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ホーソーン『緋文字』(1) さらし台に立つヘスターは、なぜ「沈黙」したのか


     “過ち”が“死罪”になる世界――それが、ヘスター・プリンの生きた17世紀のアメリカだった。

     医者の妻として静かに暮らしていた彼女は、
    ある日、胸に赤子を抱き、さらし台に立たされる。

    現代なら「過ち」と呼ばれるくらいの「罪」が、
    “神の律法に背く「罪」”とされ、彼女の人生を一変させたのだ。

    だが、そんな極限の状況でも、ヘスターは語らなかった。

    その沈黙は、やがてすべてを変えていく。

    ヘスターの「沈黙」は、
    “共同体の罰の象徴の変化”をもたらす一方で、
    “誰かを破壊する引き金”にもなってしまったのである。


    その沈黙は、誰を救い、誰を壊したのか──
    シリーズ第1回目の今回と、第2回めになる次回を通して、その「沈黙」の“力”について考えたい。


    ・「処刑のさらし台に立つ女」ヘスター


     物語は、「監獄」から出てきたヘスター・プリンが、
    ボストンの広場の「処刑台」に、赤子を抱いて立つシーンから始まる。

    「もし清教徒たちの群れにカトリック教徒がいたなら、
    胸に赤子を抱いた、
    この風変わりな服装と容姿の美しい女性(ヘスター)のなかに、
    これまで数多くの画家たちがきそって描こうとしてきた聖母マリア像を思い出させるような姿を見いだしていたかもしれない」。

    「だが、ヘスター・プリンの場合、
    生命を生み出すという人間性の最も神聖な局面において深い罪の汚れがあったので、
    この女性の美しさのゆえに、この世がいっそう暗くなり、
    彼女が生んだみどりごのゆえに、この世がいっそう呪われるばかりだったのである」。

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    娘(パール)を抱いて立つヘスターの美しさは、本来であれば、聖母子像をも連想させるものであったが……


    姦通(adultery)を意味する「A」の「緋文字」が刺繍された「衣装」を着たヘスターは、
    「刑罰」として町中の人たちの前で、さらし者として立たされたのである。


    「群衆」の軽蔑のまなざしにさらされ、
    「衆人の辱めの的になり、みなにこぞって指さされた」ヘスターの前に、
    ベリンガム総督(植民地の政務を統轄)・老牧師・若い牧師が順番に立つ。

    それぞれが、ヘスターに、
    「姦通」の相手であり、赤ん坊の父親である「罪の相手の名前」を「告白」するように説得をする。

    しかし、ヘスターは、
    「絶対に言いません!」と、「相手の名前」に関しては、頑として「沈黙」を貫く。

    その一方で、「見物の群衆」は、
    ヘスターが「罪」の「告白」をしない一部始終を、苦々しく見つめるのであった。

    イギリスで老医師と結婚したヘスターは、
    先にボストンにやって来て、約束通りに夫を待っていたが、
    夫はいっこうに現れなかった。

    そうやって一人、ボストンで過ごしているうちに、
    「不義」の赤子を生んだのである。

    そのような事情のヘスターに対して、
    「群衆」の中の誰一人として、同情を寄せる者はいなかった。


    ・17世紀のアメリカ植民地


    17世紀のアメリカ植民地には、王も貴族もいなかった。

    代わりに、町の規範を導いていたのは“神の律法”だった。

    政務の責任者として「総督」は存在したが、彼一人がすべてを決めるわけではない。

    実際には、「教会」と「牧師」が、宗教・道徳・生活の規範を人々に教え、「裁判所」と「判事」が、牧師の指導のもとで神の立法に従って裁きを下した。

    植民地法の根幹は聖書にあり、宗教的・道徳的な違反も、法的な罪として裁かれたのである。

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    開拓地アメリカでは、キリスト教が、道徳から法律まで、あらゆる規範の中心だった


    牧師が“思想”を導き、判事が“罰”を執行する――

    それは、王や貴族の代わりに“神(教会)”が統治する、一種の神政体制(theocracy)だった。

    このような社会で、
    ヘスター・プリンの「沈黙」は、ただの個人的な選択ではなかった。


    それは、神の秩序に触れる“危険な力”でもあった。

    罪の「告白」を拒むという行為は、
    神の代理者である教会の権威に逆らうことを意味した。


    ヘスターの「沈黙」は、
    共同体の規範そのものを揺るがす挑戦となったのである。


    ・ヘスターの立場のあやうさ


    “神の律法”がすべてを支配していた17世紀のアメリカ――

    そんな神政体制の社会で、1692年、セイラムという町に異変が起こった。

    牧師の娘たち(11歳と9歳)が、
    痙攣や幻覚などの異常行動を示したことから、町は一気に“集団ヒステリー”に陥る。

    告発は次々に広がり、200人近くが魔女として訴えられた。


    そして、誰かの奇妙な振る舞いや不運な出来事が、
    “悪魔のしわざ”として次々と裁判所に報告されるようになったのである。

    その結果、女19人・男1人が、魔女あるいは魔術師として処刑される事態になった――アメリカ司法史に深い傷を残す、大惨事である。


    このように、17世紀のアメリカ社会では、
    わずかな奇行や噂から「魔女」と見なされる危険性が、常にあったのである。


    しかも、ヘスターのように“社会の規範から逸脱した女性”は、
    「魔女」・誘惑者・「悪魔」の手先、と見なされやすい立場にあった。


    アメリカのプロテスタント社会では、
    「姦通」は単なる道徳違反ではなく、神の律法に対する反逆と見なされていた。

    実際、当時の「マサチューセッツ湾植民地法」では、
    姦通は死刑に相当する罪とされていたのである
    (ただし、実際に執行されることは、ほとんどなかった)。

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    ボストンの市民たちは、「ヘスター・プリンが夜中に外を歩くときにはいつも、この象徴(Aの緋文字)が真っ赤に燃え立っているのが見える、と断言してはばからなかった」


    さらし者の「刑罰」を受けたヘスターは、
    「監獄」を出た後も、一生涯にわたって「A」の「緋文字」を「衣装」につけ続けなくてはならなかった
    。

    そして、町で何か事件があったとすれば、
    たとえ無関係であったとしても、ヘスターも巻き添えを受けて「魔女」とされる可能性は、十分にあった。

    そして、「処刑」までされる危険性も、大いにあったのである。


    →家という密室で声を奪われていく女性の物語については、こちら。


    ・夫に対する「沈黙」


    「広場」でのさらし刑を終えたヘスターは、再び「牢屋」へと戻される。


    そこで彼女を待っていたのは、長らく行方知れずだった夫だった。

    だが、彼はもはや“夫”ではなかった。

    名をロジャー・チリングワースと変え、異様な姿で現れたのだ。

    「広場」から「牢屋」に戻ったヘスターは、夫と再会する。


     目を引いたのは、その装いだった。

    イギリスの学識ある紳士の衣服に、
    彼が旅の中で身につけた先住民の装飾が混ざり合っていた。

    その組み合わせは、
    文化の境界が曖昧になったような、不穏で捉えどころのない印象を与えた。


    「それは小柄な男で、顔は皺だらけだったが、
    まだ老人というにはあたらなかった。

    したたかに知性を鍛錬してきたので、
    それがおのずと肉体の形成にも力を貸し、
    まぎれもないしるしといったていの人物らしく、
    その容貌にはっきりと知性が見てとれた」。


    チリングワースは、
    一つとして便りをヘスターに届けなかったことについて、何の理由も話さない。

    ただ、「錬金術」や「インディアンが教えてくれた処方(医学的知識)」などを学んでいたことを、ヘスターに話す。

    旅の途中で、「インディアン」たちの捕虜になり、
    ボストンへの到着がずいぶんと遅れてしまった、
    という事情は自らの責任であるという。

    そして、本来が「愛情」のない結婚であった、とも語る。

    さらに、社会的な「刑罰」をすでに受けているヘスターに対して、何をしようとも思わない、と語る。

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    チリングワースは、妻であるヘスターにとっても、謎の男である


    「最初に罪なことをしたのはわたしだ。

    花のつぼみの若いお前をたぶらかして、
    老いぼれのこのわたしと不自然ないつわりの関係(結婚)にさそいこんだときにね。

    だからだ、
    無益にものを考えたり思索してきたのではない者として、
    そういう男として、わたしはお前に復讐したり、悪だくみをしたりしようとは思わない。

    おまえとわたしのあいだでは、天秤はほぼ釣り合っている
    (チリングワースの不誠実と、ヘスターの「不義」)。

    だが、ヘスターよ、われわれふたりに悪をなした男は平気で生きている!
    そいつは誰だ?」

    と、いう問いに、ヘスターは、「決して申しません!」と答える。

    しかし、チリングワースは、ヘスターに語らせることには、こだわらない。

    ヘスターに
    “自分が夫であることを、誰に対しても「沈黙」していること”を誓わせてから、「薄笑いを浮かべ」たまま、去っていくのであった。

    次回は、「沈黙」が誰を壊し、誰を救ったのか──
    その“逆説”の核心に迫りたい。



    『緋文字』の物語を、心理・社会構造・共同体の視点から読み解く連載です。
     登場人物の“人間の弱さ”と、ピューリタン社会が生む“時代の力学”を、物語の空気ごと味わいます。


     
     
    物語の奥に潜む構造と、 世界を形づくる“見えない秩序”を静かに読み解いています。

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