【SF・幻想小説】「歪みの向こう」
「歪みの向こう」

空が、道路の端から折れ曲がっていた。
私は交差点の中央に立ち、信号機を見上げた。赤、青、黄色。三つの灯りは同時に点いているのに、どの色も地面へ影を落としていない。代わりに、空中へ細い光の筋を伸ばし、その先で絡まりながら、雲のない空を縫っていた。
風はなかった。
それでも看板の文字だけが、文字列の途中からゆっくり揺れている。薬局の看板に並んだ白い記号が、私の目の前で別の形へ崩れ、見覚えのない言葉になった。瞬きをすると、元に戻っていた。
道路は濡れていない。なのに靴底が水を踏んだような音を立てた。
一歩進むと、音が半拍遅れてついてくる。二歩目では、足を上げる前に靴音が鳴った。私は立ち止まり、足元を見た。アスファルトの黒い粒の間に、薄紫色の光が流れている。水ではない。指で触れると、冷たさだけが皮膚の内側へ沈み、光は指先を避けて左右に分かれた。
交差点の四方に伸びる道路には、車が一台もなかった。
ビルの窓はすべて開いている。百以上ある窓の奥には同じ白い部屋が続き、机も椅子も時計もない。ただ、どの窓にも私の背中が映っていた。正面を向いているはずの窓にも、振り返った私が立っている。
私は自分の肩越しに背後を見た。
誰もいない。
見上げると、ビルの隙間から空が見えた。青ではなかった。青に似た色が、何層にも重なっている。最も近い層は透明な緑、その奥に鈍い金色、さらに遠くに、夜より黒い紫が沈んでいた。雲のようなものが流れているが、流れは空ではなく、こちらへ向かっているように見えた。
腕時計を確認した。
秒針は十二と一の間を行き来している。長針は文字盤の外側へ伸び、ガラスを突き抜けて空中で止まっていた。耳を近づけても、針の音は聞こえなかった。
代わりに、遠くで水滴が落ちた。
一滴。
音が届いたあとで、目の前の歩道に小さな水面が生まれた。そこには空ではなく、知らない駅のホームが映っていた。白い柱。点滅する照明。誰もいないベンチ。そして、ベンチの上に置かれた私の鞄。
私は肩から下げていた鞄を見た。
同じものが、そこにある。
水面の中の鞄だけが、ゆっくりと横倒しになった。
喉が乾いた。唾を飲み込もうとしたが、舌に何の感触もなかった。空気を吸っても、冷たさも匂いもない。街全体が、音と味を抜かれたまま、薄い膜の向こうに置かれている。
信号機の光が消えた。
すべての窓に映っていた私の背中が、同時にこちらを向いた。
私は動けなかった。
窓の中の私たちは、私より少しだけ早く顔を上げた。視線の先には、空の折れ目がある。さっきまで道路の端にあったはずの歪みが、今は交差点の中央まで伸び、透明な壁のように立っていた。
壁の向こうで、都市が上下逆さまになっている。
ビルの屋上が地面に接し、地下鉄の入口が空へ開いている。看板の光は下へ落ちず、黒い空間へ吸い込まれていた。逆さまの道路に、ひとつだけ人影があった。
輪郭は私と同じだった。
その影が手を上げる。
私の右腕も、同じ高さまで持ち上がった。
歪みの向こうから、遅れていない靴音が聞こえた。こちらへ近づいてくる音だった。歩道の水面が震え、紫の光が私の足首まで這い上がる。
私は初めて、交差点の中央から動いた。
けれど、動いたのは私の影のほうだった。
(終)

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