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たった一文字で、国は譲らない。|Whisky と Whiskey

音と記憶の間に― ひとりごとの記録 54



たった一文字で、国が譲らないことがある。

たとえば、ウイスキー。

「Whisky」と「Whiskey」。

違いは、たった一文字。間に “e” があるか、ないか。
それだけだ。
けれど、その一文字のために、国が真顔になる。

スコットランドは、Whisky。
アイルランドは、Whiskey。

たかが “e”。されど “e”。

その一文字は、ただの飾りではない。たぶん。

今夜、ジャズピアノが小さく流れている。
そう書くと、少し格好をつけすぎている気もする。
実際には、天井のスピーカーから遠慮がちに鳴っているだけだ。

私はウイスキーのグラスを傾ける。
ラベルには「Bourbon Whiskey」の文字がある。

今夜は、e が付いている側らしい。
ウイスキーには、国境になる一文字がある。

たった一文字の違いに、文化と歴史が入り込む。
そして、少し面倒くさいプライドも入り込む。

私はグラスを眺めながら、e の有無について考えている。
平和といえば、平和な夜だ。

歴史を辿れば、どちらが先かという話になる。
けれど、ここで争っているのは、発祥そのものではない。
スペルだ。声を荒げず、アルファベットで線を引く。

人類は、石や鉄だけでなく、アルファベットでも国境を作れるらしい。
しかも、そのほうが案外、長持ちする。

面白いのは、飲んでしまえば、その違いが口の中からは消えてしまうことだ。

琥珀色。樽の香り。喉を通る熱。

そこにアルファベットはない。味ではなく、記号で戦う。

人間というのは、なかなか器用で、そして少し面倒くさい。
誇りというものは、案外、アルファベット一文字ぶんの幅に収まってしまう。

名刺に「代表」と書くか。「CEO」と書くか。

やっていることは同じでも、その表記に妙な体温が宿ることがある。

肩書きの順番。役職の高さ。

他人にはどうでもよく見えるものが、本人にとっては、譲れない国境だったりする。

「発祥」という言葉は、少し強い。
だから人は、もっと小さなところで線を引く。
スペルや肩書きや言い回しで。

言葉は柔らかい。
けれど、その柔らかさの奥には、硬い自尊心が潜んでいる。

バーの棚には、Whisky と Whiskey が並んでいる。
隣り合っているのに、どちらも譲らない顔をしている。

もっとも、ボトル同士は、その違いをまったく気にしていないようにも見える。気にしているのは、だいたい人間のほうだ。国も人も、自分の一文字を守りたがる。

たった一文字。たった一語。
そこに、なぜか人生のようなものを載せてしまう。
私たちが仕事でこだわる「一文字」も、実は誰かにとっての国境なのかもしれない。

ウイスキーは熟成で丸くなる。
だが、プライドは、そう簡単には熟成しない。

e があっても、なくても、グラスの底に残るのは余韻だ。
スペルではない。

そう思いながら、今夜はどちらでもいいから注ぐ。

私もまた、自分の “e” を守るために、だいたいのことには、後から理由をつけている。




たった一語の中に、文化や距離感が入り込むことがある。
「やさしい」という日本語についても、以前そんなことを書いています。


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この文章の背景にある、仕事と記憶の出発点については、
こちらにまとめています。


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