
地球最後の引っ越し屋|最終話「地球最後の部屋」
残り一日。
地下は、
地上の白紙化を開始した。
道路標識が消える。
マンション名が消える。
駅名が消える。
店の看板が、
真っ白になる。
人間は、
帰れなくなる。
地下は、
地上を「住所のない空間」に変え始めていた。
宮下が、
小さく言った。
「先輩」
「もう、
世界終わるんすかね」
俺は、
運転席から前を見ていた。
世界は静かだった。
静かすぎた。
風が吹いているのに、
街が鳴らない。
もう、
地上は、
地下のコピーになり始めていた。
トラックだけが、
まだ音を持っていた。
荷台の奥。
工具箱の中で、
世界が鳴っている。
コードが軋む。
針が震える。
ガラスが、
かすかに光を返す。
布が湿気を吸い。
鉄が重く鳴り。
リベットが、
小さく「チン」と響く。
そして。
杉の木片を中心にして、
すべてが、
ひとつの寸法で繋がり始めていた。
宮下が言う。
「……先輩」
「最近、
荷台の中、
広くないすか」
俺は、
バックミラーを見る。
確かに。
荷台の奥行きが、
少し伸びていた。
いや。
違う。
“部屋”になり始めていた。
地下が、
地上を消していく。
なら。
俺たちは、
最後に、
地上そのものを運ぶ。
それだけだった。
夜。
俺たちは、
海へ向かった。
かつて、
物流港だった場所。
今はもう、
誰もいない。
地下への搬入口だけが、
黒い穴みたいに、
海沿いに並んでいた。
地下は、
最後の地上データを、
全部ここから吸い上げる。
匂い。
音。
湿度。
熱。
記憶。
人間。
全部。
巨大な吸気塔が、
低く唸っていた。
宮下が、
息を呑む。
「これ、
止めるんすか」
俺は、
首を振った。
「止めない」
「え?」
「引っ越しだ」
地下は、
地上を保存できない。
地下には、
暮らしが育たない。
だったら。
運ぶしかない。
俺たちは、
トラックを、
吸気塔の真正面へ停めた。
荷台を開く。
その瞬間。
風が吹いた。
工具箱の中の破片たちが、
一斉に鳴き始める。
ガタガタガタガタ!!
街の音。
包丁。
笑い声。
雨。
テレビ。
足音。
カレー。
子供の声。
全部が、
荷台の中で、
暴れ始めた。
宮下が叫ぶ。
「先輩!!」
荷台の奥。
暗闇の中に、
部屋が見えた。
四畳半。
商店街。
洋館。
団地。
実家。
今まで運んできた、
全部の部屋。
それらが、
荷台の中で、
ひとつの巨大な「地上」になっていた。
俺は、
静かに言った。
「積み込み完了だ」
地下の吸気塔が、
唸る。
地上を吸い尽くそうとする。
だが。
吸われたのは、
何もない白紙じゃなかった。
俺たちの荷台だった。
工具箱だった。
世界最後の、
“暮らし”だった。
轟音。
荷台の空間が、
歪む。
宮下が、
叫びながら笑う。
「先輩!!
これ、
どこへ運ばれるんすか!!」
俺は、
少し考えた。
それから、
笑った。
「さあな」
「でも、
多分」
「人間が、
まだちゃんと暮らせる場所だ」
次の瞬間。
トラックごと、
光が反転した。
静寂。
風。
匂い。
遠くで、
誰かが笑っている。
俺は、
目を開ける。
知らない空だった。
だが。
助手席では、
宮下が寝息を立てていた。
荷台の奥では、
小さく生活音が鳴っていた。
俺は、
エンジンをかける。
トラックが、
静かに走り出す。
新しい地面の上を。
「次の引っ越し先、
探すぞ」
宮下が、
眠そうに笑った。
「了解っす。
先輩」
風が、
少し湿っていた。