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あらすじ

五月の終わり、老舗の割烹の個室で、男と女が向かい合っている。料理が運ばれ、箸が動き、茶が注がれる。会話はほとんどない。給仕が来て、頭を下げて、去っていく。二人がどういう間柄なのか、物語は最後まで説明しない。同じ夜、店の中では、若い店員も、老いた料理長も、予約を受けた女も、かつての恋人も、それぞれの頭の中に別の騒がしさを抱えて過ごしている。静かな個室の外側で、記憶と本音がざわめいている。八年前のある夜と、今この瞬間が、少しずつ重なっていく。これは、他人を、そして自分自身を、人はどこまで理解できるのかを描く物語である。


第一章

暖簾をくぐると、外の音が消える。

そういう造りの店だった。格子戸を一枚隔てただけで、通りを走る車の音も、隣のビルの工事の音も、すっと引いていく。かわりに聞こえてくるのは、遠くの厨房から漏れる包丁の音と、坪庭の水が石を打つ音だけだった。

仲居が先に立って廊下を歩く。足袋の裏が畳を擦る音が、規則正しく続く。突き当たりの障子の前で立ち止まり、膝をついて襖に手をかけた。

「梅の間でございます」

障子が開く。八畳の個室。床の間には、季節の掛け軸と、白い花器に一輪だけ挿された著莪の花。窓の障子は半分だけ開けられていて、庭の楓の若葉が見える。

先に座っていた女が、軽く頭を下げた。

男はその向かいに腰を下ろした。座布団に沈み込むとき、膝が小さく鳴った。

「お待たせしました」

「いえ」

それだけだった。

仲居が茶を運んでくる。湯呑みは二つとも、同じ窯元の、同じ柄のものだった。白地に、青い線が一本、口元近くを巡っている。女がそれを手に取り、両手で包むようにして口へ運んだ。男はしばらくその湯気を見ていたが、やがて自分の湯呑みにも手を伸ばした。

障子越しに、庭の水音が続いている。

先付けが運ばれてきた。小さな器に、うるいの胡麻和えと、小鮎の炙りが並んでいる。仲居が器の名を告げ、去っていく。

女が箸を取った。うるいを一口。目を伏せたまま、しばらく咀嚼している。男も箸を取ったが、まず小鮎の方に伸ばした。

「美味しいですね」

女がそう言った。

「ええ」

男はそれだけ答えて、また箸を動かした。

窓の外で、何かが飛んでいる羽音がした。小さな、低い羽音。女がそちらへ目をやったが、何も言わなかった。

椀物が運ばれてきた。蓋を開けると湯気が立ち上り、鱧と冬瓜、それに小さく刻んだ茗荷が沈んでいる。出汁の匂いが個室いっぱいに広がった。

女が蓋を持ったまま、しばらく湯気を見ていた。

「今年も、鱧なんですね」

「季節ですから」

男が言った。女は小さく頷いて、椀に口をつけた。

会話はそこで途切れた。

沈黙が続く間、男は箸先で椀の中の茗荷を探るように動かしていた。女は畳の一点を見つめていた。どちらも、何かを言おうとして、言わなかった。

仲居が次の皿を運んでくる。刺身の盛り合わせ。鮃の薄造りと、鰹のたたきが、青竹の器に美しく並べられている。

「どうぞ」

仲居が去ると、また静けさが戻った。

女が鰹に山葵を乗せる手を止めて、窓の外を見た。楓の葉が、風もないのにわずかに揺れている。何かがそこに止まっているようだった。

男もつられて視線を向けたが、すぐに手元の皿に戻した。

「そちらは、変わりありませんか」

女が言った。抑揚のない声だった。

「ええ、まあ」

男は答えたが、それ以上は続けなかった。

女も、それ以上は聞かなかった。

箸が皿の上を行き来する音、湯呑みが置かれる音、遠くの厨房から漏れる音。個室の中には、それだけが満ちていた。

八畳の部屋に、二人分の沈黙が積もっていく。

障子の外で、また小さな羽音がした。

女はそちらを見なかった。男も見なかった。

料理は、静かに、次から次へと運ばれてきた。


第二章

同じ部屋、同じ時刻。

悠介は鰹のたたきに箸を伸ばしながら、頭の中では別の会議が開かれていた。

(言うべきだ)

一人がそう言う。理屈で動く方の自分だった。今年で最後にするかもしれないのだから、はっきり伝えておくべきだ、と。

(今じゃない)

別の声が割り込む。もっと臆病な方の自分だった。せっかく静かに座っているのに、わざわざ波風を立てる必要がどこにある。今日はただ、いつも通りに終わらせればいい。

(本当にそれでいいのか)

三人目の声。これは少し意地の悪い自分だった。毎年同じ部屋を予約して、毎年同じように黙って座って、それで満足なのか。何かが変わることを、お前は本当は望んでいないだけなんじゃないか。

悠介は鰹を口に運んだ。山葵の辛味が鼻の奥を抜けていく。

冬美が茶碗を持つ手を見た。指が、ほんの少し細くなったように見えた。それとも、そう見えるのは自分の記憶の方が古くなっているせいかもしれない。

(事務所を畳むことは、もう決めた)

冷静な自分が、また戻ってくる。福岡の物件の件も、もう契約寸前まで進んでいる。今更後戻りはできない。ならば、今夜のうちに伝えておくのが筋だろう。来年のこの時期、自分がこの街にいない可能性があるのだから。

(でも、それを伝えたら)

臆病な自分が、また口を挟む。

(この部屋も、この習慣も、終わってしまうかもしれない)

窓の外で、何かが飛ぶ音がした。低い、小さな羽音。

悠介はそちらへ目をやった。楓の葉の陰に、何か小さなものが止まっている気配があった。蛾か、羽虫か。見分けはつかなかった。

——蛍を見せてやるからな。

その声が、頭の奥で不意に響いた。誰の声だったか、悠介にはわかっている。わかっているからこそ、いつも聞こえないふりをしている。

(今夜はやめておけ)

一人の自分が、慌ててその声を押しのけようとする。

(思い出すな。今は、この部屋の話をしろ)

冬美が椀の蓋を取った。湯気が立ち上る。鱧の白い身が、出汁の中で揺れていた。

「今年も、鱧なんですね」

彼女がそう言ったとき、悠介の中で、いくつもの自分が一斉に黙った。

——好物だったな、あれも。

誰かがそう呟きかけたが、すぐに別の自分がそれを封じた。

「季節ですから」

悠介はそう答えた。声に出したのは、その一言だけだった。頭の中で交わされていた会議のことは、誰にも聞こえない。冬美にも、仲居にも、この部屋の掛け軸にも。

(言うなら、デザートの後だ)

理屈の自分が、ようやく結論を出した。

(食事の間は、静かにしておけ)

臆病な自分は、それにほっとしたようだった。

意地の悪い自分だけが、まだ小さく笑っていた。

——それで、来年もまた同じことを繰り返すつもりか。

悠介は答えなかった。箸を取り、鮃の薄造りに手を伸ばした。

窓の外で、羽音がまた聞こえた。今度は少し近くで。

彼はそちらを見なかった。


第三章

冬美の頭の中も、静かではなかった。

ただし、悠介のそれとは、まるで違う騒がしさだった。

(言わなきゃ)

一人の自分が、焦ったように急かしてくる。もう四か月に入っている。隠していられるのは、あとせいぜい一、二か月だ。いずれ誰かから伝わる。それなら自分の口から言うべきだ。

(でも、今日じゃない)

別の自分が、それを押しとどめる。今日という日に、それを言うのは、あまりにも——。

その先の言葉を、彼女は自分の中でも避けていた。

椀の蓋を取ると、湯気とともに出汁の匂いが立ち上った。鱧と冬瓜。茗荷の香りが混じる。

(好きだったね、これ)

小さな声が、頭の奥でそう囁いた。冬美はその声を、いつも聞こえないふりで通り過ぎる術を身につけていた。八年かけて身につけた術だった。

「今年も、鱧なんですね」

彼女は、それだけを口にした。頭の中で渦巻いているものとは、まるで関係のない、季節の挨拶のような一言だった。

「季節ですから」

悠介が答えた。彼の声も、いつも通り平坦だった。

(この人は、何を考えているんだろう)

冬美の中で、また別の自分が顔を出す。八年間、正面から向き合って座っていても、この人の頭の中を覗いたことは一度もない。離婚してからの方が、むしろよくわかるようになった気もするし、逆にわからなくなった気もする。

(麗子さんのことは、もう聞かない)

その名前が浮かんだ瞬間、彼女の中で、また別の声が反応した。

(今更、それを蒸し返して何になる)

冷静な自分が言う。

(でも、忘れたわけじゃない)

意地の悪い自分が言う。

(あの人と一緒にいたときも、この人は、こんな顔で黙って座っていたんだろうか)

冬美は箸を取り、鰹のたたきに手を伸ばした。山葵の香りが鼻を抜ける。美味しいと思う自分と、味なんかどうでもいいと思う自分が、同時に存在していた。

窓の外で、小さな羽音がした。

彼女はそちらへ目をやった。楓の葉が揺れている。何か小さなものが、葉陰に止まっているようだった。

(あの子は、虫が好きだったな)

その声が浮かんだ瞬間、彼女は自分の湯呑みを両手で包み、飲むふりをしながら、その声をやり過ごした。慣れた動作だった。

(今日、言うべきかな)

お腹のことを、また別の自分が持ち出す。

(この人が、どんな顔をするか、想像もつかない)

(喜ぶわけがない)

(怒るわけもない、たぶん)

(ただ、黙るだけだろう。いつもそうだから)

冬美は椀に口をつけた。出汁の温かさが喉を通っていく。

「そちらは、変わりありませんか」

自分でも、なぜそんな言葉が出てきたのか分からなかった。もっと直接的なことを聞きたかったはずなのに、口からこぼれたのは、当たり障りのない一言だった。

「ええ、まあ」

悠介の答えも、同じように曖昧だった。

(この人も、何かを隠している)

冬美の中で、誰かがそう囁いた。

(でも、それが何かは、聞かない)

別の自分がそれに頷いた。

窓の外で、羽虫がまた小さく羽音を立てた。冬美はそちらを見なかった。悠介も見なかった。

けれど、その部屋の中では、誰にも聞こえない声たちが、絶え間なく行き交っていた。


第四章

連は、廊下の角で一度立ち止まり、盆の上の皿の位置を直した。

梅の間。今夜も、あの二人だった。

入社してまだ半年の連には、「今夜も」という感覚の正体がよくわかっていなかった。ただ、料理長がこの部屋の予約が入ると、いつもと違う顔をすることには気づいていた。普段は威勢のいい弥四郎が、この部屋の献立を組むときだけ、妙に静かになる。

(早く運べ、湯気が飛ぶ)

一人の自分が急かす。厨房で先輩に言われた通り、椀物は運ぶタイミングが命だ。少しでも遅れれば、香りも温度も半減してしまう。

(でも、あの部屋に入るの、ちょっと苦手なんだよな)

別の自分が、正直な気持ちを漏らす。あの二人は、いつも静かすぎる。会話らしい会話がほとんどない。仲居の先輩は「昔からのお客様だから、気を遣わなくていい」と言うが、連にとっては、その静けさの方がよほど気を遣う。

障子を開け、椀を置く。二人とも、こちらを見なかった。会釈だけを返し、連はまた障子を閉めて廊下に出た。

(今夜、絵里に言うんだよな)

急に、まったく別の話題が頭に割り込んでくる。仕事が終わったら、店の裏口で待ち合わせている。ポケットの中の小さな箱の感触を、彼はエプロンの上から確かめた。

(緊張しすぎだろ、お前)

(いや、当然だろ、指輪なんだから)

(断られたらどうする)

(考えるな、今は仕事中だ)

厨房に戻ると、弥四郎が鱧の骨切りをしていた。まな板の上で、包丁の背がとんとんと軽やかな音を立てている。骨切りの音は、いつ聞いても不思議と心地よかった。

「梅の間、お茶のおかわりお願いします」

連が声をかけると、弥四郎は顔も上げずに頷いた。

「あの部屋な」

弥四郎がぽつりと言った。それだけで、何かを言い足すことはなかった。連は、いつもこの人がそうすることに、薄々気づいていた。梅の間の話になると、いつも言葉がそこで途切れる。

(何かあるのかな、あの部屋)

連の中で、好奇心を持つ自分が顔を出す。

(詮索するな。お前の仕事は運ぶことだ)

真面目な自分が、それをたしなめる。

(でも気になるだろ、普通)

(今日は絵里のことだけ考えてろ)

連は湯呑みを二つ、盆にのせた。同じ窯元の、同じ柄の湯呑み。この店に置いてある湯呑みの中でも、特にこの二つだけは、いつも同じ二客が選ばれることに、連はようやく最近気づき始めていた。

——なぜだろう、と思ったが、それを口にする勇気はまだなかった。

廊下を戻る途中、坪庭の脇を通る。楓の葉の間を、小さな羽虫が飛んでいた。連はそれを目で追いながら、ふと自分の結婚——いや、まだプロポーズもしていないのだから、気が早すぎる、と自分に突っ込みを入れた。

(早く済ませて、今夜のことに集中したい)

その気持ちと、

(この店のことも、ちゃんと見ておきたい)

という気持ちが、彼の中で並んで存在していた。

梅の間の前まで戻ると、中からはまた、あの静けさが漏れてきていた。連は膝をつき、障子に手をかけた。

「失礼いたします」

障子を開けると、二人は、さっきと同じ位置に、さっきと同じ姿勢で座っていた。何も変わっていないように見えて、けれど何かが微妙に違う気配があった。連には、それが何かまでは、わからなかった。

湯呑みを置き、一礼して下がる。

障子を閉めながら、連はもう一度、ポケットの中の小さな箱の感触を確かめた。

(今夜だけは、余計なことを考えるな)

そう自分に言い聞かせながら、彼は厨房へと戻っていった。


第五章

皐月は、電話台帳の古い予約控えを繰りながら、その名前を見つけた。

芦田様。梅の間。五月最終週。

もう何年も、同じ時期に、同じ部屋を、同じ名前で予約されている。皐月がこの店の予約係になってからでも、四年になる。四年分、すべて同じだった。

(今年も、電話の声、少し震えてたな)

三週間前の電話を思い出す。芦田悠介と名乗ったその声は、いつも通り丁寧で、いつも通り落ち着いていたが、日にちを告げるときだけ、ほんの一瞬、言葉が途切れた。

「五月の——最終の、金曜で、お願いします」

その「五月の」のあとの間が、皐月にはいつも気にかかっていた。

(考えすぎよ、きっと)

一人の自分がそう言う。お客様の都合なんて、こちらが詮索することじゃない。

(でも、毎年同じ部屋、同じ時期って、普通じゃないでしょ)

別の自分が食い下がる。

皐月の頭の中には、もう一つ、別の騒がしさが常にあった。実家の母のことだった。先週の電話で、母はまた同じ話を三回繰り返した。皐月が子供の頃に飼っていた猫の話。もう十五年も前に死んだ猫の話を、母は毎回、初めて話すみたいに、目を輝かせて語る。

(今度こそ、病院に連れて行かなきゃ)

(でも、母は絶対に嫌がる)

(お姉ちゃんに、また相談しようか)

(この前も、けんかになったばかりじゃない)

台帳を閉じながら、皐月はふと、芦田悠介という名前の下に書かれた、もう一つの名前を見た。三宅冬美様、と、几帳面な字で添えられている。

(芦田様、なのに、三宅様も一緒——)

四年前、皐月がこの仕事を始めたばかりの頃、先輩の仲居にそれとなく尋ねたことがあった。

「梅の間の、芦田様たちって、どういうご関係なんですか」

先輩は少し困ったような顔をして、それだけ答えた。

「昔からの、大事なお客様よ」

それ以上は、誰も教えてくれなかった。皐月もそれ以来、聞かないことにしていた。

(うるさく聞くもんじゃない)

その先輩の声が、今も頭の中に残っている。

電話が鳴った。皐月は受話器を取った。

「はい、お電話ありがとうございます」

聞こえてきたのは、母からだった。

「皐月、猫が、玄関に来てるのよ。餌をあげなきゃ」

猫はもう、十五年前に死んでいる。皐月は一瞬、目を閉じた。

(今は仕事中)

(でも、無視できない)

「お母さん、今、お仕事中だから。あとでかけ直すね」

そう言って電話を切ったあと、皐月はしばらく台帳を見つめたまま動けなかった。

梅の間の予約控えの上に、自分の指先が乗っていた。芦田悠介、三宅冬美、という二つの名前を、皐月はもう一度、なぞるように見た。

(来年も、同じ時期に、電話がかかってくるのかな)

そんなことを考えている自分に、皐月は少し驚いた。会ったこともない客のことを、なぜこんなに気にかけているのか、自分でもよくわからなかった。

(きっと、誰かの何かに、似ているからだ)

そう思ったところで、皐月は台帳を閉じ、次の予約の電話を待つために、受話器の脇に座り直した。


第六章

厨房の隅、まな板の前に立つと、弥四郎の中では、いつも同じ音が鳴り始める。

包丁の背で骨切りをする音。とん、とん、とん。鱧の身に、一分間に何十本もの浅い切れ目を入れていく。指先の感覚だけが頼りの作業だった。

(今年も、この時期が来たか)

一人の自分が、静かにそう呟く。

(もう八年になる)

別の自分が、数え直す。指を折るまでもなく、体が覚えている数字だった。

弥四郎の手は止まらない。長年の癖で、考え事をしていても、包丁の動きだけは狂わない。だが頭の中では、いくつもの声が同時に喋っていた。

(あの晩、俺が誘わなければ)

古い自分の声だった。何百回、何千回と繰り返してきた後悔だった。裏庭に蛍が出ていると、あの子に教えたのは自分だった。「見てくるか」と声をかけて、暖簾の外へ連れ出したのも自分だった。両親は個室で、デザートを待っていた。ほんの数分のことだった。

(お前のせいじゃない)

別の自分がすぐに言い返す。何度も何度も、自分自身に言い聞かせてきた言葉だった。

(でも、俺が誘わなければ、あの子は表の通りに出なかった)

(それを言い出したら、きりがない)

(わかってる。わかってるが——)

まな板の上の鱧が、美しい菊の花のように開いていく。骨切りの技術は、四十年かけて磨いてきたものだった。この技を、あの子にも見せたことがあった。小さな手で箸を持ち、真剣な顔で鱧の湯引きをつつく姿を、弥四郎は今でもはっきりと覚えている。

「弥四郎さん、これ、なんの魚?」

「鱧だよ。骨が多いから、こうやって細かく切ってやるんだ」

「すごいね、魔法みたい」

その声を思い出すたび、弥四郎の手はほんの一瞬だけ、震えを堪える。今夜もそうだった。

(今年で、最後にしよう)

その考えが浮かんだのは、今夜が初めてではなかった。もう何年も前から、少しずつ育ってきた考えだった。体力の限界もある。若い連中に、そろそろこの場所を譲る時期でもある。

(でも、この献立だけは、俺の手で作り続けたい)

別の自分が、そう反論する。

(誰かに任せられるものじゃない)

弥四郎は骨切りを終えた鱧を、氷水にくぐらせた。身がぱっと花のように開く。

「梅の間、お茶のおかわりお願いします」

若い連の声が聞こえた。弥四郎は顔も上げずに頷いた。

「あの部屋な」

それだけ答えて、続きの言葉を、弥四郎は自分の中に留めた。

(いつか、あの子たちに話すべきなんだろうか)

そんな考えが、ふと浮かぶ。だが、それはすぐに別の自分に打ち消された。

(話して、何になる。誰も救われない)

(それでも、あの二人は、毎年ここに座り続けている)

(理由も言わずに、黙って)

弥四郎は鱧を器に盛りつけながら、坪庭の方角に目をやった。障子越しに、楓の葉が揺れているのが見えた。小さな羽虫が、その葉陰を飛んでいる。

(蛍には、まだ早いな)

その考えが浮かんだ瞬間、弥四郎の手が、ほんの一瞬止まった。

すぐにまた、包丁が動き出す。とん、とん、とん。

厨房の中では、いつも通りの音が続いていた。だが弥四郎の頭の中だけは、その夜、いつもより少しだけ、騒がしかった。


第七章

麗子は、隣の棟の個室で、グラスの脚を指先で回していた。

向かいに座る男は、取引先の部長だった。今夜の会食は、来月の契約更新のためのものだった。話の内容は半分も頭に入っていなかったが、笑うところで笑い、頷くところで頷くくらいの余裕は、麗子にはあった。

(あの人の声だ)

さっき、廊下ですれ違いざまに聞こえた声に、麗子は反応してしまった自分に驚いていた。もう三年も前に終わった関係だった。それなのに、あの低く抑えた話し方は、今でも一瞬で聞き分けられる。

(気のせいよ、きっと)

一人の自分がそう言い聞かせる。

(いや、間違いない。あの声だった)

別の自分が、譲らない。

麗子はグラスを口に運びながら、さりげなく廊下の方に目をやった。仲居がちょうど、コート掛けの前を通り過ぎるところだった。掛けられているコートの一枚に、見覚えがあった。灰色の、シンプルなステンカラーコート。裏地の色まで、麗子は覚えていた。

(やっぱり、あの人だ)

心臓が、意味もなく速くなる。

(何を今更)

冷めた自分が、それをたしなめる。

(もう関係ないでしょう。あなたには、今、目の前にお客様がいる)

「麗子さん、聞いてます?」

「あ、すみません。ちょっとぼんやりしてしまって」

麗子は笑顔を作った。長年、営業の仕事で鍛えた笑顔だった。心の中がどれほど乱れていても、表面はいつも滑らかに保てる。それだけは、自分の数少ない特技だと思っていた。

(あの部屋、梅の間よね、きっと)

麗子は、この店に何度も足を運んでいた。理由は、単純だった。仕事の相手を接待するのに便利な場所だから、と自分には説明していたが、本当の理由は、もう少し複雑だった。

(この店に来ると、あの人と過ごした時間を、少しだけ思い出せる)

その気持ちを、麗子は誰にも言ったことがなかった。むしろ、自分自身にも、あまり認めたくない気持ちだった。

(未練がましいと思われる)

(でも、事実なんだから仕方ない)

三年前——悠介と過ごしていた時期、彼はいつも何かに耐えているような顔をしていた。麗子は、それが何なのか、最後まではっきりとは知らなかった。ただ、彼が時々、何もない場所を見つめて固まっていることには気づいていた。

「昔、何かつらいことがあったの?」

一度だけ、そう尋ねたことがあった。悠介は、しばらく黙ったあとで、こう答えた。

「昔のことだ。もう関係ない」

その答えが、嘘だということは、麗子にもわかっていた。だが、それ以上は聞かなかった。聞いてはいけない気がしたから。

(結局、私は、あの人の何も知らなかった)

麗子はグラスを置いた。取引先の部長が、また何かを話している。麗子は微笑みを浮かべながら、頭の中では別のことを考えていた。

(会いに行こうか)

(やめなさい)

(一言だけでも)

(迷惑になるだけよ)

(でも、この機会を逃したら、もう二度と)

(それがどうしたの。あなたたちは、もう終わった関係でしょう)

麗子は、自分の中のその声に、静かに従うことにした。

「そろそろ、デザートにしましょうか」

麗子は、目の前の男にそう声をかけた。声は、いつも通り落ち着いていた。頭の中の騒がしさは、誰にも聞こえないところに、そっと沈めた。

障子の外を、仲居が通り過ぎていく足音がした。麗子は、それが梅の間へ向かう足音なのかどうか、確かめることはできなかった。


第八章

香月は、一人で座る個室で、猪口を傾けていた。

もう三年になる。月に一度、この店のこの並びの部屋で、一人分の膳を頼む習慣を続けている。妻が逝ってから、三年。

(今日も、来てしまったな)

一人の自分が、少し自嘲気味に呟く。

(来ないと、落ち着かないんだから、仕方ないだろう)

別の自分が、それを庇う。

妻が生きていた頃、この店には二人でよく通った。同じ懐石を注文し、同じ酒を頼み、他愛もない話をしながら、静かな時間を過ごした。妻が逝ってからも、香月はこの習慣をやめられなかった。むしろ、やめてしまえば、彼女と過ごした記憶まで消えてしまう気がして、怖かった。

(あの朝、ひどいことを言った)

その後悔は、三年経った今も、香月の中で色褪せていなかった。妻が倒れた日の朝、些細なことで口論をした。「もう年寄りの冷や水はやめてくれ」と、妻の外出をとがめるようなことを言ってしまった。妻はその日の午後、外出先で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

(あれが最後の会話になるとは、思ってもいなかった)

(誰だって、そうだろう。最後の会話が、最後だとわかっている人間なんていない)

香月は、猪口の酒を一口含んだ。壁の向こうから、かすかに人の声が聞こえた気がした。

(隣の部屋、今夜は誰だろう)

好奇心を持つ自分が、耳を澄ませる。

(詮索するもんじゃない)

真面目な自分が、それをたしなめる。

だが、香月の耳には、確かに何か言葉の断片が届いていた。

「——変わりありませんか」

女性の声だった。

「——ええ、まあ」

男性の声が、それに応じている。

(夫婦かな。それとも——)

香月は、そんなことを考えながら、猪口を置いた。声の調子から、何かを想像することは容易だった。だが、それが正しいかどうかは、香月にはわからない。

(うちも、ああだったな。何も言わずに、黙って座っているだけの夜が、よくあった)

その記憶が、じんわりと胸に広がった。

(言葉にしなくても、通じ合っていると思っていた)

(本当に、通じ合っていたのだろうか)

その問いに、香月は答えを持たなかった。三年経った今でも、妻が本当は何を考えていたのか、わからないことがたくさんある。夫婦として四十年近く連れ添ってきたのに、それでもわからないことがある。

——それが、当たり前なのかもしれない。

香月は、そう思うことにしていた。そう思わなければ、やり過ごせない夜があった。

隣の部屋から、また声が漏れてきた。今度ははっきりとは聞き取れなかったが、女性の声に、わずかな震えが混じっているように感じられた。

(何か、事情があるんだろうな)

香月は、それ以上詮索することをやめた。自分の膳に向き直り、鱧の椀に箸をつけた。出汁の香りが、鼻の奥に広がる。

(美味いな、今年も)

(毎年、変わらない味だ)

(それだけで、救われることもある)

香月は静かに、猪口を傾けた。窓の外で、小さな羽虫が飛んでいるのが見えた。


第九章

智子は、自宅のリビングで、スマートフォンの画面を見つめていた。

冬美に送ったメッセージには、まだ既読がつかない。

(今夜、あの人と会ってるはずだよね)

一人の自分が、確認するように呟く。

(毎年恒例の、あれでしょう)

別の自分が、少し皮肉っぽく応じる。

智子は、妹があの男と離婚してから、ずっとこの「恒例」に納得がいっていなかった。もう他人になったはずなのに、なぜ毎年、同じ時期に、同じ店で、顔を合わせる必要があるのか。

(冬美は、優しすぎる)

(優しいんじゃなくて、諦めが悪いだけよ)

智子の中で、二つの声がせめぎ合う。

夫が浮気をしていたと知ったとき、悠介の存在——正確には、悠介の浮気相手の存在――を知ったときの妹の顔を、智子は今でも覚えている。あの静かな怒り方。声を荒げるでもなく、泣き崩れるでもなく、ただ静かに、事実を確認するように何度も同じ質問を繰り返していた妹の姿を。

(あんな目に遭わされたのに、まだ会い続けるなんて)

智子はソファに座り直し、スマートフォンを膝の上に置いた。

自分の夫のことも、頭をよぎった。今夜も、夫は「接待だ」と言って出かけている。智子はそれを信じているわけではなかったが、追及する気力もなかった。

(私だって、本当のことを知りたくないだけかもしれない)

その考えが浮かんだ瞬間、智子は自分自身に少し驚いた。

(冬美のことを、偉そうに言えた義理じゃないかもしれない)

(いや、違う。あの子は、もっと大変な目に遭ったんだから)

智子の頭の中で、妹への同情と、自分自身の状況への苛立ちが、複雑に絡み合っていた。

スマートフォンが震えた。既読がついた。だが、返信はまだない。

(今、あの人の前で、電話も見られないんだろうな)

智子はそう思いながら、もう一件メッセージを打った。

「終わったら連絡ちょうだいね。心配してるから」

送信ボタンを押してから、智子は少し後悔した。

(心配、なんて言葉、冬美は疎ましく思うかもしれない)

(でも、本当に心配なんだから、仕方ないでしょう)

智子は立ち上がり、キッチンへ向かった。冷蔵庫を開けたが、特に何か食べたいわけでもなかった。ただ、手を動かしていないと、落ち着かなかった。

(あの子が、もし今夜、あの人に本当のことを話したら)

その考えが浮かんで、智子は冷蔵庫の扉を閉めた。

(妊娠のこと、まだ言ってないんだよね、きっと)

智子は、妹から数週間前に打ち明けられた秘密を、他の誰にも話していなかった。夫にも、母にも。それだけは、妹との約束を守っていた。

(あの人に、どう伝えるつもりなんだろう)

(伝えなくてもいいんじゃない。もう他人なんだから)

(でも、あの人にも、知る権利くらいは——)

智子は、自分の考えが行ったり来たりすることに、少し疲れていた。

スマートフォンをもう一度確認したが、既読のまま、返信はなかった。

智子はソファに戻り、テレビをつけた。音を消したまま、画面だけが光っている。その光を見つめながら、智子はただ、妹からの連絡を待ち続けた。


第十章

八年前の五月、その部屋には、三人分の食事が並んでいた。

蒼は、座布団の上で足を崩し、行儀の悪い座り方をしていた。悠介がそれを注意しかけたが、冬美が「今日くらいはいいでしょう」と笑って止めた。九歳の誕生日を、少し早めに祝う食事会だった。

「蒼くん、これ、なんの魚?」

弥四郎が、鱧の湯引きを蒼の前に置きながら尋ねた。まだ骨切りの技を教える前の、ただの世間話のつもりだった。

「わかんない。白いお魚?」

「鱧っていうんだ。骨が多いから、こうやって細かく切ってやるんだよ」

蒼は目を輝かせて、皿の中の魚を見つめた。

「すごいね、魔法みたい」

弥四郎はその言葉に、少し笑った。子供らしい大げさな感想が、彼には嬉しかった。

食事は和やかに進んだ。悠介は仕事の話を少しだけして、すぐに切り上げた。冬美は、蒼の学校での出来事を聞き、時々声を上げて笑った。窓の外では、初夏の夕暮れが、庭の楓を紫色に染めていた。

「そういえば、蒼くん、虫、好きだったよね」

弥四郎が、デザートを運ぶ前に、そう声をかけた。

「うん! カブトムシとクワガタと、あとダンゴムシも!」

「それなら、裏の庭に、そろそろ蛍が出る頃だ。見てくるか?」

蒼の目が、ぱっと輝いた。

「見たい! 蛍見たことない!」

「悠介さん、冬美さん、少しだけ、お借りしてもいいですか。デザートの支度の間だけ」

悠介と冬美は、顔を見合わせて頷いた。

「お願いします」

「気をつけてね」

冬美がそう声をかけると、蒼は元気よく立ち上がり、弥四郎の後について障子の外へ出ていった。

個室に残された二人は、しばらく黙って、それぞれの茶を飲んでいた。

「今日、来てよかったね」

冬美が言った。

「ああ」

悠介は頷いた。窓の外から、蒼のはしゃぐ声がかすかに聞こえてくる。

「見えた! 光ってる!」

その声を、二人は微笑みながら聞いていた。

やがて、デザートの水菓子が運ばれてきた。二人は、それを蒼が戻ってくるまで待つことにした。

「遅いね、二人とも」

冬美がそう言った、その時だった。

外で、何かが弾けるような音がした。

続いて、複数の足音。誰かの叫び声。ブレーキの、耳をつんざくような音。

悠介と冬美は、同時に立ち上がった。障子を突き破るようにして、廊下へ飛び出した。

その先に何があったのかを、この物語は書かない。

ただ、その夜以降、悠介と冬美の時間は、そこで一度、止まってしまった。


第十一章

葬儀から一週間後、智子は妹の家の玄関先に立っていた。

呼び鈴を押しても、しばらく応答がなかった。二度目を押したところで、ようやく鍵が開く音がした。

冬美は、髪を後ろで一つにまとめ、ひどく痩せた顔で立っていた。

「ご飯、作ってきたから」

智子はそう言って、持参した保存容器の袋を掲げた。冬美は小さく頷き、玄関を開けた。

(あの子、ちゃんと食べてるのかしら)

家に上がりながら、智子はそんなことを考えていた。

リビングには、蒼の写真が飾られていた。誕生日の少し前に撮った、笑顔の写真だった。智子はその写真から目を逸らした。まだ、正面から見る勇気がなかった。

「悠介さんは?」

智子が尋ねると、冬美はしばらく黙ってから答えた。

「仕事に行ってる」

「こんな時に?」

「本人が、そうしたいって」

智子の中で、何かが引っかかった。

(信じられない。あんなことがあったばかりなのに)

(でも、人それぞれ、悲しみ方が違うんじゃない)

(違いすぎるでしょう。冬美はこんなに憔悴してるのに)

智子は保存容器をキッチンに運びながら、心の中で悠介への苛立ちを募らせていた。会うたびに、彼はいつも通り冷静で、いつも通り無表情だった。葬儀のときも、涙一つ見せなかった。

(男の人は、そういうものなのかもしれない)

(それにしたって、冷たすぎる)

冬美はソファに座り、ぼんやりと窓の外を見ていた。

「お姉ちゃん」

「なに?」

「あの人、私の前で、一度も泣かないの」

智子は、キッチンから振り返った。

「泣けないだけかもしれないよ」

「そうかもしれないけど」

冬美は、膝の上で手を組んだ。

「私といるとき、あの人、いつも何かを我慢してるみたいに見える。それが、悲しくて我慢してるのか、それとも——」

冬美は、そこで言葉を止めた。

「それとも、何?」

「わからない。わからないから、苦しいの」

智子は、妹の隣に座った。何か言葉をかけようとしたが、適切な言葉が見つからなかった。

(この二人、大丈夫なんだろうか)

その不安が、智子の中で、初めてはっきりとした形を取った日だった。


第十二章

麗子が悠介と初めて仕事以外の話をしたのは、蒼が亡くなってから一年半ほど経った頃だった。

建築設計の打ち合わせで、麗子の会社が悠介の事務所に発注を出したのが、そもそもの出会いだった。仕事上のやり取りを重ねるうち、麗子は、この人が抱えている何かに気づいていった。

(この人、いつも上の空だ)

打ち合わせの席で、悠介は的確な返答をするのに、どこか心がここにないような雰囲気を纏っていた。麗子はそれを、最初は仕事熱心さの表れだと思っていたが、次第に違うことに気づいた。

(何かを、必死に押さえつけている)

ある夜、打ち合わせの帰りに、二人で軽く食事をすることになった。特に意図はなかった、はずだった。

「離婚されてるって、伺いましたけど」

麗子がそう切り出すと、悠介は少し驚いた顔をした。

「よくご存知ですね」

「事務所の方が、少し。詮索するつもりはなかったんですけど」

悠介はグラスを傾けながら、しばらく黙っていた。

「昔、つらいことがあったんです。それで、うまくいかなくなった」

「昔のことって?」

「昔のことです。もう関係ない」

その答え方に、麗子は違和感を覚えた。

(本当は、まったく関係なくなんかない)

麗子はそう感じたが、それ以上は聞かなかった。

その夜以降、二人は少しずつ、仕事以外でも会うようになった。麗子は、悠介のその「上の空」な部分に、なぜか強く惹かれていた。

(この人は、誰にも見せていない何かを、たくさん抱えている)

(それを、いつか私にだけ見せてくれるかもしれない)

その考えは、麗子の中で、次第に大きくなっていった。

だが、関係が深まるにつれ、麗子は別の違和感にも気づき始めた。悠介は、決して自分の過去を語らなかった。子供がいたかどうかさえ、麗子は最後まで知らなかった。

(この人と一緒にいても、私は、この人の半分も知らない)

その予感は、正しかった。二人の関係は、一年ほどで自然に終わった。悠介が別れを切り出したわけでも、麗子が切り出したわけでもなかった。ただ、少しずつ、連絡の頻度が減っていき、やがて何も残らなくなった。

(あの人は、結局、私を通り過ぎていっただけだったんだ)

麗子は、その関係が終わったあとになって、ようやくそのことに気づいた。


第十三章

冬美は、蒼が亡くなってからの一年間を、ほとんど覚えていなかった。

覚えているのは、断片だけだった。台所に立ち、鍋の前でぼんやりと立ち尽くしていたこと。蒼の部屋のドアを、何日も開けられずにいたこと。写真立ての中の蒼に向かって、独り言のように話しかけていたこと。

「今日ね、学校の前を通ったの。みんな、元気に走ってたよ」

誰も答えない部屋で、冬美はそう呟くことが増えていった。

(おかしくなってる、私)

一人の自分が、それを冷静に指摘する。

(でも、こうでもしないと、息ができない)

別の自分が、そう反論する。

編集の仕事には、比較的早く復帰した。むしろ、仕事に没頭している間だけが、唯一、蒼のことを考えずに済む時間だった。

(それでいいのか、私は)

(考えない時間があってもいいでしょう。じゃなきゃ、壊れる)

悠介との会話は、日に日に減っていった。同じ家に住んでいても、二人はまるで、別々の部屋に暮らしているようだった。悠介は、蒼の名前を一度も口にしなかった。冬美は、それを責めることもできなかった。自分もまた、彼の前でその名前を出すことが、できなくなっていたからだった。

(この人も、苦しんでいるはずなのに)

(なぜ、二人で支え合えないんだろう)

(支え合うって、どうやるの)

(わからない。誰も教えてくれない)

冬美は、蒼の写真に向かって話しかける習慣を、誰にも話さなかった。悠介にも、姉にも。それは、彼女だけの、密やかな儀式だった。

「今日は雨だったね。あなた、雨の日、長靴で水たまり、わざと踏んでたよね」

そう呟くとき、冬美の頭の中には、いくつもの声が同時にあった。

(馬鹿げてる、こんなこと)

(でも、やめられない)

(これをやめたら、あの子のことを、本当に忘れてしまう気がする)

その年の終わり、冬美と悠介は、どちらからともなく、別々に暮らすことを口にするようになった。


第十四章

離婚届に判を押したのは、蒼が亡くなってから二年後の、ある平日の午後だった。

区役所に隣接する法律事務所の、簡素な応接室。テーブルを挟んで、悠介と冬美が向かい合って座っていた。

司法書士が、書類を差し出す。

「こちらに、双方のご署名と押印をお願いします」

悠介がまず、書類にペンを走らせた。冬美は、その様子を見つめていた。

ペンが紙の上を滑る音だけが、部屋に響いていた。

「私も」

冬美が、書類を受け取った。ペン先を紙に当てたまま、彼女は一瞬、動きを止めた。

悠介は、それを黙って見ていた。

冬美が署名を終えると、司法書士は書類を確認し、静かに頷いた。

「以上で、手続きは完了です」

二人は同時に立ち上がった。応接室の外まで、司法書士が見送りに出る。

「今まで、お世話になりました」

悠介が、頭を下げた。

「こちらこそ」

冬美も、同じように頭を下げた。

エレベーターホールで、二人は並んで立った。エレベーターが来るまでの、ほんの数十秒間。

「元気で」

冬美が、先にそう言った。

「ああ、そっちも」

悠介が答えた。

エレベーターの扉が開いた。二人は同時に乗り込んだが、行き先階のボタンを押したのは、冬美だけだった。悠介の事務所は、地下の駐輪場にある。

一階に着くと、冬美が先に降りた。

「じゃあ」

「ああ」

それだけだった。

扉が閉まる直前、悠介は冬美の背中を見ていた。冬美は振り返らなかった。

エレベーターが再び動き出す。悠介は一人になった箱の中で、しばらく壁にもたれて立っていた。

その日以降、二人が顔を合わせることは、一年間なかった。


第十五章

デザートの水菓子が運ばれてきたのは、庭の楓の葉が、夕闇の中でほとんど黒く見え始めた頃だった。

連は、盆の上の二つの器を、そっと畳の上に置いた。錦玉羹に、季節の青梅を一粒沈めたもの。ガラスのように透き通った寒天の中で、梅の実が、小さな星のように光っていた。

「梅の錦玉羹でございます」

そう言いながら器を置くとき、連の目は、ほんの一瞬、冬美の手元に留まった。

彼女の指先が、器を受け取る動作の途中で、かすかに震えていた。

(気のせいかな)

一人の自分が、そう打ち消そうとする。

(いや、確かに震えてた)

別の自分が、それを否定しない。

連は、まだ半年の経験しかない自分に、こういう場での余計な観察をする資格があるのかどうか、よくわからなかった。だが、そのわずかな震えは、なぜか強く印象に残った。まるで、その指先だけが、この部屋の静けさに耐えきれず、小さな悲鳴を上げているように見えた。

(何かあったのかな、この人たち)

(考えるな。お前の仕事は、器を置くことだけだ)

連は一礼し、静かに障子を閉めた。廊下に出ると、坪庭の水音が、いつもより大きく聞こえた。

(絵里に、なんて言おう)

急に、まったく違う考えが割り込んでくる。今夜、この後に控えていることを思うと、連の胸の奥で、また別の緊張が疼き始めた。だが同時に、さっき見た震える指先のことが、頭から離れなかった。

(あの人たち、いったい、どんな時間を過ごしてるんだろう)

答えの出ない問いを抱えたまま、連は厨房へと戻っていった。

障子の向こうでは、悠介が匙を取り、錦玉羹をひと匙すくっていた。冬に美は、その動きをじっと見ていた。

「綺麗ね、これ」

冬美が言った。声は、いつも通り穏やかだった。だが匙を持つ手は、まだかすかに震えていた。

「ああ」

悠介は、短く答えて、匙を口に運んだ。梅の酸味が、舌の上でゆっくりと広がっていく。

窓の外で、また小さな羽音がした。今度は、二人とも、それに気づかないふりをした。


第十六章

悠介は、匙を置いた。器の中の錦玉羹は、まだ半分ほど残っていた。

(今だ)

理屈の自分が、静かにそう告げる。

(デザートの後、と決めていたはずだ)

(もう、デザートの最中だろう)

(今言わなければ、今年もまた、言わずに終わる)

悠介の中で、いくつもの自分が、一斉に声を上げ始めた。今までの静かな会議とは、少し様子が違っていた。声の数が増え、それぞれが早口になっている。

(言葉を選べ。伝え方を間違えるな)

冷静な自分が、まだ主導権を握ろうとする。

(伝え方なんて、この際どうでもいい。言うか言わないかだけだ)

意地の悪い自分が、それを一蹴する。

(怖いんだろう、本当は)

臆病な自分の声は、もう小さくなっていた。今夜ばかりは、その声が押し切られていく気配があった。

悠介は、湯呑みに手を伸ばした。すでに冷めかけた茶を、一口含む。

(あの日も、こうやって、茶を飲んでいた)

その記憶が、不意に頭の奥から浮かび上がってきた。デザートを待ちながら、冬美と二人で、他愛もない会話をしていたあの夜。「今日、来てよかったね」と、彼女が言った声。窓の外から聞こえていた、小さな、はしゃぐ声。

(思い出すな。今は、その話じゃない)

一人の自分が、慌ててその記憶を押し戻そうとする。だが、その声は、今夜はいつもより弱かった。

(思い出していいんじゃないか。もう八年経つんだ)

別の自分が、初めてそう言った。悠介にとって、それは意外な声だった。今まで、その記憶に近づこうとする自分を、いつも別の自分が全力で押し留めてきた。だが今夜は、その抵抗が、わずかに緩んでいた。

(変わるべき時が来たのかもしれない)

悠介は、そっと息を吸った。

「冬美」

その名を口にしたのは、久しぶりのことだった。いつもは「そちら」とか、「そっち」とか、名前を避けるようにして話しかけてきた。だが今夜は、自然と、その名前が口から出た。

冬美が、顔を上げた。匙を持つ手が、器の縁で止まった。

「なに?」

悠介の中で、すべての声が、一瞬だけ静まった。まるで、会議室の全員が、発言者の言葉を待つように。

「事務所を、畳もうと思ってる」

その一言を口にした瞬間、悠介の中の会議が、また一斉に再開した。

(言った。ついに言った)

(もっと丁寧な言い方があったんじゃないか)

(今更、遅い)

(冬美は、どんな顔をしている)

悠介は、目の前の冬美の表情を、注意深く見つめた。彼女は、驚いた様子も、悲しんだ様子も見せなかった。ただ、静かに悠介の顔を見返していた。

「福岡の物件、話を進めてる。契約寸前まで来てる」

悠介は続けた。声が、わずかに震えているのが、自分でもわかった。

「来年の今頃は、この街にいないかもしれない」

その言葉が、部屋の空気の中に、静かに沈んでいった。

冬美は、しばらく黙っていた。窓の外で、また小さな羽音がした。

やがて、彼女は、匙を静かに器の上に置いた。

「そう」

短い返事だった。それ以上の言葉は、まだ出てこなかった。

悠介の中で、無数の自分が、その短い返事の意味を、それぞれ勝手に解釈しようとしていた。

(怒っているのか)

(安堵しているのか)

(それとも、何も感じていないのか)

答えは、誰にもわからなかった。悠介自身にも、冬美自身にも。

窓の外の暗がりで、楓の葉が、風もないのに揺れていた。


第十七章

「そう」

冬美は、自分の口からこぼれたその一言が、あまりに軽すぎるように感じられて、少し戸惑っていた。

(もっと、何か言うべきだったんじゃないの)

一人の自分が、すぐにそう咎める。八年、いや、正確に言えば十年以上を共にした相手が、この街を出ていくと言っている。それなのに、返した言葉は「そう」の一言だけだった。

(じゃあ、何て言えばよかったの)

別の自分が、開き直ったように問い返す。

(「寂しくなる」とか、「元気で」とか、何か——)

(今更、そんな言葉、白々しいでしょう)

冬美は、匙を置いた手を、膝の上でそっと組んだ。

窓の外で、また小さな羽音がした。楓の葉の陰に、何かが止まっている気配があった。

(この人は、もう決めたんだ)

冬美の中で、一つの声が、静かにそう結論づける。

(契約寸前、って言ってた。もう、私の意見なんて、関係ないところまで進んでる)

(当たり前でしょう。もう他人なんだから)

(他人、か)

その言葉を、冬美は自分の中で、何度も繰り返した。他人。籍を抜いて、もう五年以上が経つ。それなのに、毎年この時期になると、こうして同じ部屋で、同じように向かい合っている。他人同士が、こんなことを続けるだろうか。

(続けてきたのは、私たちだけだったのかもしれない)

そう思ったとき、冬美の頭の中で、また別の記憶が顔を出した。

——蒼が生まれた日の病室。悠介が、初めて我が子を抱いたときの、あの不器用な手つき。腕の中で、小さな体がもぞもぞと動くたびに、彼はおろおろと視線を彷徨わせていた。

(あんなに、頼りなかったのに)

(あんなに、嬉しそうだったのに)

その記憶が浮かぶと同時に、冬美の中で、また別の声が割り込んできた。

(今、私のお腹の中にも、小さな命がある)

その事実を、冬美はまだ、この部屋の中では一度も言葉にしていなかった。

(言うべきだ)

急かす自分が、また前に出てくる。

(今、悠介が自分のことを打ち明けたばかりじゃない。このタイミングを逃したら、もう機会はないかもしれない)

(でも——)

別の自分が、それを押しとどめる。

(でも、何?)

(この人に、報告する義理なんて、本当はないのかもしれない)

冬美は、そっと自分の下腹に手を当てた。まだそれほど目立たない膨らみを、掌でそっと確かめる。相手は、勤め先で知り合った、五つ年下の男だった。悠介との離婚から三年後に出会い、一年前から一緒に暮らし始めていた。誠実で、穏やかで、蒼のことも、悠介のことも、彼女がすべてを話したうえで、それでも一緒にいると言ってくれた人だった。

(彼には、もう伝えてある)

(喜んでくれた。ちゃんと)

(でも、悠介には、まだ)

なぜ、この人に伝えることに、これほど躊躇いを感じるのか。冬美は、自分でもうまく説明できなかった。

(罪悪感、なのかな)

一人の声が、そう呟く。

(罪悪感なんて、おかしいでしょう。もう別々の人生を歩いてるのに)

(でも、感じてしまうものは、仕方ない)

(あの子を、裏切るような気がするから?)

その問いに、冬美は答えられなかった。新しい命を授かったと知ったとき、真っ先に浮かんだのは、喜びよりも先に、蒼の顔だった。

(あの子の代わりに、新しい子を持つみたいで、嫌だった)

(でも、代わりなんかじゃない)

(わかってる。頭ではわかってる)

(でも、心のどこかで、まだそう思ってしまう自分がいる)

冬美は、目の前の悠介を見た。彼は、静かに茶を飲んでいた。表情からは、何を考えているのか、まったく読み取れなかった。

(この人にも、伝えるべきだ)

冬美の中で、初めて、はっきりとした結論を持つ声が生まれた。

(伝えなければ、私はまた、一人で抱え込むことになる)

(それは、もう、やめたはずだったじゃない)

八年前、蒼を失ったあとの一年間、冬美は誰にも本音を打ち明けられずに過ごした。悠介にも、姉にも、母にも。あの孤独を、彼女はもう二度と繰り返したくなかった。

(言おう)

(今、ここで)

冬美は、そっと息を吸った。だが、口を開こうとした瞬間、また別の自分が、それを押しとどめた。

(本当に、今なの)

(悠介が、今夜、自分のことを打ち明けたばかりなのに、それに被せるように言うのは、なんだか——)

(フェアじゃない、ってこと?)

(そうじゃなくて。彼の言葉を、ちゃんと受け止める前に、自分のことに話を移すのが、なんだか嫌なの)

冬美は、その考えに、自分でも少し驚いた。今まで、悠介に対して「配慮」というものを、こんなふうに感じたことは、久しくなかった。

(変わったのかもしれない、この関係も)

窓の外で、また羽音がした。冬美はそちらへ目をやった。楓の葉の陰で、小さな光が、一瞬だけ瞬いたような気がした。

(気のせいよね、蛍には、まだ早い季節だから)

そう思いながらも、冬美の目は、しばらくその葉陰から離れなかった。

「福岡、か」

冬美は、ようやく言葉を発した。

「ああ」

「いつから、向こうに?」

「まだ、はっきりとは決まってない。契約が済んだら、年内には」

冬美は頷いた。頭の中では、まだ「伝えるべきかどうか」の会議が続いていた。だが、その会議の結論は、少しずつ、一つの方向に定まりつつあった。

(今夜じゃなくてもいい)

(でも、いつかは、伝えなきゃいけない)

(それが、いつになるかは、まだわからないけれど)

冬美は、匙を再び手に取り、錦玉羹の残りをひと匙、口に運んだ。梅の酸味が、舌の上で、静かに広がっていった。

窓の外の暗がりは、いつの間にか、さらに深くなっていた。


第十八章

障子が開き、連が次の皿を運んできた。焼き物だった。鮎の塩焼きが、姿のまま、青竹の器に横たえられている。腹の部分に、蓼酢の小皿が添えられていた。

「鮎の塩焼きでございます。蓼酢をどうぞ」

連は器を置き、一礼して下がった。障子が閉まる音が、いつもより大きく響いた気がした。

悠介は、鮎に箸をつけた。皮がぱりっと割れる感触が、箸先から伝わってくる。

「今年は、鮎、大きいね」

冬美が言った。

「ああ、水がよかったんだろう」

会話は、まだそこで終わりそうだった。だが、悠介は箸を置き、少し身を乗り出した。

「冬美」

「なに」

「さっきの話、少し補足していいか」

冬美は頷いた。彼女の手は、まだ蓼酢の小皿に伸びかけたまま、止まっていた。

「事務所を畳むって言ったけど、辞めるわけじゃない。福岡で、小さい規模から、また一人で始めるつもりだ」

「そう」

「向こうの知り合いが、古い民家の改修の仕事を紹介してくれてる。それがきっかけで」

冬美は、鮎の身をほぐしながら、聞いていた。

「なんで、急に」

「急にじゃない。前から、少しずつ考えてた」

悠介は、湯呑みに手を伸ばした。

「この街に、正直、疲れたところもある」

その言葉に、冬美は箸を止めた。

「この街に、って——」

言いかけて、彼女は言葉を飲み込んだ。

(この街、っていうのは、この部屋のことも、含まれているんだろうか)

そんな疑問が、頭をよぎった。だが、それを問うことは、なんだか怖かった。

「この部屋の話も、含まれてる?」

冬美は、思い切って尋ねた。

悠介は、しばらく黙っていた。窓の外で、庭木の葉が、かすかに揺れる音がした。

「わからない」

正直な答えだった。

「毎年、ここに来ることが、救いだったのか、それとも——」

悠介は、そこで言葉を止めた。

「それとも、傷を、わざわざ開き続けているだけなのか。俺には、もう、わからなくなった」

冬美は、その言葉を、静かに受け止めた。彼女自身、同じ疑問を、何年も抱えてきた。

「私も、同じこと、思うことがある」

冬美が言った。

「毎年、この時期になると、体が勝手に、この部屋を予約しなきゃって思う。でも、来るたびに、何を話していいか、わからなくなる」

悠介は、頷いた。

「話すことなんて、本当は、何もないのかもしれない」

「ないんじゃなくて」

冬美は、少し首を振った。

「多すぎて、選べないんだと思う」

その言葉に、悠介は目を上げた。冬美の顔を、久しぶりに、正面から見た気がした。

「多すぎる、か」

「うん」

障子の外で、また小さな羽音がした。楓の葉の間を、何かが飛んでいる。

「あの子、虫、好きだったね」

冬美が、ふと呟いた。

その名前を出さない呼び方——「あの子」――は、二人の間で、長い間、暗黙のルールになっていた。名前を口にすることは、二人とも、まだできなかった。

悠介は、少し間を置いてから、頷いた。

「ダンゴムシ、集めてたな。庭のプランターの下、いつも覗いてた」

「覚えてる」

冬美は、微笑んだ。それは、久しぶりに見せる、自然な微笑みだった。

「弥四郎さんが、蛍を見せてくれたとき、あの子、すごく喜んでた」

その言葉が出た瞬間、二人の間の空気が、わずかに変わった。今まで、決して触れてこなかった、あの夜の一部に、初めて言葉が届いた。

悠介は、湯呑みを両手で包んだ。

「あの日のこと、俺は、ずっと——」

その先を、彼はうまく続けられなかった。冬美は、黙って待った。

「弥四郎さんを、恨んだこともある。誘わなければ、って」

「私も、同じこと考えたことある」

冬美が言った。

「でも、それを言っても、誰も戻ってこない」

「わかってる。わかってるけど」

悠介は、目を伏せた。

「弥四郎さんも、この八年、ずっと、同じ献立を、同じように作り続けてる。あの人なりの、償いなんだと思う」

冬美は、頷いた。

「私たちも、同じかもね。毎年、ここに来ることが」

沈黙が、また部屋を満たした。だが、今までの沈黙とは、少し質が違っていた。重さは同じでも、そこに込められたものが、少しだけ違っていた。

冬美は、蓼酢に手を伸ばし、鮎の身に少しだけつけた。口に運ぶと、酸味が、舌の上で静かに広がった。

(今、言うべきかもしれない)

一人の自分が、そう呟いた。

(この空気の中でなら、言えるかもしれない)

冬美は、箸を置いた。

「悠介」

「なに」

「私、実は」

冬美は、一度、深く息を吸った。

「今、お腹に、子供がいるの」

その言葉が、部屋の空気の中に、静かに広がっていった。

悠介は、しばらく、何も言わなかった。表情も、大きくは動かなかった。だが、その内側では、無数の声が、一斉に沸き起こっていた。

(え)

(子供)

(新しい)

(喜ぶべきなのか)

(何を思えばいいのか、わからない)

(あの子のことを、思い出さないわけにはいかない)

(でも、これは、あの子とは、何の関係もない、新しい命だ)

悠介は、しばらくしてから、ようやく口を開いた。

「そうか」

短い言葉だった。だが、その声には、今までとは違う響きがあった。

「相手の人、誠実な人なんだろう」

「うん」

「よかったな」

悠介は、そう言って、微かに笑った。それは、作られた笑顔ではなかった。

冬美は、その表情を見て、少しだけ、肩の力を抜いた。

「ありがとう」

「いつ生まれる?」

「秋の終わり」

「そうか」

会話は、そこでまた、途切れた。だが、今度の沈黙は、二人にとって、少しだけ、軽いものになっていた。

障子の外で、また羽音がした。冬美はそちらへ目をやった。楓の葉の陰に、小さな光が、一瞬だけ、確かに瞬いた。

「見て」

冬美が、小さく声を上げた。

悠介も、そちらを見た。

「蛍か」

「まだ、早い季節だと思ってた」

「今年は、少し早いのかもしれない」

二人は、しばらくの間、黙って、その小さな光を見つめていた。

(あの子も、こうやって、見ていたんだろうか)

同じ考えが、二人の頭の中に、同時に浮かんでいた。だが、それを言葉にすることは、どちらもしなかった。

やがて、光は、葉の陰へと消えていった。

「そろそろ、お開きにしようか」

悠介が、静かに言った。

「そうね」

冬美は、頷いた。

二人は、それぞれの湯呑みに残った茶を、最後まで飲み干した。

障子の外で、連の足音が、こちらに近づいてくるのが聞こえた。


第十九章

弥四郎は、水菓子の残りの盛り付けを終えると、包丁を布巾で拭き、まな板の脇にそっと置いた。

厨房の喧騒は、夜の営業がピークになる時間を過ぎて、少しずつ落ち着き始めていた。若い衆が洗い場で立てる水音、鍋を洗う音、遠くの客席から漏れてくる笑い声。それらの音の向こうで、弥四郎は、しばらくの間、ただ立ち尽くしていた。

(今年で、六十九か)

一人の自分が、静かにそう呟く。

(もう若くはない)

包丁を握る手は、まだ震えていない。だが、朝方、長時間立ち続けたあとの膝の痛みは、去年よりも確実に増していた。体は、正直だった。

(あと何年、この場所に立てるだろうか)

その問いは、この数年、繰り返し弥四郎の頭に浮かんでは消えていった。だが今年は、その問いに、少しだけ違う重みがあった。

厨房の奥から、若い連が戻ってきた。梅の間から下げてきた膳を、洗い場へと運んでいく。

「弥四郎さん」

連が、ふと声をかけてきた。

「なんだ」

「梅の間のお客様、今日、なんだか、いつもと違う感じでした」

弥四郎は、手を止めて、連の方を見た。

「どう違った」

「なんというか……最後の方、少し、お二人とも、表情が柔らかくなってたような」

弥四郎は、それ以上、何も言わなかった。ただ、小さく頷いただけだった。

(何かが、動いたのかもしれない)

一人の自分が、そう感じ取る。

(八年、ずっと同じだったのに)

弥四郎の中で、あの夜の記憶が、また蘇ってくる。あの夜、蒼という名の小さな子供の手を引いて、裏庭に出た。「蛍を見せてやるからな」と、自分が言った言葉。子供は、目を輝かせて、暗がりの中の小さな光を追いかけていた。

——見えた! 光ってる!

その声を、弥四郎は、今でも耳の奥で、はっきりと聞くことができた。

(あの数分間が、俺にとっては、この八年で一番、大事な時間だったのかもしれない)

そう思うと同時に、別の声が、いつものように、それを咎めにかかる。

(大事な時間だったなんて、言えるはずがないだろう。あの子は、あの後、死んだんだ)

(俺のせいで)

(何度、同じことを言えば気が済むんだ、お前は)

その自問自答を、弥四郎はもう、何百回、何千回と繰り返してきた。答えは、いつも出なかった。ただ、一つだけ、確かなことがあった。

(この献立を、俺は、あの子のために、作り続けてきた)

毎年、五月の最終週。芦田悠介という名前で予約が入ると、弥四郎は、他の誰にも任せず、自分の手で、鱧の骨切りをし、梅の錦玉羹を仕上げる。それは、店の看板を守るためでも、常連客への礼儀のためでもなかった。ただ、自分自身の中にある、何かへの、償いのようなものだった。

(でも、この体も、いつまで持つかわからない)

若い連が、洗い場で、器を丁寧に洗っている。その姿を見ながら、弥四郎は、ふと、自分の弟子入りした頃のことを思い出した。もう四十年以上前、この店の先代の下で、包丁の持ち方から教わった日々。あの頃、自分がこんなに長く、この場所に立ち続けるとは、思ってもいなかった。

「連」

「はい」

「お前、この仕事、続けるつもりあるか」

連は、手を止めて、驚いたように顔を上げた。

「え、はい。まだまだ、修行中の身ですけど」

「骨切り、教えてやろうか。来月から」

連の目が、大きく見開かれた。

「本当ですか!」

弥四郎は、小さく頷いた。

(教えるなら、早い方がいい)

一人の自分が、静かにそう告げる。

(この技を、誰かに、渡しておかなければ)

弥四郎は、まな板の上の布巾を、もう一度、丁寧に畳み直した。

(今年で、最後にしよう)

その考えが、今夜、初めてはっきりとした輪郭を持った。梅の間の献立を、来年からは、若い衆に任せる。自分は、その隣で、見守る役に回る。

(それが、正しい引き際なのかもしれない)

だが同時に、別の自分が、静かに、けれど確かな声で、こう囁いた。

(それでも、来年も、あの部屋の予約が入ったら)

(お前は、また、包丁を握るんじゃないのか)

弥四郎は、その声に、はっきりとした答えを返すことができなかった。ただ、まな板の前に立ったまま、しばらくの間、坪庭の方角に目をやっていた。

障子の隙間から、庭の暗がりが見えた。楓の葉の間を、小さな光が、一瞬、瞬いたように見えた。

(今年は、少し早かったな)

弥四郎は、そう呟いて、静かに厨房の明かりを一つ、消した。


第二十章

裏口の戸を開けると、湿った夜気が、連の頬にまとわりついた。

エプロンを外し、私服のシャツ一枚になった彼は、ポケットの中の小さな箱を、もう一度、上着の内側に移し替えた。

(絵里、もう来てるかな)

裏路地の角、いつもの街灯の下に、女性の影が見えた。連は、小走りにそちらへ向かった。

「お疲れ様」

絵里が、いつもの笑顔で、そう声をかけてきた。

「お疲れ。ごめん、少し遅れた」

「ううん、大丈夫」

二人は、並んで歩き出した。近くの小さな公園まで、歩いて五分ほどの距離だった。

(今、言おうか)

(いや、あの公園のベンチまで待とう)

(いや、今の方が、自然かもしれない)

連の頭の中で、いくつもの声が、忙しく行き交っていた。今夜、店で見た、あの部屋の二人のことが、まだ心のどこかに引っかかっていた。

(あの人たち、何年も、同じ部屋で、あんなふうに、静かに座り続けてきたんだろうか)

(俺と絵里も、いつか、あんなふうになるんだろうか)

(いや、今は、そんなこと、考える時じゃない)

公園に着くと、街灯の明かりの下、ベンチが一つ、ぽつんと置かれていた。二人は、そこに並んで座った。

「今日、店、忙しかった?」

絵里が尋ねた。

「まあまあ。でも、いろいろ、考えさせられることが多かった」

「へえ、どんなこと?」

連は、少し迷ってから、答えた。

「常連さんのことなんだけど。何年も、同じ時期に、同じ部屋を予約して、あまり多くを語らずに、ただ食事をして帰っていく人たちがいるんだ」

「なんだか、意味深だね」

「うん。でも、なんとなく、思ったんだ。人って、言葉にしなくても、続けられる関係が、あるのかもしれないって」

絵里は、少し不思議そうな顔で、連を見た。

「連、今日、変だよ。いつもと違う」

連は、ポケットの中の箱に、そっと手を触れた。

(今だ)

一人の自分が、そう告げた。

(緊張するな。ただ、思っていることを、そのまま言えばいい)

連は、ベンチから立ち上がり、絵里の前に、片膝をついた。

「え、連——」

絵里の声が、驚きで途切れた。

連は、上着の内側から、小さな箱を取り出した。手が、少し震えていた。だが、その震えは、今夜、あの個室で見た、冬美の指先の震えとは、まったく違う種類のものだった。

「絵里」

連は、箱を開けた。街灯の明かりが、小さな指輪に反射した。

「一緒に、いてほしい」

その一言だけで、あとの言葉は、うまく出てこなかった。だが、それで十分だった。

絵里の目に、涙が浮かんでいた。

「うん」

短い返事だった。だが、それは、確かな返事だった。

連の中で、今まで騒がしかった無数の声が、その瞬間、初めて、一つになった。

(よかった)

ただ、それだけの声が、静かに響いていた。

夜の公園に、街灯の明かりだけが、二人を照らしていた。遠くで、小さな虫の声が、途切れることなく続いていた。


第二十一章

麗子が個室を出たのは、隣の棟から、微かな物音——障子の開く音、廊下を歩く足音——が聞こえてきた、少しあとのことだった。

「今日は、ごちそうさまでした」

取引先の部長に、そつのない笑顔で頭を下げる。玄関先まで見送り、タクシーに乗り込む彼を見届けたあと、麗子はしばらく、暖簾の下に立ち尽くしていた。

(もう、行った方がいい)

一人の自分が、そう告げる。

(でも、まだ、あの人がいるかもしれない)

麗子は、店の玄関脇にある下足棚に、目をやった。灰色のステンカラーコートは、まだそこに掛かっていた。

(会って、何を言うつもりなの)

冷静な自分が、問いかけてくる。

(別に、何も。ただ、元気そうだったって、それだけ)

(それだけのために、三年ぶりに、声をかけるつもり?)

麗子は、答えられなかった。

やがて、廊下の奥から、話し声が近づいてきた。麗子は、とっさに、暖簾の陰に体を寄せた。

「お会計は、こちらで」

仲居の声。続いて、聞き覚えのある低い声が答える。

「ありがとうございました」

悠介の声だった。三年経っても、変わっていなかった。

麗子は、暖簾の陰から、そっと様子を窺った。悠介が、コートを羽織っている。その隣に、一人の女性が立っていた。年齢は、麗子と同じくらいだろうか。柔らかい表情をした女性だった。

二人は、何か短い言葉を交わしていた。内容までは、聞き取れなかった。だが、その様子は、麗子が知っている悠介とは、少し違って見えた。

(穏やかな顔をしてる)

麗子の中で、そう気づく自分がいた。

(私といたときは、あんな顔、見たことなかった)

嫉妬にも似た感情が、一瞬、胸の奥を掠めた。だが、それはすぐに、別の感情に取って代わられた。

(あの人にも、ちゃんと、大事な時間が、あったんだ)

麗子は、暖簾の陰で、静かに息を吐いた。

(声を、かけなくてよかった)

そう思う自分と、

(本当は、かけたかった)

思う自分が、同時に、麗子の中に存在していた。だが、その二つの声は、もう争わなかった。ただ、静かに、並んで存在することを、麗子は許すことにした。

悠介と、その女性は、頭を下げ合う仲居に見送られて、店の外へと出ていった。暖簾の向こうに、二つの影が、少しずつ遠ざかっていく。

麗子は、しばらくそこに立っていた。

(手紙を書こうかな)

ふと、そんな考えが浮かんだ。

(出さない手紙。誰にも読まれない手紙)

(それでも、書くことに、意味があるのかもしれない)

麗子は、下足棚から、自分の靴を取り出した。振り返らずに、店の外へと歩き出す。

夜の風が、少しだけ湿り気を帯びていた。空を見上げると、月は雲に隠れて見えなかった。

(あの人にとって、あの部屋は、いったい何だったんだろう)

その問いに、麗子は、もう答えを求めないことにした。答えのない問いを、抱えたまま歩くことにも、慣れてきていた。

麗子は、駅へ向かう道を、一人、静かに歩いていった。


第二十二章

暖簾をくぐると、外の音が消える。

一年前と、同じ造りの店だった。格子戸を一枚隔てただけで、通りを走る車の音も、隣のビルの工事の音も、すっと引いていく。かわりに聞こえてくるのは、遠くの厨房から漏れる包丁の音と、坪庭の水が石を打つ音だけだった。

仲居が先に立って廊下を歩く。足袋の裏が畳を擦る音が、規則正しく続く。突き当たりの障子の前で立ち止まり、膝をついて襖に手をかけた。

「梅の間でございます」

障子が開く。八畳の個室。床の間には、季節の掛け軸と、白い花器に一輪だけ挿された著莪の花。窓の障子は半分だけ開けられていて、庭の楓の若葉が見える。

先に座っていた女が、軽く頭を下げた。傍らには、小さな乳児用の椅子が一つ、畳の上に置かれていた。

男はその向かいに腰を下ろした。座布団に沈み込むとき、膝が小さく鳴った。福岡から、朝の便で戻ってきたばかりだった。

「お待たせしました」

「いえ」

それだけだった。

仲居が茶を運んでくる。湯呑みは二つとも、同じ窯元の、同じ柄のものだった。白地に、青い線が一本、口元近くを巡っている。女がそれを手に取り、両手で包むようにして口へ運んだ。男はしばらくその湯気を見ていたが、やがて自分の湯呑みにも手を伸ばした。

障子越しに、庭の水音が続いている。

先付けが運ばれてきた。小さな器に、うるいの胡麻和えと、小鮎の炙りが並んでいる。仲居が器の名を告げ、去っていく。

女が箸を取った。うるいを一口。目を伏せたまま、しばらく咀嚼している。男も箸を取ったが、まず小鮎の方に伸ばした。

「美味しいですね」

女がそう言った。

「ええ」

男はそれだけ答えて、また箸を動かした。

窓の外で、何かが飛んでいる羽音がした。小さな、低い羽音。女がそちらへ目をやったが、何も言わなかった。傍らの乳児用の椅子に、そっと手を添えただけだった。

椀物が運ばれてきた。蓋を開けると湯気が立ち上り、鱧と冬瓜、それに小さく刻んだ茗荷が沈んでいる。出汁の匂いが個室いっぱいに広がった。

女が蓋を持ったまま、しばらく湯気を見ていた。

「今年も、鱧なんですね」

「季節ですから」

男が言った。女は小さく頷いて、椀に口をつけた。

会話はそこで途切れた。

沈黙が続く間、男は箸先で椀の中の茗荷を探るように動かしていた。女は畳の一点を見つめていた。どちらも、何かを言おうとして、言わなかった。

厨房では、新しい若い料理人が、老いた料理長の隣に立ち、骨切りの手ほどきを受けていた。とん、とん、とんという音が、いつもより少しだけ、たどたどしく響いていた。

仲居が次の皿を運んでくる。刺身の盛り合わせ。鮃の薄造りと、鰹のたたきが、青竹の器に美しく並べられている。

「どうぞ」

仲居が去ると、また静けさが戻った。

女が鰹に山葵を乗せる手を止めて、窓の外を見た。楓の葉が、風もないのにわずかに揺れている。何かがそこに止まっているようだった。

男もつられて視線を向けたが、すぐに手元の皿に戻した。

「そちらは、変わりありませんか」

女が言った。抑揚のない声だった。

「ええ、まあ」

男は答えたが、それ以上は続けなかった。

女も、それ以上は聞かなかった。

箸が皿の上を行き来する音、湯呑みが置かれる音、遠くの厨房から漏れる音。個室の中には、それだけが満ちていた。

八畳の部屋に、二人分の沈黙が積もっていく。

障子の外で、また小さな羽音がした。

女はそちらを見なかった。男も見なかった。

料理は、静かに、次から次へと運ばれてきた。


(了)

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