
やかん― 教科書には載っていない例文 ― #創作大賞2026 #恋愛小説部門
やかん
― 教科書には載っていない例文 ―
あらすじ
普通の恋愛小説は山ほどある。
普通の英語教材も山ほどある。
でも、「英文法が感情を映し出す恋愛小説」は、きっと珍しい。
恋愛小説家は、英文法を語らない。
英語講師は、恋愛小説を書かない。
その二つが出会ったら──。
長年英語を教えてきた女性は、高校生の孫のテスト勉強を手伝うことになる。教科書をめくるたび、かつて何度も教えたありふれた例文が、少しずつ自分の人生と重なり始める。
恋。
秘密。
後悔。
結婚。
夫婦。
積み重ねてきた日々。
教科書ではただの例文だった英文が、人生では、まったく違う意味を持っていた。
人生は、教科書より長い。
教科書を閉じたあとに始まる、もう一つの物語。
第1章 I wish I were younger. ― 教科書の例文 ―
夫が亡くなって一年。
一人で暮らす毎日にも、少しずつ慣れてきた。
娘は近所に住んでいる。
看護師をしていて、勤務は不規則だ。
帰りが遅くなる日は、高校一年生の孫が学校帰りにうちへ寄って夕飯を食べる。
夫はいなくなってしまったけれど、
毎日のように孫が帰ってくる。
だから、
不思議と寂しいと思うことは少なかった。
夕方になると玄関の扉が開く。
「ただいま。」
制服姿の孫は、
慣れた様子で鞄をダイニングテーブルの横に置いた。
私はコンロに火をつけ、お湯を沸かす。
孫が来る時間になると、
お茶を淹れる。
それも、いつの間にか私の日課になっていた。
湯飲みにお茶を注ぎ、
テーブルへ運ぶ。
「はい。」
「ありがとう。」
湯気の向こうで、
孫は教科書を開いた。
私は夕飯の支度を始める。
野菜を刻む音だけが、
静かな部屋に響いていた。
こんな何気ない時間が、
私は好きだった。
「ばあちゃん。」
「ん?」
「英語、ちょっと教えて。」
「いいよ。」
包丁を置き、手を洗って、私は、孫の隣に腰を下ろした。
私は昔、英語を教えていた。
教壇を離れて何年も経つけれど、不思議と英文法だけは忘れない。
「今日の単元は?」
「仮定法。」
「ああ、高校で初めて習うところね。」
孫が教科書を私の前へ滑らせる。
「どれどれ。」
最初に目に飛び込んできたのは、見慣れた例文だった。
I wish I were a bird.
思わず笑ってしまう。
「まだ載ってるんだ、この例文。」
「知ってるの?」
「仮定法の I wish といえば、まずこれだったの。」
「先生をしていた頃も、何度教えたかわからない。」
孫は和訳を読んだ。
「『鳥だったらいいのになぁ。』」
少し考えてから笑う。
「俺、一回も鳥になりたいなんて思ったことない。」
「人間で十分。」
孫は教科書を見ながら笑う。
「『バイトできたらいいのに。』とか。」
「『髪を染められたらいいのに。』とか。」
「『今日だけ学校休みになればいいのに。』とか。」
「そのくらいなら毎日思う。」
二人で笑った。
高校生の願いなんて、そのくらいがちょうどいい。
私も、
あの頃はそうだった。
私は、
もう一度教科書へ目を落とした。
その下には、
もう一つ例文が載っていた。
I wish I were younger.
もっと若ければなぁ。
その一文を、私はしばらく眺めていた。
「高校生で『もっと若ければなぁ』なんて思う人いる?」
「中学生に戻りたいとか?」
「いや、小学生かな。」
「赤ちゃんまで戻ったら、人生やり直しじゃん。」
孫は笑っている。
私は、その一文を見つめたまま、小さく息をついた。
「どうしたの?」
不思議そうに私を見る。
「いや。」
私は教科書から目を離さず、小さく笑った。
「懐かしいなと思って。」
ふと、教壇に立っていた頃を思い出す。
黒板にチョークで書く。
I wish I were younger.
「仮定法は、現在の事実とは異なることや実現の可能性が低い願望を表現します。」
「つまり、
現実は若くない。
でも、
『もっと若ければなぁ。』
そう思う時に使う表現です。」
「叶いそうだから願うんじゃありません。」
「叶わないと分かっていても、願ってしまう気持ちですね。」
教室の後ろで誰かが欠伸をする。
「先生、これテストに出ますか。」
「出ます。」
「えー。」
教室に小さなため息が広がる。
そんな、ごく普通の授業だった。
「ねぇ、ばあちゃん。」
孫が私の顔をのぞき込む。
「そんなに変な例文?」
私は笑った。
「いや。」
「『もっと若ければなぁ。』ってね。」
「最近、結構思うのよ。」
孫は吹き出した。
「えー。」
「ばあちゃん、今でも元気じゃん。」
「そう?」
「毎日チャリ乗ってるし。」
「それは関係ないでしょ。」
二人で笑った。
「だから、高校生には、まだ少し早い例文なのかもしれないね。」
「そうかも。」
「若いっていいなぁ、なんて、今は思わないかも。」
「若いのが当たり前だから。」
私も十五歳の頃は、
きっと同じ顔をしていた。
「この例文は。」
「この歳になって、
初めて分かる例文なのかもしれないね。」
「へぇ。」
孫は納得したような、
していないような顔で
湯飲みに口をつけた。
私は窓の外へ目を向けた。
夕暮れの光が庭の木をやわらかく照らしていた。
教科書に目を戻した。
I wish I were younger.
当時の私は、
その一文を、
ただの例文だと思っていた。
まだ知らなかった。
教科書の例文が、
何十年もあとになって、
自分の人生を語り始めることを。
第2章 I should have asked him. ― 卒業式 ―
夕飯を食べ終えても、孫はダイニングテーブルで勉強を続けていた。
「まだ終わらないの?」
「来週から期末テスト。」
「だから全教科勉強しなきゃ。」
そう言うと、孫は問題集を引き寄せた。
「まずは数学から。」
先ほど見た英語の教科書だけが、テーブルの端に置かれたままだった。
私は何気なく、それを手に取る。
パラパラとページをめくる。
助動詞だった。
should
ページの真ん中に、見慣れた例文が並んでいた。
I should ask him.
I should have asked him.
私は思わず手を止めた。
懐かしい。
この例文も、何度教えただろう。
黒板にチョークで書く。
should
〜すべき
その下へ書き足す。
should have + 過去分詞
〜すべきだった
教室の生徒たちは、一斉にノートを開く。
私は黒板を振り返った。
「これはね。」
「もう終わってしまったことを振り返って、『あの時こうすればよかった』という後悔を表す言い方です。」
「should なら『これからすべきこと』ですが、
should have になると、『そうすべきだった』。
もう、その時には遅いということですね。」
教室は静かだった。
ノートに線を引く音だけが響く。
「ここ、テストに出ますよ。」
十五歳。
中学校の卒業式の日だった。
卒業式が終わると、
校庭は写真を撮る人たちでいっぱいになった。
制服の胸には花。
「卒業おめでとう。」
「また会おうね。」
笑い声があちこちから聞こえる。
私は人混みの少し外に立っていた。
目で追っている人がいた。
小学校六年生の頃から好きだった男の子。
格好いいわけじゃない。
優しいわけでもない。
でも、私にはその人が特別だった。
中学校でも同じクラスになった。
毎日顔を合わせる。
それだけで十分だった。
周りでは付き合ったとか、告白したとか、そんな話ばかりしていた。
でも私は何もしなかった。
彼には彼女がいた。
とても可愛くて、誰からも好かれるような子だった。
彼のことを誰よりも知ってるから、彼のタイプが、自分じゃないことも知っていた。
だから、この恋は胸の中だけにしまっておけばいい。
そう思っていた。
高校受験が近づくと、
私は誰にも言わないまま、
彼が受ける高校を調べていた。
同じ高校へ行けたら。
そんな期待も少しだけあった。
でも私は落ちた。
あとで知った。
私が受けた高校より、
彼はさらに上の高校を受けていた。
そして、
合格していた。
やっぱり敵わないな。
そう思った。
私は、
彼のことを知っているつもりだった。
でも彼は、
私の知らないところで、
違う道を歩き始めていた。
校庭の向こうに彼を見つけた。
友達に囲まれて笑っている。
その周りには後輩たちが集まっていた。
「ボタンください!」
「名札ちょうだい!」
制服のボタンが一つずつなくなっていく。
私はその様子を遠くから見ていた。
本当は、私も欲しかった。
第二ボタン。
いや。
第二ボタンじゃなくてもよかった。
名札でも。
シャープペンでも。
卒業アルバムに一言でも。
何か一つ。
彼につながるものが欲しかった。
でも動けなかった。
私が彼を好きだということは、誰にも話していない。
もし私がボタンをもらいに行けば、
「あの人が好きだったの?」
きっと友達にそう思われる。
それが恥ずかしかった。
彼には彼女もいる。
今さら行ったところで何も変わらない。
そう思っていた。
気づけば制服のボタンはほとんどなくなっていた。
第二ボタンも、もうない。
彼女に渡したのかもしれない。
後輩にもらわれたのかもしれない。
私は何も知らない。
それでも帰れなかった。
ただ、彼を目で追っていた。
「私、第二ボタンもらっちゃったー!」
「超ラッキー!」
「卒業式最高!」
はしゃぐ友達は、
私に好きな人がいるなんて思っていない。
「ほら、帰ろう帰ろう。」
第二ボタンを大事そうに握る友達に背中を押され、
ジャケットまで取られてTシャツ姿になった彼を横目で見ながら、
校門の外へ歩いていった。
家へ帰って制服を脱ぐ。
欲しかったのは第二ボタンじゃない。
たった一言。
「何かください。」
それだけだった。
私は、静かに教科書へ目を戻した。
そこには、こう書いてあった。
I should have asked him.
昔の私は、
「彼に聞けばよかった。」
ただ、後悔を表す例文だと思っていた。
でも、今なら分かる。
あの日の後悔は、第二ボタンをもらえなかったことじゃない。
彼に断られたことでもない。
何もしなかったことだった。
あの例文は、
「あの時こうすればよかった。」
それだけじゃ終わらなかった。
あの日の私は、
その後何年も、
should have を、
心の中で繰り返すことになるとは、
まだ知らなかった。
第3章 I'm glad to see you. ― 出会い ―
孫はダイニングテーブルで数学の問題集を広げたままだった。
「大変だね。」
「この前席替えしてさ。」
「頭いいやつが隣になったんだよ。」
「へぇ。」
「ノートめっちゃ見やすいし、普通にいいやつだった。」
「よかったね。」
「うん。そいつのノート今参考にしてるんだ。」
そう言うと、孫はまた問題集へ目を落とした。
部屋には、
シャープペンシルの音だけが響く。
私は、
開いたままの英語の教科書へもう一度目を落とした。
見ていたページを、
そっとめくる。
不定詞。
ページの真ん中には、
見慣れた例文が並んでいた。
I'm glad to see you.
私は思わず笑った。
懐かしい。
この例文も、何度教えただろう。
黒板にチョークで書く。
I'm glad to see you.
「『あなたに会えてうれしい。』ですね。」
be glad to ~
「『~してうれしい』という表現です。」
「to の後ろには、理由が続きます。」
「何がうれしいのか。」
「その理由を伝える表現なんです。」
「I'm happy to ~ でも同じような意味になりますが、I'm glad to ~ もよく使います。」
教室では、生徒たちが黙ってノートを取っている。
私は教室を見渡して言った。
「ここ、テストに出ますよ。」
あちこちでペンを走らせる音がする。
そんな、ごく普通の授業だった。
あの頃は何も思わなかったその一文が、
今日は私を、あの日の続きへ連れていった。
高校へ入っても、好きな人はできなかった。
中学校の卒業式の日の後悔を、ずっと引きずっていたからだ。
別々の高校へ進んだ彼とは、
もう会うことはないと思っていた。
それでも、
ずっと彼のことばかり考えていた。
3年後、
大学へ進むと、世界は一気に広がった。
地方から出てきた人。
一人暮らしを始めた人。
夢を語る人。
自分とは違う価値観を持った人。
毎日が新鮮だった。
そして私は、
大学で、一人の人を好きになった。
「また誰かを好きになれるんだ。」
そう思えた。
彼は、中学校で好きだった彼とは、
まったく違うタイプだった。
きっと今までもモテてきただろう人。
きっと私には見合わない人。
それでも、
好きになってしまった。
そんな頃だった。
一度だけ、中学校で好きだった彼と偶然会った。
少しだけ話をした。
近況を聞いた。
笑って別れた。
不思議なくらい、ときめかなかった。
あんなに好きだったはずなのに。
ずっと、彼のことを忘れられなかったのだと思っていた。
でも違った。
私が忘れられなかったのは、
彼じゃなかった。
卒業式の日に、
何もできなかった自分だった。
だから今度は、逃げたくなかった。
結果がどうなるかより、
何もしないまま終わる方が、
ずっと怖かった。
だから、
私は、
「好きです。」
そう伝えた。
返事は、あっけなかった。
「ごめん。」
彼は少し困ったように笑った。
「今は、誰とも付き合う気ないんだ。」
私は笑って、
「そっか。」
と答えた。
それ以上、何も言えなかった。
家へ帰ると、
我慢していた涙が、一気にあふれた。
声を殺して泣いた。
何日も泣いた。
「好きです。」
その一言を言うまでに、
どれだけ時間がかかっただろう。
フラれたことは悲しかった。
何日も落ち込んだ。
でも、不思議だった。
十五歳の卒業式のあととは、
後悔の重さが違った。
あの時の私は、
何もできなかった。
でも今回は、
ちゃんと伝えた。
だから、
フラれても前を向けた。
私は、もう一度その例文へ目を落とした。
I'm glad to see you.
昔の私は、
「あなたに会えてうれしい。」
ただ、それだけの例文だと思っていた。
でも今は違う。
出会いは、
恋が叶うためだけにあるんじゃない。
会えたことに、
意味がある出会いもある。
あの恋は実らなかった。
それでも、私は、
あの人に会えてよかった。
あの日の出会いが、
私を、
少しだけ前へ進めてくれた。
第4章 I went abroad to study. ― 広い世界 ―
数学を終えた孫は、今度は世界史の問題集とにらめっこをしていた。
「世界史ってさ。」
「ん?」
「範囲広すぎ。」
私は思わず笑った。
「まだ半分も終わってない。」
「世界中覚えろって無理じゃない?」
私は問題集をのぞき込んだ。
ヨーロッパ。
アジア。
南北アメリカ。
見開きいっぱいに地図が広がっていた。
「確かに。」
「世界は広いからね。」
孫は苦笑いすると、
また年号を書き始めた。
私はそっとページをめくる。
不定詞。
目的を表す用法。
ページの真ん中に、見慣れた例文が載っていた。
I went abroad to study.
私は、その一文に目を留めた。
懐かしい。
この例文も、何度教えただろう。
黒板にチョークで書く。
I went abroad to study.
「『私は勉強するために海外へ行きました。』ですね。」
to + 動詞の原形
「不定詞の副詞的用法と言っても、少し難しいですね。」
「目的を表します。」
「『〜するために』と考えるといいでしょう。」
「例えば、こんな目的があります。」
I went abroad ….
to study English
「英語を勉強するために」
to meet new people
「新しい人と出会うために」
to try something different
「今までと違うことに挑戦するために」
「何か行動するときには、理由や目的があります。」
「その『何のために』を表すのが、この to 不定詞です。」
教室では、生徒たちが黙ってノートを書いている。
「ここ、テストに出ますよ。」
ノートに線を引く音が教室に広がる。
そんな、ごく普通の授業だった。
あの頃は、
何気なく黒板に書いていたその例文が、
私を、あの失恋の頃へ連れていった。
大学で初めて好きな人に想いを伝えた。
そして、振られた。
泣いた。
落ち込んだ。
しばらくは、大学へ行くのもつらかった。
駅までの道。
キャンパスのベンチ。
学食。
図書館。
どこを歩いても、彼のことを思い出した。
でも、不思議だった。
失恋そのものよりも、
「このままの自分ではいたくない。」
そんな気持ちの方が、少しずつ大きくなっていった。
ある日、大学の掲示板で留学説明会のポスターを見つけた。
私は足を止めた。
海外。
その二文字だけで、胸が少し高鳴った。
昔、世界史の教科書で見ていた世界は、
ただの地図だった。
でも、
その向こうには、
違う言葉があって、
違う景色がある。
そんな当たり前のことに、初めて気がついた。
説明会へ行った。
パンフレットを持ち帰った。
気がつけば、留学を決めていた。
あの頃の私は、
英語をもっと話せるようになりたいと思っていた。
海外を見てみたいとも思っていた。
それも本当だ。
でも、今振り返ると、
それだけじゃなかった気がする。
教科書には書いてある。
I went abroad to study.
昔の私は、
「勉強するために海外へ行った。」
ただ、それだけの例文だと思っていた。
でも今は違う。
あの留学には、
勉強するためだけじゃない理由があった。
きっと、
ただ、今いる場所から少し離れてみたかった。
失恋した自分から。
何もできなかった自分から。
少しでも遠くへ行ってみたかった。
昨日までの自分を、
少しだけ変えてみたかった。
あの日、
私が広げたかったのは、
世界じゃなかった。
自分の未来だった。
第5章 I have kept a secret. ― 秘密 ―
孫は世界史の問題集を閉じると、
今度は国語の問題集を開いた。
「まだやるの?」
「うん。古典も範囲なんだよ。」
「高校生も大変だね。」
「まだ全然終わってない。」
孫は小さくため息をつくと、
また黙って問題集を開いた。
ページをめくる音だけが、
静かな部屋に響く。
私は、
開いたままの英語の教科書へもう一度目を落とした。
そっとページをめくる。
現在完了。
その隣には、
現在完了進行形。
ページの上には、見慣れた例文が並んでいた。
I have lived here for five years.
I have been studying English for two hours.
懐かしい。
このページも、何度教えただろう。
黒板にチョークで書く。
I have lived in Japan for ten years.
「十年間日本に住んでいます。」
「現在完了ですね。」
「過去に始まったことが、今も続いている状態です。」
その下へ書き足す。
I have been studying English for two hours.
「二時間ずっと英語を勉強しています。」
「現在完了進行形。」
「過去からずっと続いている動作というのは現在完了と一緒ですね。現在完了進行形は、過去から続いている動作が、これからも続いていくという意味合いが入っています。」
「ここ、テストに出ますよ。」
教室中でメモをとるペンの音が響く。
そんな、ごく普通の授業だった。
久しぶりに見たその例文は、
私を留学時代へ連れていった。
留学生活にも、少しずつ慣れ始めた頃だった。
現地で知り合った男性と付き合うようになった。
背が高くて、
よく笑う人だった。
アジア人が好きなんだ、と言った。
話したこともないのに
私のどこを好きになったんだろう。
少し不思議だった。
でも、フラれてばかりだった私にとって、
初めてだった。
「好き」と言われることが。
誰かに選ばれることが。
それが、とてもうれしかった。
でも、
付き合ってみると、
少しずつ違和感が増えていった。
笑うタイミング。
怒る理由。
言葉の選び方。
文化の違いなのか。
性格なのか。
英語が足りないだけなのか。
何が原因なのか、
最後まで分からなかった。
会うたびに疲れる。
でも、
嫌いになれない。
別れられない。
そんな毎日だった。
その頃、
知り合った人がいた。
Language Exchangeという、
英語と日本語を教え合う集まりへ、
何度か通うようになった。
最初は英語を教えてもらうだけだった。
コーヒーを飲んで。
英語を話して。
笑って。
気づけば、
恋人よりも、
その人といる方が楽になっていた。
そして、
ある夜。
私は、
一線を越えた。
翌朝。
目が覚めた瞬間、
何をしてしまったのか分かった。
帰ると、
恋人からメッセージが届いていた。
"Good morning."
いつもと変わらない。
何も知らない。
私は画面を見つめたまま、
返事が打てなかった。
Language Exchangeで出会った彼は、
私を本気で好きになってくれた。
会うたびに言った。
「どうして彼なんだ。」
「なんで俺を選んでくれないんだ。」
私は答えられなかった。
好きなのは、
最初に付き合った彼だった。
戻れるなら、
戻りたかった。
やり直せるなら、
やり直したかった。
でも、
もう戻れない。
誰にも言えなかった。
恋人にも。
友達にも。
家族にも。
誰にも。
教科書には書いてある。
I have lived here for five years.
I have been studying English for two hours.
昔の私は、
現在完了は、
「ずっと続いている。」
ただ、それだけの文法だと思っていた。
でも今は、
この二つを見ると、
別の英文が浮かぶ。
I have kept a secret.
私は秘密を抱え続けている。
I have been lying.
私は嘘をつき続けている。
人生には、
教科書より苦しい現在完了がある。
秘密は、
隠すことより、
抱え続けることの方が苦しい。
嘘は、
つくことより、
つき続けることの方が苦しい。
あの日生まれた秘密は、
私の中に残り続けた。
第6章 It is difficult for me to understand. ― 理解できないもの ―
国語の問題集を閉じると、
孫は大きく伸びをした。
「疲れたー。」
「古典?」
「うん。」
「ムズすぎ。」
「今どき『いとをかし』なんて使う?」
私は思わず笑った。
「千年前の言葉だからね。」
「いや、覚えても使う機会ゼロじゃん。」
「それ言ったら英語も同じって先生に怒られそう。」
二人で笑った。
「ちょっと休憩。」
国語の問題集を机の端へよけた。
私は湯飲みにお茶を注ぎ、
テーブルへ置いた。
湯気がゆっくりと立ち上る。
英語の教科書は、
まだ開いたままだった。
私はそっとページをめくる。
It to 構文。
ページの真ん中に、見慣れた例文が並んでいた。
It is difficult to understand this book.
It is difficult to explain.
私は思わず手を止めた。
懐かしい。
この例文も、何度教えただろう。
黒板にチョークで書く。
It is difficult to understand this book.
この本を理解するのは難しいです。
その下へ書き足す。
It is difficult to explain.
説明するのは難しいです。
「It is difficult to ~ で、
『~するのは難しい』という表現になります。」
さらに書き足す。
It is difficult <for 人> to understand this book.
It is difficult <for 人> to explain.
「このように、for 人 を入れることもできます。」
「for を入れると、
『誰にとって難しいのか』
を表せます。」
It is difficult for me to understand this book.
「私にとって、この本を理解するのは難しいです。」
It is difficult for them to explain.
「彼らにとって、説明するのは難しいです。」
「ここ、テストに出ますよ。」
教室中でペンの音が響く。
そんな、ごく普通の授業だった。
久しぶりに見たその例文は、
私を留学中のある夜へ連れていった。
寮の電話が鳴った。
国際電話だった。
受話器を取ると、
母の声がした。
泣いていた。
「お父さんがね……。」
その一言で、
何かが起きたことだけは分かった。
父は、
会社の後輩の女性と付き合っていた。
最初は仕事帰りに食事へ行く程度だったらしい。
それが少しずつ増えていき、
いつしか父は、
「今日は出張だから。」
そう母に嘘をついて、
その女性の家へ泊まりに行くようになっていた。
それが一度や二度ではない。
何年も続いていたという。
母は探偵を雇っていた。
知らない町。
知らない部屋。
知らない父の顔。
電話の向こうで、
母は静かに話していた。
泣きながら話しているのに、
どこか冷静だった。
「誰にも言わないでね。」
その一言だけが、
今も耳に残っている。
兄弟は四人いる。
それなのに、
母は私だけに話した。
私は何も言えなかった。
留学中の私は、
誰にも言えない秘密を抱えていた。
母もまた、
誰にも話せない苦しみを抱えていた。
電話を切ったあと、
しばらく窓の外を眺めていた。
遠く離れた日本で、
家族が壊れようとしている。
そんな気がした。
帰国したら、
きっと離婚している。
私はそう思っていた。
でも違った。
母は離婚しなかった。
「どうして?」
私は何度も聞いた。
「そんな人とは別れた方が楽だよ。」
「もう子どもも大きいんだから。」
母は静かに笑った。
「そんな簡単なものじゃないのよ。」
その意味が、
私には分からなかった。
父を許したのか。
愛情が残っていたのか。
生活のためだったのか。
家族のためだったのか。
それとも、
全部違うのか。
私は何度考えても、
答えが出なかった。
「浮気相手のことは許せない。」
そう母は言った。
父のことは、
前みたいには尊敬できないとも言った。
それでも、
離婚はしなかった。
私は混乱した。
結婚って何だろう。
家族って何だろう。
私は本当に、
愛されて育ってきたんだろうか。
答えは、
どこにも見つからなかった。
教科書には書いてある。
It is difficult to understand this book.
It is difficult to explain.
「理解するのは難しい。」
「説明するのは難しい。」
昔の私は、
ただ、それだけの例文だと思っていた。
でも今は違う。
It is difficult to understand my mother.
母を理解するのは難しい。
It is difficult to explain my family.
私の家族を説明するのは難しい。
そして、
It is difficult <for me> to answer.
私にとって、答えを出すのは難しい。
家族とは何か。
結婚とは何か。
幸せとは何か。
あの日から私は、
その答えを探し続けるようになった。
第7章 I was loved. ― 愛された記憶 ―
休憩を終えると、
孫はまた問題集を開いた。
「そういえばさ。」
「ん?」
「この前の模擬テスト。」
「学年で一番だったんだよ。」
「すごいじゃない。」
「マジ恥ずかしかった。」
「朝礼で名前呼ばれてさ。」
「みんなに拍手されて。」
私は思わず笑った。
「でも嬉しかったんじゃない?」
「まぁね。」
「次も頑張ろうかな。」
孫は照れくさそうに笑うと、
また問題集へ目を落とした。
私は、
開いたままの英語の教科書をそっとめくる。
受動態。
ページの真ん中には、
見慣れた例文が並んでいた。
Everybody loves him.
He is loved by everybody.
私は思わず笑った。
懐かしい。
この例文も、何度教えただろう。
黒板にチョークで書く。
Everybody loves him.
「みんなが彼を愛しています。」
その下へ書き足す。
He is loved by everybody.
「彼はみんなに愛されています。」
「同じ出来事でも、
誰を主語にするかで、
英文は変わります。」
「能動態と受動態ですね。」
「誰がするのか。」
「誰がされるのか。」
「そこがポイントです。」
「ここ、テストに出ますよ。」
教室中にメモをとる音が響く。
そんな、ごく普通の授業だった。
あの頃の私は、
「愛すること」と、
「愛されること」。
その違いを、
まだ知らなかった。
その例文が、
私を、あの頃へ連れていった。
留学から帰国して、
私は英語を教える仕事に就いた。
留学で学んだ英語を、
今度は誰かに伝える側になった。
初めての教壇。
初めての社会人。
毎日が新しかった。
その職場で、
一人の男性と出会った。
第一印象は、
正直あまり覚えていない。
でも、
たくさん話した時間は、
よく覚えている。
私にとって、
英語を教える仕事は、
これから積み重ねていく人生だった。
でも、
彼は違った。
「世界一周したいんだ。」
そう笑って話した。
英語を教える仕事は、
夢ではなく、
夢へ向かう途中だった。
お金が貯まったら辞める。
そして世界へ行く。
彼は、
そんな未来を、
もう決めていた。
私は少し驚いた。
同じ職場で働いているのに、
見ている景色が、
まるで違ったから。
でも、
その生き方が、
眩しかった。
留学中の出来事。
初めて見た景色。
旅先で出会った人たち。
そんな話をしているうちに、
あっという間に時間が過ぎていた。
彼の夢は、
世界一周だった。
「いつか南米へ行きたい。」
「アフリカも見てみたい。」
夢を話す時の彼は、
少年みたいだった。
私はもともと、
世界を見ることが好きだった。
留学で知った世界は、
私の中に残っていた。
だから、
彼の話は、
遠い世界の話じゃなかった。
「その国、私も行ってみたい。」
「きっと好きだと思う。」
そんな会話が、
自然と増えていった。
最初は友達だった。
でも、
気づけば、
一番会いたい人になっていた。
彼の方から誘ってくれることも増えた。
何時間話しても飽きなかった。
知らない世界の話を聞くたびに、
私まで少し自由になれた気がした。
ある日、
彼が言った。
「君といると楽しい。」
その一言が、
うれしかった。
気づけば、
私たちは付き合うようになっていた。
初めてだった。
心から好きになった人と、
同じ気持ちになれたのは。
一緒にいるだけで、
未来が楽しみだった。
でも、
彼の夢は、
私との未来より、
もっと遠くを見ていた。
まだ見たことのない景色を見たい。
もっと世界を見たい。
だから一つの場所に留まりたくない。
「結婚?」
彼は笑った。
「まだ考えたことないな。」
それが、
彼の人生だった。
私は分かっていた。
彼は、
恋愛のために夢を諦める人じゃない。
旅立ちの日が近づくたび、
別れの日も近づいていった。
だからある日、
私は勇気を出して言った。
「私も、一緒について行きたい。」
初めてだった。
未来を一緒に歩きたいと、
自分から口にしたのは。
彼は少し黙った。
そして、
小さく笑って言った。
「ごめん。」
その一言で、
全部分かった。
I was rejected.
私は断られた。
あの時の私は、
悲しかった。
どうして、
好き同士なのに一緒にいられないんだろう。
何度もそう思った。
泣いてすがることも、
責めることもできたかもしれない。
でも、
そんなことをしたら、
彼が好きになってくれた私では、
いられなくなる気がした。
二人で過ごした思い出まで、
壊してしまう気がした。
だから、
引き止めなかった。
笑って送り出した。
彼は、
夢を選んだ。
それが、
彼らしい選択だった。
教科書には書いてある。
I am loved by him.
昔の私は、
「私は彼に愛されています。」
ただ、それだけの例文だと思っていた。
でも今は違う。
私は、
彼に愛された。
I was loved by him.
でも、
私は、
一緒の未来には、
選ばれなかった。
I wasn't chosen.
それでも私は、
「一緒について行きたい。」
そう伝えた。
そして、
I was rejected.
私は断られた。
でも今なら分かる。
彼は、
私を拒絶したんじゃない。
彼は、
私を愛していなかったわけじゃない。
ただ、
彼は自分の人生を選んだのだ。
私は、
彼が選んだ人生を、
受け入れることを選んだ。
それが、
私の選んだ人生だった。
彼のようには生きられなかった。
でも、
世界をもっと見たいという気持ちは、
私の中にも残った。
第8章 I met a man who... ― 運命の人 ―
しばらく問題集を解いていた孫が、
大きく伸びをした。
「もう一回休憩。」
そう言うと、
スマートフォンを取り出した。
「ばあちゃん、このゲーム知ってる?」
画面をのぞき込む。
「知らない。」
「これ、今めっちゃ流行ってる。」
孫は少し得意そうに笑った。
「これ作った人さ。」
「うん。」
「俺の友達のお父さんなんだよ。」
「えっ、本当に?」
「うん。」
「この前、学校にも来てくれた。」
「すごいじゃない。」
「普通のお父さんだと思ってたからビックリした。」
私は思わず笑った。
「身近なところにも、すごい人はいるんだね。」
聞いているのか聞いていないのか、
孫はもうゲームに夢中だった。
私は、
湯飲みに残ったお茶を飲み干す。
そして、
開いたままの英語の教科書へ目を落とした。
そっとページをめくる。
関係代名詞。
ページの真ん中には、
見慣れた例文が並んでいた。
I know a man who lives in Osaka.
私は思わず笑った。
懐かしい。
この例文も、
何度教えただろう。
黒板にチョークで書く。
I know a man who lives in Osaka.
「『私は、大阪に住んでいる男性を知っています』ですね。」
whoを丸で囲う。
who
「前の名詞を詳しく説明する言葉です。」
「どんな男性なのか。」
「その続きを説明しているんですね。」
「ここ、テストに出ますよ。」
教室中でペンの音が走る。
そんな、
ごく普通の授業だった。
昔の私は、
「どんな人なのか。」
ただ、それを説明する文だと思っていた。
でも、
人は、そんな一文では語れなかった。
その例文が、
私を、あの旅へ連れていった。
彼と別れたあとも、
私は仕事を続けた。
彼のように、
仕事を辞めて世界を回ることはできなかった。
でも、
長期休暇になるたび、
私は旅へ出た。
留学で知った「世界は広い」という気持ちは、
私の中から消えることはなかった。
彼について行って世界を見ることはできなかった。
だから私は、
自分の足で、
世界を歩いた。
そんな旅先で、
一人の男性と出会った。
彼もまた、
一人旅をしていた。
転職と転職の間の時間を使って、
世界を歩いていると言った。
最初は、
旅先で知り合った日本人。
それだけだった。
「どこから来たんですか。」
そんな会話から始まった。
次の日も会った。
「次はどこへ行くんですか。」
偶然だった。
目的地が同じだった。
「じゃあ、
向こうでまた。」
本当に、
また会った。
さらに次の街でも。
いつの間にか、
一人旅だったはずの旅が、
二人旅になっていた。
不思議だった。
一緒にいて、
疲れなかった。
飛行機が遅れて、
空港で何時間も待つ日があった。
特に話すこともなく、
二人で窓の外を眺めていたこともあった。
でも、
沈黙が苦にならなかった。
何か話さなきゃ。
楽しませなきゃ。
そんなことを考えなくても、
ただ隣にいるだけで心地よかった。
ホテルが見つからなくて、
重い荷物を持って歩き回った日もあった。
私は少し焦っていた。
でも彼は笑って言った。
「大丈夫。
なんとかなるよ。」
その一言で、
私も笑っていた。
電車を乗り間違えた日もあった。
「せっかくだし、
この町も歩いてみよう。」
予定どおりじゃなくても、
楽しかった。
頼んだ料理と違うものが出てきても、
「せっかくだから食べてみよう。」
そう言って、
二人で笑い合った。
旅は、
新しい景色だけを見せてくれるのではない。
一緒に旅をする人のことも、
少しずつ見えてくる。
予定が変わった時。
疲れた時。
困った時。
その人が、
よく分かる。
どんな時でも、
笑っていられる人。
何日も一緒にいても、
飽きることのない人。
何もない時間さえ、
大切に思える人。
そんな人に、
私は初めて出会った。
旅が終わる日。
彼が言った。
「日本に帰っても、
また会えませんか。」
少し驚いた。
私は、
旅だけの出会いだと思っていたから。
帰国してからは、
彼は大阪、
私は、東京だった。
遠距離だった。
でも、
私たちは会い続けた。
気づけば、
恋人になっていた。
遠距離恋愛なんて苦にならなかった。
飛行機で会いに行った週末。
大阪で待ち合わせをして、
京都まで足を延ばした日。
東京で映画を見て、
そのまま川沿いを散歩した日。
会う場所は毎回違うのに、
一緒にいると、
不思議なくらい落ち着いた。
会う場所が変わるたびに、
二人の思い出が増えていった。
特別なことを、
しなくてもよかった。
映画を見て。
ご飯を食べて。
歩いて。
笑って。
少し黙って。
それだけで、
十分だった。
その「それだけ」が、
心地よかった。
特別なことがなくても、
会えるだけでよかった。
気づけば、
隣にいるのが当たり前になっていた。
二人でいることが、
とても自然だった。
その心地よさは、
旅で出会った時から、
遠距離恋愛になってからも、
変わらなかった。
そのまま、
私たちは結婚した。
子どもが生まれた。
気づけば、
家族になっていた。
教科書には書いてある。
I know a man who lives in Osaka.
昔の私は、
「大阪に住んでいる男性を知っています。」
ただ、それだけの例文だと思っていた。
関係代名詞は、
前にある名詞を説明する言葉。
どんな人なのか。
教科書なら、
一文で説明する文法だった。
でも、
私が旅で出会った彼は、
一文では語れない。
人を知るということは、
その人を説明する言葉を、
少しずつ足していくことなのだ。
あの日の私なら、
きっとこう書く。
I met a man who made me smile.
笑顔にしてくれる人と出会った。
旅を続けるうちに、
もっとこう思うようになった。
I met a man who made me feel at home.
どこにいても、
帰ってきたような気持ちになれる人だった。
最後に、
たどり着いた言葉は、
I met a man with whom I could be myself.
ありのままの自分でいられる人だった。
人は、
一文では語れない。
一緒に過ごした時間が、
その人を少しずつ教えてくれる。
出会った時は、
毎日が特別だった。
一緒に生きるうちに、
それは自然になっていった。
私も私のままで、
いられた。
彼も彼のままで、
いられた。
二人とも、
そのままでいられると、
思っていた。
第9章 He is taller than me. ― 比較 ―
「よし。」
孫は理科の問題集を引き寄せた。
「次は理科。」
「まだあるの?」
「うん。」
「でも、世界史よりは全然楽。」
「世界史は、年号とか人物とか、ごちゃごちゃになるんだよ。」
「私は英語の方が好きだな。」
「先生だったんだもん。そうだろうねー。」
孫はまた問題集へ目を落とした。
私は、手にしたままの英語の教科書へ視線を戻した。
そっとページをめくる。
比較級。
ページの真ん中には、見慣れた例文が並んでいた。
He is taller than me.
This book is more interesting than that one.
私は思わず笑った。
懐かしい。
この例文も、何度教えただろう。
黒板にチョークで書く。
A is「比較級」than B.
「二つのものを比べる時に使います。」
「どちらが高いのか。
どちらが面白いのか。」
「何が違うのか。
二つのものや人を比べるときに便利な表現です。」
「では、
taller のように -er をつける比較級と、
happier のように y を i に変えて -er をつける比較級、
more interesting のように more を使う比較級の違いを見ていきましょう。」
「ここ、テストに出ますよ。」
教室中でメモをとるペンの音が響く。
そんな、ごく普通の授業だった。
昔の私は、
比較級は、
「何が違うのか。」
それを比べるための文法だと思っていた。
でも、
人生で比べるものは、
身長や大きさだけじゃなかった。
その比較級の例文が、
私を、あの日々へ連れていった。
遠距離恋愛を経て、
私たちは結婚した。
子どもが生まれた。
家族になった。
幸せだった。
でも、
幸せは忙しかった。
毎日は、
一気に変わった。
夜泣き。
ミルク。
抱っこ。
やっと寝たと思ったら、
また泣き声が聞こえる。
時計を見る。
午前三時。
あと数時間で起きなきゃいけない。
朝になる。
眠いまま朝ごはんを作る。
ついでに夕飯のしたごしらえまでしておく。
洗濯機を回す。
子どもを起こす。
保育園へ送る。
仕事へ向かう。
帰れば、
夕飯。
洗濯物をたたむ。
お風呂へ入れる。
寝かしつける。
ようやく一息つく頃には、
時計は十一時を回っていた。
朝になれば、
また同じ一日が始まる。
毎日は、
あっという間に過ぎていった。
夫も疲れていた。
私も疲れていた。
最初は、
「大丈夫?」
そう言ってくれていた。
私も、
「今日もお疲れさま。」
そう返していた。
でも、
少しずつ、
その言葉が減っていった。
ある日、
子どもに怒鳴ってしまった。
本当は、
子どもは何も悪くなかった。
私の中にたまっていたものが、
一番小さなその子へ向かってしまった。
泣き顔を見て、
我に返った。
「ごめんね。」
抱きしめながら謝った。
でも、
次の日も。
またその次の日も。
同じことを、繰り返してしまった。
怒鳴りたくなんてない。
笑っていたい。
優しい母親でいたい。
そう思っているのに、
思うように感情を止められなかった。
子どもが眠ったあと。
小さな寝顔を見ながら、
何度も謝った。
「ごめんね。」
母親なのに。
一番大切な人なのに。
どうして私は、
こんなこともできないんだろう。
リビングには、
家族写真が飾ってあった。
あの日の私は、
ちゃんと笑っていた。
あの笑顔は、
どこへ行ってしまったんだろう。
鏡に映る私は、
いつも疲れた顔をしていた。
私は、
母親としても、
失格なんじゃないか。
そんなことまで、
考えるようになっていた。
夫は、
そんな日が続いても、
何も言わなかった。
何を思っていたのか、
あの頃の私には分からなかった。
育児に無関心なのかと思った。
頼りないと思った。
私だけが、育てている。
そんな気持ちにさえ、なっていた。
本当は、
手伝ってほしかった。
でも、
それだけじゃなかった。
私の苦しさを、
一緒に背負ってほしかった。
嬉しいことも。
大変なことも。
二人で分け合って、
家族になっていく。
私は、
そんな毎日を思い描いていた。
ある日、
大きな喧嘩をした。
「なんで私ばっかりなの?」
言ってしまった。
「家事も育児も仕事も。
なんで私ばっかり。」
夫も負けずに言い返した。
「俺だって働いてる。」
「疲れてるのは俺も同じだ。」
その時は、
どちらも間違っていなかった。
どちらも、
苦しかった。
でも、
お互い、
自分の苦しさしか見えなくなっていた。
それでも、
毎日は止まらない。
朝になればご飯を作り、
食べながら夕飯の支度までする。
保育園へ送る。
仕事へ行く。
迎えに行く。
夕飯を食べさせる。
洗い物をする。
お風呂へ入れる。
寝かしつける。
その繰り返しだった。
喧嘩をする。
泣く。
謝る。
また喧嘩をする。
そのうち、
喧嘩をすることにも疲れた。
必要なことだけ話す。
「お風呂入れた?」
「うん。」
「明日、保育園お願い。」
「分かった。」
それだけ。
気づけば、
「おはよう。」
「おやすみ。」
それ以外の会話が、
少しずつなくなっていた。
いつしか私たちは、
夫婦というより、
子育てをする同居人になっていた。
週末は、
疲れからか、
遅くまで寝ている夫に苛立った。
子どもが熱を出せば、
看病するのは、
いつも私だった。
なのに夫は、
子どもの風邪をすぐにもらって寝込んでしまう。
そのたびに、
「なんで私ばっかり。」
そんな思いが、
どんどん積もっていった。
家にいると、
苦しいことばかりが目についた。
外へ出ても、
今度は、
人の幸せばかりが目についた。
保育園のお遊戯会へ行けば、
家族三人で笑いながら帰る姿が目に入った。
スーパーへ行けば、
「うちの主人ね、
最近料理もしてくれるの。」
そんな会話が聞こえてきた。
「○○ちゃん、
もう字が書けるんだって。」
「△△くんは、
ピアノも習ってるらしいよ。」
誰かと会うたびに、
私は比べていた。
夫を。
子どもを。
家庭を。
そして、
母親としての自分を。
「もう離婚した方がいいのかな。」
そんな言葉が、
何度も頭をよぎった。
でも、
答えは出なかった。
夫も、
苦しんでいた。
私も、
苦しんでいた。
家族みんなが、
苦しかった。
教科書には書いてある。
He is taller than me.
昔の私は、
比較級は、
人や物を比べる文法だと思っていた。
でも今は違う。
人は、
誰かと比べ始めると、
少しずつ、
相手が見えなくなる。
「私はこんなにやっている。」
「なんで私ばっかり。」
その気持ちが大きくなるほど、
相手の苦しさは、
見えなくなっていく。
夫婦は、
愛がなくなって壊れるんじゃない。
お互いの苦しさが、
見えなくなった時に、
少しずつ壊れていくのかもしれない。
第10章 This is what I wanted. ― やかん ―
「まだやってるの?」
「理科は好きだから。」
「これだけは、全然苦じゃない。」
「そう。」
「これこそ、俺が学びたいことって感じ。」
「これなら、何時間でもできる。」
「将来、理系に進もうかな。」
「まだ分かんないけど。」
私は少し驚いた。
いつの間にか、
将来のことを考えるようになっていた。
「好きなことが見つかるって、いいことね。」
孫は照れくさそうに笑って、
また問題集へ目を落とした。
私は、
英語の教科書へ視線を戻した。
そっとページをめくる。
関係代名詞 what。
ページの真ん中には、
見慣れた例文が並んでいた。
This is what I wanted.
This is what I need.
私は思わず笑った。
懐かしい。
この例文も、何度教えただろう。
黒板にチョークで書く。
This is what I wanted.
「これは『私が欲しかったもの』です。」
その下へ書き足す。
This is what I need.
「これは『私に必要なもの』です。」
what = the thing(s) which
「what は、
『もの・こと』を表します。」
「つまり、
『〜するもの』『〜すること』
を一語で表せるんですね。」
「『もの・こと what』で覚えましょう。」
「ここ、テストに出ますよ。」
教室中でメモをとるペンの音が響く。
そんな、
ごく普通の授業だった。
昔の私は、
what は、
ただの「もの・こと」を
表す文法だと思っていた。
でも、
人生には、
たった一つの「もの」や「こと」が、
大きな意味を持つことがある。
その例文が、
私を、あの夜へ連れていった。
週末の夜だった。
寝室へ向かう夫が言った。
「今日は俺が寝かしつけるよ。」
「少しゆっくりしてて。」
「うん。」
そう返事はしたものの、
やることは山ほど残っていた。
私は台所に立った。
夕飯の皿を洗う。
コップを洗う。
フライパンを洗う。
流し台の水を拭き取る。
いつもなら、
そこで終わる。
でもその日は、
少しだけ静かな時間があった。
私はシンクの隅を見た。
水あかが残っている。
ついでに拭いてしまおう。
そう思った。
スポンジに洗剤をつける。
シンクをこする。
コンロの周りも拭く。
油が固まっているところを、
爪の先で少しこすった。
すっきりした。
その時だった。
やかんが目に入った。
白い琺瑯のやかん。
長女が生まれた頃、
ミルクを作るために新しく買ったものだった。
あの頃は、
白くて、
丸くて、
少し可愛く見えた。
でも今は違う。
料理のたびに油が飛ぶ。
炒め物をすれば、
細かい油がはねる。
揚げ物をすれば、
また油がつく。
フライパンは洗う。
鍋も洗う。
皿も洗う。
でも、
やかんは洗わない。
お湯を沸かすだけだから。
火にかけるだけだから。
また明日も使うから。
そう思って、
ずっとそこに置いたままだった。
気づけば、
白かったはずのやかんは、
黄ばみ、
茶色くくすんでいた。
私は、
しばらくそのやかんを見つめていた。
何年も、
少しずつ積み重なった油汚れ。
そこには、
毎日の暮らしが、
そのまま残っていた。
新しいやかんに
買い替えた方が早い。
今なら、
もっと便利なものが、
いくらでもある。
そう思った。
でも――
私は、
なぜか捨てる気にはなれなかった。
もう少しだけ、
磨いてみよう。
そう思った。
私はスポンジでこすった。
落ちない。
洗剤を足した。
もう一度こする。
落ちない。
お湯をかける。
しばらく置く。
またこする。
落ちない。
重曹も試した。
クレンザーも使った。
古い歯ブラシまで持ち出した。
それでも、
長い時間をかけて積み重なった油は、
簡単には落ちなかった。
ずっとそこにあったものは、
そんな簡単には変わらない。
何度も、
「もういいかな。」
と思った。
もう捨ててもいいんじゃないか。
新しいものに替えれば、
全部終わる。
でも、
手は止まらなかった。
もう少し。
あと少しだけ。
私は、
もう一度スポンジを握った。
ゴシゴシ。
ゴシゴシ。
少しずつ。
ほんの少しずつ。
少しだけ、
茶色い汚れが薄くなった気がした。
私は台所の棚を開けた。
昔買った掃除用の粉を取り出す。
粉をお湯で溶かして、
布巾につけて、
円を描くようにこする。
ゴシゴシ。
ゴシゴシ。
少しずつ、
ほんの少しずつ、
白い色が見えてきた。
「あ。」
思わず声が漏れた。
まだ白かったんだ。
このやかんは、
まだ白かったんだ。
私は夢中になって磨いた。
腕が疲れても。
指先が痛くなっても。
やめられなかった。
汚れが落ちるたび、
胸の奥に積もっていた何かも、
少しずつ削れていくような気がした。
何度も洗い流す。
また磨く。
また洗う。
また磨く。
気づけば、
寝室は静かになっていた。
夫の声も。
子どもたちの寝息も。
もう聞こえない。
台所には、
水の音だけが響いていた。
それでも、
やかんは、
買った時みたいに新品には戻らなかった。
小さな傷もある。
焦げた跡も残っている。
取っ手のネジは
少し緩んでいる。
だから、
熱湯を注ぐたびに、
「熱っ。」
と思うことがある。
どう頑張っても完璧にはならない。
それでも、
さっきまでとは違っていた。
白い部分が、
ちゃんと見えていた。
私は濡れた手を拭き、
少し離れてやかんを見た。
同じやかんなのに、
違って見えた。
捨てなくてよかった。
そう思った。
教科書には書いてある。
This is what I wanted.
昔の私は、
「これは『私が欲しかったもの』です。」
ただ、
それだけの例文だと思っていた。
でも今は違う。
This is what I wanted.
最初は、
新しいやかんが欲しいと思った。
新しいものに替えた方が、
簡単だと思った。
人生も、
同じように思えた。
新しい人生の方が、
楽なんじゃないか、と。
でも、
私はそれを選ばなかった。
This is what I still have.
磨いていたのは、
やかんだけじゃなかった。
まだ、
私には残っていた。
あきらめる前に、
もう一度、
手をかけてみたいと思えるものが。
This is what I need.
私に必要だったのは、
新しい人生じゃない。
何度ぶつかっても。
何度傷ついても。
手をかけながら、
生きていくことだった。
壊れかけていたものに、
もう一度、
手をかけてみようと思った。
もう一度、
磨いてみることにした。
第11章 If you had a time machine... ― もし ―
「よし!」
「全部終わった!」
「期末の勉強終わったー!」
孫は最後の問題集を閉じると、
大きく伸びをした。
「あとは提出物だけ確認しとくか。」
そう言って、
机の上の問題集を一冊ずつ確認し始めた。
私は、
手にしたままの英語の教科書へ目を落とす。
仮定法。
ページの真ん中には、
見慣れた例文が並んでいた。
If I had a time machine, I would go back in time.
If I were you, I would tell him.
私は思わず笑った。
懐かしい。
この例文も、
何度教えただろう。
黒板にチョークで書く。
If I had a time machine, I would go back in time.
「もしタイムマシンがあったら、過去へ戻るのに。」ですね。
「仮定法は、
『もし』の世界を表す表現です。」
「現実にはありえないことや、
現実とは違うけれど、
『もし、そうだったら。』
と考えるときに使います。」
その下へ書き足す。
If I were you, I would tell him.
「もし私があなただったら、彼に伝えるのに。」
「これも、
『もし』の世界ですね。」
私は教室を見渡した。
「タイムマシンがあったら、
過去へ戻りたい人?」
教室中で手が挙がる。
「じゃあ、
戻って何をしますか?」
「テストの答え見る!」
「宝くじ買う!」
「あの時の自分に会う!」
教室中が笑いに包まれる。
私は笑いながら言った。
「なるほど。」
「じゃあ、
もしその時の自分に会えたら、
何て声をかけますか。」
教室が少し静かになる。
「これも、
仮定法の世界ですね。」
「英作文問題で、
テストに出すかもしれませんよ。」
「えーーー?」
クラス中で「もしもの世界」を話し始めて騒がしくなった。
そんな、
ごく普通の授業だった。
昔の私は、仮定法とは
「現実とは違うことを表す文法。」
それくらいにしか思っていなかった。
でも、
人生には、
選ばなかった道を、
何度も思い浮かべてしまう「もし」がある。
その仮定法の例文が、
私を、あの頃へ連れていった。
ある日の夕方だった。
やかんを磨いた、あの夜から
少しだけ時間が過ぎていた。
夫婦は、
少しずつ話すようになっていた。
劇的に何かが変わったわけじゃない。
相変わらず忙しくて、
意見が合わない日もあった。
でも、
前みたいに、
何日も口をきかないことはなくなっていた。
少しずつ。
本当に少しずつ。
そんな頃だった。
洗い物をしながら、
つけっぱなしのテレビを見ていた。
その時だった。
「あ……。」
思わず声が漏れた。
そこに映っていたのは、
十五年ぶりに見る彼だった。
世界一周を夢見ていた彼。
初めて、
想いが通じ合った人。
特集番組で、日本最大級のフリマに来ている人に
インタビューしているところだった。
画面の向こうで、
楽しそうに笑っていた。
「妻がフリーマーケットが好きで
今日は妻は仕事で来れないので、僕が色々買ってます。」
私は、
しばらく動けなかった。
結婚なんて考えていない。
そう言っていた人が、
結婚していた。
世界一周の夢は叶えたのか?
奥さんは、
その後に出会った人?
それとも、
旅の途中に出会った人?
私は録画ボタンを押した。
録画した番組は、
そのまま消せなかった。
もし、
あの時。
もし、
彼について行けていたら。
もし、
彼が私を選んでくれていたら。
もし、
あの時違う人生を歩いていたら。
気づけば、
何度も録画を見返していた。
次の日も。
また次の日も。
一時停止して、
巻き戻して、
また再生する。
「妻が〜」
そこだけ聞き返す。
録画は、
すぐには消せなかった。
それが未練なのか、
思い出なのか、
その時の私は、
まだ分からなかった。
画面の向こうで、
彼は笑っていた。
私は、
静かに画面を見つめていた。
何度も見た後で、
ようやく分かった。
きっと、
あの人にも、
笑った日があった。
泣いた日もあった。
夫婦で言い合った日も、
あっただろう。
家族のことで、
悩んだ夜も、
あったかもしれない。
仕事に追われて、
疲れ切って帰る日も。
何も話せず、
眠ってしまう日も。
それでも、
また朝が来て。
また笑って。
また少し傷ついて。
また少し許して。
そんな毎日を、
積み重ねてきたのだろう。
私は、
リモコンを手に取った。
もう一度、
録画を再生する。
画面の向こうで、
彼は笑っていた。
画面の彼に向かって
少しだけ笑った。
「ありがとう。」
小さくつぶやいた。
好きになってよかった。
私は、
リモコンを持った。
少しだけ、
指が止まる。
そして、
削除ボタンを押した。
もう、
「あの人と結婚していたら」
とは考えなかった。
教科書には書いてある。
If I had a time machine, I would go back in time.
昔の私は、
「もし」は、
選ばなかった人生を想像する文法だと思っていた。
でも今は違う。
「もし」は、
人生を選び直すためのものじゃなかった。
人生には、
何度も
「もし」
が訪れる。
私は、
何度も考えた。
もし、
あの時。
もし、
彼について行っていたら。
もし、
結婚していたら。
幸せだったかもしれない。
苦しかったかもしれない。
笑った日も、
泣いた日も、
あっただろう。
答えが出ないと分かっていても、
人は「もし」を考えてしまう。
でも、
想像することはできても、
比べることはできない。
私が本当に知っているのは、
泣いて。
笑って。
喧嘩をして。
何度も傷つけ合って。
それでも、
もう一度向き合おうと思えた、
この人生だけだった。
人生には、
選ばなかった道がある。
でも、
私に分かるのは、
歩いてきたこの道だけだった。
私は、
あの日、なぜ録画を削除できたのだろう。
今なら、
よく分かる。
彼を忘れるためじゃない。
思い出を消すためでもない。
あの恋を、
なかったことにするためでもない。
あの恋も、
私の人生だったと受け入れるためだった。
今なら、
二十代の私に、ありがとうと言える。
精一杯恋をした私。
精一杯泣いた私。
精一杯生きた私。
別れたことも、
私の人生だった。
あの人がいたから、
今の私がいる。
その全部が、
今の私をつくってくれた。
「もし」を考え続けても、
人生は選び直せない。
だから私は、
「もし」を考えるより、
この人生を、
もう一度、
選びたいと思った。
第12章 The kettle is cleaner than before. ― 英作文 ―
「あ。」
「どうしたの?」
「やべ。」
「英語の宿題まだあった。」
「比較級使って英作文作るやつ。」
孫は苦笑いした。
「確認しといてよかった。」
「ほんとだね。」
私は笑った。
「じゃあ、ばあちゃん。」
「ん?」
「一文だけ考えてくれない?」
「しょうがないねぇ。」
「比較級か。」
私は少し考えた。
すると、ふと、
さっきまでお茶を入れるのに使っていたやかんが目に入った。
そのやかんが、私を、あの日々へ連れていった。
やかんを磨いた次の日。
夫は何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
夫婦は、
昨日までと同じだった。
劇的に何かが変わることなんて、
なかった。
それでも、
少しだけ変わったことがあった。
私は、
思ったことを、
その日のうちに話すようになった。
ため込まない。
我慢しすぎない。
怒りになる前に話す。
夫も、
黙って聞いてくれるようになった。
全部分かり合えるわけじゃない。
意見が合わない日もある。
言い合いになる日もある。
でも、
前とは少し違った。
「ごめん。」
その一言が、
少しずつ増えていった。
「ありがとう。」
その一言も、
少しずつ増えていった。
やかんも同じだった。
一度きれいになっても、
また油は飛ぶ。
料理をすれば、
また少し汚れる。
でも、
私は気づいた。
少し汚れた時に拭けば、
簡単に落ちる。
何年も放っておくから、
落ちなくなる。
だから、
料理が終わると、
私は布巾でやかんを拭くようになった。
ほんの数秒。
それだけだった。
夫婦も、
同じだった。
小さな違和感。
小さな不満。
小さな寂しさ。
それを、
「これくらい。」
と放っておくと、
少しずつ積み重なる。
だから、
話すようになった。
小さいうちに。
まだ笑えるうちに。
まだ引き返せるうちに。
ある日、
夫が笑って言った。
「最近、
喧嘩しなくなったね。」
私は笑った。
「年を取っただけじゃない?」
そう言うと、
夫も笑った。
そんな毎日を、
少しずつ、
積み重ねてきた。
気がつくと、
キッチンのやかんへ目を戻していた。
白いやかんは、
今日も静かにそこにあった。
私は少し笑った。
「これでどう?」
私はゆっくりと言った。
The kettle is cleaner than before.
孫は首をかしげた。
「kettleってやかん?」
「うん。」
「おっ。」
「なんか教科書に載ってそうな例文じゃん。」
「ばあちゃんが作ったとは思えない。」
「これなら俺が作ったって言ってもバレないな。」
「採用。」
そう言って、
孫はノートへ書き始めた。
The kettle is cleaner than before.
孫にとっては、
ただの英作文だった。
「そのやかんは、
前よりきれいです。」
それだけの一文。
でも、
私には違った。
前よりきれいになることは、
新品に戻ることじゃない。
傷は残る。
焦げた跡も残る。
それでも、
前よりきれいに見えるようになる。
昨日より少し。
先月より少し。
去年より少し。
その小さな積み重ねだった。
やかんも。
夫婦も。
人生も。
少しずつ。
少しずつ。
手をかけるたびに。
前よりも、
愛おしくなっていった。
第13章 I wish I were younger ― 人生の例文 ―
その時、
スマートフォンが震えた。
娘からのメッセージだった。
『今日、夜勤の人が急に体調崩しちゃって。』
『代わりに入ることになった。』
『悪いけど、一晩お願い。』
私はすぐに返信した。
『もちろん。』
画面を見た孫が笑う。
「今日は泊まりか。」
「そうみたい。」
「じゃあゆっくりしていきな。」
「やった。」
孫は嬉しそうに笑った。
「宿題も終わったし、
お風呂入ってくる。」
そう言って、
孫は二階へ上がっていった。
浴室から、
シャワーの音が聞こえ始める。
静かになった部屋で、
私はもう一度、
手にした教科書へ目を落とした。
I wish I were younger.
昔の私は、
「もっと若ければなぁ。」
ただ、
それだけの例文だと思っていた。
若ければ、
何かが変わっていたのかもしれない。
そう思ったこともあった。
でも今は違う。
今の私だから、
見える景色がある。
若かった私には、
出会えなかった人がいる。
若かった私には、
分からなかったことがある。
若かった私には、
磨けなかったものがある。
年を重ねて、
やっと分かったことがある。
私には、手をかけ続けたいと思える人がいた。
その人もまた、私に手をかけ続けてくれた。
壊れそうになるたびに、また手を伸ばしてくれた。
私も、その手を離さなかった。
何度も、
すれ違った。
何度も、
違う方向を向きそうになった。
それでも、
お互いに少しずつ歩幅を合わせた。
歩み寄ることを、
あきらめなかった。
また同じ方向を向いて、
歩き始めた。
泣いて。
笑って。
ぶつかって。
歩み寄って。
いつも最後は、
また隣にいてくれた。
私は、
夫の遺影に目を向けた。
写真の中の夫は、
いつものように笑っていた。
私も、
少しだけ笑った。
ふと、
キッチンを見る。
夕飯の揚げ物のせいだろうか。
いつもの場所にある白いやかんは、
今日も、
少しだけ油で曇っていた。
私は布巾を手に取り、
さっと一拭きした。
ほんの数秒。
それだけだった。
いつの間にか、
それが私の日常になっていた。
風呂から出てきた孫が言う。
「喉乾いたから、
今度俺がお茶入れるねー。」
「ってか、このやかん、めっちゃ年季入ってるね。」
「いつから使ってるの?」
「ボロボロじゃん。」
「今度バイト始めたら、新しいの買ってあげるよ。」
そう言うと、
孫はやかんに水を入れ、
火にかけた。
私は、
手元の教科書を閉じようとした。
その時だった。
最初のページに目が止まった。
This is a pen.
懐かしい。
英語を習い始めた頃、
誰もが最初に覚える例文だった。
あれから私は、
たくさんの英文を覚えた。
I should have...
後悔を知った。
I'm glad to see you.
出会いを知った。
I went abroad to study.
世界は広いと知った。
I have kept...
秘密を抱えた。
It is difficult for me to understand...
私には、
理解できないことがあった。
I was loved.
愛される喜びを知った。
I met a man who...
人生を変える出会いがあった。
He is taller than me.
誰かと比べた日もあった。
This is what I wanted.
本当に大切なものを知った。
If I had a time machine...
何度も、
「もし」を考えた。
The kettle is cleaner than before.
少しずつ、
前よりきれいになった。
少しずつ、
前より愛おしくなった。
「ばあちゃん。」
「ん?」
「それ、まだ見る?」
「勉強終わったから、カバンにしまっちゃいたいけど。」
私は、
開いたままの教科書に目を落とした。
どのページにも、
昔の私がいた。
そして最後に戻ってきたのは、
This is a pen.
あれから私は、
どれだけページをめくってきただろう。
私は、
キッチンのやかんへ目を向けた。
This is a kettle.
他人から見たら、
ただの使い古されたやかん。
でも、
私には違った。
This is my kettle.
これは、
私のやかんだ。
傷も。
汚れも。
思い出も。
全部、
私の人生だった。
教科書も。
やかんも。
昔と同じなのに、
私には、
昔とは違って見えた。
「ああ、ごめん。」
教科書を閉じて、
孫へ返した。
孫は何も知らない。
この一冊が、
私の人生をもう一度歩かせてくれたことを。
教科書を受け取った孫が、
何気なく言う。
「そんなに英語って面白い?」
私は少し考えて笑う。
「英語じゃないの。」
「え?」
「人生の方が、面白かった。」
孫は首をかしげる。
「意味わからないけど……
とりあえず今日は終わり!」
「続きは明日。」
「ってことで、
See you tomorrow!」
そう言って笑いながら、
教科書をカバンへしまった。
私も、
つられて笑った。
キッチンでは、
白いやかんが、
静かに湯気を立て始めていた。
傷もある。
焦げた跡も残っている。
それでも、
私には、
世界で一番きれいなやかんに見えた。
「ピー。」
やかんのお湯が沸いた。
「はい、ばあちゃん。」
孫が、
湯飲みをそっと差し出した。
「ありがとう。」
一口飲む。
温かかった。