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カルボナーラに黒胡椒がない時、それはカルボナーラなのか

    カルボナーラに、黒胡椒がない。

    それでも料理としては成立する。

    卵
    チーズ
    脂

    この構造だけでも、十分に美味しい。

    そこに香草を入れてもいい。
    ナンプラーや醤油を加えてもいい。
    別の香辛料でも、料理としては成立する。

    ではそれを、カルボナーラと呼ぶのか。

    ここで少し、立ち止まる必要がある。

    料理は、味だけでできているわけではない。

    その料理がどこから来たのか。
    どういう文脈で作られてきたのか。

    そういったものも含めて、料理は成立している。

    カルボナーラにおける黒胡椒は、
    単なる香りではない。

    炭のように見える黒。
    炭焼き職人に由来するという物語。

    それらが重なって、
    この料理の輪郭を形作っている。

    つまり黒胡椒は、
    味の要素であると同時に、
    意味の要素でもある。

    ここを外したとき、何が起きるのか。

    料理としては成立する。
    美味しいものもできる。

    しかしその瞬間、
    それは少しずつ、別の料理に近づいている。

    カルボナーラという名前は残っているが、
    中身は別の方向に動き始めている。

    これは、やってはいけないことなのか。
    そうではない。

    料理は本来、自由である。


    素材を変えてもいい。
    調味料を変えてもいい。
    新しい組み合わせを試してもいい。

    それによって、新しい料理は生まれてきた。

    問題はそこではない。

    その変化に、無自覚であることだ。

    黒胡椒を抜く。

    その時、
    自分はカルボナーラを作っているのか、
    それともカルボナーラから派生した別の料理を作っているのか。

    その認識があるかどうか。

    そこに大きな違いがある。

    カルボナーラは、
    濃厚さの中に方向を持たせる料理である。

    黒胡椒は、その方向を決める。

    もしそれを別の香りで置き換えるなら、
    料理の向きも変わる。

    ナンプラーを入れれば、
    一気に塩味の質が変わる

    醤油を入れれば、
    味は丸くまとまる

    香草を入れれば、
    口に入れた瞬間に香りが先に抜ける

    どれも間違いではない。

    ただし、それはもう
    同じ場所にはいない。

    カルボナーラという料理は、
    一つの構造であり、
    同時に一つの意味でもある。
    その意味を引き受けるのか。
    そこから離れるのか。


    選ぶことはできる。

    だが、どちらを選んでもいいということは、
    どちらでも同じではないということでもある。

    黒胡椒を抜くというのは、
    味を変えるだけの行為ではない。

    料理の意味を、少しだけずらす行為である。

    それを知った上で変えるのか。
    知らないまま変わってしまうのか。

    その違いこそ、料理の思想であり
    料理の深さとして現れる。



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    ふだんの食卓を、すこしだけ特別に。 台所に立つよろこび──料理研究家クキパパが綴る、日々の食と暮らし。家庭で再現しやすいレシピや、料理の背景にある物語、YouTube(登録者34万人)での撮影秘話など、料理人の隅から生まれる“おいしい発見”をエッセイにしてお届けします。

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