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#ミステリー小説

    #夢の彼方 、湖の底へ

    #創作大賞2026 #ミステリー小説部門

    #夢の彼方 、湖の底へ

    ――ダム湖に消えた恋――



    #あらすじ

    十五年前、ダム湖に転落した赤いスポーツカー。助手席には味澤味紗子の遺体。しかし運転席には誰もいなかった――そのニュースを、幼い健一と母親はさして気に留めなかった。

    時は流れ、大学院生になった佐分利健一は、生真面目すぎて恋愛がうまくいかない日々を送っていた。ある夜、夢の中に美しい女性が現れる。夜ごと繰り返される不思議なデート。やがて彼女は現実に姿を現し、二人は逢瀬を重ねる。

    しかし彼女には影がなかった。そして彼女が運転する赤いスポーツカーは、あのダム湖へと向かっていく――。

    愛と孤独が招く、逃れられない運命の罠。

    #本編

    第一章 水底のニュース

    リモコンのボリュームを上げる必要もなかった。

    夕方のニュースはいつも、食卓のBGMとして流れていた。

    「本日午後三時ごろ、長野県○○市の××ダム湖付近の県道において、走行中のスポーツカーがガードレールを突き破り、ダム湖に転落する事故が発生しました――」

    「へえ」

    十二歳の佐分利健一は箸を止めることなく、卵焼きを口に運んだ。

    画面には、深い緑色をたたえた湖面が映し出されていた。クレーンで引き上げられた赤いスポーツカーは、ドアが歪んで変形し、フロントガラスが砕け散っていた。水滴が車体を伝って落ち、夕暮れの光を受けてきらきらと光る。

    「……可哀想にねえ」

    母親の多恵子が小さくつぶやいた。それもまた反射的な言葉で、彼女の目は配膳の残りに向けられていた。

    「助手席では、シートベルトを装着したままの女性が発見されました。身元は現在調査中ですが、地元在住の味澤味紗子さんであることが確認されています。即死状態とみられます」

    アナウンサーの声は淡々と続いた。

    「一方、運転席にはシートベルトが装着されていたものの、人の姿は確認されていません。車外に投げ出された可能性もありますが、現時点でダム湖の捜索を続けても運転者の発見には至っておらず、不可解な状況となっています」

    「運転してた人は?」

    健一がそれだけ尋ねた。

    「さあ」

    多恵子は味噌汁の椀を息子の前に置いた。

    それだけだった。

    ニュースはやがて天気予報に切り替わり、夕食の会話は明日の弁当のおかずへと移っていった。

    赤いスポーツカーのことも、味澤味紗子という名前も、二人の記憶の底に、静かに沈んでいった。ちょうど、あの車が湖の底に沈んでいくように。




    第二章 振られ続ける男

    十五年後。

    「健一さ、もうちょっとさ、なんか……面白いこと言えないの?」

    喫茶店のテーブルを挟んで、向かいに座る女性――田辺さくら――は、ストローでアイスコーヒーをかき混ぜながら言った。責めている口調ではなかった。だからこそ、余計に刺さった。

    「……面白いって、たとえば?」

    「うーん、なんか、話してて楽しいとか、一緒にいてドキドキするとか、そういうの」

    「ドキドキ」

    佐分利健一、二十七歳。大学院に在籍する修士課程の二年生。専攻は比較文学。背は高く、顔立ちは悪くない。むしろ整っている。しかし何か一枚、薄い膜が彼と世界の間に張られているような、そんな印象を与える男だった。

    「ごめん、健一さんのこと嫌いじゃないんだけど」

    「嫌いじゃない、か」

    「うん。でも、一緒にいても……なんか、この人に会いたいって気持ちにならないんだよね。ごめんね」

    謝られた。それが一番きつかった。

    健一はアイスコーヒーの代金だけ払って店を出た。十一月の夕暮れが、街を橙色に染めていた。

    これで何人目だろう。

    大学に入ってから、友人の中村伸介が気を利かせて女性を紹介してくれるたびに、健一は誠実に向き合ってきた。誠実すぎるほどに。デートの計画は綿密に立てた。遅刻はしなかった。割り勘にするか奢るかも事前に考えた。会話も、事前に話題を用意した。

    それが、よくなかったのかもしれない。

    電車に揺られながら、健一は窓ガラスに映る自分の顔を見た。

    面白くない男の顔が、そこにあった。

    家に帰り着いたのは夜の八時を過ぎた頃だった。

    「おかえり、夕飯は――」

    「いらない」

    短く答えて、靴も脱ぎっぱなしで階段を上がった。多恵子が何か言おうとした気配があったが、健一は聞こえないふりをした。

    部屋に入り、コートも脱がずにベッドに倒れ込む。

    天井を見上げた。

    白い天井。何もない天井。

    面白いこと言えないの?

    さくらの声が、また聞こえた気がした。

    ため息をついて、目を閉じた。眠れるとは思っていなかった。しかし意識は思いのほか早く遠のいていき、健一は夢の中へと落ちていった。




    第三章 夢の中の彼女

    夢だとわかる夢というものがある。

    空気が違う。光が違う。そして、自分がどこかしら軽い。

    それでも健一は、その夢の景色を美しいと思った。

    どこかの川沿いの遊歩道だった。桜並木が続いていて、しかし季節は秋なのか葉が朱く染まっていた。夕暮れの橙色が川面に揺れている。

    そして隣に、彼女がいた。

    年齢は自分と同じくらいだろうか、あるいは少し上か。黒髪が肩のあたりで緩やかにカールして、栗色の瞳が夕陽を受けてきらきらしていた。白いコートを着ていて、歩くたびに裾がふわりと揺れた。

    名前は、なぜかわかった。夢の中ではそういうことがある。

    味紗子。

    「健一くん、そっち行ったら川に落ちるよ」

    笑いながら言われて、健一は自分が欄干の際に近すぎるほど寄っていたことに気づいた。

    「あぶなっ」

    「ふふ、ぼんやりしすぎ」

    彼女は健一の腕に自分の腕を絡めた。ごく自然に、まるで長年そうしてきたかのように。

    健一は驚かなかった。夢の中では、それが当たり前に感じられた。

    二人は歩いた。他愛もない話をした。好きな食べ物、好きな映画、子供の頃の記憶。健一は気がつけば笑っていた。さくらとのデートでは一度も笑わなかったのに。

    「健一くんって、真面目なんだね」

    「よく言われる。面白くないって」

    「ちがうよ」

    味紗子は首を振った。

    「真剣に話を聞いてくれる人、私は好き」

    健一は何も言えなかった。

    河原のベンチに座って、しばらく川を眺めた。味紗子が健一の肩に頭をのせた。その重みが、夢にしては妙にリアルだった。

    やがて彼女が顔を上げ、健一を見た。

    近い距離に、白い顔があった。

    その唇が、静かに近づいてきて――

    「健一! 健一! 起きなさい! もう七時半よ! 遅刻するでしょ!」

    多恵子の怒声が、夢を木っ端微塵に吹き飛ばした。

    「……っ」

    健一は跳ね起きた。部屋はいつもの部屋だった。コートをそのまま着て寝ていたらしく、背中が汗ばんでいた。

    「……今、何時だ」

    七時三十二分。

    健一は手で顔を覆った。

    夢の中の景色が、じわじわと消えていく。川の音。朱い葉。白いコート。

    近づいてきた、唇。

    「……くそ」

    初めて、振られた夜に感謝したいと思った。




    第四章 偶然の重なり

    「夢の話を真剣にされてもな」

    大学の購買部で昼飯のサンドイッチを選びながら、中村伸介は言った。長身で口が悪く、しかしそれが嫌みにならないのが彼の特技だった。

    「偶然じゃないかもしれない」

    「何が偶然じゃないんだよ」

    「だって昨日の夜も、また同じ彼女の夢を見たんだ」

    「二日連続で同じ夢を見ることくらいあるだろ。よっぽど気になってたんだろ。さくらさんに振られたショックとかが混ざって」

    「名前まで覚えてた。味紗子って言うんだ」

    「夢の中でそう思い込んでただけだろ」

    伸介はツナマヨのサンドイッチを手に取って歩き出した。健一は黙ってついていった。

    その夜も、味紗子は夢に現れた。

    今度は美術館だった。広い展示室を二人で歩きながら、絵の話をした。彼女は印象派が好きだと言った。特にモネの睡蓮の連作が。健一は、睡蓮の絵は見るたびに水の底に引き込まれそうな気がすると言った。

    「水の底?」

    味紗子は少し表情を変えた。

    「なんか、冷たくて、静かで。悪くないなって」

    「それは嫌だよ」

    彼女は健一の腕を掴んだ。強く。

    「健一くんは、こっちにいなきゃ」

    ――こっちって、どっちだ。

    目が覚めた瞬間、健一はそのことが気になった。しかし夢の残滓はすぐに薄れていく。残ったのは彼女の温かい手の感触だけだった。

    その日も、その次の日も、同じ夢を見た。

    三日目の夜は遊園地だった。観覧車の中で、夜景を二人で見下ろした。

    四日目の夜は海辺のレストランだった。シーフードのパスタを彼女は美味そうに食べた。

    五日目の夜、味紗子は初めて言った。

    「健一くん、私のこと好き?」

    「……好きだ」

    「本当に?」

    「ああ」

    「よかった」

    彼女は微笑んだ。その笑顔があまりにも綺麗で、健一は胸が痛くなった。

    夢だとわかっているのに。

    「ねえ健一、最近なんかぼんやりしてない?」

    伸介が言ったのは、それから数日後のことだった。講義の後、二人で喫茶店に入った時だ。

    「……また、夢見てた」

    「まだ言ってんの」

    「十日近く、毎晩同じ彼女と夢の中でデートしてる」

    健一が真顔で言うと、伸介の表情がわずかに固まった。笑おうとして、笑えなかったような顔だ。

    「お前、ちょっとまずいんじゃないか」

    「まずい?」

    「精神的に。なんか、心療内科とか……」

    「医者に行けってか」

    「だって、十日間毎晩って、そんな話聞いたことないぞ」

    健一は窓の外を見た。十一月の街に、人が行き交っている。みんな現実の中を歩いている。

    「夢の話だとわかってる」

    「じゃあ話すなよ」

    「……そうだな」

    それ以来、健一は夢のことを話さなくなった。

    しかし夢は、毎晩続いた。




    第五章 玄関先の笑顔

    師走の初めの土曜日の午後だった。

    「……健一、ちょっと!」

    多恵子の声が階段の下から飛んできた。健一は論文の草稿を書いていた手を止めた。

    「なに」

    「お客さんよ!」

    「俺に?」

    「女の人!」

    健一は固まった。

    女の人。

    この家に、健一を訪ねてくる女性などいない。そういう人間関係を、健一は持ったことがなかった。

    「誰よ」と聞き返そうとして、やめた。気のせいかもしれない。

    のろのろと立ち上がり、階段を下りた。

    玄関に、彼女は立っていた。

    黒髪。栗色の瞳。白いコート。

    「……味っペ?」

    声が出たのは自分でも驚いた。

    夢の中で、彼女の名前の呼び方を覚えていた。なぜか自然とそう呼んでいた。味紗子だから、みんな味っペと呼んでいると、夢の中で彼女が笑いながら言っていた。

    「健一くん!」

    彼女は玄関先で満面の笑みを浮かべ、躊躇なく健一に抱きついた。

    健一は動けなかった。

    体が触れた。体温があった。息遣いがあった。

    夢じゃない。

    「あの、えっと」

    多恵子が困惑した声を出した。健一の母親は、いきなり玄関で息子に抱きつく若い女性に、どんな顔をしていいかわからなかった。

    「健一、彼女さん、だったの?」

    健一は味紗子の肩を静かに離して、母親を見た。

    「……俺も、よくわからない」

    「まあ!」

    多恵子は一瞬だけ眉を上げ、それからぱっと笑顔になった。

    「とにかく上がって! お茶を入れるから! 健一、玄関の靴! 散らかってる!」




    リビングに三人で座った。

    多恵子はさっさとお茶を出して、さっさと台所に引っ込んだ。しかし健一には、ふすまの向こうから母親が耳をそばだてているのが伝わった。

    「驚いた?」

    味紗子がテーブルを挟んで、微笑みながら言った。

    「驚いた」

    「夢の中で、ずっと会ってたじゃない」

    「……知ってるのか、夢のことを」

    「私が、会いに行ってたんだもの」

    健一はしばらく黙った。

    湯呑みを両手で包んだ。陶器の温かさが指先に伝わってきた。これも、現実の感触だ。

    「それはどういう意味だ」

    「難しく考えなくていいよ」

    彼女は首を傾けた。

    「ただ、会いたかった。それだけ」

    健一は彼女の顔を見た。夢の中で見続けた顔。リアルで見るとさらに、表情の細かい動きが見えた。笑う時に目尻に小さな皺が寄ること。話す時に少し唇を先に動かしてから声が出ること。

    会いたかった、と彼女は言った。

    健一も、そうだった。




    第六章 冬のデート

    それから何度か、二人はデートをした。

    映画を見た。健一が選んだミステリーを、味紗子は前のめりになって見ていた。

    ショッピングモールをぶらついた。彼女は服に興味がなく、本屋で長時間立ち読みをした。

    ファミレスで夕食を食べた。ドリンクバーを何杯もおかわりして、夜中まで話した。

    どのデートも楽しかった。

    健一は笑った。以前のデートで一度も笑えなかったのに。

    「健一くんって、笑うと顔変わるね」

    ファミレスの帰り道、味紗子が言った。

    「そうか?」

    「うん。最初はなんか怖い顔してるから、笑ったらびっくりする」

    「怖い顔してるつもりはないんだが」

    「真剣すぎるんだよ、いつも」

    健一は苦笑した。

    「よく言われる」

    「でも、それが好きだよ」

    味紗子は健一の腕に自分の腕を絡めた。夢の中と同じように。

    「真剣に話を聞いてくれる人、好きって言ったでしょ」

    「言ってた」

    「本当のことだよ」

    夜の街に、二人の足音が響いた。

    健一はこの時間が終わってほしくなかった。しかし何かが、ずっと心の奥で引っかかっていた。

    彼女が初めて現れた日から、ずっと。

    たとえば、彼女の部屋を知らないこと。

    彼女の連絡先を知らないこと。

    彼女がいつも、健一から誘うのではなく、現れることで始まること。

    「味っペ」

    「なに?」

    「お前、どこに住んでるんだ」

    一瞬、沈黙があった。

    街灯の下で、彼女の顔に影が落ちた。

    「……遠いところ」

    「遠いところって」

    「そのうちわかるよ」

    彼女は微笑んだ。しかし今度の笑顔は、どこか違った。

    寂しい、笑顔だった。




    第七章 赤いスポーツカー

    十二月の半ば、日曜日の午前だった。

    エンジン音が、家の前で止まった。

    健一が窓から見下ろすと、道の端に、赤いスポーツカーが停まっていた。

    ドアが開いて、白いコートの女が降りてきた。

    「健一くーん!」

    上を向いて手を振る。

    健一はすぐに下に降りた。玄関を開けると、味紗子が笑っていた。

    「ドライブ行こうよ」

    「その車、お前の?」

    「借りもの。でも運転は上手だよ」

    健一は車を見た。

    赤いボディ。流線型のデザイン。

    何か、遠い記憶の底で、何かが揺れた気がした。引っかかって、しかし掴めない。

    「……いいけど、どこ行くんだ」

    「ちょっと遠いところ」

    「遠いところ」

    さっきも聞いた言葉だと思った。

    玄関先で多恵子が手を振っていた。

    「いってらっしゃい! 気をつけてね!」

    多恵子は二人を見送りながら、ふと眉をひそめた。

    冬の陽光の中、健一の影は玄関の石畳に黒く落ちている。

    しかし、味紗子の影が、ない。

    ……気のせいかしら。

    多恵子は目をこすった。見上げると、赤い車はすでに角を曲がりかけていた。

    気のせいよね。

    そう思うことにして、多恵子は玄関の扉を閉めた。




    山道に入ってから、健一はずっとモヤがかかったような気持ちだった。

    針葉樹が続く道。カーブが多い。道幅が狭くなってきた。

    「どこ行くんだ」

    「もうすぐだよ」

    「もうすぐって何が」

    味紗子は答えなかった。

    ハンドルを握る横顔を見た。彼女はどこか遠いところを見ていた。

    「ねえ健一くん」

    「うん」

    「私ね、夢の話をしてもいい?」

    「夢?」

    「十五年前のこと」

    健一は黙った。

    山道の先に、きらりと光るものが見えた気がした。水面だ。

    「私ね、ある夜に夢を見たの」

    味紗子の声は、穏やかだった。恐ろしいほど穏やかだった。

    「隣に男の子がいた夢。助手席に座ってた。顔はわからなかったけど、楽しかった。どこかへドライブしてた。どこへ行くのかわからなくて、でも楽しかった」

    「……ああ」

    「車がガードレールを突き破った瞬間、隣を見たの」

    水面が、近づいてくる。

    「そしたら、消えてたんだよね。隣の人が」

    健一は助手席に座っていた。

    「ひとりで落ちていった。水の中に。冷たかった。静かだった。暗かった」

    「……味っペ」

    「寂しかった」

    道の先に、ガードレールが見えた。

    その向こうに、ダム湖が広がっていた。

    健一の頭の中で、何かが弾けた。

    十五年前の夕食。流れていたニュース。引き上げられた赤いスポーツカー。助手席に残されていた女性の遺体。運転席にはシートベルトだけが。

    味澤味紗子さんであることが確認されています。

    「止まれ!」

    健一は叫んだ。

    「止まれ、味っペ! ブレーキを踏め!」

    「あなたを迎えに来たんだよ、健一くん」

    味紗子はハンドルを切った。

    右へ。ガードレールへ。

    「だって、あなたがいなくなったから、ずっとひとりだったんだもの」

    衝撃。

    金属の悲鳴。

    車体が宙を舞う感覚。

    健一は横を見た。

    運転席が、空だった。

    シートベルトだけが、ぽつんとそこにあった。

    冷たい。

    暗い。

    静かだ。

    水の底って、こんな感じか――




    終章 虚ろに流れるニュース

    夕方のニュースが流れていた。

    「本日午後二時頃、長野県○○市の××ダム湖付近において、走行中のスポーツカーがガードレールを突き破り、ダム湖に転落する事故が発生しました。車内の助手席では、シートベルトを装着したまま即死状態の男性が発見されました。身元は、同市在住の佐分利健一さん、二十七歳と確認されています」

    アナウンサーの声は続いた。

    「一方、運転席にはシートベルトが装着されていたものの、人の姿は確認されておらず、十五年前の同じ場所での事故と酷似した状況に、捜査関係者は首を傾げています。十五年前の事故では、助手席で――」

    ダム湖の畔で、多恵子は叫んでいた。

    引き上げられた赤い車のそばに、白いシートに覆われた息子がいた。

    「健一……健一……!」

    多恵子はシートをつかんで、息子の名前を呼び続けた。声にならない声で。体の底から、悲鳴とも嗚咽ともつかないものが出てきた。

    周囲の警察官も、救急隊員も、何も言えなかった。

    ただ立っていた。

    救急車のそばに置かれたテレビのモニターが、ニュースを流し続けていた。

    「なお、十五年前の同じ場所での事故で亡くなった味澤味紗子さんとの関連についても、捜査当局は調査を進める方針――」

    多恵子は聞いていなかった。

    ただ息子の名前を呼んでいた。

    冬の空が、暗くなっていく。

    ダム湖は静かだった。

    水面はただ穏やかに揺れていて、何も映していなかった。

    いや。

    よく見れば。

    月明かりの中、湖面の一点に、小さな波紋が浮かんでいた。

    まるで、誰かが水の中から、手をのばしているかのように。

    ニュースはまだ続いていた。

    虚ろに、虚ろに。

    誰にも届かない言葉を、夜の空気に流し続けていた。


    了

    【作者より】

    この物語は、愛することの切なさと、時を超えた執着が生む悲劇を描いています。味紗子は健一を恨んでいたわけではありません。ただ、ひとりで水底に沈んだ十五年間の孤独に耐えられなかっただけです。そして健一は、夢の中でしか誰かを愛せなかった男が、初めて本当に誰かを愛した時、その相手はすでにこの世にいなかった。

    二人が最後にどこへ行ったのかは、書きません。

    それは、読んでくださったあなたが、決めてください。


     
     
     

    masa

     
     
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