが来ますから」
矢代は水城を見た。「テレビカメラ」
「御子柴遼一さんのワイドショー発言の影響です。メディアは総会を取材に来ます。会場前にカメラが並ぶことを前提に、動線を設計する必要があります」
矢代の記憶に、遼一の映像が蘇った。
御子柴遼一——芸名、南條遼——がワイドショーのカメラの前に立ったのは、5月の最終週だった。
矢代はそれをリアルタイムでは見ていない。翌日、小野寺がオフィスに入ってきて「これ、見ましたか」とスマートフォンの画面を差し出した。
画面の中の遼一は51歳。俳優としてのキャリアは30年を超える。グレーの混じった短髪に、白いシャツ。照明の当たり方を知っている人間の立ち姿だった。表情は穏やかだったが、目に感情を含ませる技術があった。
「父が作った会社です。父は人生のすべてをあの会社に注ぎました。いま会社が大変な状況にあることは知っています。私は経営には関わっていませんが、一人の株主として、一人の家族として、お願いしたい。父の会社を見捨てないでほしい」
矢代は画面を消した。小野寺が黙っている。
遼一は帝央電機の株式を0.2パーセント——約16億円分——保有しているが、経営には関与していない。名誉会長が「あいつはあいつの城を築くんだ」と容認した長男だ。芸能界で30年を過ごした遼一にとって、カメラの前で家族を守ろうとする行為だったのだろう。
「SNSで拡散されています」と小野寺が言った。「『南條遼が泣きながら訴えた』というタイトルで——実際には泣いていないのですが——動画が200万回再生を超えています。コメント欄には『ハゲタカから日本の会社を守れ』という書き込みが並んでいます。テレビ局から総会当日の取材申請が3件来ています」
矢代は社内掲示板の反応を聞いた。小野寺が画面をスクロールしながら読み上げた。「遼一さんが声を上げてくれた」「外資に負けるな」。しかし別のスレッドには「経営陣が辞めないから話がこじれている」「遼一は経営に口を出すな」という書き込みもあった。社内も割れている。
水城に電話した。
「遼一さんの件は把握しています」と水城は即答した。「総会当日、会場前にテレビカメラが来る前提で動線を設計します。受付と会場入口の間に仕切りを設け、カメラが会場内を撮影できないようにします。株主の出席を妨げることはできませんが、議事運営の秩序を保つ措置は取れます」
「個人株主の当日出席が増えた場合の影響は」
「当日出席票は全体の約5パーセント。個人株主は会社寄りの傾向がありますが、遼一さんの発言を見て来る層は必ずしもそうではない。創業家に同情する票もあれば、『経営陣が悪い』と考える票もある。読めません。それから、当日本人が出席した場合は事前行使がすべて無効になります。会社側に投票済みの個人株主が当日来て、会場の空気に流されて投票用紙を白紙で出す——そういう事態も想定しなければなりません」
矢代は電話を切った。
6月の第2週も、矢代は残りの機関投資家への訪問を続けていた。ISS推奨が出て以降、面談の空気は変わった。質問は具体的になり、そして必ず同じ問いに行き着いた。CEO交代のスケジュールは。矢代は桐生の助言に従い、沈黙ではなく言葉で応じた。「指名委員会において後継者選定プロセスを開始しています。来年の定時株主総会までに方向性をお示しする考えです」。回答の曖昧さは誰にでも分かった。古賀はもう一年続投する、という意味だからだ。矢代に嘘をつく気はなかった。しかし真実をすべて話すこともできなかった。
面談の帰り道、桐生が言った。
「あと3社です。態度を決めていない対話重視型が3社残っています。この3社が全部会社側につけば、古賀さんの賛成率は51パーセント前後。1社でも反対に回れば50パーセントを割ります」
「三社か」
「はい。三社の合計で約四パーセント。この四パーセントが見えない。ISS推奨が出た後もまだ態度を決めていないということは、彼らは最後まで悩んでいるということです」
桐生はタクシーの窓から外を見た。六月の日差しが丸の内のビル群を白く照らしている。
「矢代さん。最悪の場合、古賀さんと啓介さんだけが否決されて、他の取締役候補は可決される可能性があります。株主提案は否決されるでしょうが、反対率40パーセント超で可決された取締役選任は、実質的に信任されたとは言えない」
矢代は黙っていた。
6月の第3週に入った。総会まであと一週間。
水城が想定問答の最終版を持ってきた。北村綜合の会議室に、矢代、桐生、永田、水城、宮内が集まっている。五人がテーブルを囲み、当日のシミュレーションを行った。
水城が議長役を務める古賀のために作成したスクリプトを読み上げた。事業報告、議案説明、質疑応答の流れ。質疑は一人三分を目安とし、議長が裁量で制限できる。ただし丸津検査役が議事の公正性を記録しているため、質問を不当に打ち切ることはできない。
「想定質問の中で最も危険なのは」と水城が宮内に目を向けた。
宮内が資料をめくった。「質問17番。『古賀CEOは不正発覚後も辞任せず、今回も再任を求めている。再任の合理的理由を説明してほしい』。これに対して古賀さんが台本から逸脱する可能性があります」
矢代は古賀の顔を思い浮かべた。茨城の連中は誰に頼ればいい——あのとき古賀はそう言った。総会の壇上で同じことを言うかもしれない。現場の名前を出し、自分がいなければ現場が困ると訴えるかもしれない。感情に訴える答弁は個人株主には響くが、機関投資家には逆効果だ。
「古賀さんには、スクリプト通りに答えていただく必要があります」と水城が言った。
「それは私から伝えます」と矢代が言った。
水城は矢代を見た。「矢代さん、もう一つ。テレビ局の取材申請は3件です。会場前のカメラ位置と取材エリアは建物管理会社と調整済みです。受付は九時半開始。当日の流れを最終確認させてください」
水城はホワイトボードに時系列を書き始めた。九時半、受付開始。十時、開会。議長挨拶。事業報告。議案説明。質疑応答。採決。閉会。各パートの想定時間。議長のメモの差し入れ方。丸津検査役の着席位置。永田の集計手順。投票用紙の配布と回収の動線。一つ一つの動きが法的根拠に紐づけられている。
永田が最新の集計を報告した。「6月17日時点。電子投票を含めた行使率は約85パーセント。古賀CEOの賛成率は現時点で51パーセント弱。啓介副社長は52パーセント弱。最終日までに残り約5パーセントの行使が見込まれます」
桐生が数字をメモしながら言った。「まだ動きます。電子投票の変更期限は総会前日の午後五時。その直前に動く層がいます」
永田が頷いた。「過去三年の傾向では、最終日に行使される票の約6割が会社提案に賛成しています。ただし今年は読めません」
水城が時計を見た。「あと六日です。当日のリハーサルを金曜日に行います。古賀さんには想定問答の読み合わせをお願いします」
その夜、矢代は九時過ぎに大手町のオフィスを出た。
タクシーに乗り、運転手に「白金台」と告げた。今夜は家に帰ると決めていた。冴子のところではなく。
マンションのドアを開けると、リビングの明かりが消えていた。キッチンのカウンターに聡子が書き置きを残していた。「莉子の件で担任と電話。紬は寝ました。ごはんは冷蔵庫に」。
矢代は冷蔵庫を開けた。ラップのかかった皿が二つ。肉じゃがと、きゅうりの浅漬け。矢代は皿をテーブルに置いて、椅子に座った。
ダイニングテーブルの隅に、小さな折り鶴があった。
赤い折り紙で折られていた。翼の先が少し曲がっている。大人の仕事ではなかった。矢代は折り鶴を手に取った。紬だ。紬が折ったものだろう。理由は分からない。テーブルの上に、ただ一つ、置いてあった。
矢代は折り鶴をそっとテーブルに戻した。肉じゃがを食べ始めた。冷たかったが、味はちゃんとしていた。
莉子の部屋の方は静かだった。聡子が「莉子の件で担任と電話」と書いていた。担任との面談は何度目だろう。五月の半ばからは、週に一度の登校も完全に途切れていた。遼一のワイドショー出演で帝央電機が再び話題になると、莉子は自室からも出なくなった。保健室登校の計画も、校門の前で止まった。足が動かないと言った。
矢代が莉子と直接話したことは、ほとんどなかった。帰宅は深夜で、朝は莉子より先に出る。莉子が自室に閉じこもっている間、矢代は会議室にいた。
遼一の発言がワイドショーで繰り返し流れた週、莉子が聡子にこう聞いたと、聡子から聞いた。「お父さんの名前は出てないよね?」。
矢代は肉じゃがの残りを食べ終えた。皿を洗い、テーブルを拭いた。折り鶴だけが、テーブルの上に残った。
廊下を歩いて、莉子の部屋の前を通った。ドアは閉まっている。明かりは漏れていない。矢代は立ち止まった。ノックしようとした。手を上げて、ドアの前で止めた。何を話すのか。学校のことか。会社のことか。遼一のことか。矢代には言葉がなかった。
矢代は手を下ろした。ノックしなかった。廊下を戻り、自室のデスクに向かった。資料が積まれている。明日の面談の準備。態度を決めていない三社のうちの一社に会う。
矢代は椅子に座り、資料を開いた。しかし数字が頭に入らなかった。紬はなぜ折り鶴を折ったのか。誰のために。理由は言わなかった。十歳の子どもが、テーブルの上に赤い折り鶴を一つ置いた。それだけのことだった。
矢代は資料を閉じた。明日の面談のことは明日考える。
6月19日、木曜日。総会まで4日。
矢代は態度未定の三社のうち、最後の一社との面談に臨んだ。国内大手運用会社の本社ビル。桐生が隣にいる。相手はスチュワードシップ推進部の部長と、コーポレートガバナンスの担当者。
面談は1時間に及んだ。改革ロードマップの説明。内部統制の再構築スケジュール。ERP接合部分の監査進捗。質問は具体的で、相手は数字を正確に読んでいた。
最後に部長が言った。「矢代さん。率直に申し上げます。御社の改革案は評価しています。しかしISS推奨が出ている以上、当社としてはリスクを取りにくい。古賀CEOと啓介副社長については反対票を投じる方向で検討しています。ただし、最終判断は明日の投資委員会で行います」
桐生が会議室を出た後、エレベーターの前で言った。「三社のうち二社は会社側に投票する見込みです。しかし今の一社が反対に回ると、古賀さんの賛成率は50パーセントの境界線上です」
「拮抗か」
「拮抗です。当日出席の個人株主票で上乗せできるかどうか。しかし遼一さんの件で、当日出席の個人株主の内訳が読めなくなっている」
矢代は6月の空を見上げた。梅雨入りの兆しがある薄曇りだった。
桐生が最後に言った。「矢代さん、もう打てる手は打ちました。あとは待つしかありません」
待つ。矢代はその言葉を噛んだ。聡子もずっと待っている。
6月20日、金曜日。総会リハーサル。
帝央電機の本社ビル、大会議室。テーブルと椅子が総会当日の配置に並べられている。壇上に議長席。その隣に検査役の席。左手に事務局。右手にスクリーン。
古賀が議長席に座った。水城が用意したスクリプトが手元にある。想定問答のカードが順番に並んでいる。
水城が会場の後方から声をかけた。「古賀さん、事業報告のパートを通しでお願いします」
古賀はスクリプトを読み上げた。声は落ち着いていた。70年の歴史を持つ企業のCEOとして、株主に向かって事業の現状を説明する。不適切な会計処理の発覚と、その対応策。内部統制の再構築に向けた取り組み。古賀の声は、矢代が知っている古賀——現場の人間の名前を覚えている、面倒見のよい叩き上げの経営者——そのものだった。
質疑応答のシミュレーションでは、宮内が想定質問を読み上げた。「古賀CEOに質問です。不正発覚後も辞任されないのはなぜですか」
古賀はスクリプトを確認した。「ご質問ありがとうございます。当社の不適切な会計処理については、私が最高経営責任者として重く受け止めております。現在、再発防止策の策定と内部統制の抜本的見直しを進めており、この改革を確実に遂行することが現時点での私の責務と考えております」
水城が手元のスクリプトと照合して頷いた。
宮内が次の質問を投げた。「茨城工場の雇用は守られるのですか」
古賀はスクリプトに目を落とした。「当社グループの雇用については、事業の継続性を前提に維持する方針です」。台本通りの言葉だった。だが読み上げる古賀の声は、わずかに低くなった。
水城は赤ペンを動かさなかった。修正の要らない答弁だった。
リハーサルが終わった後、矢代は本社を出た。
午後八時。銀座に向かおうかと思った。冴子に会えば、少しは気が楽になる。しかし矢代は足を止めた。テーブルの上の赤い折り鶴を思い出した。
矢代はタクシーに乗り、「白金台」と告げた。
マンションに着いたのは9時前だった。リビングの明かりがついている。聡子がソファに座って本を読んでいた。紬はもう寝たようだった。
「おかえり」と聡子が言った。声は平坦だった。
「ただいま」
矢代はジャケットを脱いでリビングに入った。テーブルの上を見た。折り鶴はまだそこにあった。三日前と同じ場所に。聡子が片付けなかったのか、紬が置き続けているのか。
「莉子は」
「自分の部屋にいる。今日は1回、リビングに出てきた。10分くらい。テレビを見て、また戻った」
10分。矢代はその数字を受け取った。莉子がリビングに出てきたということは、自室のドアを開けたということだ。
「紬がこれを折ったのか」と矢代はテーブルの折り鶴を指した。
聡子は本から目を上げた。「二月ごろ学校で折り紙を教わってから、ときどき折ってるの。これも月曜日に置いて、何も言わなかった」
「誰に」
聡子は少し黙った。「分からない。紬に聞いたけど、『別に』って」
矢代はソファに座った。聡子との間に一つ分の隙間があった。テレビはついていない。
「月曜日、総会だ」
聡子は本を閉じた。矢代が仕事の話を家でするのは珍しかった。しかし聡子は驚いた顔をしなかった。
「知ってる。ニュースで見た」
沈黙が落ちた。矢代は言葉を探した。しかし総会の内容は話せない。票読みのことも、水城の設計も、桐生の分析も。話し始めたら止まらなくなる気がして、何も言えなかった。
「大変なの?」と聡子が聞いた。
「大変だ」
それ以上は出なかった。聡子も追わなかった。二人はしばらく、無言でリビングに座っていた。テーブルの上の折り鶴が、照明の光を受けて小さな影を落としている。
矢代は立ち上がった。「風呂に入る」
聡子は頷いた。矢代が廊下に出たとき、聡子が後ろから言った。
「紬がね、莉子の部屋のドアの前にも折り鶴を置いたの。莉子は何も言わなかったけど、部屋に持って入った」
矢代は足を止めた。振り返らなかった。
矢代は風呂場に向かった。湯船に浸かりながら、天井を見た。水城の設計図。桐生の票読み。永田の集計。丸津検査役の視線。古賀のスクリプト逸脱。態度未定の1社。すべてが6月23日に収束する。
あと3日だ。
矢代は湯から上がり、リビングを通った。聡子はもうソファにいなかった。寝室のドアが閉まっている。テーブルの上に、折り鶴だけが残っていた。
残現金:約2700億円/株価:570円/時価総額 約7980億円/銀行団の姿勢:総会の結果次第で判断/家庭:莉子が不登校に。紬の折り鶴
第9話 40パーセント
6月23日、月曜日。午前5時に矢代は目を覚ました。
ベッドの中で天井を見つめた。今日だ。定時株主総会。矢代は紺のストライプのスーツと銀灰色のネクタイを選んだ。水城から「当日は服装まで含めて記録される前提で」と言われていた。検査役の丸津が、開会から閉会まで議事のすべてを記録する。
都営線を乗り継いで、九段下のホテル千代田パレスに着いたのは6時40分だった。会場は大宴会場。1200席。例年300人程度の出席だったが、今年は倍以上を見込んだ。水城の指示だった。
会場の搬入口から入ると、水城凛子が既に立っていた。37歳の弁護士はグレーのパンツスーツに髪をきちんとまとめ、クリップボードを手にしていた。
「矢代さん、おはようございます。受付の配置を確認します」
水城は挨拶もそこそこに歩き始めた。矢代はその後に続いた。受付は三列。会場入口の手前に金属探知ゲート。報道関係者の動線は株主とは別に設定されている。
「テレビカメラは2台、ロビーに来ています」と宮内彩が報告した。「NHKと民放一社。会場内には入れません」
水城は頷いた。遼一のワイドショー出演以来、総会はメディアの関心を集めていた。水城はそれを見越して、株主がカメラの前を通らずに入場できる動線と、議長席から出口までの退避経路を用意してあった。
7時半、桐生奈央が到着した。
「最終集計です」
桐生はA4の紙を矢代に差し出した。昨日の午後5時に締め切られた事前行使の集計結果だった。矢代は数字を読んだ。
行使総数、1163万1759個。
第1号議案、取締役7名選任。候補者ごとの賛否が並んでいる。
古賀義隆——賛成582万5119個。
矢代は数字を見つめた。行使総数の約半分。過半数をわずかに上回っているが、当日出席した株主が事前行使を撤回して反対に回れば、ひっくり返り得る差だった。
啓介——賛成591万1241個。古賀より8万6000個ほど多い。ISS推奨の反対理由が「不正会計の発生時にCEOだった」ことに重点を置いていたため、副社長の啓介には若干の同情票が流れた。
他の取締役候補は630万から660万の範囲に収まっている。古賀と啓介だけが突出して低い。
「ぎりぎりです」と桐生が言った。声に疲労が滲んでいた。「事前行使では辛うじて過半数を超えていますが、当日出席で事前行使が無効になる株主がいます」
「何人出席すると見ていますか」
「行使済みの株主のうち、当日本人が来る可能性があるのは個人株主が中心です。全体の4~5パーセント。個人株主は概ね会社寄りの傾向がありますが、今年は読めません。SNSではアクティビスト側のキャンペーンが浸透していて、個人株主の中にも株主提案に賛同する声がある」
桐生は紙を折り畳んだ。
「もう一つ気になるのは、事前行使で棄権を選んだ株主が約2パーセントいることです。棄権は行使済みとして母数に入りますが、賛成票にはならない。実質的には反対と同じ効果です」
矢代は紙を桐生に返した。
「株主提案は」
「いずれも賛成票が反対票を上回っていません。第2号議案の社外取締役追加選任が最も接戦ですが、それでも賛成が反対を下回っています。ただし差は小さい」
矢代は頷いた。事前行使の段階では会社提案が辛うじて通り、株主提案が辛うじて否決される。
8時半、永田真理が会場に入った。東邦信託銀行証券代行部の40歳は、台車に積んだ段ボール箱3つとともに現れた。箱の中には委任状の原本、議決権行使書の控え、電子投票のログが紙に打ち出されたものが入っている。
「重複行使は最終的に5件でした」と永田は水城に報告した。「うち3件は後着優先で処理済み。2件は到着日時が同一で、株主に電話確認を取りました」
水城は報告を聞きながらメモを取った。この手続は2ヶ月前から設計してあった。
「検査役は」と水城が聞いた。
「9時に来られます」と宮内が答えた。
9時ちょうどに丸津陽平が到着した。50代の弁護士は灰色のスーツに眼鏡をかけ、黒い革のバッグを1つ持っていた。バッグの中には録音機材と記録用のノートが入っている。丸津は水城に会釈し、永田に会釈し、会場を一巡した。席の配置、受付の動線、投票用紙の配布場所、集計室の位置。丸津はすべてを確認し、メモを取った。何も言わなかった。
水城が矢代の隣に来て、小声で言った。
「手続的な瑕疵は一つも許されません」
丸津の存在は会社側にとって制約だが、同時に保護でもあった。決議が後から争われたとき、検査役の記録が「手続は適法だった」と証明してくれる。
9時半、議長席のリハーサルが終わった。古賀は紺のスーツに白いシャツ、えんじ色のネクタイで議長席に座っていた。67歳のCEOの顔色は悪くなかったが、目の下に疲労の影があった。水城が想定問答の最終確認をしている間、古賀は手元の台本を何度もめくっていた。
啓介は議長席から2つ離れた席にいた。スーツは濃い灰色。ネクタイは暗い青。副社長は静かに座っていた。矢代は啓介の横顔に、計算している人間の表情を読み取った。今日の採決結果がどうなっても、啓介は次の手を用意しているだろう。
矢代の席は壇上の端だった。執行役であって取締役ではない矢代は、議案の説明を求められたときにだけ発言する。議決権はない。壇上にいるが、決める側ではない。
10時、開会。
議長の古賀がスクリーンを使いながら事業報告を行った。過年度修正の状況、第三者割当増資の経緯、財務の現状。台本通りの説明だったが、古賀の声はいつもより低く、慎重だった。丸津が最前列の端に座り、録音機材の赤いランプが光っていた。
事業報告の後、議案の説明に移った。第1号議案、取締役7名の選任。第2号議案、社外取締役2名の追加選任——株主提案。第3号議案、事業ポートフォリオ見直し委員会の設置——株主提案。
株主提案について、議長が提案書に記載された提案理由を朗読した。続いて取締役会としての反対意見を読み上げた。「現在のガバナンス体制で十分な監督機能が確保されている」「事業ポートフォリオの見直しは経営陣の判断で進めるべきものである」。水城が一語一語を推敲した文言だった。その上で、議長は提案株主に説明の機会を与えた。翠嵐キャピタルの代表が壇上に上がり、五分間の説明を行った。社外取締役の追加による監督機能の強化、事業ポートフォリオの見直しによる企業価値の向上。言葉は丁寧だったが、内容はグラントの主張そのものだった。翠嵐は事実上、グラントの国内窓口として機能している。
質疑応答に入った。議長が挙手を求めると、会場のあちこちで手が上がった。700を超える出席者のうち、数人から十数人が手を挙げている。水城が小声で「時間配分に注意してください」と議長席にメモを差し入れた。
最初の質問者は60代の男性だった。スーツ姿で、声が大きかった。マイクの前に立つと背筋を伸ばし、議長席を真っ直ぐに見た。
「私は帝央電機のOBで、経営統合前からの株主です。平成15年から、20年以上持っています。経営統合のときから反対だった。ヴェクトラと一緒になって何が良くなったのか。不正が増えただけじゃないか。私は総会のたびにここに来て、反対票を入れてきた。しかし誰も聞かなかった」
会場の何人かが頷いていた。古賀は台本に従って答えた。経営統合の経緯、シナジー効果の一部実現、しかし不正会計が発覚したことへの深い反省。水城が用意した想定問答の範囲内だった。
2人目の質問者は若い女性だった。名前を名乗り、個人投資家だと言った。
「第三者割当増資で入った海外ファンドが約34パーセントの議決権を持っています。転換社債が行使されれば40パーセントに近い。会社としてこの状況をどう認識していますか」
古賀は一瞬、台本に目を落とした。水城がメモを差し入れた。古賀はメモを見て答えた。
「増資は財務基盤の安定を最優先に判断いたしました。議決権の希薄化については十分に認識しており、今後の経営改善を通じて全株主の皆様のご理解をいただけるよう努めてまいります」
模範的な回答だった。しかし質問者の表情は変わらなかった。全株主の理解を得るために何をするのか、具体的な答えはなかった。
3人目の質問者は機関投資家の運用担当者だった。
「過年度修正の進捗と、追加修正の可能性について、具体的な数字をお示しください」
志村にマイクが回された。志村は立ち上がり、修正額の確定状況を説明した。旧来型不正約520億円とERP関連不正約780億円で計約1300億円。この数字は既に開示済みだった。追加修正の可能性については「現時点で開示すべき確定した数字はございません。引き続き精査を進めてまいります」と答えた。志村の声は淡々としていたが、矢代は気づいていた。志村が「確定した数字はない」と言ったとき、一瞬だけ手元の資料に目を落としたことを。
4人目は70代の男性で、配当の復配見通しについて質問した。古賀は「現時点では未定」と答えた。会場の個人株主の多くは高齢者だった。退職金の一部で株を買い、配当を年金の足しにしていた人々。その何人かは、人生の蓄えの一部を失っている。
5人目の質問者で、空気が変わった。
年配の男性がマイクの前に立った。紺のブレザーを着ていたが、手が日に焼けていた。爪の間にかすかに油の跡が残っている。
「茨城工場のOBです。42年間、茨城工場で働きました」
会場が静まった。
「一つだけ聞きたい。茨城工場は残るんですか。あの工場で働いている人間は、明日も仕事があるんですか」
古賀は台本を見なかった。水城が差し入れるメモに目を落とさなかった。
「茨城工場は、当社の技術の根幹です。守ります」
台本にない言葉だった。水城の表情が一瞬固まるのが矢代には見えた。「守ります」は約束だ。議事録に残る約束だ。検査役の丸津がメモを取っている。しかし古賀はそれを分かっていて言った。
茨城工場のOBは深く頭を下げて席に戻った。矢代は古賀の横顔を見た。台本を逸脱した67歳のCEOの目には、矢代がこの1年間で初めて見る光があった。忠誠でも恐怖でもなく、自分の言葉で語っている人間の目だった。
6人目は役員報酬の開示を求める質問で、7人目は議事運営の手続に関する質問だった。いずれも水城の想定問答の範囲内で処理された。
8人目で再び緊張が走った。スーツ姿の若い男性がマイクに立った。流暢な日本語だったが、微かにアクセントがあった。
「アトラス・ストラテジック・パートナーズの日本法人代表です。一つだけお聞きします。古賀社長のCEO交代のタイムラインをお示しください。不正会計の発生時にCEOであった方が引き続きCEOを務めることについて、株主の半数近くが疑問を持っています。具体的なスケジュールをお示しいただけない場合、我々は次回の株主総会で改めて提案を行うことを申し上げておきます」
会場がざわめいた。古賀は質問者が話し終えるのを待ってから、マイクを取った。
「ご質問ありがとうございます。私は株主の皆様から選任いただいた以上、任期中は責任を全うします。それが私の答えです」
9人目の質問者——年配の女性で、個人株主だった——が「社員の雇用は守られるのか」と聞いた。古賀は先ほどの茨城工場OBへの回答と同じ力を込めて「雇用の維持に全力を尽くします」と答えた。水城はメモを差し入れなかった。この問いへの答えは、台本ではなく古賀自身が出すべきだと判断したのかもしれなかった。
質疑応答は1時間15分で終了した。議長が「時間の都合上、最後の質問とさせていただきます」と打ち切ったとき、まだ手を挙げている株主が何人もいた。
採決に移った。投票用紙による書面投票。受付で配布された投票用紙に、議案ごとに賛否を記入して投票箱に入れる方式だった。
当日出席の株主が投票用紙を投函する間、矢代は壇上から会場を見下ろしていた。1200席のうち700以上が埋まっている。例年の倍以上。テレビカメラは会場の外にいた。水城の設計した議事運営は完璧に近かった。
集計は別室で行われた。永田が率いる東邦信託銀行のチーム四名と、検査役の丸津が立ち会っている。事前行使の集計に当日投票を加え、当日本人出席により無効となった事前行使を差し引く作業だ。この仕組みが、事前の票読みを最後まで不確実にしていた。
矢代は壇上で待った。古賀も待った。啓介も待った。会場のざわめきは次第に静まり、株主たちも席に座ったまま結果を待っていた。壇上から見下ろすと、投票箱が前方に置かれ、その横に空になった投票用紙の束がある。1200席のうち、投票用紙を投函した株主は目測で8割程度だった。残りの二割は棄権したか、用紙を持ったまま帰ったか。
45分後、永田が集計結果を持って戻ってきた。水城が結果を確認し、古賀に渡した。古賀は紙を見て、一瞬だけ目を閉じた。
議長がマイクを取った。
「第1号議案、取締役7名の選任について、採決の結果を報告いたします」
会場が静まった。
「候補者ごとの賛成率を申し上げます。古賀義隆、賛成50.1パーセント」
ざわめきが走った。0.1パーセント。わずか0.1パーセントで過半数を超えた。
「御子柴啓介、賛成50.9パーセント」
「他の候補者につきましては、いずれも50パーセント台後半の賛成をいただき——」
議長の声は安定していた。しかし矢代は古賀の手が微かに震えているのを見た。50.1パーセント。1000万個以上の議決権のうち、わずか1万個が反対に回っていれば否決されていた。
「以上により、第1号議案は原案通り可決されました」
会場のざわめきは収まらなかった。
「第2号議案、社外取締役2名の追加選任について。賛成47.8パーセント。過半数に達しないため、本議案は否決されました」
「第3号議案、事業ポートフォリオ見直し委員会の設置について。賛成44.2パーセント。本議案も否決されました」
会社提案は辛うじて通り、株主提案は辛うじて否決された。桐生が事前に描いた「辛勝」のシナリオの境界線上——対話重視型の機関投資家の離反を一割以下に抑えて、ようやくここに辿り着いた。
閉会が宣言されたとき、時計は午後1時を回っていた。3時間の総会だった。
矢代は壇上から降りて、ロビーの隅に立っていた。桐生が近づいてきた。
「矢代さん、お疲れ様でした」
桐生の声には疲労が混じっていた。この2ヶ月、桐生は数十社もの機関投資家と個別に面談し、1パーセント、2パーセントの上積みを重ねてきた。その積み重ねが50.1パーセントを作った。
「桐生さんの仕事がなければ、今日の結果はなかった」
桐生は首を横に振った。
「ISS推奨が古賀社長と啓介副社長だけに反対を出して、他の候補者には賛成を出してくれたのが大きかった。全員反対推奨だったら、結果は違っていたはずです」
桐生は手帳を閉じた。
「しかし、反対率40パーセント超は重い。これは来年の総会に向けたメッセージです。今年は辛うじて守ったが、経営改善の具体策が出なければ来年は守れない」
矢代は頷いた。桐生の視線は既に来年の総会に向いていた。
閉会後、矢代はホテルの車寄せに出た。迎えの車を待つ古賀の背中が見えた。
古賀は社用車のドアが開くのを待ちながら、来賓の挨拶を受けていた。その動作は機械的だった。半分の株主が、自分の退任を望んでいる。今朝までは想像の中の数字だったものが、今は確定した事実になった。
吉岡信彦が矢代に歩み寄った。71歳の監査委員長は、今日の総会をもって退任する。
「矢代さん」と吉岡は言った。「長い間お世話になりました」
「吉岡さん、こちらこそ」
吉岡は矢代の目を見て、低い声で言った。
「名誉会長に頼まれた以上、自分から辞めるわけにはいかなかった。しかし、もっと早く——」
吉岡はそこで口を閉じた。「もっと早く辞めるべきだった」とは言わなかった。しかし矢代には聞こえた。
「後任の河野さんは、私よりずっと優秀です。数字を見る目が違う」
吉岡は矢代に軽く頭を下げて、会場を出ていった。矢代はその背中を見送った。
新監査委員長の河野誠治は、閉会後すぐに動き始めた。
62歳の元Big4代表社員は、着任の翌日——火曜日——に関口達也を呼んだ。中央あおば監査法人のパートナーと新監査委員長の最初の面談は、帝央電機の会議室で行われた。矢代は同席を求められた。
「関口さん」と河野は切り出した。「過年度修正の1300億円ですが、これで全部ですか」
関口は一瞬、答えをためらった。矢代は関口の目に、これまで見たことのない種類の逡巡を読み取った。
「修正額そのものは確定しています。しかし——」
「しかし?」
「東南アジアの三社について、追加で精査が必要な項目が見つかっています」
河野は身を乗り出した。
「具体的には」
関口は手元の資料をめくった。
「タイ、マレーシア、インドネシアの連結子会社3社です。経営統合後にERP統合を行った際、現地通貨建てのインターカンパニー取引の消去が不完全だった。それに加えて、現地の在庫評価基準と日本基準の差異が適切に調整されていない。金額としては——」
関口はそこで言葉を切った。
「暫定的な見積もりですが、数百億から500億の追加修正の可能性があります」
矢代は息を吐いた。1300億に加えて、さらに数百億から500億。関口が四月に口にした「追加の可能性」とは、この規模のことだったのか。なぜここまで精査が遅れたのか。しかしその問いを口にする前に、河野が先に動いた。
「関口さん、来週までに東南アジア三社の追加精査のスコープを出してください。暫定額でかまいません。私の方で監査委員会に報告します」
河野の声は穏やかだったが、有無を言わせない力があった。元Big4の代表社員が監査委員長の椅子に座ったことの意味を、関口は理解していた。吉岡時代のように「もう少し時間をください」とは言えない。
面談が終わった後、矢代は河野と2人になった。
「矢代さん」と河野は言った。「遅すぎたのは承知しています。しかし、今から間に合わせる以外にない」
矢代は頷いた。河野は味方だった。しかし遅すぎた援軍だった。吉岡が7年間できなかったこと——監査法人に正面から切り込むこと——を、河野は着任初日からやろうとしている。しかし追加修正が確定すれば、市場はさらに反応する。株価は下がる。銀行団の態度は硬化する。総会を辛うじて乗り切った直後に、新たな悪材料が出る。
矢代は窓の外を見た。6月の空は灰色だった。梅雨の始まりだった。
その週、株価は570円から530円に下落した。総会で古賀の賛成率が50.1パーセントだったことが報じられ、市場は「経営陣の正統性に深刻な疑義」と解釈した。アナリストのレポートには「反対率四〇パーセント超は、次回の株主総会での否決を視野に入れるべき水準」と書かれていた。
社内掲示板には「50.1パーセントで勝ったと言えるのか」「社長はいつ辞めるんだ」という書き込みが溢れ、半数以上が古賀の退任を求めていた。
矢代は自室で集計結果の紙を広げていた。50.1パーセント。0.1パーセントの差。0.1パーセントで勝った防衛戦に、意味があったのか。
50.1パーセントの賛成は、49.9パーセントの不信でもある。半分の株主が、この経営陣を信任していない。
矢代は紙を裏返した。白い面を見つめた。
矢代は椅子の背にもたれた。デスクトップの隅にある「更生」フォルダが視界の端に映った。あのフォルダを開いて申立書を提出していれば、今日の総会はなかった。進言はした。拒否された。残ったのは、与えられた場所で最善を尽くすことだけだった。最善が足りなかったのか、最善を尽くす場所が間違っていたのか。その問いに、矢代はまだ答えを持っていなかった。
その夜、矢代は銀座に向かった。
並木通りから1本入った雑居ビルの4階。「ファーム」のドアを開けると、冴子が1人でカウンターを拭いていた。
「あら。今日は早いのね」
「総会が終わった」
冴子はグラスを出して、矢代の好みのウイスキーを注いだ。矢代はカウンターに座った。
「どうだった」と冴子が聞いた。
「50.1パーセント」
冴子は眉を上げた。
「それは勝ったの?」
「分からない」
冴子は笑った。笑い方に同情はなかった。事実を事実として受け止める人間の笑い方だった。
「勝ち負けが分からない戦いって、だいたい負けてるのよ」
矢代はグラスを傾けた。冴子の言葉は正確だった。いつも正確だった。銀座の夜は静かだった。まだ八時前で、ファームには他に客がいなかった。
「茨城工場のOBが来てね」と矢代は言った。「42年間工場で働いた人が、工場は残るんですかって聞いた」
冴子はグラスを磨きながら聞いていた。
「古賀さんが『守ります』と答えた。台本にない言葉だった」
「守れるの」
「分からない」
冴子は磨いたグラスを棚に戻した。
「あなたも同じよね。守りますって約束しておいて、守れるかどうか分からない。会社も家庭も」
矢代はグラスの中の琥珀色の液体を見つめた。冴子は家庭のことを知っている。矢代がここで漏らした断片から、全体像を推測している。
「奥さんに話したら」と冴子が言った。「今日の総会のこと。50.1パーセントだったって」
矢代は何も言わなかった。総会の結果は臨時報告書で開示される。ニュースでも流れる。話せない理由は守秘義務ではなかった。話し始めたら、数字の先にあるものまで全部こぼれてしまいそうで、口が開かないのだ。
冴子はそれ以上追及しなかった。カウンターを拭き始めて、独り言のように言った。「私は朝になったら忘れるの。でも奥さんは、聞かされなかったことを忘れられないわよ」
聡子が峰岸宏達に会ったのは、総会の翌週のことだった。
矢代はそのことを知らなかった。知るのはもっと後のことだ。
聡子は目黒の峰岸家を訪ねた。平日の午後、紬が学校に行っている時間を選んだ。莉子は自室にいた。聡子は莉子に「おばあちゃんの家に行ってくる」と声をかけた。莉子は「うん」とだけ答えた。
峰岸宏達は書斎で聡子を待っていた。69歳の弁護士は老眼鏡を外し、娘の顔を見た。
「直哉のことか」
「はい」
聡子は父親の前に座った。峰岸家の食卓で鍛えられた話法——感情を論理で包み、要点だけを正確に伝える——を、聡子はこの日も使った。
「会社の状況は、直哉から聞いていません。テレビとネットで知ることしかできない。でも、一つだけ確認したいことがあります」
「何だ」
「株主の半分が経営陣を信任しなかった会社は、これからどうなりますか」
峰岸は娘を見つめた。聡子の目に、矢代と同じ種類の冷静さを見た。
「正式には答えられない。利益相反がある」
「知っています。でも父として、娘に助言することはできるでしょう」
峰岸は眼鏡をかけ直した。
「会社の形が変わる可能性がある。直哉の立場も」
それだけだった。しかし聡子にはそれで十分だった。株主の半分が経営陣を拒否した会社は、遠くない将来に経営体制そのものが変わる。買収、分解、あるいは経営陣の交代。いずれにしても矢代の居場所がなくなる可能性がある。
聡子は父親に礼を言って帰った。
帰りの電車の中で、聡子はスマートフォンで帝央電機の株価を確認した。530円。矢代と結婚したとき、帝央電機はまだ経営統合前の、東証一部の電機メーカーだった。統合で持株会社になり、株価は2000円台をつけた。矢代が入社した1月には1800円台。それが今、530円。数字の意味を、聡子は法曹一家の娘として理解していた。時価総額の縮小は、会社の解体が視野に入ることを意味する。解体されれば、矢代の職は失われる。ローンだけが残る。
しかし聡子が恐れているのはローンではなかった。矢代が壊れることだった。
3月に「うちの父にも相談したら」と言って拒絶されてから3ヶ月。聡子はその間、1度も矢代に会社のことを聞かなかった。聞いても答えないことは分かっていた。守秘義務を理由にするだろう。夫は家では何も語らない。聡子は黙って待っていた。黙って待つことが「正しい妻」の振る舞いだと思っていたからだ。
しかし今日、聡子は待つことをやめた。夫が動かないなら、自分が動く。峰岸に会いに行くことは、夫への不信の表明ではなかった。家族を守るための、主体的な選択だった。
自宅に戻ると、莉子が自室のドアを少しだけ開けていた。聡子は立ち止まった。最近、莉子のドアが完全に閉まっていることが多かった。少し開いているのは、聡子が帰ってきたことを確認したかったのかもしれない。
「ただいま」と聡子はドアの隙間に向かって言った。
「おかえり」
莉子の声が小さく聞こえた。聡子はそれ以上何も言わず、リビングに向かった。紬が学校から帰ってくるまでにまだ一時間ある。聡子はダイニングテーブルに座り、峰岸の「会社の形が変わる可能性がある。直哉の立場も」という言葉を反芻した。矢代にこのことを伝えるべきか。伝えたとして、矢代は聞くだろうか。聡子はまだ決めかねていた。
残現金:約2700億円/株価:530円/時価総額 約7420億円/銀行団の姿勢:総会結果を受け態度硬化の兆し/家庭:聡子が自ら動き出す
第10話 会長の遺志
6月28日、土曜日。午前6時12分。
矢代のスマートフォンが枕元で振動した。画面に古賀の名前が表示されている。土曜の朝6時に古賀から電話が来たことは、1年近くのあいだで1度もなかった。
「名誉会長が亡くなった」
古賀の声は平坦だった。平坦すぎた。感情を排除した声ではなく、感情がまだ追いついていない声だった。
「今朝、5時頃だそうです。成城のご自宅で。ご家族が看取られたと」
矢代は布団の中で目を閉じた。御子柴剛造、90歳。引退して10年近く、法的な権限を持たない名誉会長でありながら、古賀も指名委員会もこの人の名前の前では判断が歪んだ。
「社葬の日程は」
「遺族と調整中です。7月の第1週を想定しています」
「分かりました。週明けに」
電話を切ると、隣で聡子が目を開けていた。矢代の声で起きたのだろう。聡子は何も聞かず、矢代の顔を見ていた。
「名誉会長が亡くなった」
聡子は小さく頷いた。矢代が入社する前から、帝央電機という名前は聡子の生活の中にあった。テレビのニュースで、新聞の経済面で。そして今は、夫の顔に刻まれた疲労の中に。
「大変ね」
聡子はそれだけ言って、布団から出た。リビングに向かう足音がした。矢代はしばらく天井を見ていた。五時間前に帰宅したばかりだった。
月曜の朝、本社15階の役員フロアは静まり返っていた。半旗が掲げられたわけでもなく、社内放送があったわけでもない。名誉会長の死去はIR部門から適時開示され、同時に社葬の日程が発表された。7月4日、金曜日。会場は帝国ホテル。
矢代が執務室に入ると、小野寺がすでに来ていた。
「市場が開きました。535円です」
株価が上がっている。名誉会長の死を、市場は弔意ではなく機会として受け止めていた。矢代にはその論理が分かった。分かることが、不快だった。
「海外の反応は」
「グラントのアナリストチームが週末にメモを出しています。公開はしていませんが、投資家向けの限定配信です。要旨は、創業者の退場により経営陣の求心力が低下し、ガバナンス改善の可能性が高まる、と」
矢代は窓の外を見た。90歳の老人が死んだ朝に、アナリストがメモを書き、株価が5円上がった。
小野寺がモニターを指した。
「社内掲示板にも追悼の書き込みが増えています。ただ、中に気になるものがあります」
矢代は画面をのぞいた。匿名の投稿だった。「名誉会長の時代は良かった。統合なんかしなければ、こんなことにはならなかった」。別の投稿には「会長がいなくなったら、もう誰が会社を守るんですか」とあった。
「書き込みは引き続きモニタリングしてくれ」
「分かりました」
古賀は矢代を会議室に呼んだ。2人きりだった。
古賀の目は赤かった。泣いたのだろう。しかし声は落ち着いていた。矢代が知る限り、古賀は人前で涙を見せたことがない。
「社葬は私が葬儀委員長を務める。喪主は啓介さんだ」
「承知しました」
「弔辞は3名。経団連の山際副会長、茨城工場の宮田班長、それと私だ」
矢代は少し驚いた。弔辞に現場の班長を入れるのは異例だった。古賀は矢代の表情を読み取ったように続けた。
「会長は現場の人間だった。スーツを着て会議室に座るより、工場の油の匂いの中にいる方が好きだった。宮田は会長が最後に工場を視察したとき、案内した人間だ」
古賀の声に感情が混じった。しかしすぐに抑えた。
「矢代君。社葬の後のことを考えなければならない」
「はい」
「反対率40パーセントの総会を乗り越えた直後に、会長が亡くなった。社内の動揺は大きい。しかし外からは——」
古賀は言葉を切った。矢代が代わりに言った。
「外からは、変化の機会と見える」
「そうだ」
古賀は机の上に視線を落とした。
「会長の遺志を、誰がどう語るか。それがこの先の1年を決める」
矢代は黙って聞いていた。古賀が言おうとしていることは分かった。名誉会長が生きているあいだは、「人は城」という言葉は創業者の肉声だった。しかし創業者が死んだ瞬間から、その言葉は引用になる。
7月4日。社葬当日。
帝国ホテルの宴会場に2000人を超える弔問客が並んだ。受付には帝央電機の社員が整列し、黒いネクタイの列が廊下を埋めた。
矢代は入口近くに立ち、弔問客の顔を見ていた。正確には、来るべき人間が来ているかを確認していた。
経団連副会長の山際が正面入口から入った。経産大臣の代理として政務官が来た。ドイツ大使館の公使と、アメリカ大使館の経済担当公使が並んで歩いてきた。帝央電機の半導体技術は軍民両用であり、両国にとって無関係ではなかった。
啓介は遺族席の最前列に座っていた。黒いスーツに黒いネクタイ。背筋が伸びている。その横に、遼一——芸名・南條遼がいた。遼一は芸能界に入ったとき、剛造は「あいつはあいつの城を築くんだ」と容認したと聞いている。啓介にはそれを言ってもらえなかった。遼一は祭壇の遺影を見つめていた。目が赤かった。啓介は正面を向いたまま、まばたきもしなかった。兄は泣き、弟は泣かない。泣けないのか、泣かないのか。矢代には分からなかった。
祭壇の遺影は10年前のものだった。成城の庭で撮影された写真。背景に松の木があり、剛造は穏やかに笑っていた。その笑顔の前に、白い菊の花が壁のように積まれている。
式が始まった。
山際副会長の弔辞は型通りだった。戦後の復興、創業者の先見性、日本の製造業への貢献。矢代は山際の言葉を聞きながら、弔辞の行間にある計算を読んでいた。山際は弔辞の終盤で啓介の方を一瞬見た。壇上から降りる途中、啓介のそばを通りながら何か一言かけた。啓介が小さく頷くのが見えた。
宮田班長は壇上で少し戸惑っていた。2000人の前で話すことに慣れていない。しかし声は通った。
「会長は最後に茨城に来られたとき、ラインの端から端まで歩かれました。もう足が悪くて、杖をついておられた。それでも全部歩かれた。途中で止まって、プレス機の音を聞いておられた。何も言わなかった。ただ聞いておられた」
宮田は1度言葉を切った。
「会長はよく言っておられました。失敗は城の石垣になる、積め、と。我々は今、その言葉の意味を考えています」
会場が静まった。宮田の声には修辞がなかった。だからこそ、2000人の弔問客の何割かは居心地の悪い沈黙を経験した。
古賀の弔辞は長かった。古賀は原稿を読まず、剛造との50年近い関係を自分の言葉で語った。高卒で入社した18歳の自分を剛造が見出したこと。「お前は数字は分からんが、人の顔を見れば嘘が分かる」と言われたこと。現場を回るとき、剛造はいつも古賀を連れていたこと。経営統合のとき、剛造が最後まで渋ったのは規模ではなく、異なる文化の会社と1つになることへの不安だったこと。古賀は「あのとき会長に従って統合を見送っていれば、今日はなかったかもしれない」と言いかけて、口を閉じた。弔辞で経営判断の是非を語ることの危うさに、古賀自身が気づいたのだろう。
「会長の座右の銘は、人は城、人は石垣、人は堀、でした」
古賀はここで声を詰まらせた。数秒の沈黙があった。
「この言葉を守ることが、私に残された仕事です。会社を、市場の論理から取り戻す。人を守る。それが会長の遺志だと、私は信じています」
古賀が壇を降りた。足取りが少し不安定だった。自席に戻る古賀のそばに、啓介が立っていた。啓介は古賀の腕にそっと手を添えた。古賀が席に着くまで、啓介はその手を離さなかった。矢代はその仕草を見た。古賀を椅子まで導く48歳の手。
矢代は古賀の横顔を見ていた。古賀は本気だった。本気で、自分が剛造の遺志を継ぐ者だと信じていた。しかし「市場の論理から取り戻す」という言葉を、矢代は別の意味で聞いた。アクティビスト連合から支配権を奪還する。そのために非上場化する。MBOだ。古賀がその言葉を口にしたのは初めてだったが、意味は明白だった。
社葬のあと、帝国ホテルのラウンジで弔問客との挨拶が続いた。矢代は古賀と啓介の動線を追っていた。
山際副会長が啓介と話しているのが見えた。2人は窓際のソファに座り、5分ほど話した。矢代の位置からは声は聞こえなかったが、山際が啓介の肩に手を置いて立ち上がったのは見えた。経団連副会長が創業家の次男に何を伝えたか。想像はつく。外資に渡すな、という類いの言葉だろう。
一方、経産省の政務官は古賀のそばにいた。技術基盤の維持、という言葉が漏れ聞こえた。古賀は交換した名刺を胸ポケットにしまいながら、矢代の方をちらりと見た。「経産省も関心を持っている」——古賀の目はそう語っていた。しかし矢代には、政務官の言葉が別の意味に聞こえていた。維持するのは技術であって、会社ではないかもしれない。
梶原がいた。帝都銀行の常務は、黒いネクタイを締めて壁際に立っていた。矢代は梶原のそばに行った。
「古賀さんの弔辞は長かったですね」
梶原は低い声で言った。矢代は何も答えなかった。
「矢代さん。一つだけ言っておく」
梶原は弔問客の列を見ながら言った。
「名誉会長が生きているあいだは、古賀さんの求心力は名誉会長の権威で支えられていた。今日からは自分の足で立たなければならない」
「分かっています」
「分かっているなら、次の手を考えてくれ。銀行団は再建策を待っている。総会で40パーセントの反対を受けた経営陣が、名誉会長の死後に何を出すか。それを見てから判断する」
梶原はそれだけ言って、受付の方へ歩いていった。矢代は梶原の背中を見送りながら、「判断する」が何を意味するかを考えた。融資の継続か、回収への転換か。あるいはもっと先のこと——帝央電機の命運を左右する何かを、銀行団が主導し始めるということか。
矢代がラウンジを横切ったとき、小野寺が寄ってきた。
「矢代さん。一つ報告があります」
「何だ」
「三雲和哉という名前に覚えはありますか。経産省の経済安全保障政策課長です」
矢代は立ち止まった。三雲の名前は知っていた。貿易経済協力局の安全保障貿易管理課から異動した42歳の課長。帝央電機の半導体技術と産業用モーター技術は外為法上の管理対象であり、三雲の管轄に入る。
「その三雲が、今日の社葬に来ていました。経産省の代表としてではなく、個人としてです」
「個人として?」
「受付名簿を確認しました。肩書きは『経済産業省 三雲和哉』です。政務官は別に来ている。三雲は経産省の公式な弔問ではなく、自分の判断で来たということになります」
矢代は考えた。経産省の課長が個人の判断で大企業の創業者の社葬に来る。ありえない話ではないが、意味のない行動でもない。三雲は何を見に来たのか。弔問客の顔ぶれか。経営陣の様子か。あるいは、名誉会長の死後に帝央電機がどう動くかを、自分の目で確認しに来たのか。
「三雲は誰かと話していたか」
「弔問客の列に並んで、遺族に挨拶した後、宮田班長と5分ほど立ち話をしていました。それから古賀CEOとは目が合ったようでしたが、話しかけずにそのまま帰っています」
宮田班長と話した。茨城工場の現場の人間と、経済安全保障の課長。三雲が見ているのは、やはり会社の法人格ではなく、技術とそれを支える現場だ。
「三雲の動向を追えるか」
「追います」
社葬の夜。
矢代は帝国ホテルの別室にいた。社葬の事後処理を終え、関係者の多くは帰った。しかし一部はまだ残っていた。
古賀、啓介、堂島の3人が、ホテルの1室で話していた。矢代はその場に呼ばれなかった。古賀が声をかけなかったのか、啓介が外したのか。いずれにしても、矢代がMBOの最初の会話から排除されたことは事実だった。
30分後、堂島がロビーに現れた。
矢代はロビーのソファに座っていた。堂島は矢代に気づかず、エレベーターホールの方へ歩いた。そのとき、啓介がロビーに出てきた。
「堂島さん」
啓介の声だった。堂島が振り返った。啓介は微笑んでいた。社葬の夜にふさわしい、控えめだが温かみのある笑顔だった。啓介は堂島の横に立ち、何か言った。堂島が驚いた顔をした。啓介がさらに一言つけ加えると、堂島の顔が変わった。驚きが、関心に変わっていた。2人は廊下の端に移動し、3分ほど話した。矢代の位置からは声は聞こえなかった。しかし啓介の身体の使い方は見えた。最初は堂島と並んで壁にもたれ、途中から堂島に向き直り、最後には堂島の肩に手を置いた。山際副会長が啓介にしたのと同じ仕草だった。啓介は今夜、自分がされたことを30分後に別の人間にしている。
堂島が去ったあと、啓介は矢代に気づいた。
「矢代さん。まだいたんですか」
「社葬の処理が残っていたので」
啓介は矢代の隣に座った。ネクタイを緩め、深く息をついた。
「父は、最後まで会社のことを言っていたそうです。遼一に聞きました」
矢代は何も言わなかった。
「人は城、と。もう何十年も同じことを言い続けて、最後もそれだった」
啓介は天井を見上げた。
「矢代さん。私は父の会社を守りたい。それは嘘じゃない。しかし守り方は一つではないと思っている」
「どういう意味ですか」
「上場を続ける必要はない、ということです」
矢代の呼吸が一瞬止まった。啓介がMBOという言葉を使わなかったのは計算だろう。しかし意味は同じだった。
「古賀さんも同じ考えですか」
「古賀さんは『会社を市場の論理から取り戻す』と言った。あれは社葬の弔辞ではなく、所信表明です」
啓介は静かに笑った。矢代はその笑顔に含まれているものを読もうとした。古賀は会社の独立を守りたい。啓介は創業家としての支配を維持したい。同じ「人は城」を引用しながら、2人が目指す城の形は異なっている。
「堂島さんとは何を話していたんですか」
矢代は直接聞いた。啓介は一瞬だけ表情を固くした。しかしすぐに笑顔に戻った。
「FAとしての今後の進め方を確認しただけです。矢代さんも同席してもらった方がよかったかもしれませんね」
矢代はそれ以上追及しなかった。しかし堂島が啓介に個別に呼ばれたこと、古賀ではなく啓介と2人きりで話したこと。その事実は記憶に刻んだ。
啓介が立ち上がった。
「矢代さん。あなたは実務家だ。誰の味方でもなく、正しい手続きを設計する人間だと思っている。だからこそ、これからのプロセスに関わってほしい」
啓介は矢代の目をまっすぐに見た。誠実に見えた。誠実に見えることが、啓介の最も危険な能力だった。
「考えさせてください」
「もちろん」
啓介はそう言ってロビーを去った。矢代は1人残された。帝国ホテルのロビーは静かだった。社葬の一日が終わろうとしていた。
翌週の火曜日、河野誠治が矢代の執務室を訪ねてきた。
「矢代さん。東南アジア3社の件で話したいことがある」
河野は椅子に座ると、手書きのメモを1枚出した。着任から2週間で関口と3回面談し、監査調書を見直した。前回の過年度修正に、東南アジア3社——タイ、マレーシア、インドネシア——の減損が含まれていない。3社の資産評価に疑義があり、追加の減損と貸倒引当金の計上が必要だ——河野はそう言った。
「金額は」
「300億から500億。あるいはそれ以上」
矢代は椅子の背にもたれた。総会を乗り越え、名誉会長の社葬を終えた直後に、追加損失の報告。時間が味方になったことは1度もない。
「関口はどう言っていますか」
「追加修正の必要性は認めている。ただし市場への影響を考慮して、一部を翌期に繰り延べる可能性を示唆している。私はそれに同意しない。数字は出た時点で出すべきだ」
河野の声には迷いがなかった。
「3社とも、統合後に帝央電機側から送り込まれた経理責任者が損益を取り仕切っていた。現地採用のスタッフは数字の異常に気づいていたが、本社に報告する経路がなかった。ERP接合部分の不正と同じ構造だ」
吉岡の7年間の不作為を、河野が二週間で覆そうとしている。しかし覆す速度が速いほど、会社が受ける衝撃も大きくなる。
「古賀CEOには報告済みですか」
「まだだ。矢代さんに先に話したのは、あなたが数字の意味を理解できる人間だからだ」
追加損失の認識は避けられない。問題はタイミングだった。MBOの構想が動き出そうとしている今、追加損失はその前提を根底から揺るがす。
「河野さん。一つだけ確認させてください」
「何だ」
「この数字が出たら、MBOの資金調達は成り立ちますか」
河野は眼鏡をかけ直した。
「私はMBOの可否を判断する立場にない。しかし数字の話をするなら、追加損失が500億を超えれば、どんな買収提案も再計算が必要になる。それだけは言える」
矢代は頷いた。河野は立ち上がり、ドアに向かった。振り返らなかった。
その週の金曜日、矢代は夜遅くに帰宅した。社葬の後処理と河野の報告の対応で、1週間がほとんど眠れないまま過ぎた。
リビングの電気は消えていた。聡子と莉子と紬は寝ているはずだった。矢代は靴を脱ぎ、暗い廊下を歩いた。
リビングのテーブルに、小さな花が一輪挿しに活けてあった。白い菊だった。矢代は立ち止まった。聡子が活けたのだろう。帝央電機の名誉会長の死を、聡子は聡子の方法で受け止めていた。
矢代は靴を揃え、スーツの上着をハンガーにかけた。暗いリビングのソファに座ると、脚の力が抜けた。
白い菊を見ながら、名誉会長の遺影を思い出した。
「家を守る」ということを、矢代は考えた。剛造にとっての「家」は会社だった。5兆円企業を一代で築き、その企業を自分の城と呼んだ。
では矢代にとっての「家」は何か。
白金台のマンション。4LDK。ローンが残っている。莉子の部屋のドアはいつ頃から閉まるようになったのか。紬のサッカーシューズが玄関に転がっている。聡子が活けた白い菊。
矢代は答えを出せなかった。会社では構造的な問題を見抜き、数字の裏を読み、権力の力学を計算できる。しかし自分の家の中で何が起きているかは、見えていなかった。見ようとしていなかった。
矢代はテーブルの椅子に座った。暗いリビングの中で、白い菊だけがぼんやりと見えた。
翌朝、紬が先に起きていた。サッカーの朝練がある日は6時に起きる。矢代がリビングに出ると、紬がシリアルを食べていた。
「お父さん、おはよう」
「おはよう」
紬はスプーンを口に運びながら、テレビのリモコンを探していた。
「ねえ、おじいちゃん死んじゃったの? お父さんの会社の人?」
矢代は一瞬、紬の言葉の意味を考えた。紬にとって「おじいちゃん」は峰岸宏達であり、御子柴剛造ではない。紬がニュースで見たのだろう。
「おじいちゃんじゃないよ。会社を作った人だ」
「ふうん。すごく偉い人?」
「偉い人だった」
紬はシリアルを食べ終え、牛乳を飲んだ。
「じゃあ、お父さんは悲しいの?」
矢代は答えに詰まった。悲しいのか。剛造と直接話したことは数えるほどしかない。しかし矢代が1年間格闘し続けているものの根源は、すべてこの90歳の老人から始まっていた。悲しいとは違う。しかし何も感じていないわけでもない。
「少しだけ」
「そっか」
紬はそれ以上聞かず、テレビをつけた。天気予報が流れていた。今日は晴れ、最高気温33度。紬はサッカーバッグを肩にかけ、「行ってきます」と玄関を出た。
聡子が廊下から出てきた。矢代と目が合った。
「紬、もう出た?」
「出た」
聡子はキッチンに立ち、コーヒーを淹れ始めた。矢代は聡子の背中を見ていた。背筋が真っ直ぐだった。聡子が怒っているときほど姿勢が良くなることを、矢代は知っていた。しかし今の聡子が怒っているのか、疲れているのか、矢代には判断がつかなかった。何か言うべきことがある気がしたが、言葉にならなかった。聡子はコーヒーを2つ淹れ、1つを矢代の前に置いた。
「ありがとう」
聡子は何も言わず、自分のカップを持ってダイニングの椅子に座った。2人のあいだに、テーブルの上の白い菊があった。朝の光が花弁に当たり、白がさらに白く見えた。
「社葬、大変だった?」
聡子が聞いた。矢代が入社して以来、聡子が会社のことを聞くのは珍しかった。聡子は聞かないことで矢代の領域を守ってきた。あるいは、聞いても答えないことが分かっていたから聞かなかっただけかもしれない。
「2000人来た」
「そう」
聡子はコーヒーを1口飲んだ。
「紬がニュースで見たって言ってた。帝央電機の創業者が亡くなったって。紬は会社の名前を覚えていたのね」
矢代は何も言えなかった。10歳の娘が父の会社の名前をニュースで聞いて覚えている。普通のことかもしれない。しかし矢代にとっては、家庭と会社の境界がまた1つ崩れた瞬間だった。
莉子の部屋からは物音がしなかった。土曜日の朝、莉子が起きてくるのは昼近くになる。学校に行かなくなってから、莉子の1日は遅く始まり、遅く終わる。担任との3者面談はもう2回目になると聡子から聞いた。聡子が1人で対応していた。矢代はそのことについて聡子と話したことがなかった。話さなければならないと分かっていた。しかし何から話せばいいのか分からなかった。
矢代はコーヒーを飲み、立ち上がった。
「午後から出る」
「今日も?」
聡子の声に責めるような調子はなかった。しかし諦めのような静けさがあった。矢代はそれを聞き取っていたが、聞き取らないふりをした。
「河野さんの件で」
聡子は頷いた。矢代は寝室に戻り、着替えた。オフィスのデスクの引き出しには、更生手続開始申立書のドラフトが眠っている。第三者割当増資を実行した時点で、その選択肢は現実的には消えた。しかし矢代は、ドラフトを捨てられなかった。
矢代は家を出た。
7月第2週。株価は560円に達した。名誉会長の死去から10日で30円上がった。市場は創業者の退場を「経営改革の加速」と読み、機関投資家の一部が買いに回っていた。
矢代はその数字を見ながら、梶原の言葉を思い出していた。「今日からは自分の足で立たなければならない」。総会で50.1パーセントしか支持されなかった人物に、どれだけの求心力があるか。
MBOの構想は、社葬の夜から水面下で動いていた。堂島が枠組みの設計を始めていることを、矢代は知っていた。矢代が懸念していたのは、堂島の軸足だった。MBOの局面では、会社側FAだった堂島に、買収者側——古賀と啓介——のアドバイザーとしての色が濃くなる。
矢代は堂島に電話した。
「堂島さん。MBOの進め方について、1度整理しませんか」
堂島の声は明るかった。新しい案件が動き出すときの、バンカー特有の活力だった。しかしその明るさは、罪悪感を覆い隠すためのものかもしれなかった。
「矢代さん、ちょうどよかった。来週、PEファンドの候補と面談をセットしたいと思っています。常盤橋パートナーズの柿沼さんに声をかけました」
矢代は黙った。PEファンドへのアプローチがもう始まっている。矢代に相談なく。
「啓介さんの了解は取っていますか」
「もちろんです。啓介さんとは先週末に打ち合わせ済みです」
先週末。社葬から2日後。喪が明ける前に、啓介と堂島はMBOの具体策を詰めていた。
「古賀さんは」
「古賀さんには、啓介さんから話していただく段取りです」
「堂島さん。一つ確認させてください。今回のMBO、FAとしてのクライアントは誰ですか」
電話の向こうで、一瞬の間があった。
「矢代さん。今はまだ構想段階です。正式にFAとして受任する段階になれば、当然、契約関係を整理します」
答えになっていなかった。しかし答えないこと自体が、答えだった。
矢代は電話を切った後、しばらくデスクに座っていた。堂島が古賀ではなく啓介をMBOの中心に据えようとしている。FAの常識では当然の判断だった。MBOを成功させるなら、資金と決断力のある主体をクライアントにする。古賀にはどちらもない。堂島はそれを分かっていて、古賀に直接そう言えなかった。だから啓介を経由した。
矢代は窓の外を見た。7月の陽射しが大手町のビル群を白く照らしていた。
河野が報告した追加損失——300億から500億以上。この数字がMBOの前提を崩すことを、矢代は知っていた。しかし今はまだ、河野以外にその数字を知っている人間はほとんどいない。
夕方、志村が矢代の執務室に来た。CFOの顔には疲労が見えたが、いつもの刺すような目つきは変わらなかった。
「河野の話は聞いたか」
「聞いた」
「東南アジア3社の数字、私も調べ直している。300億で収まればいいが、正直なところ、まだ確たることは言えない。インドネシアの合弁先との契約に簿外保証が紛れ込んでいる可能性がある。仮にそれを入れると、500億は超えるかもしれない」
矢代は志村の目を見た。志村は数字への絶対的な自信を持つ男だった。しかし統合後のERP接合部分の不正については、志村自身が全容を把握しきれていない。その苛立ちが、志村の声の端ににじんでいた。
「古賀さんには」
「まだ言えない。社葬の直後にこの話をすれば、古賀さんはおそらく受け止められないだろう」
志村は窓の外を見た。
「矢代。MBOの話が出ていることは知っている。もしやるなら、この数字が出る前にやらなければ、おそらく間に合わない。出た後では、どの投資家も降りるんじゃないか」
「それは数字を隠せということですか」
志村は矢代に視線を戻した。
「隠すとは言っていない。タイミングの問題だと言っているつもりだ」
矢代は何も答えなかった。志村は立ち上がり、ドアの前で一瞬止まった。
「矢代。会長が死んで、この会社は本当の意味で孤児になったんじゃないか。古賀さんは自分が後見人だと思っているだろうが、後見人が半分しか信任されていない組織に、未来はあると思うか」
志村はそれだけ言って出ていった。矢代は志村の問いに答えを持たなかった。
残現金:約2200億円/株価:560円(名誉会長死去で経営改革期待の小反発)/時価総額 約7840億円/銀行団の姿勢:再建策の提示を求め始める/家庭:矢代が「家を守る」の意味を自問
第11話 最善
7月第3週。社葬から2週間が過ぎた。
矢代は丸の内の八重洲証券本社ビルに入った。堂島の部署は18階にある。エレベーターを降りると、堂島が廊下の端で待っていた。
「常盤橋パートナーズの柿沼さんが来ています。22階の会議室です」
堂島は歩きながら説明した。常盤橋パートナーズは国内最大級のPEファンドで、運用資産は1兆円を超える。ファウンダーの柿沼俊一は元メガバンク執行役員で、銀行の論理とファンドの論理の両方を理解できる人物だと堂島は言った。
「啓介さんは」
「先に入っています」
矢代は足を止めた。
「古賀さんは」
「今日は啓介さんだけです。古賀さんには後日、啓介さんから報告する段取りです」
また同じ構造だった。啓介が先に動き、古賀には事後報告。堂島はその構造を設計しているのか、受け入れているのか。矢代には区別がつかなくなりつつあった。
会議室に入ると、啓介がすでに柿沼と話していた。柿沼は60代前半、銀髪を短く刈り上げ、紺のスーツに地味なネクタイを締めていた。銀行出身者の匂いがした。矢代が入ると、柿沼は立ち上がって名刺を差し出した。
「常盤橋パートナーズの柿沼です。矢代さんのことは堂島さんから聞いています」
矢代は名刺を受け取った。堂島が矢代を柿沼にどう説明したのか。会社側の実務責任者か、MBOの設計者か。その肩書きの選び方自体に、堂島の立ち位置が現れるはずだった。
堂島がホワイトボードの前に立った。MBOの基本スキームを図にしていく。SPCの設立、買付対象、資金調達の構造。矢代は堂島の手元を見ながら、この男が増資のときと同じ精密さでMBOの枠組みを組み上げていくのを見ていた。
「買付対象は、発行済14億株から自己株0.4億株とソングラス管理株式会社の約9パーセントを除いた約12.4億株です」
堂島は数字を書きながら続けた。
「仮に買付価格を1200円とすると、買付総額は約1兆4900億円。資金調達の内訳として、銀行融資7000億、メザニン2000億、創業家の現物出資と現金拠出で約1000億。残りの約4900億をPE資金で賄う必要があります」
柿沼はメモを取らなかった。数字は頭に入っているのだろう。
「堂島さん。まず1つ確認させてください」
柿沼の声は穏やかだった。しかし質問は穏やかではなかった。
「SPCの株主構成です。古賀CEOと啓介さんがSPCの発起人になるとのことですが、MBO後の経営者選任権はどこにありますか」
啓介が答えた。
「取締役会議長は私が務めます。CEOは古賀が続投する前提です」
柿沼は啓介を見た。
「啓介さん。経営者の選任権がSPCの株主にあるのか、取締役会にあるのかを聞いています。PE出資者として、我々には拒否権が必要です。少なくともCEOの選任と重要な資産処分については、PE側の事前承認を条件にしたい」
啓介の表情が一瞬硬くなった。しかしすぐに笑顔を作った。
「拒否権という言い方は適切ではないかもしれません。重要事項に関する事前協議義務、という形ではいかがですか。実質的な拒否権を持ちつつ、対外的には協議義務として説明できる」
柿沼は沈黙した。五秒ほどの沈黙だったが、会議室の空気が変わった。柿沼は啓介の提案の意味を正確に理解していた。協議義務は拒否権ではない。協議した上で啓介が最終判断できるなら、PEは実質的に拘束力を持たない。
「啓介さん。率直に申し上げます」
柿沼は背筋を伸ばした。
「我々が数千億を出資するのは、経営の改善に関与するためです。拒否権なき出資はPEのビジネスモデルに合いません。協議義務は、PE側にとっては拒否権の放棄と同じです」
啓介は何か言おうとした。しかし堂島が先に口を開いた。
「柿沼さん。まだ構想段階です。SPCの株主間契約は今後詰める話ですので、今日は全体のフレームワークを共有させてください」
柿沼は頷いた。しかし矢代は見ていた。柿沼が頷いたのは議論を延期しただけだ。核心の問いは棚上げされた。啓介が創業家としての経営権を維持しようとし、PEがそれを認めない。この構造は今日解決されるはずがなかった。
矢代は古賀と啓介がMBOを語る動機の違いを、改めて確認した。古賀は会社の独立を守りたい。市場の論理から会社を取り戻す。それは剛造の遺志の解釈として一貫していた。しかし啓介は違う。啓介が求めているのは、MBO後に自分が取締役会議長として経営権を握ることだ。
矢代は柿沼の質問を反芻した。経営者の選任権がSPCの株主にあるのか、取締役会にあるのか。柿沼は核心を一発で突いた。銀行出身者ならではの視座だった。銀行は融資先の経営者交代にこそ関心がある。資金の回収は経営者の力量にかかるからだ。柿沼はPEファンドの運営者であっても、その基本原則を手放していない。この男は味方にできれば強力だが、敵に回せば手強い。そしてまだ味方にはなっていない。
会議は2時間続いた。後半、堂島が買付価格の前提条件を説明した。1200円というベース価格に対し、柿沼は「過年度修正の全額が確定していない段階でデューデリジェンスの前提が置けない」と指摘した。啓介は「修正額は既に確定済み」と応じたが、柿沼は「河野新監査委員長の着任後に追加修正の可能性はないのか」と問い返した。啓介は一瞬だけ矢代の方を見た。矢代は表情を変えなかった。河野の報告した追加損失のことを、この場で話すわけにはいかない。しかし柿沼の質問は的を射ていた。追加修正がないという前提は、すでに危うい。
柿沼は帰り際、矢代に名刺を渡しながら言った。「矢代さん。数字が固まったら、改めてお会いしましょう」。その言葉には、今日の数字では判断できないという意味が含まれていた。
会議室を出ると、啓介がエレベーターホールで待っていた。堂島はまだ会議室の片付けをしている。
「矢代さん。柿沼はどう見る」
啓介の声には余裕があった。矢代は一瞬迷ったが、率直に答えた。
「拒否権の問題は先送りしただけです。次の面談までに、SPC株主間契約の基本条件を詰めないと先に進めません」
「それは堂島に任せている」
「堂島さんのクライアントは誰ですか」
啓介の目が鋭くなった。しかし表情は崩さなかった。
「矢代さんは心配性だな。クライアントは会社だよ。増資のときと同じだ」
啓介はそう言って、先にエレベーターに乗った。矢代は次のエレベーターを待った。啓介の言葉は嘘ではないかもしれない。少なくとも啓介はそう信じている。自分が会社を守ることと、自分が会社を支配することの区別がつかなくなっている。剛造がそうだったように。
会議の後、矢代と堂島は2人で八重洲証券の社員食堂に入った。昼の時間を外していたため、人はまばらだった。
堂島はコーヒーを飲みながら、矢代の顔を見ていた。
「柿沼さん、厳しかったですね」
「当然でしょう。数千億出して口を出すなとは言えない」
堂島はカップを置いた。
「矢代さん。1つ、聞いてもらいたいことがある」
矢代は堂島の目を見た。堂島の表情が変わっていた。会議室でホワイトボードに向かっていたときの精密な冷静さではなく、何かを抱えている顔だった。
「啓介さんは、MBO後に古賀さんを外すつもりではないかと、私は感じています」
矢代は黙った。
「取締役会議長を自分が務めると言った。CEOの選任権を手放さないとも言った。PEの拒否権を協議義務に置き換えようとした。すべてのピースが、MBO後に啓介さんが実質的な経営権を握る構造を指している」
「堂島さんはそれを知った上で、スキームを設計しているんですか」
堂島は目を伏せた。
「FAとして、クライアントの意向に沿ったスキームを提示するのが仕事です。しかし——」
堂島は言葉を切った。コーヒーカップの縁を指でなぞった。
「八重洲のコンプライアンス部門に聞けば、利益相反だと言うでしょう。会社側FAが、買収者側のスキーム設計を請け負っている。金融の常識では、ここで辞任するのが正しい。しかし——矢代さん、私が降りたら、啓介さんは別のFAを連れてくる。そのFAは古賀さんのことを知らない。私は古賀さんを知っている。知っている人間が中にいることに、まだ意味があると思っている」
堂島の声が低くなった。
「それが言い訳なのか本心なのか、自分でも分からなくなっている。ただ、矢代さんに隠したまま進めることはできなかった。あなたは増資のときから一緒に走ってきた。あなたに嘘をついてMBOを設計するのは、私にはできない」
矢代はコーヒーに手をつけなかった。堂島の告白は誠実だった。しかし誠実であることと正しいことは違う。堂島は啓介の企図を知りながらFAを続けている。告白は免罪符にはならない。
「堂島さん。あなたのクライアントは誰ですか」
「増資のときは会社でした。MBOでは——正直に言えば、啓介さんです」
「古賀さんはそれを知っていますか」
「知らないと思います」
矢代は立ち上がった。食堂の窓から、丸の内のビル街が見えた。矢代は自分がこの構造のどこに立っているのかを考えた。古賀の側でも啓介の側でもない。会社の実務を回す人間。しかし実務を回すことは、このMBOに加担することを意味する。
「堂島さん。もう1つ聞きます」
「何ですか」
「経営統合のとき、あなたは八重洲証券のFAとして関わった。統合の失敗を認めたくないバイアスが、MBOの設計に影響していませんか」
堂島は一瞬固まった。それから、苦笑いのような表情を浮かべた。
「矢代さんは容赦がない」
「答えてください」
「影響している可能性は否定しません」
堂島はカップを両手で包んだ。
「7年前、古賀さんに統合のシナジー試算を見せたとき、古賀さんは『堂島さんの数字を信じる』と言った。あの言葉が重い。シナジーは実現しなかった。私の数字が間違っていた。今の私が考えているのは、その失敗をどう清算するかです。MBOが正しい清算方法かどうかは分かりません。ただ、他に方法が見えない」
矢代は堂島の顔を見た。矢代は自分にも同じことが当てはまることに気づいていた。正しい判断は更生法だった。それを選べずにMBOの設計に加わっている自分は、堂島を批判する資格があるのか。
堂島はコーヒーを飲み干した。
「矢代さん。もうひとつ伝えておきたいことがある。増資のとき、私はあなたに『最善の条件を引き出す』と言った。あの言葉は本心だった。しかしMBOでは、誰にとっての最善かが、増資のとき以上に分裂している」
堂島は窓の外を見た。
「会社にとっての最善は非公開化かもしれない。古賀さんにとっての最善は独立の維持。啓介さんにとっての最善は経営権の掌握。PEにとっての最善はリターンの最大化。従業員にとっての最善は雇用の確保。どの最善を追いかけるかで、スキームの形が変わる。私はFAとして全員の最善を追いかけたいが、それは不可能だということも分かっている」
矢代は堂島の言葉を黙って聞いた。7年前の統合では「シナジー」という1つの目標に全員を向かせることができた。今は目標自体が分裂している。
矢代は食堂を出た。エレベーターで1階に降り、丸の内の通りを歩いた。7月の陽射しが強かった。矢代はネクタイを緩め、駅に向かった。頭の中では3つの数字が回っていた。4900億——PE資金の必要額。3200億——調達可能額の上限。500億——河野が見出した追加損失の可能性。3番目の数字が最初の2つの数字の意味をすべて変えることを、この場にいる人間の中で矢代だけが知っていた。
7月の第4週、矢代は古賀に呼ばれた。CEO執務室は社葬の後、剛造の額装された書を外していた。壁に長方形の跡が残っていた。「人は城、人は石垣、人は堀」——あの書がなくなった壁を、矢代は見つめた。
「MBOの件、啓介から聞いた」
古賀の声は穏やかだった。しかし目は笑っていなかった。
「堂島さんから直接聞いたのではなく、啓介からですか」
「そうだ。堂島は私のところには来なかった」
古賀はその事実を静かに受け止めているように見えた。しかし矢代には分かった。堂島が古賀ではなく啓介を先にしたこと。それは古賀にとって、FAの裏切りではなく、自分の求心力の低下の証左だった。社葬で弔辞を読み、「市場の論理から取り戻す」と宣言した男が、2週間後にFAのクライアントの座を啓介に奪われている。
「古賀さんはMBOに賛成ですか」
「会社を守れるなら、手段は問わない」
その言葉は剛造が生前に好んだ論法と同じだった。目的が手段を正当化する。しかし手段が目的を変質させることを、古賀はまだ見えていない。
その週のうちに、MBOの観測記事が経済紙に出た。
「帝央電機HD、経営陣による非公開化を検討」。記事は堂島か啓介の周辺からのリークだろう。株価は580円から630円に跳ねた。翌日も買いが続いた。
矢代はすぐに北村に連絡し、「MBOを決定した事実はない」旨のコメント開示と、インサイダー取引防止体制の再確認を進めた。漏洩経路の特定は後回しにするしかなかった。
矢代は小野寺と数字を見ていた。
「株価が上がるほど、MBOに必要な資金も増えます」
小野寺の指摘は正確だった。買付価格が上がれば買付総額が膨らみ、PE資金の不足がさらに拡大する。株価の上昇はMBOの実現可能性を下げる。しかし市場はMBO価格を見越して買いに走る。悪循環だった。
「柿沼さんの回答は」
「来週中に正式な返答を出すと言っています。ただ、条件次第で前向きに検討するという感触です」
前向きに検討する。PE業界でその言葉が意味するのは、条件が折り合えば投資する用意があるということだ。しかし条件が折り合うかどうかは別の問題だった。啓介は拒否権を渡したくない。柿沼は拒否権なしには出資しない。その溝は埋まっていない。
「他のPEファンドはどうですか」
「堂島さんが三社にアプローチしています。ベイニーキャピタルは投資委員会で議論中。他の二社は早い段階で辞退です」
矢代は窓の外を見た。MBOの資金調達は、常盤橋パートナーズとベイニーの2社に絞られつつある。仮に両社から最大限の出資を得ても3200億が上限で、必要額には大幅に足りない。しかもその前提は、追加損失が発生しないという仮定に基づいている。河野が報告した300億から500億以上の追加損失が開示されれば、すべてが再計算になる。
小野寺が付け加えた。
「もう一つ。アトラスが先週、追加の書簡を取締役会に送っています。CEO退陣を改めて要求する内容です。グラント連合全体としての統一行動かどうかは不明ですが、総会後も圧力は弱まっていません」
矢代は頷いた。MBOが成立すれば、アクティビスト連合の株式は買い取ることになる。買付価格が折り合えば彼らにとっても出口になる。しかし価格が折り合わなければ——あるいはMBOが不成立になれば——アクティビストは更に攻勢を強めるだろう。MBOの失敗は、会社にとって最悪のシナリオへの入口になりうる。
「小野寺。グラントの動きは」
「静かです。社葬の後、表立った動きはありません。ただ——」
小野寺は言葉を選んでいた。
「三雲さんが社葬に来ていた件ですが、あの後、三雲さんと宮田班長が連絡を取り合っているという情報があります。茨城工場の技術者たちの間で、三雲さんの名前が出ているようです」
矢代は眉を寄せた。三雲は経産省の経済安全保障政策課長だ。経産省の人間が工場の技術者と直接接触している——それは霞が関が技術流出のリスクを本気で警戒していることを意味していた。
志村が矢代の執務室に来たのは、その日の夕方だった。
「矢代。1つ聞く」
志村はドアを閉め、声を落とした。
「MBOの数字を作るのは俺の仕事だ。だが——正しい数字が出てくるかどうか、正直に言って、自信があるとは言い切れない」
矢代は志村の顔を見た。志村の目には、いつもの尊大さがなかった。
「ERP接合部分の不正の全容が、まだ見えていない。河野が東南アジア三社の追加損失を言い出しているが、あれが氷山の一角である可能性は否定できない。統合後に送り込まれた経理責任者が何をやっていたか、正確なところは俺でさえ把握しきれていない」
「それをMBOの資料に反映できますか」
「反映するなら、買付価格の前提が崩れる。反映しないなら——」
志村は言葉を切った。
「反映しないなら——少なくとも結果としては、数字を作ったことになる。俺がこの会社で最初にやったことと、構造としては同じだ」
矢代は何も言えなかった。志村は旧来型の不正を「慣れた手口」で管理してきた男だった。しかし統合後の新種の不正は、志村の手にも負えない。それを認めること自体が、志村にとっては敗北だった。
「志村さん。あなたは啓介さんの高校時代からの友人だ」
志村が振り返った。
「それがどうした」
「啓介さんはMBO後に取締役会議長になるつもりです。そのとき、CFOは誰がやりますか」
志村の目が光った。志村は啓介との関係を、矢代がどこまで知っているかを測っているようだった。
「俺がやるに決まっている」
「正しい数字が出てくるか自信がない、と言ったCFOがMBO後も数字を担当する。その構造に問題はありませんか」
志村は黙った。五秒ほどの沈黙があった。
「矢代。お前にだけは正直に話したんだ。それを刃にするのか」
「刃にしているのではありません。質問しているんです」
志村は矢代を見つめ、それから視線を外した。
「正しい数字が出てくるかどうか確信が持てないと言ったのは、お前に対してだけだ。古賀さんにも啓介にも、まだ言っていない」
志村はドアを開け、出ていった。矢代は志村の背中を見送りながら、この会社の中に正しい数字を出せる人間が何人いるのかを数えた。河野は正しい数字を出そうとしている。志村は正しい数字が出せるか分からないと告白した。古賀は数字の話を避けている。啓介は数字よりも権力の構造に関心がある。
矢代は窓際に立った。大手町のビル群が夕陽に染まっていた。MBOは資金が足りない。数字は不確か。買い手と売り手の利益が相反している。構想段階で既にこれだけの問題を抱えている。しかし矢代はMBOの設計から降りようとしなかった。降りれば、残る選択肢は法的整理だ。更生法。デスクの引き出しの中のドラフト。しかし第三者割当増資を実行した後では、その選択肢は現実的になくなっている。
矢代は「まだ自分の手で戻せる」と思いたかった。MBOが成功すれば、技術と雇用を守りながら非上場化できる。茨城工場の宮田班長が社葬の弔辞で言った言葉が頭の中で反復していた。失敗は城の石垣になる、積め。あの言葉を矢代は「技術と人を守れ」という意味に受け取った。その解釈を疑うことは、MBOの設計から降りることを意味する。矢代はまだ、その1歩を踏み出せなかった。
株価は7月末にかけて上昇を続け、680円になった。MBO価格を見越した投機的な買いだった。それは回復ではなく、別の期待——非公開化によるプレミアム——に支えられた株価だった。
矢代は毎晩遅くに帰宅した。社葬の後から、帰宅時間はさらに遅くなっていた。深夜1時、2時。タクシーの中で河野の数字と柿沼の条件と志村の告白を頭の中で組み合わせては崩す。
ある夜、帰宅すると聡子がリビングにいた。テレビの明かりだけがついていた。聡子はソファに座り、スマートフォンを見ていた。矢代が入ると、聡子は顔を上げた。
「おかえり」
「ただいま」
矢代は靴を脱いだ。聡子が起きて待っていることは最近ではほとんどなかった。
「座って」
聡子の声は静かだった。怒っているときほど声が静かになり、言葉が正確になる。峰岸家の食卓で鍛えられた話法。矢代はそれを知っていた。
矢代はソファに座った。聡子との距離は30センチほどだった。テレビでは深夜のニュースが流れていた。
「あなたが銀座で話していることを、私にも話してほしい」
矢代の身体が固くなった。
「誰から聞いた」
聡子は矢代を見た。
「父に聞いたんじゃない。あなたの顔を見れば分かる」
矢代は言葉を探した。何を、どこから話せばいいのか。守秘義務。いや、守秘義務は理由ではない。冴子には話している。銀座のママには本音を漏らし、妻には何も言わない。聡子はそのことを知っている。
「聡子」
「待って。先に聞いて」
聡子はスマートフォンを置いた。両手を膝の上に重ねた。法曹一家の娘が、弁論の準備を終えた姿だった。聡子は今夜この話をするために、矢代が帰るのを待っていたのだ。
「6月に、お父さんに会いに行った」
矢代の呼吸が止まった。峰岸に——。この時期に、この状況で訪ねたということは、聡子が意図的に情報を取りに行ったということだ。
「勝手に義父に会ったのか」
聡子は矢代の目を見たまま、まばたきをしなかった。
「あなたが話さないから、自分で聞いた」
聡子の声に怒りはなかった。悲しみでもなかった。事実を述べている声だった。矢代は「勝手に」と言ったことを後悔した。しかし撤回する言葉も見つからなかった。
「お父さんは言っていた。会社の形が変わる可能性がある。早晩、外資に役員の人事権を奪われ、バラバラに切り刻まれるだろうと。それを回避するにはMBOか、あるいは——」
聡子は一瞬言葉を止めた。
「別の事業パートナーが現れるか」
矢代は聡子の顔を見ていた。聡子は峰岸の娘だった。法曹一家で育ち、倒産案件の空気を肌で知っている。「会社の形が変わる」という言葉の意味を、聡子は正確に理解している。
「峰岸先生の言ったことは、概ね正しい」
矢代の声は小さかった。認めることが、矢代にできる精一杯だった。聡子の目が少しだけ緩んだ。矢代がこの半年間で初めて、会社のことについて肯定も否定もせず、事実を認めた瞬間だった。
「じゃあ、聞かせて。あなたは今、何をしているの」
矢代は天井を見た。何をしているのか。MBOの設計を手伝っている。古賀と啓介の対立を見ながら、堂島の変節を知りながら、志村の不安を受け止めながら、河野の数字に怯えながら。それを妻にどう説明すればいいのか。守秘義務がある。しかし冴子には話している。冴子には話せて聡子には話せない理由は、守秘義務ではない。冴子の前では失敗を認められる。聡子の前では——聡子の前では、正しい夫でいなければならないと思っている。その「正しさ」が、矢代を沈黙させていた。
「会社を守ろうとしている」
「誰のために」
聡子の声が一段低くなった。
「会社を守ることが家族を守ることだと、あなたは思っている。でもあなたが家にいない間に、莉子は学校に行けなくなった。紬は私と毎日喧嘩している。私は——」
聡子は言葉を切った。視線を落とした。膝の上の手を握りしめ、それからゆっくり開いた。しかし矢代には、聡子が飲み込んだ言葉が聞こえた気がした。私は1人で全部やっている。
「すまない」
聡子は首を振った。小さく、しかし決然と。
「謝ってほしいんじゃない」
聡子は矢代を見上げた。目が赤かった。しかし声は崩れなかった。
「話してほしいの。銀座のママに話すことを、私にも話してほしいの。それだけ」
矢代は口を開いた。何か言おうとした。しかし出てきたのは言葉ではなく、沈黙だった。聡子はその沈黙を待った。30秒。1分。矢代が話し始めるのを待った。しかし矢代は話せなかった。聡子の目を見ていた。見ていて、話せなかった。
聡子は立ち上がり、テレビを消した。
「莉子の3者面談、来週の木曜日。あなたも出て」
「分かった」
聡子は寝室に向かった。矢代は暗くなったリビングに1人残った。聡子の言葉が胸の中で反復していた。話してほしい。それだけ。それだけのことが、矢代にはできなかった。
木曜日の午後、矢代は桜葉中学校にいた。3者面談。担任の女性教師は30代半ばで、矢代と聡子に対して丁寧だが率直だった。
「莉子さんは五月の半ばから、ほぼ登校していません。保健室登校を試みましたが、校門の前で足が止まってしまう日が続いています」
矢代は隣に座っている莉子を見た。莉子は俯いていた。長い髪が顔を隠している。制服ではなく私服だった。
担任が続けた。
「学習面では、自宅で課題をこなしていただいているので大きな遅れはありません。ただ、このまま不登校が続く場合、出席日数の関係で、進級に影響が出る可能性があります」
聡子が質問した。担任との話し方は落ち着いていた。聡子はこの面談をすでに二回経験していた。矢代だけが初めてだった。
面談の最後に、担任が莉子に声をかけた。
「莉子さん。何かお父さんやお母さんに伝えたいことはある?」
莉子は顔を上げなかった。長い髪が机に触れるほど垂れている。沈黙が続いた。担任が矢代と聡子に目配せをした。聡子が口を開きかけた。
「最善って何なの」
莉子の声は小さかった。しかし教室の空気が止まった。
担任が聞き返した。「え?」
莉子は顔を上げた。矢代を見ていた。
「お父さんがいつも電話で言ってる。最善の方法を検討する、って。最善って何なの。誰にとっての最善なの」
矢代は凍りついた。莉子は聞いていたのだ。深夜に帰宅した矢代が、自室で電話をする声を。ドアの向こうで、莉子は父親の言葉を聞いていた。
「莉子」
矢代は娘の名前を呼んだ。しかしその先が出てこなかった。14歳の娘の問いに、答える言葉が見つからなかった。
「いい。もういい」
莉子は椅子から立ち上がり、面談室を出た。聡子が追いかけた。矢代は1人、担任と向かい合った。
「矢代さん。莉子さんは、ご家庭の状況に敏感なお子さんです」
担任の言葉は婉曲だったが、意味は明確だった。矢代の不在と、家庭の緊張が、莉子に影響している。
矢代は担任に頭を下げた。「ご迷惑をおかけしています」。担任は首を振った。「莉子さんは繊細ですが、芯の強い子です。お父さんが来てくださったことは、莉子さんにとって大きいと思います」。矢代は担任の言葉に救われたかったが、救われなかった。父親が家族ではなく会社のことを考えていると、14歳の娘は正確に理解していた。
矢代は面談室を出た。廊下の端で、聡子が莉子の肩に手を置いていた。莉子は泣いてはいなかった。ただ壁を見ていた。矢代は2人に近づけなかった。30センチの距離が、30メートルに感じた。
帰りの車の中で、誰も話さなかった。莉子は後部座席で窓の外を見ていた。聡子は助手席で前を向いていた。バックミラーに莉子の横顔が映った。聡子に似ている、と矢代は思った。芯の強さも、感情を隠す癖も。しかし聡子と違い、莉子はまだそれを言葉にする方法を知らない。だから身体で拒否する。学校に行かないという形で。
矢代はハンドルを握りながら、莉子の問いを反芻していた。
最善って何なの。誰にとっての最善なの。
MBOの設計書に「最善」という言葉を何度も書いた。株主にとっての最善。従業員にとっての最善。債権者にとっての最善。しかし家族にとっての最善は、1度も書いたことがなかった。
マンションに着くと、莉子は車から降りてすぐに部屋に入った。ドアが閉まる音が聞こえた。聡子は玄関で靴を脱ぎながら言った。
「来週もう1度、面談がある。あなたも来て」
「分かった」
「分かった、じゃなくて、来て」
聡子は矢代を見た。目が赤かった。泣いていたのだ。面談の間、聡子は冷静だった。矢代の前では冷静でいることが、聡子にとっての最善だったのかもしれない。
矢代は頷いた。聡子はリビングに入り、紬が宿題をしているテーブルに座った。矢代は玄関に立ったまま動けなかった。
スマートフォンが振動した。堂島からのメッセージだった。「常盤橋パートナーズから正式回答あり。条件次第で前向きに検討。来週面談希望。日程調整をお願いします」
矢代はメッセージを見て、スマートフォンをポケットにしまった。条件次第で前向きに検討する。会社にとっての最善。莉子にとっての最善。2つの最善が同じ方向を向いていない。
矢代は靴を脱いだ。廊下の奥から、莉子の部屋のドアが閉まったままであることが見えた。あの部屋の中で莉子は何を考えているのか。最善という言葉を父親から奪い取った14歳の少女は、自分の問いに自分で答えを見つけようとしているのだろうか。
矢代はリビングに入った。紬が顔を上げた。
「お父さん、おかえり」
「ただいま」
紬はまた宿題に目を戻した。聡子はキッチンで夕食の準備を始めていた。矢代はダイニングの椅子に座った。莉子の部屋からは物音がしなかった。
7月が終わろうとしていた。株価は680円。MBOの構想は動き出し、資金調達の壁にぶつかり、追加損失の影が忍び寄り、家族との亀裂が深まっていた。すべてが同時に進行していた。そしてそのすべてに対して、矢代は「最善」を探していた。しかし最善とは何か。誰にとっての最善なのか。14歳の娘の問いに、矢代は答えを持っていなかった。
残現金:約2100億円/株価:680円(MBO観測報道で上昇)/時価総額 約9520億円/銀行団の姿勢:MBO構想に懐疑的/家庭:聡子との正面衝突。家族の迂路の転換点
第12話 四重の利益相反
8月の第1週、特別委員会が設置された。
笹本久美が委員長を務め、河野誠治と黒田義明が委員に就いた。社外取締役3名で構成される独立委員会の目的は、MBOの是非と取引条件の妥当性を、一般株主の利益の観点から検討することだった。
設置の翌日、笹本が矢代を会議室に呼んだ。
「矢代さん、特別委員会の独立FAとして村野證券を選任します。八重洲証券とは別に、独自の株価算定を行わせます」
矢代は頷いた。笹本の判断は正しかった。
笹本はファイルから資料を取り出した。経産省の「公正なM&Aの在り方に関する指針」だった。付箋が何箇所にも貼られている。笹本はこのために準備してきた。
「矢代さん、もう一つ」と笹本は言った。「特別委員会は、マーケット・チェック——他の買収者による対抗提案の機会——を確保すべきだと考えています。古賀さんと啓介さんは消極的でしょうが」
「おそらく、『アクティビストに付け入る隙を与える』と反対されます」
「反対されても、一般株主を守るためには必要です。マジョリティ・オブ・マイノリティ条件——利害関係のない一般株主の過半数の応募——も要件化するつもりです」
矢代は笹本の眼を見た。50歳の弁護士の目に迷いはなかった。笹本はMBOが誰のための取引なのかを問うている。経営者が買収者側に立ち、一般株主から株式を買い取る。その構造自体が利益相反であり、一般株主の保護を最優先にしなければ、法的にも市場からも批判される。
笹本が退室した後、矢代は1人で会議室に残った。特別委員会が厳しい姿勢を取ることは、MBOの実現を難しくする。しかし笹本の主張は正論だった。矢代自身も、それが正論であることを知っている。
8月の第2週、水城凛子が北村綜合法律事務所の会議室で矢代と向かい合った。
6月の株主総会で議事運営を設計した37歳の弁護士は、今回はMBOの法務設計の検討として呼ばれていた。ホワイトボードに4つの名前を書いた。
古賀義隆。御子柴啓介。堂島慎一郎。矢代直哉。
「四重の利益相反です」と水城は言った。
矢代は黙って聞いた。
「まず古賀さん。代表執行役CEOとして会社の利益を守る義務がある。しかしMBOでは買収者側のSPCに経営者として参画する。売る側と買う側の両方に立っている。これが第1の利益相反です」
水城はペンでホワイトボードに線を引いた。
「次に啓介さん。取締役副社長として取締役会の意思決定に関与する立場でありながら、ソングラス管理株式会社を通じてSPCの株主側に参加する。取締役会がMBOを承認するかどうかの議論に、買収者の1員が加わっている。第2の利益相反」
もう1本、線が引かれた。
「堂島さん。八重洲証券のFAとして会社の利益のために助言する義務がある。しかし堂島さんは経営統合時から帝央電機のFAを務めており、古賀さんとの個人的信頼が深い。MBOの価格算定で、古賀さんに有利な——つまり買付コストを抑える方向に——バイアスがかかっている可能性がある。特別委員会が村野を独立FAに選任したのは、八重洲の独立性に疑義があるからです。これが第3」
水城は3本目の線を引いた。そして矢代を見た。
「そして矢代さん。あなたは執行役業務改革本部長として、MBOの実務設計を担当している。増資の設計、総会の防衛、そして今度はMBO。すべてあなたが実務を回している。しかしMBOが成立すれば、非上場化された会社であなたのポジションがどうなるかは古賀さんと啓介さんの判断次第です。あなたが設計段階で降りないのは、なぜですか」
矢代は水城の問いに、すぐには答えられなかった。
「降りれば、誰が設計するんですか」
「それはあなたが考えることではありません。利益相反の当事者が『代わりがいない』という理由で留まることは、利益相反を正当化する理由にはなりません」
水城の声は冷静だった。矢代は水城を見た。総会のときと同じ目だった。法的に正しいことを、感情を排して言い切る。
「水城さん、あなたの指摘は正しい。しかし、今この会社でMBOの設計を実務的に回せる人間は限られている」
「それは分かっています。だから今ここで言っているんです。特別委員会に報告書を出す前に。あなた自身が利益相反の構造の中にいることを、記録に残しておく必要がある」
矢代は頷いた。水城は利益相反を解消しろと言っているのではない。解消できないことを認めた上で、記録に残せと言っている。水城が求めているのは、検証可能性だった。
水城がホワイトボードを消した。白い面が戻った。利益相反を消すことはできない。できるのは、記録することだけだ。
合同協議の後半、泉・白石法律事務所の白石亮太が会議室に入ってきた。堂島がSPC組成の法務を依頼したM&A専門のパートナーで、45歳。公開買付者側——つまり古賀と啓介の側——の弁護士だった。資料の束を置いた。
「TOB届出書のドラフトです。買付価格、買付予定数の上限と下限、買付期間、公開買付代理人、決済方法。法的要件は整理しました。問題は価格です」
「村野のレンジが出ています」と矢代は言った。
「確認しました。村野證券はDCF法とマーケット・アプローチの2方式で1,050円から1,200円。八重洲証券は950円から1,050円。上限で150円の乖離です」
白石は資料のページをめくった。
「1株150円の差を買付対象の株式数で掛けると、約1,900億円。これは設計の問題ではなく、誰の利益を優先するかの問題です」
啓介は買付コストを抑える水準を主張し、特別委員会は一般株主の保護のために引き上げを求める。約1,900億円の差額の中に、MBOの本質がある。
翌週、特別委員会の第2回会合が開かれた。
笹本が議事を進行し、河野が質問を投げた。
「村野さんのDCF法のキャッシュフロー予測は、現在の経営計画を前提にしていますね。しかし過年度修正が完了した後の実態ベースで見ると、営業利益は計画値を大幅に下回る。村野のレンジですら楽観的な可能性がある」
村野證券の担当者が答えた。
「ご指摘の通り、過年度修正の最終確定が出ていない段階では、キャッシュフロー予測の前提に不確実性が残ります。我々のレンジはその不確実性を一定の幅で織り込んだものです」
「一定の幅、というのは」
「ダウンサイドケースで1,050円、アップサイドケースで1,200円です」
河野は資料を見た。62歳の元Big4代表社員は、数字で判断する人間だった。
「ダウンサイドケースの前提に、東南アジア3社の追加損失は織り込まれていますか」
会議室が静まった。追加損失の可能性は関口が4月に示唆していた。精査は進行中だが、規模感はまだ分からない。
「織り込まれていません」と村野の担当者が答えた。「精査が完了していないため、金額の見積もりができない状況です」
「だとすれば」と河野は言った。「1,050円というダウンサイドケースすら、下方リスクを過小評価している可能性がある」
笹本が頷いた。
「河野さんの指摘は記録に残します。村野さんには、追加損失の可能性を感応度分析に含めた補足レポートをお願いします」
笹本は村野の担当者に追加の質問をした。
「DCFのWACCの前提は何パーセントですか」
「4.8パーセントです」
「不正発覚前のWACCは4.3パーセントでした。不正によるリスクプレミアムの上昇を0.5パーセントしか見ていないのは、過小ではないですか」
村野の担当者は答えに窮した。河野が助け船を出した。
「WACCを5.5パーセントまで引き上げた場合、レンジの下限はどこまで下がりますか」
「試算していませんが、900円台前半まで下がる可能性があります」
「つまり、WACCの前提次第で村野のレンジは八重洲のレンジと重なる。問題はどちらのレンジが正しいかではなく、前提の置き方で結果がいかようにも変わるということです」
笹本は頷いた。
「算定の前提については、追加の精査を求めます」
黒田が口を開いた。
「笹本さん、1つ心配があります。条件が厳しすぎると、MBOそのものが成り立たなくなる。PE資金の裏付けが既に不足していると聞いています。特別委員会が条件を引き上げるほど、資金調達のハードルも上がる」
笹本は黒田を見た。
「黒田さん、成り立たないのであれば、それは設計に問題があるということです。特別委員会の役割は、一般株主の利益を守ることであって、MBOを成立させることではありません」
黒田は黙った。68歳の元上場企業社長には、笹本の論理の正しさは分かっていた。しかし同時に、MBOが頓挫した後に何が起きるかへの懸念があった。
矢代は委員会のオブザーバーとして末席に座り、3人のやり取りを聞いていた。笹本は法的に正しい。河野は会計的に正しい。黒田は経営的に正しい。3つの正しさが同じ方向を向いていない。
特別委員会の後、堂島が矢代のオフィスに来た。
「村野のレンジの方が正確かもしれない」
堂島は低い声で言った。52歳のFAの頬はこの数ヶ月でさらにこけていた。
「八重洲のレンジは」と矢代は聞いた。
「古賀さんの意向を汲んでいる面がある。意識的にではないが、長年の関係がバイアスになっている。村野は帝央電機との利害関係がないから、数字を純粋に見ている」
堂島の手が、膝の上で握られていた。
「20年やってきて、自分の算定がバイアスで歪んでいると認めるのは——正直、辛い。FA部門の人間としては、これは恥です。しかし嘘をつくよりはいい」
矢代は堂島を見た。FAが自社の算定レンジの劣位を認めている。堂島は正直だった。しかしその正直さが、特別委員会からFA独立性への疑義を強化する材料になることも分かっていた。
統合の失敗を認めたくないバイアス——7月に矢代が突きつけた問いを、特別委員会も遠からず突きつけるだろう。金融の世界では、利益相反のあるFAは辞任するのが筋だ。堂島はそれを誰よりも知っていて、辞任しなかった。古賀のそばにいることを選んだ。その選択が、数字を歪めた。
「堂島さん、PE資金の状況は」
「常盤橋パートナーズの柿沼さんが2,000億を条件付きで検討中。ベイニーキャピタルが1,200億で投資委員会にかけている段階です。合わせて3,200億が上限ですが、修正案ベースでも3,700億は必要で、500億足りない。残りの2社——HHR日本とコーライル——は早々に辞退しています」
「500億の不足を埋める手段は」
堂島は首を横に振った。
「ありません。常盤橋の柿沼さんは、追加出資を検討する余地があるとは言っていない。ベイニーも投資委員会の結論が出ていない。銀行融資の増額も、梶原さんが『MBOの資金を銀行団がリスクを取って出す理由がない』と渋っています」
矢代は天井を見た。MBOの設計図は精密だった。しかし設計図を実現するための資金が足りない。500億円。帝央電機の規模からすれば小さな額ではないが、PE4社中2社が早々に辞退し、残る2社も条件付き。資金の裏付けがない構想——それがMBOの実態だった。
「啓介さんは」と矢代は聞いた。
「ソングラス管理株式会社から現物出資と現金1,000億を用意すると。SPCの株主として入る以上、資金は入れる覚悟だと言っている。ただし、1,000億では足りない。啓介さんの資金力には限界がある」
「啓介さんの本当の狙いは」
堂島は答えなかった。沈黙が答えだった。啓介がSPCの株主構成で経営者選任権を握ろうとしていること、MBO後に古賀を外す企図を持っていること、堂島はそれを知っている。矢代も知っている。しかし2人ともそれを声に出さなかった。
9月の第1週、矢代は霞が関の経産省別館で三雲和哉と向かい合った。
経済安全保障政策課長の42歳は、矢代を別館の小さな応接室に通した。課長が1人で面談するのは異例だった。
「矢代さん、率直に申し上げます」と三雲は言った。「MBOについて、経産省としての関心をお伝えしておきたい」
矢代は三雲の言葉に神経を集中させた。
「帝央電機は軍民両用技術を保有しています。MBOによる非公開化は、この技術の管理体制に変更をもたらす可能性がある。外為法の事前届出審査の対象となり得ます」
「PEファンドが株主に入ることが」
「PEファンドの出資者の中に外国政府系ファンドが含まれている場合、外為法上の事前届出が必要になります。常盤橋パートナーズの出資者構成を確認する必要があります」
三雲は淡々と言った。しかし矢代には、三雲が単に法的要件を説明しているだけではないことが分かった。
「それに加えて」と三雲は続けた。「事前相談の中で、行政指導としていくつかの要請を行うことになります。技術管理委員会の設置。定期報告義務。そして、経産省が推薦する独立取締役の選任です」
矢代は三雲を見た。法的な命令権限ではない。しかし事前相談で経産省が「要請」した事項を無視してMBOを強行すれば、外為法の変更命令・中止命令が現実味を帯びる。拒否できない要請——行政指導の常套手段だった。
「三雲さん、それは相当に厳しい条件です」
「MBOが経営陣の保身の道具になることを、経産省は看過できません。技術が国内に残ることが最優先です。経営陣が誰であるかは、我々にとっては2次的な問題です」
矢代は三雲の言葉の中に、経産省の本音を読み取った。三雲が守ろうとしているのは帝央電機という法人ではない。法人の中にある軍民両用の技術群だった。技術が国内に残るなら、会社の形はどうなっても構わない。古賀が信じてきた「国に必要な会社だから国が守る」は、幻想だった。
「MBOに反対ですか」と矢代は聞いた。
「反対ではありません。条件を満たすなら認めます。しかし、条件を満たすのは容易ではない。特に、経産省推薦の独立取締役の選任は、啓介さんが受け入れるとは思えません」
矢代は頷いた。啓介がMBO後に経営権を握ろうとしている以上、経産省が送り込む取締役は障害になる。啓介は受け入れないだろう。経産省もそれを分かっていて、あえて条件に入れている。三雲はMBOを不可能にする条件を、合理的な政策要件の形で提示していた。
矢代は経産省別館を出て、虎ノ門方面に歩いた。9月の日差しが首筋に当たった。三雲の条件は表面上は合理的な政策要件だったが、実質的にはMBOへのノーだった。技術管理委員会、定期報告義務、経産省推薦取締役——すべてが啓介の経営権掌握を阻む設計になっている。
帝央電機に戻った矢代は、田島利男に電話をかけた。
「田島先生、一つ伺いたいことがあります」
「何でしょう」
「会社経営の危機に瀕して、会社更生を選択せず、アクティビストから出資を受けた会社は、その後どうなりますか」
電話の向こうで田島が息を吐いた。
「矢代さん、それは帝央電機の話ですか」
「一般論として」
「一般論として答えますよ」
田島の声は落ち着いていた。大型倒産案件を何十件と手がけてきた弁護士の声だった。
「アクティビストは投資家です。投資には出口がある。出口が見えない投資は存在しない。出資を受けた会社は、アクティビストの出口戦略に組み込まれます。出口は3つしかない。株価上昇による市場売却、MBOによる非公開化、第3者への売却です。3つのどれかが実現しなければ、アクティビストは会社を分解して事業ごとに売却します。市場が会社全体につける値段より、事業を個別に戦略的買収者へ売った方が高くなる会社では、分解が最も合理的な出口になる。それがアクティビストの計算です。問題は、分解される側にも人間がいるということです」
「更生法に切り替えることは、今からでも可能ですか」
田島は沈黙した。
「法的には可能です。しかし——矢代さん、第三者割当増資でアクティビスト連合に議決権の34パーセントを渡した後で更生法を申し立てれば、彼らの投資が毀損されます。更生手続では株主の権利が大幅に制限される。数千億円を投じた投資家が黙って受け入れるとは思えない。訴訟リスクが現実的です」
「分かっています」
「矢代さん、更生法は最初の段階で選ぶべきだった。今の段階では——失礼ですが——手遅れに近い。MBOが成功するなら非公開化して再建する道はある。MBOが失敗すれば、アクティビストの出口戦略に委ねることになります」
矢代は電話を切った。田島の言葉は正確だった。更生法は最初に見えていた正解であり、今も正解であるが、もはや選択できない。増資の代償がここにある。会社を延命させるために投じた2,540億円は、会社の運命をアクティビストの論理に委ねる切符だった。
矢代のデスクトップの隅に「更生」フォルダがある。未提出のまま、もう7ヶ月。申立書は実行可能な選択肢としてではなく、正解を選べなかった自分への問いかけとして、そこにあり続けている。アクティビスト連合は34パーセントを握り、9月末のロックアップ満了後にCBを転換すれば40パーセントに達する。田島の言葉が反響した。手遅れに近い。
9月の中旬、矢代は啓介と会議室で向かい合った。
「特別委員会の条件を受け入れるつもりはありません」
啓介は開口一番にそう言った。
「マーケット・チェックは論外です。他の買収者に対抗提案の機会を与えれば、アクティビストがそれを利用する。マジョリティ・オブ・マイノリティも、ハードルが上がりすぎます。経産省の推薦取締役は受け入れられません」
矢代は啓介を見た。48歳の創業家次男の目に、追い詰められた焦燥が浮かんでいた。啓介はMBOを通じて会社の経営権を握ろうとしている。しかし特別委員会の条件も、経産省の条件も、その目的を阻んでいる。
「啓介さん、PE資金が500億足りません。常盤橋の柿沼さんの回答もまだ出ていない。資金の裏付けがない状態で条件交渉を続けても——」
「金は何とかします」と啓介は言った。「柿沼さんには追加の条件を出す。銀行融資も梶原さんに掛け合う」
矢代は啓介の言葉に確信がないことを感じ取った。啓介自身も資金が足りないことを分かっている。しかし認めるわけにはいかない。認めればMBOは終わり、会社は市場の論理に戻る。啓介の「家として継ぐ」という物語が終わる。
「矢代さん」と啓介が言った。声の調子が変わった。
「あなたはなぜ降りないんですか」
矢代は水城と同じ問いを啓介から受けた。
「増資も、総会も、MBOも、全部あなたが実務を設計している。しかしあなたは取締役でも代表執行役でもない。署名するのは古賀さんだ。あなたがこの会社にいる理由は何ですか」
矢代は答えを探した。
「技術と雇用を残したい。そのために1番確実な方法を設計することが、自分の仕事だと思っています」
啓介は鼻で笑った。
「技術と雇用。きれいな言葉ですね。でも矢代さん、あなたが本当に技術と雇用を守りたいなら、最初に更生法を通すべきだった。古賀さんに拒否されて、名誉会長に拒否されて、俺にも拒否された。それでもあなたは辞めなかった。会社に残った。残った理由は——」
啓介はそこで言葉を切った。
「要するに、こういうことでしょう。俺と同じなんですよ。『まだ自分の手で何とかできる』と思ってるんだ。俺は会社を継ぎたい。あなたは会社を直したい。動機は違うが、構造は同じだ」
矢代は何も言えなかった。啓介の言葉は正確すぎた。
矢代は会議室を出た。廊下に啓介の背中が遠ざかっていくのが見えた。啓介の歩き方は父親の剛造に似ていた。背筋を伸ばし、やや前傾気味に歩く。
矢代は志村のオフィスの前を通りかかった。ドアが半開きで、志村がモニターに向かっていた。矢代はノックしようとして、やめた。増資のとき、志村は「正解を知っていて正解を選ばない人間同士だ」と言った。あれから半年。2人はまだ同じ場所にいた。
帰宅したのは9時過ぎだった。玄関を開けると、リビングの明かりがついていた。
聡子がダイニングテーブルで書類を広げていた。矢代を見て、軽く頷いた。それだけだった。7月の衝突——「銀座で話していることを私にも話してほしい」——以来、2人の会話は事務的になっていた。
「莉子は」
「部屋にいる。今日もほとんど出てこない」
聡子の声は平坦だった。感情を排した報告。矢代は冷蔵庫から水を出し、グラスに注いだ。
「3者面談の日程が決まった」と聡子が言った。「来週の金曜日。あなたも出てほしい」
「分かった」
それだけの会話だった。矢代はリビングのソファに座った。聡子はテーブルの書類に戻った。2人の間に沈黙が横たわっていた。沈黙の質は、以前とは違っていた。以前は矢代が話さないことへの聡子の怒りが底に流れていた。今はそれすらない。怒りが消え、残ったのは事務的な共存だった。
莉子の部屋のドアが開いた。
莉子がリビングに出てきた。長い髪を後ろで束ねている。矢代を見た。
「お父さん、聞いていい?」
「何を」
「お父さんの仕事で、今1番大事なことって何?」
矢代は莉子を見た。14歳の娘の目は真剣だった。
「会社の——将来を決めることだ」
「最善の方法を探しているの?」
「そうだ」
莉子は少し黙った。
「最善って何なの。誰にとっての最善なの」
矢代は答えられなかった。MBOは古賀にとっての最善か。啓介にとっての最善か。一般株主にとっての最善か。従業員にとっての最善か。技術にとっての最善か。家族にとっての最善か。すべてが違う方向を向いている。
「分からない」と矢代は言った。
莉子は矢代を見つめた。5秒ほどの沈黙の後、頷いて部屋に戻った。ドアを閉める音がした。
聡子がテーブルの向こうから矢代を見ていた。何か言いかけて、口を閉じた。矢代には聡子が何を言おうとしたか分からなかった。
紬はもう寝ていた。紬の部屋のドアが少し開いていて、デスクの上に折り鶴が3羽並んでいるのが見えた。赤、青、そして黄色。矢代は立ち止まった。鶴が増えている。誰のために折っているのか。矢代はまだ聞けなかった。
翌朝、莉子の部屋の前を通ると、ドアの下から光が漏れていなかった。まだ寝ているのか。矢代は足を止めたが、ノックしなかった。
リビングで聡子がコーヒーを淹れていた。
「莉子に、昨日何か言ったの」と聡子が聞いた。
「何も。莉子が聞いてきた。『最善って何なの』と」
聡子は背中を向けたまま、コーヒーを注いだ。
「莉子はね、私に同じことを聞いたのよ。先週。『お母さんとお父さん、喧嘩してるの?』って。私は『喧嘩じゃないよ。お父さんは忙しいだけ』って答えた」
矢代は聡子の背中を見た。聡子が嘘をつく側に回っている。以前は矢代が家族に対して沈黙することを批判していた聡子が、今は自分が莉子に嘘をついている。会社で矢代が正しい数字を出せない構造と、家庭で聡子が正直に答えられない構造。同じだった。
「聡子」
「何」
「すまない」
聡子はコーヒーカップを矢代の前に置いた。矢代を見なかった。
「謝らないで。謝られても何も変わらない」
矢代はコーヒーを飲んだ。味が分からなかった。聡子が莉子に「喧嘩じゃないよ」と嘘をついた。矢代が黙り続けた穴を、聡子が別の嘘で埋めている。コーヒーカップの底が見えた。
3者面談は金曜日の午後だった。莉子は来なかった。担任が出席状況を説明し、聡子が対応策を話し合う間、矢代は何も言えなかった。学校を出た後、「何か言いなさいよ」と聡子が言った。矢代は「分かった。考える」と答えた。何を考えるのか、自分でも分からなかった。
出社すると、小野寺がモニターの前にいた。
「株価、720円です。MBO価格を見越した買いが入っています」
矢代はモニターを見た。9月中旬、720円。株価が上がれば上がるほど、MBOに必要な資金も増える。680円のときに設計した買付価格が、720円では成り立たない。株価がMBOを追い詰めている。
「梶原さんから連絡がありました」と小野寺が言った。「『MBOの資金調達に現実味がないなら、別の選択肢を考えるべきだ』と」
矢代は梶原の言葉を聞き流さなかった。メインバンクがMBOの資金調達に懐疑的であることは知っていた。しかし「別の選択肢」という言葉には、梶原独自の含意があった。梶原は何かを準備している。銀行団のメインバンクとして、MBO以外の出口を模索し始めている。
矢代は窓の外を見た。大手町のビル群が9月の陽光に照らされていた。街路樹の葉が少しずつ色づき始めている。秋が来ている。1月に始まったこの危機は、もう9ヶ月目に入っていた。
500億の不足、特別委員会の厳しい条件、経産省のハードル——3つの壁が同時に立ちはだかっている。MBOは資金の裏付けのない構想に過ぎなかった。
矢代はデスクに戻り、3つのプランを書いた。
プランA:MBO年内成立。PE資金の追加調達が前提。
プランB:MBO来年延期。資金調達が未達の場合。
プランC:法的整理への転換。MBO自体が破綻した場合。
プランCの横に、矢代は小さく「更生」と書いた。デスクトップの隅のフォルダと同じ文字だった。書いた瞬間、矢代は自分がまだその選択肢を捨てていないことに気づいた。しかし田島が言った通り、今からでは手遅れに近い。
ペンを置いた。窓の外のビル群は変わらない。しかし矢代の中で、何かが少しずつ崩れ始めていた。MBOという構想に対する、最後の確信が。
宮田班長の言葉が浮かんだ。「技術を残してくれるなら会社の名前はなくなってもいい」。矢代はその言葉を、MBOで技術を守れと読み替えていた。しかし宮田が本当に言っていたのは、もっと単純なことだったのかもしれない。誰が会社を持とうが、技術と人が残ればいい。法的整理でも、MBOでも、あるいは別の何かでも。宮田は方法を指定していなかった。方法に固執しているのは矢代のほうだった。「まだ自分の手で」という執着が、視野を狭めていた。
残現金:約2,100億円/株価:720円(MBO価格見越した買い)/時価総額:約1.01兆円/銀行団の姿勢:MBO資金調達に懐疑的/家庭:事務的な沈黙。聡子が嘘をつく側に回る
第13話 もう数字を作れない
10月7日、火曜日。関口が本社に来た。
4月に1,300億円の修正額を確定させたときと同じ会議室だった。同じテーブル、同じ椅子。ただし今回は矢代と志村だけでなく、古賀と笹本久美も同席していた。特別委員会の委員長として、笹本が最終交渉の場に立ち会うことを求めたのだ。
関口はファイルをテーブルに置いた。中央あおば監査法人のロゴ。半年前と同じだったが、関口の顔には半年分の疲労が刻まれていた。
「東南アジア子会社3社の精査が完了しました」
関口の声は平坦だった。しかし矢代は、その平坦さの下に隠された緊張を感じ取った。
「追加修正額は、約350億円です」
会議室が静まった。350億。4月の1,300億に加えて、合計1,650億円。帝央電機の過年度不正の総額が、また膨らんだ。
志村が目を閉じた。矢代は志村の横顔を見た。半年前、1,300億を聞いたときとは違う表情だった。あのときは衝撃があった。今は、衝撃すらなかった。ただ疲弊していた。
「350億の内訳は」と笹本が聞いた。声は落ち着いていたが、ペンを持つ手に力が入っていた。特別委員会の委員長として、笹本はMBOの公正性を検証する立場にある。追加損失はMBOの前提を覆す材料だった。
「タイ子会社が約140億、マレーシア子会社が約120億、インドネシア子会社が約90億。いずれも統合後のERP接合部分で発生した不正です。本国側の第二層と同じ構造ですが、現地スタッフが独自の判断で行った配賦ロジックの変更が加わっており、現地の会計基準との差異が追加の修正要因になっています」
関口はファイルを開き、数字を一つずつ説明した。矢代は聞きながら、頭の中で連鎖反応を追っていた。350億は「まだ底が見えない」という信号になる。株価が下がる。銀行の態度が硬化する。PEファンドが撤退する。MBOの前提が根底から崩れる。すべてが連鎖的に動く。
古賀は一言も発しなかった。机の上の書類に視線を落としたまま、関口の説明を聞いていた。67歳のCEOの背中は、半年前より小さく見えた。スーツの肩が余っている。この半年で体重が落ちたのだろう。
笹本が関口に質問した。「東南アジア三社以外に、まだ未精査の領域はありますか」
関口は一瞬だけ目を伏せた。「現時点では、これが最終です。ただし——」
「ただし」
「監査意見の前提として、東南アジア以外の海外子会社についても、当法人として追加的な検証手続を実施する予定です。追加の修正が生じないことを保証するものではありません」
笹本はペンを置いた。「不正の底が見えないということですね」
関口は答えなかった。答えないことが答えだった。
矢代は関口の横顔を見た。関口は正しいことをしている。しかし正しいことは、帝央電機にとっては追い詰められることを意味していた。
会議が終わり、関口が帰った後、古賀が初めて口を開いた。
「1,650億か」
誰に言ったわけでもなかった。古賀は立ち上がり、会議室を出た。廊下を歩く背中が、一歩ごとに重くなっていくように見えた。
その日の夕方、適時開示を出した。「過年度決算の追加訂正及び特別損失の計上並びに通期業績予想の修正に関するお知らせ」。IR担当が文面を作り、矢代が数字を最終確認し、取引時間終了後にTDnetに掲載された。
矢代はオフィスに残り、画面を見ていた。PTSで売り圧力が加速した。680円から650円、620円へ。板は買いが薄く、売り注文が積み上がっていく。MBO構想の前提が崩れたことは、市場の参加者全員に伝わった。
翌朝の東証は、売り気配のまま寄り付かなかった。ストップ安まで売られても買い手が現れず、その日は終日、値がつかないまま終わった。翌営業日も同じだった。連日のストップ安が続き、売り物が一巡して450円で下げ止まったのは、その週の終わりだった。出来高は、値がつき始めてから通常の5倍に膨らんだ。3月につけた年初来安値の510円すら割り込んだ。増資で2,500億を集め、半年以上かけて改革を訴え、MBOを構想し——そのすべてを市場は数日で帳消しにした。
小野寺が社内掲示板のモニタリングを報告した。「MBOなんて夢物語だった」「追加損失がまた出る。底が見えない」「年内に潰れる」。書き込みの質が変わっていた。4月の頃は怒りだった。7月には不信だった。今は諦めだった。掲示板への書き込み自体が減っている。声を上げる気力すら、社員から失われつつあった。
小野寺が別の情報を伝えた。「茨城工場の退職者が増えています。先月だけで中堅技術者が4人、転職しました。いずれも半導体検査の専門人材です」。矢代は顔を上げた。技術者の流出。これが始まったら、会社に残る価値そのものが削られる。宮田班長が言った「技術を残してくれるなら」——その技術を持った人間が、会社を見限り始めている。
SNSでは遼一の写真を使った投稿が拡散していた。「創業家御曹司の兄は俳優、弟は会社を潰す」。5兆円企業の危機が、芸能人の家族劇として消費される。矢代の苛立ちは、誰にも向けることができなかった。遼一も、メディアも、それぞれの論理で動いているだけだった。
10月9日。矢代は真壁を大手町のオフィスに訪ねた。
ウィンスロップ・ブラザーズの会議室は小さかったが、窓からの眺望は良かった。真壁は矢代にコーヒーを出し、向かいに座った。
「グラントは正しいですか」
矢代は単刀直入に聞いた。半年以上、自分の中で転がし続けてきた問いだった。
真壁は即答した。「正しいです」
一秒の間もなかった。
「矢代さん、最初から分かっていたでしょう。帝央電機の時価総額は事業の合計価値の半分以下です。不正が発覚する前からそうだった。不正はきっかけに過ぎない。この会社が今の形で存在し続ける合理的な理由は、もうない」
矢代は黙った。
「MBOは最初から資金が足りなかった。数字を冷静に見れば、啓介さんの構想は実現不可能だった」
「分かっていました」と矢代は言った。
「分かっていて、なぜ止めなかったんですか」
矢代は答えなかった。分かっていた。MBOの資金が足りないことは、堂島が最初にPEファンドへのアプローチを始めた段階で見えていた。数字を見れば、MBOは最初から実現不可能だった。
しかし矢代は止めなかった。啓介の構想を設計面から支えた。SPC組成、銀行融資条件、経産省事前相談——実務を積み上げることで、構想に輪郭を与えた。止めなかった理由は何か。啓介への同情か。古賀への忠義か。それとも、矢代自身の「まだ戻せる」という職業的自負の残滓か。あるいはもっと単純に、決断の材料を整えることが自分の仕事だと思っていたからか。材料を整えているうちに、材料が意思決定を既定してしまう。そして材料が崩れたとき、残るのは虚しさだけだった。
「白騎士を探す段階に入っています」と矢代は言った。
真壁は頷いた。「梶原さんが動いていると聞いています。日本産業機械の内海さん」
「知っていますか」
「面識はありません。しかし内海さんの投資委員会が帝央電機の産業用モーター技術を評価しているという話は、マーケットに流れています。日本産業機械はシーメンスやABBと肩を並べる企業ですが、アジアでの競争力が急速に落ちている。帝央電機の高効率モーター技術は、その弱点を補える。戦略的な合理性はあります」
矢代は頷いた。
「もう一つ。内海さんは経営者として筋が通っています。買収した会社をただ解体するタイプではない。技術と人材を正当に評価する人間だと聞いています。ただし——」
「ただし」
「内海さんは帝央電機を全部は要らない。産業用モーターと素材技術は欲しいが、情報通信や医療機器は要らない。つまり、内海さんが来ても、会社はバラバラになります」
矢代は黙った。グラントは株主価値の最大化と呼び、内海は技術と人材の獲得と呼ぶ。名前が違うだけだった。
「梶原さんが紹介するなら、本気でしょう」と真壁は繰り返した。
矢代はコーヒーを飲んだ。冷めていた。
真壁がもう一つ言った。「矢代さん、一つだけ。白騎士が来ても、会社が残る保証はありません。内海さんが欲しいのは帝央電機という器ではない。中に入っている技術です。器は壊されます」
「分かっています」
「いえ、分かっているつもりかもしれませんが、実際に起きるときは想像より辛いものです。私はこの仕事で何社も見てきました。名前が消えるとき、残された社員の顔は——」
真壁は言葉を切った。珍しく感情が混じった。
矢代は立ち上がった。「真壁さん、ありがとうございます」
「礼は要りません。仕事です」
矢代はウィンスロップ・ブラザーズのオフィスを出た。大手町の通りに出ると、10月の風が冷たかった。8月のMBO構想が熱を帯びていた頃から、わずか2ヶ月。季節が変わるように、会社の命運も変わった。
その夜、志村から電話があった。
矢代はオフィスに1人残っていた。午後10時を回っていた。デスクの上に資料が積まれている。MBOの実務ファイル。もう用のない書類だった。窓の外に大手町の夜景が広がっている。帝央電機の本社ビルは自社所有ではなく賃貸だ。このビルにいられるのもあとどれくらいか。
志村の声は低く、掠れていた。酒を飲んでいるのか、泣いた後なのか、矢代には判別できなかった。
「矢代。少し話がある」
「聞いてます」
長い沈黙があった。オフィスの空調の音だけが聞こえた。矢代は待った。志村が何を言おうとしているか、察していた。
「もう数字を作れない」
志村の声は静かだった。怒りもなく、悲しみもなく、ただ事実を述べていた。キーボードの上で指が動かなくなったのは、いつからだったか。おそらく追加の350億を入力した瞬間だったのだろう。
「第一層は俺が管理していた。売上の前倒し、原価の付け替え——どれも『整える』程度の話だった。少なくとも、当時の俺の認識ではそうだった。数字を作るのが俺の仕事だった。CFOとして、会社が求める数字を、会計基準の範囲内で——いや、正確に言えば範囲を超えて——作ってきた」
矢代は黙って聞いていた。
「第二層は違った。ERPの接合部分で何が起きているか、俺にも全容が見えなかった。見えないまま——おそらくは意図的に——見えているふりをしていた。お前が来て、全容が見え始めて、1,300億という数字が出て——それでも俺は、まだ何とかなると思っていた。数字を整えて、市場に見せて、時間を稼げるんじゃないかと」
志村の声が途切れた。
「350億が出て、分かった。もう作れない。どう整えても、市場が信じない。銀行が信じない。監査法人が通さない。俺が30年かけて身につけた技術が、何の役にも立たない」
矢代は受話器を握ったまま、天井を見上げた。志村恒一という人間は、数字に対する絶対的な自信で生きてきた。数字を読み、数字を作り、数字で会社を支えてきた。その志村が「もう作れない」と言っている。それはCFOとしての白旗であると同時に、志村恒一という人間の敗北宣言だった。
「志村」
「何だ」
「志村さん、もう一つ聞かせてください」
「聞け」
「志村さんは最初から、更生法が正解だと思っていましたか」
志村は長い間黙った。矢代は受話器を耳に押し当てたまま待った。
「思っていた」
志村の声は低かった。
「お前が来る前から、数字を見れば分かっていた。第一層だけなら、おそらく処理可能だった。しかし統合後のERPの問題は、時間が経つほど膨らむ。管理していたつもりだった数字が制御を離れていく感覚は——お前に説明する必要はないだろう。この会社は、一度止めて組み直すしかなかったんだと思う。更生法はそのための仕組みだ。少なくとも俺は、そう理解していた」
「分かっていて、古賀さんに進言しなかったんですか」
「進言した。1度だけ。古賀さんは聞かなかった。名誉会長が生きている間に、あの人の名前を冠した会社を潰すわけにはいかない——そう言われた。俺はそれ以上押せなかった。押す覚悟がなかった、と言うべきだろうな」
矢代は目を閉じた。志村もまた、正解を見抜きながら選べなかった人間だった。矢代と同じだ。古賀と同じだ。この会社に関わった全員が、どこかの時点で正解を見ながら選べなかった。創業者の哲学、忠義、情、面子、渇望——それぞれの理由で、正解を迂回した。その迂路の果てに、今がある。
「ありがとう」
長い沈黙の後、志村は電話を切った。
翌日の午前中、啓介から電話があった。
矢代はオフィスにいた。啓介の声はいつもの計算された落ち着きを失っていた。
「MBOは終わりだ」
矢代は答えなかった。
「常盤橋が降りた。追加損失を受けて投資判断を保留——実質的に撤退だ。ベイニーも先週、正式に辞退の連絡が来た。資金の裏付けがなくなった」
「分かっています」
啓介は短い笑いを漏らした。乾いた音だった。
「分かっていただろうな。お前は最初から分かっていた。堂島もだ。あいつは最後まで俺の構想に付き合ってくれたが、本心では無理だと思っていた。1,900億の乖離を埋める金が、最初からなかった」
矢代は否定しなかった。啓介はMBOの数字を正確に把握している。外資系投資銀行出身の知性は、自分の構想の破綻を冷徹に分析できた。分析できることと、引き返せることは、違う。
啓介の声が変わった。計算が剥がれ、その下にある生の感情が露出した。
「親父に認められたかった」
矢代は黙った。受話器の向こうで啓介が息を吐く音が聞こえた。48歳の男が、父に認められたいと言っている。その父はもう死んでいる。6月の株主総会の直後に90歳で逝った。認められる機会は永遠に失われた。
「遼一は自分の道を行った。芸能界に出たとき、親父は『あいつはあいつの城を築くんだ』と言った。俺にはそれを言ってもらえなかった。俺が会社に入ったとき、親父は何も言わなかった。工場に回されたとき、MBA取ったとき、副社長になったとき——何も。1度も『よくやった』と言われたことがない」
矢代は啓介の声を聞きながら、古賀のことを思い出した。古賀は創業者に直接見出された。「俺を取締役にしたのは名誉会長だ」と古賀は言った。その古賀を「父の忠犬」と冷たく見つつ利用してきた啓介の本当の動機が、今、電話越しに溢れ出ていた。
「選択肢は3つある」と啓介は言った。声は再び平坦に戻っていた。感情の蓋が閉じたのだ。「このまま座して解体を待つ。白騎士に売る。あるいは——いや、3つ目はもうない。2つだ。俺が3つ目を潰した」
啓介は短く笑った。
「白騎士が来れば、売る。全部売る。ソングラス管理の分も、財団の分も。TOBに全株応じる」
「それでいいんですか」
「いい。ソングラス管理で約9パーセント、財団で約2パーセント。合わせて1億5,000万株。TOB価格次第だが、1,000円なら1,500億だ。その金があれば、別の城を築ける」
矢代は啓介の声の変化を聞き取った。渇望が剥き出しになった瞬間は終わり、計算が戻ってきていた。しかし計算の下にある空洞は消えていなかった。
「会社はもう守れない。守りたかったのは会社じゃなく、親父の影だったんだろう。影を追いかけて、影を食い物にした。俺はそういう人間だ」
電話が切れた。矢代はスマートフォンをデスクに置いた。啓介は最初から、会社を継ぎたかったのではない。父に認められたかった。その渇望が権謀術数に姿を変え、MBOという形で噴出し、そして今、資金の裏付けを失って霧散した。
その日の午後、梶原俊彦が本社に来た。
帝都銀行の常務は、古賀の執務室ではなく、矢代のオフィスに直接来た。それ自体が異例だった。梶原は矢代に向かって座り、1呼吸置いてから言った。
「もうお前たちで決める時間は終わった」
矢代は黙って聞いた。梶原の目は真剣だった。古賀とゴルフを回る友人の目ではなく、メインバンクの常務の目だった。梶原は他行から「帝都の審査責任」を追及される立場にいる。帝央電機が破綻すれば、帝都銀行の融資判断が社内で問われる。梶原自身のキャリアも賭かっていた。
「MBOは失敗した。追加損失で株価が450円まで落ちた。残現金は約1,500億。のれんの減損まで重なれば、今度こそ債務超過が現実になる。コベナンツが飛ぶ。銀行団は一定の債権カットを覚悟している。しかしこのままの経営体制では支えられない」
梶原は鞄から封筒を出した。
「日本産業機械の内海正彦社長だ。帝央電機の産業用モーター技術に関心を持っている。私が紹介する。矢代、お前が窓口になれ。古賀さんではない。お前だ」
矢代は封筒を受け取った。中に内海の名刺と、1枚の紙が入っていた。紙には内海のスケジュールが記されていた。来週の火曜日、午前10時、日本産業機械本社。
「梶原さん」
「何だ」
「古賀さんには」
梶原は立ち上がった。「古賀には俺から話す。あいつとは40年の付き合いだ。ゴルフも一緒にやった。しかし、もう会社を古賀さんに任せておくわけにはいかない」
梶原は窓のほうを見た。大手町のビル群が午後の光を受けている。
「古賀さんは悪い人間じゃない。現場の人間の顔を覚えている、稀有な経営者だった。しかし、それだけでは——」
梶原は言葉を切った。それだけでは足りない。城壁を築かなかったCEOに、銀行はもう時間を与えない。
「矢代。内海さんとの交渉を頼む。条件は銀行団が後ろから支える。債権カットも、TOBの成立が前提なら呑む。アクティビスト連合が上乗せを求めてくるだろうが、TOBが流れれば法的整理で株はただの紙だ——そのカードはこちらにある。ただし、会社が残る保証はない。内海さんが買うのは会社ではなく、技術と人材だ。それを受け入れられるか」
矢代は頷いた。5月に茨城で宮田班長が言った言葉が蘇った。「技術を残してくれるなら、会社の名前はなくなってもいい」。あのとき矢代は答えを出せなかった。今、梶原が同じ構造の問いを突き付けている。そして真壁が今日言った言葉。「内海さんが来ても、会社はバラバラになります」。グラントが言ったことと、宮田が言ったことと、梶原が言ったことが、すべて同じ帰結を指している。帝央電機は器を失う。しかし中身は残る。
梶原は矢代のオフィスを出た。ドアが閉まる前に、廊下の向こうに古賀の執務室が見えた。ドアは閉まっていた。梶原は「俺から話す」と言った。40年の付き合いの終わりを、梶原が告げに行く。それは友情の清算なのか、債権者としての義務なのか。おそらく両方だろう。
矢代は封筒の中の名刺を見た。内海正彦。日本産業機械株式会社、代表取締役社長。
矢代はデスクの引き出しを開けた。奥に、もう一つの封筒がある。「未提出」と書かれた更生手続開始申立書のドラフト。2月に田島が用意してから、ずっとここにある。更生法であれば、企業の一体性を保てた。茨城の工場はそのまま動き、帝央電機の名前は残った。しかしその道は選ばれなかった。今、別の道が開かれようとしている。会社の名前は消えるかもしれない。しかし技術と人間は残る。
矢代は引き出しを閉じた。内海の名刺をスーツの内ポケットに入れた。
その夜、矢代は珍しく早く帰った。
午後8時過ぎ。白金台のマンションのドアを開けると、玄関は暗かった。リビングに灯りが見えた。紬はもう寝ている時間だった。莉子は——おそらく自室だろう。
リビングに入ると、聡子が1人でソファに座っていた。テレビは消えていた。テーブルの上にスマートフォンが伏せて置いてあった。聡子は矢代を見た。
「早いね」
「ああ」
矢代はジャケットを椅子にかけ、聡子の向かいに座った。聡子の前のテーブルに、莉子の学校のプリントが置いてあった。担任からの手紙だろう。出席日数、カウンセラーとの面談記録。聡子はこの半年間、矢代の代わりに——いや、矢代抜きで——莉子の不登校と向き合ってきた。
沈黙が降りた。この家で仕事の話をしたことがない。1年間、ずっとそうだった。聡子は聞かなかった。矢代は話さなかった。冴子には話せた。真壁には話せた。梶原には話せた。しかし聡子には、何1つ話せなかった。本当は、聡子に失望されることが怖かったのだ。正解を見抜きながら選べない自分を、聡子に知られることが。
「駄目だった」
矢代は言った。自分でも驚いた。計画して言った言葉ではなかった。口から勝手に出た。1年分の沈黙の重さが、その一言を押し出した。声が震えていた。
聡子は矢代を見た。その目に、怒りはなかった。驚きもなかった。矢代がようやくその言葉を口にしたことを、ただ受け止めている目だった。
「知ってる」
聡子は一呼吸置いた。
「ニュースで見た」
静かな声だった。聡子はスマートフォンを裏返した。画面にはニュースアプリが開いていた。「帝央電機HD、追加損失350億円」「MBO構想、事実上の白紙に」。聡子はこの1年、ニュースで夫の会社を追っていた。矢代が話さないから、ニュースで読んでいた。
沈黙が続いた。長い沈黙だった。リビングの時計が秒を刻む音が聞こえた。
「お茶、入れようか」
聡子が立ち上がった。台所に歩き、やかんに水を入れ、火をつけた。矢代はその背中を見ていた。聡子の背中は細かった。1年前より細くなっていた。
聡子が緑茶を二つ持って戻ってきた。湯呑を矢代の前に置いた。矢代は手で包んだ。温かかった。
「会社は——」矢代は言いかけて、止めた。何から話せばいいのか分からなかった。1,650億円の不正。MBOの失敗。白騎士の話。会社が分解されるかもしれないこと。どこから話せばいいのか。
聡子は待った。急かさなかった。茶碗を両手で包んだまま、矢代を見ていた。
「会社は、別の会社に買ってもらうことになるかもしれない。帝央電機の名前は——」
矢代は言葉を探した。聡子は動かなかった。
「残らないかもしれない」
聡子は茶を一口飲んだ。湯呑を置くとき、微かに音がした。それからゆっくり言った。「あなたは」
「俺は最後まで残る。実務を片付ける。それが俺の仕事だ」
「片付けるって、何を」
矢代は考えた。何を片付けるのか。会社を買ってもらうための交渉。事業ごとに分解するための法的手続。従業員の雇用承継。銀行への説明。当局への報告。上場廃止に伴う最終監査。やることは山のようにあった。
「会社が別の形になるための——手続を」
「あなたが設計するの」
「設計というか——」
「矢代さん」
聡子は夫を姓で呼んだ。結婚して15年、聡子が「矢代さん」と呼ぶのは真剣なときだけだった。矢代は口を閉じた。
「あなたはずっと、他人の決断を整理する側にいたでしょう。古賀さんの決断、啓介さんの決断、銀行の決断」
聡子は一つずつ名前を挙げた。正確だった。ニュースで読んだだけではない。聡子はこの1年、夫が語らない物語を外側から組み立てていたのだ。
「あなた自身は何を決めたの」
矢代は茶碗を持ったまま、動けなかった。この1年、矢代は決断の材料を整える側にいた。増資を設計し、総会を防衛し、MBOの実務を組み、そして今、白騎士との交渉に向かおうとしている。すべて他人の決断を実行する仕事だ。
「分からない」と矢代は正直に言った。声が掠れた。
聡子は目を伏せた。少し間を置いた。怒りはなかった。むしろ、矢代が「分からない」と言えたことに、何か小さな変化を感じ取ったようだった。顔を上げたとき、聡子の目が光っていた。
「分からないなら、分からないでいい。でも、ここで話して」
矢代は頷いた。ここで。家で。冴子の店ではなく、真壁のオフィスでもなく、ここで。聡子はそれを1年間待っていた。
茶を飲み終えた。1年ぶりに、聡子が入れた茶を飲んだ。湯呑の底に残った葉が、小さく揺れていた。
翌朝、矢代がリビングに出ると、莉子がいた。
莉子はソファに座り、スマートフォンを見ていた。制服ではなく、パーカーとジーンズだった。学校には行かない日の服装だ。長い髪を後ろで束ねていた。矢代が来たことに気づいて、顔を上げた。
「お父さん」
「おはよう」
莉子は少し間を置いて、言った。「お母さんと話したの」
矢代は頷いた。
「桜葉、辞めることにした」
矢代は莉子の顔を見た。14歳の娘の目は、矢代が覚えているよりずっと大人びていた。半年間の不登校と閉じこもりを経て、莉子は何かを決めていた。
「地元の中学に行く。小学校のときの友達がいるから」
聡子がキッチンから出てきた。矢代と目が合った。聡子は小さく頷いた。この決断は莉子と聡子の間で既に固まっていた。矢代の承認を待っていたのだ。
「分かった」
矢代はそう言った。以前なら「御三家を辞めるのか」と言っていた。桜葉中学校は女子御三家の1つだ。莉子を入学させるために、塾にも金をかけた。聡子も莉子も努力した。それを手放すのか——そう言いたい自分が、まだ矢代の中にいた。しかし今は、その言葉を飲み込めた。
莉子が決めた。聡子がそれを支えた。矢代にできるのは、「分かった」と言うことだけだった。会社では正解を選べなかった。家でも正解を選べなかった。しかし、娘が選んだことを否定しないことはできた。
莉子は少しだけ目を伏せた。安堵のような、寂しさのような表情だった。それから小さく言った。「お父さん」
「何だ」
「会社、大変なんでしょう」
矢代は莉子を見た。14歳の娘は、この1年間、ニュースとSNSで父の会社を見てきた。同級生に「お父さんの会社、大丈夫なの」と聞かれ、答えられず、学校に行けなくなった。矢代が莉子に与えた痛みは、会社の危機そのものではなく、父が何も話さないことだった。
「大変だ」と矢代は言った。初めて、娘に仕事の状態を認めた。「でも、やることはある」
莉子は頷いた。何かを理解したのか、理解しようとしたのか、矢代には分からなかった。莉子は再びスマートフォンに目を落とした。矢代はコーヒーを入れ、ネクタイを締めた。
聡子がキッチンから矢代を見ていた。矢代は聡子と目を合わせた。
「莉子のこと——」
「自分で関わって」
聡子の声は静かだったが、昨夜とは違っていた。命令ではなく、願いだった。矢代は頷いた。
家を出た。マンションのエレベーターで、矢代は内ポケットの名刺に手を触れた。内海正彦。来週の火曜日、午前10時。帝央電機を買うかもしれない男に会いに行く。会社の名前は消えるかもしれない。莉子が桜葉を辞めるように、矢代も帝央電機を手放すことになるのかもしれない。「あるべき場所」を手放すということ。それは敗北なのか、始まりなのか。
エレベーターのドアが開いた。10月の朝の光が、ロビーに差し込んでいた。矢代は駅に向かって歩き出した。三田線の白金台駅まで5分。大手町まで20分。そこに、まだ帝央電機のオフィスがある。まだ、矢代の机がある。引き出しの奥に「未提出」の封筒がある。
矢代はポケットのスマートフォンを取り出した。梶原へのメールを打った。「来週火曜日、内海社長との面談、承りました。資料を準備します」。送信ボタンを押した。白騎士の門を叩きに行く。帝央電機を守るためではなく、帝央電機の中身を守るために。
残現金:約1,500億円/株価:450円(▲38%、追加損失でMBO頓挫)/時価総額 約6,300億円/銀行団の姿勢:白騎士を主導的に投入/家庭:「駄目だった」——初めて本音が家で漏れる
第14話 迂路の果て
内海正彦は、矢代が想像していたより小柄な男だった。
日本産業機械本社の会議室で、梶原と並んで座った同社の社長は、63歳。白髪を短く刈り込み、紺のスーツにネクタイピンもカフスもつけていない。旧財閥系の重電機器メーカーの社長にしては地味な出で立ちだった。
「梶原さんから話は聞いています」
内海は矢代に向かって言った。声に装飾がない。事実だけを運ぶための声だった。
「帝央電機の産業用モーター技術には、以前から関心を持っていました。茨城工場のセラミック軸受け、あれは日本のものづくりの基盤です。あの技術を持っている人間と、あの炉を動かせる人間。我々が必要としているのは、そこです」
矢代は黙って聞いていた。内海の言葉の輪郭をたどっていた。「技術を持っている人間」と「炉を動かせる人間」。会社とは言っていない。
「我々が買うのは会社ではない」
内海は言葉を切った。矢代を見た。矢代がその先を理解しているか確かめるように。
「技術と人材だ」
内海はそう言い切った。会議室の空気が変わった。梶原が一瞬、矢代の方に目を向けた。
白騎士に会社を救ってもらえると、一瞬だけ思った。梶原から内海の名前を聞いたとき、日本産業機械が帝央電機を丸ごと引き受けて、企業としての一体性を保ってくれるのではないかと。
そうではなかった。
内海が買うのは会社丸ごとではなく、必要な技術と人材だけだった。残りは、最も高く売れる単位に切り分けられていく。
矢代は訊きたかった。残りの5万人はどうなるのか。半導体部門は。情報通信部門は。しかしその問いは、今この場で出すべきものではなかった。
梶原が矢代の方を向いた。「日本産業機械の投資委員会では、すでに検討が進んでいる。統合プランも出来ている」
「TOB価格は」と矢代は聞いた。
「1,000円が上限です」と内海が言った。即答だった。
「それでは、アクティビストが応じません」
内海は表情を変えなかった。テーブルの上で指を組み直した。
「承知しています。しかし1,000円が我々の投資委員会で説明できる上限だ」
矢代は内海の目を見た。値踏みしているのではなかった。本当に1,000円が限界なのだ。その目は、限界を承知の上で座っている人間の目だった。
矢代は頷いた。ここから先は交渉だ。矢代が1年かけて鍛えられてきた領域だった。
経産省の三雲からも連絡があった。三雲は水面下で技術保全の枠組みを整えていた。茨城工場の軍民両用技術とヴェクトラ由来のIoT基盤技術が日本産業機械の傘下に移ることで、外資ファンドへの技術流出リスクが消える。古賀が「国に必要な会社だから経産省が見殺しにするはずがない」と信じていたもの——その正体は、会社の盾ではなく、会社を分解する刃だった。
臨時取締役会が招集された。
古賀が議長席に座っていた。その横に啓介。社外取締役の笹本、河野、黒田、中根、戸田。矢代は執行役として出席し、内海のTOB提案の概要を説明した。
買付価格1,010円。買付予定数の下限は3分の2。買付期間30営業日。友好的TOBとして、取締役会の賛同決議を求める。
笹本が質問した。「TOB後の事業承継計画について、従業員の雇用はどこまで保証されていますか」
矢代は答えた。「国内従業員は全員受け入れ。海外は段階的な判断です。産業用モーター事業と茨城工場は日本産業機械の傘下に。医療機器部門、物流子会社、不動産は売却または処分。研究部門は分社化」
河野が言った。「帝央電機ホールディングスという法人は残るのか」
「法人としては残る可能性があります。しかし、企業としての一体性は失われます」
黒田が腕を組んだ。「ほかに選択肢はあるのか」
「ありません。アクティビスト連合はすでに臨時株主総会の招集請求を準備しています。請求が出れば役員は全員交代になる。交渉の余地がなくなる前に、決断する必要があります」
議長の古賀が、全員の顔を見回した。
「ご意見をお願いします」
笹本が最初に発言した。「従業員の雇用が守られること、技術が国内に残ること。この二点が確認できる以上、私は賛成します。ただし、これは会社を救う話ではない。会社を畳む話です。そのことは認識すべきです」
河野が続いた。「数字を見る限り、他の選択肢はない。監査委員長として、財務的な観点から賛成します」
黒田が言った。「苦しいが、賛成する」
中根が頷いた。戸田も頷いた。
啓介は黙っていた。しばらくの沈黙の後、静かに言った。「賛成します」
議長が挙手を求めた。笹本が手を挙げた。河野、黒田、中根、戸田。啓介。全員の手が上がった。
古賀は、他の取締役全員が挙手したのを見ていた。1人ずつ、確認するように。
それから、最後に自分の手を挙げた。
その1,010円に至るまでの交渉は、取締役会に先立つ数週間、難航を極めていた。
内海の「1,000円が上限」に対し、グラントとヘリオスが中心になって上乗せを要求した。グラントは1,100円を求めた。ヘリオスはそれ以上を示唆した。7社の中で最も「ハゲタカ的」なディストレスト投資ファンドであるヘリオスは、最後まで利益を搾り取ろうとしていた。
最初に出たのは、差額を銀行団で埋める案だった。TOB価格は1,000円のまま、7社には別途、銀行団が1株50円相当を補填する。言い出したのは梶原だった。「TOBが不成立になれば、全行が傷を負う。50円分は保険だ」
北村が一蹴した。
「金商法27条の18です。公開買付者が応募株主の一部に、公開買付価格より有利な価格で買い付けた場合——条文には『これに相当する利益の供与を含む』とあります。銀行団を経由しても同じことです。他の応募株主の全員から差額を請求される。応募が7億株なら350億円。保険どころか、補填より高くつきます」
「成立した後に買えばどうなる」と啓介が聞いた。
「成立後の相対取引は、3分の1を超えるブロックである以上、それ自体が公開買付けの対象です。第二のTOBになり、また均一価格が適用される。期間中に買取りの予約を交わせば、予約自体が『買付け等』です。施行令に書いてあります。——回り道は、全部塞がれています」
会議室が静まった。均一価格。全員に同じ値段。大株主にだけ色を付ける道は、この制度には最初から存在しない。
残ったのは、正面からの交渉だけだった。
梶原が銀行団のカードを切った。銀行団は一定の債権カットを呑む——ただし、TOBの成立が前提だ。TOBが流れて法的整理になれば、カットの合意は白紙に戻り、株主への分配は理論上ゼロになる。矢代はその期待値の比較を1枚の表にして、交渉の席でグラントに示した。脅しではなかった。算術だった。1,010円で年内に現金化するのと、法的整理の配当順位の末尾で数年待つのと、ファンドの計算機がどちらを選ぶかは明白だった。
内海が最後の10円を積んだ。1,000円が上限だと言った男は、「端数は誠意の表示です」とだけ言った。
グラントは1,100円から矛を収めた。1,010円。9ヶ月前に459円で取得した普通株が、倍以上になる。CB転換分を含めれば、投資額の倍以上を回収する計算だ。年内に現金化できる時間価値も、ファンドの計算には入っていた。彼らの指摘は正しかった。ガバナンスが壊れている、資本コストを稼げていない、コングロマリット・ディスカウントが解消されていない——すべて事実だった。しかし、その正しさは利益と不可分だった。
公開買付開始公告がEDINETに掲載された。買付者は日本産業機械株式会社。買付価格1,010円。買付期間30営業日。株価は翌営業日からストップ高に張り付き、連日買い気配が続いた。450円から1,000円を超えるまで、数日かかった。最終的に1,009円に収束した。TOB価格からわずかにディスカウントされた水準。市場はTOBの成立を織り込んでいた。
帝央電機の取締役会は意見表明報告書を提出し、賛同の意見を表明した。
買付応募は、初日に45パーセント。3日目に60パーセント。1週間で70パーセントを超えた。
最終日の夕方、矢代は本社12階の会議室にいた。3月26日、着金を確認したのと同じ部屋だった。同じ長机に小野寺が座り、経理の安田と前川が端末を開いている。画面に映っているのは帝都銀行の口座残高ではなく、公開買付代理人から届く応募状況の速報だった。
17時すぎ、安田が顔を上げた。「代理人から速報です。応募率、85パーセントを超えました。集計続行中です」
矢代は頷いた。誰も何も言わなかった。9ヶ月前、この部屋では、数字が増えるたびに空気が軽くなった。688億。1,721億。1,836億。あれは会社が生き延びるための数字だった。今日の数字は、会社が手放されていく数字だった。積み上がるほど、部屋は静かになった。
18時40分、最終集計が届いた。
「応募率87パーセント。下限を超えています。——成立です」
小野寺が言った。3月の朝、「1件目、着金確認」と言ったときと同じ声を出そうとして、失敗していた。
安田と前川が立ち上がり、矢代に頭を下げて会議室を出ていった。2人は明日から決済の事務に入る。ドアが閉まると、小野寺が画面を閉じた。
「打ち上げ、やりますか」
「やめておこう」
「ですよね」
小野寺は短く笑って、ノートパソコンを抱えた。窓の外はもう暗かった。12月の夜が、大手町のビルの谷間に降りていた。
「帝央電機を株主の手に」——グラントが立ち上げたキャンペーンサイトは、TOB成立の翌日に閉鎖された。
ソングラス管理株式会社と公益財団法人ソングラスは、全保有分をTOBに応じて売却した。合計約1億5,000万株、約1,500億円の現金だった。
啓介が矢代に電話をかけてきたのは、応募手続きを終えた日の夜だった。
「最初から更生法が正解だったんだろう」
啓介の声は静かだった。あの権謀術数を駆使する人格の奥にある、裸の声だった。
「更生法なら、不採算部門を切り捨てても会社の一体性は保てました。あなたの会社は、名前だけでも残せた」
「俺の会社じゃない。親父の会社だ」
沈黙があった。
「白騎士が来れば売ると言った。全部売ると。——売ったよ」
啓介は電話を切った。啓介は会社を去り、投資家としての新たな人生を歩み始めるのだろう。1,500億の現金を手にして。しかし、父親に認められたいという渇望は、金では満たされない。
古賀はTOB成立の翌日に退任した。退任の挨拶で、古賀は言った。「会社を守りたかった。しかし、守り方が間違っていた」。古賀の声は最後まで穏やかだった。49年間、同じトーンで話し続けた人間の声だった。
その日の夕方、矢代は15階に呼ばれた。
執務室の私物は、段ボール2つに収まっていた。49年間が箱2つ。机の上には、使い込まれた磁器のコーヒーカップが、緩衝材に包まれないまま残っていた。
「最後まで悪いな。雑用を頼める相手が、もうお前しかおらん」
古賀は窓際に立っていた。皇居の方を見る、いつもの立ち方だった。壁には、書を外した長方形の跡が残っている。日に焼けた壁紙の中で、そこだけが白かった。
「あの書は、どこにある」と古賀が聞いた。
「総務の倉庫です。廃棄品のリストに入っていました」
古賀が振り返った。矢代は続けた。
「茨城に送ろうと思っています。宮田さんたちのところに」
古賀はしばらく黙っていた。それから、机の上のカップに目を落とした。
「いい場所だ。会長も、役員室の壁より、プレス機の音が聞こえるほうがいい」
古賀は段ボールの蓋を閉じた。ガムテープは使わなかった。
「矢代君。あのとき——2月にお前が更生法と言ったとき、お前の言う通りにしていれば、とは言わん。言えば、あのとき拒んだ俺が嘘になる」
矢代は黙って聞いた。
「ただな。間違えるにしても、間違え方は選べたのかもしれん。俺は、1番たくさんの人間が傷つく間違え方を選んだ。それだけは、誰のせいにもできん」
古賀は箱を1つ持ち上げた。矢代がもう1つを持った。古賀は止めなかった。2人でエレベーターに乗り、1階に降りた。夕方のエントランスを、退社する社員が流れていく。49年勤めた男が箱を抱えて出ていくことに、誰も気づかなかった。
車寄せにタクシーが停まった。古賀は箱をトランクに積み、矢代の手からもう1つを受け取って、その上に重ねた。
「茨城を、頼む」
古賀は頭を下げた。深く、長く。矢代が言葉を探しているうちに、古賀はタクシーに乗り込んだ。テールランプが大手町の交差点を曲がって消えるまで、矢代は車寄せに立っていた。
志村は何も言わずにフロアを去った。矢代とすれ違ったとき、何か言いかけたが、小さく頷いただけだった。刑事・民事の責任追及が待っていることを、志村は分かっている。10月に「もう数字を作れない」と白旗を掲げたCFOは、結果的に正しい敗北を選んだ最初の人間だった。そしてその代償を、最も重く引き受ける人間でもあった。
堂島は最後の仕事として、医療機器部門の売却先選定を引き受けた。八重洲証券のFAとして最後まで残ったのは、この男らしかった。
三雲から電話があった。「茨城工場の炉のデータを、国の記録として残したい」。三雲が守ろうとしていたものは、最後まで一貫していた。法人ではない。技術の記録だ。
関口からはメールが来た。上場廃止に伴う最終監査意見の取り扱いについて。事務的な文面だった。1年前、「これ以上の意見不表明は我々のリスクになる」と言った男の最後の仕事が、事務メールだった。
矢代は最後まで残った。
吸収分割の手続き。事業譲渡の契約。雇用承継先との調整。当局への説明。銀行団との最終折衝。矢代がこの1年で積み上げてきた実務の総決算を、1つずつ片付けていった。
12月の半ば、矢代は茨城に行った。
雇用承継の説明会だった。工場の食堂に従業員が集まり、矢代と日本産業機械の人事部長が承継のスキームを説明した。転籍の時期。給与水準の維持。年金の接続。退職金の通算。質問は具体的だった。「子会社の契約社員はどうなるんですか」「単身赴任は発生しますか」。1つずつ答えた。答えられないものは、答えられないと言った。メモを取る音だけが響く時間が続いた。
説明会のあと、矢代は第3棟に寄った。
組立ラインの壁に、見覚えのある書が掛かっていた。黒檀の枠。金色の余白。「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」。先週、倉庫から送った剛造の書だった。工具棚の上の、油の匂いの届く高さに、それは掛かっていた。
「勝手に掛けました」と宮田が言った。「総務には言ってません」
「ちょうどいい高さです」
「ここの連中は、あれを会社の言葉だと思ってません。現場の言葉だと思ってる。だから、返しません」
ラインの奥で、見慣れない作業服が2人、動いていた。日本産業機械の技術者だった。炉の温度管理データの照合が始まっている。宮田の班の若手が手順を1つずつ教え、教わる側がノートに書き取っては頭を下げる。その繰り返しを、宮田は腕を組んで見ていた。
「約束は——」と矢代は言いかけた。
「言った通りになっただけです」と宮田が遮った。「技術は残る。人間も残る。名前は変わる。それだけのことです」
宮田は工具を1つ手に取り、布で拭いて、棚に戻した。
「火は止めません。譲渡の日も、その次の日も。炉に会社の名前は書いてありませんから」
矢代は頭を下げた。宮田は会釈を返して、ラインに戻っていった。
帰り際、敷地の端で煙突を見上げた。先端に、かすかな赤い光が灯っている。5月に見たのと同じ光だった。あのときは、この火を守れるかどうか分からないまま見ていた。今も分からないことは多い。ただ、火は今日も灯っている。
東京に戻る車の中で、矢代は名簿の束を膝に置いていた。雇用承継先に渡す技術者名簿のドラフト。宮田和也の名前が、産業用モーター部門の最初の頁にあった。
12月の、ある朝のことだった。矢代がネクタイを締めていると、玄関で物音がした。莉子が立っていた。公立中学の紺の制服に、白いスニーカー。自分で選んだリュックを背負っている。
「行ってくる」
莉子はそれだけ言って、ドアを開けた。
「行ってらっしゃい」と矢代は返した。ドアが閉まった。
1年前の正月、この玄関で「行ってくる」と言ったのは矢代だった。莉子は廊下の奥に立って、何か言いかけて、やめた。あれから1年かかって、言葉の向きが逆になった。
聡子がキッチンから出てきて、閉まったドアを見た。
「毎日じゃないの」と聡子は言った。「行けない日も、まだある。でも、行けた日の夜は、ご飯のときによく喋る」
「それでいい」
矢代は鞄を持った。玄関には、莉子が履かなくなったローファーが、まだ揃えて置いてあった。
退職の日が来た。
最後に残った仕事は、雇用承継先に渡す技術者名簿の最終確認だった。名簿には宮田班長をはじめ、矢代が1年かけて名前を覚えた人間たちが並んでいる。茨城工場のモーター技術者。半導体の設計者。品質管理の担当者。顔を思い浮かべながら、ひとり一人の名前と異動先を確認した。
最後のページに署名した。
帝央電機の名前は消える。しかし、この名簿の人間と、彼らが持つ技術は残る。矢代は名簿を封筒に入れ、総務に届けた。
戻る途中の廊下で、段ボールを抱えた小野寺に会った。
「本部長」
「もう本部長じゃない」
「最後まで肩書きで呼ばせてください。そのほうが収まりがいい」
小野寺は箱を抱え直した。中身はファイルの束と、マグカップと、モニターの台に使っていた会計基準のハンドブックだった。小野寺は年明けから日本産業機械に移る。ERPの接合部分を最初から最後まで見た人間として、移管後のシステム統合を任されることが決まっていた。
「最初に変だと言い出したのは俺です」と小野寺は言った。「最後まで見届けないと、気持ちが悪い」
「コンサルには戻らないのか」
「外から数字を見て、言うだけ言って帰る仕事は、もういいです。誰かさんの真似です」
矢代は短く笑った。
「本部長は、どうするんですか」
「決めていない」
小野寺は頷いた。それ以上は聞かなかった。エレベーターの前で箱を持ち直し、頭を下げた。
「ありがとうございました」
扉が閉まった。
誰もいなくなったフロアに戻った。
壁に額装された文字がある。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
入社した日にこの文字を見た。2年近く前のことだ。あの日は意味を測りかねた。今は分かる。この言葉は正しかった。ただし、城壁を築かなかった城は内から崩れた。情けは忖度の連鎖になり、仇は内部統制への敵視になった。
しかし矢代が最後に守ったのも、城ではなく人だった。
デスクの引き出しを開けた。底に茶封筒がある。付箋が1枚。「未提出」。
更生手続開始申立書のドラフト。2月に田島と作り、古賀に進言し、古賀が拒み、剛造が拒み、啓介が拒んだ。矢代自身も「まだ私的整理で戻せる」という自負を捨て切れなかった。それから10ヶ月。増資、総会、MBO、白騎士。迂路の果てに辿り着いたのは、更生手続であれば不採算部門を切り捨てても保てたはずの企業の一体性が、完全に失われた場所だった。
最初に見えていた正解は、最後まで正しかった。ただ、自分はそれを選び切れなかった。
封筒を手に取った。1年前の自分なら破り捨てていたかもしれない。正解を選べなかった証拠だ。回り道の記録だ。しかし今の矢代は、それを捨てなかった。
銀座の夜。莉子のドアの前で下ろした手。聡子の背中に向けた沈黙。冴子には話せて、聡子には話せなかった夜。10月のリビングで口から勝手に出た「駄目だった」の5文字。正しい判断を正しいタイミングで下せた瞬間は、一度もなかったかもしれない。
それでも、朝が来るたびにデスクに戻った。
封筒を鞄に入れた。捨てない。
フロアの明かりを消して、エレベーターに向かった。
退職前夜、矢代は銀座に向かった。
並木通りから1本入った雑居ビルの4階。エレベーターを降りると、重い木のドアに小さな札がかかっていた。「臨時休業」。それだけだった。
矢代はドアの前に立ったまま、しばらく動かなかった。8年間通った店だ。今夜の1杯をここで飲むつもりだった。冴子に「終わった」と言えば、冴子はグラスを磨きながら何か正確なことを言ってくれる。いつもそうだった。
ドアは閉まっている。棚の奥の古い算盤も、カウンターの向こうの冴子の顔も見えない。
矢代はエレベーターのボタンを押した。1階に降りて、並木通りに出た。12月の風が冷たかった。
地下鉄で白金台に向かった。午後10時過ぎにマンションに着いた。
鍵を開けた。リビングに明かりがついている。
聡子が立っていた。
「おかえり」
矢代は一瞬、言葉を失った。1年前のこの場所で、聡子は「今日は何時?」と聞いた。矢代は「分からない。遅くなると思う」と答えた。それがこの1年のパターンだった。
「ただいま」
リビングに莉子がいた。ソファに座って、スマートフォンを見ている。その隣で紬が何かを書いている。ノートを広げて、鉛筆を動かしている。
数ヶ月間、自室に閉じこもっていた莉子が、最近はリビングで過ごすことが多くなった。10月の夜——矢代が「駄目だった」と言った夜——のあと、矢代が家で本音を話すようになってから、少しずつ部屋を出るようになった。
紬が顔を上げた。「お父さん、サッカーの大会、来月あるんだけど」
以前の矢代なら「塾は?」と返していた。今は黙って聞いている。
「駒沢の陸上競技場」
莉子がスマートフォンから顔を上げた。「紬、ポジションどこ」
「トップ」
「点取り屋じゃん」
姉妹の会話を矢代は遮らなかった。莉子が紬に話しかけている。紬が莉子に笑いかけている。姉妹が同じ部屋で、同じ時間を過ごしている。
矢代はそのことの意味を考えていた。矢代の変化に気づいた莉子が、聡子にひとこと漏らしたのだと聡子から聞いた。その言葉が何だったのか、聡子は教えてくれなかった。しかしそのひとことが、聡子の中の「こうあるべき」を揺るがした。御三家に通わせなければならない。家庭を完璧に回さなければならない。夫が話すのを待たなければならない。そういう正しさを、聡子は一つずつ降ろし始めた。莉子の転校を主導したのは聡子だった。娘のあるがままを認めた最初の行動だった。
聡子がそれを見ている。矢代が娘たちの会話を遮らないことを、見ている。
ソファの脇に、莉子の鞄が置いてあった。桜葉中学校の紺色の指定鞄ではなく、莉子が自分で選んだリュックだった。
莉子が桜葉を退学し、小学校時代の友人も多く通う地元の公立中学校に移ることを聡子と決めたのは、10月のことだった。莉子は自分の口からそれを矢代に告げ、矢代は「分かった」とだけ返した。聡子は「莉子が自分で決めた。私はそれを支える」と言った。以前なら「御三家を辞めるのか」と言っていた。
紬が大会の日程を話し終えて、またノートに向かった。莉子はスマートフォンに目を落とした。
矢代は聡子に「莉子、最近どうだ?」と小声で聞いた。「大丈夫か」ではなく「どうだ」と。
聡子は少し間を置いて言った。「自分で関わって」
矢代はうなずいた。
夜10時過ぎ。紬が「おやすみ」と言って部屋に引っ込んだ。莉子もスマートフォンを置いて立ち上がった。「おやすみ」。矢代に向かって言った。矢代は「おやすみ」と返した。莉子が部屋に消えた後、聡子が2つのみかんを矢代の前に置いた。
こんな些細なことが、1年ぶりだった。
2人で黙ってみかんを剥いた。聡子は何も聞かなかった。矢代も何も言わなかった。しかしその沈黙は、1月の沈黙とは違っていた。あのときの沈黙は不在の証だった。今の沈黙は、ここにいることの証だった。
みかんの皮の匂いがする。聡子の指が白い薄皮を剥いている。1年前の1月にも、この台所にみかんがあったはずだ。あのときは気づかなかった。
翌朝、矢代は早朝のジムに久しぶりに行った。
1年前、毎朝通っていたジム。危機が深化してから足が遠のき、体型が変わった。鏡に映る自分の顔は、1年前より確実に老けている。しかし体を動かすことの感覚は残っていた。
ロッカーで携帯電話を見ると、梶原からメールが来ていた。
「ある会社の経営ができる人材を探している。年明けに一度会えないか」
帝央電機ではない。別の会社の話だ。
矢代はすぐには返信しなかった。ジムを出て、朝の空気を吸った。12月の東京。息が白い。
1年前の自分に「お前は1年後、会社を分解する実務を担い、最後に去る」と言ったら、信じなかっただろう。しかし、その1年を歩いた先に今がある。息が白い。体が冷える前に、歩き始めた。
矢代はコンビニでコーヒーを買った。紙カップを持って、歩きながら携帯電話を取り出した。
返信を打ち始めた。