
【小説】野垂れ死にて、自由③
仕事に出かけるときに玄関先で暴言を後ろからつぶやかれたので、ふと考えた。
自分はやはり生きている価値がないのだろうか。罵詈雑言のバリエーションは豊富すぎて、哀しみを通り越して笑ってしまう。
人間とは不思議なものでこれだけ毎日ひどい暴言を受けていると、そのうち何も感じなくなる。「死ね」という言葉さえ、そのうち「おはよう」に聞こえるのかもしれない。
なんとも慣れとは恐ろしいものだ。
いや、もしかしたら言葉だけではなくすべての出来事にどんどん鈍感になっていくのかもしれない。心を病まないかわりに何かを取り崩しながら生きている、といってもその防御行為自体がもしかしたらすでに病に冒されているのかもしれない。
そんな自分を客観的に見ることで、佐和子はなんとか毎日の生活を保っていた。しかしそこから一歩を動くことも逃げだすこともできない。そんな自分に時々怖くなる。ただひたすらやり過ごすだけの毎日。
今日も、明日も、ひょっとすると永遠に同じかもしれない。
新田次郎と出会ったのは、仕事場である旅行会社のカウンターだった。野球少年をそのまま大人にしたような純粋な彼は、親から継いだ小さな不動産会社を経営していて、自ら社員旅行の相談に来ていた。人数は少ないがアイデア満載の経営が功を要し、世田谷でうまくいっているらしい。
3年連続で担当した後、ふいに大好きな近くのラーメン屋の話になり、いつものお礼にと連れてってくれるということになった。それを機に時々会うようになり、徐々に関係性は深まっていった。
彼と会えること、それは佐和子にとって一筋の光となった。
今日は久しぶりに彼に会える日だ。先月は突然のドタキャンを食らったので、特別に地元でも有数な高級焼き肉屋に連れてきてもらった。
「佐和ちゃん、もう少し牛タン食べなよ」
「ありがと、美味しい」
「ああ、もうビールが空じゃん。次はワインにする?サワーとかがいい?」
サービス満点の新田と一緒にいるとお姫様にでもなったような気分になる。いつも頭を下げている自分が特別な人間になれた気がしていた。
だけど次の瞬間、その気分が一気に萎えた。
「そうそう、昨日、運動会のかけっこで、りんどうが一等になったんだ」
そういいながら旨そうにビールを飲む新田を見て、この人には悪気ってもんがないんだなとつくづく思う。新田には妻と三人の娘がいる。娘たちのことを溺愛していて、ふいに話が酔っぱらうと出てしまうのだ。
名前は上から「木蓮」「りんどう」「すみれ」。
「そういえば、末の娘がね。今、二歳だからさ、イヤイヤがすごいんだ。知ってる?二歳は第一反抗期っていって、全然言うことを聞かないんだよ。まったく振り回されてまいっちゃうんだけどね。でも、木蓮がもうお姉ちゃんでしっかりしてきたから、面倒みてくれて助かってるんだ」
不倫相手に自分の娘の自慢話なんかしないよね、と思うが、全く嫌みのない彼の笑顔を見ると文句が言えなくなってしまう。
しかし、永遠に娘自慢が続きそうなのでブロックをかけた。
「今日の映画だけど、あのヒロインどう思う?」
「ああ、確かにちょっと生意気だけど、僕は嫌いじゃないなぁ」
ジュージューと目の前の焼肉が美味しそうに焼けていく。大好きな牛タンは軽く炙ったところでさっと刻み葱を載せて、シュッとレモンを絞る。肉の旨味と酸味が口の中に響き渡る。
「あっ、ワイン、ボトルで頼むね、飲むでしょ?」
「あんまり高くないやつにしてくれよ」
新田は遠慮なくワインを飲む佐和子に安心するに違いない。こうやって時間を過ごしているときには嫌なことも、どっかにふっとんでいくのだ。
できることが少しでもあれば、まだ生きていける。
「今度は遠出しようよ、ドライブで温泉」
「んーん。でも、まあ、佐和ちゃんの頼みなら、しょうがないなあ」
優しく笑う新田。見ないようにしながら、このままずっといられればそれでいい。
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(次回4月22日(水)20:00~)
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