【短編小説】生まれた日よりも前に
駅から少し離れた路地裏の奥に、その小さな花屋はある。
木枠のガラス戸が静かに開くのは、決まって十月だけだ。
十一月の冷たい初風が街を吹き抜ける頃には跡形もなく姿を消し、
翌年の秋が深まるまで、誰もその場所を見つけることはできない。
幼い頃、母の手に引かれて前を通りかかった時のことを、
今でも鮮明に覚えている。
「ナナもお花ほしい。」
そう言った私に、母は優しく言った。
「なっちゃん。小さいうちにあそこのお花を買っても、
あまり意味がないのよ。」
「どうして?」
首をかしげる私に、母は柔らかく目を細め、
私の頭をそっと撫でた。
「思い出がたくさんできてから行ったほうが、
ずっと良いお花屋さんなの。」
その時の私には、母の言葉の意味が分からなかった。
ただ、季節の狭間にだけ現れる、少し不思議な花屋があるのだと、
記憶の隅に留めただけだった。
◆
店先に並ぶのは、十月という季節をそのまま切り取ったような花々だ。
風に揺れる薄桃色の秋桜。
凛とした気品を纏う白い秋明菊。
橙色の微粒子のように香りを放つ金木犀。
そして、名前の分からない、仄かな紫を帯びた一輪の花。
その店で買った花を飾ると、
人は「忘れていた十月の記憶」を呼び覚ますのだという。
初めて長袖のカーディガンを羽織った朝の肌寒さ。
放課後の校庭に長く伸びた影。
誰かと肩を並べて歩いた夕暮れの朱色。
どうしても言えずに終わった言葉。
ある年の十月の夕刻。
影が長く伸びる頃、私は母に手を引かれてその店を訪れた。
木枠のドアをくぐると、
店内には湿った土と甘い花の匂いが満ちていた。
奥から現れた白髪の店主は、
一本の秋桜を愛おしむように指先で摘み上げ、静かな声で言った。
「十月はね、置いてきたものを思い出す季節なんですよ。」
ガラス戸の向こうで、乾いた秋風がカラカラと落ち葉を転がしていく。
「夏が終わって、世界が少しだけ静かになるでしょう。
そうするとね、置き去りにしていた昔の記憶が、
後ろから追いついてくるんです。」
そう言って手渡された秋桜を見つめながら、
母はふっと胸の奥で息を吐くように笑った。
帰り道。
三本の秋桜を腕に抱えた母の横顔を見上げ、私は尋ねた。
「ねえ、ママは何を思い出したの?」
母は少しだけ歩みを緩め、夕空を見上げてから答えた。
「お父さんと初めて二人で、秋祭りに行った日のこと。」
それから、私の手をきゅっと握り直す。
「それと、なっちゃんと初めて、カサカサ落ち葉を踏んで歩いた日。」
私は思わず声をあげて笑った。
そんな日常の一瞬を思い出すのだ、と。
だが母は、夕闇に染まる頬を少しだけ赤くしながら、
悪戯っぽく囁いた。
「……あとひとつはね、
なっちゃんが大人になったら教えてあげる。」
「わかった。ナナが生まれた日だ!」
「もちろん、なっちゃんが生まれた日のことは、何度だって思い出すよ。
それに、なっちゃんは秋生まれじゃないでしょう?」
「じゃあ、なあに?」
「なっちゃんが生まれた日よりも、もっと前に、
今日は大切な出来事があったのよ。」
母は嬉しそうに微笑んだ。
◆
それから、長い年月が流れた。
私はいつの間にか大人になり、母はもうこの世にはいない。
けれど、街を渡る風が急に冷たさを帯び始める季節になると、
ふとした瞬間に母の温もりを思い出すことが多くなった。
十月のある午後。
街角のどこかから、甘い金木犀の香りが風に乗って漂ってきた。
その香りに誘われるように、
私はあの路地裏へ足を進めた。
花屋は、まるで昨日もそこにいたかのように、
ひっそりと佇んでいた。
静かにガラス戸を開けると、
昔と少しも変わらない店主が、何も言わずに私を迎え入れた。
そして、同じように、迷いのない手つきで、
一本の白い秋桜を差し出す。
花を受け取った瞬間――掌から伝わる冷ややかな茎の感触とともに、
あの日の情景が鮮やかに胸へとなだれ込んできた。
夕暮れの匂い。
風に転がる枯れ葉の音。
秋桜を慈しむように抱えて歩く母の小さな背中。
そして、あの約束の言葉。
――なっちゃんが大人になったら。
胸の奥が、まるで小さな灯火を宿したように、
じんわりと温かくなるのを感じていた。
◆
家へ帰り、私は静まり返った仏壇の母の写真の前に、
白い秋桜を小さな花瓶に挿して供えた。
すっかり日が落ちた頃、父が仕事から帰ってきた。
玄関から上がり、仏壇の前に立った父は、
白い花を見るなり懐かしそうに目を細めた。
「……十月を売る花屋か。」
不意の言葉に、私は驚いて顔を上げた。
「パパも、あの店を知ってたの?」
「ああ。もちろん、知ってるよ。」
父は写真の中の母と目を合わせるようにして、
優しく微笑んだ。
「ママが、大好きな店だったからな。
……きっと、すごく喜んでるぞ。」
私は黙って、父の次の言葉を待った。
父はどこか照れくさそうに頭を掻き、遠い目をして呟いた。
「今日はな、お前がお腹にいるって分かった日なんだよ。」
私は息を呑み、母の写真の横でひっそりと咲く、
白い秋桜を見つめた。
父はその花を見ながら、静かに続けた。
「生まれる前のお前に、ママが贈った花なんだよ。」
母が最後まで口にしなかった、最後の思い出。
あの日、母が十月の風の中で思い出し、慈しんでいたもの。
その答えが、長い時を越えて、
今ようやく私の胸の中でカチリと音を立てて繋がった。
その時だった。
まるで母が私の問いに頷いたかのように、
白い花びらが一枚、はらりと膝元へ落ちた。
開け放した窓から、
どこか遠くの金木犀の香りがふわりと部屋へ忍び込んでくる。
あの日と少しも変わらない、
やわらかい十月の風が、そこには吹いていた。
✳︎シロクマ文芸部
✳︎お題「生まれた日」ではじめるnote企画
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