
「死」と「おっぱい」を想う
どうやら私の心の中には、二つのキーワードが眠っているらしい。
それは、「死」と「おっぱい」である。
それに気づいたとき、私は悟った。
己の内なる「死」と「おっぱい」に本気で向き合ったとき、私は本当の自分という存在を知ることができるだろう...
さあ、阿呆哲学の始まりだ。
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まず最初に「死」についてであるが、私は長らく精神的な不調に悩んでいた。(今も悩んでいる)
そのため、特にここ数年は「死」について意識することが多かった。意識せざるを得なかった。
それは希死念慮であったり、この先の人生に対する強烈な不安であったり。
様々な感情が、私に「死」を投げつけてくるのである。
そして次に「おっぱい」であるが、まず単刀直入に言って、私は「おっぱい」が大好きだ。
数多の男性を虜にしてやまない「おっぱい」であるが、例に漏れず私も「おっぱい」に夢中である。
以前の私は、インターネット上はおろか友人との会話ですら下ネタを発言したことがないような人間だった。
それにも関わらず、今はこうして「おっぱい」というキーワードを、既にタイトル含めて八回も連呼している。
何故「おっぱい」と発言できるようになってしまったのか。その理由はただ一つ。「自分に正直に生きたい」そう思ったから。
私は今、全力で開き直っている。アジの開きの如く、あまりにも開き直っている。
自分を偽って生きていては、本当の自分という存在を知ることなど、到底できやしないのである。
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「死」と「おっぱい」について思索を深めていく中で、私はこの二つのキーワードに対し、それぞれ以下のような印象を抱いていることを発見した。
【死】
命の終わり・不安・苦痛・恐れ・陰
【おっぱい】
命の始まり・安心・欲望・幸せ・陽
「死」があるからこそ「おっぱい」は輝き、「おっぱい」があるからこそ「死」と向き合うことができる。
私にとってこの二つのキーワードは、対極に位置する存在でありながら、互いに補完し合う存在でもあるのだ。
さてこの場合、この二つは私にとって同程度の存在なのだろうか? それとも、程度には差があるのだろうか?
それを考えるために、少し過去へ遡る。
以前、私は希死念慮が酷かった時、「もし明日死ぬとしたら、今日は何をしたいだろうか?」「何かやり残したことはないだろうか?」などと自問していた。
そんな問いに対し、私の脳裏に真っ先に浮かんだ答えは、これだった。
おっぱい、揉みたい
もはや、これしか浮かばなかった。他のことはもうどうでもよかったのに、唯一「おっぱい」への憧れだけは打ち消すことができなかった。
ここから分かることは、私の中で「死」と「おっぱい」は互いに補完し合う存在でありつつも、「死」が「おっぱい」の魅力に打ち勝つことなど到底ありえない、ということだ。
つまり、私にとっての「おっぱい」とは、「死」という強烈な感情をも優しく包み込み、生きる希望を与えてくれるほどの大いなる存在なのである。
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己の内なる「死」と「おっぱい」に本気で向き合った結果、私の心をギチギチに締め付けていた鎖のようなものが、少し緩んだ気がした。
以前よりも体の力みが抜け、深く息を吸えるようになった。
暗雲に光が差し込む、そんな心境である。
これからの私は人生とどのように向き合い、どのように変化していくのだろうか。
未来のことなんて誰にも分からない。再び暗雲に閉ざされてしまうこともあるだろう。
それでも、ただ一つだけ確かなことがある。揺るぎない真実がある。
そう。
「おっぱい」は、素晴らしい。
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