
剣豪将軍の帰還と、天下人の冷徹な計算 ~北白川の戦い~
時は永禄元年(1558年)初夏。 京の都は、東の山々から吹き下ろす不穏な風に晒されていた。
近江国・朽木谷(くつきだに)。そこに、5年もの長きにわたり泥にまみれた亡命生活を送る男がいた。第13代将軍・足利義輝、当時23歳。 「余はまだ、終わっていない」 血気盛んな若き将軍の瞳には、復讐と復権の炎が宿っていた。彼は近江の実力者・六角義賢(ろっかくよしかた)を説得し、ついに京都奪還の兵を挙げたのである。
第一幕 東山の威圧(勃発)
6月、足利義輝と六角義賢の連合軍は、比叡山を経て京都の北東、東山一帯に進出した。 彼らが陣取ったのは、かつて足利尊氏も陣を敷いたという如意ヶ嶽(にょいがたけ)の中腹、将軍山城である。
ここからは京の市街が一望できる。 「見よ、あの下界を。あそこを不当に占拠しているのが三好長慶だ」 義輝は山頂から、自らの故郷である都を見下ろした。将軍が「都を見下ろす位置」に陣取ることは、京の人々にとって強烈な視覚的メッセージとなる。「将軍様が帰ってきた」という噂は瞬く間に広がった。
一方、京を支配する三好長慶(当時37歳)は、冷静だった。 彼は慌てることなく、東山と対峙する北白川や瓜生山に防衛線を敷いた。長慶の表情には、恐怖よりも「面倒なことになった」という倦怠感が漂っていたかもしれない。
長慶は計算していた。軍事力だけで言えば、三好軍が圧倒的に上だ。その気になれば山を駆け上がり、義輝を討つこともできる。 だが、それは「罠」だ。将軍を殺せば、長慶は永遠に「朝敵」の汚名を着る。 (義輝様は、自らが「斬ってはいけない象徴」であることを利用して挑発している……) 長慶は、あえて動かないことを選んだ。
第二幕 睨み合いと小競り合い(膠着)
戦いは、大規模な衝突ではなく、北白川周辺での散発的な局地戦として展開した。
義輝軍は、鴨川を越えて京都市街へ突入しようとするが、三好の実弟・三好義賢(実休)や安宅冬康らが鉄壁の布陣でそれを阻む。 しかし、三好側も攻めあぐねていた。 六角義賢の率いる近江兵は精強であり、何より地の利は山側にある。迂闊に攻め込めば大損害を被るリスクがあった。
義輝のスポンサーである六角義賢もまた、一枚岩ではなかったはずだ。 彼は義輝への忠誠心だけで動いていたのではない。「将軍を助けた忠臣」という名声と、三好長慶から有利な条件を引き出すための「外交カード」として、この戦いを利用していた節がある。 だからこそ、六角軍は決定的な特攻を行わず、ジリジリとした持久戦を選んだのではないか。
梅雨が明け、夏の日差しが照りつける中、睨み合いは2ヶ月にも及んだ。 「なぜ攻めぬ! 今こそ一気に下るべきだ!」 義輝は苛立ち、刀の柄を握りしめたかもしれない。しかし、戦巧者の長慶は、相手が疲弊し、焦れるのをじっと待っていた。
第三幕 影の交渉人(転機)
秋風が吹き始めた頃、戦場に変化が訪れる。武器による戦いから、舌による戦いへのシフトである。
三好陣営から、一人の男が六角陣営へと接触したと思われる。長慶の懐刀、松永久秀である。あるいは六角側の家臣が動いたとも言われる。 水面下での交渉が始まった。
「このまま戦えば、京は再び火の海となる。将軍様も、焦土の王になりたいわけではありますまい」 久秀の、あるいは三好側の使者の言葉は、現実的な六角義賢の心を動かした。 三好側が提示した条件は、敗北を知る義輝にとって屈辱的だが、拒否するにはあまりに甘美なものだった。
将軍の京都帰還を認める。
将軍としての面目を保つ待遇を用意する。
ただし、政治の実権は引き続き三好長慶が握る。
終幕 虚飾の凱旋(収束)
11月、和睦が成立。 5年ぶりに足利義輝が京都の土を踏んだ。
その行列は壮麗だった。三好長慶をはじめとする三好一族、松永久秀らが、うやうやしく将軍を出迎えたからだ。 長慶は馬から下り、義輝に対して臣下としての礼をとった。 形式上は、「将軍の勝利」に見えた。
しかし、義輝の心中はどうだっただろうか。 京の御所に戻った彼は、気づいたはずだ。自分の周りが、三好恩顧の者たちで埋め尽くされていることに。 戦いには勝った(帰京できた)が、勝負には負けた(実権を奪われた)のだ。
「長慶……お主は、余を飼い殺しにするつもりか」
北白川の戦いの収束は、平和の訪れではなかった。 それは、長慶による「将軍という権威の完全管理システム」の完成であり、義輝にとっては、金で飾られた鳥籠の中での、新たな孤独な戦いの始まりだったのである。
この5年後。 長慶という管理者が死に、タガが外れたその時、この鳥籠は血塗られた惨劇の舞台(永禄の変)へと変貌することになる。