
午前四時の、密航者
午前四時。
ベランダの柵、沈む世界。
潮の匂い…
熟れたりんごを投げた。
手元から離れた一瞬の切なさ
落ちる速さに息が詰まった。
トプン、コポコポ…。
記憶は海の中で息をする。
りんごはそっと沈んで
震えるたび僅かに
水面の吐息に漂っている。
その円がひそかに弾けて
じんわりと溶け出したのは
静かな群青だった。
その群青にまどろむように
微かな軋む櫂の音。
トプン、ザザーッ。
目を凝らすと闇の向こう側
仄かに灯りが見えた。
ランタンの光芒に照らされ
面影が浮かぶ。
白い髭、変わらぬまなこ。
その人はただ静かに微笑み
あの熟れたりんごを掲げた。
「おじいちゃん…」
漏れた声に応えるように
その人がそっと差し出したのは
あの木箱。
おじいちゃんと一緒に集めた
まあるい海のかけら
さざ波が聴こえる貝殻
白紙の紙一枚
一緒に遊んだあぶりだし…
幼い日々の記憶が胸の奥で目覚める。
あのやすらぎを手繰り寄せたくて
ベランダの柵に手を伸ばした。
ふわりと
午前四時の風が距離を狂わせる。
ほどけるように夜を蹴った。
満ちてく群青、結ばれる掌。
灯りが水中で弾けてひろがる。
視界を染める泡、海の雪。
やさしい光が降りそそぐ。
深く深く沈むほどに
みなそこはやさしい。
耳の奥へひたひたと
隔たりを越えて聴こえた
だいすきな声。
「おじいちゃん!」
躊躇わず抱きしめた。
私の名を呼ぶ声に遠い日々が戻る。
ひだまりの大きな手。
空白が一瞬で埋まる。
腕の中、秘めた思い出が爆ぜた。
閉じ込められた想いが落ちていく。
想いが溢れて…
こぼれ落ちた涙が泡に触れた刹那
白紙の記憶から茶褐色の光が滲む。
もういいのかな。
言葉にならないまま
ほどけないものだけが胸の奥に残っていた。
すぅーっと真っ白な頁が空へ還る。
あぶられた茶褐色の文字。
『また海で会おう』
そう見えた。
あの日 木箱に集めた海のかけら。
原風景が胸へ満ちる。
連れ去るための舟ではない。
私を繋ぎ止める優しい錨。
結んだ手のひらのぬくもりが
ふわりとほどけていく。
「もう少し……」
ランタンの灯りがゆっくりと
朝焼けの群青に溶ける時。
「だいじょうぶ」
そっと胸に届いた
おじいちゃんの言葉。
「うん。」
ひと言うなずいて手を振った。
熟れたりんごを手に
おじいちゃんは空へ還る。
見上げれば
揺れる水面の向こう側が
かすかに白み始めていた。
潮の匂い…
私はまだ、ここにいる。
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