
わたしの「わたしの耽美主義」
稲垣足穂は『わたしの耽美主義』(1959)の中で次のように述べています。
新芸術中にあって、耽美主義はどうならねばならないかについて、わたし達が考えたところに依ると、それは勿論、新奇な材料を大胆に駆使して、それをこれまでのように手間取ったものでなく、うんと直接的な形式に置かねばならない。それは刹那的で、童話的超絶味を含み、且つ虚無性を加味したものでなければならなぬ。瞬間は最も純粋に人心にはいりがちであり、童話は耽美派文学の最高形態であり、虚無性はあらゆる芸術の眼目とする解放へのひとすじ道を意味するからである。
この言葉から数十年が経ち、私たちを取り巻く世界は大きく変わりました。複雑さを増し、忙しさに追われる現代社会。そんな中で、私たちは美に対する感性を見失っているのかもしれません。
童話と耽美主義
「童話は耽美派文学の最高形態である」と足穂は言いました。なぜでしょうか。
童話には不思議な力があります。それは「当たり前」を問い直し、日常を超えた視点を提供します。しかしそれは単なる現実逃避ではなく、むしろ現実をより深く、より豊かに経験するための窓だと思います。
大人は、子供の頃に読んだ絵本を拡張したような成長をしなければならないと思います。子供時代の好奇心や驚きの感覚を失わず、それを大人の理解と経験で深化させていくこと、その体験そのものが芸術的だと感じます。それこそが本来の耽美主義の道筋ではないでしょうか。
子供の視点を取り戻す
子供と接していると、「なぜこれが大人になって消失してしまったのかと後悔するような」新しい概念に出会うことがあります。成長の過程で私たちは、誤りや恥ずかしさによって、多くの感覚や視点を選択的に削除していきます。これは大人になってからもったいないと思うことの一つです。
例えば、子供は石ころに「美」を見出します。どこにでもある普通の石が、子供の目には宝石のように輝いて見えることがあります。大人になった私たちはそんな視点を「子供っぽい」と笑いますが、その感性こそが本来の耽美主義の根幹ではないでしょうか。
美学的な追求がなければ、人生の目的が曖昧になり、単調な日々を送ることになりかねません。美への憧れこそが、私たちの心を豊かにし、前に進める原動力となりうるのです。
自分自身の美学を見つけるために
では、どうすれば自分の美学を見つけることができるでしょうか?その第一歩として、稲垣足穂のように身の回りのオブジェクトを探してみてはどうでしょう。それは実体であっても概念であってもかまいません。手に入りやすいものでも、無くしてしまったものでも、壊れてしまったものでも構わないのです。
なんかいい看板botというXアカウントを知っていますか?これは投稿者が「なんか良いな」と思った「看板」を集めているアカウントです。
初めはネオンやレトロスペクティブなものが多い印象でしたが、近頃ではシュールなものや、キュートな手書き看板も取り上げられています。
— なんかいい看板bot (@kanban_bot) February 1, 2025
僕は、これらが非常に芸術的だと思いますし、個々の美学の集結のようにも思います。それに現代の画集のようにも思います。このアカウントに、「懐かしい看板を集めているだけ」という批判があったことがあります。この指摘は非常に優れています。つまり、個人の耽美的オブジェクトの集合を、「懐かしい看板〜」というように一纏めに分類し、その価値を否定しています。足穂が言う「きわめて馬鹿馬鹿しいもの」こそが、個人の美学なのです。
例えば、足穂は以下のようなものを挙げています
硝子玉
ゼンマイ
インキ壷
歯車
映画のフィルム
ビール瓶
鉄砲の玉
懐中時計
また、僕自身のオブジェクトもお話しします:
理科室のミョウバンの結晶標本
子供の頃、学校の理科室にあったミョウバンの結晶標本。私はこれが欲しくてたまらなく、一度は失敬して怒られたことがあります。透明な結晶体がランダムに成長する様は、自然の神秘そのものでした。今では知識を通して、この結晶の作り方を知っています。また、このような結晶化のプロセスが世の中の様々な場面で活用されていることも理解しています。しかし、その知識が結晶の美しさを損なうことはなく、むしろ科学が明らかにする規則性そのものに美を感じます。
ソビエト製人工衛星のスパイラルアンテナ
子供の頃に図鑑や科学雑誌で見た、ソビエト製人工衛星に付いていたスパイラルアンテナ。白と赤で縞々に塗られたトンガリのオブジェクトは、機械的で未来的な印象のある人工衛星に、お誕生日のクラッカーがついているような不思議な感覚を与えてくれました。
錆びた釘
祖母の家の裏庭に、私が生まれる前に亡くなった曽祖父のツールボックスが置いてありました。日曜大工のためのものだと思いますが、その中に未開封の釘の箱がありました。裏庭は裏山に池を掘ったもので、日陰でジメジメしていたので、中の釘は錆びてしまっていました。
新品が入っていると期待したにも関わらず、封をあけると錆びついた釘が出てきます。
鉄が錆びた、血のような匂いを今でも強烈に覚えています。
これらは一見すると取るに足らないものかもしれません。しかし、そこに「美」を見出す感性こそが、現代社会において失われつつある大切なものではないでしょうか。
みなさんも、「子供の頃に公園で見つけた綺麗な石」、「父の書斎にあった古い地球儀」、「夏の夕暮れの特別な光」、そういった「些細な美」の記憶を思い出してみてください。
そして、この美学を現在の人生に再帰的に合成できないか、考えてみてください。
疲れた現代人に必要なもの
現代人は疲れています。毎日の生活に追われ、ソーシャルメディアの情報洪水に押し流され、常に何かに追いかけられているような感覚を抱えています。
そんな時代だからこそ、一瞬であったり、超時空的な物語やオブジェクトにもっと敬意を払い、個人個人がそれに対する大いなる尊敬と、それを愛でる「自分自身の美学」を大事にすることが必要なのではないでしょうか。
みんなが同じ嗜好を持つ必要などありません。
この感覚は子供時代の感覚の延長であります。そのために子供時代を大切にしなければなりません。もう子供を卒業した大人は、もし自分に子供がいるなら、その子供そのものを大事にすべきです。子供がいない場合は、自分が子供の頃を思い出して、それの拡張をするべきです。
美しいものを美しいと感じる感性を失わないこと。それが耽美主義の本質であり、現代社会において私たちが取り戻すべきものなのではないでしょうか。
まとめ
足穂は「瞬間は最も純粋に人心にはいりがち」だと言いました。刹那的な美、日常の一瞬に輝く非日常性、それこそが本来の耽美主義が求めるべきものなのです。
世界は複雑さを増し、人々の心は疲弊しています。そんな時代だからこそ、個人的な美の追求、子供のような好奇心と驚きの感覚を取り戻すことが、僕たちの心をもっと豊かにするものなのではないでしょうか?