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照準―― a mystery in four parts ――


    あらすじ

     目覚めたとき、北条悠真の頭には銃創があり、そして頭の中には見知らぬ「もう一人の自分」がいた。物の角度、他人の呼吸のリズム、声のわずかな震え――あらゆる情報が数値として自動的に浮かび上がる、後天性サヴァン症候群。医師も、刑事も、家族でさえも、事件について多くを語ろうとしない。誰もが何かを隠し、示し合わせているように見える。「自分を撃った犯人を見つける」と宣言した悠真は、新しく手に入れた異能の観察眼を武器に、親友、恋人、上司、そして家族へと疑いの目を向けていく。証言の矛盾、削除された投稿、破られた日記、実らなかったアリバイ――集めた手がかりはひとつずつ、ある恐ろしい可能性を指し示していく。だがその「犯人」は、悠真が想像もしなかった場所に立っていた。手がかりはすべて提示されている。読者よ、悠真とともに、照準の先にある真実を見極めてほしい。これは、外側の犯人を追うことでしか、内側の真実に辿り着けなかった、ある青年の再生の記録である。

    主な登場人物

    • 北条悠真(ほうじょう・ゆうま) 二十七歳。IT企業勤務。頭部銃創の後遺症で後天性サヴァン症候群を発症し、超人的な観察・分析能力を得る。

    • 北条美咲(ほうじょう・みさき) 悠真の母。几帳面な性格。事件当夜、悠真の部屋に駆けつけた第一発見者。

    • 北条隆一(ほうじょう・りゅういち) 悠真の父。寡黙。若い頃に希死念慮を抱えた過去を持つ。

    • 佐伯亮(さえき・りょう) 悠真の大学時代からの親友。事件当夜、悠真から電話を受けた人物。

    • 江夏千鶴(えなつ・ちづる) 悠真の元恋人。事件前、悠真から別れを切り出されていた。

    • 柏木誠治(かしわぎ・せいじ) 悠真の上司。過大なノルマを課し、パワーハラスメントの疑いをかけられる。

    • 笹岡直人(ささおか・なおと) 悠真と同期入社のライバル社員。昇進争いの相手。

    • 蓮見一馬(はすみ・かずま) 悠真の主治医。真実を告げるべきか悩み続ける。

    • 工藤重蔵(くどう・じゅうぞう) 事件の担当刑事。ベテランで寡黙。

    • 三田村沙耶(みたむら・さや) 柏木のかつての部下。休職に追い込まれた過去を持つ。

    • 謎の女 隆一の過去に関わるとされる人物。作中では正体が明かされない伏線として機能する。


    序章 撃たれた男

     救急隊員が到着したとき、その部屋には、倒れた男が一人いるだけだった。

     窓は施錠されていた。玄関の鍵も、内側からかかっていた。三階の窓の外には、足場になるようなものは何もなく、雨どいも老朽化していて、大人の体重を支えられるようには見えなかった。

     現場に踏み込んだ制服警官の一人の男が、無線に向かってこう告げた。

    「密室です。第三者の侵入した形跡が見当たりません」

     その報告を受けた工藤重蔵は、電話の向こうで、しばらく黙り込んでいた。

     二十年以上、刑事をやってきた。密室と名のつく現場に立ち会ったことも、一度や二度ではない。だが、そのほとんどは、密室でも何でもなかった。鍵のかけ忘れ、共犯者による偽装、単なる見落とし――謎めいた外見の下には、たいていミステリー小説のアイデアにはならないであろう平凡な理由が隠れている。

     工藤は現場に向かう車中で、若い部下にこう漏らした。

    「密室のほとんどは、外から鍵をかけた人間がいないからこそ密室になる」

    「どういう意味ですか」

    「つまり、鍵をかけたのが、部屋の中にいた本人だという意味だ」

     その言葉の重みを、この時点で理解していた者は、工藤以外に誰もいなかった。

     だが工藤にも、まだ分からないことがあった。

     もし本当にそうだとして――なぜ、その人物は自分で自分を撃つ前に、部屋の鍵と窓を、律儀に施錠していったのか。

     その問いへの答えが、この物語のもう一つの核心である。


    第一部 目覚め

    第一章 白い天井

     最初に戻ってきたのは、痛みではなく光だった。

     白い天井。蛍光灯ではない、間接照明の柔らかい光。北条悠真はそれをしばらく見つめてから、自分がどこにいるのかを考えようとした。考えようとして、うまくいかないことに気づいた。

     思考が、いつもと違う。

     何かが変わっている。頭の中に、透明な定規と分度器が増えたような感覚だった。天井の照明の位置、壁のクロスの継ぎ目の間隔、点滴のスタンドが落とす影の角度――そういうものが、意識しなくても勝手に測られていく。頭の中に、いや……脳みその中に数字が、勝手に浮かぶ。

    「悠真」

     声がした。母、美咲だった。目の縁が赤い。何日も眠っていないような顔。

    「……ここ、どこ……」

    「病院よ。あなた……」

     美咲はそこで言葉を切った。悠真は、母の喉が一度だけ小さく動いたのを見た。何かを言おうとして、飲み込んだ動き。

    「頭を怪我したの。でも、もう大丈夫。大丈夫だから」

     大丈夫、という言葉が、悠真の中で妙に軽く響いた。まるで台詞のように。何度も練習した台詞のように。

     右手を持ち上げようとして、包帯の重みに気づく。頭部、右側。触れようとした指を、看護師が静かに止めた。

    「まだ触っちゃだめですよ」

     その瞬間、悠真の視界の隅に、ベッド脇のモニターの数値が飛び込んできた。心拍数、血中酸素飽和度、血圧。数字の意味を、なぜか瞬時に理解できた。正常範囲、やや高め、注意を要する境界線――そんな知識、自分は持っていなかったはずだ。

     医師が入ってきた。白衣に「蓮見」という名札。四十代半ば、眼鏡の奥の目が、悠真を見る前に一瞬、美咲と視線を交わした。

     その一瞬を、悠真ははっきりと見た。〇・三秒にも満たない、視線の往復。

    (この人たちは、何かを揃えている)

     根拠のない直感ではなかった。二人の視線の動き、声の高さ、姿勢の微妙な硬さ――そのすべてが、悠真の中で自動的に採点され、「不自然」という結論を導き出していた。

    「北条さん。覚えていることを聞かせてもらえますか。事件当日のことで」

     蓮見の声は静かだった。だが、質問の形をしていながら、答えを恐れているような響きがあった。

     悠真は、思い出そうとした。

     何も出てこなかった。

     いや――正確には、何もないのではなかった。記憶の中に、まるで意図的に切り取られたような、四角い空白があった。前後の記憶は鮮明なのに、その部分だけが、ぽっかりと欠けている。

    「思い出せません。あの日、会社を出たところまでは覚えてます。それから……」

    「それから?」

    「気づいたら、ここにいました」

     美咲の肩が、わずかに下がった。安堵のように見えた。だが悠真には、それが安堵ではなく、緊張の弛緩――何かを恐れていた時間が終わったことへの反応だと感じられた。

    (母は、僕が何かを思い出すことを恐れていた)

     その考えが浮かんだ瞬間、悠真は自分自身に驚いた。こんな風にものを考えたことは、これまでの人生で一度もなかった。

    第二章 定規のような目

     三日後、悠真はリハビリ室で、蓮見から詳しい説明を受けた。

    「頭部に銃創を受けています。弾丸は側頭部を掠めるようにして貫通しました。あと数ミリ角度が違えば……」

     蓮見はそこで言葉を止めた。悠真は、その沈黙の長さを無意識に数えていた。一・八秒。

    「銃で撃たれた、ということですか」

    「はい」

    「誰に」

    「それは……現在、警察が捜査中です」

     悠真は病室の隅に置かれた紙袋に目を向けた。私物が入っているという。中を見せてもらうと、事件当時に着ていた上着があった。左胸のポケットに、小さく破れた紙片が入っていた。文字の一部だけが残っている。

    「ごめ」「もう、これ以上」

     その二文字と半分の言葉を見た瞬間、悠真の中で何かがざわついた。だが、それが何を意味するのか、うまく形にならなかった。

    「これ、僕の字ですか」

     美咲が横から紙袋を取り上げようとした。悠真はその手の動きの速さに気づいた。普段の母より、明らかに速い。

    「お母さん、これ僕の字?」

    「……わからない。警察が調べてる途中だから、あんまり触らないほうが」

     嘘だ、と悠真は思った。根拠は説明できない。だが、確信があった。母の声のトーン、瞬きの回数、視線の逃げ方――すべてが「嘘」という結論を指し示していた。

     その夜、悠真は病室のベッドで、自分の右手を見つめていた。何度も、無意識に、こめかみのあたりに手をやってしまう癖があることに気づいた。看護師に指摘されて初めて自覚した。

    「北条さん、さっきからずっとそこ触ってますよ。痛みますか」

    「いえ……気づかないうちに……」

     癖なのだろう、と思った。事件で頭を怪我したから、無意識にそこを気にしてしまうのだろう、と。

     その夜、夢を見た。

     鏡のような、光る何か。自分の手が、何かを握っている。誰かの顔が、目の前にある。輪郭がぼやけて、誰なのか分からない。ただ、その「誰か」は、ひどく怯えた目をしていた。

     目が覚めたとき、悠真は全身に汗をかいていた。

    第三章 沈黙の家族

     退院してからの日々、悠真は自分の変化を実感し続けた。

     スーパーで買い物をしていても、レジの店員の指の動きから、その日の疲労度が分かるような気がした。父・隆一と食卓を囲んでいても、隆一が箸を持つ手の震えや、視線を合わせない時間の長さから、何か重い感情を抱えていることが分かった。

    「お父さん」

    「……なんだ」

    「僕のこと、避けてる?」

     隆一は箸を止めた。長い沈黙。悠真はその沈黙の質を測っていた。困惑ではない。後悔に近い、重たい沈黙だった。

    「そんなことはない」

     声が硬かった。

     その晩、悠真は自分の部屋で、警察から返却された私物をもう一度確認した。スマートフォンは壊れていて起動しない。手帳、財布、そして――小さなメモ帳の切れ端。

     病院で見た紙片と同じ紙質だった。

     翌日、悠真は担当刑事の工藤に連絡を取った。

    「捜査の状況を教えてください。誰が僕を撃ったんですか」

     電話口の工藤は、一瞬の間を置いてから答えた。

    「北条さん、その件については、あなたのご家族にご説明しています。まずはゆっくり療養に専念されたほうが……」

    「はぐらかさないでください。僕は被害者です。知る権利があります」

    「……北条さん。捜査には、いろいろな事情があります。今は、それ以上お話しできません」

     電話は、逃げるように切られた。

     悠真は、その日初めて、自分の中に生まれた違和感の正体に近づいた気がした。

    (誰も、僕に本当のことを話さない)

     家族も、医師も、刑事も。全員が、何かを揃えて隠している。

     その考えは、悠真の中で急速に確信へと変わっていった。

    第四章 宣言

     一週間後、悠真は家族を居間に集めた。意外とみんなすんなりと集まってくれた。悠真は決心した。

    「僕は、自分を撃った犯人を見つけます」

     美咲の顔から血の気が引いた。隆一は目を伏せた。

    「悠真、それはやめて。危ないことに首を突っ込まないで」

    「危ない? 犯人を捕まえるのが危ないなら、犯人を野放しにしてるほうがよっぽど危ないでしょう」

    「そうじゃなくて……」

    「じゃあ、なんですか。教えてください、お母さん」

     美咲は答えられなかった。ただ、震える手で悠真の手を握ろうとした。悠真はその手を、静かに、しかしはっきりと避けた。

    「お願いだから、もうやめて」

     美咲の声は、悲鳴に近かった。悠真はその声の震え方から、これが演技ではないことを理解した。本物の恐怖だった。

     だが、恐怖の対象が何なのか、悠真には分からなかった。

    (犯人が僕にまた危害を加えることを恐れているのか。それとも――)

     その先の可能性を、悠真はまだ考えることができなかった。

     その夜、悠真は自室のノートに、覚えている限りの事実を書き出した。事件当日の記憶、家族や医師や刑事の言動、紙片の文字。書き出しながら、自分の筆跡の変化に気づいた。以前よりも、明らかに整然としている。まるで、思考そのものが変わってしまったかのように。

     ノートの隅に、無意識にこめかみへ手をやりながら、悠真は書いた。

    「誰も味方じゃない。自分の力で真実を見つける」

    信じられる人は自分しかいなかった。

    第五章 佐伯亮

     大学時代からの親友、佐伯亮が病室に見舞いに来たのは、退院前のことだった。

    「悠真、無事でよかった……ほんとに」

     佐伯の声は明るかったが、悠真はその明るさの下に、何か張り詰めたものを感じ取った。笑顔の持続時間が不自然に長い。話題を変えるタイミングが、いつもより早い。

    「亮、事件の前の日、僕から連絡なかった?」

     佐伯の表情が、一瞬だけ固まった。〇・五秒に満たない停止。

    「いや……特には」

    「本当に?」

    「なんでそんなこと聞くんだよ」

     悠真は、佐伯の視線がスマートフォンのほうへ動いたのを見逃さなかった。何かを確認したい、あるいは隠したいという仕草。

    「亮、正直に言ってほしい。僕、何かおかしなこと言ってなかった?」

     佐伯は長い沈黙のあと、小さく首を振った。

    「何も。いつも通りだったよ」

     嘘だ、と悠真は確信した。だが、それを問い詰める材料が、まだ足りなかった。

     退院後、悠真は佐伯のSNSを調べた。事件前日の投稿はなかった。だが、事件当日の深夜、一つだけ削除されたと思われる投稿の痕跡があった。検索エンジンのキャッシュに、わずかに残っていた文字列。

    「大丈夫か、返信して」

     誰宛のメッセージか分からない、断片的な言葉。悠真は、それが自分に宛てたものではないかと疑い始めた。

    第六章 千鶴の沈黙

     恋人だった江夏千鶴とは、事件後初めて会った。カフェの窓際の席で、千鶴は終始、視線を悠真に合わせなかった。

    「元気そうでよかった」

     その一言だけで、あとは黙ってコーヒーカップを見つめていた。

    「千鶴、僕たち、別れる話をしてた?」

     千鶴の肩が、小さく震えた。

    「……なんで、そんなこと」

    「答えてほしい……」

    「していた、けど……」

     千鶴の目に、涙が浮かんだ。だが悠真には、その涙の質が読めなかった。罪悪感なのか、後悔なのか、それとも別の何かなのか。

    「私のせいだって、思ってる?」

     その問いに、悠真は答えられなかった。可能性の一つとして、頭のどこかに浮かんでいたことは事実だった。

    「千鶴のせいだとは思ってない。ただ、事件の前に何があったか知りたいだけだ」

    「知らないほうがいい」

     千鶴はそう言って、席を立った。悠真は、その背中を見送りながら、一つの言葉を頭の中に刻んだ。

    「知らないほうがいい」

     その言葉は、これまでに聞いたどの言葉よりも、悠真の中で重く響いた。

     全員が、同じことを言っている。形は違っても、意味は同じだ。

     もうやめろ。知らないほうがいい。

     悠真は、窓の外を歩く千鶴の後ろ姿を見ながら、ノートに新しい一行を書き加えた。

    「全員が同じ嘘をついているなら、その嘘の向こうに、一つの真実がある」

     その真実が、まさか自分自身の中にあるとは、このときの悠真はまだ、想像すらしていなかった。

    第七章 もう一枚の紙片

     退院から二週間が経ったある日、悠真は自室の掃除中に、思わぬものを見つけた。

     クローゼットの奥、古いコートのポケットに入っていた、一枚の茶封筒。中には、消費者金融のロゴが入った督促状のコピーと、差出人不明の手紙が入っていた。

    「北条様 この件については、直接お話しさせていただきたく存じます。ご都合のよい時にご連絡ください」

     署名はなかった。ただ、電話番号が一つ、走り書きされていた。

     悠真の心臓が跳ねた。

    (借金? 誰かに、脅されていたのか)

     それまで組み立てていた仮説――誰かが悠真を追い詰め、命を狙った――が、にわかに現実味を帯びてきた。悠真は震える指で、その番号に電話をかけた。

     三回のコールのあと、男の声が応答した。

    「はい、笹岡です」

     その名前に、悠真は覚えがあった。同期入社の、笹岡直人。かつて、昇進を争ったライバルだった。


    (第一部・完 第二部「容疑者たち」へ続く)


    第二部 容疑者たち

    第八章 笹岡直人という影

     笹岡直人とは、駅前の喫茶店で会うことになった。現れた笹岡は、以前より痩せ、目の下に濃い隈があった。

    「悠真、久しぶり。無事で良かったよ、本当に」

    「その手紙、お前が書いたのか」

     悠真は単刀直入に切り出した。笹岡の顔が強張った。手の震えが、コーヒーカップを持つ指先に、はっきりと表れていた。

    「……ああ。悪かった。督促状は、俺が代わりに受け取ってたものなんだ」

    「どういうことだ」

     笹岡は、長い沈黙のあと、ぽつりぽつりと話し始めた。

    「お前、覚えてないかもしれないけど……半年前、俺に金を貸してくれたんだ。会社の昇進争いで、俺がお前を出し抜くために、上司に色々吹き込んでたのを、お前は知ってた。それでも、俺が消費者金融に追われてるのを知って、黙って三十万、貸してくれた」

     悠真は、その事実を、まったく覚えていなかった。だが、笹岡の言葉には、嘘の兆候が見当たらなかった。声の震え、視線の位置、呼吸のリズム――すべてが、真実を語っていることを示していた。

    「それと、事件と、何の関係がある」

    「事件の一週間前、督促状がお前の家に届きそうになったから、俺が先に取りに行った。お前に迷惑をかけたくなかったんだ。手紙は、お礼と、返済の相談をしたくて書いた」

     笹岡は深く頭を下げた。

    「お前を陥れようとしてたのに、金を貸してもらって……ずっと後ろめたかった。まさか、この手紙のせいで疑われるとは思わなかった」

     悠真は、笹岡を見つめながら、頭の中で天秤を動かしていた。証言に矛盾はない。だが、昇進争いの相手であり、金銭的なトラブルもあった人物として、笹岡を完全に容疑者リストから外すことは、まだできなかった。

    (もう一つ、確認すべきことがある)

    「笹岡、事件の日、お前はどこにいた?」

    「会社の飲み会に出てた。十一時過ぎまで、五人で。店の防犯カメラにも映ってるはずだ」

     このアリバイは、後日、悠真自身の調査によって裏付けられることになる。だが、この時点では、悠真の中に、まだ小さな疑念が残っていた。

    (金を貸すほど親しかったのに、なぜ僕は誰にもそのことを話していなかったんだ)

     その疑問は、後になって、悠真自身の性格――誰にも弱みや善意を見せたがらない、隠したがる性質――を示す、重要な手がかりとなる。

    第九章 別れの理由

     千鶴が働く花屋を、悠真は何度も外から観察した。直接話しかけるのではなく、まず「見る」ことから始める。それが、事件後の悠真が身につけた新しい方法だった。

     千鶴の動きには、規則性があった。客が途切れると、必ずスマートフォンを取り出し、画面を見て、すぐにしまう。表情は変わらない。だが、しまう速度が、通知の内容によって微妙に違う。悠真にはそれが分かった。

     三日目、悠真は店に入った。

    「話がしたい。事件の前、僕たちの間に何があったのか」

     千鶴は花を包む手を止めなかった。だが、リボンを結ぶ指の動きが、一瞬遅くなった。

    「もう終わったことだよ」

    「終わってない。僕の記憶の中では、まだ終わってないんだ」

     千鶴は顔を上げた。その目に浮かんでいたのは、悠真が予想していた「罪悪感」ではなかった。もっと複雑な、恐れに近い色だった。

    「私たち、別れ話をしてた。でもそれは……悠真が、別れたいって言ったからだよ」

    「僕が?」

    「うん。会社のことで悩んでて、私に迷惑かけたくないって。何度もそう言ってた」

     悠真は、その言葉を頭の中で分析した。声のトーン、視線の位置、呼吸のリズム――嘘をついている兆候は、見当たらなかった。

    「僕から別れを切り出した、ってこと?」

    「そう」

     だとすれば、動機として疑うべきは千鶴ではなく、自分自身の「会社の悩み」のほうだ。悠真の中で、一つの仮説が形を変えた。

    「千鶴、事件の日、僕から連絡なかった?」

     千鶴は少し間を置いてから、スマートフォンを取り出した。画面には、悠真の名前からの着信履歴があった。事件当日の夜、二十三時十七分。

    「出られなかった。仕事中で。かけ直したけど、繋がらなかった」

     着信履歴の時刻を、悠真は記憶に刻んだ。二十三時十七分。病院の記録によれば、悠真が発見されたのは、その約四十分後だった。

    (その間、僕は何をしていた)

     空白の四十分。この時間こそが、事件の核心に近いのかもしれない、と悠真は考えた。

    「千鶴、もう一つ聞きたい。別れる直前、僕から何か、預かったものはない? 手紙とか、荷物とか」

     千鶴は少し考えてから、首を振った。

    「ううん、何も。あ、でも……一度だけ、変なこと言われた」

    「変なこと?」

    「『もし僕に何かあったら、これを美咲さんに渡してほしい』って。分厚い封筒を渡されそうになった。でも、その場では冗談だと思って、受け取らなかった」

     悠真の背筋に、冷たいものが走った。

    (それは、遺書の準備をしていたということじゃないのか)

     悠真は、まだその可能性を、正面から見ることができなかった。

    第十章 削除された言葉

     千鶴の証言と、佐伯の不自然な態度を突き合わせるうち、悠真は一つの矛盾に気づいた。

     佐伯は「事件前日、悠真から連絡はなかった」と言っていた。しかし千鶴の証言では、事件当日の夜、悠真は千鶴に電話をかけている。もし佐伯にも同じように連絡していたとしたら――。

     悠真は、佐伯に再び連絡を取った。今度は直接、家を訪ねた。

    「亮、事件当日の夜、僕から連絡があったんじゃないか」

     佐伯の顔が青ざめた。

    「……あった。夜遅くに、電話が」

    「なんで嘘ついたんだ」

    「嘘じゃない、前日じゃなくて、当日だったから、勘違いしてただけで……」

     苦しい言い訳だった。悠真にはそれが分かった。だが、追い詰めることが目的ではない。真実が欲しいだけだった。

    「何を話した?」

     佐伯は長い間、黙り込んだ。やがて、絞り出すように言った。

    「悠真、電話口で、変なこと言ってたんだよ。『もう疲れた』とか、『消えたい』とか。俺、心配になって、すぐ行くって言ったんだけど……悠真、『大丈夫、ちょっと飲みすぎただけ』って笑って、切っちゃって」

     悠真は、その言葉を受け止めるまでに、数秒を要した。

    「消えたい、って……僕が?」

    「うん」

    「なんで、警察にそれを話さなかった」

     佐伯は顔を伏せた。

    「話した。ちゃんと話したよ。でも、刑事さんに『今はご家族の意向で、ご本人にはまだ伝えないでほしい』って言われて……」

     悠真は、その瞬間、頭の中で音が消えたような感覚に襲われた。

     自分が、何かを言った。誰かに、疲れた、消えたい、と。

     その言葉の重みを、まだ理解することができなかった。

    「亮、もう一つ聞きたい。あの夜、電話のあと、お前は何をした?」

    「心配で眠れなくて……お前の家の前まで、車で行った。でも、部屋の電気がついてるのを見て、大丈夫そうだと思って、帰った」

    「何時ごろだ」

    「零時前だったと思う」

     悠真は、その時刻を記憶に刻んだ。零時前。千鶴への着信が二十三時十七分。発見されたのが、その約四十分後――つまり、零時前後。

    (亮が家の前にいたとき、僕はもう、倒れていたかもしれない)

     その可能性に、悠真は言葉を失った。

    第十一章 空白の意味

     病院に戻り、蓮見に佐伯の証言をぶつけた。蓮見は、しばらく沈黙したあと、静かに口を開いた。

    「北条さん。あなたの記憶の空白について、医学的に説明できることがあります」

    「教えてください」

    「強いストレスやショックを受けた際、脳がその記憶を一時的に、あるいは恒久的に抑圧することがあります。解離性健忘と呼ばれる状態です」

    「それは、僕が何かを見たくなくて、忘れているということですか」

     蓮見は、答えなかった。その沈黙こそが、答えだった。

     悠真は、病院からの帰り道、ずっと佐伯の言葉を反芻していた。「消えたい」。自分がそう言ったという事実。それが意味することを、悠真の理性は、まだ拒否していた。

    (誰かに、消えてほしいと思われるようなことをしたのか。それとも――)

     考えかけて、悠真は思考を止めた。まだ早い。証拠が足りない。感情ではなく、論理で進めなければならない。それが、事件後の自分に許された、唯一の強さだった。

    第十二章 柏木という男

     次に悠真が向かったのは、勤め先だった。上司の柏木は、悠真の顔を見るなり、明らかに動揺した。

    「北条くん……無事で、よかったよ」

     柏木の声には、安堵と、それを上回る緊張が混じっていた。

    「柏木さん、事件前の僕の様子、覚えてますか」

    「あ、ああ……最近、ちょっと元気なかったかな。仕事のことで、無理させてしまったかもしれない」

     柏木は、目を合わせなかった。机の上の書類を整理する手つきが、不自然に速かった。

     悠真は、社内の評価制度と自分の直近の業務履歴を調べた。柏木が担当していたプロジェクトで、悠真は明らかに過大なノルマを課されていた。残業時間の記録、深夜のメール送信履歴。すべてが、柏木のパワーハラスメントを示唆していた。

    「柏木さんが、僕を追い詰めていたんじゃないですか」

     柏木の顔が、初めて明確な感情を見せた。恐怖だった。

    「違う、違うんだ。俺は、確かに厳しくしすぎたかもしれない。でも、まさかこんなことになるなんて……」

    「こんなこと、というのは?」

     柏木は口をつぐんだ。だが、その表情から、悠真は一つの確信を得た。柏木は、悠真が撃たれたことに、罪悪感を持っている。しかし、それは「撃った」罪悪感ではなく、「追い詰めた」罪悪感だった。

     悠真は、この時点で柏木を容疑者リストから外すべきか迷った。動機はある。だが、決定的な証拠がない。

    第十三章 アリバイ

     悠真は、事件当日の柏木の行動を調べた。会社の入退室記録、同僚の証言。柏木は事件が起きたとされる時間帯、社内の別のフロアで会議に出席していた。複数の同僚が証言し、記録とも一致していた。

     アリバイは、成立していた。

     同じころ、笹岡のアリバイも裏付けが取れた。事件当夜、笹岡は同僚五人と飲み会に出席しており、店の防犯カメラに、十一時過ぎまで映っていた。悠真が千鶴に電話をかけた二十三時十七分の時点でも、笹岡は店内にいたことが確認された。

     柏木、笹岡――二人のアリバイが、同時に成立した。

     悠真は、自分のノートにそれぞれの名前を書き、その上に線を引いた。だが、完全には消さなかった。

    (アリバイがあるからといって、無関係とは限らない。誰かに依頼した可能性もある)

     それは、悠真の中に芽生え始めた、行き過ぎた疑いだった。だが、このときの悠真には、その行き過ぎに気づく余裕がなかった。

    第十四章 パワハラの代償

     柏木の元部下だったという三田村沙耶という女性に接触し、悠真は柏木の過去の問題を聞き出した。過去にも部下を精神的に追い詰めた末、その部下が休職に至ったケースがあったという。

    「柏木さんは、悪い人じゃないんです。ただ、不器用で、追い詰め方が分からないだけで」

     その言葉は、悠真の中の柏木への印象を、わずかに変えた。悪意ではなく、不器用さ。それは、これまで悠真が調べてきた誰にも共通する何かのように思えた。

     佐伯の遅すぎた警察への通報。千鶴の言えなかった別れの理由。柏木の追い詰め方を知らない厳しさ。笹岡の後ろめたさゆえの沈黙。

     誰もが、悪意ではなく、不器用さによって、悠真を傷つけていた。

    (だとしたら、犯人も――)

     その先の考えを、悠真はまだ、明確な形にすることができなかった。

    第十五章 刑事・工藤

     悠真は、担当刑事の工藤に直接会いに行くことにした。警察署の前で、工藤は疲れた顔で悠真を迎えた。

    「北条さん、これ以上の接触は控えていただきたいのですが」

    「なぜ捜査を打ち切ったんですか」

    「打ち切ってはいません。継続捜査中です」

    「嘘だ。僕が調べた限り、事件発生から一週間後には、実質的に捜査の手が止まっています」

     工藤の表情が、わずかに動いた。

    「北条さん、優秀ですね。その通りです」

    「なぜですか」

     工藤は、しばらく黙り込んだあと、静かに言った。

    「捜査には、慎重を期すべき事情があります。それ以上は、今は言えません」

    「隠蔽ですか」

    「違います」

     工藤の否定は、迷いのない、はっきりとした声だった。悠真はその声の質に、それまでの誰の証言とも違う、揺るぎなさを感じた。

    「工藤さんは、何を知っているんですか」

    「北条さん。あなたが、自分自身で答えにたどり着くべきことだと、私は思っています」

     その言葉は、悠真の胸に、鋭く刺さった。

    「密室だった、と聞きました」

     工藤の眉が、わずかに動いた。

    「誰から」

    「現場に居合わせた警官の一人が、SNSに、うっかり書き込んでいました。すぐに削除されていましたが、キャッシュには残っていました」

     工藤は、深く息を吐いた。

    「その通りです。窓は施錠され、玄関の鍵も内側からかかっていた。第三者が侵入し、脱出した形跡は一切ありません」

    「だったら、外部犯の可能性は――」

    「北条さん」

     工藤は、悠真の言葉を遮った。

    「密室の謎に気を取られないでください。密室は、時に答えそのものより雄弁に、犯人が誰であるかを語ります」

     その言葉の意味を、悠真はまだ理解できなかった。

    第十六章 現場写真

     悠真は、情報公開請求という形式的な手段を使い、事件現場の写真の一部を入手した。素人目には分からない部分も、悠真の目には、驚くほど多くの情報を与えた。

     弾丸の入射角度。血痕の飛散パターン。現場に残された足跡は、悠真自身のものしかなかった。窓の内鍵には、こじ開けられた痕跡が一切ない。玄関ドアのシリンダー錠も、ピッキングの傷がない。

    (第三者がいた形跡がない)

     その事実は、悠真の中の仮説の土台を、静かに揺るがし始めた。

     だが同時に、別の可能性を考えた。犯人が、足跡を残さないよう慎重に行動したのではないか。プロの犯行、あるいは計画的な犯行。あるいは、合鍵を使い、去り際に外から鍵をかけたのではないか。

     悠真は、その仮説にしがみついた。しがみつかなければ、別の結論を受け入れなければならなかったからだ。

     だが、この仮説には、一つだけ、悠真自身も無視できない矛盾があった。

    (もし外部に犯人がいて、去り際に鍵をかけたのなら――なぜ、窓の鍵まで、内側からかけたままなのか)

     合鍵で玄関から侵入し脱出することは可能でも、三階の窓を内側から施錠したまま外に出ることは、物理的に不可能だった。

     悠真は、この矛盾をノートの隅に書き留めた。だが、それをまっすぐ見つめる勇気は、まだなかった。

    第十七章 母の日記

     実家に戻ったある日、悠真は母の部屋で、古い日記帳を見つけた。開くつもりはなかった。だが、事件当日の日付のページが、わずかに開きやすくなっていることに気づいてしまった。

     几帳面な母の字で、こう書かれていた。

    「悠真の様子がおかしい。三日前から、部屋に閉じこもりがちで、食事もほとんど残す。今日、思い切って声をかけたが、『大丈夫』としか言わなかった。あの子は昔から、辛いことを一人で抱え込む子だった。父親に似て」

     その先のページは、破られていた。

     悠真は、破られた断面を見つめた。丁寧に、几帳面に破られていた。母が、意図的に破ったものだった。

     その夜、悠真は美咲に日記のことを尋ねた。美咲は、長い沈黙のあと、涙を流しながら言った。

    「見てほしくなかった。あなたが、あの日どんな状態だったか」

    「なぜ」

    「あなたが、また同じことを考えるかもしれないから」

     同じこと、という言葉が、悠真の中で反響した。

    第十八章 父の後悔

     父・隆一が、初めて自分から話しかけてきたのは、その翌日の夜だった。

    「悠真。お前に、謝らなければならないことがある」

     隆一の声は、これまで聞いたことのないほど、震えていた。

    「事件の前、お前の様子がおかしいことに、俺も気づいていた。だが、俺は……どう声をかけていいか分からなかった。俺自身、昔、同じような時期があったから」

    「お父さんが?」

    「若い頃、仕事で失敗して、死にたいと思ったことがある。誰にも言えなかった。だから、お前にも、どう聞けばいいか分からなかった。同じ言葉を、俺自身がかけてほしかったのに、かけられなかった言葉だから」

     隆一は、深く頭を下げた。

    「すまなかった。お前を、一人にしてしまって」

     悠真は、父の言葉を受け止めながら、ふと、以前から気になっていたことを尋ねた。

    「お父さん。昔、誰かに助けられたの? その時期を、乗り越えたきっかけは」

     隆一は、少し驚いた顔をしたあと、静かに頷いた。

    「ある人に、話を聞いてもらった。今は、もう連絡を取っていないが……あの人がいなければ、俺は今、ここにいなかったかもしれない」

     その「ある人」が誰なのか、隆一は語らなかった。悠真はそれ以上、追及しなかった。だが、この会話は、悠真のノートに、小さな一行として書き留められることになる。

    「父にも、かつて『誰か』がいた。その存在は、今の家族の誰とも接点がない」

     この伏線は、後に、まったく別の意味を持って回収されることになる。

     悠真は、父の言葉を受け止めながら、頭の中で、これまで集めたすべての証言を並べ直していた。

     千鶴の「知らないほうがいい」。佐伯の「消えたい」という言葉。柏木の不器用な後悔。笹岡の後ろめたさ。工藤の「密室は答えより雄弁に語る」という言葉。母の破られた日記。そして今、父の告白。

     すべてが、一つの方向を指し始めていた。

     悠真は、その方向を、まだ直視することができなかった。


    (第二部・完 第三部「追い詰められる真実」へ続く)


    第三部 追い詰められる真実

    第十九章 読者への挑戦

     ――ここで、この物語の語り手は、いったん筆を置きたい。

     北条悠真がこれまでに集めた手がかりは、以下の通りである。

     一、現場は完全な密室であり、窓の内鍵、玄関の鍵、ともに内側からかけられていた。第三者の侵入・脱出の痕跡は一切ない。

     二、現場に残された足跡は、被害者本人のものだけだった。

     三、被害者は事件当日の夜、佐伯亮に電話をかけ「消えたい」と口にしていた。

     四、被害者は千鶴に対し、生前「もし僕に何かあったら、これを母に渡してほしい」と分厚い封筒を渡そうとしていた。

     五、被害者の上着から見つかった紙片には「ごめ」「もう、これ以上」という文字があった。

     六、被害者は、事件前から食欲不振、閉じこもりがちな様子を見せていた(母の日記)。

     七、被害者の父・隆一にも、若い頃に希死念慮を抱えた過去がある。

     八、事件現場の弾道は、被害者の右こめかみから入り、後方やや上向きに抜けている。

     九、警察は、事件発生から一週間ほどで、実質的に捜査の手を止めていた。

     十、医師も刑事も家族も、一様に「あなた自身がたどり着くべきだ」という趣旨のことを口にしている。

     読者よ、これらの手がかりから、あなたはすでに、この事件の真相――「誰が」引き金を引いたのか――に気づいているかもしれない。

     だが、北条悠真自身は、まだそこに辿り着いていない。

     なぜなら、彼は「自分が撃たれた」という前提そのものを、一度も疑っていなかったからだ。

     真実に最も近い場所にいながら、最も遠回りをしていたのは、他ならぬ彼自身だったのである。

    第二十章 蓮見の告白

     悠真は、もう一度、蓮見のもとを訪れた。今度は、質問ではなく、これまで集めた証言のすべてを並べて見せた。

     笹岡の督促状。千鶴の証言。佐伯の告白。柏木の後悔。工藤の言葉。母の日記。父の懺悔。密室の状況。

    「先生。教えてください。僕は、何をしたんですか」

     蓮見は、長い間、机の上の書類を見つめていた。やがて、静かに口を開いた。

    「北条さん。私は医師として、患者に真実を伝える義務と、患者を守る義務との間で、ずっと悩んできました」

    「答えをはぐらかさないでください」

    「はぐらかしていません。あなたが今、ここまで論理的に真実に近づいてきたことを、私は医師として、素直に驚いています。あなたの能力は、本物です」

    「先生」

     蓮見は、深く息を吐いた。

    「弾道の検証結果は、すでに出ています。発砲された角度、そして現場の状況――そのすべてが、一つの結論を示しています」

    「教えてください」

    「至近距離からの発砲でした。しかも、発砲角度は、被害者自身の腕の可動域と一致しています」

     悠真は、その言葉の意味を、頭の中で組み立てようとした。だが、理性が、その組み立てを拒んでいた。

    「それは……」

    「これ以上は、私の口から言うべきことではありません。あなた自身が、思い出すべきことです」

    「先生、密室のことは、ご存知ですか」

     蓮見は頷いた。

    「工藤刑事から聞いています。あの密室こそが、もっとも雄弁な証拠なのだと、私も思います」

    第二十一章 角度の記憶

     その夜、悠真は自室で、これまで集めた現場写真と検証データを、もう一度すべて並べた。

     弾道の角度。右こめかみから、やや後方上向きに抜けている。

     悠真は、無意識に、自分の右手を頭に当ててみた。何度も繰り返してきた、あの癖。こめかみに手をやる仕草。

     その手の角度が、写真に記された弾道の角度と、正確に一致した。

     全身から、血の気が引いていくのを感じた。

     密室。窓も玄関も、内側から施錠されていた。第三者の侵入した形跡がない。現場の足跡は、自分のものだけ。

     これらすべての事実を組み合わせたとき、成立する結論は、ただ一つしかなかった。

     部屋に落ちていた紙片。「ごめ」「もう、これ以上」。それは、脅迫状でも、犯人からのメッセージでもなかった。

    (遺書だ)

     その言葉が、頭の中で、初めてはっきりとした形を取った。

     悠真は、震える手で、母の日記の破られたページの続きを探した。実家に戻り、ゴミ箱、シュレッダーのくず入れ、すべてを調べた。そして、シュレッダーにかけられる寸前だったと思われる紙片の束を見つけた。

     それを一枚ずつ、パズルのように繋ぎ合わせた。

     母の文字が、そこにあった。

    「あの日、悠真の部屋から、物音がした。慌てて駆け上がったとき、悠真は床に倒れていた。手には……」

     その先は、涙で滲んで読めなかった。だが、読めなくても、もう十分だった。

    第二十二章 鏡の夢

     その夜、悠真はまた同じ夢を見た。鏡のような光る何か。自分の手が、何かを握っている。誰かの顔が、目の前にある。

     今度は、悠真はその夢の中で、目を逸らさなかった。

     輪郭がぼやけていた顔が、少しずつ、焦点を結んでいく。

     それは、鏡だった。手に握っていたのは、拳銃。目の前にあった、怯えた目をした「誰か」――それは、鏡に映った、自分自身の顔だった。

     悠真は、汗だくで目を覚ました。全身が震えていた。

     だが、不思議なことに、これまでのような激しい恐怖はなかった。むしろ、長い間探し続けていたものが、ようやく形を持って現れたような、奇妙な静けさがあった。

     ノートを開き、これまでの伏線を、もう一度、最初から並べ直した。

     密室――第三者が出入りできない状況。

     現場の足跡――自分のものしかない。

     銃創の角度――自分の腕の可動域と一致。

     「消えたい」という、佐伯への電話での言葉。

     千鶴への「もし僕に何かあったら」という言葉。

     千鶴との別れ話――自分から切り出していた。

     柏木のパワーハラスメント――追い詰められていたのは、自分自身。

     笹岡への貸付――自分の中に、誰にも見せない優しさと、誰にも見せない孤独が同居していた。

     母の日記――事件前から続いていた異変。

     工藤の言葉――「密室は答えより雄弁に語る」「自分で答えにたどり着くべき」。

     蓮見の沈黙――医師として、真実を告げることへの葛藤。

     すべてが、一つの結論を指していた。

     拳銃の出所についても、悠真はこの夜、思い当たった。父の遺品――かつて、隆一自身が希死念慮を抱えていた時期に護身用として購入し、その後、誰にも言わず手放さずにいた古い拳銃。それが、机の引き出しの奥に、ずっと眠っていたのだ。

    (父にも「誰か」がいた、と言っていた。その「誰か」とは――)

     この時点で悠真は、その「誰か」の正体にまでは辿り着けなかった。だが、少なくとも、拳銃の出所については、確信を持てた。

    第二十三章 内側を指す証拠

     悠真は、翌朝、工藤のもとを訪れた。今度は、質問するためではなく、確認するためだった。

    「工藤さん。事件は、他殺ではなく、自殺未遂だった。そうですね」

     工藤は、悠真の目を、まっすぐに見た。

    「はい。捜査の初期段階から、その可能性は極めて高いと判断していました。現場の状況、弾道、密室状況――物的証拠のすべてが、自傷を示していました」

    「なぜ、僕に伝えなかったんですか」

    「ご家族の強い希望でした。あなたが記憶を失った状態で、いきなり『自分で自分を撃った』と告げることが、あなたの精神状態にどう影響するか、誰にも分かりませんでした。だから、私たちは待つことにしたんです。あなたが、自分自身の力で、そこにたどり着くのを」

    「待つことに、何の意味があったんですか。真実を隠すことに」

     工藤は、静かに首を振った。

    「隠していたのではありません。急がなかっただけです。真実には、受け止める準備が必要なときがあります」

    「密室について、最初からそう考えていたんですか」

    「はい。侵入経路がない以上、他殺は物理的に成立しません。ただし――」

     工藤は、一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。

    「ただし、我々は念のため、あなたの周辺人物すべての当夜のアリバイも確認しています。佐伯さん、江夏さん、柏木さん、笹岡さん。全員に、動かせないアリバイがありました」

    「知っていたんですね。僕が、彼らを疑って調べ回っていたことを」

    「ある程度は。ですが、止めませんでした。あなたが、自分の力で、外側から一人ずつ疑いを消していく過程が、必要だと思ったからです」

     その言葉に、悠真は目を見開いた。

    「あなたは、僕が遠回りをすることを、あえて許していたんですか」

    「遠回りではありません、北条さん」

     工藤の声は、静かだが、力強かった。

    「あなたは、誰も信じられなかった。だからこそ、一人ずつ、自分の目で確かめる必要があった。その過程を経なければ、最後に残った答え――自分自身が犯人であるという答え――を、あなたは受け入れられなかったはずです」

     悠真は、その言葉を、これまでのどの言葉よりも、深く受け止めた。

    第二十四章 敵ではなかった人たち

     実家に戻り、悠真は家族と向き合った。

    「みんな、知ってたんだね。僕が、自分で自分を撃ったこと」

     美咲は、涙を流しながら頷いた。

    「言えなかった。言えば、あなたがまた、同じことを考えるんじゃないかって、怖かった」

    「僕を止めようとしてたのは、僕を守るためだった?」

    「他に、理由なんてない」

     隆一が、静かに口を開いた。

    「お前が真犯人を探すと言い出したとき、俺たちは……お前がまた、自分を追い詰めるんじゃないかと、怖かった。お前が突き止める『真実』が、お前自身にとって、一番残酷なものだと知っていたから」

    「お父さん、その拳銃は」

     隆一は、深く目を閉じた。

    「俺のものだった。若い頃、どうしようもなく苦しかった時期に、護身用にと知人から譲り受けた。使うことはなかった。だが、捨てることも、できなかった。手放せば、あの苦しかった時期そのものを、なかったことにしてしまう気がして。ずっと、簞笥の奥にしまってあった」

    「その『知人』というのが」

    「今は、もう関係のない話だ。ただ、その人のおかげで、俺はその銃を、一度も使わずに済んだ。だから――」

     隆一の声が、初めて大きく震えた。

    「だから、まさかそれが、お前の手に渡って、こんな結果を招くとは、想像もしていなかった」

     悠真は、これまで「敵」だと思っていた人々の顔を、一人ずつ思い浮かべた。

     佐伯は、通報が遅れたことをずっと悔い続けていた。千鶴は、別れを告げられたことよりも、悠真を失いかけたことを恐れていた。柏木は、自分の指導が悠真を追い詰めたのではないかと苦しんでいた。笹岡は、悠真の優しさを踏みにじった過去を悔いていた。工藤は、真実を急がず、悠真が自分の力で辿り着くのを待っていた。蓮見は、医師としての職業倫理と、目の前の患者を守りたいという気持ちの間で、揺れ続けていた。

     誰も、敵ではなかった。

     誰もが、悠真を守ろうとしていた。それぞれの、不器用なやり方で。

    第二十五章 思い出す瞬間

     その夜、悠真は一人で、事件のあった自室に足を踏み入れた。もう何年も、意識的に避けてきた部屋だった。

     窓際に立ち、外を見た。夜景が、あの日と同じように広がっていた。

     悠真は、目を閉じた。

     記憶が、堰を切ったように流れ込んできた。

     仕事のノルマ、柏木からの叱責、深夜まで続く残業。千鶴との、自分から切り出した別れ話。誰にも本当のことを話せなかった、長い孤独。笹岡に金を貸したことすら、誰にも言わずにいた自分の性質。佐伯にかけた電話。「消えたい」と口にした瞬間の、乾いた解放感。

     そして――机の引き出しの奥にしまってあった、父の遺品の拳銃。

     悠真は、思い出した。自分の手で、それを取り出したこと。玄関の鍵を確かめ、窓の鍵を確かめたこと――誰にも邪魔されたくない、誰にも見つけてほしくない、そのどちらの気持ちも、同時に抱えていたこと。鏡の前に立ち、自分の顔を見つめたこと。引き金に指をかけたときの、震え。

     そして、母の足音が、階段を駆け上がってきた音。

     悠真は、涙を流しながら、その記憶のすべてを、受け止めた。

     次の瞬間、頭の中で、何かが静かに引いていくのを感じた。透明な定規と分度器が、少しずつ、輪郭を失っていく。天井の照明の角度も、壁の継ぎ目の間隔も、もう自動的には測られなかった。

     サヴァン症候群が、消えていく。

     悠真は、それを、失うことへの恐怖ではなく、むしろ深い安堵とともに受け入れた。


    (第三部・完 終章「照準」へ続く)


    終章 照準

    第二十六章 普通の朝

     目が覚めると、朝だった。

     悠真は、しばらく天井を見つめていた。白い天井。だが、以前のように、照明の角度も、天井材の継ぎ目の間隔も、勝手に測られることはなかった。

     ただの、天井だった。

     右手を持ち上げ、こめかみに触れてみる。傷跡は、もう痛まなかった。

     台所から、母の立てる物音が聞こえてきた。味噌汁の匂い。悠真は、その匂いだけで、涙が出そうになった。何でもない、普通の朝の匂い。

     居間に降りると、美咲と隆一が、いつものように食卓についていた。

    「おはよう」

     悠真がそう言うと、二人は驚いたように顔を上げた。それから、ゆっくりと、微笑んだ。

    「おはよう」

     その一言のやり取りが、これほど尊いものだと、悠真はこれまで一度も気づいていなかった。

     食事の間、悠真は自分の中の変化を、静かに確認していた。数字は、もう自動的には浮かんでこない。他人の表情の裏側も、以前ほど鮮明には読み取れない。恐怖という感情も、少しずつ、戻ってきているのが分かった。

     それは、喪失だった。だが同時に、悠真にとっては、取り戻すべきものでもあった。

    「悠真」

     隆一が、箸を置いて言った。

    「これから、どうしたい」

     悠真は、少し考えてから答えた。

    「もう一度、ちゃんと生きたい。今度は、一人で抱え込まないで」

     美咲の目に、涙が浮かんだ。だが今度は、それが何を意味する涙なのか、悠真にはちゃんと分かった。安堵と、喜びの涙だった。

    第二十七章 照準の先に

     数週間後、悠真は佐伯と、以前よく行っていた定食屋で向き合っていた。

    「あのとき、電話に出てくれて、ありがとう」

     悠真がそう言うと、佐伯は驚いた顔をした。

    「なんでお前が礼を言うんだよ。俺、もっと早く駆けつけるべきだったのに」

    「亮のせいじゃない。あの電話がなかったら、母が異変に気づくのも、もっと遅れてたかもしれない」

     佐伯は、しばらく黙ったあと、小さく笑った。

    「悠真、ちょっと変わったな」

    「そうか?」

    「前より、ちゃんと自分の気持ち、言葉にするようになった」

     悠真は、その言葉を、素直に嬉しく受け取った。

     千鶴とは、その後、友人として時々連絡を取り合うようになった。恋人には戻らなかったが、互いに、あの日々を「なかったこと」にはしなかった。

     笹岡とは、少しずつ、以前とは違う形の関係を築き直しつつある。借りていた金は、少しずつ、律儀に返済が続いている。

     柏木は、会社を辞めていた。人事部を通じて、悠真に一通の手紙が届いた。「自分の指導のあり方を、根本から見直すことにした」という、短い、しかし誠実な言葉が綴られていた。

     工藤とは、事件の正式な報告書が確定した日に、一度だけ会った。

    「北条さん。あなたが自分の力で、真実にたどり着いたこと、誇ってください」

    「工藤さんが、待っていてくれたからです」

     工藤は、珍しく、柔らかい表情を見せた。

    「密室の謎を、覚えていますか」

    「はい」

    「あれは、あなた自身が、誰にも邪魔されたくないという気持ちと、誰かに見つけてほしいという気持ちを、同時に抱えていた証拠でした。鍵をかけたのも、あなた自身の心の防衛だったのでしょう。密室とは、時に、犯人が自分自身の心を守るために作り出すものなのです」

     悠真は、その言葉を、静かに胸に刻んだ。

     蓮見の診察は、その後も定期的に続いた。ある日の診察で、蓮見はこう言った。

    「サヴァン症候群としての能力は、ほぼ完全に消失しています。医学的には、これは一般的な回復の経過です」

    「先生、僕、あの能力を失って、寂しいと思ってないんです。むしろ、ほっとしてる」

    「なぜですか」

    「あの目で世界を見ていたとき、僕は、誰も信じられなかった。全員が、敵に見えた。でも今は、ちゃんと、人の優しさが、優しさとして見えるから」

     蓮見は、静かに頷いた。

    「それは、能力よりも、ずっと大切なものかもしれませんね」

    エピローグ 命は、自分だけのものではない

     半年後の、ある晴れた日。悠真は、実家の庭で、隆一と並んで木を植えていた。事件の日から、ずっと空いたままだった花壇の隅に。

    「この木、何年後に花が咲くんだ」

    「三年後くらいって、店の人が言ってた」

    「じゃあ、その頃には、一緒に見れるな」

     隆一の言葉に、悠真は頷いた。三年後という未来を、当たり前のように語り合えることが、どれほど貴重なことか、今の悠真には、痛いほど分かっていた。

     土をならしながら、悠真は、ふと空を見上げた。雲の形も、光の角度も、もう自動的には測られない。ただ、ありのままの、美しい空だった。

     あの日、自分は確かに、命を手放そうとした。そして、その瞬間、自分では気づかないうちに、多くの人の人生を、大きく変えてしまった。母の眠れない夜。父の抱え続けた後悔。佐伯の自責。千鶴の涙。柏木の懺悔。笹岡の負い目。工藤の忍耐。蓮見の葛藤。

     もし、あの瞬間、ほんの少し結果が違っていたら――今、ここに、この庭に、自分はいなかった。そして、この人たちの人生は、悠真がいない世界のまま、ずっと続いていったはずだった。

     命は、自分一人のものではない。

     それは、決して重い義務としてではなく、悠真の中に、静かで温かい実感として、根を張っていた。

    「悠真、飯できたって」

     美咲の声が、家の中から聞こえた。

    「今行く」

     悠真は、立ち上がり、土のついた手を払った。隆一と並んで、家へと向かう。振り返ると、植えたばかりの若い木が、風に小さく揺れていた。

     三年後、この木には花が咲くだろう。

     その花を見上げる自分を、悠真は初めて、ためらいなく思い描くことができた。

    (完)


    著者ノート

     この物語は、フィクションです。自傷行為等を推奨するものではありません。

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