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Photo byhappy_recipes

美しいものを失った、だから美しいものを見る

    恋愛小説となります。


    あらすじ

    自分の顔と才能に絶対の自信を持つ大学生・相沢蓮は、本当は誰かに心から愛されたかった。しかし近づいてくる女性たちは、皆、蓮の容姿や肩書きだけを求めていた。満たされない渇望を抱えたまま遊びを重ねていたある夜、過去に傷つけた女性の恋人に殴打され、転倒した衝撃で両目の視力を失う。すべての関係を失い絶望する蓮を、幼なじみの佐伯美咲だけが支え続けた。衝突を重ねながらも互いの本心と向き合い、蓮は加害者へ謝罪に赴くが、拒絶される。それでも美咲の腕の中で、蓮は初めて本当の温もりを知る。


    第一章 鏡の中の男

    蓮

    相沢蓮は、自分の顔が好きだった。

    それは単なる自己愛ではなく、もっと確信に近いものだった。鏡を見るたびに、そこに映る輪郭の整い方、目鼻立ちのバランス、笑った時にできる片頬のえくぼまで、すべてが計算されたように美しいと感じていた。実際、誰に言われるまでもなく、それは事実だった。すれ違う女性が二度見をする。サークルの新歓で、先輩が「今年の当たり」と耳打ちする。マッチングアプリのプロフィール写真には、いいねが絶え間なく届いた。

    大学二年生。経済学部。身長は百八十二センチ。整った輪郭に、少し垂れ気味の二重。特に目元には自信があった。誰かと目が合うと、相手が一瞬だけ動揺するのがわかる。その瞬間の優越感を、蓮は心のどこかで楽しんでいた。

    蓮にとって、恋愛は獲得すべきゲームの一種だった。

    相手を口説き、付き合い、そして飽きる。そのサイクルを、蓮は何度も繰り返してきた。サークルの後輩、バイト先の同僚、マッチングアプリで知り合った社会人女性。誰と付き合っても、長くは続かなかった。理由はいつも同じだった。相手が本気になればなるほど、蓮の心は冷めていった。

    本気で人を好きになったことは、一度もなかった。

    ただ、自分を好いてくれる相手と、楽しい時間を過ごしていただけだった。それで十分だと思っていた。恋愛とは消費されるものであり、消費するものだった。傷つく側は常に相手で、自分が傷つくことなど想像したこともなかった。

    幼なじみの佐伯美咲は、そんな蓮を昔から知っていた。

    幼稚園の頃から同じ町内に住み、小学校、中学校と、ずっと近くにいた。高校だけは別々だったが、大学はまた同じ都内に進学した。美咲は蓮の女遊びを、苦々しい顔で見つめ続けていた。

    「いつか痛い目見るよ」

    美咲は、蓮が新しい彼女の話をするたびにそう言った。呆れと心配が混じった、独特の声色だった。

    「俺が?」蓮は笑った。

    「そう」

    「大丈夫だって。俺、嫌われたことないし」

    「それが怖いんだよ」

    美咲の言葉の意味を、蓮はその時、まったく理解していなかった。何の根拠もなく、自分は大丈夫だと信じていた。容姿があれば人生はうまくいく。それが蓮の、疑うことのない真理だった。


    美咲

    佐伯美咲は、蓮のことを誰よりも長く見てきた人間だった。

    物心ついた頃から、蓮はいつも輪の中心にいた。幼稚園の頃から、女の子に「蓮くん」と名前を呼ばれる回数が、他の男の子の何倍も多かった。それは小学校に上がっても、中学校に進学しても変わらなかった。蓮は何もしなくても人に好かれる人間だった。

    美咲はその逆だった。

    地味で、目立たず、特別な美点もない。蓮の隣にいると、いつも「蓮くんの友達」として扱われた。それが嫌だったわけではない。ただ、自分という人間が、蓮というまばゆい存在の付属物のように見られることに、子供の頃から薄い違和感を抱いていた。

    中学二年の冬、美咲は自分の気持ちに気づいた。

    きっかけは些細なことだった。雪の降る帰り道、蓮が美咲のマフラーを直してくれた。それだけのことだった。蓮にとっては何の意味もない、無意識の優しさだったに違いない。しかし美咲の心臓は、その瞬間から長い時間、静かに高鳴り続けることになった。

    告白する勇気は、ついに出なかった。

    蓮の周りには、いつも誰かがいた。美咲よりも華やかで、美咲よりも積極的な女の子たちが、次々と蓮の隣を通り過ぎていった。美咲はその様子を、友人という立場から見つめ続けるしかなかった。

    高校が別になった時、美咲は密かに安堵していた。蓮の恋愛模様を、もう近くで見なくて済む。そう思っていた。しかし結局、大学でまた同じ場所に戻ってきた。蓮は変わらず、誰とでも軽やかに付き合い、軽やかに別れていた。

    「いつか痛い目見るよ」

    美咲がそう言うたび、蓮は笑って取り合わなかった。

    美咲はその言葉の中に、半分は本気の忠告を、もう半分は密かな願いを込めていた。痛い目を見て、誰かを本気で大切にすることを覚えてほしい。そう思う一方で、自分のその願いが、どこかいやらしいものに思えて、いつも自己嫌悪に陥った。

    人を愛するということは、こんなにも報われないものなのか。美咲はずっと、その問いを抱えたまま、蓮の隣を歩いていた。


    第二章 女たちの記憶

    蓮

    蓮の恋愛遍歴の中には、いくつかの「事件」と呼べるものがあった。

    最初のそれは、高校三年の夏だった。相手は同級生の七瀬という女子だった。明るく、活発で、誰からも好かれる性格だった。蓮はその七瀬と三ヶ月ほど付き合った。最初は楽しかった。しかし夏休みが終わる頃、蓮は飽きていた。

    「最近、冷たくない?」七瀬が聞いた時、蓮はとぼけた。

    「そんなことないよ」

    嘘だった。蓮はすでに、別の女の子に興味を移していた。最終的に、蓮は七瀬に何の説明もなく連絡を絶った。いわゆる「フェードアウト」というやつだった。七瀬がどれほど傷ついたか、蓮は知らない。知ろうともしなかった。

    二つ目の事件は、大学一年の冬だった。サークルの先輩である理沙という女性と関係を持った。理沙には当時、付き合っている恋人がいた。蓮はそれを知っていながら、理沙に言い寄った。理沙の方も、蓮の魅力に抗えなかった。二人の関係は二ヶ月ほど続いた末、理沙の恋人に発覚した。

    修羅場になった。理沙は泣きながら蓮に縋った。「ちゃんと別れるから、待ってて」と。蓮は曖昧に頷いたが、内心ではすでに興味を失っていた。理沙が本当の恋人と別れた頃には、蓮は理沙からも逃げるように去っていた。

    三つ目の事件は、大学二年の春だった。マッチングアプリで知り合った社会人女性、香織との関係だった。香織は蓮より五歳年上で、落ち着いた大人の女性だった。蓮にとっては、それまでとは違う種類の刺激があった。

    香織との関係は、蓮の恋愛の中で最も「大人」なものだった。ホテルでの密会、深夜の連絡、束の間の高揚感。蓮はその関係に、ある種の優越感を覚えていた。年上の、社会的地位もある女性を手玉に取っている。そういう感覚が、蓮の自尊心をさらに肥大させた。

    しかし結局、これも長くは続かなかった。香織が本気になり始めた頃、蓮は別の女の子に目移りしていた。香織との最後の会話を、蓮はよく覚えていない。それくらい、蓮にとってはどうでもいいことだった。

    そして、最後の事件——蓮の人生を決定的に変えることになる事件が、起きたのは大学二年の秋だった。

    相手は、同じ大学の別学部に通う、結衣という女性だった。

    結衣との出会いは、合コンだった。蓮は最初、いつものように軽い気持ちで結衣に近づいた。しかし結衣には恋人がいた。それを知った上で、蓮はあえて結衣を口説いた。禁断の関係には、独特の興奮があると、蓮は経験から知っていた。

    結衣は最初、戸惑っていた。「彼氏がいるから」と何度も断った。しかし蓮は粘り強く、巧みに距離を詰めた。結衣の恋人への不満を聞き出し、自分がいかに彼女を理解しているかを演出した。それは蓮にとって、ただのゲームの延長だった。

    結衣は最終的に、蓮に靡いた。

    二人の関係は、三週間ほど続いた。結衣の恋人に隠れて会う、背徳的な逢瀬だった。蓮はその刺激を楽しんでいたが、本気で結衣を好きになることはなかった。いつものように、飽きが来るまでの遊びだった。

    蓮が結衣との関係を一方的に終わらせたのは、十月の初めだった。「もう会わない方がいいと思う」とだけ告げて、蓮はその関係を切った。結衣がどれほど傷ついたか、その後どうなったか、蓮は深く考えなかった。

    それが、蓮にとって最後から二番目の「楽しい思い出」だった。

    そしてその一ヶ月後、蓮は自分の人生を一変させる代償を払うことになる。


    美咲

    美咲は、蓮の恋愛遍歴のすべてを、間近で見てきたわけではない。しかし噂や、蓮自身がぽろっと漏らす話の断片から、ある程度のことは知っていた。

    七瀬のこと、理沙のこと、香織のこと。美咲はそのたびに、胸の奥が締め付けられるような痛みを感じていた。蓮が誰かと付き合うたび、その相手を妬む自分がいた。同時に、蓮がその相手を簡単に切り捨てるたび、いつか自分も同じように扱われるのだろうと、密かに覚悟していた。

    それでも、美咲は蓮のそばを離れなかった。

    「いつか痛い目見るよ」

    その言葉を繰り返すたび、美咲は自分自身にも言い聞かせていた。いつか、蓮が誰かを本気で傷つけて、自分自身も深く傷つく日が来るかもしれない。その時、自分はどうするのだろう。それでも蓮のそばにいるのだろうか。

    美咲には、その答えがすでにわかっていた。

    どれだけ蓮が誰かを傷つけても、どれだけ蓮が美咲の気持ちに気づかなくても、美咲は蓮のそばを離れることができなかった。それは諦めとも違う、もっと深いところに根を張った感情だった。

    大学二年の秋、美咲は結衣という女性の存在を、風の噂で耳にした。蓮がまた誰かと、しかも恋人持ちの女性と関係を持っているらしい。美咲はその話を聞いた時、いつものように胸が痛んだ。しかし同時に、ある予感もあった。

    このままでは、いつか取り返しのつかないことが起きるのではないか。

    その予感は、一ヶ月後に的中することになる。


    第三章 満たされない夜

    蓮

    蓮には、誰にも話したことのない感覚があった。

    女性たちと関係を持つたび、蓮の体は満たされた。それは事実だった。性欲は人並み以上にあったし、肌を重ねる行為そのものは、いつも純粋に楽しかった。相手の吐息、体温、自分を求める声。それらすべてが、蓮の自尊心を満たし、一時の快楽を与えてくれた。

    しかし、行為が終わった後の静寂の中で、蓮はいつも、説明のつかない物足りなさを感じていた。

    七瀬と過ごした夜も、理沙と過ごした夜も、香織と過ごした夜も、結衣と過ごした夜も、同じだった。隣で眠る相手の寝顔を見つめながら、蓮の胸の奥には、満たされたはずなのに、どこか空洞のような感覚が残り続けていた。

    蓮自身、その感覚の正体を、長い間理解できずにいた。

    ある夜、香織と関係を持った後のことだった。香織は満足げに眠りについていた。蓮はベッドの中で、天井を見つめながら、ふと自問していた。

    俺は今、幸せなのか。

    答えは出なかった。体は満たされている。しかし心のどこかが、いつも乾いていた。

    蓮に近づいてくる女性たちは、皆、蓮の「何か」を求めていた。整った顔。優れた身体。周囲からの羨望を集める存在としての価値。蓮と一緒にいることで得られる、ある種のステータス。それらを求めて、女性たちは蓮に近づいてきた。

    蓮自身も、そのことに薄々気づいていた。

    理沙は、蓮という存在を通して、退屈な恋人との関係に刺激を求めていた。香織は、年下の美しい男を侍らせることで、自分の魅力を確認したかった。結衣も、きっと似たようなものだった。誰も、相沢蓮という人間そのものを見ていたわけではなかった。

    蓮もまた、誰のことも本当の意味では見ていなかった。互いに、互いの欲しいものだけを交換し合う。それが、蓮にとっての「恋愛」だった。

    それでも、蓮の心の奥底には、ずっと違う願いがあった。

    誰かに、ただの「相沢蓮」として愛されたい。

    容姿でも、ステータスでもなく、ただ自分という人間そのものを、必要としてくれる誰かが欲しかった。しかしその願いを、蓮は誰にも打ち明けたことがなかった。打ち明ける方法すら、わからなかった。

    代わりに蓮は、近づいてくる女性を、片っ端から受け入れた。

    それは、貪欲な遊び人の振る舞いに見えた。実際、周囲からはそう見られていたし、蓮自身も、そう振る舞うことを選んでいた。しかしその行動の根底にあったのは、満たされない渇望だった。

    誰か一人でいいから、自分の外見ではなく、自分という存在を見てくれる人がいないか。蓮は、無意識のうちに、その答えを探し続けていた。手当たり次第に女性と関係を持つことは、蓮にとって、その答えを見つけるための、不器用で、間違った方法だった。

    しかし誰と関係を持っても、答えは見つからなかった。

    相手が変わるたび、蓮は密かに期待していた。今度こそ、自分という人間そのものを見てくれる相手かもしれない、と。しかし関係が深まるにつれ、いつも同じ結末が待っていた。相手が求めているのは、蓮の外見であり、蓮がもたらす快楽であり、蓮という記号だった。

    蓮自身であることは、いつも置き去りにされた。

    その失望を繰り返すたび、蓮の中で、何かが少しずつ麻痺していった。期待することをやめれば、失望することもない。蓮は次第に、相手に何かを求めること自体をやめるようになった。ただ、求められるままに応じる。それが、蓮にとって最も楽な生き方になっていった。

    本気で誰かを好きになったことがない、と蓮は自分自身に言い聞かせていた。

    しかしそれは、半分は嘘だった。

    本当は、誰かを本気で好きになりたかった。誰かに、本気で必要とされたかった。ただ、その願いが叶わないことに、蓮はとうの昔に絶望していた。絶望を隠すために、蓮は「恋愛はゲームだ」という仮面を被り続けた。

    美咲だけが、その仮面の下にある蓮の本心に、薄々気づいていたのかもしれない。

    「いつか痛い目見るよ」

    美咲がそう言うたび、蓮はその言葉の裏に、何か別の意味が隠されている気がしていた。しかしその意味を、蓮は深く考えようとはしなかった。考えてしまえば、自分の渇望と、正面から向き合わなければならなくなる。それが、蓮にとっては何よりも恐ろしいことだった。

    事件によって、蓮はすべてを失った。

    しかし皮肉なことに、すべてを失って初めて、蓮は自分の本当の願いと向き合わざるを得なくなった。容姿という武器を失った今、もう誰も、蓮の外見だけを目当てに近づいてくることはなかった。それは残酷な現実だった。同時に、ある意味では、蓮が長年求めてきた状況でもあった。

    外見という装飾を剥ぎ取られた、ただの相沢蓮。

    その自分を、それでも大切に思ってくれる人間がいるのかどうか。蓮は、生まれて初めて、その問いの答えを知ることになる。


    美咲

    美咲は、蓮の中にある渇望に、誰よりも早く気づいていた一人だった。

    子供の頃から蓮を見てきた美咲には、蓮が周囲に見せる軽薄な態度の裏に、何か満たされない寂しさが隠れていることが、ずっと感じ取れていた。

    それは、具体的な根拠があったわけではない。ただ、蓮が新しい彼女の話を、どこか機械的に、感情の伴わない口調で語ることに、美咲は違和感を覚え続けていた。本当に誰かを好きになっている人間の口調ではなかった。むしろ、何かを埋めようとして、必死にもがいているような、そんな印象を受けることがあった。

    美咲は、蓮が本当に求めているものが、肉体的な快楽でも、周囲からの羨望でもないことを、なんとなく理解していた。蓮が本当に欲しがっていたのは、もっと単純で、もっと根源的なものだった。

    ただ、ありのままの自分を、愛してくれる誰か。

    美咲はそれを、ずっと自分が与えられる存在になりたいと願ってきた。しかし蓮の隣には、いつも誰かがいた。美咲がその役割を担う機会は、長い間、訪れなかった。

    事件が起きた時、美咲は悲しみと同時に、複雑な予感を抱いていた。これから蓮は、自分の本当の渇望と、向き合わざるを得なくなるのではないか。そしてその先に、ようやく自分の出番が訪れるのではないか。

    その予感は、結果として的中することになった。


    第四章 夜の路地

    蓮

    その夜、蓮は友人たちとの飲み会に参加していた。

    大学近くの居酒屋で、サークル仲間五人と酒を飲んでいた。話題はいつも通り他愛のないもので、誰それが誰と付き合った、別れた、そういう噂話が中心だった。蓮は機嫌よく酒を飲み、笑い、いつものように場の中心にいた。

    「蓮、最近彼女できないの?」誰かが聞いた。

    「別にいらないかな、今は」蓮は適当に答えた。

    その時、蓮の頭の片隅にあったのは、結衣のことではなかった。結衣との関係はもう一ヶ月近く前に終わっていた。蓮にとってはすでに過去の出来事であり、考える対象ですらなかった。

    午後十一時過ぎ、飲み会はお開きになった。蓮は一人で、アパートまでの道を歩いていた。酔いが心地よく回り、足取りは軽かった。普段なら通らない裏路地を、近道のつもりで選んだ。

    街灯の少ない、人気のない道だった。

    その時、背後から声がした。

    「相沢蓮」

    低く、抑揚のない声だった。蓮は何の警戒もなく振り返った。誰かに名前を呼ばれること自体、蓮にとっては日常の出来事だった。

    振り返った瞬間だった。

    拳が、顔面を捉えた。

    衝撃で視界が揺れた。蓮はよろめき、アスファルトに倒れ込んだ。男はそれだけでは終わらなかった。馬乗りになり、何度も何度も、蓮の顔を殴りつけた。

    最初は痛みより、何が起きているのかという混乱の方が強かった。しかし殴打が続くうちに、蓮の意識は急速に薄れていった。鼻が折れる感触。唇が裂ける感触。そして、頭が地面に打ち付けられる、鈍い衝撃。

    「俺の彼女に手を出した報いだ」

    遠ざかっていく足音と、男の声だけが聞こえた。その声には、怒りというより、ある種の冷たい満足感のようなものが滲んでいた。蓮の意識は、その言葉を最後に途切れた。


    蓮が次に意識を取り戻したのは、病院のベッドの上だった。

    全身が包帯に覆われていた。特に顔は、目以外のほとんどが覆われていた。耳元で機械音が規則正しく鳴っていた。意識が朦朧とする中、誰かが自分の名前を呼んでいるのが聞こえた。母親の声だった。

    「蓮! 蓮、聞こえる?」

    蓮は何かを答えようとしたが、言葉にならなかった。喉が異様に渇いていた。それ以上に、顔全体が鈍く、重く痛んだ。

    医師が現れ、何かを説明し始めた。蓮の耳には、その内容がほとんど入ってこなかった。「頭部への複数回の打撃」「眼窩底骨折」「両側の視神経損傷」「視力の回復は極めて困難」。断片的な単語だけが、頭の中で散らばっていった。

    殴られた拍子に倒れ、後頭部を縁石に強く打ち付けたこと。その衝撃が、視神経にまで及んだこと。医師は淡々と、しかし慎重に言葉を選びながら説明した。「当たり所が、悪かったとしか言いようがありません」と。

    それは、誰かを恨むことすら難しい、ただの偶然の結果だった。男が振るった拳の角度、倒れた拍子の体勢、地面の硬さ。そのすべてが、最悪の形で重なった結果、蓮は両目の視力を完全に失うことになった。

    蓮が最初に発した言葉は、たった一つだった。

    「鏡」

    母親が驚いた顔をした。

    「今は、まだ早いから——」

    「鏡を見せて」

    「蓮、お願いだから——」

    「見せてくれよ!」

    蓮は叫んだ。包帯に覆われた喉から絞り出すような声だった。看護師が止めに入ったが、蓮の必死さに、最終的には誰も逆らえなかった。

    小さな手鏡が、蓮の前に差し出された。

    蓮は震える手でそれを受け取り、顔に近づけた。

    しかし、何も見えなかった。

    蓮はその時初めて、自分がもう二度と、自分の顔を見ることができないのだと理解した。鏡という物自体が、もう自分にとって何の意味も持たない。そのことの方が、視力を失ったという事実よりも、ずっと重く蓮の心にのしかかった。

    母親が、蓮の代わりに鏡を覗き込み、小さく息を呑んだ。

    蓮の顔は腫れ上がり、両目の周りには深い痣が広がっていた。鼻は不自然な形に歪み、唇には縫合の跡があった。それは、蓮がこれまで鏡で見てきた、自信に満ちた美しい顔とは、似ても似つかないものだった。しかし蓮自身は、その変わり果てた顔を、もう二度と自分の目で確認することができなかった。

    蓮は鏡を持ったまま、長い間動かなかった。

    そして、無言で鏡を床に叩きつけた。

    ガラスが砕け散る音だけが、病室に響いた。誰も何も言わなかった。母親が涙を流していた。蓮はただ、何も映らない目で、天井があるはずの方向を見つめていた。


    美咲

    蓮が襲われたという知らせを、美咲は事件の翌日、共通の友人から聞いた。

    最初は冗談かと思った。しかし友人の声色は真剣そのもので、すぐに事態の深刻さを理解した。美咲は授業を抜け出し、教えられた病院へ駆けつけた。

    病室の前には、蓮の母親が憔悴した様子で座っていた。美咲を見ると、母親は涙を堪えながら状況を説明した。顔を何度も殴られたこと。倒れた際に頭を強く打ち、その衝撃で両目とも視力を失ったこと。回復の見込みは、ほとんどないこと。

    美咲は言葉を失った。

    頭の中が真っ白になった。これまで何度も「いつか痛い目見るよ」と口にしてきたが、その言葉が、まさかこんな形で現実になるとは、想像すらしていなかった。

    「会ってもいいですか」美咲は震える声で聞いた。

    母親は少し迷ってから、頷いた。

    病室に入ると、ベッドの上に横たわる蓮の姿があった。顔の大部分が包帯で覆われていた。普段なら誰よりも輝いて見える蓮が、今は包帯の隙間からわずかに覗く肌すら、痛々しく見えた。

    「蓮」

    美咲が呼びかけても、蓮は反応しなかった。眠っているのか、それとも誰とも話したくないのか、判断がつかなかった。美咲はしばらく、ベッドの脇に座って、蓮の手をそっと握った。

    冷たかった。

    普段の蓮の手は、いつも温かかった。今、美咲の手の中にあるのは、まるで知らない人の手のように感じられた。

    その日、蓮は最後まで目を開けなかった。美咲は何も言わずに、ただその場に座り続けた。

    帰り道、美咲は涙が止まらなかった。蓮を襲った男への怒りもあった。しかしそれ以上に、これから蓮が背負っていくであろう苦しみを想像すると、胸が張り裂けそうだった。

    美咲は、自分にできることなど何もないと知っていた。それでも、何かをせずにはいられなかった。


    第五章 閉じこもる男

    蓮

    退院後、蓮の人生は一変した。

    正確には、人生が終わったように思えた。

    両目とも、完全に光を失った。義眼を両方とも入れることになった。顔の腫れが引いた後も、鼻には軽い変形が残り、唇にはかすかな縫合の跡が残った。視覚そのものを失ったという事実は、皮膚の傷跡よりもずっと根源的に、蓮の世界を変えてしまった。

    退院した日、蓮は自分のアパートに戻ると、すぐにすべてのカーテンを閉めた。電気もつけなかった。暗闇の中でベッドに横たわり、何時間も天井——もう、ほとんど見えていない天井——を見つめていた。

    スマートフォンには、最初の数日こそ何件かの「大丈夫?」というメッセージが届いた。しかし蓮は誰にも返信しなかった。やがてメッセージは途絶えた。

    サークルの仲間からの連絡も、徐々に減っていった。最初は心配する声が多かったが、蓮が誰にも会おうとしないことが伝わると、連絡そのものが来なくなった。

    女性たちとの関係も、自然消滅していった。蓮と関係を持っていた誰一人として、見舞いに来ることはなかった。当然だった。蓮にとって彼女たちは、本気で愛した相手ではなかった。それは相手にとっても同じことだったのかもしれない。蓮はそのことに、今さらながら気づき始めていた。

    大学にも行かなくなった。

    留年が決まるであろうことも、蓮にとってはもはやどうでもよかった。将来のことなど、考える気力すら湧かなかった。

    毎日が同じだった。

    朝、目が覚める。正確には、眠りと覚醒の境界が曖昧なまま、ただ時間が過ぎていく。スマートフォンを手に取り、何も映らない画面に向かって、虚しく指を滑らせる。何をするでもなく、ただ画面から伝わる振動だけを感じている。やがてまた眠る。起きる。また眠る。

    食事もほとんど取らなかった。冷蔵庫の中は空になっていったが、買い物に行く気力もなかった。

    鏡は、退院した日にすべて部屋から取り除いた。母親に頼んで、洗面所の鏡にも布をかけてもらった。自分の顔を見ることが、何よりも恐ろしかった。

    そんな蓮の部屋に、それでも訪れる人物が一人だけいた。

    美咲だった。


    美咲

    美咲は、毎週欠かさず蓮のアパートを訪れた。

    最初の数回、蓮はドアすら開けなかった。インターホンを鳴らしても反応がなく、美咲は合鍵——子供の頃から預かっていた、緊急時用の鍵——を使って中に入った。

    部屋は薄暗く、カーテンが固く閉ざされていた。空気はよどみ、生活の匂いというより、停滞した時間の匂いがした。ベッドの上には、蓮が横たわっていた。

    「ご飯作ったよ」

    美咲はそう言って、持ってきた弁当箱をテーブルに置いた。

    「いらない」

    蓮の声は掠れていた。久しぶりに聞く声だった。

    「冷蔵庫に入れておくね」

    美咲はそれだけ言って、台所に立った。蓮の返事を待たなかった。返事がないことには、もう慣れていた。

    翌週も、美咲は同じように訪れた。手料理を作り、冷蔵庫に入れ、何も言わずに帰った。蓮は相変わらず反応を示さなかったが、美咲が帰った後、前回入れた弁当箱が空になっていることに気づいた。

    それが続いた。

    翌月も、その翌月も、美咲は通い続けた。雨の日も、テストで忙しい時期も、欠かすことはなかった。蓮との間に、特別な会話はほとんどなかった。それでも美咲は、週に一度、必ず蓮の部屋を訪れた。

    友人たちには、その行動を理解されないこともあった。

    「もう疲れない? 蓮くん、何も返してくれないんでしょ」

    そう聞かれるたび、美咲は曖昧に笑って答えなかった。疲れていないと言えば嘘になる。蓮の冷たい反応に、何度も心が折れそうになった。それでも足は、自然と蓮のアパートへ向かっていた。

    理由を、美咲は自分でも完全には説明できなかった。ただ、蓮をこのまま一人にしておくことが、どうしてもできなかった。それが、長年抱え続けてきた感情のためなのか、それとも単純な友情のためなのか、美咲自身、判別がつかなくなっていた。

    ある日、美咲がいつものように弁当を置いて帰ろうとした時、蓮が突然、苛立った声を上げた。

    「なんで来るんだよ!」

    美咲は驚いて立ち止まった。蓮がこれほどはっきりと感情をぶつけてきたのは、事件以来初めてのことだった。

    「何度来たって、俺はもう——」蓮の声が震えていた。「こんな顔じゃ、何も意味ないだろ。お前まで、俺を見て同情してるだけだろ」

    美咲は、しばらく黙っていた。

    怒っているわけではなかった。むしろ、蓮がようやく感情をさらけ出したことに、どこか安堵すら覚えていた。

    「心配だから」美咲は静かに言った。

    「俺の何を心配するんだよ」蓮の声には、自嘲が滲んでいた。「顔も潰れて、目も見えなくて、誰にも相手にされない人間の、何が心配なんだよ」

    美咲はベッドに近づき、蓮の目の高さに視線を合わせた。蓮には、はっきりとは見えていなかったかもしれない。それでも美咲は、まっすぐに蓮を見て言った。

    「蓮だから」

    それだけだった。多くを語る言葉ではなかった。しかしその言葉は、蓮の中に、妙な重みを持って残った。

    第六章 少しずつの会話

    蓮

    「なんで来るんだよ」と叫んだ夜以降、蓮の中で何かが少しずつ変わり始めた。

    美咲が来るたび、蓮は最初こそぶっきらぼうな態度を崩さなかった。しかし「いらない」とだけ言っていた会話が、次第に長くなっていった。

    「今日、何作ったの」

    蓮がそう尋ねた日のことを、蓮自身もはっきり覚えている。それは、事件から二ヶ月ほど経った、ある雨の日のことだった。

    「肉じゃが」美咲は答えた。「蓮、好きだったでしょ」

    「覚えてんだ、そんなこと」

    「忘れるわけないでしょ。中学の時、お弁当に入ってると喜んでたじゃん」

    蓮は何も言わなかった。記憶の中の自分が、今の自分とあまりにもかけ離れていることに、奇妙な感覚を覚えていた。あの頃の自分は、世界のすべてが自分に味方していると、根拠もなく信じていた。

    その日、蓮は初めて、美咲が作った肉じゃがを、一緒に食べる気になった。

    味覚は、視覚と違って失われていなかった。久しぶりに口にする家庭的な味が、蓮の中で何かを溶かしていくようだった。

    「美味い」

    蓮がぽつりと漏らした一言に、美咲は驚いた顔をした。それから、嬉しそうに微笑んだ。蓮にはその表情がはっきりとは見えなかった。それでも、声の調子から、美咲が喜んでいることは伝わった。

    それから、二人の間に少しずつ会話が増えていった。

    天気のこと。大学の噂話。美咲が読んでいる本のこと。他愛のない話題ばかりだったが、蓮にとっては、それが久しぶりに感じる「日常」だった。

    ある日、美咲が言った。

    「少し、散歩しない?」

    蓮は最初、躊躇した。外に出ることが怖かった。自分の傷ついた顔を、誰かに見られることが恐ろしかった。

    「無理だよ」蓮は俯いた。「外なんて」

    「マスクすればいいよ」美咲は淡々と言った。「夜なら、人も少ないし」

    蓮はしばらく黙っていた。しかし美咲の声には、無理強いするような響きはなかった。ただ、提案しているだけだった。

    その夜、蓮は初めて、事件以来部屋の外に出た。

    マスクをつけ、フードを目深に被り、美咲の隣を歩いた。何も見えなかったが、夜の空気の冷たさ、街灯があるはずの方向からのかすかな熱、美咲の足音が、不思議と心地よかった。

    「気持ちいいね」美咲が言った。

    蓮は答えなかった。しかし、心の中では同意していた。

    それから、散歩は少しずつ習慣になっていった。週に一度の美咲の訪問が、いつしか週に二度、三度と増えていった。蓮はまだ大学には戻らなかったが、外の世界との接点を、少しずつ取り戻し始めていた。


    美咲

    蓮が少しずつ変わっていく様子を、美咲は誰よりも近くで見守っていた。

    最初に肉じゃがを「美味い」と言った日、美咲は部屋を出た後、人目のないところで泣いた。それは悲しみの涙ではなく、安堵の涙だった。蓮の中にまだ、感情を取り戻す力が残っている。そのことが、何よりも嬉しかった。

    美咲は、蓮に対して何かを求めるつもりはなかった。

    説教もしない。同情もしない。それが、美咲が自分自身に課したルールだった。蓮が必要としているのは、憐れみではない。ただ、隣に誰かがいるという事実だけだと、美咲は理解していた。

    それでも、美咲の心の中には、複雑な感情が渦巻いていた。

    蓮を支えながら、美咲はずっと、自分のこれまでの片想いの歴史を振り返っていた。中学の頃から数えれば、もう七年近く、美咲は蓮を想い続けてきた。その間、蓮が誰かと付き合うたび、傷つき、それでも近くにいることを選んできた。

    今、蓮が事件によって、すべての関係を失った。それは皮肉なことに、美咲にとっては、初めて蓮に「必要とされる」機会でもあった。その事実に対して、美咲は罪悪感に近いものを感じることがあった。

    蓮の不幸を喜んでいるわけではない。それでも、蓮の隣に自分以外の誰もいなくなった今、自分だけが特別な存在になれているという感覚を、完全に否定することはできなかった。

    その複雑な感情を、美咲は誰にも話さなかった。ただ、毎週欠かさず蓮のもとへ通い続けた。

    散歩を提案した夜、美咲は内心、緊張していた。蓮が拒否するかもしれないと思っていた。しかし蓮は、迷いながらも外へ出ることを選んだ。その瞬間、美咲は確かな手応えを感じた。

    蓮が変わり始めている。

    それは美咲にとって、何よりの希望だった。


    第七章 夜の告白

    蓮

    事件から半年が経つ頃には、蓮は大学に戻る決意を固めていた。

    復学の手続きを進める中で、蓮は美咲に多くを相談するようになっていた。授業のこと、単位のこと、周囲にどう説明するか。蓮にとって美咲は、いつしか唯一の話し相手になっていた。

    ある夜、蓮と美咲は、蓮の部屋で並んでソファに座っていた。窓の外では雨が降っていた。静かな雨音だけが、部屋を満たしていた。

    「俺、最低な人間だったな」

    蓮が、ぽつりと漏らした言葉だった。

    美咲は黙って聞いていた。

    「人の気持ちなんて、考えたこともなかった」蓮は続けた。「付き合った相手のこと、好きだって思ったことすら、本当はなかったのかもしれない。ただ、好かれることが気持ちよかっただけで」

    「うん」美咲は短く相槌を打った。

    「傷つけた奴もいたと思う。たくさん」

    蓮の脳裏に、七瀬の顔、理沙の顔、香織の顔、そして結衣の顔が浮かんでは消えた。彼女たちが、自分との関係でどれほど傷ついたか、蓮はようやく想像できるようになっていた。それは、自分自身が深く傷ついたことで、初めて理解できた痛みだった。

    美咲は小さく頷いた。

    それが、蓮にとって初めての経験だった。誰かのために泣いたのも、誰かのために後悔したのも、生まれて初めてのことだった。蓮の、光を失った両目から、涙がこぼれた。義眼の縁からも、まだ完治しきっていない瞼の傷跡の周りからも、涙が滲んだ。

    美咲は何も言わず、ただ蓮の隣にいた。

    数日後、蓮は決意したように言った。

    「謝りに行こうと思う」

    「あの人に?」美咲が尋ねた。誰のことを指しているのか、すぐにわかったようだった。

    「うん」蓮は頷いた。「結衣さんに。あと、理沙さんにも。七瀬にも」

    「許してもらえなくても?」

    「うん。許してもらえなくても」

    美咲はしばらく考え込んでいた。蓮にとって、その沈黙は長く感じられた。

    そして美咲は、静かに首を振った。

    「行かなくていい」

    蓮は驚いた。美咲が、自分の決意を否定するとは思っていなかった。

    「でも」蓮は食い下がった。「ちゃんと謝らないと、俺は——」

    「その気持ちだけで十分だと思う」美咲は蓮を見つめた。「謝りに行くことが、誰かのためになるとは限らないよ。むしろ、その人たちにとっては、蓮のことをもう一度思い出させることになるだけかもしれない」

    蓮は黙った。考えてもみなかった視点だった。

    「大事なのは」美咲は続けた。「今の蓮が、そう思えるようになったことだから」

    蓮はその言葉を、何度も心の中で繰り返した。謝罪という行為が、必ずしも相手のためになるわけではない。自分が楽になりたいだけの謝罪は、また別の形の自己中心的な行為になりかねない。美咲の言葉には、そういう深い洞察があった。

    「お前、いつからそんなに賢くなったんだよ」蓮は少し笑った。

    「昔からだよ」美咲も笑った。「蓮が気づかなかっただけ」


    美咲

    その夜、美咲は帰る支度を始めていた。

    時計の針は、すでに午後十時を回っていた。鞄を肩にかけ、玄関へ向かおうとした時、蓮が呼び止めた。

    「美咲」

    「なに?」美咲は振り返った。

    蓮は少し躊躇うような気配を漂わせていた。光を失った目では、表情を読み取ることはもうできなかったが、その沈黙の長さから、何か特別なことを言おうとしているのが伝わった。

    「ありがとう」

    蓮の声は、いつもより少し低く、真剣だった。

    美咲は一瞬、言葉を失った。

    「急にどうしたの」美咲は努めて軽い口調で言った。動揺を隠すためだった。

    「言ったことなかったから」蓮は俯きながら言った。「ずっと。事件の後も、それより前も。お前がどれだけ俺のために動いてくれてたか、ちゃんと言葉にしたことなかった」

    沈黙が流れた。

    長い付き合いだった。子供の頃からずっと、美咲は蓮の近くにいた。しかし蓮は、美咲という存在を、本当の意味でちゃんと見たことはなかった。それは美咲自身、長い間気づいていたことだった。

    「俺、お前のこと好きだ」

    蓮が、静かに、しかしはっきりと言った。

    美咲は目を丸くした。心臓が、これまでに感じたことのない速さで脈打っていた。何年も、何年も待ち続けた言葉だった。それが、こんな形で、こんなタイミングで訪れるとは、想像もしていなかった。

    「やっと気付いたんだ」美咲は、震える声で言った。

    「ごめん。遅すぎたよな」蓮は照れくさそうに笑った。久しぶりに見る、蓮の素直な笑顔だった。

    「ううん」美咲も笑った。涙が頬を伝った。「全然、遅くないよ」

    そして美咲は、そっと蓮の肩に頭を預けた。

    蓮の腕が、ゆっくりと美咲の体を抱き寄せた。二人は、それ以上何も言わずに、ただ静かに抱き合っていた。

    雨音だけが、部屋を満たしていた。

    美咲の胸の中には、これまでの七年間の想いが、一気に溢れ出していた。報われなかった片想いの日々。蓮が誰かと付き合うたびに感じてきた痛み。それでも蓮を想い続けた、自分自身への半ば呆れにも似た愛おしさ。

    そのすべてが、今、報われようとしていた。


    第八章 衝突

    美咲

    蓮との関係が深まっていく中でも、二人の間には、衝突がなかったわけではなかった。

    特にひどかったのは、付き合い始めて間もない頃のことだった。

    ある夜、美咲は蓮の部屋を訪れていた。いつものように夕食を作り、たわいない会話をしていた。しかしその日の蓮は、どこか苛立った様子を見せていた。

    「どうしたの、今日」美咲が尋ねた。

    「別に」蓮は素っ気なく答えた。

    「何かあったなら、話してよ」

    「だから、別にって言ってるだろ」

    蓮の声には、明らかな棘があった。美咲は戸惑いながらも、その理由を探ろうとした。

    「もしかして、復学した大学で、何か嫌なことあった?」

    「うるさいな」蓮は吐き捨てるように言った。「お前には関係ないだろ」

    その言葉に、美咲の中で何かが切れた。

    これまで何ヶ月も、美咲は蓮のために尽くしてきた。食事を作り、話し相手になり、外出に付き添い、すべてを受け入れてきた。それなのに、ふとした拍子に向けられるこの冷たさに、美咲の堪忍袋の緒が切れた。

    「関係ないって、何それ」美咲の声が震えた。「私がこれまで、どれだけ蓮のために——」

    「頼んでないだろ、そんなこと」蓮が遮った。

    美咲は、息を呑んだ。

    「頼んでない、って」美咲は、声を抑えられなくなった。「じゃあ、私が来るのも、迷惑だったの?」

    「そうは言ってない」

    「言ってるようなものでしょ!」美咲は立ち上がった。「ねえ、蓮。なんで私のこと、大切に思ってくれないの? なんで、いつもそうやって、突き放すようなこと言うの?」

    蓮は何も答えなかった。沈黙が、二人の間に重く垂れ込めた。

    「もしかして」美咲は、自分でも止められないまま、言葉を続けた。「蓮にとって私は、こんな状態になったから仕方なく頼ってる相手なだけなの? 結局、見た目が良くて、もっと魅力的な誰かが現れたら、私のことなんてどうでもよくなるんじゃないの? 結局、面食いやろ、蓮は」

    言ってしまってから、美咲は自分の言葉に愕然とした。

    それは、ずっと心の奥に押し込めていた、最も醜い不安だった。蓮が自分を選んだのは、本当の意味で愛しているからではなく、ただ「今は他に誰もいないから」という消極的な理由ではないのか。その疑念を、美咲はこれまで決して口にしないようにしてきた。

    しかし苛立ちと感情の昂りの中で、その言葉が、ついに溢れ出してしまった。

    蓮の表情が、見えない目の奥で、はっきりと強張ったのがわかった。

    「面食い、って」蓮の声が低くなった。「お前まで、そういうこと言うのかよ」

    「違う、そういう意味じゃ——」美咲は慌てて訂正しようとした。しかし蓮は聞いていなかった。

    「俺がどんな気持ちで、お前と向き合ってると思ってんだよ」蓮の声が震えていた。「目も見えない、顔も変わっちまった、何もできない俺が、それでもお前のこと、ちゃんと好きになろうとしてる。それを、面食いだとか、そんな簡単な言葉で片付けるなよ」

    「ごめん」美咲は、自分の言葉の重さに気づき、涙が溢れた。「ごめん、そんなつもりじゃ——」

    「もういい」蓮は、背を向けた。「今日は、帰ってくれ」

    美咲は、その夜、何も言えないまま、蓮の部屋を後にした。


    蓮

    美咲が帰った後、蓮は一人、暗い部屋の中で、自分の言動を振り返っていた。

    「面食いやろ」

    美咲の言葉が、何度も頭の中で繰り返された。怒りはあった。しかしそれ以上に、蓮の心を締め付けていたのは、別の感情だった。

    美咲が、本当にそう思っているわけではないことは、蓮にもわかっていた。あれは、長年溜め込んできた不安が、感情の昂りの中で、つい言葉になっただけだということも、理解していた。

    それでも、その言葉が刺さったのには理由があった。

    蓮自身、心のどこかで、同じ疑問を抱えていたからだった。

    俺が美咲を好きになったのは、本当に、美咲という人間そのものを愛しているからなのか。それとも、すべてを失った今、唯一残った相手だから、すがるように好きになっただけなのか。

    その問いに、蓮は明確な答えを持てずにいた。

    もし事件が起きていなかったら。もし蓮が、今もあの整った顔を持ち続けていたら。蓮は今でも、美咲のことを「ただの幼なじみ」として扱い、その隣を、軽やかにすり抜けていたのではないか。

    その可能性を、蓮は否定しきれなかった。

    その夜、蓮は一人、何時間も考え続けた。

    自分が美咲を好きだという気持ちは、本物なのか。それとも、ただの依存なのか。その境界線を、蓮はどうしても見極めたかった。

    数日後、蓮は美咲に連絡を取った。

    「会って話したい」

    美咲は、少し怯えたような声で電話に出た。あの夜の言い合い以来、初めての連絡だった。

    二人は、近くの公園で会った。ベンチに並んで座り、しばらく沈黙が続いた。

    「この前は、ごめん」先に口を開いたのは、美咲だった。「あんなこと、言うべきじゃなかった」

    「いや」蓮は首を振った。「俺の方こそ、ひどいこと言った。お前には関係ないとか、そんなこと言うべきじゃなかった」

    二人はしばらく、互いに謝り合った。それから、蓮は、自分の中にあった問いを、正直に打ち明けることにした。

    「正直に言うとさ」蓮は、ゆっくりと言葉を選びながら言った。「俺も、自分でわからなくなることがある。お前を好きだって気持ちが、本当に、お前自身を見て生まれたものなのか。それとも、ただ俺が、すべてを失って、すがる相手が欲しかっただけなのか」

    美咲は、黙って聞いていた。

    「でもさ」蓮は続けた。「考えれば考えるほど、わかったことがある。もし俺がただ、すがる相手を求めてるだけなら、誰でも良かったはずなんだ。家族でもいいし、別の友達でもよかった。でも、俺が本当に欲しいのは、お前なんだ。お前じゃなきゃ、ダメなんだ」

    「なんで、そう思うの」美咲が、小さな声で尋ねた。

    「お前が、何も求めずに、ずっと隣にいてくれたから」蓮は答えた。「俺が惨めな姿を晒しても、苛立ちをぶつけても、それでもお前は、離れていかなかった。そんな相手、お前以外にいない。だから、これは依存じゃない。お前という人間を、ちゃんと好きになったんだと思う」

    美咲の目から、涙がこぼれた。

    「私も、ごめん」美咲は言った。「不安だったの。蓮が、本当に私のことを見てくれてるのか。それとも、ただ仕方なく、私に頼ってるだけなのか。その不安が、あんな言葉になって出ちゃった」

    「もう、不安にならなくていい」蓮は、美咲の手を握った。「お前は、面食いの俺が、初めて、顔じゃなくて、心を好きになった相手なんだから」

    美咲は、涙を流しながら、小さく笑った。

    「皮肉だね」美咲は言った。「あんなに顔にこだわってた蓮が、顔が見えなくなって、初めて本当の意味で、人を好きになれたなんて」

    「皮肉だな」蓮も笑った。「でも、それでよかったと思ってる。今は」

    その日を境に、二人の関係は、また一歩、深いものへと変わっていった。


    第九章 恋人として

    蓮

    二人が想いを通わせてから、蓮と美咲の関係は、これまでとは違う形を取り始めた。

    蓮にとって、それは初めての経験だった。これまでの恋愛は、すべてが軽やかで、刺激的で、しかし最後にはいつも虚しさだけが残るものだった。美咲との関係は、そのどれとも違っていた。

    派手なデートをするわけではなかった。近所のカフェで他愛のない話をする。一緒に映画を見る——蓮にはもう画面は見えなかったが、音声と美咲の説明で、十分に楽しめた。そういう、静かで穏やかな時間が、蓮にとっては何よりも貴重なものに感じられた。

    「昔の俺だったら、こういうの退屈だって思ってたんだろうな」

    ある日、蓮が美咲に言った。

    「そうだったかもね」美咲は笑った。「派手な店で、派手な格好の女の子と、派手な話してたもんね」

    「美咲は、そういうの嫌じゃなかった?見てて」

    美咲は少し考えてから答えた。

    「嫌だったよ、正直」美咲は素直に言った。「蓮が誰かと付き合うたび、心のどこかが痛かった。でも、それでも蓮のそばにいたいって思う気持ちの方が、ずっと強かったから」

    蓮は何も言えなかった。これまで自分が、どれほど多くの人の感情を、踏みにじってきたのか。美咲の言葉一つ一つが、その事実を静かに突きつけてきた。

    「ごめん」蓮は言った。

    「謝らないで」美咲は首を振った。「今の蓮がいるから、こうやって一緒にいられるんだから」

    復学した蓮は、美咲のサポートを受けながら、少しずつ大学生活に戻っていった。何も見えない状態での生活は、想像以上に困難を伴った。音声読み上げソフトに頼って教科書の内容を聞き取ることも、点字や録音で講義のノートを取ることも、これまでとは比べ物にならない労力が必要だった。

    それでも蓮は、投げ出さなかった。美咲が隣にいることが、何よりの支えだった。

    周囲の反応は様々だった。露骨に視線を逸らす者もいれば、過剰に気を遣う者もいた。かつて蓮に群がっていた女性たちは、誰も近づいてこなかった。それも当然のことだと、蓮は理解していた。

    ある日、キャンパスで偶然、かつての交際相手の一人とすれ違ったことがあった。理沙だった。理沙は蓮の変わり果てた姿を見て、明らかに動揺した表情を浮かべた。しかし何も言わず、足早に通り過ぎていった。

    蓮はその背中を見送りながら、複雑な気持ちになった。怒りでも、悲しみでもなかった。ただ、自分がかつて理沙にしたことの結果が、今、この気まずい沈黙として現れているのだと、静かに受け止めるしかなかった。

    「大丈夫?」隣にいた美咲が、心配そうに聞いた。

    「うん」蓮は答えた。「ちょっと、考えてただけ」

    「何を?」

    「自業自得だなって」蓮は小さく笑った。「これくらいの気まずさ、当然のことだよなって」

    美咲は何も言わず、ただ蓮の手をそっと握った。


    美咲

    蓮との関係が始まってから、美咲は毎日が夢のようだと感じていた。

    しかし同時に、不安もあった。蓮が美咲を選んだのは、事件によってすべてを失い、唯一残ったのが美咲だったからではないか。そういう疑念が、時折、美咲の心に影を落とした。

    ある夜、二人で食事をしている時、美咲は思い切ってその疑念を口にした。

    「ねえ、蓮」

    「なに?」

    「私のこと好きって言ってくれたの、本当に嬉しかった。でも、ちょっと不安にもなるんだ」

    「不安?」

    「私しか、もういなかったから。だから私を選んだんじゃないかって。もし事件が起きてなかったら、蓮は今でも、いろんな女の子と遊んでて、私のことなんて見てなかったんじゃないかって」

    蓮はしばらく黙っていた。美咲は、自分の言葉が蓮を傷つけたのではないかと、すぐに後悔した。

    「それは、否定できないかもしれない」

    蓮の答えは、美咲が予想していたよりも正直なものだった。

    「事件がなかったら、俺はきっと、お前のことに気づかなかったと思う。これまで通り、誰かと付き合っては、すぐ飽きて、また別の誰かに目移りして。そういう人生を続けてたんだろうな」

    美咲の胸が、ちくりと痛んだ。

    「でも」蓮は続けた。「だからといって、今の俺の気持ちが偽物だってことにはならないと思う。事件がきっかけだったとしても、今、お前を好きだって思う気持ちは、本物だ。お前がずっと、何も求めずに俺の隣にいてくれたこと。それに気づいた時の気持ちは、これまで誰に対しても感じたことのないものだった」

    蓮は、美咲の手を取った。

    「これまでの俺は、自分の見た目とか、人気とか、表面的なものでしか人を判断してこなかった。お前を好きになったのは、お前が俺に何をしてくれたかとか、どんな顔をしてるかとかじゃない。お前という人間そのものを、初めてちゃんと見たからだと思う」

    美咲は、涙が溢れるのを抑えられなかった。

    「ずるいよ、そんな言い方」美咲は笑いながら泣いた。

    「ずるくてもいいよ」蓮も笑った。「お前を逃したくないから」


    第十章 夜の親密

    蓮

    二人の関係が深まるにつれ、互いの距離も、自然と近づいていった。

    ある晩、美咲が蓮の部屋に泊まることになった夜のことだった。きっかけは些細なことだった。夜遅くまで一緒に過ごし、終電を逃した美咲を、蓮が「泊まっていけば」と引き止めた。

    「いいの?」美咲は少し戸惑った様子だった。

    「お前が嫌じゃなければ」

    部屋の中、二人の間に流れる空気は、これまでとは違う緊張感を帯びていた。蓮は、美咲をベッドに座らせ、自分はその隣に腰を下ろした。

    「美咲」

    蓮が、静かに名前を呼んだ。

    「うん」

    「これまで、ずっと聞きたかったことがある」

    「何?」

    「お前は、いつから俺のこと、好きだったんだ」

    美咲は、少し恥ずかしそうに俯いた。

    「中学二年の冬」美咲は答えた。「雪の日に、蓮が私のマフラー、直してくれたことがあったでしょう。覚えてる?」

    蓮は記憶を辿った。曖昧だったが、確かにそんな出来事があったような気がした。

    「ちゃんとは覚えてないけど」蓮は正直に言った。「お前にとっては、それが特別な瞬間だったんだな」

    「うん」美咲は頷いた。「あの瞬間から、ずっと。蓮が誰と付き合っても、誰と別れても、ずっと好きだった」

    蓮は、美咲の頬にそっと手を伸ばした。指先が、美咲の柔らかい肌に触れた。視力を失った今、蓮は触覚で多くのことを感じ取るようになっていた。美咲の肌の温かさ、震える吐息、その全てが、蓮にとって愛おしく感じられた。

    「七年だぞ、それ」蓮は囁いた。「七年も、報われない想いを抱え続けたのか」

    「報われない想いじゃなかったよ」美咲は静かに言った。「だって、こうやって蓮の隣にいられたから」

    蓮は、美咲の額に、そっと自分の額を合わせた。

    「もう、待たせない」

    その言葉と共に、蓮は美咲の唇に、自分の唇を重ねた。

    最初は、触れるだけの優しいキスだった。しかし二人の想いが、長い年月を経て、ようやく一つに重なる瞬間だった。美咲の体が、わずかに震えていた。蓮はその震えを感じ取り、ゆっくりと、美咲の体を抱き寄せた。

    部屋の明かりは、間接照明だけが灯っていた。蓮には、その明かりすら見えなかった。それでも、肌の温もり、吐息の震え、心臓の鼓動。視覚を失った今だからこそ研ぎ澄まされた、すべての感覚で、蓮は美咲という存在を確かめていた。

    「蓮」美咲が、小さく名前を呼んだ。

    「なに」

    「怖くないよ。だから、ゆっくりでいいから」

    蓮は、美咲の言葉に頷いた。

    その夜、二人は時間をかけて、互いの体温を確かめ合った。蓮にとって、これまでの関係とは、まったく異なる経験だった。これまでの蓮にとって、肉体的な親密さは、単なる快楽の追求でしかなかった。しかし美咲との時間は、それとは根本的に違う何かだった。

    互いの呼吸を感じながら、蓮は、自分が初めて、本当の意味で誰かと「繋がる」ということを理解した気がした。それは肉体的な行為以上の、もっと深いところでの結びつきだった。

    夜が更けていく中、二人はゆっくりと、互いを知っていった。言葉にならない想いを、肌で、体温で、確かめ合っていった。蓮の傷ついた体に、美咲は怯むことなく、優しく触れ続けた。その手の感触が、蓮にとって何よりの癒しだった。

    すべてが終わった後、二人は抱き合ったまま、しばらく動かなかった。

    「ありがとう」蓮が、静かに言った。

    「何が?」美咲が、蓮の胸に頭を預けたまま聞いた。

    「全部」蓮は美咲の髪を撫でた。「お前がいてくれたこと。今日まで、ずっと待っててくれたこと。今、ここにいてくれること」

    美咲は何も言わず、ただ蓮の胸に顔を埋めた。

    その夜、蓮は久しぶりに、安らかな眠りについた。


    第十一章 なぜ好きだったのか

    美咲

    衝突の夜から少し経った、ある静かな午後のことだった。

    美咲と蓮は、蓮の部屋で並んで座っていた。窓から差し込む光が、部屋を柔らかく照らしていた。

    「ねえ、蓮」美咲が、ふと切り出した。

    「なに」

    「私が、なんで蓮のこと好きになったか、ちゃんと話したことなかったよね」

    蓮は少し驚いた様子だった。「マフラーの話だけじゃないのか」

    「あれは、きっかけ」美咲は首を振った。「本当の理由は、もっと別にあると思う」

    美咲は、しばらく言葉を探すように、視線を窓の外に向けた。

    「蓮はさ、いつも輪の中心にいたでしょう。誰からも好かれて、誰からも求められて。でも、私はずっと、近くで見ていて、気づいてたことがあるの」

    「何に」

    「蓮が、本当は寂しそうだったこと」

    蓮は黙って、美咲の言葉に耳を傾けていた。

    「みんな、蓮の周りに集まってきたけど、誰も、蓮自身を見てなかった。蓮の顔とか、蓮の雰囲気とか、蓮と一緒にいることで自分が得られるものとか、みんなそういうものを見てた。でも、蓮そのものを見てる人は、いなかった気がする」

    「お前は、違ったのか」

    「私は」美咲は、少し笑った。「最初から、蓮の顔になんて、興味なかったから」

    蓮は、意外そうな顔をした。

    「子供の頃から知ってるからね、蓮の顔なんて見慣れすぎてて、特別だなんて思ったことなかった」美咲は続けた。「私が好きだったのは、蓮が、たまに見せる不器用な優しさだった。マフラーを直してくれた時もそう。誰も見てないところで、こっそり誰かを助けてる時の蓮。そういう蓮が、好きだった」

    「俺、そんなに優しい人間じゃなかったと思うけど」

    「うん、表向きはね」美咲は頷いた。「恋愛に関しては、本当にひどかったと思う。でも、それとは別のところに、本当の蓮がいるってことを、私は知ってた。だから、待てたんだと思う。みんなが、蓮の表面的な部分に群がって、離れていくのを見ながら、私だけは、本当の蓮が出てくるのを待ってた」

    蓮は、しばらく何も言えなかった。

    「七年だぞ」蓮は、ようやく言った。「七年も、そんな曖昧な可能性に賭けてたのか」

    「そうだよ」美咲は笑った。「バカみたいでしょう」

    「いや」蓮は首を振った。「バカみたいじゃない。ただ、すごいと思う。俺には、そんな根気、絶対になかった」

    「蓮がいたから、根気になったんだよ」美咲は言った。「好きな人のためなら、人は、自分でも驚くくらい、待てるものなんだと思う」

    蓮は、美咲の手を、そっと握った。

    「もう一つ、聞いていいか」蓮は言った。「俺が、こんな姿になっても、お前の気持ちは変わらなかった。それは、なんでだ。普通なら、ショックを受けて、距離を置いてもおかしくなかったと思う」

    美咲は、しばらく考えてから答えた。

    「変わらなかったわけじゃないよ」美咲は正直に言った。「最初に病院で蓮の姿を見た時、正直、すごくショックだった。怖いとも思った。でも、それ以上に、蓮の中身は、何も変わってないって、すぐにわかったの」

    「そうか」

    「顔が変わっても、目が見えなくなっても、蓮が蓮であることは、変わらなかった。私が好きだったのは、最初から、蓮の顔じゃなかったから。だから、怖くても、悲しくても、離れようとは思わなかった」

    蓮は、深く息を吐いた。

    「ありがとう」蓮は言った。「お前のその言葉、ちゃんと、信じられる気がする」


    第十二章 結衣との再会

    蓮

    季節が巡り、事件から一年が経とうとしていた。

    蓮は大学三年生として、新しい学年を迎えていた。何も見えない生活にも、義眼を入れた自分の顔の感触にも、少しずつ慣れてきていた。完全に元の生活に戻ることはできなかったが、それでも蓮は、自分なりのペースで前を向き始めていた。

    ある日、大学の図書館で、蓮は思いがけない人物と再会した。

    結衣だった。

    蓮を傷つけた事件の、直接の引き金になった相手——結衣の元恋人が、蓮を襲った犯人だった。事件以来、蓮は結衣と一度も顔を合わせていなかった。風の噂で、結衣はあの後、件の恋人とも別れたと聞いていた。

    「相沢くん」

    結衣が、躊躇いがちに声をかけてきた。

    蓮は一瞬、体を硬くした。しかし逃げるわけにはいかないと思い、結衣の方へ向き直った。

    「久しぶり」蓮は静かに言った。

    結衣の表情には、複雑な感情が浮かんでいた。罪悪感、戸惑い、そして蓮の変わり果てた姿への驚き。それらが入り混じった表情だった。

    「あの……」結衣は言葉を選びながら言った。「ずっと、謝りたかった」

    「謝る? お前が?」蓮は驚いた。

    「私が、軽い気持ちで相沢くんと関係を持ったから。彼があんなことをしたのも、元はと言えば——」

    「それは違う」蓮は、結衣の言葉を遮った。「お前は何も悪くない。悪かったのは、人の彼女だと知ってて手を出した俺だ。そして、暴力という形で報復した、あの男だ。お前が責任を感じることじゃない」

    結衣は驚いた表情を浮かべた。蓮のその言葉が、予想していたものと違ったからだった。

    「相沢くん、変わったね」結衣はぽつりと言った。

    「そうかもな」蓮は小さく笑った。「色々あったから」

    「私のこと、恨んでない?」

    蓮はしばらく考えた。

    「恨むなら、お前じゃなくて、自分自身だよ」蓮は言った。「お前を、ただの遊び相手として扱ったこと。お前の気持ちを、何も考えなかったこと。今は、それを後悔してる」

    結衣の目に、涙が滲んだ。

    「謝らせて」結衣は言った。「私も、相沢くんを利用してたところがあったと思う。彼との関係に不満があって、その逃げ場として、相沢くんを使ってた部分があった。それは、お互い様だったのかもしれない」

    蓮は、結衣の言葉に頷いた。

    「お互い様、か」蓮は呟いた。「そうかもな。誰も、完全な被害者でも、完全な加害者でもない。色んな感情が絡み合って、ああいう結果になったんだろうな」

    二人はしばらく、沈黙の中で立っていた。

    「相沢くん」結衣が、最後に言った。「幸せになってね」

    「ああ」蓮は頷いた。「お前もな」

    それが、結衣との最後の会話になった。蓮は、図書館を出ながら、不思議な解放感を覚えていた。謝罪に行くことはしなかった。それでも、思いがけない形で、過去の一部と向き合うことができた。

    その夜、蓮は美咲に、結衣との再会のことを話した。

    「謝りに行かなくて良かったって、今になって思う」蓮は言った。「お前が言った通りだった。謝罪は、必ずしも誰かのためになるとは限らない。でも、向こうから声をかけてくれたから、自然な形で、ちゃんと話せた」

    美咲は静かに頷いた。

    「蓮が、ちゃんと前を向いてるってことだよ」


    美咲

    結衣との再会の話を聞いた夜、美咲は複雑な感情を抱いていた。

    蓮のかつての恋愛相手と再会したと聞けば、嫉妬めいた感情が湧いても不思議ではなかった。しかし美咲が感じたのは、それとは違う種類の感情だった。

    蓮が、過去の自分の行いと、誠実に向き合おうとしている。その事実が、美咲にとっては何よりも嬉しかった。蓮は変わった。本当に変わったのだと、改めて実感できる出来事だった。

    「私ね」美咲は、蓮に言った。「正直、最初は不安だったの。蓮が事件をきっかけに変わったように見えても、もし元の生活に戻れたら、また昔の蓮に戻っちゃうんじゃないかって」

    「そう思ってたのか」蓮は少し驚いた様子だった。

    「うん」美咲は頷いた。「でも、もう大丈夫だって思える。蓮は、ちゃんと自分のしてきたことと向き合おうとしてる。それは、見た目が元に戻ったとしても、変わらないことだと思うから」

    蓮は、美咲の手を握った。

    「お前がいたから、変われたんだよ」蓮は言った。「お前がいなかったら、俺はきっと、ただ絶望したまま、何も変わらずに終わってた」

    美咲は、蓮の肩に頭を預けた。

    「これからも、隣にいるからね」

    「うん」蓮は頷いた。「これからも、よろしく頼む」



    第十三章 拒絶

    蓮

    結衣との再会から、しばらく経ったある日、蓮は美咲に、もう一つの決意を打ち明けた。

    「俺を殴った男に、会いに行こうと思う」

    美咲は、驚いた表情を浮かべた。

    「謝りに行くの? あの男に?」

    「ああ」蓮は頷いた。「結衣さんとの一件で気づいたんだ。謝罪が、必ずしも相手のためになるとは限らない。でも、あの男にだけは、ちゃんと言わなきゃいけないことがある気がする」

    「何を言うつもり?」

    「俺が、結衣さんにしたことは、間違ってた。彼女の彼氏がいるのを知ってて、それでも近づいた。それは事実だ。あの男が怒るのも、当然のことだったと思う。手段は許されることじゃないけど、あの男の怒りそのものは、間違ってなかった。それを、ちゃんと伝えたい」

    美咲は、しばらく黙っていた。

    「一人で行くの?」

    「ああ。これは、俺一人の問題だから」

    美咲は、心配そうな表情を浮かべながらも、最終的には頷いた。

    「気をつけてね」


    男との面会は、弁護士を通して設定された。事件はすでに刑事裁判が終わり、男は実刑判決を受けて服役していた。蓮は、面会という形で、刑務所で男と対面することになった。

    アクリル板越しに、男の気配があった。蓮には、その姿は見えなかった。それでも、男の存在感、抑えきれない苛立ちのようなものが、空気を通して伝わってきた。

    「何しに来た」男の声は、低く、刺々しかった。

    「謝りに来ました」蓮は、まっすぐに言った。「あなたの彼女だった、結衣さんに、俺がしたことについて。彼女に恋人がいることを知っていながら、それでも近づいた。本当に、申し訳ないことをしたと思っています」

    男は、しばらく沈黙していた。

    「今さら、何だよ、それ」男は、吐き捨てるように言った。「お前が謝りに来たくらいで、俺が刑務所にいる時間が、戻ってくるとでも思ってんのか」

    「そうは思っていません」蓮は静かに答えた。

    「お前のその目も、顔も、自業自得だろ」男は続けた。「人の女に手を出した報いだ。俺はそう思ってる。今でも、後悔なんかしてない」

    蓮は、その言葉を、黙って受け止めた。

    「謝罪なんて、要らねえんだよ」男の声には、明確な拒絶があった。「お前が何を言おうが、俺の人生は、お前のせいで狂った。お前が謝ったところで、何も変わらない。むしろ、お前みたいな顔した人間が、のうのうと謝りに来ること自体、腹が立つんだよ」

    「わかりました」蓮は、それ以上、言葉を重ねなかった。

    謝罪を受け取ってもらえないことは、ある程度予想していた。それでも、実際にその拒絶を、面と向かって突きつけられると、蓮の胸には、重い痛みが広がった。

    「もう、来るな」男は、最後にそう言った。「お前の顔も、声も、もう二度と、聞きたくない」

    面会は、それで終わった。

    蓮は、刑務所を出た後、しばらく、その場に立ち尽くしていた。謝罪が拒絶されることは、わかっていたはずだった。それでも、実際に拒絶の言葉を浴びせられると、想像していた以上に、心が抉られた。

    自業自得。

    その言葉が、何度も頭の中で響いた。

    蓮は、自分のしてきたことの重さを、改めて思い知らされていた。結衣を傷つけたこと。男の人生を、ある意味で狂わせてしまったこと。そのすべては、取り返しのつかないことだった。謝罪をしたところで、失われたものは戻らない。男の言う通りだった。

    それでも、蓮は、謝りに行ったことを後悔してはいなかった。

    謝罪が受け入れられるかどうかは、相手が決めることだ。自分にできるのは、ただ、自分の過ちと向き合い、それを言葉にすることだけだった。その結果が拒絶であっても、蓮は、その事実から逃げなかった自分を、わずかながら、認めることができた。


    蓮は、その足で、美咲のアパートへ向かった。

    電車を乗り継ぎ、何度も道に迷いながら、それでも蓮は、一人で歩いた。誰かの助けを借りずに、自分の足で、美咲のもとへ向かうことに、蓮なりの意味があった。

    美咲のアパートのインターホンを押すと、しばらくして、ドアが開いた。

    「蓮?」美咲の声には、驚きと心配が滲んでいた。「どうだった、面会」

    蓮は、しばらく何も言えなかった。

    「許してもらえなかった」蓮は、ようやく言った。「自業自得だって、言われた。お前の顔も声も、二度と聞きたくないって」

    美咲は、何も言わなかった。

    「でも」蓮は続けた。声が、少しずつ震え始めていた。「それでも、ちゃんと向き合えてよかったって、思ってる。あの人の怒りは、間違ってなかった。俺は、それだけの事をしてきたんだ」

    蓮の目から、涙がこぼれた。光を失った両目から、止めどなく涙が溢れた。

    「俺、本当に、最低だったんだな」蓮の声は、嗚咽に変わっていった。「結衣さんも、理沙さんも、香織さんも、七瀬も。みんな、傷つけてきたんだな。それを今さら、こんな形で、思い知らされてる」

    美咲は、何も言わず、ただ蓮に近づいた。

    そして、何の言葉もないまま、蓮の体を、強く抱きしめた。

    蓮は、その腕の中で、声を上げて泣いた。子供のように、何の取り繕いもなく、ただ泣いた。

    「うまくいかなくても、いいんだよ」美咲は、蓮の背中を、優しく撫でながら言った。「謝りに行ったこと、許してもらえなかったこと、全部、無駄じゃないよ。蓮が、ちゃんと向き合おうとしたこと、私は知ってる」

    「美咲」蓮は、震える声で言った。

    「うん」

    「俺、変われたかな」

    美咲は、蓮を、さらに強く抱きしめた。

    「変わったよ」美咲は、はっきりと言った。「昔の蓮だったら、絶対に、自分の過ちと向き合おうとしなかった。謝りに行くことすら、考えなかったと思う。でも、今の蓮は、拒絶されても、それでも向き合うことを選んだ。それは、ちゃんと、変わった証拠だよ」

    蓮は、美咲の胸に顔を埋めたまま、しばらく動かなかった。

    「ありがとう」蓮は、ようやく言った。「お前がいてくれたから、ここまで来れた」

    美咲は、蓮の頭を、そっと撫でた。

    「これからも、一緒にいるから」美咲は言った。「うまくいかないことがあっても、辛いことがあっても、私は、ずっと、蓮の隣にいるから」

    蓮は、頷いた。

    光を失った目には、もう何も映らなかった。それでも、美咲の腕の中にある温もりだけは、確かに、蓮の心に深く刻まれていた。

    容姿を失い、これまでの人間関係のほとんどを失い、謝罪さえも拒絶された。蓮の人生には、まだ、たくさんの傷が残っていた。それでも、蓮は、生まれて初めて、誰かに本当の意味で抱きしめられている実感を、持つことができていた。

    それは、かつて、どんな美しい顔を持っていた時にも、感じたことのない、確かな温かさだった。


    鏡

    失ったものは、戻らない。それでも、誰かに抱きしめられる温もりだけは、確かに残っていた。


    終

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