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他力の人になると和らぐ理由

    これまで2回にわたって、親鸞しんらんの思想である「悪人正機しょうき説」について語ってきました。今回は、なぜ「他力本願たりきほんがん」で心の平安を得られるのか、その理由を語りましょう。

    他力本願とは、「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」と念仏を唱えれば、厳しい修行をしなくても、阿弥陀如来あみだにょらいの慈悲の力によって救われるということです。

    では、なぜ他力本願によって心の平安を得られるのでしょう?
    それは、悟りを開ひらけることで、心の安らぎを得られるからです。

    普通、悟りは厳しい修行によって開かれるものです。
    なぜなら、煩悩ぼんのうをなくさないと悟りは開けないからです。そのために悟りを妨げる煩悩を断ち切る厳しい修行が必要になるわけです。

    ところが、他力本願ではむしろ逆です。煩悩を捨てられなくても真理に近づけると言うのです。

    どうして、そうなるのか?
    自力で煩悩を断ち切ることを諦め、阿弥陀如来にすがることで、真理が見えるようになるからです。

    阿弥陀如来が導くのは「空くうと縁起えんぎの世界」です。
    つまりこれが真理ということになります。

    「空と縁起の世界」では、自分でコントロールして物事を解決することは不可能です。
    なぜなら、世界のあらゆるものは自分の意志に関係なく変化し続け、様々なものが複雑にからみあい、影響しあうなかで成り立っているからです。
    そのような関係性のなかで成り立っている世界において、自分でコントロールして解決できるものなどほんのわずかです。

    自分の限界を知り、阿弥陀如来にすべてを委ねるということは、その真理を認めたことになります。

    したがって、自分をコントロールできない「あるがままの自分」を受け入れることは、「すべてのものは自分の思うようにはならない」という事実、要するに「この世は、なるようにしかならない世界なのだ」という真理に気づくことにつながります。
    それこそが「悟り」なのです。

    自分の力ではどうすることもできない困難がふりかかった時、人は「なるようにしかならない」と開き直ると、不思議に安らいだ気持ちになるものです。

    他力本願で心が安らぐ理由は、それと同じです。
    煩悩にまみれた自分を理性や努力で克服できず、何事も思い通りにならず、なるようにしかならない。
    それが真実だと思えば、できない自分をあまり責めなくなるし、「まぁ、仕方がないな」と穏やかに受け止めることができるようになります。

    それに対し、自分を誘惑に弱い凡人(悪人)と認めず、自分の力で何とかしてみせると意地を張ったら、どうなるでしょう。
    阿弥陀如来の慈悲を遠ざけることになり、つらい修行に苦しみ、いつまで経っても悟りを開けないと自己嫌悪に陥り、安らかに暮らせなくなってしまいます。

    もちろん、だからと言って欲望の赴おもむくままに生き、何の反省もしなければ、身を滅ぼしてしまいます。

    「人事を尽くして天命を待つ」ではありませんが、「より良き人間になれるよう、自分でできることは精一杯やるけれども、あとは阿弥陀如来さんにお任せする」という姿勢が大切だと思います。

    そしてその結果、思うようにいかなくても、「自分の力ではどうにならない世界なのだから仕方がないさ」と軽く流せるようになったら、心の平安は大きく乱されることはないでしょう。

    次回は、阿弥陀如来が善悪で救済を決めない理由を語りたいと思います。


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    「どうすれば、この星の全員が幸福になれるのか?」この答えを見つけるため、認知症の父の介護をしながら持続可能な新システムの開発を進めています。答えは既存の延長線上にはありません。未来は予測するものではなく、自分たちで創るもの。私と一緒に、新しい世界の扉を開いてみませんか。

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