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自由の味は、たぶん「悪くない」

自由の味は、たぶん「悪くない」

朝、目が覚めた。それだけで、とりあえず今日が始まった。

窓を開けると少し冷たい風が入ってくる。コーヒーを淹れて、湯気の向こうをぼんやり眺める。今日も何か書こうと思う。大傑作を書こうとか、人生を変える一作を書こうとか、朝からそんな大げさなことは考えない。昨日とは違う何かを一つ作れたら、それでまずはいい。

私は、大きな満足を否定しているわけではない。夢は叶えばいいし、大きな目標にも届けばいい。欲しいものだってあるし、まだやってみたいこともある。ただ、大きな満足というものは、注文したら明日の午前中に届くようなものではない。何年かかるかわからないし、ひょっとすると最後まで届かないかもしれない。

そんなものだけを人生の満足にしてしまったら、届くまでの毎日はどうなるのだろう。

今日もまだ駄目。明日もまだ足りない。一年後も目標の途中だから不合格。そんなふうに自分の人生を採点していたら、大きなものを手に入れるまでの何百日、何千日という時間が、全部「まだ満たされていない日」になってしまう。それは、ちょっともったいない。

だから私は、小さな満足でいいと思っている。

コーヒーがうまかった。オムレツが思ったよりきれいに焼けた。面白い文章が一本書けた。散歩に出たら風が気持ちよかった。誰かが自分の書いたものを読んでくれた。そんなものでいい。一日の中に一つでも「悪くないな」があれば、その日はそれで勘定が合う。

何もなかった日だってある。そういう日は、夜になって布団へ入るときに「まあ、今日も無事だった」と思えばいい。世の中では毎日のように事件があり、事故があり、自然災害も起きている。朝に家を出た人が、必ず夜に帰ってこられるとは限らない。それを考えれば、何事もなく一日が終わったというのも、ずいぶん立派な「悪くない」ではないかと思う。

これは諦めとは違う。

「今日はこれでいい」と「もうこれでいい」は、よく似ているけれど、まったく違う。今日はこれでいい。でも明日はまたやる。届きたい場所があるなら、明日また一歩進めばいい。今日の自分に合格を出したからといって、明日の自分まで休ませる必要はない。

私はnoteで毎日のように文章を書いている。小説も書くし、エッセイも書く。AIも使う。ただし、完成品を受け取ってそのまま貼り付けるという感覚ではない。AIにはかなり細かなルールを作り、それを守っているか監視し、違えば何度でもやり直す。説明しすぎるな。一文一行にするな。答えを先に言うな。感情を言葉で片づけるな。場面を見せろ。そんなことをAIに言い続けながら、自分が書きたいものへ近づけていく。

AIは筆でいい。

筆がどれほど高性能になっても、何を描くかまで筆に決めてもらう必要はない。最後に「これは自分の作品として出したい」と決めるところだけは、自分の手元に置いておきたい。

だから私がnoteでやっていることを一言で言えば、たぶん「修行」なのだと思う。

スキを集める修行ではない。フォロワーを増やす修行でもない。書く修行であり、創作する修行である。

もちろん、スキをもらえば嬉しい。コメントまでいただいたら、もっと嬉しい。そこを格好つけて「他人の評価なんてどうでもいい」と言うつもりはない。読んでもらいたくて公開しているのだから、反応があれば素直に喜べばいい。

ただ、それを一日の合否判定にはしたくない。

承認欲求というものは、少し厄介だと思っている。自分が欲しがっているものなのに、それを満たす決定権を持っているのは他人だからだ。百人に認めてもらいたいと思えば、百人がこちらの期待どおりに動いてくれなければ満たされない。自分の満足なのに、その鍵を他人のポケットへ入れてしまうことになる。

もちろん他人は、こちらの期待どおりには動かない。それが普通だ。自分の人生を生きているのだから、私の満足のためにスキを押す義務もなければ、コメントを書く義務もない。そこで「これだけ書いたのに」「これだけ頑張ったのに」と考え始めると、自分が勝手に作った期待と現実との隙間に落ちてしまう。

だったら、満足の主導権くらい自分で持っていればいい。

今日は一本書いた。自分では悪くないと思う。ここまでなら自己完結できる。そのあと一つスキをいただいたら、それは一つ分ありがたい。百個いただいたら百個分ありがたい。コメントが一つ届いたら、その一つが嬉しい。

昨日二百もらったから、今日は百では足りない。そんなふうには考えたくない。

数字を満足の基準にすると、数字はすぐに昨日の自分を追い越していく。十で喜んでいた人が百を知れば、十では足りなくなる。百を知った人が千を見れば、今度は百が小さく見える。それでは数字が増えているのに、満足だけが遠ざかっていく。

一個は、一個でいい。

その一個の向こうには、画面を見て、文章を読んで、指を動かしてくれた人がいる。コメントなら、さらに自分の時間を使って言葉まで残してくれた。その事実は、昨日いくつもらったかとは関係がない。

考えてみれば、人生の大半はそういう小さなものでできている。

大成功する日は何度もない。夢が叶う日も、人生の中ではほんの数日かもしれない。ところが、ご飯を食べる日は何万日もある。コーヒーを飲む朝も、風に当たる夕方も、何でもない夜も何千回とやってくる。

だったら、その何でもない日の扱い方を覚えたほうが、人生全体では得なのではないか。

大きなものは明日も追えばいい。

今日は今日で、ちゃんと終わらせる。

夜になって、一日を振り返る。一本書けた。誰かが読んでくれた。飯もうまかった。特別な事件もなく、ここまで無事に来た。

それなら十分だ。

明日の朝になれば、また何かを始めるだろう。昨日の満足を抱えて立ち止まるのではなく、昨日は昨日で完結させて、また新しい一日を使えばいい。

そうやって最後に、自分で自分の一日に言ってやる。

「悪くない」

自由というものに味があるとすれば、案外そんな味なのかもしれない。





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