
因果の糸〈7. 塩の境界線〉
大阪、京橋。
そこは、複数の鉄路が複雑に絡み合い、吐き出された人々が夜の湿り気に溶けていく、巨大な「入り口」であり「出口」でもある街だ。JR環状線、京阪線、地下鉄長堀鶴見緑地線に東西線。四方八方から押し寄せる人の群れは、まるで毛細血管を流れる血液のように、この街の至る所にある酒場や喧騒へと吸い込まれていく。
平日の夕刻。空が群青色に染まり、街のネオンが輪郭を失い始める頃。
私は駅の待ち合わせ場所で、一人の女性を待っていた。
およそ、占いという鑑定業を営む者にとって、夜という時間はあまりに甘美で、かつ危険な誘惑を孕んでいる。ミステリアスな演出、雰囲気のある照明、そして夜特有の、防衛本能が薄れた精神状態。それらは鑑定の「パフォーマンス」としては最高の結果をもたらすかもしれない。
けれど、私は普段、夜の鑑定を固く辞退している。
理由は単純だ。夜は「呼び寄せてしまう」から。
不透明な大気の中には、昼間の光の下では可視化されない、澱のような感情や正体不明の「影」が漂っている。それらに触れながら言葉を紡げば、結果はどうしてもネガティブな重力に引きずられてしまう。占いは未来を明るく照らすための灯(ともしび)であって、影を濃くするための儀式ではないはずだ。
その日は、どうしても夕方しか時間が取れないという彼女の懇願に折れ、私は例外的に、このトワイライト・ゾーンに足を踏み入れていた。
「日下さん、でしょうか」
不意に、横から声がした。
振り返ると、そこにいたのはストールを優雅に巻き、柔らかなカーディガンを羽織った、一見すればどこにでもいる、清潔感の漂う女性だった。
けれど、彼女が発した「挨拶」の明るさに、私は微かな違和感を覚えた。それは闇を押し返すための、過剰なほどの陽光の模倣のように感じられたからだ。
「……お仕事は、接客業ですか?」
私が尋ねると、彼女は驚いたように目を丸くし、それから可憐に笑った。
「ええ、これから出勤なんです。この近くに落ち着けるカフェがありますから、そちらへ行きませんか?」
駅から少し南へ下る。
その先には、ライトアップされた大阪城が夜の闇に浮かんでいるはずだった。かつて天下人が築いた金碧輝煌の城は、今もこの街の霊的な支柱として存在している。けれど、私たちの周囲を埋め尽くす無機質なオフィスビルの壁が、その威容を物理的に遮断していた。
見えるはずのものが見えない。その閉塞感が、彼女の話をより深い場所へと誘っていく。
「昼間はこの近くの会社で事務作業をして、夜はまた別の顔で働いているんです。好きな仕事ですから、大変だなんて思ったことはありませんけれど」
カフェのテーブル越しに、彼女は穏やかに語った。
一見すれば、彼女に鑑定など必要ないように思える。自立し、前向きに生きる女性。けれど、北村薫氏の描く物語のように、真に恐ろしい「謎」は、いつもこうした平和な日常の、ほんの僅かな綻びから漏れ出してくるものだ。
「実は、同居している彼のことで、相談があるんです」
彼女は、ティーカップの縁をなぞりながら、声を落とした。
「付き合って二年。愛情に変わりはありません。けれど、ここ半年ほど、彼が変なんです。……私がいない間に、その、誰かを部屋に連れ込んでいるような気がして」
浮気の疑い。
それは占い師が受ける相談の中でも、最も一般的な部類に属するものだ。
聞けば、彼は半年前から無職となり、現在は職探しをしているという。若く、活力に溢れた男性が、一日中閉鎖されたワンルームに籠もっていれば、刺激を求めるのは生物学的な本能と言えるかもしれない。
「誰かから電話があると、いつもベランダに出たり、部屋を出て行ったりするんです」
はたして彼とこのまま付き合い続けていいのか。
それが彼女の「表向き」の相談内容だった。
通常の鑑定であれば、彼女の未来の展望をカードに問い、どう動けばいいかを自らに問うようアドバイスして終わるだろう。
けれど、私の中の「別の顔」が、彼女の言葉とは別の場所で、絶えず警報を鳴らしていた。
彼女の明るい振る舞いの背後から、何かがまとわりついてくる。
それは、重く、湿り気を帯びた、粘着質な不快感。
依頼内容とは直接関係がないのかもしれない。けれど、このまま見過ごすには、その「影」はあまりに濃すぎた。
「……他になにか、些細なことでも構いません。気になることはありませんか? 例えば、彼氏さんの体調が急激に悪化したとか」
「いえ、彼は元気ですよ。食欲もありますし」
彼女はそう答え、それから、何かに弾かれたように顔を上げた。
「あ……。そういえば、部屋が、臭うんです」
「臭う、とは?」
「この前、二人で買い物から帰ってきたときです。玄関のドアを開けた瞬間、鼻を突くような……何かが腐ったような、嫌な臭いがしたんです。でも、生ゴミを溜めているわけでもないし、冷蔵庫の中も綺麗なのに」
浮気相手が香水を残したのではない。もっと根源的で、動物的な忌避感を伴う臭い。
「その臭いは、玄関だけですか? 窓やベランダ、あるいはクローゼットの中はどうです?」
「……不思議ですけれど、玄関だけなんです。リビングに入ってしまえば、もう何も臭わない。まるで、そこだけ空気が淀んでいるみたいに」
その瞬間、パズルの一片が音を立てて嵌まった。
彼女をまとわりついていたものの正体。それは「人」ではない。
彼が職を失い、閉ざされた空間で自己嫌悪と焦燥に苛まれている間に、部屋の「入り口」から這い込んできたもの。
負の感情は、負の存在を呼び寄せる磁石となる。
私は、彼女に「オカルト的な解釈」を受け入れられるかを確認した。
彼女は真剣な眼差しで頷いた。彼もまた、そうした話を頭ごなしに否定するタイプではないという。ならば、打つべき手はある。
「玄関の三和土に、粗塩を盛ってください」
私は静かに、けれど断定的な口調で告げた。
「ただ置くのではありません。玄関の入り口に沿って、一文字に塩を撒くか、あるいは盛り塩をする。外出するとき、そして帰宅するとき、必ずその塩を踏んで通るようにしてください」
彼女は、狐につままれたような顔をしていた。
無理もない。現代のスタイリッシュなマンションの玄関に、山盛りの塩。それはあまりに前時代的で、滑稽な光景に映るだろう。
「これは、古法に倣った『結界』の張り方です。いいですか、あなたの彼は今、精神的なガードが極限まで下がっている。そのため、外からやってくるネガティブなエネルギーや、この街に漂う『浮遊するもの』を、無防備に招き入れてしまっているんです」
玄関は、世界の境界線だ。
そこが腐臭を放つということは、境界の門番が機能を停止していることを意味する。
「塩が溶けたり、黒ずんだりしたら、すぐに取り替えてください。あなたがその塩を踏むたびに、あなたの明るさが彼を守るための力として作用します。これは、未来を予言するための占術ではなく、あなた自身の足元を整えるための『術』ですよ」
占い師の言葉で未来を決定するのではなく、自分たちで判断できる健全な環境を取り戻すこと。
私がかつて、迷宮のような京橋で日々行っていたのは、そんな「足元の修復」だった。
話し込んでいるうちに、彼女の出勤時間が近づいた。
彼女は「やってみます」と力強く答え、夜の繁華街へと消えていった。ストールの端が風に舞い、彼女の背中は、駅前で会ったときよりも少しだけ、輪郭がはっきりしているように見えた。
それから。
彼女からの連絡はこない。
鑑定の続きを求める電話も、結果を報告するメールも、一切届かない。
占い師にとって、音沙汰がないということは、多くの場合、二つの意味を持つ。
一つは、アドバイスが的外れで失望されたこと。
もう一つは――その必要がなくなるほどに、事態が解決へと向かったこと。
私は後者であることを信じている。
あの一文字の塩の結界は、単に霊的な存在を遮断するだけでなく、彼女と彼の関係そのものに「境界線」を引く儀式でもあったはずだ。
踏み込ませてはいけない場所に、一線を引く。
自分たちの生活を守るために、何を受け入れ、何を拒絶するかを自覚する。
その塩を踏むたびに、彼女は自分の中に眠る「守るべき領域」を再確認したに違いない。
京橋の夜は、今日もどこかで腐敗の臭いをさせながら、新しい朝を待っている。
誰かが引いた白い境界線が、いつの間にか人の波に踏み荒らされ、消えてしまわないことを祈りながら。
(第一篇 完)
『因果の糸』の第一篇は、ここで一度幕を閉じます。
かつて占い師だったころは、こういった出来事が常に起きていたので、思い出せばいくらでも書けるのですが、当時と期間が空いているためまとめて思い出すのに時間がかかります。
次なる記憶の記録(第二篇)は、七月頃より順次公開予定です。
よければアカウントをフォローして、次の扉が開くのをお待ちください。