
十九歳の初挑戦~スマイルと時々波乱を添えて~
あらすじ
「大学1年の遥香は、親友の咲羅に誘われ「エイトバーガー3号店」でアルバイトを始める。そこは一風変わっているが愛すべき仲間たちと、様々な事情を抱えた客が交錯する世界の縮図だった。理不尽なクレームや想定外のトラブルに直面しながらも、温かい原田店長らの教えに触れ、遥香は「働くとは、知らない誰かの幸せを少しだけ願うこと」だと気づき、人間的に成長していく。
卒業から数年後、社会人となった仲間たちが居酒屋で再会。転勤した原田の愛娘の成長や、それぞれの現在地が語られる中、最大の想定外が明かされる。なんと、フリーターだった先輩の大介が3号店の「新店長」に就任していたのだ。思い出を胸に、彼らはそれぞれの戦場へと再び歩み出す。」
駅前の喧騒に溶け込む「エイトバーガー3号店」。 巨大なウサギがハンバーガーにかぶりつくポップな看板の下をくぐり、大学1年の遥香(はるか)は店内に足を踏み入れた。
「おはようございます!」
「おはようございます!」
「おはよう、遥香ちゃん。今日は1番レジをお願いね」
厨房でミートパティを焼きながら、原田店長がテキパキと指示を飛ばす。
原田店長の隣にはフリーターの大介さんがレタスを切っている。
「はい。……あれ、高橋くんは?」
「レポートが間に合わないって泣きが入ってね、今日はお休み。」
「だから、俺が呼ばれたってワケ」とフリーターの大介さんが笑う。
「なるほど。高橋くんは高3ですもんね。受験生は何かと大変だ」
高橋くんは真面目でいい子なのだが、なぜか彼が出勤する日は決まって想定外のことが起きる。「呪われている」とまでは言わないが、高橋くんが店に入った途端にゲリラ豪雨が店内まで吹き込んで床がびしょ濡れになったり、パニックになるほどの行列ができたり。はたまたフライヤーが突然謎の沈黙を遂げたりする。高橋くんは、ちっとも悪くないのになぜか毎回生じる想定外。
フリーターの大介さんは長く「エイトバーガー3号店」で仕事をしているので、レジもキッチンも出来る頼りになる先輩。気さくなので年齢も先輩後輩も関係なく、みんなから「大ちゃん」って呼ばれている。
大ちゃんは、仕事の段取りが良すぎて、無意識に体が動いてしまうが、時々ヤラカしてしまう。
先日もレジの合間にテイクアウト用の袋にナプキンと新商品のチラシをセットしてた大ちゃん。全ての袋をセットし終えた後で、なぜかひとつだけ妙に大きい袋があった。
遥香が開けてみると「大ちゃんの飲みかけのペットボトル」がキレイにパッキングされていた。
「大ちゃん、このウーロン茶はお持ち帰りいただけないと思いますよー!」
「あれ?オレのウーロン茶どこ行ったかなって探してたんだよ。」
と頭をかく。
ヤラカしを誤魔化さないところが憎めない、愛されキャラな理由だ。
「今日は高橋くんがいないから、平和かもしれませんね」
遥香は冗談めかして笑い、制服の背筋を伸ばしてカウンターに立った。
遥香の仕事はレジだけじゃない
「いらっしゃいませ。エイトバーガーへようこそ!」
「フィッシュバーガーセット1つ。飲み物はコーラ、あ、やっぱりメロンソーダで。ポテトにケチャップって付けられます?」
「はい、かしこまりました。ケチャップは無料でお付けできますよ」
タブレットを叩く遥香の耳元で、インカムから店長の声が飛ぶ。
『フィッシュ売り切れ。チキン勧めて。ポテトお時間3分』
「了解です」
遥香は間髪入れずに笑顔を添える。
「お客様、申し訳ございません。ただいまフィッシュバーガーが完売しておりまして、ジューシーなチキンバーガーはいかがでしょうか? また、ポテトは揚げたてをご用意しますので3分ほどお時間を頂戴しますが、よろしいですか? 出来次第、お席までお持ちします」
レジの波が引くと、遥香はホールへと繰り出す。客席を整え、モップをかけ、店内の空気を循環させる。
「すみません、グランドホテルってどこでしょう?」
「あ、あの白い建物ですよ。この道をまっすぐ行って、二つ目の信号を右です」
ここは駅前。オフィス街であり複数のホテルが建ち並ぶ観光地への入り口でもあるので、地元民も旅行者もお客様だ。道案内は日常茶飯事。時には「近くにコンビニはありますか?」「おいしいと有名なケーキ店があると聞いたのですが?」と問われることもある。
遥香の通うY大学も徒歩圏内で、通い慣れた街だからこその道案内がどこか誇らしかった。
同じ大学の咲羅(さくら)に誘われて始めた、人生初めてのアルバイト。 最初は咲羅の背中を追うばかりだったが、最近はようやく一人で現場を回せるようになってきた。
原田店長はいつも言う
「お店で起こることすべてが、みんなの仕事だよ。私はレジ担当、俺はキッチン担当って思い過ぎると余裕がなくなるんだ。道案内も迷子の保護もみんなの仕事だよ。それでも困ったら俺を呼んで。スーパー原田店長が参上するから!」
原田店長は言うだけでなく、その通りに行動していた。時には地図を書いておばあちゃんに道案内をし、転んで擦りむいてしまった子供のヒザに絆創膏を貼っていた。だからスタッフ全員から信頼されていた。
遥香が紙ナプキンを補充し、トレイを片付けていた、その時。
ボックス席で、小さな男の子がポロポロと涙を流しているのが目に入った。 どうやら、キッズセットのおまけを座席の隙間に落としてしまったらしい。
「どうしたの? 探検隊の落とし物かな?」
遥香はスッと膝をついて視線を合わせ、細い腕を壁の隙間に伸ばした。指先に触れた硬い感触。救出したプラスチックの恐竜を除菌シートで丁寧に拭き、手渡す。
「……ありがと、お姉ちゃん!」
「どういたしまして。T-rexは強くて賢いから、お姉ちゃんを呼んだんだよ」
少年の顔にパッと花が咲く。その笑顔を見て遥香も嬉しくなった。
数日後。手渡された給与明細を手に遥香は駅のホームで立ち尽くしていた。 銀行口座に振り込まれた、初めての「バイト代」。
それは単なる数字ではなかった。
私は今まで、知っている人としか関わってこなかったんだ…
その事実に、背筋が震えるような衝撃を受けた。 親や親戚、学校の友達、先生。今までの自分を取り巻いていたのは、すべて「名前」と「役割」が一致する、安全な世界の人たちばかりだった。
けれど、このお金を払ってくれたのは、あの時道を聞いてきた旅行客であり、ポテトの仕上がりを待ってくれたビジネスマンであり、恐竜を拾ってあげたあの男の子なのだ。
子供の頃、おばあちゃんの家の庭の草むしりを手伝って、お小遣いを貰ったのとはわけが違う。
親でも親戚でもない、名前も知らない誰か。二度と会わないかもしれない誰か。
そんな「他人」のために、声を張り上げ、膝をついて汚れを拭き、心を配る。その対価として、このお金がある。
「働くって、知らない人の幸せを少しだけ願うことだったんだ」
夕暮れに染まる駅前広場。行き交う人々はみんな、誰かにとっての「知っている人」であり「知らない人」だ。 けれど、その一人ひとりの一日に、自分の「いらっしゃいませ」が小さな彩りを添えていたのかもしれない。
遥香は、受け取ったばかりの給与明細をカバンに大切にしまった。 明日からの「エイトバーガー」の景色が、昨日までとは少し違って見えそうな気がした。
「エイトバーガー」にはいろんなお客様が来られる
Y大学1年の遥香の日常は講義、実習、レポート提出or試験のループ。科目が異なっていても学生のすることはほぼ同じだ。
周囲を見渡せば、自分と同じような服を着て、同じようなスマホの画面を眺め、同じような将来の不安を口にする、同世代の人間ばかりだ。そこにあるのは、「だいたい同じ」だ。
けれど、一歩「エイトバーガー」の自動ドアをくぐれば、そこは全く別の重力が流れる世界の縮図だった。
ここには、大学の講義室には絶対にいない、世代もバックボーンも、生きるスピードも異なる「誰かの日常」が、ハンバーガーの匂いと共に交錯している。そんな当たり前のことを遥香はバイトを始めるまで理解していなかった。
「戦う喉」を潤す営業マン
その人は、いつも突風のように現れる。 外回りの合間、ネクタイを少し緩め、額にびっしょりと汗をにじませて駆け込んでくる営業マン。彼の注文は、いつだって決まっている。
「アイスコーヒー。ブラックをテイクアウトで」
財布から小銭を出す手つきも、どこかせわしない。遥香がカップを手渡す際、その引き締まった横顔に「お疲れ様です!」と声をかけると、彼は一瞬だけ張り詰めた表情を緩め、口元を綻ばせた。
「ありがとう。これで生き返るよ」
ストローを勢いよく吸い、喉を鳴らしながら、彼はまたコンクリートの街へと消えていく。
その話を大ちゃんにすると、フライヤーからフライドポテトをすくい上げながらニカッと笑った。
「あ、あのお客様ね。冬の、雪が降りそうな寒い日でも絶対にアイスコーヒーなんだよ。バーガー類は一度も食べたことない。だから俺達はこっそり「アイスさん」って呼んでるんだ。」
冬の凍える街を、アイスコーヒー片手に歩くスーツの背中。遥香はその姿を想像し、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
お団子ヘアの小さな姉妹
毎週土曜日の午後二時。ピークタイムが一段落した店内に、鈴の音のような笑い声が響く。 お揃いの位置でぴっちりとお団子ヘアを結った、小さな女の子の二人組だ。彼女たちはカウンターに背伸びをして、嬉しそうに小銭を差し出す。
「チョコレートシェイクふたつと、ポテトのLサイズをひとつください!」
お気に入りの窓際の席で、1袋のポテトを仲良く分け合う姿は、見ているだけでスタッフ全員の目元を緩ませた。
ある日、小さな女の子たちに遥香はそっと話しかけてみた。
「いつもありがとね。お団子ヘア、すごく可愛い」
すると、お姉ちゃんの方が少し照れくさそうに、内緒話をするように声を潜めた。
「あのね、バレエ教室の帰りに妹と一緒に来てるの。もうすぐママがお迎えに来るんだ。ポテトはね、先生が褒めてくれたときだけ、ママが食べていいよって言ってくれるご褒美なんだ。今日は2人とも褒められたの!」
妹の方も誇らしげにコクコクと頷く。 ストローをくわえた二人の頬は、まだあどけない桃色をしていた。誰かの「特別なご褒美」の場所に、自分たちがいる。その事実が、遥香の胸がじんわりと温かくなった。
「いつもの」を愛するおじいちゃん
店内がもっとも静かになるとそのおじいちゃんは現れる。決まった時間はない。先週は午後2時だった。今日は午後4時。まるで店内の混雑状況を見ていたかのように店内が落ち着いたタイミングで洗われる。
おじいちゃんは、年季の入ったハンチング帽をかぶり、ゆっくりとした足取りでカウンターへ進み、穏やかな声で告げる。
「ホットドッグとミネストローネスープを。あ、スープはよく温めておくれ」
ハンバーガーショップで、あえてのホットドッグ。そして、コーヒーでもコーンスープでもなくて、若い女性に人気のあるミネストローネを注文する。不思議に思った遥香が「ミネストローネ、お好きなんですか?」と尋ねてみた。 おじいちゃんはスープから立ち上る湯気を見つめながら、目を細めた。
「昔、好きで通っていたイタリアンのお店の味に似ているんだよ。それに、ここのスープは、たっぷりの野菜をクタクタになるまで煮込んであるだろう。一人暮らしだと、こんなにたくさんの種類の野菜は摂れなくてね。体にもいいんだよ。」
いつもの窓際の席で、スプーンでスープをゆっくりと口に運ぶおじいちゃん。その姿はまるで、エイトバーガーの背景に最初から描かれていた絵画のように、静かに、優しく、その空間に溶け込んでいた。
笑顔だけで誤魔化せない世界の理不尽
けれど、エイトバーガーに流れる空気は、温かいスープのような時間ばかりではない。 時には、遥香の心をキリキリとすり減らすような、冷たい風も吹き込んでくる。
こだわりが強すぎる「カスタムの貴婦人」
その女性は上質なコートを身にまとい、品の良さそうな落ち着いた物腰で来店する。決して大声を出すわけでも、威圧的な態度をとるわけでもない。 ただ、彼女の注文は、厨房の人間全員の脳細胞をフル稼働させる「複雑なパズル」だった。
「エイトチーズバーガーを1つ。ピクルスは抜いてちょうだい。それから、オニオンは極限まで細かく刻んでくださる? あと、ポテトは塩抜きで。その代わり、別添えで塩を大さじ半分くらい頂戴。飲み物とは別に、お水も1杯いただけるかしら」
ランチタイムの行列が後ろに伸びているとき、この女性の注文が入ると、レジの空気は一瞬で凍りつく。 この女性のオーダーは毎回異なる特注だからだ。女性に悪気は一切ない。ただ、自分の「こだわり」を通すことが、バックヤードの人間や後ろに並ぶ人々にどれだけの負荷を強いるのか、その想像力がすっぽりと抜け落ちているだけ。
「お客様、確認いたします。お塩は……小さじではなく、大さじ半分でよろしいですか?」
「ええ、大さじよ。よろしくね」
上品な微笑みを崩さない貴婦人を前に、遥香は引きつりそうになる頬の筋肉を必死で抑え、意識して口角を上げて笑顔を作る。
「かしこまりました。少々お時間をいただきますね」 インカムで厨房に指示を飛ばす遥香の胸の中にはピリッとした感覚が残っていた。
「お客様は神様」を履き違えたクレーマー
そして、理不尽は突然、怒号となって襲いかかる。
「おい! このバーガー、写真と全然違うじゃないか! レタスがこんなに小さいぞ! 金払ってるんだから、もっとまともなものを出せ! 客をバカにしてるのか!」
五十代前後の男性が、トレイをカウンターに激しく叩きつけた。バンズがズレて、中身が悲しそうに飛び出している。さらに男性は、セットの提供が1分遅れたことに対しても、「俺の時間をなんだと思っているんだ!」と顔を真っ赤にして詰め寄ってきた。
マニュアル通りに作ったのに…。揚げたてのポテトをご提供するので、1分お待ちいただけますか?って確認したのに…。
言葉にできない悔しさと恐怖で、遥香の指先がわずかに震え始める。喉の奥がキュッと締まり、声が出なくなる。 その時だった。
「お客様、大変失礼いたしました。すぐに私どもで確認させていただきます」
いつの間にか遥香の背後にスッと人影が立っていた。原田店長だった。いつもは穏やかな店長が驚くほど冷静で、それでいて一切の隙がないトーンでレジを代わってくれた。
店長の広い背中を見た瞬間、遥香は張り詰めていた糸が切れ、小さく息を吐き出した。
「エイトバーガー3号店」のスタッフも様々だった
「エイトバーガー3号店」にはいろんなお客様が来られるが、スタッフの年齢もバックボーンも様々だった。
寡黙過ぎるデリバリー担当
来店するお客様の数が落ち着いてくると遥香は原田店長に呼ばれた。
「こっちとこっち、どっちがおいしい?」
「これってレモネードですか?」
「そうなんだよ。先月、エイトバーガー全店舗で新商品を提案したでしょ?うちが提案したレモネードが採用になったから、ちゃんと分量を決めて誰が作ってもおいしいものにしないといけないから。」
原田店長は砂糖とハチミツの割合を変えたレモンシロップをビーカーにいくつも作って、スタッフに飲み比べて貰って「一番おいしい分量」を見つけようとしていた。
「私はこっちの甘さ控えめタイプが好きです。これなら大人も飲めると思うし。」
「OK。ありがとうね。あ、広野さんも意見聞かせてー」
原田店長は、休憩に入ろうとしていたデリバリー担当の広野さん(40代)にも声をかけた。
広野さんは「……はい」とだけ短く応じ、差し出されたカップを口に運ぶ。
「……左です」
「おお、広野さんは左か。理由は?」
「……スッキリするから」
広野さんの言葉はそれだけで終わった。広野さんははいつも穏やかで、仕事は完璧なのだが、驚くほど口数が少ない。広野さんが働き始めて1年以上になると聞くが、広野さんがどこに住んでいて、休日に何をしているのか、スタッフの誰も知らない。まさに「謎に包まれたベテラン」である。
穏やかで冷静な店長のもうひとつの顔
「お疲れ様、遥香ちゃん。……あ、そうだ。これ、来週からスタートするキャンペーンの内容ね。」
バックヤードのデスクで原田店長が手渡してくれたのは、来週からスタートするキャンペーンの内容とサービスの仕方がわかりやすく書かれたマニュアルだった。
40代の原田 店長は声を荒らげることがない。トラブルで店内がどれほど騒がしくなっても、常に冷静沈着。
「ああ、そうだね」と短く一言指示を出すだけで、なぜかスタッフ全員がその通りに動きたくなる不思議な包容力を持っている。
遥香が「ありがとうございます。来週のキャンペーンはプレゼント付きなんですよね?これはわかりやすいです!」と受け取った。
店長は手元のスマートフォンを操作した。
「……ふふっ」
その表情を見て、遥香は思わず「え?」と声を漏らした。 さっきまで「エイトバーガー」の司令塔として完璧な指示を出していた、あの鋭く穏やかな店長の顔が、まるで別人のように崩れていたからだ。目尻はとろけそうなほど下がり、口元には隠しきれない甘い笑みが浮かんでいる。
「店長…今、笑いました?何か良いことありました?」
遥香の問いかけに、店長は我に返ったように少しだけ表情を引き締めた。
だが、スマホを閉じるのは名残惜しいのか、指先は画面の上で止まったままだ。
「あ、いや……ごめんごめん。ちょっとね、さっき妻から送られてきた写真を見ていて」
そう言って、店長は恥ずかしそうにスマホの画面を少しだけ見せてくれた。 そこには、3歳くらいの女の子が大きなひまわりの前で、少し誇らしげにポーズをとっている写真があった。
「うちの娘だよ。今日、保育園でひまわりを見てきたんだって。家に着いたら「パパにお花、おおきかったよ!って言いたい」って、妻に言って写真を送って来たらしくて。」
さっきまでの「仕事の鬼」のような店長はどこへやら。今目の前にいるのは、愛娘の可愛さに骨抜きにされた、ただの「子煩悩なパパ」だった。
「ひまわり、大きかったんですね!娘さんのお名前は?」
「陽葵(ひまり)って言うんだ。」
「ああ、だからひまわりの写真をパパに送りたかったんですね。」
遥香が相槌を打つと、店長は堰を切ったように話し始めた。
「そうなんだよ。手足なんてまだまだ小さいのに、一生懸命背伸びしてさ。将来は花屋さんになりたいなんて言い出して…。あ、これは先週の運動会の写真。こっちは昨日、お風呂でシャボン玉をしてる時」
見せられる写真、写真すべてに店長の温かい視線が注がれている。 仕事中には絶対に見せないような、柔らかく、少し照れくさそうな、それでいてこの上なく幸せそうな表情。
いつもこの店を守ってくれている店長の強さは、この笑顔に支えられていたんだ。
遥香は、これまで抱いていた「穏やかで冷静で頼りになる店長」というイメージが、少しだけ書き換わるのを感じた。仕事の指示を的確に出すあの鋭い視線は、きっと陽葵ちゃんの健やかな成長を見守るための、父としての優しい眼差しと同じものなのだ。
「店長、陽葵ちゃん、本当に可愛いですね。…今の店長、すごく優しい顔してますよ」
遥香が少しだけ茶化すように言うと、店長は「おっと、いけない」と慌ててスマホをポケットにしまった。 一瞬でまた、いつもの冷静な表情に戻る。けれど、その瞳の奥には、まだ陽葵ちゃんの笑顔の残像がしっかりと残っているのが見えた。
「……バレたか。いや、仕事中なのはわかってるんだけどね。どうしても、ふとした瞬間に思い出してしまって」
店長はそう言って少しだけはにかんだ。
「さあ、休憩終わりだ。遥香ちゃん、また頼むよ。店が落ち着いたら、またおいしいコーヒー、淹れよう」
「はい! ありがとうございます」
バックヤードから店内に戻る店長の背中を見送る。 「エイトバーガー」という場所で誰かのために戦い、誰かのために汗を流す大人たち。その日常のすぐ裏側に、こうして温かな「帰る場所」があることを知った遥香は、なんだか自分も少しだけ強くなれたような気がした。
夕暮れどき、店内に漂う香ばしいバンズの匂いと店長のあのデレデレの笑顔を思い浮かべて、遥香はまたレジの前で小さく微笑んだ。
花の香りのする咲羅
エプロンのポケットから、ふわりと花の香りがした気がした。
「じゃあ、遥香。レジ締めは、ボタンを押すだけで大丈夫だから。やってみて」
落ち着いた声でそう言いながら、咲羅はテキパキと清掃用具を片付けていく。 遥香にとって、同じクラスの咲羅は「憧れ」そのものだった。高校生の頃からエイトバーガーでバイトを続けている咲羅は、店長からの信頼も厚く、今では新人教育を任されている。
遥香がこの店でバイトを始めたのも、咲羅から「一緒にやらない?」と誘われたからだった。
「何かあったら、いつでも私がフォローするから」
と微笑んだ咲羅の言葉に、どれだけ救われたか分からない。
「咲羅、いつもありがとう。…ねえ、咲羅ってやっぱりすごいよね。お店の仕事も教えられるし、学校の華道クラブでも級を取ってるんでしょ?」
バックヤードで遥香がそんなふうに話しかけると、咲羅は少しだけ照れたように頬を染めた。
「そんなことないよ。華道もバイトも似てると思うよ。」
咲羅はそう言って、バックヤードに置いてある小さな一輪挿しを指差した。そこには、営業終了後の店内で拾った、少し折れかかったガーベラが一輪、コップに生けられていた。
「私はお花を生けるのって、それぞれのお花のいい表情をとらえることだと思ってるの。このガーベラは茎が曲がっていたから、お客様の持っていた花束から落ちちゃったんだと思う。花束の時と1輪挿しでは見える表情が違ってくるよ。エイトバーガーでのお仕事も同じだと思うんだ。」
「え?」
「このガーベラも他の人からは「取りに来るとは思えない落とし物」に見えるかもしれない。でも、生けたら表情が見えるでしょ。バックヤードの雰囲気変わるでしょ。
さっきの「カスタムの貴婦人」の注文もそう。遥香は一生懸命対応してたけど、あの注文は癖が強いんじゃなくて、その人が求める「今の表情」なんだよね。枝の癖を無理やり直すんじゃなくて、その癖を生かして一番美しい表情に見える角度を探すようなものかな」
咲羅の言葉に遥香は目を丸くした。 咲羅がいつも冷静にどんなトラブルもさらりと解決してしまう理由が分かった気がした。
咲羅はただ仕事をこなしているんじゃない。このせわしない店の中を、まるで花を生けるように、丁寧に眺めているのだ。
「咲羅って、本当に名前の通りだね」
「え?」
「お花が大好きで、ちゃんとその子(花)の一番いい表情を知ってる。私のことだって、そうやって見てくれてるんでしょ?」
遥香が少し茶化すように言うと、咲羅は「もう、大げさだな」と笑って、遥香の肩をポンと叩いた。
「遥香こそ、今日はあの大変なオーダーを完璧に聞き取れてたよ。私が遥香を誘ったのはね、フォローするためじゃないんだ」
咲羅は少しだけいたずらっぽく目を細めた。
「遥香は茶道部だから、茶道の精神の「一期一会」の心を持っている。
「一生に一度きりの出会いを大切にし、その瞬間に誠意を尽くす」って意味でしょ?この気持ちって大事だな、お店に必要だなって思ったから。」
バックヤードの小さな窓から、街明かりの光が差し込み、咲羅の横顔を柔らかく照らす。 咲羅が大切に生けた一輪の花が、今日一日、緊張で強張っていた遥香の心をすうっとほどいていく。
「さあ、上がろうか。今日は頑張ったご褒美にお花屋さんに寄って行くから、付き合ってくれない?」
「うん。いいよ。お花屋さんに寄ったらアイスクリームも食べようよ。」
咲羅と遥香は顔を見合わせて笑った。エプロンをはずし私服に着替えた2人は、自動ドアの向こう側の賑やかな街へと踏み出した。 完璧で少し不思議で誰よりも温かい咲羅という親友と一緒にいれば、バイトでどんな出来事が起きても、きっと大丈夫だ―。遥香はそう確信しながら、街中に咲羅の好きな花の匂いを探した。
思いがけない再会と英会話
夕方のルーティンが、一人の客の登場で一変した。
「……遥香? もしかして、遥香ちゃん?」
遥香の指がタブレットの上で止まった。 目の前に立っているのは、少し大人びた、けれど見覚えのある色の白い女の子。
「え、……乃梨子?乃梨ちゃん!」
それは、小学校二年生の夏、言葉にならない寂しさを抱えたまま見送った幼馴染の名前だった。
「ウソ、本当に遥香だ。ここで働いているんだね。」
乃梨子は驚いたように声を弾ませた。乃梨子が引っ越して、しばらくは手紙を書いていたが、中学へ進んだ頃からいつしか連絡が途絶えていた二人。
かつての面影を残しつつも、乃梨子は都会の大学生らしい適度にオシャレな服を身にまとっていた。
「乃梨子こそ……! どうしてここに? 引っ越し先とは違うよね?」
「S大学に通ってて、ここで乗り換えてるから。今日はたまたま友達から『ここのバーガーがおいしい』って聞いて寄ってみたんだけど…まさか、遥香ちゃんが働いてるなんて」
遥香の胸に、当時の記憶が鮮明に蘇る。毎日、一緒に通った幼稚園。近くの公園のすべり台がお気に入りだったこと。お揃いの浴衣で行った夏祭り。引っ越しの日に泣きながら見送った車の中から、ずっと手を振っていた乃梨子の泣き顔。
後ろに他のお客様がいないことを確認して、遥香は少しだけ身を乗り出した。
「注文、決まってる?」
「うーん、迷っちゃうな。おすすめは?」
「それなら、グリルチーズバーガーがオススメ。あと、新商品の自家製レモネード! 乃梨子の好きな味だと思う。」
「覚えててくれたんだ」
乃梨子が嬉しそうに笑う。 レジのボタンを叩く遥香の指先が、さっきまでよりずっと軽やかだった。
遥香は手際よくトレイを準備しながら、乃梨子にウインクをした。
「あと三十分でバイト上がるから。そしたら隣の席、座ってもいい?」
「もちろんだよ。話したいこと山ほどあるんだから」
乃梨子がトレイを持って窓際の席へ向かう。その後ろ姿を見送りながら、遥香は深く息を吸い込んだ。
「よし!あと30分!」
「エイトバーガー3号店」の片隅で遥香と乃梨子は空白を埋めるように話した。大学のこと、子供の頃の思い出、引っ越してからのこと、バイトのこと、将来の夢。話は尽きず、ついに乃梨子が身を乗り出して言った。
「ねえ、ここ、まだバイト募集してるかな? 遥香と一緒に働けたら、もっと楽しいと思うんだ」
原田店長に相談すると、返事は二つ返事だった。こうして、S大学の英文科に通う乃梨子が「エイトバーガー3号店」の新しい仲間として加わることになった。
机上の勉強より3分の実践が勝る
ホテルも近い「エイトバーガー3号店」には外国籍のお客様も来店される。
ある日、薄手のコートをなびかせてモデル級のイケメンが「Hello!」と言いながら入ってきた。
「カッコいい!」
レジにいたバイトの女の子たちから思わず声がこぼれる。
イケメンは遥香が立っていたレジのところに来ると英語で注文を始めた。
遥香は英会話が出来ない。イケメンがメニューを指さしてくれた通りにレジを打つ。あとはマニュアルに書いてあったことしか言えない。
「店内でお召し上がりですか?」ここまではマニュアルに書いてあった。
「ポテトはお時間3分かかります。お待ちいただけますか?お席にお持ちします。」
これはマニュアルに書いてなかった。
「えーっと、Potato……three minutes……wait, please!」
顔を赤らめ、知っている単語と身振り手振りを総動員する遥香。イケメンは「OK!」と微笑んでくれたが、遥香は自分の不甲斐なさに冷や汗をかいた。
その時、横から涼やかな声が響いた。
「She says the fries will take about three minutes. Would you mind waiting at your table? We'll bring them to you as soon as they're ready.」
隣のレジに入っていた乃梨子だった。流暢な発音と淀みのない説明。イケメンは
「Oh, perfect! Thank you!」
と感銘を受けた様子で、乃梨子と少しばかり会話を楽しんでから席へ向かった。
「ありがとう。すごい、乃梨ちゃん! さすが英文科……」
「ううん、遥香の『伝えようとする度胸』があったから、私もフォローしやすかったんだよ」
「度胸って。褒めてる?褒めてないよね?」
と遥香は笑った。
イケメンは帰る時に「Thank you!」と言ったので、遥香がマニュアルに書いてあった通りに「Have a nice day!」と言うとイケメンが「You too!」とニッコリしてくれた。
乃梨子が「ね、伝えようとする度胸が大事でしょ?」と笑った。
「仕事のことは遥香に助けてもらうこともあるけど、英語ならいつでも助けるよ。」
聞いてみると乃梨子はずっと英語を勉強していて、短期留学も予定しているそうだ。
中学・高校・大学と英語の授業よりも、たった3分の英会話の方が得るものが大きかった。実践に勝るものはないんだなと遥香は思った。
「イレギュラー」は頻度の問題
「あー、疲れました……。今日はなんだか、イレギュラーなことばっかりで」
「エイトバーガー3号店」でバイトを始めて3ヶ月が経つ遥香は、原田店長の顔を見て、つい愚痴がこぼれた。
エプロンを畳みながら、今日一日の出来事が頭を巡る。
ハンバーガーの「からし抜き」という細かい特注対応。
1人で来店したお客さんからの「お持ち帰りで20セット」という大量注文によるキッチンのパニック。 さらには、ピークタイムの真っ只中に起きた、テーブルの下の「お忘れ物」騒動。
マニュアル通りに動きたい遥香にとって、想定外の連続は心身をすり減らすのに十分だった。
「お疲れ様。イレギュラー、ねえ」
パイプ椅子に座り、シフト表にペンを入れていた原田店長が、顔を上げてクスリと笑った。四十代半ばの、いつも穏やかで少し不思議な雰囲気を持つ人だ。
「店長は笑ってますけど、こっちはテンパりっぱなしでしたよ。普通に注文を受けて、普通に提供する。そういう『いつものルーティン』から外れることって、やっぱり疲れます」
「遥香ちゃんさ」 原田店長はペンを置き、まっすぐ遥香を見た。
「毎日、大学に行って授業を受けてるよね。毎日ご飯を食べて、夜はお風呂に入る」
「はい、まあ。それが日常ですから」
「エイトバーガーでのバイトは、週に3日だ」
「そうですけど……」
「学食じゃなくて、友達とカフェでランチするのは週にどのくらい?」
「お昼休みだけだとカフェまで行けないから学食使ってて。午後イチの講義がない時だけカフェに行くので週に1回だけです。」
「うん。先週、髪切ったって言ってたけど、美容院で髪をカットするのってどのくらいの間隔?」
「月に1回くらいですね。」
「じゃ、テーマパークに行くのは?」
「大好きなんでもっと行きたいんですけど、半年に1回くらいですね!」
「だよね。」
「店長、それが今日のバイトと何か関係あるんですか?」
遥香は不思議そうに首を傾げた。
原田店長は穏やかな口調で続けた。
「毎日学校に行く。毎日、ご飯食べてお風呂に入る。週に3日バイトをする。週に1回カフェでランチをして、月に1回髪を切る。半年に1回テーマパークへ行く。……遥香ちゃん、週に1度のカフェランチや月に1回の美容室は、君の人生にとって「イレギュラー」かな?半年に1回のテーマパークはイレギュラーなの?「異常事態」なの?」
「え?」
「毎日やっていないからといって、それは「異常事態」じゃないよね。ただ、発生する頻度が違うだけだ」
店長の言葉に、遥香はハッとした。
「からし抜きや玉ねぎ抜きなどのカスタムオーダーは、1日1回は入るよ。
これはお客様のご希望に沿いますってメニューに書いてあるからね。
20個セットなどの大量注文は、3日に1回くらいの割合だよ。お客様の忘れ物は、週に1回じゃきかないなぁ。もっとあるよ。」
原田店長は、バックヤードの壁に貼られたカレンダーを指差した。
「遥香ちゃんにとっては今日たまたま、それらが重なった日にシフトに入っていたから「イレギュラーが起きた」と錯覚したかもしれない。でもね、お店という大きなスパンで見れば、それは全部「頻度が異なる日常」なんだよ。半年に1回のテーマパークは「イベント」だけど、週に1度のカフェランチや月に1回の美容院は日常でしょ。頻度の問題なんだよ。」
「頻度の問題……」
「そう。誰もが一番起きることを通常業務と思ってしまって、そこから外れたものを「イレギュラーだ」「異常事態のトラブルだ」って敵視して、勝手にストレスを抱え込んでしまうんだよ」
店長は立ち上がり、遥香の横のシンクで手を洗い始めた。
「でも、お店の中の出来事は、全部それぞれ違う頻度を持っているだけなんだ。1年に1回しか来ないお客さんもいれば、10年に1回しか起きないような大きなミスだってある。でもそれは、決して「システムエラー」じゃない。そういう頻度のものなんだって受け入れると、もっと気持ちに余裕をもって仕事が出来るんじゃないかな。お店の中だけじゃなくて、世の中にも当てはまると思うよ。」
水の跳ねる音が、静かなバックヤードに響く。 遥香の心の中にあった、ザラザラとした「想定外への苛立ち」が、すっと溶けていくような感覚があった。
「月に1回の美容院と同じってこと?」
敬語を使うのも忘れてつぶやいた遥香に、店長はペーパータオルで手を拭きながら笑顔を向けた。
「そうそう。だから今日の遥香ちゃんは、イレギュラーに振り回されたんじゃない。ただ、週に1回や月に1回の頻度のモノに遭遇しただけ。
まぁ、全部重なるのはあんまりないけど、「ちょっと珍しい日常」に立ち会っただけ。そう考えたら、少しは疲れも軽くならない?」
「そうか。お客様全員がグルメバーガーとコーラのセットを注文するわけじゃないですもんね。一番人気はグルメバーガーだけど全員じゃない。グルメバーガーのようにたくさん注文は入らないけど、フィッシュもチキンもホットドックもメニューにないと困りますね。それと同じって思えばいいですか?」
「そうそう。よく気が付いたね。ドリンクだって平日に一番注文が入るのはコーヒーで、週末はコーラなんだ。牛乳はあんまり注文入らないけど、お子様にはなくてはならないよね。」
「そう考えればいいんですね。なんだか、納得しちゃいました。」
遥香が笑うと、張り詰めていた肩の力がふっと抜けた。 マニュアル通りにいかないことは、失敗でも異常でもない。ただ、違うリズムが交差しただけ。
「お疲れ様でした。また明後日、来ますね」
「うん、お疲れ様。気をつけて帰ってね」
店を出て、少し暗くなった街の風を吸い込む。 明後日のシフトでは、また「半年に1回」の何かに出会うかもしれない。でも不思議と、今の遥香にはそれが少しだけ楽しみになっていた。
嵐のような日曜日
「原田店長、すみません。再来週の土曜日、お休みさせてください。」
閉店作業を終えた遥香がバックヤードにいた店長に言った。
「良いけど、どうしたの?」
PC作業をしていた店長が手を止めた。
「再来週、うちの大学の文化祭なんです。私は茶道部で1年生は先輩を手伝って裏方を担当するんですが、両親が来ると言ったら午前中にお点前していいことになって。その後は裏方に回らないといけないので。」
「そっかぁ、そんな時期か。毎年Y大学の文化祭の時はものすごく混雑するんだよ。ええと、日曜日は出られる?他にも誰か出られないかな?」
原田店長はシフト表を確認して言った。
「はい。土曜日お休みして日曜日は出勤できます。咲羅は華道部だけど、どうかな?乃梨子は大学違うから聞いてみましょう。乃梨子ー?」
「私は日曜日に華道部の教室にいることになってるから、土曜日は出勤できます。」と咲羅。
「遥香呼んだ?あ、すみません。店長でしたか?」
と乃梨子も原田店長のところへ近づいてきた。
「再来週はそこのY大学の文化祭で、とても忙しくなるから出勤できる人探しているんだ。乃梨子さんはどうかな?」
「はい。私が通うS大の文化祭は来週なんです。再来週の土曜日は遥香たちの通う大学とうちの大学のテニス部の試合があるんで、日曜日なら出勤できます。」
「ありがとう。よろしくね。」と原田店長。
「乃梨子、試合出られるんだ!すごいね!」と遥香。
「ダブルス、ちょっとだけね。あとは審判とかボール拾いとかになると思います。片付けもあって、時間の約束が出来ないので日曜日だけでお願いします。」
「俺は土日両方出られるよー」と大介さん。
「おお、頼もしいな!みんな、再来週はとても忙しいと思うけど、よろしくね。」
「はい」
原田店長の言葉に遥香たちがうなづいた。
日曜日の午前9時。
「エイトバーガー」の店内には、嵐の前の静けさが漂っていた。
遥香はエプロンの紐をキツめに結び直し、戦場へ向かう兵士のような心地でカウンターに立つ。
今日は近くのY大学の文化祭の最終日。1年で最も忙しい日のひとつだ。
「みんな準備はいい?そろそろ来るよ。」
原田店長の言葉が開戦の合図だった。
自動ドアが開くたびに鳴るチャイムが、もはや途切れることのない電子音へと変わる。
揃いのTシャツを着たグループが10人単位でなだれ込んでくる。
レジの前の行列は途切れることがなかった。
「グルメバーガーセット20個テイクアウトで!」
「2番レジ、チーズバーガーセット10個テイクアウトです!お客様の車に運ぶの手伝って。」
注文が飛び交い、タブレットには注文の文字で埋め尽くされる。
いつもの穏やかな週末の朝の風景は全く見られず、イートインの席は常に満席になった。
揚げるそばから消えていくフライドポテト。フライヤーの音は、さながらシューティングゲームの連射音のようだ。
カウンター越しに見えるキッチンでは、パティを焼く煙が視界を遮るほどに立ち込めている。
「チーズバーガー単品で15個です!」
「ポテト追い付かない!あと1分待って」
「コーラ切れた!ストック持って来て!」
「氷足りる?ストローは?」
遥香の声が喧騒にかき消されないよう、いつもより高くなる。
遥香は笑顔で接客しながら、客席を調える最短ルートを計算する。
いつもの「営業マン」も「バレエの姉妹」も、今日ばかりはこの熱気に圧倒され、隙間を見つけることすら難しそうだった。
16:00 引き潮の静寂
ピークが過ぎ、嵐が去った後の店内。
客席の床には落としてしまったポテトのかけらが散らばり、山積みになったトレイと紙コップで溢れんばかりのゴミ箱。キッチンはポテトにまぶす塩がこぼれ、氷が床に散らばっていた。補充途中の段ボールがいくつも置いたままになっている。
片付けようと客席に向かおうとした遥香を店長が手で制する。
「まずは、これ飲んで。水分補給も仕事のうちだよ。」
原田店長水の入ったコップを手渡しながら言った。
遥香が水を飲み干すのを見ると原田店長が言った。
「みんな、ありがとう。文化祭の差し入れの大量テイクアウトはもうないと思う。この後、文化祭帰りのお客様が来られるから、その前に順番に30分ずつって短いけど休憩取って。まずは乃梨子ちゃんと高橋くんね。
遥香ちゃんは客席整えてくれる?俺はキッチンを立て直すから、大ちゃん、レジ変わって。」
遥香は床のポテトを拾って、トレイを片付け、ゴミ袋を入れ替えた。
テーブルを拭きながら窓の外を見た。
駅へと続く坂道を文化祭の余韻に浸りながら歩く学生たちの背中が見える。彼らの楽しい一日の何分の1かの、ほんの数分間を自分たちで支えたのだという充実感が体にじんわりと広がっていく。
「さて、と」
遥香は帽子をかぶり直した。
「あ、ホットドッグのおじいちゃんだ」
嵐のような日曜日がいつもの穏やかな「エイトバーガー」に戻るまで、あと少し。遥香は再び、最高の笑顔でカウンターへと向かった。
「お疲れ様。すごかったね。みんなありがとうね。」
閉店作業を終えて、原田店長が言った。
「これ飲んでね。」
原田店長が自慢のレモネードを差し出す。
「おお!いつもより、おいしい!」
「疲れた体に沁みますねー」
みんなの顔には充実感があった。
疲れてはいるが、いい笑顔を浮かべている。
すると高橋くんが言った。
「店長、すみません。あの。」
「なに?どうした?」
「来週は僕の通う、そこの高校の運動会です。」
「えええー?運動会も混むんだよね。開催ってこの時期だった?」
「いつもはもっと早いんですけど、2年生の修学旅行と重なっちゃうので運動会がズレたんです。」
「なるほどねー。来週も出勤できる人いる?」
「いいですよー。」
「私も出られます。」
「さすが、高橋くん。なんかしら起きるよね」
「店長、コーラも注文してください。」
「了解。みんなに良いニュースをお届けするよ。大混雑するイベントは今月だけじゃないんだ。年末年始は初詣のお客様で賑わうし、その後には国際マラソンが控えてる。お店の前がマラソンコースだから、窓際の席は特等席なんだ。歩道にもたくさんの方が応援に来てお店に立ち寄ってくださるよ。その時もシフト入ってねー。」
「はーい」
バックヤードが笑い声に包まれた。
懐かしい仲間たちとの再会と想定外
グラスが触れ合う軽快な音と、「かんぱーい!」という賑やかな声が、居酒屋の個室に響き渡った。
遥香が大学を卒業して1年と少し。 それぞれの道を歩み始めた仲間たちが、久しぶりに顔をそろえた。集まったのは、かつて「エイトバーガー3号店」で苦楽をともにしたアルバイト仲間たちだ。
遥香は大学1年から大学4年までバイトして、今や社会人2年めになった。
メーカーの営業部に勤務する遥香は、学生時代と変わらないトーンで
「遥香はいつも笑顔でいいよね」
「本当に楽しそうにお客様の要望を聞くよね」と先輩に褒められる。
それは間違いなく、あの怒涛の「エイトバーガー」で鍛えられた「おもてなし精神」の賜物だった。
「高橋くん、まだエイトバーガーでバイト続けてるって本当?」
みんなの視線が、現役の大学院生であり、今や店舗の最高長老と化している高橋くんに集まる。高橋くんは苦笑しながらレモンサワーを煽った。
「本当だよ。っていうか、辞め時を失った。相変わらずシフトに入るたびに「想定外」のトラブルが起きるんだよ。先週なんて、ピクルスの納品がなくてさ。どうにもならなかったから、キュウリ買って来て自作したよね。」
「それ、ただの想定外じゃなくて事件じゃん!」
「あはは。ホットドックのおじいちゃんは今も来店される?お団子ヘアの姉妹は?」
と遥香が聞いた。
「おじいちゃんも姉妹も今も来店されてる。有難いよね。姉妹は大きくなったけど、バレエ続けてるんだって。ママのお迎えは要らなくなったみたいだよ。」
と高橋くん。
「それにしてもさ」
焼鳥を食べながら国語の先生になった咲羅が、教師らしいハキハキとした声で言った。
「遥香のその「話の聞き上手」なところ、相変わらずだよね。メーカーの営業でもファンが多いって、さっきの話聞いてて納得だもん。私なんて、毎日中学生相手に大声出してるから、声ばっかり枯れちゃって」
咲羅はそう言って笑うが、咲羅の先生っぷりもエイトバーガー時代からすでに片鱗が見えていた。 咲羅は高校生の時から「エイトバーガー」でバイトをしていて、新人教育も担当していた。当時から、後輩への指導がとにかく丁寧で論理的だったのだ。
客席の整え方、ドリンクの入れ方、レジ操作や接客の仕方から、言葉遣いまで、まるで国語の授業のように、順序立てて分かりやすく説明していた。 そんな咲羅が「現代文」の教壇に立っていると聞き、遥香は「まさに適職だね!」と嬉しくなった。
「ホント、咲羅は教え方がうまかったよね。どれだけ助けられたかわからないよ。」
そう言ってワイングラスを傾けたのは、遥香の幼馴染で偶然再会してバイトメンバーになった乃梨子だ。
「いやいや、海外からのお客様が来店された時は乃梨子が大活躍だったよね。」と咲羅が言うと
「英語はずっと勉強してて、それなりに自信があったんだけど「エイトバーガー3号店」でリアルに英会話したほうが勉強になることも多かったんだよ。夏休みに短期留学して何度もバイトしてて良かったと思ったもん。だから今の仕事を選んだんだ。」
外資系IT系企業で英語の会議にも参加しているという乃梨子が言った。
「そういえば、原田店長は? 遅れるって連絡あったけど」
高橋くんが時計を気にした、その時だった。
「悪い、お待たせ!」
引き戸を開けて入ってきたのは、少し髪に白いものが混じった、だけどあの頃と変わらないガッチリとした体格の原田店長だった。
「店長! お疲れ様です!」 一斉に上がる歓声。
「原田店長が来られたから、もう一回乾杯しましょう!」
原田店長は「もう店長じゃないだろ」と照れくさそうに笑いながらビールを飲んだ。
「今は「5号店」の店長ですよね」
遥香が言うと、原田店長は嬉しそうに目を細めた。
「おう、おかげさまでな。5号店はオフィス街だから、3号店とはまた客層が違って毎日大変だよ。でも、お前たちが残してくれたマニュアルや効率化のアイデア、今でも5号店で生きてるんだぞ」
その言葉に、みんなの顔が誇らしげに綻ぶ。自分たちの流した汗が今もどこかで誰かの役に立っている。それは社会人になった今だからこそ、より深く心に染みる言葉だった。
「陽葵ちゃんも大きくなったんでしょうね」
と咲羅が聞いた。
「うん。今は小学校2年生だよ」
原田店長がスマートフォンを取り出し、画面を遥香たちに向けた。
「陽葵の入学式の写真ね」
画面の中で、ピカピカのランドセルを背負い、前歯の抜けた顔で満面の笑みを浮かべる少女がいた。
「 陽葵ちゃん、大きくなりましたね。私がバイトを始めた頃は保育園って言ってましたから」
遥香は思わず身を乗り出した。
「月日が流れるの、早すぎますね……」
「本当だな。お前たちが立派に社会人をやってるわけだ」
原田店長はしみじみと呟き、父親の顔で画面を見つめた。
しかし、今日一番の「想定外」は、まだ明かされていなかった。
「ところでさ……みんなにはまだ言ってなかったんだけど」
少し照れくさそうに頭を掻いたのは、一番年上の大介さんだった。大ちゃんこと 大介さんは、いずれは実家に戻るからそれまでフリーターとして働いていると聞いていた。
「俺、実は今、エイトバーガー3号店の「店長」やってるんだ」
「ええええええっ!?」
居酒屋の個室が揺れるほどの声が上がった。 遥香も乃梨子も咲羅も目を丸くして大ちゃんを見つめる。
高橋くんだけが「まあ、そうなるよね」と一人で深く頷いていた。
「ちょっと待って、大ちゃん! なんで!?実家戻って家業継ぐんじゃなかったの?」
遥香が身を乗り出して尋ねると、大介さんは「いや、それがさ……」と、事の真相を語り始めた。
ことの発端は、遥香が大学4年の時に「エイトバーガー5号店」がオープンすることになり、原田店長が新店舗立ち上げの店長として転勤することになった。原田店長の後任として「エイトバーガー2号店」の社員だった「宮崎さん」が店長見習いとして「エイトバーガー3号店」に赴任してきた。
「その宮崎店長がさ、とにかく色々とイタイ奴で……」
大介さんが遠い目をする。
「そうだったよね。イマドキ、スマホ持ってなくて、LINEもできないんだよ。「連絡はすべて自宅の固定電話かFAXで」って言われてさ」
「家電かFAX?」 咲羅が思わずツッコミを入れる。
「ああ、咲羅は教育実習があるからって、1年早く辞めたから知らないんだよね。原田店長がみんなから慕われてたから、やりにくかったとは思うんだけど、それにしても、あんまりな人だったの。」
「スマホが使えない、それだけならまだしも、仕事がとにかく出来ない。シフトは組めない、発注は間違える。それでいてプライドだけは一丁前に高くて、バイトの意見は一切聞かない。挙げ句の果てに……」
大介さんは一呼吸置いて、ニヤリと笑った。
「飛んだんだよ。先月のある日突然、バックくれた」
「ええーっ!」
「しかも、金曜日のディナーピークの直前にね。高橋くんから「店長が来てません」「連絡も取れません」ってパニックの電話がかかってきてさ。俺が慌てて駆けつけたら、店長の制服だけがバックヤードに残されてた」
「あの日はマジで終わったと思ったわ」
高橋くんがしみじみとレモンサワーを飲む。
呼び出されたエリアマネージャーは大混乱。店は崩壊寸前。そのとき、駆けつけて現場を完璧に回し、持ち前のリーダーシップで危機を救ったのが、大ちゃんだったという。
本部にその手腕を高く評価され「頼むから、社員として3号店の店長になってくれ!」と熱烈なヘッドハンティングを受け、フリーターから一気に店長になり、今に至るのだという。
「大変だけど、宮崎元店長のおかげで、今はバイトの皆が俺を神様みたいに慕ってくれてるよ」 大介さんは誇らしげに胸を張った。
「それ、自分で言う? やっぱりエイトバーガー3号店は最高にクレイジーだね」
乃梨子の言葉に全員がドッと沸いた。
それぞれ違う場所で、違う看板を背負って戦っているけれど、遥香たちの根っこには、あの賑やかで時々波乱のある「エイトバーガー3号店」がある。
「店長、今度みんなで3号店に食べに行くから、最高のスマイルとハンバーガー、よろしくね!」
遥香の言葉に、大介店長は「任せとけ。原田店長直伝の超おいしいハンバーガーを作ってやるよ」とウインクしてみせた。
グラスが触れ合う音がひとしきり落ち着いた頃、それまで静かに微笑んでいた原田前店長が、ふっと大介さんの肩を叩いた。
「大介、店長になったのはいいが、例の『ヤラカし』はもう卒業したんだろうな?」
「え? いや、それは……」
大介さんが急に視線を泳がせる。その様子に、現役スタッフである高橋くんが待ってましたとばかりにニヤリと笑った。
「みなさん、聞いてくださいよ。大ちゃん、店長になってからも全然変わってないんです。先週も大ちゃんが「お持ち帰り用の袋、全部セットしたよ」
って言ったんですよ。
なぜかその中に、試作品の「タコス」がキレイにパッキングされてて」
「おい、高橋! それは言うなよ!」
「いやいや大ちゃん、試作品はパッキングしちゃダメでしょ」
「大介はやっぱり大介なんだな」
原田店長のツッコミに、居酒屋の個室は今日一番の爆笑に包まれた。変わらないやり取りが、たまらなく愛おしい。
原田店長は、しみじみとみんなを見渡した。
「でもな、そんな想定外があるからこそ、お店は面白いんだ。毎日同じことの繰り返しに見えて、世の中にはいろんな頻度の日常が流れてる。お前たちと働いたあの3号店での日々は、俺にとっても最高の日常だったよ」
店長の言葉に、全員が深く頷く。
「働くって、知らない人の幸せを少しだけ願うこと」
大学一年生のあの日、初めての給与明細を手に駅のホームで気づいたあの想いは、社会人になった今も、遥香の心の真ん中にしっかりと息づいている。 メーカーの営業として、毎日知らない誰かの笑顔のために頭を下げ、靴底をすり減らす。その根底にあるのは、間違いなくエイトバーガーのカウンターで培ったプライドだった。
「よし! じゃあ、今度は3号店の大介店長の奢りで、もう一回乾杯するか!」
原田店長の悪ノリ混じりの提案に、大介さんが「ええっ!? 俺ですか!?」と頭をかく。
「かんぱーい!」
夜が更けていく渋谷の街。居酒屋の片隅で響いたガラスの音は、あの頃、エイトバーガー3号店の自動ドアが開くたびに鳴り響いていたチャイムの音によく似ていた。
それぞれが違うリズムで、違う明日へと歩き出す。けれど、あの香ばしいバンズの匂いと、最高の仲間たちの笑顔がある限り、どんな想定外の未来がやってきてもきっと大丈夫。
遥香は冷たいビールを飲み、明日もまた、自分の戦場で最高の笑顔を咲かせようと、心の中で強く誓うのだった。
終