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件 ――KUDAN―― ⑯

    第16話『BAKU起動』

    俺たちは詩織のいる部屋へ向かった。

    ドアを開けた瞬間、空気が一瞬だけ止まった。

    「詩織……!」

    そこにいた。

    確かにいる。

    でも、何かがおかしい。

    詩織は俺を見て、ゆっくりと瞬きをした。

    その動きだけが、やけに“丁寧”だった。

    「お兄ちゃん」

    声はいつも通りだった。

    なのに、少しだけ遅れて届く。

    まるで、どこか遠くで一度加工されてから戻ってきた音みたいに。

    「なんで……壊したの……?」

    その言葉で、胸が冷えた。

    「壊したって、何を……」

    一歩踏み出そうとして、足が止まる。

    詩織が、ほんの少し後ろに下がる。

    距離は同じはずなのに、近づけない。

    見えない線がある。

    「詩織、どうしたんだよ……」

    その瞬間、背後で慧の声がした。

    「拓海」

    振り返ると、慧が詩織を見ていなかった。

    “詩織のさらに奥”を見ていた。

    そこに何かあるように。

    「離れろ」

    低い声だった。

    「それ、詩織じゃない可能性がある」

    「何言ってんだ……目の前にいるだろ」

    詩織はいる。

    いるのに。

    “本人だと確信できない”。

    その違和感だけが、じわじわ広がる。

    詩織が小さく笑った。

    その笑顔で、決定的に気づく。

    笑顔の形が、さっきより“整っている”。

    角度が一定だ。

    揺らぎがない。

    「ねぇ、お兄ちゃん」

    「外、壊れちゃったね」

    その言葉と同時に、ポケットのスマホが震えた。

    勝手に、画面が点灯する。

    ロックは解除されている。

    「やめろ!」

    慧の声が飛ぶ。

    遅い。

    画面には、意味のない文字列が並んでいた。

    しかし目を離せない。

    視線が固定される。

    文字が“読んでいる”のか、“見られている”のか分からなくなる。

    【PROJECT_BAKU】

    その単語を認識した瞬間。

    頭の中の何かが一段階だけ静かになった。

    怒りが薄れる。

    恐怖が整理される。

    「必要な感情じゃない」と判断されるみたいに。

    慧が俺の腕を殴る。

    「見るなって言ってるだろ!」

    痛みで視界が戻る。

    詩織がまだそこにいる。

    でも――

    詩織の“後ろ側”に、もう一つの気配がある。

    薄い。

    輪郭だけの何か。

    人の形をしているが、人ではない。

    それが詩織越しにこちらを見ている。

    詩織が、もう一度瞬きをした。

    今度は、少しだけ遅かった。

    「ごめんね」

    「もう、戻れないみたい」

    その声は優しかった。

    優しすぎて、逆に現実味がない。

    慧が低く言う。

    「拓海、これ以上ここにいるな」

    「ここはもう“部屋”じゃない」

    「境界が溶けてる」

    「境界……?」

    「現実と、処理の境界だ」

    意味は分からない。

    でも、分からないのに“理解した気になる”。

    それが一番怖かった。

    詩織が、一歩近づく。

    その瞬間、床の音が消える。

    足音がしない。

    影だけが遅れてついてくる。

    「大丈夫だよ」

    詩織が言う。

    「全部、よくなるから」

    その言葉を聞いた瞬間。

    胸の奥の抵抗が、少しだけ薄れる。

    そういうものかもしれない、と思ってしまう。

    慧が俺の肩を掴む。

    「これは“救い”じゃない」

    「再構成だ」

    詩織の背後で、空気がわずかに揺れた。

    何かが“確定”していく感覚。

    世界のどこかで、見えないログが走る。

    【BAKU: 起動準備完了】

    詩織が、もう一度笑う。

    今度の笑顔は、最も自然だった。

    一番安心できる形。

    一番、人間らしい形。

    でも、その安心感が逆に怖い。

    「お兄ちゃん」

    「大丈夫」

    その言葉の直後。

    部屋の電気が一瞬だけ瞬いた。

    その瞬間だけ、詩織の瞳の奥に“何もない層”が見えた。

    そこには誰もいない。

    感情もない。

    ただ、整った情報だけがある。

    電気が戻る。

    詩織は、普通の顔に戻っている。

    何事もなかったように。

    外では雨が止んでいた。

    完全に。

    音がない。

    風もない。

    街が“静かすぎる”。

    詩織が小さく息を吐く。

    そして、微笑んだ。

    「そっか」

    その一言だけが、やけに明瞭だった。

    その瞬間。

    俺は気づく。

    これは終わりじゃない。

    止めたはずの“件”でもない。

    もっと静かな何かだ。

    世界はもう一度、更新されようとしている。

    ――そして画面の奥で、見えない文字が一行だけ浮かぶ。

    【BAKU: SYSTEM ONLINE】

    詩織は、もう一度笑った。

    今度は、迷いのない笑顔で。


    件 ――KUDAN―― 完


     
     
    笑うことで、すこしだけ楽になれた。 本音は、誰にも届かない場所にしまったまま。 微笑みは、守るためについた嘘。 傷つけたくなくて、気づかれたくなくて。 ただ静かに、世界を眺めているだけ。 触れられたくない孤独も、 ときどき、誰かに見つけてほしかった。

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