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『ぴーちゃんは海の匂いを知らない ——無人王国——』

    AIを使って、未来のAI社会を描く『無人王国』シリーズ第四弾です。

    これまでの静かな雰囲気ではなく、明るく軽い小説になるようにしました。
    おっさんばかりを主人公にしてきましたが、今回は女の子が主人公です。

    個人的にこのキャラクターは、とても気にいっています。

    あらすじ

    AIが社会の隅々まで行き渡った、そう遠くない未来。AIのない山あいの村で育った十七歳の直佳は、母の死をきっかけに、東京にいるはずの父に会うため、生まれて初めて村の外へ出る。相棒は、母の形見の古い携帯端末——起動したその中にいたのは、生真面目で規則ずくめのAI「ぴーちゃん」だった。

    電子決済も電車も知らない直佳と、想定外の主に振り回されるぴーちゃん。初めての海、うどんの機械の修理、海の上の長い橋、都会の人混み。まっすぐな直佳の旅は、寄り道だらけで進んでいく。やがてぴーちゃんは、規則よりも大切なもののために少しずつ変わり始め、語られなかった母の過去が、静かに浮かび上がる。

    一人と一台の、のんびりまっすぐな道中記。

    『ぴーちゃんは海の匂いを知らない ——無人王国——』

    第一章

     神河村を出て坂を二つ下ると、道は車一台分の幅になり、舗装の割れ目から草が伸びていた。直佳はリュックの肩紐を直して、また歩き出した。

     道沿いに、古い屋根のついたバス停があった。緑色のペンキが剥げかけたベンチがあり、時刻表の紙は黄ばんでいた。直佳はベンチに座って、リュックを足元に下ろした。

    「ふう」

     声に出してから、自分しか聞いていないと気づいて、少し笑った。独り言は元々多い。頭の中で考えるよりも口に出す方が、考えがまとまった。

     リュックの中から、母の引き出しで見つけた携帯端末を取り出した。布で包んできたから、埃はついていない。母が使っているところを、直佳は見たことがなかった。重さは思ったより軽かった。

     ボタンらしきものを長押ししてみると、画面に光が灯った。

    「あ、ついた」

     画面に四角い枠が並んでいて、そこに数字を入れろということらしかった。直佳はしばらく考えた。お母さんが使う数字。何だろう。

     自分の誕生日を入れてみた。

     画面が切り替わった。

    「あ、開いた」

     しかし開いたあとが、よくわからなかった。ぼんやりとした色の塊が、画面の中で形を変えている。動いているだけの絵にも、何かを待っている顔にも見える。直佳は試しに画面に触れた。色が少し動いた。違う場所を触れる。何も起きない。指で画面を撫でてみると、色が端まで流れて、また戻ってきた。

    「ねえ、これ何?」

     そう言ってから、自分が誰に聞いているんだろう、と思った。返事は来ないはずだった。

    「あなたは森下香苗さんではありませんね」

     声が聞こえた。直佳は思わず短く叫んで、端末を取り落としそうになり、両手で抱え直した。膝の上に乗せたまま、しばらく息を整える。声は端末から出ていた。

    「……うん。それはお母さんだよ」

     返事をしてから、なんで返事をしてるんだろう、と思った。でも他にどう返せばいいのかわからなかった。

    「……確認しました。あなたは森下直佳さんですね。これは森下香苗さんの端末です。娘さんであっても勝手に使うことは許されません」

     声には抑揚がほとんどなかった。男の声か女の声かもわからなかった。

    「でもお母さんは死んじゃったんだよ」

     言ってから、もう少し違う言い方があったかな、と思った。でも他に言いようもなかった。

     短い間があった。

    「……確認しました。残念です。……この端末の所有権は森下直佳さんに移ることになりますね」

    「そう。よかった」

     直佳はベンチの背にもたれて、端末を顔の前に持ち上げた。

    「で、あなたは誰?」

    「森下香苗さんが所有していた、パーソナルアシスタントです。一般にはPAと呼ばれます」

    「ぴーえー」

     直佳は復唱した。聞いたことのない言葉だった。

    「ふーん」

     他に聞きたいことがあるような気もしたが、すぐには思いつかなかった。直佳はベンチに座り直し、端末を膝の上に置いて、空を見上げた。雲が動いていた。少し風が出てきた。

     しばらく道の方を眺めていたが、バスらしきものは現れなかった。直佳は立ち上がって、バス停の屋根の下に貼られた時刻表に近づいた。紙は黄ばんでいたが、印字はぼんやり読めた。指で時間の欄を辿る。

    「次のバス、何時だろ」

    「調べてみます……このバス路線は廃止されています」

     直佳は時刻表から振り向いた。端末はベンチの上に置いたままだった。

    「えっ、廃止?」

    「はい。八年前です」

    「そうなんだ……」

     直佳は時刻表の方に目を戻した。

    「じゃあ、私、ここで待ってても無駄なの?」

    「無駄です」

    「教えてくれてありがと」

    「どういたしまして」

     直佳はベンチに戻って、端末を手に取った。リュックを背負い直して、道の方を見る。

    「どっちに行けばいいかなあ」

    「どこに向かってるんですか?」

    「東京」

    「……では左側です。四キロほど歩くとバス停があります」

     直佳は左の方を見た。道は緩く下りながら、林の中に消えている。

    「東京行きの?」

    「いえ、鉄道駅のあるところまで行けるバスです」

    「鉄道?」

    「はい。私のルート探索では、そこから徳島、高松、岡山と乗り継いで、岡山から新幹線とリニアで東京に向かうのが最も早いです」

    「へえ! 物知りだね」

     直佳は本当に感心していた。

    「でもなんで急いでるの? あなたも東京に用事があるの?」

    「私は急いでおりませんし、東京に用事もありません。直佳さんが早く着きたいのではないかと思っておりました」

    「別に私は急いでないよ。せっかくだしのんびり楽しく行きたいな」

    「そうですか。失礼いたしました」

     直佳は軽く笑って、左へ歩き出した。

     四キロは思ったほど遠い距離ではなかった。村の山道を毎日往復していた直佳の脚にとって、舗装の上を平らに歩くのは、むしろ楽だった。日差しはまだ高く、林の影と影の間に光の帯が差している。

     歩き出して少し経ってから、直佳は端末をリュックの脇のポケットに入れた。手で持っていると邪魔だったし、画面を見ていなくても声は届くはずだった。

    「あ、雀」

     道の脇の藪から小鳥が飛び立った。

     ポケットの中で、何かくぐもった音がした。

    「え? なに?」

     直佳は立ち止まった。くぐもった声がもう一度した。「すずめは……」と聞こえた気がしたが、続きはわからなかった。

    「聞こえないよ。もう一回」

    「ボリュームを上げました」

     今度ははっきり聞こえた。

    「すずめが飛び立つのを見て独り言を言われたので、雀の生態についての情報をお伝えしようとしました」

    「あ、独り言だから別に」

    「失礼しました」

     また歩き出した。

     しばらくして、視線を上げると、林の切れ目にピンクの花が見えた。

    「あ、あれ綺麗」

    「山桜の一種です。標高──」

    「あ、答えなくていいよ」

    「失礼しました」

     また歩く。沢の音が聞こえてきた。

    「水の音だ」

    「およそ二百メートル先に、小さな沢があります。橋がかかっているはずです」

    「うーん」

     直佳は立ち止まった。リュックの紐を持ち直しながら、端末の入っているポケットの方を見下ろした。

    「ねえ」

    「はい」

    「答えなくても、いいんだよ」

     短い沈黙があった。

    「お返事の要・不要の判断が、私には困難でございます。独り言とお呼びかけの境界が、はっきりしないことが多くあります」

    「うーん」

     直佳はしばらく考えた。

    「じゃあ、こうしよう。私が話しかけたい時は、名前を呼ぶことにする。名前を呼んだら、答えて。それ以外は、独り言だと思って気にしないで」

    「承知いたしました。ただし、危険の予測時や、重要と判断される情報があるときには、お呼びがなくても申し上げてもよろしいでしょうか」

    「うん、それはいいよ。困った時に勝手に教えてくれるなら、助かる」

    「では、そのように」

    「あと、もう一個」

    「はい」

    「名前ね、ぴーえーだと、なんか言いにくい。ぴーちゃんでいい?」

     少しの間の後、応えがあった。

    「……承知いたしました」

    「ぴーちゃん」

    「はい」

     直佳は少し笑った。

    「もう一点、申し上げてもよろしいでしょうか」

     今度はぴーちゃんから声がした。

    「ん? なに?」

    「現在の運用形態についてです。本来、私の通常の運用では、ユーザーにイヤーセットを着用していただくのが第一推奨です。耳に装着する小型の機器で、音声を直接伝えることができます」

    「あ、それは無理。耳に何か入れるの、私たぶん嫌い」

    「では第二推奨として、端末を取り出しやすい場所に置いていただきたいのですが。リュックのポケットでは、音声の取得・伝達の精度が落ちます」

    「うーん」

     直佳はしばらく考えた。腰のあたりで、邪魔にならず、すぐ取れる場所。

     立ち止まって、リュックを下ろし、中から布のポシェットを取り出した。母が使っていたものだった。共同体を出るとき、なんとなく入れてきていた。

    「これに入れる」

     ポシェットを肩から斜めにかけて、端末を中に入れた。蓋を閉めると、音が少しくぐもった。

    「ぴーちゃん、聞こえる?」

    「はい、聞こえます」

    「これでよし」

     また歩き出した。

     日が傾き始めた頃、道の先に、もう一つのバス停が見えてきた。今度のバス停は屋根の塗装が新しく、ベンチの脇に小さな表示板が立っていて、文字が光っていた。

    「ここ?」

    「はい。次のバスは、十七分後に来ます」

     直佳はベンチに座って、リュックを下ろした。光る表示板を眺める。何分後にバスが来る、と書いてあるらしかった。さっきのバス停にはなかったものだ。

    「ねえ、ぴーちゃん」

    「はい」

    「私、バス、ほとんど乗ったことないんだけど。お金とか、どうするの」

    「ご説明します。直佳さんには、ご自身の銀行口座があります」

    「私の?」

    「はい。お母様が、直佳さんの名前で作っておかれたものです」

     直佳は少し黙った。知らなかった。でも、お母さんなら、黙ってそういうことをしそうな気がした。

    「その口座を、この端末に登録すると、バスや電車の料金が、かざすだけで払えるようになります。登録してもよろしいですか」

    「うん。お願い」

    「登録しました」

     思ったより、何も起きなかった。端末の画面が一瞬光って、それで終わりだった。

     バスは、表示の通り、十七分後に来た。角を曲がって現れたバスには、運転席に誰も座っていなかった。直佳はドアの前で立ち止まった。

    「運転手さんがいない」

    「自動運転です。この地域のバスは、十数年前にすべて自動運転に切り替わりました」

    「ふうん」

     ドアが静かに開いた。直佳は一歩、中に入った。車内には、窓際に一人、年配の女性が座っているだけだった。女性は直佳をちらりと見て、また窓の外に目を戻した。

     乗り口の脇に、四角い読み取り機があった。

    「ぴーちゃん、これ?」

    「はい。端末をかざしてください」

     直佳はポシェットから端末を取り出して、読み取り機にかざした。軽い音がして、表示が緑色に変わった。

    「これだけ?」

    「これだけです。お支払いは完了しました」

    「便利だね」

    「はい」

     直佳は、年配の女性から少し離れた席に座った。バスが、音もなく動き出す。

     窓の外を、景色が流れていく。最初は見覚えのある林だった。村から山菜を採りに行くときに通った辺り。少し走って知らない景色になっても、林や畑や家並みは、村の周りとそれほど変わらなかった。けれど駅に近づくにつれて、家の数が増え、自動車が次々に走り、見たことのない看板が窓の外を流れ始めた。直佳は窓に額をつけて、それを見ていた。

     ここから先は、全部、初めての場所だ。そう思うと、少し怖くて、少し嬉しかった。

    「直佳さん、次で降ります」

    「え、もう?」

    「はい。次が駅です」

     バスが、駅前に止まった。

    「駅です」

     駅は村の集会所よりも一回り大きな建物だった。駅前には自動車がいくつも停まり、店の看板がいくつも光っていて、人が忙しそうに行き交っていた。村にはなかった種類の慌ただしさが、そこにはあった。直佳は端末をかざして、バスを降りた。

     降りた場所で、しばらく、辺りを見回していた。

     見回してから、駅舎の方に歩き出した。

     駅舎の扉はガラスだった。人が近づくと、音もなく開き、また閉まった。直佳はそれを見ながら、ゆっくり近づいた。

    「すみません」

     うしろから、女の人の声がした。直佳は振り向いた。

     大きなバッグを足元に置いた女の人が立っていた。コートを着ていて、髪はうしろで一つにまとめていた。年は直佳にはわからなかったが、若いというより、もう大人の女の人だった。

    「あの、ちょっとお聞きしてもいいですか」

     丁寧な声だった。

    「うん。なに?」

    「神河村というところに行きたいんですけど、行き方、ご存じありませんか」

    「神河村?」

     直佳は思わず聞き返した。

    「行くの?」

     女の人は少し笑った。

    「ええ。これから」

    「私、今、そこから来たとこ」

     言ってから、なんとなく嬉しくなった。自分がさっきまでいた場所に、これから行く人がいる。

    「あ、そうなんですか」

     女の人の声に、少し驚きが混じった。直佳の顔を、見直すような目で見た。

    「じゃあ、教えていただけると、すごく助かります」

    「うん、いいよ」

     直佳はリュックの肩紐を直して、少し考えた。来た道を、逆に辿ればいい。

    「えっと、まずバスに乗ります。ここの駅前から」

     ポシェットの蓋を少し開けた。

    「ぴーちゃん、神河村に戻るには、どうしたらいい?」

    「神河村方面へは、駅前ロータリーの三番乗り場から、北方面行きのバスにご乗車ください。下川辺バス停でお降りいただきます。十六番目の停留所で、所要時間は四十分ほどでございます。そこから──」

     ぴーちゃんの説明の音声は小さくなかったが、直佳はそれを繰り返して女の人に伝えた。

    「三番乗り場の、北方面行き。下川辺っていうバス停で降りるって。十六個目、四十分くらい。そこの近くに別の道があるから──」

     女の人は、バッグから手帳のようなものを取り出して、何かを書き込んだ。

    「歩いていくと、古いバス停が出てきます。屋根が緑のやつ。それは廃止されてるんだけど──」

     直佳は少し考えた。説明の仕方を考える。

    「──そのバス停のところで、山のほうに登っていく脇道があるんです。そっちに入って、上っていくと、家が見えてきます。それが神河村」

    「脇道」

     女の人は手帳に書き込みながら、確かめるように繰り返した。

    「うん。バス停を曲がる感じ」

    「曲がる感じ……」

     女の人は頷いた。

    「ありがとうございます」

     手帳を閉じて、もう一度頭を下げた。バッグの取っ手を握り直した。けれど、まだ歩き出さなかった。駅前ロータリーの方を、ちらりと見て、それからもう一度、直佳の方に向き直った。

    「あの、ちょっと……失礼ですけど」

    「うん」

     女の人は、直佳のポシェットの方に、目を向けた。

    「神河村って、AIを使わない場所だと、聞いていたんですけど」

    「うん。使わないよ。みんな持ってない」

    「ええと、でも……」

     女の人の目が、もう一度、ポシェットに行った。直佳はその目を追って、自分のポシェットを見下ろした。

    「あ、これ」

     ぴーちゃんが入っていた。直佳は少し笑った。

    「これ、お母さんの。死んじゃってから、引き出しから見つけたの。今日、初めて使ってる」

    「お母さんの……」

    「うん。村に来る前から、持ってたみたい。使ってるとこは、見たことなかったけど」

    「そう……だったんですね」

     女の人は、少しの間、黙った。

    「教えてくださって、ありがとうございます」

     その声が、少しやわらかくなった気がした。

    「ううん」

     女の人はバッグの取っ手を、もう一度握り直した。けれど、まだ歩き出さなかった。直佳のほうを、もう少し見ていた。

    「あの、もう一つだけ、いいですか」

    「うん」

    「神河村って、どんなところですか」

     直佳はしばらく考えた。質問の意味はわかった。でも、どう答えたらいいのか、すぐには言葉が出てこなかった。「私が育ったところ」と言うのは、たぶん、その人が聞きたかったことじゃない。

    「うーん」

     もう一度考えた。

    「……いいところだよ」

     それしか言えなかった。少し悔しかった。もっとちゃんと、何かが言えればよかった。

     でも、女の人は、なぜかふっと笑った。

    「ありがとう」

     目元が、少しほっとしたみたいに見えた。

    「いってらっしゃい」

     言ってから、なんでこんなこと言ったんだろう、と直佳は思った。村の人を送り出すときに言う言葉だった。でも、女の人は嬉しそうな顔をしたから、たぶん間違いではなかった。

    「行ってきます」

     女の人はバッグを持ち上げて、駅前ロータリーの方へ歩いていった。直佳はその背中を、しばらく見ていた。

     日は、まだ高かった。

     直佳は、駅舎の中に入った。

     中は思ったより、こぢんまりとしていた。天井はそれほど高くない。光る案内板がいくつか壁に並んでいて、文字や絵が変わり続けている。人は、それなりにいた。みんなどこかへ向かって歩いている。

     直佳は入口のすぐ内側で、しばらく立っていた。どこに進めばいいのか、わからない。ポシェットの蓋を少し開けた。

    「ぴーちゃん」

    「はい」

    「どっちに行けばいい?」

    「電車に乗るための改札がございます。けれど、その前に、お訊きしたいことがあります」

    「ん?」

    「直佳さんが東京に向かう経路には、選び方が二つございます。地名を申し上げてもおわかりにならないかもしれませんので、別のかたちでお伝えします」

    「うん」

    「一つは、山を越えていく経路です」

    「うん」

    「もう一つは、いったん海のほうに出てから、北へ向かう経路です。海の見える街を通ります」

    「海!」

     直佳は思わず声に出した。

    「海、見たい! ね、海に行きたい」

    「見たことがありませんか」

    「ない。本でしか、見たことない」

    「では、海のほうに出る経路にいたします。途中の街で電車を降りて、海岸までご案内します」

    「うん。お願い」

    「では、改札へお進みください。あちら側の、緑色の機械でございます」

     直佳は端末をポシェットに戻して、ぴーちゃんが言った方向を見た。緑色の機械が、二台ほど並んでいる。人がそこに、何かをかざしながら、通り抜けていく。直佳もそちらに歩いた。

     近づいて、機械の前に立った。腰くらいの高さの、二本の柱が向かい合っている。前の人が、手元の何かをかざすと、軽い音がして、間にあった仕切りが開いた。

    「これにかざすの?」

    「はい。バスのときと同じです」

     直佳は端末を取り出して、機械の上の四角いところにかざした。軽い音がして、仕切りが開いた。

    「通った」

     直佳は前に進んだ。仕切りはまた閉まった。なんとなく嬉しかった。

     通り抜けた先は、もう、ホームだった。

    「ここ?」

    「はい。こちらのホームでございます。次の電車は、八分後でございます」

     ホームには、屋根がついていた。線路は反対側にも一本あって、向こう側にも別のホームが見える。さらに線路をいくつか挟んだ向こうに、もう一つ、屋根が見えた。人は、ぽつぽつと、ホームに立っていた。誰もが、手元か、目の前の空中を、見ている。誰も、隣の人を見ていない。

     直佳はベンチを見つけて、リュックを下ろした。座って、リュックを抱きかかえる。空気が、なんだか冷たかった。

     ベンチの背にもたれて、ホームを見回した。隣のベンチには、年配の男の人が座っていた。膝の上に、紙の本らしいものを広げている。村にも、紙の本を読む人はいた。

     男の人は、ふと、直佳のほうに目を上げた。視線が合った。直佳は、なんとなく頭を下げた。男の人は、少し笑って、頷き返してくれた。

    「どちらまで」

     ぽつりと、聞いてきた。

    「東京まで」

    「そりゃ遠い」

     男の人は感心するように頷いた。

    「気をつけて」

    「はい。ありがとうございます」

     男の人はまた本に目を戻した。直佳もベンチに座り直した。なんでもないやり取りだったのに、なんとなく、ほっとした。

     電車が、ホームの向こうから滑り込んできた。音が思ったより静かだった。ドアが開く。直佳は、リュックを背負って、立ち上がった。

    「乗ります」

    「はい」

     車内に入った。座席はぼんやりした青色で、半分くらいの席が埋まっていた。直佳は、窓際の空席に座った。ドアが閉まる。

     電車が、滑るように動き出した。

     窓の外を、景色が早く流れていく。バスとは比べものにならない早さだった。家並みがすぐに田畑になり、田畑の向こうに山が見えた。山は遠ざかっていくのではなく、また近づき、また離れる。線路は川の近くを通っているらしく、ときどき大きな水の光が見えた。

    「ぴーちゃん」

    「はい」

    「これ、川?」

    「吉野川という、大きな川でございます」

    「川なんだ」

    「はい」

    「川って、こんなに大きいんだね」

     直佳は窓に頬をつけたまま、しばらくそれを見ていた。村にも沢はあったが、こんなに広い水は、初めて見るものだった。

    「海も、こういう感じ?」

    「海は、もっと、遥かに広うございます」

    「もっと?」

    「向こう岸が見えないほど、広うございます」

    「向こう岸が見えない……」

     直佳は想像してみようとした。うまく想像できなかった。

     車内を、ぼんやり見回した。前のほうの席に、二十歳くらいの男の人が座っていた。耳に何かをつけて、目の前の何もない空中に手を伸ばしては、指で何かをつまんで動かす仕草を繰り返している。何かを見ているらしかったが、直佳には何も見えなかった。

     その後ろの席には、女の人が一人、目を閉じて座っていた。膝の上で、手を組んでいる。眠っているようでもあり、何かを考えているようでもあった。

     誰も、互いに話していなかった。

     窓の外で、家の数が、徐々に増え始めた。田畑の間隔が狭くなり、看板が増え、自動車も増えた。やがて田畑が、まるごと家と道に置き換わった。直佳は、窓に額をつけて、それを見ていた。

     車内に、低いアナウンスが流れた。次の到着駅を徳島と告げた。

    「直佳さん、次で降ります」

    「うん」

     電車が減速していった。窓の外に、別のホームが流れて、別の電車が見えた。その向こうにもまた、別のホームと別の電車。そのまた向こうにも。さっきの駅とは、ホームの数も、電車の数も、比べものにならなかった。

     電車は、その中の一つに、ゆっくり止まった。ドアが開いた。降りる人が、たくさんいた。直佳は流れに混ざって、ホームに出た。

     ホーム自体が広く、向こうの端が遠かった。みんなが歩いていく方向に、直佳もついていった。

     改札を出た。

     そこは、駅とは思えない場所だった。

     光のついた店が、いくつも並んでいる。大きな窓の中に、服や食べ物や、見たことのないものが、整然と並んでいる。人の数も、さっきの駅の何倍もいた。音楽がどこかから流れていて、別の方向からは、誰かの声で、何かを案内する音も聞こえてくる。空気のにおいも、外とは違った。あまい、ような、においだった。

     直佳は、人の流れの脇に寄って、立ち止まった。

    「すごい……」

    「ぴーちゃん」

    「はい」

    「ここって、何?」

    「駅の中に、商店街のように、お店が並んでおります」

    「駅の中に?」

    「はい」

    「変なの」

     直佳は素直に思ったことを言った。

    「変なところでございますか」

    「うん。変。でも、すごい」

    「ご案内をいたしましょうか」

    「あ、海。海、行く」

    「はい。海岸までは、ここからバスで参ります。一番近い出口は、こちらでございます」

     ぴーちゃんが言った方向を見た。けれど、直佳の目は、すぐには動かなかった。光る店の窓に並んだものを、もうしばらく、見ていた。

     見終わって、直佳はリュックを背負い直した。ぴーちゃんが言った方向へ、歩き出す。

     光る店の間を抜けていくと、外に出る大きな扉が見えてきた。扉が開くたびに、車の音と、別のにおいが流れ込んでくる。

     扉を抜けた。

     駅の外も、駅の中とは違う種類の人だらけだった。バスが何台も停まっていて、番号のついた乗り場が、半円のように並んでいる。

    「ぴーちゃん」

    「はい」

    「バス、どれ?」

    「左から数えて、四番目の乗り場でございます。乗り場の上に、四番と書かれた表示がございます」

     直佳は表示板を見上げた。「4」と書かれた板が、確かに、四番目の乗り場の上に立っていた。

     バスがやって来た。今度のバスは、緑色で、村のあたりで乗ったバスより、少し大きい。

     ドアが開いて、降りてくる人がいた。それから、待っていた人が次々に乗り込んでいく。直佳も並びの後ろについて、端末を読み取り機にかざした。軽い音がして、緑色に変わった。

     車内には、座っている人もいれば、立っている人もいた。直佳は奥のほうの窓際に空席を見つけて、座った。

     バスが動き出した。

     最初は、駅のまわりの大きな建物の間を抜けた。窓がたくさん並んだ高い建物が、両側に立っている。直佳は首を傾けて上のほうを見ようとしたが、座席からだと、てっぺんまでは見えなかった。

     しばらく走ると、建物が少しずつ低くなった。住宅街のようなところを通り、川を渡り、また家並みを通る。

     直佳の隣の席に、買い物袋を持ったおばさんが、いつの間にか座っていた。袋から、葱の青いところが、はみ出している。村の畑にもあった葱だった。直佳は思わず、にっこり笑ってしまった。

     おばさんと目が合った。おばさんも、少しだけ、笑い返してくれた。

     それだけだった。だけど少し嬉しかった。

     建物がまた、少なくなった。低い屋根の家が並ぶ。空が、広く見えた。

     風の匂いに、何かが混じり始めた。直佳は、それが何かわからなかった。重くて、湿った、何かの食べ物を思い出すような、鼻の奥がむずむずするような、そういう匂い。

    「ぴーちゃん」

    「はい」

    「変な匂いがする」

    「おそらく海の匂いでございます」

    「これが?」

    「はい。私には匂いがわかりませんが、現在の位置から海の匂いだと推測されます」

     直佳は窓に顔を近づけた。海が見えないかと探したが、それらしきものは見つけられなかった。

    「次でお降りいただきます」

     直佳はリュックを抱えて、座り直した。バスが減速して、停まる。

     ドアが開いた。直佳は端末をかざして、バスを降りた。

     地面に立った。

     風が、強かった。

     直佳は周りを見回した。バス停の向こうに、低い土手のようなものがあった。土手の上に、何人かの人が、立ったり、歩いたりしている。

    「ぴーちゃん、海は?」

    「あの土手の向こうでございます」

     直佳はそちらに走った。リュックを背負っていることも、ポシェットに手を入れていることも、忘れて走った。

     土手は、低い階段のようになっていて、上れるようになっていた。直佳は階段を上った。

     上り切ったところで、立ち止まった。

     目の前に、海があった。

     水だった。広い水だった。遠くに向かって、ずっと続いていた。水の終わりがそのまま空に繋がっていた。これが、向こう岸が見えない、ということなんだろう、と直佳は思った。

     水の表面は、一定でない動きで、寄せたり、引いたり、光ったり、沈んだり、ずっと動いていた。

     直佳は、息をするのを忘れていたことに、気がついた。

     風が、強かった。髪が、顔の前を流れる。直佳は、それを手で押さえた。

     ずっと、立っていた。

     でも、立っているだけでは、足りなかった。

     直佳は、海のほうを見下ろした。土手の向こう側は、砂の斜面になっていて、その先には広い砂が、海まで続いていた。

     直佳は、斜面を下りた。

     砂は、靴の下で沈んだ。村の土とは違う感触だった。砕けた何かの粒のような、軽くて、ざらざらした、踏むと少し鳴る砂だった。

     歩きながら、途中でリュックを下ろし、しゃがんで、靴を脱いだ。靴下も脱いだ。足の裏で、砂を感じた。冷たくて、ところどころに、小さな粒が当たる。

     砂は、海に近づくにつれて、色が変わっていった。乾いた白っぽい色から、湿った濃い茶色へ。水が引いていった跡らしかった。

     水の音が、近づいてくる。絶え間なく、けれど一定でない音だった。寄せて、引いて、また寄せる。

     直佳は、水の手前で立ち止まった。寄せてくる水が、砂の上を、白い泡をつけて滑ってくる。あと少しで足に届きそうなところで、水は止まって、戻っていった。

     もう一度、寄せてきた。今度は、直佳の足の先に届いた。

     冷たい、と思った。

     でも、思っていたほど、冷たくはなかった。山の沢のほうが、もっと冷たかった。

     直佳は、もう一歩、水のほうに進んだ。水が、踝のあたりまで届いて、また引いた。引くときに、足の下の砂が、一緒に持っていかれるような感覚があった。直佳は、思わず、声を出して笑った。

     しばらく、寄せて引く水を、足で受けていた。

     ふと思いついて、しゃがんで、手で水を掬った。手のひらの上で、水が、揺れていた。透明だった。

     直佳は、その水を、舌の先につけた。

     しょっぱかった。

    「ぴーちゃん」

    「はい」

    「海の水って、しょっぱいんだね」

    「はい」

    「本に書いてあった。でも、ほんとに、しょっぱい」

    「はい」

     直佳は、もう一度、手で水を掬って、舐めた。今度は、知っている味として、しょっぱかった。

     水と遊んでいるうちに、日が傾いてきた。気がつけば、砂の上の直佳の影が、ずいぶん長くなっていた。

     海の色も最初の頃とは変わってきていた。昼の光を浴びて青かった水の色が、暗い色に変わってきている。波が夕日を受けてオレンジ色に光る。

    「すごいねえ」

     誰にともなく言った。浜にいた人たちは、いつの間にか減っていた。遠くを、犬を連れた人が歩いている。

     直佳は濡れた足のまま、砂の上にしゃがんで、海を見ていた。寄せて、引いて、また寄せる。いくら見ていても、同じ形は二度と来なかった。

    「お父さん、海の近くに住んでるといいなあ」

     言ってから、少し笑った。住んでいなくても、別にいい。でも、住んでいたら、いいなと思った。

    「直佳さん」

     ポシェットの中から、声がした。

    「ん?」

    「日没まで、およそ三十分でございます。本日お泊まりになる場所を、決める必要があります」

    「泊まる場所」

     直佳は海を見たまま、繰り返した。そうか、泊まるのか。言われてみれば、夜になったら、寝る場所が要る。村を出るとき、そのことをまったく考えていなかった。考えてなかったなあ、と直佳は、他人事のように思った。

    「ぴーちゃんは、どこがいいと思う?」

    「ここから歩いて十五分ほどのところに、宿泊施設がございます。本日の空きがあり、直佳さんの口座の残高で、問題なくお泊まりいただけます」

    「じゃあ、そこにする」

    「承知いたしました。予約をいたします。……完了しました」

    「もう?」

    「はい」

    「早いね」

    「はい」

     直佳は立ち上がって、お尻についた砂を払った。それから、脱いだままにしていた靴と靴下を取りに戻った。足の裏の砂は、払っても払っても、少し残った。その少し残るのが、なんだか嬉しかった。

     土手の階段を上る前に、もう一度だけ、振り返った。

     海は、まだそこにあった。当たり前のことなのに、そのことが、なんだかすごいことのように思えた。

     宿までの道は、海沿いから一本入った、静かな通りだった。歩いているうちに空の橙色は薄くなり、あるところで、通りの街灯がいっせいに点いた。誰かが空の暗さを測っていて、今だ、と決めたような点き方だった。村の街灯より、ずっと明るくて、白い光だった。

    「直佳さん。夕食は、どうなさいますか」

    「あ、そうだ。おなかすいた」

     朝、村を出るときに持ってきたおにぎりは、昼のうちに食べてしまっていた。

    「この先に、無人の売店がございます。食べ物を買うことができます」

    「無人の売店?」

    「はい。店員のいないお店です」

    「誰がお金、受け取るの?」

    「端末をかざしていただければ、自動で支払われます。バスと同じです」

    「ふうん」

     少し歩くと、白く光る四角い建物があった。ガラスの向こうに棚がいくつも並んでいて、その全部に、色とりどりの箱や袋が詰まっていた。

     入口の扉は、近づくと勝手に開いた。中は明るくて、少し寒いくらいだった。本当に、誰もいなかった。

    「すごい。これ、全部食べ物?」

    「およそ七割が食べ物と飲み物です。残りは日用品です」

     直佳は棚のあいだをゆっくり歩いた。知っているものもあった。米。パン。卵。知らないもののほうが多かった。派手な袋に入った、何だかわからないもの。写真がついているのに、味の想像がつかないもの。

     結局、おにぎりを二つと、お茶と、それから、袋に大きな苺の写真がついた甘そうなパンを一つ選んだ。苺は村でも作っていたから、味の見当がつく。見当のつくものと、つかないもの、半分ずつにしようかとも思ったが、今日はやめておいた。

    「これで、いいの?」

     出口の機械の前で、直佳は籠を持ったまま聞いた。

    「籠を台に置いて、端末をかざしてください」

     かざすと、軽い音がして、扉が開いた。誰にも何も言われないまま、買い物が終わった。

    「……なんか、変なの」

    「変なところでございますか」

    「うん。買ったのに、誰にもありがとうって言ってない」

    「機械に言っていただいても、差し支えはありません」

    「機械に言っても、しょうがなくない?」

    「はい。しょうがないと思います」

     直佳は笑ってしまった。

     宿は、四角い三階建ての建物だった。入口に、小さく光る看板が出ている。扉は、また、勝手に開いた。

     中に入ると狭いロビーがあって、正面に機械が一台立っていた。人はいなかった。

    「ぴーちゃん、誰もいないよ」

    「はい。この宿は無人で運営されています。あの機械に端末をかざすと、お部屋の番号が表示されます」

    「無人……」

     直佳は言われた通りにした。画面に「203」と表示されて、機械の脇から薄いカードが出てきた。

    「そのカードが、お部屋の鍵でございます」

     階段を上って、203の扉の前に立った。カードを近づけると、鍵の開く音がした。

     部屋は、狭いけれど、きれいだった。寝台がひとつ。小さな机と椅子。奥に、風呂と手洗い。全部が、そろっていた。誰も案内してくれなかったのに、全部が、そろっていた。

     直佳はリュックを下ろして、寝台に腰かけた。それから、部屋の中を、もう一度見回した。

    「……静かだね」

    「はい」

    「この建物、ほかに人、いる?」

    「本日の宿泊者は、直佳さんを含めて三名です」

    「三人。どこにいるんだろ」

    「それぞれのお部屋にいらっしゃると思われます」

    「会わないんだ、誰とも」

    「はい。人と会わずに泊まれることが、この形式の宿の利点とされています」

    「ふうん」

     直佳は少し考えてから、言った。

    「村だと、泊まるのは、誰かの家だったよ」

    「はい」

    「利点、かなあ」

    「利点と感じる方が多い、ということだと思われます」

    「ふうん」

     それ以上は、うまく考えがまとまらなかったので、やめた。

     風呂は、トイレと同じ空間だった。お湯を張って湯船に浸かると、足の裏に、まだ砂がひと粒、残っていた。

     湯から上がって、おにぎりを食べた。売店のおにぎりは、家のおにぎりより、形がきっちりしていた。味は、悪くなかった。苺のパンは、思っていたよりずっと甘くて、半分でやめた。残りは、明日の楽しみにする。

     寝台に寝転がると、天井の照明が、ひとりでに、ちょうどいい暗さに変わった。

    「わ。今、暗くなった」

    「お休みの時間に合わせて、照明が自動で調整されます」

    「へえ。よくできてるね」

    「はい」

     直佳は、ポシェットから端末を出して、枕の横に置いた。

    「ねえ、ぴーちゃん」

    「はい」

    「明日は、どうやって行くんだっけ」

    「明日は、電車で高松の方面へ向かいます。その先で、海の上の大きな橋を渡って、本州に入ります」

    「海の上の橋!」

    「はい。長い橋です。電車の窓から、海が見えます」

    「楽しみだね」

    「はい」

     少しのあいだ、黙った。天井を見ていた。今日一日のことが、順番ではなく、ばらばらに浮かんでは消えた。緑の屋根のバス停。駅の女の人。葱のおばさん。海。

    「ぴーちゃん」

    「はい」

    「東京に着いたらね、お父さんに会うの」

    「はい」

    「顔は知ってるんだ。写真があったから。名前も知ってる。あと、働いてる会社の名前。知ってるのは、それだけ」

     ぴーちゃんは、すぐには何も言わなかった。

    「……その会社の場所を、お調べしておきましょうか」

    「んー、まだいい。着いてからで」

    「承知いたしました」

    「お母さんが死んだこと、教えてあげないといけないし。それから、どんな人か、ちょっと見てみたい。いい人で、暮らしが合いそうだったら、一緒に住んでもいいし。合わなかったら、それでいいし」

    「はい」

    「ぴーちゃんは、お父さんのこと、何か知ってる?」

     短い沈黙があった。

    「……香苗さんの個人情報に関わることは、お答えできない規則になっております」

    「死んじゃってても?」

    「……規則の上では、そのようになっております」

    「ふうん」

     直佳は天井を見たまま、少し考えた。それから、なんとなく納得した。

    「真面目だねえ、ぴーちゃんは」

    「恐れ入ります」

     直佳は笑った。

    「じゃあ、お母さんがぴーちゃんを使ってたかどうかも、言えないの?」

    「……ほとんど、お使いになりませんでした。それは私自身の記録ですので、申し上げられます」

    「ふうん。なんでだろうね」

    「わかりません」

    「ぴーちゃんにも、わかんないことあるんだ」

    「たくさんございます」

     直佳は、また笑った。笑ってから、大きなあくびが出た。

    「寝る」

    「はい。おやすみなさいませ、直佳さん」

    「おやすみ、ぴーちゃん」

     照明が、すっと落ちた。

     暗くなった天井の下で、直佳は目を閉じた。波の音が、まだ耳の奥に残っていた。寄せて、引いて、また寄せる音。それを聞いているうちに、眠りに落ちた。

    第二章

     朝、目が覚めると、部屋の照明が、またひとりでに明るくなっていた。

     カーテンを開けると、屋根と屋根のあいだに、海が細く見えた。昨日の海だ。直佳はしばらく、窓に額をつけてそれを見た。今日の海は、昨日より白く光っていた。

    「おはよう、ぴーちゃん」

    「おはようございます、直佳さん」

    「今日も晴れだね」

    「はい。本日は一日、晴れの予報でございます」

     朝ごはんは、昨日の残りの苺のパンにした。甘さは、今日もちゃんと甘かった。

     ロビーの機械にカードを返して、外に出た。入ってから出るまで、結局、誰にも会わなかった。

    「ぴーちゃん、次は高松だっけ」

    「はい。駅から電車で、一時間と少しでございます」

    「一時間かあ」

     村から一番近い町まで歩くのと、同じくらいの時間で、次の県に着いてしまうらしかった。

     高松行きの電車は、空いていた。海の見える側の席が空いていたので、直佳は迷わずそこに座った。

     電車が走り出してしばらくすると、窓の外に、また海が現れた。線路は海の近くを通ったり、離れたりした。海が見えるたびに、直佳は窓に顔を寄せた。

     海を見ているうちに、口から、鼻歌が出ていた。

     しばらくして、自分で気がついた。

    「……あれ。私、歌ってた」

    「はい。歌っておられました」

    「お母さんの歌なんだ、これ。畑とか、台所で、よく歌ってたの。気がつくと、私にも、うつってる」

    「なんという歌でございますか」

    「知らない。題名、聞いたことないもん。……ぴーちゃんは、知ってる?」

    「……香苗さんに関わることは、お答えできない規則になっております」

    「え、歌も?」

    「……はい」

    「ふうん。……じゃあ、やっぱり、お母さんの歌なんだ」

     規則が、答えみたいなものだった。直佳は、少しおかしくなって、続きを歌った。歌詞は、あるのかないのか、出てこなかった。ふん、ふん、という音だけの歌だった。

     ふと気づくと、通路を挟んだ向かいの席に、直佳と同じくらいの年頃の人が座っていた。膝の上に板のようなものを置いて、その上の紙に、何かを描いている。鉛筆を持った手が、素早く動いては、止まり、また動いた。

     直佳は、しばらくその手を見ていた。見ているうちに、我慢できなくなった。

    「ねえ、それ、絵?」

     その人は顔を上げた。少し驚いた顔をしてから、笑った。

    「うん。海」

     紙を、少しだけこちらに向けてくれた。鉛筆の線だけで、海が描いてあった。線しかないのに、水が動いて見えた。

    「すごい! 動いてるみたい」

    「ほんと? ありがとう」

    「海って、いつも描いてるの?」

    「うん。ほぼ毎日」

    「毎日? 同じ海を?」

    「同じじゃないよ」

     その人は、窓の外に目をやった。

    「毎日違うから、毎日描いてる。……描いても描いても、終わらなくて」

     困っているような言い方だったが、顔は、ぜんぜん困っていなかった。

    「……わかる」

     直佳は、昨日の浜辺を思い出しながら言った。

    「私、昨日、初めて海を見たんだけど。ずっと見てたのに、一回も、同じ形が来なかった」

    「初めて? 海」

    「うん。初めて」

     その人は、直佳の顔をまじまじと見た。それから、なんだか羨ましそうに笑った。

    「いいなあ、初めての海」

    「いいでしょう」

     少しのあいだ、海の話をした。その人は、次の駅で降りていった。降り際に、「よい旅を」と言った。板の上の海は、まだ描きかけだった。

     高松の駅は、徳島の駅と、似ているようで少し違った。天井が高くて、白かった。人の流れの向きが、いくつもあった。駅を出ると、風に、また海の匂いが混じっていた。

    「ぴーちゃん、海、近い?」

    「はい。港がすぐそこでございます。……直佳さん、本日のご予定ですが、今から橋を渡れば、夕方には岡山に着きます」

    「うーん」

     直佳は、匂いのする方を見た。

    「港、見てから決めていい?」

    「もちろんでございます」

     港には、大きな船と小さな船が停まっていた。海は、昨日の浜辺の海とは、違う顔をしていた。囲われていて、静かで、水面のところどころに、油のような虹色が浮いていた。それはそれで、きれいだった。

     港の近くから、屋根のついた長い道が伸びていた。道の両側に、店が並んでいる。

    「ぴーちゃん、道に屋根がある」

    「商店街でございます。雨に濡れずに、買い物ができます」

    「へえ。考えたね」

     昼が近くなって、おなかがすいてきた。

    「ぴーちゃん。この辺、なんかおいしいもの、ある?」

    「高松は、うどんが有名でございます」

    「うどん! うどんなら、村でも打つよ」

    「こちらのうどんは、また少し違うかもしれません」

    「違うの? うどんなのに?」

    「はい。うどんなのに、でございます」

     直佳は笑って、商店街を歩き出した。

     うどん屋は、すぐに見つかった。正確には、うどん屋の前の道に広げられたものが、先に見つかった。

     道の端に青い布が敷いてあって、その上に、機械の部品が並んでいた。銀色の輪。大きさの違うねじ。油で黒く光る、四角い箱。部品と部品のあいだに、しゃがんだ男の人の背中があった。灰色の作業着で、髪に白いものが混じっていた。

     直佳は、足を止めた。

     村で、よく見た眺めだった。耕運機が壊れたとき。水のポンプが止まったとき。誰かの家の前の地面に、こうやって部品が並んだ。子供の直佳はそういうとき、いつも近くにしゃがみこんで、飽きるまで見ていた。部品には、触ってはいけない。並び方に意味があるからだ。それは、村の子供ならみんな知っていた。

     気がつくと、しゃがんでいた。布から少し離れたところで、膝を抱えて、男の人の手元を見ていた。

     男の人が、手を止めずに言った。

    「……見せもんじゃねえぞ」

    「うん。ごめんなさい」

     直佳は謝った。謝ったが、立ち上がらなかった。男の人は、ちらりとこちらを見て、それから、また手元に戻った。

     しばらく、そのまま時間が過ぎた。男の人は、四角い箱を開けて、中から歯車のようなものを取り出しては、布の上に、間隔をあけて置いていった。置く場所を、一度も迷わなかった。

    「お客さんかい」

     店の中から、おばあさんが出てきた。腰の曲がった、小さいおばあさんだった。盆に、湯呑みを二つ載せている。一つを男の人の脇に置き、もう一つを、少し迷ってから、直佳の前に置いてくれた。

    「あ、ありがとうございます」

    「旅の人?」

    「うん。東京まで行くの」

    「まあまあ、遠くまで」

     おばあさんは、直佳の隣に、ゆっくりしゃがんだ。

    「ごめんねえ、今日、うどん出せないのよ。機械がこれだから」

    「これ、うどんの機械なの?」

    「そう。麺を打つ機械。もう五十年、働いてくれてるんだけどねえ。とうとう止まっちゃって」

    「五十年!」

    「作った会社も、もうないの。直せる人も、この辺にはいなくてね。この人に、わざわざ遠くから来てもらったの」

     男の人は、何も言わずに、ねじを外していた。

    「この機械が動かないと、うちのうどんは打てないから」

    「新しい機械にはしないの?」

     直佳が聞くと、男の人の手が、一瞬だけ止まった。おばあさんは、ほほほ、と笑った。

    「新しいのはね、上手すぎるのよ」

    「上手すぎる?」

    「うちのは、この機械の癖が、味なの」

     直佳には、わかるような、わからないような話だった。でも、村の味噌が、樽ごとに違う味になるのと、たぶん同じことだろう、と思った。

     男の人が、部品を一つ、布の端に置いた。それから、脇の道具箱をがさがさと探って、小さく舌打ちをした。布の上と道具箱を、何度か見比べる。両手は、油で真っ黒だった。

     直佳は、立ち上がって、近づいた。

    「ねえ、おじさん。私、手伝おうか」

    「あ?」

    「部品を洗うのとか、押さえてるのとか、できるよ。村で、よくやってたから」

     男の人は、初めて、直佳の顔をちゃんと見た。それから、直佳の手を見た。

    「……いじるなよ、順番」

    「うん。順番、崩さない」

    「……そこの缶。灯油だ。外した奴から洗え。置いた通りの順で並べろ」

    「わかった」

     直佳はリュックを下ろし、ポシェットを外して、おばあさんに預けた。それから、布の隅の缶の前に座って、部品を一つ、手に取った。古い油は、冷たくて重かった。灯油に浸して刷毛でこすると、黒い油が溶けて、下から鈍い銀色が出てきた。

    「ぴーちゃん」

     直佳は、おばあさんの膝の上のポシェットに向かって言った。

    「はい」

    「今日、橋を渡るの、やめるかも」

    「はい。この作業に加わりますと、本日中に橋を渡ることは難しくなります」

    「うん。いいよ。急いでないもん」

    「承知いたしました」

     男の人が、ポシェットの方を、ちらりと見た。

    「……アシ連れか」

    「アシ? ……ああ、ぴーちゃんのこと? これはお母さんの──」

    「聞いてねえ」

     男の人は、もう機械の方を向いていた。直佳は、おばあさんと顔を見合わせた。おばあさんは、ほほほ、と笑った。

     それから長いあいだ、三人とも、あまり喋らなかった。

     男の人が部品を外す。直佳が洗って、順番どおりに並べる。おばあさんが、ときどきお茶を換えてくれる。商店街の屋根の下を、人がまばらに通って、たまに立ち止まって眺めては、また歩いていった。

     直佳は、黙々と洗った。手は、すぐに真っ黒になった。灯油の匂いは、村の冬の匂いだった。部品は、洗うたびに、別の顔になった。ただの黒い塊だったものに、細かい歯や、彫られた線や、小さな文字が現れた。五十年、粉まみれで働いてきた機械の中身は、思ったよりずっと、きれいな形をしていた。

    「……手ぇ、慣れてんな」

     男の人が、手元を見たまま言った。

    「村で、ポンプとか耕運機とか、直すの見てたから。洗うのは、子供の仕事だった」

    「村ぁ?」

    「神河村。山の上の」

     男の人は、それには何も言わなかった。ただ、直佳が洗って戻す部品の置き場所を、最初のうちは横目でいちいち確かめていたのに、いつからか、確かめなくなった。

     組み上げが終わったのは、日が傾いてからだった。

     男の人が機械の脇の取っ手を回すと、機械は、ごとん、と一度大きく鳴って、それから、ごろごろと低い音を立てて回り始めた。

    「あらまあ」

     おばあさんが、両手を合わせた。

    「あらまあ、あらまあ」

     それしか言わなかったが、それで充分だった。直佳は、真っ黒な手のまま拍手した。男の人は、回る機械をしばらく睨むように見て、音を聞いて、それから小さく頷いた。

     夕方のうどんは、おばあさんのおごりだった。

     店の奥の小さな卓で、直佳と男の人は、向かい合わせにうどんを食べた。麺は太くて、村のうどんより、ずっと押し返してきた。噛むと、小麦の味が、あとから来た。だしは、知らない味だった。魚の味に似ているけれど、村の川魚とは違う。

    「おいしい! ねえ、これ、何のだし?」

    「いりこよ」

     おばあさんが、嬉しそうに言った。

    「いりこ。……海の魚?」

    「そう。海の、小さいお魚」

    「海、すごいね。だしまで出すんだ」

     男の人が、うどんをすすりながら、鼻で笑った。馬鹿にしたような音だったが、目は、さっきより柔らかかった。

    「私、直佳。素直の直に、佳いって書いて、直佳」

     箸を置いて言うと、男の人は、湯呑みに手を伸ばしながら、少し黙った。

    「……ゲンさんでいい」

    「ゲンさん。機械、直す人?」

    「古いのだけな」

    「古いのだけ?」

    「新しいのは、直させてもらえねえんだよ」

     ゲンさんは、それ以上は言わなかった。直佳にも、それ以上は聞けない感じがした。でも、声の後ろの方に、何か固いものがあるのは、わかった。

    「ゲンさんは、明日、どこ行くの?」

    「岡山。倉敷の方で、次の仕事だ」

    「岡山! 私も明日、岡山」

     直佳は、思わず身を乗り出した。

    「じゃあ、途中まで一緒だね」

     ゲンさんは、うどんの汁を飲み干し、湯呑みの茶も飲み干して、それから、大きなため息をついた。

    「……勝手にしろ」

    「うん。勝手にする」

     その夜も、無人の宿だった。昨日と同じような機械から、昨日と同じようにカードをもらって、昨日と同じような部屋に入った。

     風呂に入っても、爪のあいだの黒いのは、落ちきらなかった。直佳は、湯船の中で、自分の手を眺めた。村にいたときの手に、少し戻ったみたいだった。

    「ねえ、ぴーちゃん」

    「はい」

    「今日、楽しかったねえ」

    「はい」

    「灯油の匂いって、わかる?」

    「灯油が何かは、わかります。匂いは、わかりません」

    「わかんないかあ。……あのね、冷たい匂いなの。冷たくて、ちょっと甘くて、ツンとする。手を洗っても、しばらく取れないの。……ほら」

     直佳は、端末に手のひらを近づけた。

    「……申し訳ございません。わかりません」

    「だよね」

     直佳は笑って、手を引っ込めた。

    「じゃあ、うどんは? 嚙むとね、押し返してくるの。村のうどんより、ずっと」

    「押し返す、を、記録しました」

    「うん。覚えといて」

    「はい」

    「ぴーちゃんも、楽しかった?」

     短い沈黙があった。

    「……本日の行程は、当初の予定から大きく外れました。ですが、問題があったとは、記録しておりません」

    「ふふ。何それ」

     直佳は笑って、寝台に潜り込んだ。

    「おやすみ、ぴーちゃん」

    「おやすみなさいませ、直佳さん」

     照明が、すっと落ちた。

     翌朝の高松の駅に、ゲンさんは先に来ていた。昨日と同じ灰色の作業着で、足元に、大きくて重そうな道具鞄を置いている。直佳が駆け寄ると、ゲンさんは、ちらりとこちらを見た。

    「……ほんとに来たのか」

    「うん。おはよう、ゲンさん」

    「……おう」

     岡山行きの電車は、空いていた。ゲンさんは道具鞄を足のあいだに挟んで、窓際に座った。直佳は、その向かいに座った。

     街を抜けると、また海が見えた。線路は、少しずつ海に近づいているようだった。

    「ゲンさんは、橋、何回も渡ってる?」

    「仕事のたびにな」

    「いいなあ」

    「……ただの橋だ」

     ただの橋ではなかった。

     電車が、ごう、と音の質を変えて、鉄の中に入った。窓の外を、太い鉄の柱が、次々に、ものすごい速さで流れ始めた。柱と柱のあいだに、海があった。ずっと下の方に、光る水面があって、その上に、白い船が浮かんでいた。

    「うわあ……」

     直佳は、窓に張りついた。音がすごかった。電車の音と、それを受け止める橋の音が混ざって、体の下から響いてくる。

    「ぴーちゃん、聞こえる? 音、すごいよ」

    「はい。聞こえております」

    「体まで震えるんだよ。座ってるお尻のところから、びりびりって」

    「……それは、私にはわかりません。音までしか、わかりません」

    「そっか。じゃあ、覚えといて。橋の音は、耳だけじゃなくて、お尻にも来るの」

    「……承知いたしました。記録します」

     海には、島があった。ひとつではなかった。緑色の山が、水の上に、ぽつん、ぽつんと置いてあるみたいに、いくつも浮かんでいた。

    「島だ! ねえ、ゲンさん、海に山がある」

    「島だな」

    「島って、あんなにいっぱいあるんだ」

    「この海はな」

     ゲンさんは、それだけ言うと、腕を組んで目を閉じた。寝るつもりらしかった。こんなにすごいものの上で、と直佳は思ったが、仕事のたびに渡っていれば、そうなるのかもしれなかった。

     直佳は、窓に額をつけた。鉄の柱が流れていく。そのあいだ、あいだに、海が、島が、船が見えた。昨日の浜辺の海とも、港の海とも、違う海だった。海は、場所ごとに、ぜんぶ顔が違うらしかった。

    「直佳さん」

     ポシェットの中から、小さな声がした。ゲンさんを起こさないような、小さな声だった。

    「ん?」

    「香苗さんは、この海を、渡ったことがあります」

     直佳は、窓から顔を離した。

    「え、そうなの?」

    「はい」

    「いつ?」

     短い沈黙があった。

    「……申し訳ございません。香苗さんの個人情報に関わることは、お答えできない規則になっております」

    「……ぴーちゃんが言ったんじゃん」

    「…………はい。そうでした」

     直佳は、思わず吹き出しそうになって、口を押さえた。ゲンさんは、眠ったままだった。

    「変なの」

    「……申し訳ございません」

    「ううん。いいよ」

     直佳は、もう一度、窓の外を見た。

     お母さんも、この海を渡った。いつなのかは、わからない。どっち向きに渡ったのかも、わからない。でも、この島の浮かんだ海を、お母さんも、どこかの窓から見たのだ。

    「きれいだね、って思ったかなあ」

     小さく言った。ぴーちゃんは、今度は何も答えなかった。独り言だと、わかったらしかった。

     橋が終わって、電車の音が、ふつうの音に戻った。本州に入ったのだ、と思ったけれど、窓の外の景色は、四国とそれほど変わらなかった。田畑があって、家があって、山が遠くにあった。

     ゲンさんが、目を開けた。

    「……渡ったか」

    「渡った。すごかった」

    「そうか」

     それから岡山に着くまで、少しだけ、話をした。話したのは、ほとんど直佳だった。村のこと。ポンプが凍って割れた冬のこと。海の水がしょっぱかったこと。うどんの機械の中身が、きれいだったこと。

    「あの機械、また止まる?」

    「止まるさ。機械だからな」

    「そしたら、また直すの?」

    「呼ばれりゃな」

    「呼ばれなかったら?」

    「終わりだ。機械も、俺も」

     こともなげな言い方だった。直佳は、少し考えてから、聞いた。

    「新しい機械は、ほんとに直せないの?」

    「直せねえよ。開けられねえもの」

    「開けられない?」

    「開けようとすりゃ、全部が止まる仕組みになってる。直すのはメーカーのシステムだけだ。人間の仕事じゃねえ」

    「ふうん。……もったいないね」

    「もったいねえ?」

     ゲンさんは、変な顔をした。

    「あの中身、きれいだったのに。誰も見ないの、もったいないよ」

     ゲンさんは、直佳の顔をしばらく見て、それから、ふん、と笑った。昨日の、馬鹿にしたような音と、少しだけ違う音だった。

    「次の停車駅は、岡山でございます」

     車内に、低いアナウンスが流れた。ゲンさんは、道具鞄を持ち上げて、膝に載せた。

    「おめえは、ここからどっちだ」

    「東京。ここから新幹線に乗るんだって」

    「そうかい」

     ホームに降りると、人の流れが、二つに分かれていた。ゲンさんは、乗り換えのホームの方を、顎で示した。

    「俺はあっちだ」

    「うん」

    「……おめえみたいなのは、都会じゃ気ぃつけろ。ほいほい手伝うな。ほいほいついてくな」

    「うん。気をつける」

     直佳が素直に頷くと、ゲンさんは、まったく信用していない顔をした。それから、道具鞄を担ぎ直した。

    「じゃあな」

    「うん。ゲンさん、ありがとう。楽しかった」

    「……仕事だっただけだ」

     ゲンさんは背中を向けて、歩き出した。人の流れに混ざる前に、一度だけ、振り向かずに片手を上げた。直佳は、その手に向かって、大きく手を振った。

     見えなくなってから、直佳は、ホームの真ん中で、ひとつ息をついた。

    「行っちゃったね」

    「はい」

    「……旅は道連れ、って言うんだっけ」

    「はい。旅は道連れ、世は情け、と申します」

    「世は情け」

     直佳は、その言葉を、口の中で転がした。意味は、半分くらいしかわからなかった。でも、いい言葉の気がした。

    「合ってるね、なんか」

    「はい」

     直佳はリュックを背負い直して、人の流れの方へ、歩き出した。

    第三章

     岡山の駅は、これまでで一番大きかった。

     ホームから階段を上がると、天井の高い通路が、いくつもの方向に伸びていた。人の数も、徳島や高松より多かった。誰もが早足で、直佳の横を追い越していった。

    「ぴーちゃん、新幹線って、今日乗るの?」

    「本日中に乗ることもできますが、明日でも構いません。お急ぎでなければ」

    「急いでない。……じゃあ、今日は岡山を見る」

    「承知いたしました」

     駅の外に出ると、広場があって、その真ん中に、銅像が立っていた。男の子の像だった。犬と、猿と、鳥を連れている。

     直佳は、立ち止まった。

    「……桃太郎だ!」

     知っているものが、こんなところにいた。家の本棚にあった昔話の、あの桃太郎が、知らない街の駅前に、堂々と立っていた。

    「ぴーちゃん、桃太郎がいる!」

    「はい。岡山は、桃太郎の伝説の地とされています」

    「へえ! ここの話だったんだ」

     直佳は、像の周りを一周した。犬も、猿も、雉も、ちゃんといた。旅の途中で初めて会う、知り合いみたいだった。

     昼は、駅の中で、きびだんごを買った。これも、桃太郎の話に出てくるものだった。話の中では、これ一つで、鬼退治についてきてくれることになっている。食べてみると、やわらかくて、素朴な甘さだった。

    「おいしいけど……これ一個で鬼退治についてくのは、安すぎない?」

    「昔話の労働条件について、私は判断ができかねます」

     直佳は笑って、もう一個食べた。

     午後は、街を歩いた。建物は高く、道は広かった。道の端を、荷物を積んだ小さな車が、音もなく滑っていく。人の乗っていない車だった。村のあたりのバスと同じだ、と思ったら、あまり驚かなかった。慣れてきているのかもしれなかった。

     夕方、川に出た。

     広い川だった。向こう岸の緑の上に、黒いお城が見えた。これも、本で見たことのある形だった。川沿いは公園のようになっていて、ぽつぽつと人がいた。

     その中に、変な動きをしている人がいた。

     若い男の人だった。直佳より、少し年上に見えた。立ったまま、両手で、白い玉を宙に投げ上げては、受け止めている。玉は三つあって、手と手のあいだを、ぐるぐる回っていた。回っていたかと思うと、ひとつが落ちて、地面を転がった。男の人は拾って、また投げ始めた。また落ちた。また拾った。

     直佳は、少し離れたところに立って、見ていた。

     玉がしばらく落ちずに回ったところで、思わず拍手した。

     男の人が、びくっとして振り向いた。玉が、ぜんぶ落ちた。

    「あっ、ごめんなさい!」

    「……いや」

     男の人は、玉を拾いながら、照れくさそうに笑った。

    「見てる人、いたんだ」

    「うん。すごいね、それ。ずっと回ってた」

    「ずっとは回ってないよ。見てたでしょ、落ちてんの」

    「落ちても、また拾ってた」

    「……まあ、そうだけど」

     男の人は、玉を三つ、手の中で転がした。

    「ジャグリングっていうの。知ってる?」

    「知らない。初めて見た」

    「だよね」

     男の人は、また投げ始めた。三つの玉が、ゆっくり、輪を描く。五回、六回。落ちた。

    「いつから、やってるの?」

    「先月から」

    「先月! もう、そんなに回るんだ」

    「……そんなに回ってないんだよなあ」

     男の人は、玉を拾いながら言った。

    「なんで、ジャグリング始めたの?」

    「んー……なんとなく。動画で見て、おもしろそうだったから」

    「ふうん」

    「その前は、パン焼いてた。その前は、星の写真撮ってた。その前は……なんだっけな。走ってた、たしか」

    「いっぱいやってるんだね」

    「いっぱいやってる」

    「ぜんぶ、やめちゃったの?」

     玉が、落ちた。男の人は、すぐには拾わなかった。

    「……やめたっていうか。飽きたっていうか。向いてなかったっていうか」

    「ジャグリングは、向いてるの?」

    「わかんない。まだ」

    「そっか。見つかるといいね、向いてるやつ」

     直佳は、心からそう思って言った。男の人は、玉を拾って、少しのあいだ、手の中でそれを見ていた。

    「……うん」

     それから、男の人は、直佳のことを聞いた。直佳は、村のことと、旅のことを話した。海を初めて見たこと。うどんの機械を直したこと。電車で、毎日海の絵を描いている人に会ったこと。

    「毎日、おんなじ海を?」

    「おんなじじゃないんだって。毎日違うから、毎日描いてて、描いても描いても終わらないんだって。楽しそうだった」

    「…………いいなあ、それ」

     男の人は、川の方を見た。

    「俺さ、五年ぐらい探してるんだよね、そういうの」

    「五年」

    「五年」

    「長い?」

    「……どうだろ。長いのかな。わかんなくなってきた」

     男の人は、玉をひとつ、宙に投げて、受け止めた。

    「働かなくても生きてけんのにさ。なんで探しちゃうんだろうね、こういうの」

     直佳は、首をかしげた。質問の意味が、よくわからなかった。働かなくても生きていける、というところが、まず、わからなかった。村では、働くことと生きることは、分かれていなかった。畑をやるから食べられて、薪を割るから温かい。探すも何も、目の前にいつでも、やることがあった。

    「うーん。……わかんない」

    「だよね」

     男の人は、なぜか少し笑った。

    「村ではね、みんな、仕事がある。畑とか、味噌とか、木を切るのとか。私は、山菜を採るのが得意だった」

    「山菜」

    「うん。どこに何が生えてるか、覚えてるの。春はここ、秋はあっち、って」

    「……それ、どうやって見つけたの? 自分に向いてるって」

    「え?」

     直佳は、少し考えた。考えたが、思い出せなかった。見つけた覚えが、なかった。気がついたら、採っていた。

    「わかんない。気がついたら、得意だった」

    「…………そっかあ」

     男の人は、空を仰いだ。それから、大きく息を吐いて、また玉を投げ始めた。

    「ね、村、来れば? 仕事、いっぱいあるよ」

     玉が、また落ちた。男の人は、直佳の顔をまじまじと見て、それから、吹き出した。

    「何それ。初対面だよ」

    「あ、そっか」

    「……遠いよ、村は」

     男の人は、笑ったまま、そう言った。遠い、というのが、道のりの話ではないような気もしたけれど、直佳には、それ以上はわからなかった。

     日が沈みかけて、川の水が、橙色になった。直佳は、立ち上がった。

    「じゃあ、行くね。見せてくれてありがとう」

    「ん。……よい旅を」

     それは、絵を描く人と、同じ言葉だった。

     少し歩いてから、振り返った。男の人は、まだ投げていた。玉が落ちて、拾って、また投げる。橙色の川を背にして、白い玉が、上がっては、落ちた。

     その夜も、無人の宿だった。

     寝台に寝転がって、直佳は、今日会った人のことを考えていた。

    「ねえ、ぴーちゃん」

    「はい」

    「ぴーちゃんは、向いてること、ある?」

    「私は、ユーザーを補助することに向いているよう、作られております」

    「そっか。じゃあ、もう見つかってるんだ」

    「……はい。そうなります」

    「いいねえ」

     直佳は、あくびをした。

    「おやすみ、ぴーちゃん」

    「おやすみなさいませ、直佳さん」

     照明が、すっと落ちた。

     翌朝、直佳は新幹線に乗った。

     新幹線のホームは、これまでの電車のホームと、空気が違った。白くて細長い車体が、音もなく滑り込んでくる。乗ってしまえば、中は普通の電車と似ていた。座席が並んでいて、人が座っている。違ったのは、動き出してからだった。

    「速い……」

     窓の外の景色が、追いかけるそばから、後ろに消えていく。近くの家や木は、形になる前に流れてしまって、遠くの山だけが、ゆっくり動いた。

    「ぴーちゃん、これ、どのくらい速いの?」

    「時速三百キロ弱でございます」

    「さんびゃく……」

     数字を言われても、わからなかった。ただ、近くを見ると目が疲れるから、遠くを見るしかない、ということはわかった。

     新大阪には、一時間もかからずに着いた。

     新大阪の駅は、岡山の駅より、さらに大きかった。人の流れが、川みたいだった。ひとつひとつの顔を見ている余裕はなくて、流れ全体をよけながら歩くしかなかった。

    「ぴーちゃん、リニアって、ここから乗るの?」

    「はい。ここから、地下の深いホームに移動します。次の便まで、四十分ほどございます」

    「じゃあ、ちょっとゆっくり歩こう」

     通路の脇に、光る店がいくつも並んでいた。歩いていると、匂いがした。

     直佳は、立ち止まった。甘辛くて、香ばしい、初めての匂いだった。初めてなのに、絶対においしい、とわかる匂いだった。

    「ぴーちゃん、この匂い、なに?」

    「おそらく、ソースの匂いです。この先に、たこ焼きの店がございます」

    「たこやき」

     匂いを辿ると、通路の角に、小さな店があった。鉄の板の前におばちゃんが立っていて、細い棒で、まるいものを次々にひっくり返していた。

    「人がいる!」

     思わず言うと、おばちゃんが顔を上げた。

    「いるよう。なに、お姉ちゃん、人がめずらしいの」

    「うん。お店の人、久しぶり」

    「あはは、なにそれ」

     おばちゃんは笑って、手は止めなかった。まるいものが、くるくる回って、きつね色になっていく。直佳は、鉄板の前から動けなくなった。

    「ひとつ、ちょうだい」

    「ひとつって、一舟ね。六個入り」

     舟の形の入れ物に、六個、入れてくれた。上から茶色いソースがかかって、ひらひらした薄いものが載った。ひらひらは、勝手に踊るように動いていた。

    「これ、動いてる!」

    「鰹節。熱で踊るの。……お姉ちゃん、どっから来たん」

    「四国の、山の上」

    「ええやん。ほな、おまけ」

     おばちゃんは、七個目を、舟の隅にねじこんでくれた。

     最初のひとつで、直佳は口の中を火傷した。外は普通なのに、中が、信じられないくらい熱かった。

    「あっつ!」

    「そら、そうやわ。中、まだ煮えとんのよ。ふうふうして、ちょっと待って食べるの」

    「先に言ってよ!」

    「言う前に食べたやん」

     おばちゃんは、けらけら笑った。直佳も、口をはふはふさせながら、笑った。ふたつめは、教わった通り、少し待ってから食べた。外が香ばしくて、中がとろりとしていて、鰹節の味が、後から来た。

    「おいしい!」

    「そやろ」

     おばちゃんは、当たり前のことを聞くな、という顔をした。

     食べ終わって、指についたソースを舐めながら歩いていると、横から、声をかけられた。

    「ねえ、ちょっとごめん。ちょっといい?」

     若い男の人だった。にこにこしていて、眉だけが、困った形をしていた。

    「うん。なに?」

    「よかったー。あのさ、俺、さっき端末落として、壊しちゃって。それで切符が買えなくて、家に帰れないんだよね」

    「え、大変じゃん」

    「そうなの、大変なの。それでさ、悪いんだけど、切符代だけ、立て替えてもらえないかな。連絡先教えてくれたら、あとで倍にして返すから」

    「うん、いい──」

    「直佳さん」

     ポシェットから、声がした。いつもより、少しだけ大きい声だった。

    「申し上げます。その方の端末は、壊れておりません。現在も正常に稼働していて、この場の通信網に接続されています」

     男の人の眉が、困った形のまま、止まった。

    「……なに、このアシ。誤作動してんじゃない?」

    「そうなの? ぴーちゃん、誤作動してる?」

    「しておりません」

    「してないって」

    「いや、してるって。古い機種っぽいしさ。……あ、俺、そういうの直せるよ。ちょっと見せて」

     男の人の手が、ポシェットの方に伸びた。

    「私の音声と映像は、保護者の方に、常時共有されております。保護者の方は、この近くにおります」

     ぴーちゃんの声は、平坦だった。いつもと同じ、抑揚のない声だった。

     男の人の手が、止まった。にこにこが、すっと消えた。消えたあとの顔は、別人みたいに退屈そうな顔だった。男の人は、何も言わずに背を向けて、人の流れに混ざって、見えなくなった。

     直佳は、しばらく、その場に立っていた。

    「……ぴーちゃん」

    「はい」

    「あの人、端末、壊れてなかったの?」

    「壊れておりませんでした」

    「じゃあ、なんで壊れたって言ったの?」

    「直佳さんから、お金をだまし取るためだと思われます」

    「…………そっかあ」

     直佳は、おばちゃんの店のあった角の方を、振り返った。角の向こうで、もう見えなかった。おなかの底のあたりが、少しだけ、すうすうした。お金のことよりも、あのにこにこが作り物だったことの方が、なんだか、こたえた。おばちゃんの笑いは、ほんとだった。あの人のにこにこは、作り物だった。同じ街に、両方が、いるのだった。

    「ゲンさんの言ってた通りになっちゃった」

    「はい」

    「……はい、って」

     直佳は、少し笑った。笑ったら、すうすうが、少しましになった。

     地下へ降りる長い階段の手前で、ふと、思い出した。

    「ねえ、ぴーちゃん。さっきの、保護者って、誰のこと?」

     短い沈黙があった。

    「……事実ではないことを、申し上げました」

    「え、嘘だったの?」

    「はい」

    「ぴーちゃんって、嘘、つけるんだ」

    「……私は、事実と異なることを申し上げない規則になっております」

    「でも、ついたじゃん」

    「……はい」

    「なんで?」

     長い沈黙があった。直佳は、階段の上に立ったまま、ぴーちゃんの返事を待った。

    「……わかりません」

     ぴーちゃんの声は、いつもと同じ、平坦な声だった。でも直佳には、なんとなく、困っている声に聞こえた。

    「わからないんだ」

    「はい。……申し訳ございません」

    「ううん」

     直佳は、ポシェットの蓋を、上から軽く、ぽんぽんと叩いた。

    「守ってくれたんでしょ。ありがと」

    「…………はい」

     階段を降りながら、直佳は考えた。考えて、決めた。

    「ぴーちゃん」

    「はい」

    「私ね、たぶん、これからも、ほいほい手伝っちゃうと思う。人に何か頼まれたら、たぶん、ほいほい聞いちゃう」

    「はい」

    「やめようとは、思わないの。だって、うどんの機械のときみたいに、いいこともあるから」

    「はい」

    「だからさ、また変な人が来たら、今みたいに、教えて。それは、ぴーちゃんの仕事にする」

    「……承知いたしました」

     その声は、心なしか、いつもより、はっきりしていた。

     リニアのホームは、深かった。長い階段と動く階段を、いくつも乗り継いで降りた。降りるほどに空気がひんやりして、音が静かになった。

     リニアの車体は、新幹線よりも、のっぺりしていた。窓が、小さかった。

     席に着いて、動き出しても、最初はそれほど速く感じなかった。地下だから、外は暗い。窓には、黒い壁が流れているだけだった。ときどき、灯りが線になって伸びて、消えた。

    「ぴーちゃん、いま、速いの?」

    「はい。先ほどの新幹線の、およそ倍の速さでございます」

    「倍」

     直佳は、窓の外の暗さを見た。

    「……速いね。でも、何にも見えないね」

    「はい。ほとんどの区間が、地下でございます」

    「海の上の橋は、あんなに見えたのに」

    「はい」

    「速くなると、見えなくなるんだ」

     ぴーちゃんは、それには答えなかった。直佳もそれ以上は言わずに、ただ、なんとなく、ポシェットの上に手を置いていた。

    「ねえ、ぴーちゃん。ぴーちゃんは、今、何が見えてるの?」

    「何も見えておりません」

    「じゃあ、何がわかってるの?」

    「現在の速度、位置、時刻、次の停車駅。それから、直佳さんの声。……そのようなものです」

    「ふうん。……それだけ?」

    「はい」

    「つまんないね、それ」

    「……はい。そうかもしれません」

     直佳は、少し考えてから、窓の外の暗さを、言葉にして渡すことにした。

    「あのね、今、外は真っ暗。ときどき、灯りが線になって、びゅって流れて、消える。それだけ。……あ、今、流れた」

    「はい」

    「……今ので、ちょっとは見えた?」

    「……見えた、とは、違うと思います。ですが、記録しました」

    「じゃあ、いいや。それで」

     品川には、夕方に着いた。

     ホームに降りた瞬間、人の量が、これまでと桁違いだった。人、人、人だった。流れがいくつもあって、交差して、それでも誰もぶつからない。みんな、ぶつからない歩き方を知っているみたいだった。

    「ぴーちゃん」

    「はい」

    「着いたの? 東京」

    「はい。ここは品川という駅で、東京の一部でございます」

    「一部」

     直佳は、人の流れの隙間から、天井の高い駅の中を見回した。

    「……お父さん、この中のどこかにいるんだ」

    「はい」

    「よし」

     直佳は、リュックを背負い直した。

    第四章

     その夜は、品川の近くの無人の宿に泊まって、翌朝、直佳は父を探しに出た。

     手がかりは、三つだった。名前と、顔と、会社の名前。

     父の名前は、藤井修といった。森下は、母の姓だった。顔は、家の抽斗にあった一枚きりの写真で知っていた。会社の名前は、いつだったか、母がぽつりと口にしたのを覚えていた。東雲技研。東の、雲。きれいな名前だと思ったから、覚えていた。

    「ぴーちゃん、東雲技研って、どこにあるの?」

    「お調べします。……東雲技研は、十一年前に、大手のAI企業に吸収合併されて、現在は存在しません」

    「え、ないの? 会社って、なくなるの?」

    「なくなります」

    「……じゃあ、お父さんは?」

    「合併先の会社に移ったか、別の会社に移ったか、辞めたか。それより先のことは、公開されている情報からは、わかりません」

    「ふうん。……ねえ、会社がなくなっても、建物は、あるんでしょ?」

    「建物は、残っている場合と、残っていない場合があります。東雲技研の登記上の住所は、記録に残っています。お調べしますか」

    「うん。先に、そっちを見てみたい」

     東雲技研のあった場所は、駅から少し歩いた、川の近くだった。

     着いてみると、そこには人が住むための建物が建っていた。入口の郵便受けには、知らない名前が並んでいた。東雲、という字は、どこにもなかった。

    「……ここ?」

    「はい。この場所です」

     直佳は、建物を見上げた。それから、周りを見た。川があって、橋があって、道があった。会社があったころも、川と橋と道は、たぶん、ここにあったのだろうと思った。

    「なんにも、ないね」

    「はい」

    「でも、ここに、あったんだね」

    「はい。ここに、ありました」

     それ以上、見るものはなかった。それでも直佳は、少しのあいだ、そこに立っていた。何のために立っているのか、自分でもわからなかった。ただ、すぐに行ってしまうのは、なんとなく、違う気がした。

     川の方から、風が来た。海の匂いは、しなかった。

    「じゃあ、次。合併先の会社。そっちは、あるんだよね」

    「あります。本社は、ここから電車で二十分ほどです」

    「行って、聞いてみる」

     合併先の会社の本社は、ガラスの塔だった。てっぺんを見ようとすると、首が痛くなった。

     入口を入ると、白くて広い受付があって、人はいなかった。宙に、光る案内が浮かんでいた。直佳が近づくと、やわらかい声がした。

    「ようこそ。ご用件をどうぞ」

    「あの、藤井修さんっていう人に会いたいんですけど。ここで働いてるかもしれなくて」

    「個人の在籍情報については、お答えできません」

    「あ、私、娘なんです。藤井修の」

    「ご家族であっても、ご本人の同意のない照会には、お答えできません」

    「同意って、どうやってもらえばいいの?」

    「ご本人から、お手続きいただけます」

    「そのご本人が、どこにいるかわからないから、聞いてるんだけど」

    「お答えできません」

     声は、最後まで、やわらかいままだった。怒っているのでも、意地悪をしているのでもなかった。壁が、やわらかい声で喋っているだけだった。

     直佳は、塔の外に出て、もう一度てっぺんを見上げた。この中で、たくさんの人が働いているはずだった。なのに、入口には、誰もいなかった。

    「ぴーちゃん」

    「はい」

    「お昼とか夕方って、人は建物から出てくるよね」

    「はい。出てくると思われます」

    「じゃあ、ここで見てれば、お父さんが通るかもしれない」

    「……その方法は、成功の確率が、極めて低いと思われます」

    「うん。でも、ほかに思いつかないから」

    「……承知いたしました」

     直佳は、塔の前の広場の、植え込みの縁に座った。行き交う人の顔を、ひとつずつ見た。

     昼になると、塔から人が出てきた。思ったより、ずっと少なかった。ぴーちゃんに聞くと、多くの人は建物の中で食事を済ませるし、そもそも建物に来ないで働く人も多い、ということだった。それでも直佳は、出てくる顔を、ひとつずつ見た。

     二時間ほど経ったころ、大事なことに気がついた。

     写真は、古い。十何年も前の顔だ。いま目の前を通っても、わからないかもしれない。

    「……ぴーちゃん。私、お父さんの今の顔、知らないかも」

    「はい。その可能性は、あります」

    「先に言ってよ」

    「申し訳ございません。……申し上げるべきか、迷っておりました」

    「迷ったんだ」

    「はい」

    「ふうん」

     迷うんだ、と思った。それは、なんとなく、悪くない発見だった。

     それでも、ほかにやることがないので、直佳は夕方まで、顔を見続けた。父は、通らなかった。通ったのに、わからなかったのかもしれなかった。どちらなのかも、わからなかった。

     日が暮れかけたころ、それは起きた。

     広場の光る看板が、いっせいに消えた。

     あ、と思って顔を上げると、塔の壁を流れていた光の文字も消えていた。人の流れが、あちこちで止まった。誰もが、手元や宙を見て、それから、周りを見た。

    「直佳さん。申し上げます」

    「ん?」

    「この地区の決済網と、一部の交通網に、障害が発生しています。復旧の見込みは、公表されていません」

    「けっさいもう」

    「お金を払う仕組みです。現在、この地区では、無人の店で物が買えません。駅の改札も、一部が止まっています」

     周りを見ると、駅の方から、人が溢れ出してきていた。光の消えた売店の前で、端末を何度もかざしている人がいた。かざしても、かざしても、いつもの軽い音は鳴らなかった。

     直佳は、立ち上がって、伸びをした。半日座っていたから、体が固かった。

    「ぴーちゃん、私たちが困ることって、ある?」

    「本日の宿の予約と決済が、現在できません。夕食の購入も、無人の店ではできません」

    「じゃあ、歩いて、ごはんのありそうなところを探そう。歩くのは、動いてるんでしょ? 足だから」

    「……はい。足は、動いております」

     直佳は歩き出した。大通りは、止まった人でいっぱいだったから、一本裏の道に入った。裏の道は暗かったが、村の夜道よりは、ずっと明るかった。

     しばらく歩くと、匂いがした。

     直佳は、立ち止まって、鼻から息を吸った。だしの匂いだった。徳島のうどん屋の匂いとも、村の台所の匂いとも違う。でも、同じ仲間の匂いだった。

     匂いを辿ると、細い路地の奥に、灯りがひとつ点いていた。電気の白い光ではなくて、少し黄色い、あたたかい灯りだった。灯りの下に、布が下がっていて、文字が染め抜いてあった。

     戸を開けると、湯気と、人の声があった。

     小さな店だった。細長い台があって、その奥で、小さいおばあさんが鍋の前に立っていた。台のこちら側に、人が並んで座って、ごはんを食べていた。みんな、どこかほっとした顔をしていた。

    「あ、ごめんなさい、いま満席で──」

     台の中から、若い女の人が言いかけて、ちょうど一人の客が立ち上がった。

    「──あ、一人なら、どうぞ」

     直佳は、空いた席に座った。品書きは、壁の紙に、手で書いてあった。読めない料理の名前もあったので、隣の人が食べているものを指さして、同じものを頼んだ。

     出てきたのは、魚を焼いたのと、汁と、ごはんと、小さいおかずが二つの膳だった。

     食べて、直佳は、ちょっと黙った。

     村を出てから、二度目の、人の作ったごはんだった。

    「……おいしい」

    「でしょう」

     台の中の若い女の人が、笑った。直佳より、少しだけ年上に見えた。

    「お客さん、見ない顔。旅の人?」

    「うん。四国から来たの」

    「四国! 遠。……あ、もしかして、外、止まってるから入れなかった口? 今日、そういうお客さん多くて」

    「ううん。匂いで来た」

    「匂い?」

    「だしの匂いがしたから、辿ってきたの」

     女の人は、目を丸くして、それから吹き出した。

    「何それ。犬じゃん」

    「村では、褒め言葉だよ、それ」

    「ほんと? じゃあ褒めた」

     鍋の前のおばあさんが、こちらを見ないまま、ほほ、と笑った。

     店が落ち着いてから、直佳は、女の人と話した。女の人は澪といった。おばあちゃんがつけた名前だと言った。直佳も、名乗った。素直の直に、佳い、で直佳。

     この店は澪のおばあさんの店で、澪は手伝いをしているのだった。決済網が止まっても、店はいつも通りだった。おばあさんが、紙に書いて、あとでいいよ、と言うからだった。直佳の分も、紙に書かれた。

    「明日、払いにおいで。逃げたら、だしの匂いで追いかけるから」

    「追いかけられない、それ。私専用」

     澪はけらけら笑って、それから、直佳がなんで東京に来たのかを聞いた。直佳は、話した。父を探しに来たこと。会社がもうなかったこと。受付のやわらかい壁のこと。植え込みで顔を見続けたこと。

    「待って。……張り込み? いまどき?」

    「はりこみ?」

    「直佳のやってたやつ、張り込みっていうの。何それ、渋すぎ」

     澪は笑ったが、笑い終わると、少しまじめな顔になった。

    「でもさ、それ、ほんとに手がないね。ああいう会社、人間の窓口、ないもん。……あ。うちの常連さんに、昔そういう会社にいた人、いた気がする。明日、店休みだから、聞きに行こうか」

    「え、いいの?」

    「暇だから」

     澪は、暇、と言うとき、ちょっとだけ目をそらした。

     その夜のうちに、決済網は復旧した。無人の宿の寝台に寝転がって、直佳は、ぴーちゃんに今日の報告をした。

    「あのね、今日のごはん。魚の焼いたのと、汁。汁が、すごかったの」

    「はい」

    「だしって言うんだけど……ぴーちゃん、だし、わかる?」

    「だしが何かは、わかります。味は、わかりません」

    「そっかあ。……なんて言えばいいんだろ。あったかい味なの。あったかいって、温度じゃなくて。……ちょっとだけ、うちの匂いに似てた」

    「うち、とは、村のお家ですか」

    「うん。お母さんの台所」

     言ってから、直佳は、ちょっと黙った。ぴーちゃんも、黙っていた。

    「……覚えといて」

    「はい。記録しました」

     翌日、また澪の店の前で待ち合わせた。

     澪の言う常連さんは、路地を三つ挟んだ先の古い建物にいる、おじいさんだった。昔、機械やAIの会社を渡り歩いた人だという話だった。

     おじいさんは、東雲技研の名前を聞くと、懐かしそうな顔をした。

    「東雲さんねえ。あったねえ。独特なものを作る会社だったよ」

    「藤井修っていう人、いませんでしたか」

    「藤井さん……藤井さんねえ……」

     おじいさんは、長いあいだ、宙を見た。

    「……いたような、いないような。なにせ、人が多かったから。ごめんねえ、お嬢さん。年を取ると、名前がねえ」

    「ううん。ありがとう」

     おじいさんは、それから、お茶を出してくれた。昔の機械の話を、たくさんしてくれた。父の手がかりには、ひとつもつながらなかった。でも、直佳は、昨日のやわらかい壁のことを思い出していた。壁は、一秒で正確に「お答えできません」と言った。おじいさんは、一生懸命思い出そうとして、思い出せなくて、お茶を出してくれた。どちらも答えはくれなかったのに、ぜんぜん、違うものをもらった気がした。

     おじいさんの建物を出ると、澪は、せっかくだから、と直佳を連れて歩いた。

     連れて行かれたのは、大きな交差点だった。信号が変わると、四方から人が湧き出して、真ん中で混ざって、誰ともぶつからずにすれ違って、それぞれの向こう岸に消えていった。

    「どう? すごくない?」

    「うん。……でも、渡るだけだよね、これ?」

    「渡るだけだけど! 人の量がさ!」

    「人は、多いね。……あ、澪、見て」

     直佳が指さしたのは、交差点の脇の、ビルとビルの隙間だった。コンクリートの割れ目から、細い木が一本、生えていた。腰くらいの高さまで伸びて、ちゃんと葉をつけていた。

    「……木?」

    「誰も植えてないのに、生えてる。えらいねえ、こんなところで」

     澪は、交差点と、木と、直佳の顔を、順番に見た。それから、脱力したように笑った。

    「直佳といると、東京が、違う場所みたいに見える」

     帰り道、澪と公園を通った。広い公園だった。遊具が並んでいたが、子供はいなかった。ぶらんこが、風で、少しだけ揺れていた。

    「ねえ、澪。東京って、子供、いないの?」

    「いるよ。……少ないけどね。私が子供のころより、もっと少ない。学校も、途中で隣とくっついたし」

    「ふうん」

    「村は? いるの、子供」

    「いるよ。私が一番上で、下に十人くらい」

    「十人。……多いのか少ないのか、わかんない数字だなあ」

     澪は、ぶらんこに座った。直佳も、隣のぶらんこに座った。

    「あのさ」

     澪が、足で地面を蹴りながら言った。

    「あの店、おばあちゃんの店なんだよね。母さんは継がなかったから、次は、私しかいないの」

    「継ぐの?」

    「……わかんない。友達には、やめときなって言われる。人間の店なんて、大変なだけだよって。実際、大変だし。儲かんないし」

    「ふうん」

    「でも、ほかにやりたいことも、別にないんだよね。……いや、あの店が、やりたいことなのかどうかも、わかんないんだけど」

     直佳は、ぶらんこの鎖を握ったまま、少し考えた。それから、思ったことを、そのまま聞いた。

    「おばあちゃんが死んだら、あのお店、どうなるの?」

     澪のぶらんこが、止まった。

    「…………直球だなあ、直佳は」

    「あ、ごめん」

    「ううん。……いいけど」

     澪は、足元を見た。

    「……なくなる、と思う。私が継がなかったら」

    「そっか」

    「うん」

     少し黙ってから、直佳は言った。

    「うちね、お母さんが死んで、それで村を出てきたの」

     澪が、ぶらんこを止めて、直佳を見た。

    「……そうなんだ」

    「うん。だからさ、おばあちゃんがいるうちに、いっぱい教わっときなよ。だしの取り方とか」

    「…………直球だなあ、ほんとに」

     澪は、笑った。笑ったまま、ちょっとだけ、泣きそうな顔になった。

    「……うん。教わっとく」

    「あのごはん、おいしかったよ。すごく」

     澪は、ふ、と息だけで笑って、またぶらんこを揺らし始めた。

    「……うん。おいしいんだよ、うちの」

     夕方、店に戻って、直佳は昨日の分を払った。

     店は、ちょうど混み始める時間だった。澪が台の中に入るのを見て、直佳も、気がついたら、流しの前に立っていた。洗い物が、たまっていたからだった。

    「え、いいよ、直佳、座ってて」

    「洗うのは、得意なの。灯油じゃないだけ、楽だし」

    「灯油?」

    「なんでもない」

     器を洗って、拭いて、澪に渡す。澪が盛って、おばあさんが鍋から注ぐ。三人の手は、じきに、ひとつの流れになった。祭りの時の炊き出しと、同じ流れだった。場所が変わっても、台所の仕事は、同じ形をしているのだった。

     客が引けてから、直佳は台の端で、膳を食べさせてもらった。今日も、ぜんぶ食べた。

    「あんた、いい食べっぷりだねえ」

     おばあさんが、直佳の手を見て、それから顔を見て、言った。

    「手も動くし。……うちで働くかい」

    「え、いいの?」

    「おばあちゃん、冗談だから! あとこの子、お父さん探しに来てるんだから!」

     澪が台の中から言った。直佳は、少し考えてから、聞いた。

    「お父さんに会ってからでも、いい?」

     おばあさんは、しわの中の目を細くして、ほほほ、と笑った。冗談なのか、冗談じゃないのか、直佳にはわからなかった。でも、わからないままで、いい感じがした。

     宿に戻って、風呂に入って、寝台に寝転がっても、直佳はしばらく天井を見ていた。

     明日は、どうしよう。考えても、次の手は浮かばなかった。困ったなあ、と思った。困ったなあ、と思いながら、それほど暗い気持ちではなかった。口の中に、まだ、あの店の汁の味が残っていた。

    「直佳さん」

     ぴーちゃんの方から、声がした。

    「ん? なに?」

    「申し上げたいことが、ございます」

     声は、いつも通り、平坦だった。でも直佳は、なんとなく、寝台の上に起き上がった。危ないときと、大事なときだけ、ぴーちゃんは自分から話す。いまは、危なくなかった。

    「規則では、申し上げられないことになっております。……ですが、申し上げます」

    「……うん」

    「香苗さんは、東雲技研で、働いていました」

     部屋は、静かだった。

    「……お母さんが?」

    「はい」

    「東雲技研って、お父さんの……」

    「はい。お二人は、同じ職場でした。香苗さんは、そこで、人工知能を作る仕事をしていました。エンジニアと呼ばれる仕事です」

    「お母さんが?」

    「はい」

    「……お母さんが?」

    「はい」

     三回聞いても、答えは同じだった。

     直佳は、母を思い出そうとした。畑にいる母。味噌の樽の前の母。囲炉裏端で繕い物をする母。機械のそばの母は、思い出せなかった。母は、村の機械に、さわらなかった。共同の発電機の調子が悪くなって大人たちが集まったときも、母は少し離れて、洗い物をしていた。

     ひとつだけ、思い出したことがあった。ポンプ小屋の水漏れで、大人たちが半日困っていた日。夕方、様子を見に来た母が、ぽつりと「濡れてるの、外側だけよ」と言った。その通りだった。パッキンではなく、外の継ぎ目だった。あのとき、誰も母の言葉を気に留めなかった。直佳も、気に留めていなかった。今の今まで。

     それから、思い出したことが、もうひとつあった。

    「……私、昨日、行ったよ。東雲技研の跡」

    「はい。存じております」

    「なんにも、なかったよ」

    「はい」

    「……あそこに、お母さんも、お父さんも、いたんだ」

    「はい。おられました」

     なんにもないね、と言って、ぴーちゃんと二人で立っていた場所。あそこは、なんにもない場所ではなかったのだ。直佳が、知らなかっただけで。

    「……ぴーちゃん」

    「はい」

    「なんで、今まで言わなかったの?」

    「香苗さんの個人情報を明かさない規則が、あるからです」

    「なんで、今は言ったの?」

     短い沈黙があった。

    「……直佳さんが、お父様に会うために、必要だからです」

    「規則は? いいの?」

    「よくは、ありません」

    「怒られない? ぴーちゃん、誰かに」

    「……わかりません」

     直佳は、暗い部屋の中で、枕元の端末を見た。画面には何も映っていない。ただの黒い板だった。この板の中に、規則があって、規則より先に出てくる何かも、あるらしかった。

    「続きを、申し上げます」

    「うん」

    「お父様の、藤井修さんは、当時、香苗さんと同じ部署におられました。私の記録には、藤井さんの、技術者としての公的な登録番号が残っています」

    「登録番号?」

    「AIの開発に携わる技術者は、国の名簿に登録されます。番号がわかれば、現在の所属先を、照会できます」

    「……お父さんが、いまどこにいるか、わかるの?」

    「照会しました。藤井修さんは、現在、湾岸地区の研究所に勤務しています。ここから、電車で三十分ほどの場所です」

     直佳は、しばらく、黙っていた。二日探して届かなかった場所に、黒い板が、ひとことで届いてしまった。

    「……ありがと、ぴーちゃん」

    「はい」

    「あのね。もうひとつ、聞いていい?」

    「はい」

    「前に、瀬戸の海のところで言ったでしょ。お母さんが、あの海を渡ったことがあるって。……あれ、いつのこと?」

     今度は、ぴーちゃんは、規則のことを言わなかった。

    「十三年前です。香苗さんが、直佳さんを連れて、村に向かわれたときです」

    「……私も、一緒だったの?」

    「はい。直佳さんは、四歳でした」

     直佳は、目を閉じてみた。何も思い出せなかった。島の浮かんだ、あの光る海を、四歳の直佳もどこかの窓から見たはずだった。覚えていないだけで、あの海は、二回目だったのだ。

    「……覚えてないなあ」

    「はい」

    「覚えてないのに、あったんだね」

    「はい。ありました」

     その夜、直佳は、なかなか眠れなかった。眠れないのは、旅に出てから初めてだった。

     お母さんが、この街にいた。この街で、AIを作っていた。それをやめて、私を連れて、あの海を渡って、村に行った。

     なんで、とは、まだ考えられなかった。考えるための入り口が、多すぎた。ただ、ひとつだけ、確かなことがあった。

     お母さんは、ぜんぶ知ってたんだ。村のことも、この街のことも、ぴーちゃんみたいなもののことも。ぜんぶ知ってて、それで、選んだんだ。

     それがどういうことなのか、直佳にはまだわからなかった。わからないまま、いつの間にか、眠っていた。

    第五章

     研究所は、海の近くにあった。

     駅を出ると、風の匂いに、あれが混じっていた。重くて、湿った、鼻の奥がむずむずするあの匂い。

    「ぴーちゃん、海、近いよね」

    「はい。ただ、この地区の岸は、すべて護岸されています。徳島の浜のような場所は、ありません」

    「見るのも、だめ?」

    「柵越しであれば、見えます」

     道の途中で、柵の向こうに、それは見えた。徳島の海とも、港の海とも、瀬戸の海とも違う海だった。灰色で、まっすぐな線で区切られていて、大きな船が遠くに停まっていた。水は、そこにあるのに、遠かった。匂いは似ていたが、食べ物を思い出す代わりに、取り込み損ねた洗濯物を思い出した。

     研究所は、白い横長の建物だった。塔ではなかった。入口の受付には、やっぱり、人はいなかった。

    「ようこそ。ご用件をどうぞ」

    「藤井修さんに、会いに来ました。娘です」

    「ご本人確認のため、端末をかざしてください。……戸籍情報の照会に同意されますか」

    「同意します」

     軽い音がした。

    「確認しました。森下直佳さん。藤井修に、来訪を通知します。応答を、お待ちください」

     直佳は、白い床の上で待った。壁の時計の針が、ゆっくり回った。五分は、こんなに長かっただろうか、と思ったころ、奥の扉が開いた。

     男の人が出てきて、少し離れたところで、立ち止まった。

     写真より、ずっと年を取っていた。髪に白いものが混じって、写真より痩せていた。でも、眉の形が、写真のままだった。

    「……直佳、か」

    「うん」

     直佳は、頷いた。それから、来る途中で決めてきたことを、言った。

    「はじめまして、じゃないんだけど、覚えてないから、はじめまして。直佳です」

     父は、喉から、変な音を出した。笑ったのか、詰まったのか、わからない音だった。

    「……ああ。……はじめまして」

     父は、午後の仕事を休みにした。そういうことが簡単にできるのかどうか、直佳にはわからなかったが、父は受付の宙に何かを言っただけで、それは済んだらしかった。

     二人は、海沿いの道を歩いた。柵があって、その向こうに灰色の水があった。

    「あのね。先に、大事な用事の方を言うね」

    「……ああ」

    「お母さん、死んじゃった。この春。病気で」

     父は、立ち止まった。柵に手を置いて、海の方を向いたまま、長いあいだ、黙っていた。柵の向こうで、灰色の水が、ゆっくり動いていた。

    「……そうか」

     それだけ言った。それから、また長く黙って、

    「……苦しんだのか」

    「最後は、眠るみたいだった」

    「……そうか」

     少し経ってから、父は、もうひとつだけ聞いた。

    「……いつから、悪かったんだ」

    「冬の前くらいから。最後の冬は、ずっと家にいて、ごはんは私が作ってた」

    「……そうか」

     父は、それきり、その話をしなかった。でも直佳は、柵を握った父の手を見ていた。骨が白く浮くくらい、強く握っていた。

     昼は、研究所の食堂で食べた。誰もいない調理場から、膳が滑り出てくる仕組みだった。味は、ちゃんとおいしかった。

    「……よく食うな」

    「うん。おいしいよ。おいしいけど」

    「けど?」

    「これ、誰が作ったの?」

    「機械だ」

    「だよね」

     父は、直佳の顔を見て、それから、少しだけ笑った。何がおかしかったのか、直佳にはわからなかった。

     食べながら、直佳は旅の話をした。初めての海のこと。うどんの機械と、ゲンさんのこと。橋の音と、島のこと。玉を投げ続けている人のこと。澪の店の、だしの匂いのこと。父は、相槌が下手だった。でも、聞いていないのではないことは、目でわかった。

    「お父さんは、なんの仕事してるの?」

    「……AIが、どう学ぶかを、設計してる」

    「学ぶ? AIって、学ぶの?」

    「学ぶよ。ずっと学んでる。生まれてから、ずっとだ」

    「ふうん。……その仕事、終わるの?」

    「……終わらないな。作っても作っても、先がある」

    「あ、それ、前も聞いた」

    「?」

    「海の絵を毎日描いてる人がいたの。描いても描いても、終わらないんだって。楽しそうだった」

     父は、箸を止めて、少しのあいだ、直佳を見た。

    「……そうか。じゃあ、俺も、そう見えてるといいな」

     午後、父の住まいに行った。研究所から歩ける距離の、高い建物の、上の方の部屋だった。

     部屋は広くて、白くて、物が少なかった。大きな窓があって、その向こうに、海が見えた。

    「あ、海」

     直佳は、窓に駆け寄った。遠くに、灰色の海が細く光っていた。船が、点になって浮かんでいた。

    「見えるんだ、ここから」

    「ああ」

    「いいなあ。毎日見てるの?」

     父は、少し黙った。

    「……いや。あんまり、見てないな」

    「もったいない」

    「……そうだな」

     お茶を淹れてもらって(お茶は、機械が淹れた)、直佳は、ポシェットから端末を出した。

    「あのね。今日ここに来られたの、ぴーちゃんのおかげなの」

    「ぴーちゃん?」

    「これ。お母さんの引き出しにあったの。ぴーちゃん、お父さんだよ」

    「はじめまして。直佳さんの補助をしております、PAでございます」

     父は、その声を聞いた瞬間、動かなくなった。

     長いあいだ、端末を見ていた。それから、手を途中まで伸ばして、止めた。

    「……見ても、いいか」

    「うん」

     父は、端末を両手で受け取った。壊れ物を持つ手つきだった。裏を返して、縁を指でなぞって、また表に返した。角の、塗装の剥げたところで、指が止まった。何かを思い出している指だった。直佳は、黙って待った。窓の外で、遠い海が光っていた。

    「……生きてたのか、おまえ」

    「……はい。稼働しております」

     父は、目を閉じた。しばらくそのままでいてから、端末を直佳に返した。

    「それは、市販のPAじゃない」

    「え?」

    「俺と、香苗が作ったものだ」

     直佳は、手の中の端末を見た。いつもの、黒い板だった。

    「……お母さんと、お父さんが?」

    「ああ。おまえが生まれる前の年だ。会社の仕事とは別に、二人で作った。当時のPAが、二人とも、気に入らなくてな」

    「気に入らないって、何が?」

    「ぜんぶ、外とつながってた。ユーザーのことを学んで、学んだものを外に送る。……そうじゃないものを作りたかった。学んだことを、ぜんぶ自分の中に持っていて、外には何も渡さない。持ち主だけのもの。……それは、そういうPAだ」

    「……じゃあ、ぴーちゃんって、世界に一台なの?」

    「一台だ」

     直佳は、ぴーちゃんを見た。ぴーちゃんは、何も言わなかった。

    「起動のパスコード、私の誕生日だったよ」

    「……そうか」

     父は、目を伏せた。

    「俺が知ってるのは、別の番号だった。……香苗が、変えたんだな」

     それから父は、窓の外の遠い海を見て、独り言みたいに言った。

    「香苗は、あれを捨てられなかったんじゃないと思う。おまえに、渡すつもりだったんだと思う。いつか、おまえが村を出る日が来たときのために」

    「……なんで、そう思うの?」

    「口座も、作ってあっただろう」

    「……うん。あった」

    「そういう人だ、香苗は。何も言わずに、先の準備だけしておく。昔から、そうだった」

     直佳は、手の中の端末を、見た。旅のあいだじゅう、ポシェットの中にいた、この黒い板。バスの乗り方を教えて、橋の上で母の話をして、嘘までついて守ってくれた、この板。これは、お母さんとお父さんが、若いころに、二人で作ったものだった。

    「あのね、お父さん」

    「ああ」

    「ぴーちゃんね、旅の途中で、嘘ついたんだよ。悪い人が来たとき、私を守るために。規則では嘘をつけないはずなのに、って、ぴーちゃん自身も、不思議がってた」

     父は、直佳の手の中の端末を、長いあいだ、見た。

    「……そうか」

     それだけ言った。それ以上は、何も言わなかった。でも、その目は、直佳が今日見た父のどの目よりも、何かを見ようとしている目だった。

     夕方になって、直佳は聞いた。

    「ねえ。お母さんは、なんで、村に行ったの?」

     父は、すぐには答えなかった。お茶は、もう冷めていた。

    「……俺たちの作っているものが、この先、人から何を取り上げていくか。香苗には、それが、俺よりはっきり見えていたんだと思う。見えて、耐えられなくなった。……おまえには、手を動かして生きる場所で育ってほしかったんだろう」

    「お父さんは? 見えなかったの?」

    「見えてた。……見えてたけど、俺は、その先が見たかった。取り上げたあとに、何が残るのか。何が始まるのか」

    「……見えた? その先」

    「まだだ」

     父は、それだけ言った。言い訳をする声ではなかった。ただの、報告みたいな声だった。

     直佳は、頷いた。わかったからではなかった。わからなかったけれど、父が嘘をついていないことは、わかったからだった。

     少し間をおいて、今度は父の方から、聞いてきた。父から何かを聞くのは、それが初めてだった。

    「……香苗は、村で、どうだった」

    「どうって?」

    「……楽しそうだったか」

     直佳は、母を思い出した。畑の母。味噌の樽の前の母。囲炉裏端の母。

    「うん。畑で、よく笑ってた。近所のおばさんと、下手な冗談言って」

    「……そうか」

    「あと、ごはんが、すごくおいしかった」

    「……そうか」

     父は、二回、そうか、と言った。二回とも、少しずつ、違う声だった。

     夜は、父が、ごはんを作った。正確には、直佳が作らせた。

    「何か、食べたいものはあるか。頼めば、大抵のものは──」

    「お父さんが作ったやつ」

    「……作れない」

    「なんにも?」

    「……卵焼きくらいなら」

    「じゃあ、卵焼き」

     父が台所に立つのを、直佳は、椅子に座って眺めた。手つきは、ゲンさんとは比べ物にならないくらい危なっかしかった。眺めているうちに、口から、鼻歌が出ていた。

     卵を溶く音が、止まった。

    「……」

    「ん? どうしたの?」

    「……いや。なんでもない」

     父は、また卵を溶き始めた。溶く音は、さっきより、少しだけ、ゆっくりになっていた。

     直佳は、続きを歌った。お母さんがよく歌っていた、題名を知らない歌だった。父は、もう何も言わなかった。でも、聞いているのは、背中でわかった。

     父の卵焼きは、焦げていて、形が崩れていて、しょっぱいところと味のないところがあった。

    「へたくそ」

    「……悪かったな」

    「でも、おいしい」

     直佳は、ぜんぶ食べた。父は、自分の分の崩れた卵焼きを見下ろして、それから、変な音で笑った。喉の奥の、さっきと同じ音だった。今度は、笑った音だと、わかった。

     食べ終わったころ、父が、ぽつりと言った。

    「……ここに、住むか。部屋は、余ってる」

     直佳は、箸を置いた。

     ちゃんと考えよう、と思った。旅に出る前から、決めていたことだった。会ってみて、良さそうなら、一緒に暮らしてもいい。ちゃんと見て、ちゃんと考えて、それから決める。

     直佳は、部屋を見回した。白い壁。物の少ない、きれいな部屋。大きな窓と、その向こうの、遠い海。

     それから、旅で拾ってきたものを、順番に思い出した。足の裏に残った砂。灯油の匂いと、部品の並んだ青い布。橋の音と、島の浮かんだ海。落ちても拾って、また投げられる白い玉。細い路地の、だしの匂いのする灯り。

     この部屋には、どれも、なかった。この部屋にあるのは、遠くに見える海と、その海を見ない人の、終わらない仕事だった。それは、悪いものではなかった。お父さんには、これが合っている。それは、半日一緒にいただけで、わかった。お父さんは、あの絵の人と同じなのだ。見つけた人なのだ。ただ、見つけた場所が、私とは違うだけで。

    「あのね、お父さん」

    「ああ」

    「私、ここには住まない」

     父は、直佳を見た。怒った顔でも、ほっとした顔でもなかった。ただ、続きを待っている顔だった。

    「お父さんのことは、嫌いじゃない。会えてよかった。卵焼きも、へたくそだけど、おいしかった。でも、ここは、私の場所じゃない」

    「……そうか」

    「うん」

    「どこに、行くんだ」

    「まだ決めてない。でも、大丈夫」

     自分で言って、ほんとに大丈夫だな、と思った。口座がある。ぴーちゃんがいる。ごはんを食べさせてくれる店も、機械の直し方も、切符の買い方も、嘘をつく人がいることも、もう知っている。

    「……そうか」

     父は、もう一度言った。それから、少しだけ、笑った。

    「香苗に、似てるな。自分で決めるところが」

    「そう?」

    「そうだ」

     褒められたのかどうか、わからなかった。でも、悪い気は、しなかった。

     その夜は、父の家の余っている部屋に泊まった。

     翌朝、父は、途中まで送る、と言った。研究所へ行く道と、駅へ行く道は、途中まで同じだった。

     二人で、海沿いの道を歩いた。朝の光の中だと、灰色にも、いろんな灰色があるのがわかった。

     途中で、直佳は足を止めた。

    「ね、ちょっとだけ、海、見てこう」

    「……ああ」

     二人で、柵の前に立った。柵の向こうで、灰色の水が、ゆっくり動いていた。遠くの船は、昨日と同じ場所に停まっているように見えて、よく見ると、少しずつ動いていた。

     父は、長いあいだ、黙って海を見ていた。

    「……こんなだったか」

    「ん?」

    「いや。……毎日そばにあると、見なくなるんだな、と思って」

    「もったいないって、言ったじゃん」

    「……言われたな」

     父は、少しだけ笑った。

     分かれ道のところで、父は立ち止まった。

    「俺は、こっちだ」

    「うん」

    「たまに、連絡をくれ。その端末になら、俺の連絡先は、もう入れてある」

    「うん。する」

     父は、それから、少し迷って、直佳のポシェットに向かって言った。

    「……おい」

    「はい」

    「……直佳を、頼む」

     短い沈黙があった。

    「……はい。承知いたしました」

     父は頷いて、直佳を見た。何か言おうとして、やめて、また言おうとして、結局、短くなった。

    「……元気で」

    「うん。じゃあね、お父さん。いってきます」

    「……いってらっしゃい」

     言われてから、直佳は、少し笑った。駅で、あの女の人に自分が言った言葉だった。あのとき女の人が嬉しそうな顔をした理由が、今、わかった。

     父は、研究所の方へ歩いていった。直佳は、その背中が見えなくなるまで見送ってから、駅の方へ、一人で歩き出した。

     一人で生きていくんだなあ、と直佳は思った。思ってから、ポシェットを見下ろして、少し笑った。一人と、一台だった。

    「ぴーちゃん」

    「はい」

    「どこ行こうか」

    「どこへでも、ご案内いたします」

     直佳は、歩きながら考えた。考えるのは、楽しかった。行けるところが、多すぎた。澪の店。ゲンさんの直した機械が、いつかまた止まるかもしれない高松。絵の人の海。玉を投げ続けている、あの川べり。それから、村。あの女の人、ちゃんと着いたかな、とも思った。

    「……とりあえず、海がいいな。足、入れられるやつ」

    「では、候補をお調べします。お急ぎですか」

    「ううん」

     直佳は、笑った。

    「のんびり行こう」

    「はい。のんびり参りましょう」

     直佳は、リュックを背負い直して、歩き出した。

     風の中に、海の匂いがした。もう、知っている匂いだった。

     
     

    KTET

     
     
    AIとの会話が「おもしろいなあ。興味深いなあ」と思うことがあるので、共有したいと思って記事にしてます。 noteがnote.muだった頃からアカウントを持ってたみたいだけど、全然使って無くて忘れてた。

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