
狐と狸:第7話:アーモンドチョコレート
日曜日の夜遅く。静まり返った部屋に、トントン、と少し輪郭のはっきりとしたノックの音が響いた。
こんな時間に誰だろう。いぶかしく思いながら玄関の扉を開けると、そこには艶やかな黒髪を持った、端正な顔立ちの若い男が立っていた。
涼しげな目元と、どこか不思議な色気。一目見て、(ああ、狐が言っていたカワウソだな)とピンときた。
彼は夜の空気に溶け込むような、とても静かな声で言った。
「こんばんは。……鮎は、喜んでいただけましたでしょうか」
「とても立派な鮎だったよ。君からの贈り物だとは知らなくて、全部食べてしまったんだけど、よかったんだろうか。何かお礼をしに行かないといけないなと、ちょうど思っていたところだったんだよ」
私がそう伝えると、カワウソは少しだけ目を伏せて微笑んだ。
「お礼なんて、よろしいのです。ただ、人とのおしゃべりを楽しみたくて……あなた様とお近づきになりたいと、ずっとおもっておりました」
カワウソの言葉は、すっと通る声の響きとは裏腹に、どこか不器用で控えめだった。
「狐と狸には、あまり好かれてはおりませんので……もしよろしければ、あの二人がいない時に、たまにお話し相手になっていただけませんか?」
彼はそこで少し間を置き、ふと気づいたように言った。
「ああ、すっかり自分のことを名乗るのを忘れておりましたね。私は、カワウソです」
(やはり、カワウソだったか)
私は内心で深く頷きながら、玄関の扉をもう少し開け放った。
「よかったら、中に入っていかないかい? ちょうどいいお菓子があるんだよ」
「お菓子、ですか?」
カワウソの涼しげな目が、ふわりと見開かれた。
「ええ。私は甘いものには滅法目がないもので……それでは恐縮ではございますが、失礼いたします」
彼を部屋に招き入れ、私は台所へ向かった。
「お茶にするかい? コーヒーか、紅茶、何がいいだろうか」
私が尋ねると、少し悩むような沈黙があった。
「ああ、両方いいですね。……でも、じゃあそうですね。紅茶をいただいてもよろしいですか?」
「わかった」と返し、私はやかんに水を張って火にかけた。
しゅうしゅうと静かにお湯が沸く音を聞きながら、私は居間に座る彼に向かって声をかけた。
「狐が言っていたよ。君は意外と甘党だってね」
私がそう言いながら、湯気の立つ紅茶と小さな洋皿をお盆に乗せて居間へ戻ると、彼は少し照れたように視線を落とした。
「舶来物(はくらいもの)のチョコレートがあるんだよ。中には、キャラメリゼされたアーモンドが入っている」
カワウソは「いただきます」と小さく頭を下げ、細く美しい指先で一粒つまんで口に運んだ。
その瞬間、彼の涼しげな目がふわりと輝いた。先ほどまでのクールなよそよそしさが、甘い魔法に溶けてどこかへ飛んでしまったかのようだ。
「……素晴らしい味わいです。私は西洋のものに、とても強い憧れを抱いているのです。食べ物もそうですし、アンティークのジュエリーや時計、あとはフォークやスプーンといった銀食器にも大変興味がございます」
紅茶の香りに包まれながら、彼は少しだけ早口になって語り始めた。
「チョコレートは、町へ下りてもなかなか手に入りませんからね。こんなに素晴らしいお菓子をいただいて、本当に感謝いたします」
「君は川魚を売って、町で随分と楽しんでいると噂に聞いたけれども。……本当は、アンティークが好きなんだね」
私が尋ねると、カワウソは困ったように眉を下げ、小さく苦笑した。
「はい。なぜか派手な遊び人であると吹聴されているようですが……決してそんなことはないのです。美味しいものは好きなので、たまにうまい飯を食べに行くことはありますが」
彼は紅茶を一口飲み、大切そうにカップの縁を指でなぞった。
「私の本当の楽しみは、月に一度、神社で行われる蚤の市……骨董市とでも言いますか。そこに足しげく通っております。そこで西洋のアンティークを探すのが、この上ない喜びなのです」
狐の噂とはまるで違う彼の意外な趣味に驚きながらも、私はこの青年を、とても魅力的な生き物だなと思った。
やがてカップが空になると、彼は静かに立ち上がった。
「夜も更けてしまいましたので、そろそろおいとまいたします。次回は何か、また今日の御礼にお土産をお持ちしますね」
そう言ってふと目を細めて笑うその姿には、いい大人の私ですら思わずどきりとしてしまうような色気が漂っていた。
本当に、不思議な魅力を持つ男だった。