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慌ただしいこの毎日が、あまりにも美しいので。

    一日の終わりに、我が家には小さな順番待ちがある。

    まず、2歳の長女がやってくる。

    「ママ、デューーーー(ギュー)」

    さっきまで全力で走って、泣いて、怒って、笑っていたはずなのに、夜になると急に小さな赤ちゃんみたいな顔をして甘えてくる。

    その次に、0歳の次女がにこにこしながらこちらを見る。

    まだ言葉は話せないのに、目が合うだけで、全身で「私も抱っこしてね」と言っているような顔をする。

    あの、ただこちらを信じきっているような目が、たまらなく愛おしい。

    そして最後に、昼間は少し離れた場所から家族を見ている茶トラの猫が、静かに私の足元にすり寄ってくる。

    まるで、

    「じゃあ、次は僕のこと撫でてね」

    と言っているみたいに。

    私はそのたびに、少し笑ってしまう。

    こんなに大好きな存在たちが、順番に私を求めてくれる時間。

    慌ただしくて、眠くて、体はもう限界なのに、その時間が今の私にはたまらなく愛おしい。

    でも、ほんの数年前まで、我が家はもっとずっと静かだった。

    夫とふたりで暮らしていた頃の部屋は、今よりずっと整っていた。

    ものも少なくて、床におもちゃが転がっていることもない。

    あるとするなら、猫のおもちゃ。

    誰かの泣き声で会話が途切れることもない。

    夫も私も、それぞれ自分のペースを持っていて、どこかクールだった。

    それはそれで、心地よかった。

    でもその頃の私は、心の中にずっとうす暗い膜がかかっているような時期でもあった。

    20代の頃、心がうまく動かなくなった時期があった。

    仕事のこと、日々のプレッシャー、自分の真面目さや完璧主義。
    いろいろなものが少しずつ積み重なって、気づいた時には、うまく笑えなくなっていた。

    夫と出会い、結婚へ向かう頃にも、その薄暗さはまだ完全には消えていなかった。

    幸せなことが目の前にあっても、心が追いつかない。
    そんな自分が、また苦しかった。

    そんな私を見て、夫がある日、猫を迎えるきっかけをくれた。

    「少しでも癒やされたら」

    そんな気持ちだったのだと思う。

    ふたりで見に行ったペットショップで出会ったのが、今の茶トラ猫だった。

    小さくて、ふわふわで、まだ何も知らないような顔をしていた。

    それまで猫に触ったこともなかった夫は、少し緊張しながらケージの前にいた。

    するとその小さな茶トラは、夫のマスクに向かって、迷わず顔を近づけた。

    ちゅっ。

    あの瞬間、夫も私も言葉を失った。

    まだ家族になる前なのに、
    もうこの子は私たちの家に来ることを決めているように見えた。

    その場面は、今でもスマホの中に残っている。

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    はじめて、家族になる予感がした日


    見るたびに思う。
    あの日、我が家に初めて小さな灯りがともったのだと。

    それから、少しずつ家の空気が変わっていった。

    猫は気まぐれで、クールで、でも肝心な時には必ずそばにいた。

    私が落ち込んでいると、近くに来て座っていた。

    夫婦で少し言い合いになったあとも、何事もなかったような顔で、どちらかの近くにいた。

    何かを解決してくれるわけではない。

    でも、そこにいてくれるだけで、家の温度が少し上がるような存在だった。

    やがて長女が生まれた。

    夫婦ふたりと猫だけだった家に、小さな命が増えた。

    といっても、長女は全然“小さくておとなしい赤ちゃん”ではなかった。

    大きく生まれて、泣く力も、生きる力も、こちらを見る力も、とにかく強い子だった。

    「私を見て」
    「抱っこして」
    「こっちに来て」

    言葉にはならなくても、全身でそう訴えてくるような子だった。

    産後の体はボロボロで、眠れなくて、私が涙する余裕もなかった。

    正直、子育ては想像していたよりずっと大変だった。

    長女の主張の強さに圧倒されて、私は毎日必死だった。

    でも、その必死さの中で、私は少しずつ強くなっていったのだと思う。

    自分の気持ちだけを見つめて沈んでいる暇もないくらい、目の前に全力で私を求めてくる存在がいた。

    泣いている長女を抱き上げるたびに、
    私も一緒に、この子に引っ張り上げられていたのかもしれない。

    泣き声が増えて、荷物が増えて、洗濯物が増えた。

    静かだった部屋は、少しずつ騒がしくなった。

    そして気がつけば、長く続いていた心の不調は、少しずつ落ち着いていた。

    2025年の春、長く続けていた薬を、いったん手放してみてもいいと言われた。

    「治った」というより、「ここまで来たんだ」と思った。

    長かった。

    本当に長かった。

    でもその長い時間の中で、夫がいて、猫がいて、長女がいて、私は少しずつ今の場所まで来たのだと思う。

    そして、次女が生まれた。

    家はさらに慌ただしくなった。

    0歳と2歳。

    正直、毎日はきれいごとだけでは済まない。

    朝から誰かが泣いている。

    オムツを替えたと思ったら、次はごはん。

    ごはんを出したと思ったら、床に落ちている。

    授乳している時に、長女のうんちが始まる。

    片付けたはずのおもちゃはまた散らかる。

    寝不足で、肩も背中もガチガチで、私は何度も「もう勘弁してくれ」と思った。

    私は本当は、長女に怒りたくなかった。

    2歳の子に感情のまま怒っても、きっと伝わらないことは分かっている。

    まだ言葉も気持ちも発達の途中で、
    「分かっているのにできない」ことがたくさんある年齢だということも、頭では理解している。

    それなのに、私は怒ってしまう日があった。

    何度も同じことを伝えて、うまくいかなくて、
    余裕がなくなって、きつい言い方をしてしまう。

    そのたびに苦しかった。

    長女が悪いわけではない。

    成長の途中にいるだけなのに、
    その成長を私が受け止めきれていない気がして、あとからひとりで反省会をした。

    母親として足りない、というより、
    目の前の小さな2歳を、ちゃんと見てあげられていない気がすることがつらかった。

    それでも、今の私はこの毎日を嫌いになれない。

    むしろ、どうしようもなく愛おしい。

    長女は、2歳になって、少しずつ言葉が増えた。

    世間では「イヤイヤ期」と呼ばれる時期だけれど、私は長女のイヤイヤそのものを、そこまで大変だとは思っていないのかもしれない。

    だって長女は、私が抱きしめれば落ち着くことが多い。

    最近の長女は、抱きしめてほしい時に、

    「アー!アー!デューーー」

    と言いながら、自分で自分をぎゅっと抱きしめる。

    たぶん、「ギューして」と言っているのだと思う。

    それを見るたびに思う。

    この子にとって、私の存在はこんなにも大きいのだと。

    抱きしめるだけで解決することが、まだこんなにもたくさんあるのだと。

    それなのに、私はすぐに抱きしめてあげられない時がある。

    次女を抱いていたり、家事に追われていたり、自分の余裕がなくなっていたり。

    本当は、今すぐ手を止めて抱きしめればいい。

    それが一番早いと分かっている。

    分かっているのに、できない日がある。

    そのことが、私は一番きつい。

    眠い。

    疲れた。

    やりたかった。

    自分で決めたかった。

    妹が生まれて、きっと彼女の小さな世界も大きく揺れたのだと思う。

    長女は、毎日少しずつお姉ちゃんになろうとしている。

    そして私は、その成長に追いつこうとしている。


    最近は、その「デュー」が家族の中で少し流行っている。

    夫も長女の真似をして、自分で自分をぎゅっと抱きしめながら、

    「デュー!」

    と言って長女に近づくことがある。

    少し前なら喜んでいたはずなのに、最近の長女は成長してきたのか、それを華麗に無視することがある。

    その時の夫が、あまりにも寂しそうで、私はつい笑ってしまう。

    かわいそうになって私が夫に抱きつきに行くと、長女はようやくこちらを見る。

    そしてニコニコしながら私の手を引いて、夫から引き離そうとする。

    「ママは私のもの」

    そう言っているみたいで、少し困る。

    でも、その困りごとすら、今の私にはたまらなく愛おしい。

    少し前から、長女には寝る前の小さなルーティンがある。

    ベッドに入ると、決まって声に出す。

    「ママ、パパ、たんたん、うーにゃん」

    たんたんは、長女が自分を呼ぶ時の名前。
    うーにゃんは、長女が次女を呼ぶ時の名前だ。

    どうしてそのニックネームをつけたかは分からない。

    でも、その小さな声で名前をひとつずつ並べる長女を見ていると、
    この子の中にはもう、ちゃんと家族の形があるのかもしれないと思う。

    ママがいて、パパがいて、自分がいて、妹がいる。

    まだ言葉はたどたどしいのに、
    長女の中には、もう私たち家族がちゃんと並んでいる。

    次女は、よく笑う。

    こちらが拍子抜けするくらい、にこにこと笑う。

    その笑顔を見るたびに、家の中の空気が一瞬でやわらかくなる。

    そして夫は、昔よりよく笑うようになった気がする。

    もともと笑わない人だったわけではない。

    でも、どこか落ち着いていて、感情を大きく出すタイプではなかった。

    そんな夫が、今は娘たちの前で、驚くほどやわらかい顔をする。

    この前、夕飯の支度をしていた時のこと。

    私はキッチンに立っていた。

    シンクには洗い物が残っていて、足元にはおもちゃが転がっていた。

    新しい家のキッチンは、私ひとりが立つには十分だけれど、家族みんなが入るには少し狭い。

    それなのに、ふと見ると、その狭いキッチンの床に夫と長女が寝転がっていた。

    まるで「ご飯まだかな」とでも言いたげに、ふたりで床に転がっている。

    そんなところで寝転がらなくてもいいのに。

    料理をするには少しだけ不便で、それでも、あまりにも愛おしい場所だった。

    私は、その光景から目が離せなかった。

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    ご飯を待ちながら、なぜかキッチンの床に転がるふたり。


    夫の目尻が、最近少し下がったように見える。

    話し方まで、前よりやさしくなった気がする。

    長女と同じ目線になって、床に寝転がる夫。

    その隣で、安心しきった顔をしている長女。

    少し離れた場所には、にこにこの次女。

    そして、私の椅子には茶トラの猫が座っていた。

    目が合うと、猫はゆっくりとまばたきをした。

    パチ、パチ。

    まるで、

    「今、幸せだね」

    と言っているみたいだった。

    命が増えるたびに、部屋は狭くなった。

    ものも増えた。

    洗濯物も増えた。

    予定通りにいかないことも、思い通りにならないことも増えた。

    私たちは、昔みたいにクールではなくなった。

    スマートでもない。

    部屋は散らかるし、毎日誰かが泣いているし、私もよく怒っている。

    それでも。

    この狭いキッチンの床に転がるふたりを見ていると、私は思う。

    ああ、ここまで来たんだな、と。

    あの頃、うまく笑えなくなっていた私。

    幸せなことが目の前にあっても、心が追いつかなかった私。

    そんな私が今、夕飯を作りながら、床に転がる夫と娘の姿を見ている。

    猫のまばたきを受け取っている。

    0歳の次女の笑顔に救われている。

    慌ただしい。

    本当に慌ただしい。

    きれいな毎日ではない。

    でも、あまりにも美しい。

    いつか、この騒がしさは終わるのだと思う。

    抱っこを求められる夜も、足元にまとわりつかれる夕方も、キッチンの床に家族が転がる日も、永遠には続かない。

    だから私は、残しておきたい。

    この毎日を。

    この狭いキッチンを。

    夫の笑い声を。

    娘たちの甘え方を。

    猫のまばたきを。

    暗闇を通り抜けた私が、やっとたどり着いた現在の幸せを。

    慌ただしいこの毎日が、あまりにも美しいので。

     
     
     
    💄現役美容部員(育休中)|2歳&0歳姉妹ママ ズボラでもキレイに、ラクに暮らしたい。 美容・育児・買ってよかったもの、暮らしの中の小さな美しさを記録中。 ※PR含む/身バレ防止あり

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