
内外/左右とド真ん中
陰とも陽ともいかないどっちつかずの「ニュートラルな自己」が、ずっと私を占拠している。
撮る写真の趣きがガラッと変わったのも頷ける話で、ただそれは、街の人や建物が違ったり、使うカメラが変わったことや、陽の傾きや色が違うこと、写真の捉えられ方が違うこととか、そういうのが問題だとはおもっていない。
一番に変わったのは、自分自身なのだ。写真はそれに付随して、自己を映し出す鏡としての写真も同じように変わっていっていく。
私たちの指向は、内向きと外向きとの2種類に分類されて語られることが多い。もちろんそれはざっくばらんに見た人の指向に過ぎないのだけど、そういう二項*だけ*の対立・一方優勢があるとばかりに考えていた。その真ん中にある「ニュートラルな自己」には、まったく目も向けていなかった。

「内向き」になってる時には、ストレス耐性が格段に落ちるけれど、反対に「外向き」は、徒競走のアンカーで走ってる時みたいにアドレナリン出まくってて転んで血が出ても見向きもしないだろうし、ストレスをエネルギーとすら思えるんじゃないかな。でも、やけに攻撃的・威圧的になる。是が非でも自我を突き抜こうとする。今までを振り返るとそんなふうにおもう。
正直今はどちらともいえない。
常に馬力掛かってて何かにガンガン向かっていくでもなく、ただ内向的になって他者とのコミュニケーションを避けたり絶ったりするでもない。学生としての今、遊びと学びを半々くらいに上手いことやって、なんだかとってもバランスが取れているように思う。良いのか悪いのかは、ここではまだはっきりさせたくはない。

歩く地面がずっとずっと、崩れもしないし滑りもしない、安心・安全なアスファルトのようで。
それが不安なので、良くないと思っているのは確からしいんだけれど勉強フェーズにある今、どうにもその方が心地がいい。初めてこんな心地になっているから、ただただ、どことなく心許ないのもあるだろうし。


「ニュートラルな自己」が映す写真はとっても静かで、今までにはないものだったから私は好き。今までこういう写真のことを退屈だと思っていたけれど、右にも左にも寄らない地に足ついた気持ちで撮るこういう写真は、見ていて落ち着く。




でも一生そういう「見易い」のだけ撮っていたいとは、全然思っていない。内外とか左右とか中庸とか打ち捨てて、『そんなの知らんがな自分が自分やがな』と言っていたい。
写真は雄弁だが、時どき詭弁でもあるように思う。いちばんに間違いがないのは、撮影者自身が弁を振るう時なんだろうけど。
- 2025/7/15