
魔女の家【長編ホラー小説】
長編ホラー小説
:25,774字
あらすじ
スーパーで働く青年は、山奥に一人で暮らす老婆への配達を担当していた。老婆は穏やかで親切だったが、どこか現実からずれた気配があった。同じく配達を担当した先輩が失踪し、過去の配達担当者とも連絡が途絶える。
先輩の行方を追ううちに、廃墟となった研修センター、すでに存在しない会社、そして残された歪な三日月の印が、少しずつ一本の線で結ばれていく。
その先に待っていたのは、これまでの出来事を静かに裏返すような、取り返しのつかない現実だった。
山の上に一軒だけ家が建っている。山頂近くに一区画だけ水平に切り取ったような平地があり、片側は切り立った崖になっている。そこにオレンジの瓦屋根の戸建てがある。『となりのトトロ』に出てくる家に似ている。壁は白い塗り壁で、木を切り出したような立派な扉がついている。
六人家族がゆったり住めそうな大きさだが、住んでいるのは一人の老婆だけだ。
なぜこんな不便なところに、おばあさんが一人で住んでいるのか不思議だった。一応車一台分がやっと通れる道は繋がっているものの、ふもとの商店まで30分はかかる。
おかげでぼくは週に一回、白いNバンに日用品や食料品をたっぷり積み込んで、この家まで運ばなければならない。ぼくが勤めているスーパー・マーケットからだと40分かかる。移動だけで往復1時間20分だ。ここまでするのは非効率的だと店長に訴えたことがあるが、十分に礼は支払ってもらっているらしい。この家以外に配達サービスは行っていないので、ここまで特別扱いするからには相当な料金をもらっているのではないだろうか。従業員は従うのみだ。
運転席を降りて、後部座席のスライドドアを開ける。ダンボール二箱を両手で抱える。家の横にはこぢんまりとした畑があった。崖のほうは遮るものがないので街を見渡せる。空は澄んでいて薄い雲が浮かんでいた。
呼び鈴を鳴らした。古いもので音がしないこともあるらしい。木の扉をノックして、大声で「こんにちは」と声をかけた。しばらく待つ。いつも出てくるまでに時間がかかる。
扉の木目を見た。目で辿っていくと、節があった。大きくて立派な節だった。形が整ったきれいな節で、これを理由にあえてこの木材を選んでもおかしくないくらいだった。
扉の奥でかすかな物音がした。それから扉がゆっくりと開く。しわくちゃの老婆が出てきた。髪は長く、見事な白髪だった。口元に柔和な笑みをたたえている。
「どうも。いつもありがとうね」
「いいえ。失礼します」
中に入り、玄関に荷物を下ろした。それから老婆に軽く頭を下げる。
「では、失礼します」
立ち去りかけると、老婆が声をかけてきた。
「今日は暑かったでしょう」
「そうですね」
「冷たいお茶でも飲んでくかい」
「いえ結構です。仕事中ですから」
「そうかい。じゃあ、ちょっと待ってな」
そう言うと、止める間もなく、老婆は家の奥に消えた。腰は曲がっているが、足取りはしっかりしていた。80近くに見えるが、畑をやってるくらいだから体は丈夫なのだろう。ぼくは腕時計に目をやった。昼前だった。腹が減ってきた。
しばらくして老婆が茶色い紙袋を手にして戻ってきた。
「おつかれさん」
そう言って、紙袋を差し出した。折り目がついていて古びた紙袋だった。中にペットボトルのお茶とせんべいが入っているのが見えた。せんべいはちょっとうれしかった。
「ありがとうございます」
「山の中だからね。ここまで来るのは大変だろう」
「まあそうですね」
「いつも悪いね」
「仕事ですから」
「仕事じゃなかったら、ここには来ないかい?」
なんだその質問。
「ええ、まあ……用事がなければ」
「いつでも来ておくれよ」
「ありがとうございます」
「待ってるから」
「はあ」
「ところで」老婆がぼくの右肩を指さした。「それ大丈夫かい?」
「え」
たしかに先週から右肩に痛みがあった。腕が上まで上がらない。服の下には湿布が貼ってあった。
「なんで分かったんですか」
「荷物を持つ人の肩だもの」
よく分からなかった。
「歳をとるとね、分かるんだよ」
「そういうものですか」
とだけ返した。
ぼくはもう一度礼を言って、車に戻った。山を下りてしばらくすると信号で止まった。その間に紙袋からせんべいを取り出して、口にくわえた。薄焼きの甘辛いしょうゆ味だった。包装を見ると、有名な千歳庵のせんべいだった。
そのとき、紙袋の端になにかが入っているのに気付いた。紙袋と同じような色の封筒だった。取り出してみると、なかに一万円札が1枚入っていた。
なんだこれ。
と思ったタイミングで、大きなクラクションがなった。信号機は青に変わっていた。後方には軽トラが止まっていた。年配の男が窓から顔を出して、渋い顔でこちらを見ていた。急いで発進した。
***
店に到着した。スーパー・マーケットの客足はよくなかった。従業員用の通路には、在庫の入ったダンボールが積み上がり、台車が雑然と置かれていた。壁には警察官の制服姿の女性アイドルが写った、目的の分からないポスターが貼ってあった。かわいらしい女の子だった。ポスターの前を通るたびに、目が合うような錯覚がした。
事務所に入った。店長がデスクでパソコンに向かっていた。
「おかえり」
店長が言った。たまに頭の後ろに目がついているんじゃないかと思うことがある。
「ただいま戻りました」
頭に一万円札のことが浮かんだが、黙っておくことにした。
「あのおばあさんって、ちょっと変わってますよね」
とぼくは言ってみた。
「そうだね、あんなところに住んでるくらいだからね」
「なんであんな不便なところに住んでるんでしょう」
「さあ」
「店長も知らないんですか」
「あんまり気にしたことなかったな」
「そうですか」
ぼくはロッカーから弁当を取り出して、テーブルで食べた。
「あの人、いい人ですよね」
ははっと店長が笑った。
「あのばあさん、気前いいだろ」
ぼくは一万円札を思い浮かべて少し焦った。
「そうですね」
「いつも野菜くれるし」
「ああ」
ぼくはあいまいに返事をして、ご飯を喉の奥に流し込んだ。それから言った。
「あのおばあさんって何者なんですか」
店長がこちらを振り向いた。
「悪い人じゃないよ」
「それは分かってます」
「もともとは商売をやっていたらしい。健康食品かなんかを売っていたんだよ」
「そうなんですか」
「だいぶ儲けたみたいだね。大きい工場も持っていたくらいだから」
「お金持ちなんですね」
「山で暮らすには案外金がかかるんだ。あんな場所に立派な家を建てるには、資材ひとつ運ぶのだって苦労するんだよ」
たしかに重機だって入れるか分からない。そう考えると、あの家が建っていること自体不思議だった。
「食料品を運ぶのだって大変だろ」
「そうですね」
「君には助かっているよ。もう長いものな」
「そうですかね」
「けっこうすぐ辞めちゃうんだよ」
「え、配達ですか」
「いやいや配達は喜んでやってくれるんだけど、配達をまかせた奴らが、つまり君の前任者たちだな、突然仕事を辞めるって言い出すことが多くてね。こっちは困ってしまうよ」
ぼくは箸を止めた。
「全員ですか?」
店長は天井を見て少し考えた。
「そうだったかな」
「それっておかしくないですか」
「なにもおかしなことはないさ。若い奴なんてそんなものだよ。俺はね、若い者にはもっと責任感をもってほしいと思っているんだ」
店長は、退職する従業員たちへの不満をこぼし始めた。その主張は正当に思えるものもあったが、過剰に思えるものもあった。
***
三日後。ぼくは山の上の家に向かった。普段は週一回の配達だが、おばあさんから連絡があったらしく、緊急的に配達することになった。たまにこういうことがある。
運ぶダンボールの中身は、有機野菜やフルーツ、ニンニク、牛乳、トイレットペーパーなどだった。緊急的だからといって量が少ないわけじゃない。せっかくだからといろいろ詰め込むのだ。中身はいつも店長が電話で聞いて準備してくれる。
荷物を両手で抱えて、呼び鈴を押した。それからノックして、大声で呼びかけた。待っている間、扉の木目と節を見るのに飽きると、家の周囲を見渡した。
畑には何種類か野菜があった。支柱が立っており、それに沿って植物が伸びている。いくつかネットが張ってあるのも見える。立派なミニトマトがあった。見慣れない野菜も多い。
畑の横の地面に、白い石が歪んだ三日月のような形に並べてあった。この間はなかった気がする。なにかのアートのようにも見える。なんらかの意図を感じるが、それが意味するところは見当がつかなかった。
しかし今日は遅い。老婆はなかなか出てこなかった。念のため、もう一度呼び鈴を押してみる。「ごめんくださーい」と大声で叫ぶ。もしかすると家の中で倒れて一人で動けなくなっているのかもしれない、という考えがよぎった。
荷物を玄関先に置いて、建物を少し回り込んでみた。カーテンが閉まっていて、窓の中は見えない。軒先にニラのようなものが藁で縛って干してあった。ニラに似ているがニラではない。ニラより細いし、色はもっと深い緑で根元のほうが淡い黄色だった。
「オウコンソウだよ」
突然背後から声がしたので飛び上がりそうになった。すぐ後ろに老婆がいた。
「あ、あのすみません」
「いいんだよ」
老婆は背中で手を組み、微笑んでいた。
「いらっしゃったんですか」
「悪いね。裏でちょっと作業していたものだから」
「その、もしかしたらあなたが倒れているかもしれないと思いまして」
「心配してくれたのかい」
「ええ」
老婆はにいっと笑った。
「えっと、さっきなんておっしゃいました?」
「さっき?」
「なんとかソウとか」
「ああ、オウコンソウだよ」
老婆は軒先に干してあるニラのようなものを指さした。
「オウコンソウ」
「薬草だよ。いい香りがするんだ。ネットに入れて風呂に入れるといいんだよ」
「そうなんですか」
ぼくたちは表に戻り、荷物を玄関の中に入れた。
「急にすまなかったね」
「いいんです」
「ちっと勘違いしててね。便所のペーパーが切れちまったもんだから」
「そうでしたか」
「けつも拭けないと困っちまうだろ」
老婆は豪快に笑った。ぼくはぎこちなく笑った。
「オウコンソウはね、お茶にしてもいいんだ。肌つやがよくなるよ。さっき刻んだのがあるから飲んでくかい」
「いえ、結構です。それより――」
ぼくはポケットから一万円札の入った封筒を取り出した。もらったそのままだった。
「ちゃんと見つけたんだね」
「これお返しします」
「とっときなよ。あって困るもんじゃない」
「そういうわけにはいきません」
ぼくは封筒を差し出した。老婆が受け取る。
「そうかい」
老婆は封筒に目を落とし、それからじっとぼくの目を見た。
「あんた、仕事は好きかい」
「え」
「この仕事だよ」
「別に好きでも嫌いでもありませんけど」
「そうさね、流れがあんたをここに運んだんだね」
よく分からず、ぼくはあいまいに流した。そろそろ帰ろうと思ったが、老婆は話を続けた。
「あんた本当にこの仕事が嫌いじゃないのかい」
老婆がなにを言いたいのか分からなかった。
「だってあんた、本当は別のことがやりたいんじゃないのかい」
別のこと。言葉が胸に引っかかった。たしかに思い浮かぶものがあった。でも現実はそんなに簡単じゃない。なりたいからなれるわけでもない。
「それにこんなおばあさん一人のために、重い荷物を持って曲がりくねった狭い道を運転しなくちゃいけない」
ぼくはなにも言わなかった。
「うちはね、電気も水道も通ってる。昔お役所に交渉したのさ。あんたは無駄だと思うだろう。もっと便利なとこに住めばいいと思うだろう」
その通りだったので、ぼくは黙っていた。
「ここじゃないと駄目なんだよ」
ここじゃないと駄目。
「どうしてですか」
「ここがすべてだからさ」
そういうものなのだろう。長年ここに暮らしてきたのだ。いろんなものが染みついているのだ。でもそれは縛られているようでひどく不自由に思えた。もしこの地で生活するのが難しくなってここを離れざるを得なくなったら、この人はどうするのだろう。そのことを思うと不憫に思えた。
「嫌だったらやめたらいいのさ」
「なにをですか?」
「ここに来るのをさ」
一瞬怒っているのかと思ったが、そうではなかった。しわくちゃの顔には愛嬌のある笑みが浮かんでいた。頬にシミがいくつかあった。
「簡単なことだよ。担当を変えてもらえばいい。斎藤に言っといてやるよ」
斎藤というのは、うちの店長だ。
「世話してやってるからさ。あたしが言えば大丈夫だ」
「そういうわけにはいきません。それに、別に嫌じゃありませんよ」
「でも無駄だと思わないかい」
「無駄」
「老人一人のために金をかけたり、いろいろ苦労することさ」
少し心当たりがあった。だから、とっさに否定できなかった。
「いいんだよ」老婆は言った。「大丈夫、うまく言っといてやるから。あんたの悪いようにはしないよ」
***
店に帰ると店長は難しい顔でパソコンの画面を睨んでいた。その日は何も言われなかった。翌日の昼ごろ事務所に呼び出された。
「調子はどう?」
店長の様子がいつもと違う気がした。
「特に変わりありませんけど」
「あのばあさんがね、君のこと褒めてたよ」
「そうですか」なにも褒められるようなことはしていない。「なんて言っていましたか?」
「今時めずらしくしっかりした青年だって」
「そうですかね」
「しっかりしているっていうのは、つまり中に一本筋が通っているということだよ。君は静かだけどね、自分がないわけじゃない。ただあえて主張しようとしないだけだ」
店長は普段こんなことは言わない。
「そう言っていたんですか」
「ああ」店長が頷く。「俺もそう思うよ」
沈黙が流れた。妙な居心地の悪さがあった。
「君には可能性がある」
「可能性」
妙な言い方だ。店長らしくない。
「ほら、こないだ一生懸命メモしてたろ」
小説のアイデアや使えそうな断片をノートにメモしていた。気配を感じて隠したが遅かった。でもあのとき、店長は気にも留めていなかった。
「それがどうかしたんですか」
「つまり仕事でストレスを抱えなくてもいいんだよ」
「ストレス?」
「そうさ。仕事は、ちゃんと業務をこなせばそれでいい。あとは好きなことをやったらいいんだ」
「ちょっと待ってください。ぼくストレスなんて言いました?」
「言ってないけど、そうじゃないのか」
「別にストレスじゃありませんよ。少なくともそんなに意識したことはありません」
「それならいいんだが」
店長がなにを考えているのか分からなかった。昨日までとはなにかがズレている気がした。
「とにかく、がんばってくれ」
「はい」
としか言えなかった。
「君はもう配達はしなくていいよ」
「え」
「いつも通り品出しをやってくれ」
「どうしてですか」
「わざわざ遠くまで狭い山道を運転するのは大変だろう」
「そうではなくて、どうして急に?」
「さっきも言っただろ。君のことを応援しているんだよ。余計なことはやらなくていい」
「配達はどうするんですか」
「ほかの人に頼んだから大丈夫だ」
店長がそう言うなら、ぼくが従わない理由はなかった。
午後の品出し中、安住先輩がぼくに声をかけてきた。ぼくが入ったばかりのころから気にかけてくれた先輩だった。あの家への配達は、安住先輩が担当することになったらしい。
ぼくは業務の切りがいいところで、先輩に詳しい手順を説明した。先輩は要領よくいくつか質問して、仕事の流れを確認した。それから、さわやかな笑顔を浮かべて片手を上げ、「ありがとな」と言って去っていった。今日は早番らしい。
先輩は結婚もしていないし、彼女もいない。顔は整っているし性格もいいのに。ぼくが女だったら、先輩と付き合いたい。先輩は「気色の悪いこと言うなよ」と笑うだろうけど。
***
「あのばあさん、いい人だな」
昼休憩中に、安住先輩が山の上の老婆の話を持ち出した。先輩はなんの苦もなく配達をこなしていた。
「そうですね。でも不思議な人ですよね」
「わかる。雰囲気あるよな」
そこで先輩は少し声を落とした。
「実はこないだ、”これ”もらっちゃってさ」
先輩は右手を返すと人差し指と親指で輪をつくり、お金のジェスチャーをした。
「いくらですか」
「一万」
「一緒です」
「お前ももらったのか?」
「ええ、返しましたけど」
「俺も断ったんだけど、結局お礼言ってもらっちゃったよ。まずかったかな」
ぼくは少し考えて、「いいんじゃないですか」と言った。
先輩はパンを一口かじって、水筒に入ったコーヒーを飲んだ。
「最近は書いてるのか」
小説のことだ。先輩には書いたものを見せたこともあった。
「ちょっとスランプですね」
「そういうこともあるよな」
「なんか気持ちが乗らなくて、進まないんです」
「そっか」
先輩はそれ以上言わなかった。そういうところも、ぼくは好きだった。
「俺もさ、お前のこと見てると、なんかやりたいなって思うんだよ」
「なにかやりたいことあるんですか?」
先輩のこういう話を聞くのは初めてだった。
「店をやりたいんだ」
「なんの店ですか」
「喫茶店だな」
「いいですね」
先輩は笑った。「いいだろ」
前に先輩が高校生のころ喫茶店でバイトしていたと話してくれたのを思い出した。
「ぼくなんでも手伝います。できることだったら」
「実はさ、昔から気になってる物件があるんだよ」
先輩の話は思っていたよりも具体的だった。喫茶店のカウンターに立つ先輩は簡単に想像できた。でも、その隣にいる自分の姿は、なんど試してもうまく思い描けなかった。
「でも先輩、お金がないお金がないって言ってませんでした?」
「まあな。でもなんとかなるよ」
「そうですか」
先輩はぼくの顔を見て少し考えていた。
「心配か」
「そういうわけじゃないんですけど」
「大丈夫だって。店ができたらさ、お前も来てくれるだろ」
「もちろんです」
先輩は笑った。
先輩はパンを食べ終えると、袋をきれいに折りたたんでゴミ箱に捨てた。ぼくはまだ半分も食べ終えていなかった。
「先輩」
「なんだ」
「喫茶店のこと、いつから考えてたんですか?」
先輩は少し考えた。
「……いつだったかな」
先輩は仕事に戻った。テーブルに白いパンくずがひとつ落ちていた。ぼくはしばらくそれをぼんやり眺めていた。
***
それから三か月ほど、安住先輩は変わらずスーパーで働いていた。週に一回は山の上の家まで配達にも行った。休憩時間になると、ときどき喫茶店の話をした。コーヒー豆のことや、古い椅子を譲ってもらえる店のこと。話すたびに、その夢は少しずつ輪郭を帯びていった。
そして三か月後、先輩は仕事を辞めた。思っていたよりもずっと早かった。喫茶店の件の目途がついたらしい。その顔はこれまでになく晴れやかだった。先輩を止める権利はぼくにはなかった。
事務所で簡単なセレモニーが行われた。ぼくは先輩にコーヒーカップのペアをプレゼントした。ちょっと奮発した。アラビアのシンプルなデザインのものだった。同じデザインのソーサーが付いていた。
喫茶店から連想して選んだが、よく考えたら2セットだけあってもお店で使えるわけがない。家で使うにしても、先輩はひとり身だから持て余すかもしれないし。でも先輩は、まさにこれが欲しかったんだというように、すごく喜んでくれた。
先輩がいない事務室は少し広く感じた。ぼくはまた配達の担当になってもよかったのだが、店長は新人の女の子を指名した。
ぼくはなんどか先輩に連絡してみた。先輩はお店の準備で忙しそうだった。県外に引っ越すらしい。この辺だと客足が少なすぎるのだ。たとえ遠くてもお店ができたら絶対に行くと決めていた。しかしそのうち先輩と連絡が取れなくなってしまった。メッセージが返ってこない。電話もつながらない。
店長の話がふと頭をよぎった。山の上の家に配達に行っていた人たちが、みんな仕事を辞めてしまった――。
事務所に店長がいたので話してみた。
「最近、安住さんと連絡とりましたか?」
「だれ?」店長はパソコンのキーボードを叩いていた。
「……安住さんです、こないだ辞めた」
「ああ」店長は頭を掻いた。思い出すのに少し時間がかかった。「辞めてすぐのころに、手続きがあって何度か連絡したきりかな」
「最近連絡がとれなくなってしまって」
「そうなの?」
「はい、電話も出ないですし」
「忙しいんじゃない?」
「お店の場所とかって知りませんか」
「お店?」
「喫茶店ですよ。先輩お店作るって言ってたじゃないですか」
「ああ、そんなことも言ってたね」
店長は画面に打ち込んだ数字を見比べていた。ぼくはしばらく何も言えなかった。
「それで、なにか知りませんか」
「辞めた後のことは知らないんだ。個人情報のこととかもあるから」
「前に言ってましたよね、配達の担当がみんな辞めたって」
「そうだよ。こっちは困ってるんだから」
店長の愚痴が始まりそうな予感がしたので、すぐに質問を重ねた。
「その辞めた担当って何人ですか」
「うーん」店長はしばらく考えた。「たぶん5、6人かな」
「多いですね」
「そうかな」
「そうですよ」
「今はすぐに辞めちゃう人も多いんだよ」
「みなさん、なんで辞めたんですか」
店長はなにか入力ミスをしたらしく、Backspaceキーを何度か強く叩いた。
「それはいろいろだよ」
「いろいろ」
「君も分かってるだろ。あいつと同じようなもんさ」
「安住さんですか?」
「そう、安住。それぞれに事情があって辞めたんだ」
ぼくはそれ以上聞くのをやめた。最後にだめ元で辞めた人たちの連絡先を聞いてみた。断られるだろうと思ったが、店長はあっさりとファイルの場所を教えてくれた。
「いいんですか?」
「見たら戻しておいて」
店長はそれだけ言うと、どこかに電話を掛けた。取引先かもしれない。電話を持ったまま、相手に見えもしないのに、何度か頭を下げていた。
ぼくは事務所のキャビネットから目当てのファイルを探した。青いファイルに数人分の退職者の書類が残っていた。緊急連絡先のファイルには先輩の実家の電話番号もあった。ぼくはいくつかの番号をメモした。
休憩時間になってから外に出た。まずもう一度安住先輩に電話をかけてみた。コールが繰り返される。やがて留守番電話に切り変わって、ぼくは電話切った。
ぼくはポケットからメモを取り出した。退職者の電話番号が三件書いてあった。上から順番に電話をかけることにする。
番号を押す前に、電話に出たら相手になんてい言えばいいだろうと考えた。具体的な言葉は浮かばなかった。事情を説明するしかない。
少し緊張して番号を押した。コールが繰り返される。その間、ぼくはいくつかの言葉を思い浮かべた。いくつかの言葉は不審に思われずに済むように思えた。
しかし電話が取られることはなく、留守番電話に切り変わった。なにかメッセージを残そうとも思ったがやめた。
次の番号にかける。すぐに自動音声が流れた。
――おかけになった電話は、電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため、おつなぎできません。
機械的な声が冷たく響いた。嫌な予感がした。
三件目にかけた。数回のコールのあと、電話が取られた。
「はい、もしもし」
野太い男性の声だった。ぼくはしどろもどろになってしまった。
「あ、あの、ぼく芦名さんが勤めていたスーパーで働いている者ですが」
芦名というのは、一緒にメモしてあった退職者の名前だった。
「はい?」
「えっと、芦名さんの携帯で間違いなかったでしょうか」
「違いますけど」
「あー、スーパーで働いていたことはなかったですよね?」
「ないよ」
「すみません、間違えてしまったみたいです」
相手はなにも言わずに電話を切った。
メモの番号と発信履歴を照らし合わせた。メモした番号で間違いなかった。ぼくはひどく混乱した。もう一度番号の数字を一つずつ見比べた。それでも間違っていなかった。
別の人。番号が変わった?
もう一度かけてみる気にはならなかった。ぼくはメモを広げて、先輩の実家の番号をしばらく眺めていた。それからメモを折りたたんでポケットに閉まった。
午後の仕事が始まるチャイムが鳴った。ぼくは仕事に戻った。
***
その日の夜、夢を見た。ひどく恐ろしい夢だった。はっきりとは覚えていないが、いくつかの断片が、踏みつけたガムみたいに頭の隅に残っていた。
夢の中で、ぼくはあの山の上の家にいた。空が赤かった。家の中からたくさんの人が出てきて笑っていた。
知っている顔がいくつもあった。おばあさんや店長、安住先輩、同僚、新人の女の子、母さん、妹、学生時代の友達。知らない人もいた。顔がぼやけている人もいた。順番に見ていくと、同じ顔が何人も混じっていて、それがひどく気味悪かった。
みんな同じ方向を向いて歩いていた。なぜ笑っているのか、ぼくには分からなかった。
集団はどこかへ向かっていた。ぼくは立ち止まったまま、その波に呑まれた。抜け出そうとしても体が思うように動かなかった。赤い空だけがゆっくり揺れていた。世界が伸びたり縮んだりした気がしたが、よく覚えていない。
目が覚めた。時計は2時46分を指していた。寝間着が汗で張り付いていた。目をつぶってもう一度眠ろうとしたが眠れなかった。仕方がないので、ベッドから出て水を飲んだ。それから椅子に座ってしばらくぼーっとしていた。
アパートの外で猫の鳴き声がした。
パソコンをつけて、小説投稿サイトの小説をいくつか読んだ。心が定まらなかった。小説の物語は自分の頭の中を通り過ぎて、遠く向こうで展開されていた。文章が何も頭に残らなかった。
自分の小説を開いてみた。しばらく画面を見つめていたが、書く気持ちが湧いてこなかった。それでも試しに何文かだけ書いてみた。悪くない文章だった。書き始めると意外と筆が進んだ。夢のイメージが頭に浮かんで、それを文章に反映させてみた。目的の分からない描写だったが、奇妙な凄みが出た気がした。
窓の外に朝の気配を感じた。カーテンのすき間から光は差し込んでいなかったが、温かな残滓のようなものを感じ取ることができた。すぐ外ですずめがチュンチュンと鳴いた。
今日は休みだった。
ぼくはちゃぶ台の上にあるメモに目をやった。一番下に、安住先輩の実家の電話番号が書いてあった。
まだ早い。こんな時間に電話をかけるわけにはいかない。
ゴミ袋を持って外に出た。外はまだ薄暗く、空気は冷たく澄んでいた。集積所にはすでにゴミ袋が二つ出してあった。こんなに早い人がいるのだ。そのまま近所を少し歩いた。新聞配達のバイクが通り過ぎた。
部屋に戻った。
パンを焼き、コーヒーを淹れた。何度も時計を見た。時計の針はなかなか進まなかった。
テレビをつけても内容は頭に入らなかった。音だけが流れていた。スマートフォンを手に取っては置き、また時計を見る。まだ早い。
コーヒーを飲み終え、本棚から文庫本を一冊抜き出す。二ページ読んで閉じた。
9時まで待って、ちゃぶ台の前に腰を下ろした。メモを手に取る。一つ深呼吸をした。番号を押す前に考えることがある気がしたが、考えても仕方ないのだと思った。
スマートフォンで番号を押した。
呼び出し音が鳴る。三回鳴ってから電話が取られた。
「はい、安住です」
年配の女性の声だった。
「あの、ぼく、安住さんが以前に働いていたスーパーでお世話になっていた者です」
「あら、そうですか」優しくて感じのいい声だった。「私、直哉の母です。うちの子が大変お世話になりました」
そういえば安住先輩の下の名前は直哉だった。
「いえ、お世話だなんて。ぼくのほうが、安住さんに良くして頂いてたんです」
「それは良かったわ」電話口からふふっと笑う声が聞こえた。「それで、どうかされたんですか?」
ぼくは連絡が取れなくなっていることを説明した。
「それはご心配おかけしましたね」
「何かご存じないでしょうか」
「実は私たちも最近連絡していないんです。あの子、今とても忙しいみたいで」
「そうですか」
「でも心配いらないと思いますよ。引っ越す前にしばらく連絡できなくなるって言っていましたから」
「そんなに忙しかったんですね」
「なんでも合宿みたいなものに参加するからって」
「合宿ですか」
ぼくはその言葉の指すものがうまくイメージできなかった。
「ええ、そう言ってたわ」
「お店の準備ではなかったんですか?」
「そのためのお勉強みたいなものなんじゃないかしら。出資してくださる方も来るみたいで」
「出資、ですか」
「ええ」安住先輩の母親は少し言い淀んだ。「嬉しそうに話してたんですよ。期待してもらえているみたいで」
「誰かがお金を出してくれるということでしょうか」
少し間があった。
「ごめんなさい。私もちゃんとは知らないの」
「そうですか」
「ええ」
少し沈黙が流れた。
「安住さんの引っ越し先はご存じですか?」
「ええ。少しお待ちくださいね」
電話が保留になった。聞き慣れたメロディーが流れる。
ぼくは少し考えを巡らせた。安住先輩は出資者の来る合宿に参加している? だから連絡できない? どんな合宿だろう。やはりぼくには想像がつかなかった。
メロディーが切れた。
「お待たせしてごめんなさい」
「いえ」
安住先輩の母親は、県外の住所を告げた。ここから車で1時間以上かかる場所だった。ぼくはお礼を言って電話を切った。
これからすぐ出発して、聞いた住所に行くこともできる。でもそれは余計なお世話かもしれない。安住先輩は夢を実現するために努力しているだけなのだ。
でも頭の中に拭えないものがあった。何度書き消そうとしても燻っていた。
ぼくは車のキーを取ってアパートを出た。安住先輩の元気な姿を一目見られればそれでよかった。
***
空には雲が多かった。雲の切れ目に少しだけ淀んだブルーの空が見えた。ホームセンターが一軒あり、営業しているかも分からないような飲食店をいくつか通り過ぎた。建物がまばらになり、両脇は田んぼだらけになった。国道から県道に入り、少し道幅が狭くなった。対向車はほとんど来なかった。左手が山になり杉の木が並んでいた。
道を間違っていないか心配になったが、ナビはもう5分で着くと告げていた。
緩やかなカーブを抜けたところで、山を背にした四角い建物が見えた。古びた鉄筋コンクリートの建物だった。白い外壁が黒ずんでいた。敷地は広く塀で囲まれていた。道路に面したところに門があった。
ハザードランプを焚いて、門の手前で停車した。蛇腹状の伸縮門扉があり、その中央にチェーンが掛けてあった。打ち捨てられた研修センターか何かに見えた。敷地内には雑草がたくさん生えていた。
門の支柱に金属プレートがかかっている。
『瑞生ヘルス 株式会社
研修センター』
どうやら本当に研修センターらしかった。少なくとも、そう書かれていた。会社は聞いたこともない名前だ。
ぼくは門に近づいて、中を覗きこんだ。門の右上にカメラがついていたが動いていないようだった。敷地はかなり広く、アスファルトになっている。ひび割れたアスファルトから植物が伸びている。建物はドラッグストアくらいの大きさがある。二階建てで、茶色い手すりの付いた広いバルコニーがあり、そこからも伸びた草が覗いていた。窓の何枚かが内側から板で塞がれている。人の気配はない。
ここに安住先輩がいるとは思えなかった。ぼくは何を間違ったのだろう。安住先輩の母親が嘘をついた? そうは思えなかった。言い間違いや聞き間違いはあるかもしない。いや、違う。ぼくはもっと大きなところで間違ったのだ。
湿った風が吹いて、ぼくは身震いした。
塀に沿って周りを歩いてみた。塀の向こうに建物の上部が見えた。右に回り込むと、建物の二階の壁に何かマークが描いてあるのが見えた。青いペンキは掠れ、周りの壁と一緒に黒ずんでいる。
どこかで見たことがある形だった。そんなに昔のことじゃない。
すぐに思い当たった。
あの山の上の家で見たのだ。畑の横に白い石が並べられていた。あの、歪んだ三日月のような形だ。
***
ぼくは車の中に戻り、スマートフォンで安住先輩の実家に電話を掛けた。
「はい、安住です」
母親だった。
「何度も申し訳ありません。午前中にも電話した安住さんの職場の者ですが」
「あ、スーパーの?」
「そうです」
ぼくはまず住所をもう一度確認することにした。今いる研修センターの住所を読み上げ、母親に確認してもらう。
「ええ、合ってます。それが直哉の新しい住所です」
「実はぼく、今その住所に来ているんですけど」
「あら、直哉に会えました?」
「それが、古い研修センターみたいなんです」
「え」母親は訝し気な声を上げた。「それはどういうことかしら」
「ぼくにもはっきりしたことは分かりませんが、雑草が伸び放題で廃墟みたいな感じなんです」
電話の向こうで母親が混乱しているのが分かった。言葉にならない音が聞こえた。
「では、直哉はどこにいるんでしょう?」
「分かりません。でもお母さんのほうから連絡を取ってみてくれませんか」
「ええ、もちろんです」
いったん電話を切った。ナビを自宅に設定してから車を出した。運転しながら考えを巡らせた。いくつかの考えが浮かんだが、どれも確かなものはなかった。
しばらくして着信音が鳴った。ぼくは車を路肩に止めて、スマートフォンを見た。安住先輩の実家からの折り返しだった。
「どうでしたか?」
「それが何度かけても全然つながらなくて」
「やはりそうでしたか」
「あの子、いったいどこにいるんでしょう」
母親は不安が隠せないようだった。声のトーンが落ち、悲痛さがにじみ出ていた。
「分かりません」ぼくはできるだけ落ち着いた調子で話すようにした。「でも、一つ気になることがあります」
「気になること?」
「もしかすると安住さん、お母さんには違う住所を伝えていたんじゃないでしょうか」
「違う住所?」
「何か事情があって、本当の行き先は話せなかったとか……」
「どういうこと?」
「誰かに言わないように言われていたのかもしれません」
「どうして?」
「それは分かりませんが」
「誰がそんなことするの?」
母親は矢継ぎ早に質問した。語気が強くなっていた。
「たとえばお店を出すのを支援してくれる人です。心当たりはないですか?」
「さあ。そういう人はいたみたいだけど、私は会ったことないし……」
「そうですか」
「警察に相談したほうがいいかしら」
「そうなるかもしれませんが、今はまだ分かりません」
「どうして話してくれなかったのかしら」
母親が呟いた。ぼくは何も言えなかった。
「あの子はいったいどこへ……?」
頭に浮かんだのは、山の上に建つオレンジの瓦屋根の家だった。でも、それを口にするには何も根拠がなかった。
「……分かりません」
***
ぼくは車を走らせた。車内の空気が淀んでいる気がして、窓を開けた。空気は湿り気を帯びていた。雲はどんよりとしていて、巨大な生物の腹のように見えた。田んぼで、麦わら帽子を被ったおじいさんがのり面の草を刈っていた。
ハンドルを握りながら、同じことを何度も考えていた。安住先輩はどこへ行ったのか。これから何をすればいいのか。
山の上の老婆を訪ねることを考えてみた。確かなことは何もないが、安住先輩は家族にも告げずいなくなってしまった。そして少なくとも、安住先輩が母親に伝えていた住所にあったのと同じマークが、あの家の畑にあったのだ。そのことを問い詰めてみてもいいかもしれない。
そこまで考えて、まだ確かめていないことがあるのを思い出した。
コンビニが見えたので、パーキングに車を入れた。トイレを借りて、スペアミントのガムとホットコーヒーを買った。
車に戻り、スマートフォンを開く。研修センターにあった金属プレートの会社名を入力して、検索をかけた。
『瑞生ヘルス 株式会社』
電波が悪くて、読み込みに時間がかかった。
検索結果は思ったより少なかった。一番上には会社のホームページが表示された。
『瑞生ヘルス株式会社』
『自然由来の植物研究を通じ……』
その下にURLが表示されている。タップしてみる。
『このサイトにアクセスできません。』
もうホームページは残っていないようだ。検索結果に戻る。他に、レビューサイトや個人のブログや掲示板のログなどがあった。いくつか巡回してみる。古い情報が断片的に残っていた。
どうやら瑞生ヘルス株式会社は小さなサプリメントメーカーらしかった。もう廃業している。商品の評判は悪くなかった。「肩こりがラクになった」「疲れにくくなった」「高価だけど価値がある」。再販を望む書き込みも多い。
どの情報も古かった。新しい記事はひとつもない。
ぼくは店長の話を思い出した。
たしか、あのおばあさんは健康食品を売っていたのだ。
もしあの人が安住先輩のお店の立ち上げに関わっていて、何らかの形であの住所を使わせたのなら、辻褄は合うかもしれない。
そう考えると、先輩が姿を消したことまで無関係とは思えなかった。
もし先輩がいなくなったことに関わっているなら、そのときは多少強引にでも家の中を見せてもらおう。相手は年老いた女性だ。いざとなれば押し切れるはずだ。
そんなことを考えている自分に少し驚いた。でも遠慮するつもりはなかった。
ぼくはナビの目的地を設定しなおして、車を発進した。
***
途中で職場に寄った。ちょうど休憩時間のはずだった。でも事務所に新人の女の子はいなかった。店長はいた。
「おつかれさまです」
「あれどうしたの?」店長が言った。「今日、シフト入ってないよ」
「ちょっと春さんに聞きたいことがありまして」
「へー」店長が意味ありげに顎に手をやった。「春ちゃんならもう来るよ」
店長の言う通り、そのあとすぐに新人の女の子が事務所に入ってきた。ぼくよりずっと若い。高校生とほとんど変わらない。
「おつかれさま」と声をかけた。
「あ、おつかれさまでーす」明るい声だった。視線を上下させる。「めずらしいですね」
ぼくの私服姿のことだろう。
「今日は休みなんだ」
「えぇー、いいなあー」
ぼくはぎこちなく笑った。
「今ちょっといいかな」
「いいですけど」
店長がこっちをちらりと見た。ここだとなんとなく話しづらかった。事務所を出て、バックヤードの隅に移動した。
「どうしたんですか?」
「ガム食べる?」
ぼくはスペアミントのガムを差し出した。
「いらないです。わたしグミ派なんで」
「そっか」ぼくはガムをポケットのしまった。「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「なんですか?」
「春さんって配達の担当だよね?」
「そうですよ」
「最近配達に行ったときに変わったことはなかった?」
「変わったこと?」
「たとえば、お金を渡されたりとか」
「ああー」春さんは考えるように上を向いた。「ないですよ、別に」
「おばあさんの様子は変わりない?」
「普通だと思いますけど。なんですかこの質問」
「ちょっと気になることがあってさ。あの家に入ったことはある?」
「毎回入ってますよ」
「中まで?」
春さんは周りをうかがった。それから少し顔を寄せた。
「秘密にしてくださいよ。店長に怒られるかもしれないから」
ぼくは頷いてみせた。
「配達の時、いつもお茶とお菓子もらってるんですよ」
「家の中に上がるの?」
「はい。お菓子がすごくいいやつで。自分の家じゃ食べられないやつ。先輩は違うんですか? みんなそうしてたって聞きましたけど」
「あばあさんがそう言ったの?」
「はい」
「ぼくは玄関までだったな」
「そうなんですか」
春さんが少し視線を落とした。
「大丈夫。誰にも言わないから」
「ありがとうございます」
「長居するの?」
「そうですね」
「どこで?」
「リビングです。すごく広くて、変わった匂いがするんです。キッチンに薬草みたいなのが吊るしてあるので、その匂いじゃないかと思うんですけど」
「薬草か」
「キッチンの棚に、研究室みたいに瓶が並んでるんですよ。ひとつひとつラベルが貼ってあって」
「他に変わったことはなかった?」
「リビングの奥に立派な木の扉があるんですけど、そこには入らないように言われました」
「なんで?」
「薬を作ってるから危ないって。ちょっと怖いですよね」
「そうだね」
春さんは少し首をかしげた。
「どうしてこんなこと聞くんですか?」
「ぼくも分からないんだけど、引っかかっていることがあって。あの人、底知れないところがあると思わない?」
「ああ、分かるかも。でも優しくてすごくいいおばあちゃんですよ」
「そうかもしれない」
ぼくは研修センターにあった歪んだ三日月のマークを思い浮かべた。
「玄関の脇に畑があるよね?」
「はい、ありますね」
「そこに変な形に石が並べてあるでしょ? 三日月みたいな」
「それは見たことありません」
「そうなの?」
「はい」
ぼくは事務所に寄らずに、そのままスーパーマーケットを出た。
***
山の上の家へ車を走らせた。相変わらず狭い山道だった。ここを通るのはずいぶん久しぶりだ。道の様子は変わりないように見えた。以前は木漏れ日が気持ちいいと思ったが、曇っているせいか木々がどこかよそよそしく感じる。
家の前まで行かずに100mくらい手前の道幅が少し広くなっているところに車を停めた。そこから徒歩で上がっていく。存在を知らせる前に、周囲の様子をうかがっておきたかった。なんだか悪いことをしている気になる。
上がっていくと、右手の木々の向こうに開けた場所が見えた。オレンジの瓦屋根が見える。静かだった。なんとなく足の運びも慎重になる。
開けた平地に出た。周囲を見回しながら建物に近づく。停まっている車はなかった。人の気配もない。ぼくは唾を飲み込んだ。
呼び鈴を押すことなく、玄関の右手に回り込む。畑があった。一画に白い石が山積みになっていた。でも春さんの言った通り、三日月の形に並べてあったりはしなかった。
窓はどれもカーテンが閉めてあった。軒先に干してあった薬草は今日はなかった。軒下に板が斜めに立てかけてあった。その上に新聞紙を引いてキノコが並べてある。黒っぽくて、知らない種類だった。
水道があり、壁にスコップや熊手が立てかけてあった。小さな倉庫もあった。鍵はかかっておらず、中には古びた道具が入っていた。倉庫の横には園芸用土が積んである。
さらに先には給湯器などの設備があった。その先は草が茂っていて進めなかった。
玄関に戻り、反対側も見てみる。こちらはきれいに草が刈ってあって、物はほとんど置いてなかった。大きな掃き出し窓があったが、やはりカーテンが引かれていた。
特に気になるものはなかった。ぼくは記憶を探り、畑の石が並べてあった辺りに近づいた。しゃがみこんで地面に顔を寄せる。よく見ると、地面に石を置いた跡があった。
やはりここに石を並べることがあるのだ。
ぼくはその石の跡を指でなぞってみた。ラインを繋ぐと、それは歪んだ三日月のような形になった。
不思議な形だ。どこか不吉さを感じさせる。線の形にはなんらかの意味があり、何かを訴えかけているように思えた。
冷たい風が吹いて、髪の毛が一本はらりと落ちた。ぼくはそれを目で追ったが、地面に触れたところで見失った。目を凝らしたが、髪の毛は見当たらなかった。地面の上では無理もない。
立ち上がった瞬間、眩暈がした。地面がわずかに揺れたように感じた。頭の奥がずきんと痛んだ。体が重い気がした。
ぼくは玄関に向かって呼び鈴を鳴らした。「ごめんくださーい」と大声で叫ぶ。
反応はなかった。もう一度叫んだが同じだった。
扉をノックする。それからドアノブに手を掛けた。その瞬間、再び頭の奥が痛んだ。何かがぼくを押しとどめようとしている気がする。胸の奥に、沈み込むような嫌な感覚があった。
鍵はかかっていなかった。ぼくはドアのすき間からもう一度だけ「ごめんくださーい」と叫んだ。室内に声が響いたが、それだけだった。
ぼくは一応「失礼します」と声をかけて玄関の中に入った。おばあさんが倒れている可能性もあるし言い訳は立つ。
床は明るい飴色の板張りで、上がり口には質のよい絨毯が敷かれていた。左手に二階へ上がる階段がある。正面の通路の向こうは広い部屋になっているようだ。大きなダイニングテーブルが見える。あそこが春さんの言っていたリビングだろう。
春さんの話によれば、その奥に入ってはいけないと言われた扉があるはずだった。
もしこのまま家の中を調べられるなら好都合かもしれない。
ぼくはそっと靴を脱いで、正面の通路を進んだ。天井から垂れ下がったアンティーク調の電灯が点いていた。しかし老婆の姿は見られない。
部屋に入る手前から薬のような独特な匂いがした。春さんの話どおりだ。中央に厚い天板のダイニングテーブル。右手が立派なカウンターキッチンになっており、カウンター上のステンレスラックに麻紐で束ねた薬草が何種類か吊るしてある。
キッチンの奥の壁が棚になっていて、ガラス瓶がずらっと並んでいる。すべてラベルがついていて、中には乾燥した植物が入っていた。刻んだものが多いが、大きな根をそのままアルコールに漬けたものもある。
部屋の左手側には奥行があった。突き当りが掃き出し窓のようだが、黄色いカーテンが閉まっている。スチールの本棚があり、古い革表紙の本が並んでいた。英語やドイツ語らしい題名の本もある。読み取れる日本語の背表紙には『薬草図鑑』や『民俗学』とあった。
本の中身を覗いてみたかったが、それよりも本棚の隣にある扉が気になった。深みのある褐色の木の扉だった。
おそらくここだ。入ってはいけない扉。
ぼくは唾を飲み込んだ。ドアノブに手をかけゆっくりと押し開ける。湿った空気が吹きこみ、埃が舞った。
中は暗かった。なにも見えない。黴臭く、踏みしめた床はひやりとして硬かった。壁に手を這わせ、スイッチの突起に触れた。蛍光灯が瞬いて点灯した。天井は低く、照明は最小限で薄暗かった。地下倉庫の通路を思わせた。
3mほど前方に大きな扉があり、すぐ左にはこぢんまりとした扉があった。前方の大きな扉は金属パイプの持ち手がついていて、横にスライドする病院にあるような扉だった。四角い小窓がついている。
ぼくはまず大きな扉に近づき、小窓から中を覗いた。電気が点いておらず薄暗かったが、天井近くに細長い明かり取りがついていて十分視認できた。
まるでちょっとした工場のようだった。吹き抜けの広い空間で、小型のタンクや操作盤のついた機械があり、パイプが走っていた。一番手前は金属製の流しそうめん台のような設備だった。半円形の流路が4mほど伸び、底が黒く変色していた。
見慣れないものばかりだし広そうなので、調べるのは骨が折れそうだった。ぼくは先にもう一つの小さな扉の中を調べてみることにした。
こちらはそれほど広くなく、コンパクトな研究室といったふうだった。窓はなく、光源は蛍光灯が一本と、壁際の木製の作業机の上方に裸電球が垂れ下がっているだけだった。
入ってすぐ正面に棚があり、エタノールなどの薬品が並んでいる。下の段には中身の分からないプラスチック容器や、黒や褐色の味噌のようなものが入ったジャムの瓶がある。粗い粒や繊維質が交じっていて、顔を寄せると発酵臭がした。
棚の横には業務用冷蔵庫があった。下の扉を開けると、大きな黄色いプラスチックの漬物桶が二段積みで並んでいた。上の扉の中はがらんとしていて、いくつかガラス瓶やプラスチック容器が入っている。中身は棚の味噌のようなものに似ているが、上に刻んだ薬草のようなものが堆積していた。
奥の広い作業机には、文房具やピンセットや銀色のトレーや小さな瓶が散らかっていた。トレーの上に薬包紙に載った白い粉末があった。
机の奥側が一段高い上棚になっていた。その中央だけ広く空けられ、木の台の上に一冊の古びた本が載っていた。両手に収まるくらいの大きさだった。褐色の革表紙はぼろぼろで細かい繊維が見えた。紙の質が今とまるで違う。乱暴に扱えばページが破けてしまいそうだった。
その表紙に掠れた黒いインクで描かれているものに目を奪われた。
――歪んだ三日月。
研修センターの壁と畑の横の地面にあったのと同じ形だ。ぼくは無意識にその上を指で撫でた。頭の奥がずきんと痛んだ。奇妙な感覚だった。現実感が薄れていくような。自分から自分が引き剥がされるような。
何が書いてあるのか、どうしても気になった。表紙の文字を目で追ったが一文字も理解できなかった。
ぼくは細心の注意を払って表紙を捲った。いくつかページがついてきてぺりっと剥がれた。埃っぽい匂いがした。
意味の分からない文字の羅列が目に飛び込んできた。読めなくても、その本がまともなものでないことはすぐに分かった。首のない動物や角の生えた生物、神経の付いた眼球、臓器の挿絵。妙に写実的だった。神経質な細かい文字で何かの手順を教示しているようだった。
「触るな!」
鋭い声がして飛び上がりそうになった。とっさに手を引く。振り向くと、部屋の入り口に老婆が立っていた。心臓が早鐘を打ち、呼吸がうまくできなかった。
「それを手に入れるのにどれだけ苦労したと思ってるんだい」
老婆の姿は以前と変わりなかった。腰が曲がり後ろで手を組んでいる。
「いらっしゃったんですか」
ぼくはやっとそれだけ言った。
「いたよ」老婆が冷たく言った。「あんたは勝手に上がり込んだのかい」
「何度も声はかけたのですが」
「それで?」
「え」
「声をかけてどうしたんだい」
「返事がなかったので」
「心配になったのかい?」
老婆がにいっと笑った。
「ええ」
ぼくはあいまいに微笑んだ。
少し間があった。
「嘘つくな!」
空気が震えるような怒声だった。深いしわが歪んだ鬼の面のようだった。
「あんたの考えなんて、こっちはすべてお見通しなんだよ」
老婆の豹変を前にして、ぼくの思考は停止した。
「すみませんでした」
なんとかそれだけ言った。
「まあいいだろう」
老婆はゆっくりこっちに歩み寄ると、机の下に置いてあったゴミ箱を引き寄せ、中に痰を吐き捨てた。それからこっちをじっと見た。
「来な」
それだけ言って部屋を出た。ぼくは黙って従った。リビングに戻った。
「座ってな」
そう言って老婆はカウンターキッチンの向こうに行って、お湯を沸かし始めた。ぼくは一番近いダイニングテーブルの椅子に腰かけた。頭は目まぐるしく回転しているようで何も考えることができないでいた。
ほどなくして、千歳庵のせんべいを盛った木皿と湯飲みが運ばれてきた。湯飲みには淡い琥珀色の茶が入っていた。老婆は自分の湯飲みを持って向かい側に腰を下ろした。
「食いなよ」
老婆が顎をしゃくった。ぼくは動かなかった。
「まあいいさ」老婆が言った。「それで、何が知りたいんだい?」
「え」
「知りたいことがあって来たんだろ」
「その、前にここに配達に来ていた安住さんなんですが」
「ああ、安住ね」
「今どこにいるか知らないかと思いまして」
老婆は返事をせず、じっとこちらを見た。
「遠慮せず飲みなよ。うちで作った薬草の茶だよ。体にいいんだ」
ぼくは湯飲みに手を伸ばそうとしてためらった。代わりにせんべいを取った。包装を開けると香ばしいしょうゆの香りがした。甘辛く、塩気があとを引く味だった。
「それで、何か知りませんか?」
「知らないね」
即答だった。ぼくは息をのんだ。
「どうしてそんなこと、あたしが知ってるんだい」
「それは」
うまく答えられなかった。
「でも」
ぼくは言うべきか迷った。
「でも?」
「あなたが安住さんを支援してくれたんじゃないんですか」
「そう聞いたのかい」
「いえ、そういうわけじゃありませんが……」
「あたしは小遣いをあげたくらいのもんだよ」
「そうですか」
確証は何もなかった。それでも、ぼくは核心に踏み込むことにした。
「でも、安住さんの行く先だったはずの住所には、使われなくなった研修センターがありました。そこに、さっきの本の表紙と同じマークが描いてあったんですよ」
「ほう」
「何か知ってるんじゃありませんか?」
「何も」
「じゃあ、あの三日月のマークはなんですか」
「あれは三日月じゃない」
「え?」
「命脈と地(ぢ)をつなぐ”しるし”だよ」
「どういう意味ですか」
「あんたには分からないよ」
老婆はそれ以上説明する気はないようだった。
「それに、ここに配達に来ていた人たちがみんな連絡が取れなくなっています」
「そうなのかい」
「はい」
「それは心配だねえ」
「ええ」
沈黙。
さっきからとても話しにくかった。老婆は自分の茶を一口飲むとまた顎をしゃくった。
「茶が冷めるよ」
「せっかくですが、ここに来る前にコーヒーを飲んだんですよ」
「そうかい。じゃあせんべいでも食べな。あたしじゃ食べきれないから」
「いただきます」
ぼくはせんべいを取り、袋を開けて食べた。
「あんた、ちゃんと戻ってきたんだね」
「はい?」
老婆は短く笑った。
「思い出した」
「何をですか?」
「こないだまで配達に来てた兄ちゃん」
「安住さん」
「そう、安住。あいつの荷物がここにある」
ぼくは耳を疑った。
「どういうことですか?」
「金が要るっていうから、代わりに仕事を手伝ってもらってたのさ」
「ここにいたんですか?」
「そうだよ」老婆が頷いた。「こないだまでね。それで、荷物を忘れて出てっちまったのさ」
「今はどこにいるんでしょう」
「さあ、それは知らないね。あたしは約束通りに金を渡しただけさ」
ぼくは老婆の話が信じられなかった。
「荷物のなかに書類があったかもしれないね。それで行方が分かるかもしれないよ」
ぼくは少し考えたが答えは出なかった。ぼくに選べることは限られていた。
「その荷物はどこにあるんですか?」
「こっちだよ」
老婆が立ち上がった。木の扉を開け、暗い通路に入る。ぼくは後をついていった。老婆は正面の工場のような部屋の扉の前で立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。笑っていた。
次の瞬間。大きな音がして、急激な浮遊感に襲われた。ぼくは訳が分からず手足をばたつかせた。視界が真っ暗になった。
強い力がぼくを打ちつけた。いや落下して、地面に叩きつけられたのだ。上に四角く切り取られた光が見えた。自分がそこから落ちたのだと理解するのに時間はかからなかった。四角い窓に老婆の影が現れた。老婆は何も言わず、下に開いている両開きの扉を片方ずつ引き上げた。がちゃんという音がして、辺りは暗闇になった。
両足首と右膝と尻に強烈な痛みを感じた。これまでに経験したことのないほどの痛みだった。痛みのために1ミリも体を動かせなかった。少しでも動けば刺すような痛みを感じるのだ。
ぼくは横向きでうずくまった。しばらくすると次第に暗闇に目が慣れた。うっすらと周りが見える。低い壁に四方を囲まれていた。1.5m四方くらいの空間だった。自分の右脚を見ると、足首がありえない方向を向いていた。
息が荒かった。ここは臭いがひどい。まるで公衆トイレのゴミ箱の中にいるみたいだ。痛みに耐えていることしかできなかった。時間の感覚はなかった。
横のほうから近づいてくる足音がした。足音が止まったかと思うと、横から何かが投げ入れられた。壁に当たり地面に落ちた。次に飛んできたものは重く、壁に当たったときに大きな音を立てた。跳ね返ったものが脇腹に落ちてきた。思わず体を丸めた瞬間に、右脚に鋭い痛みが走った。
ぼくは手を這わせ、落ちてきたものをつかんだ。一つはリビングで食べたのと同じせんべいで、もうひとつは液体の入ったペットボトルだった。中身は分からないが、振ると水と同じように揺れた。
腹は減っていない。でも喉は乾いていた。しかしペットボトルの中身を飲む気にはなれなかった。
ぼくは痛みに耐えた。
何分か何時間かが経って、また人の気配があった。ぼくは身構えた。声がした。
「大丈夫かい」
老婆の声だった。ぼくは答えなかった。
「食べ物はやるから心配しなくていい」
老婆は返答を待っているようだったが、ぼくは何も言わないでいた。
「おい、生きてんだろね。悪いようにはしないから、その茶を飲みな。傷に効くから」
老婆はいちいち間を空けた。
「こんなもの飲まない」とぼくは言った。
「飲まないと死んじまうよ」
「なんでこんなことするんだ」
「悪いことしたね」
ぼくは何も言わなかった。
「肝の味噌漬けを作るためだよ」
その答えはぼくが想定していたあらゆるものから外れていた。
「肝は命脈が強いんだよ。鉄分もビタミンも詰まっていてね、知ってるかい?」
何も答えなかった。
「すごく体にいいんだ。塩梅がいい」
「……安住先輩は?」
「もちろん、ありがたくもらったさ」
「内臓を取ったのか?」
「そうだよ」老婆は軽く言った。
「どうやって」
「腹を裂いて」
「殺したのか」
老婆は笑った。
「腹を裂けば死ぬさ」
「……なんで?」
老婆はおかしそうにまた笑った。
「分からないのかい。不老の妙薬なんだよ。誰だって喉から手が出るほど欲しいだろうさ。でも作れるのはあたしだけだ」
「不老?」
「そうさ」
笑えばいいのか怒ればいいのか分からなかった。どう考えてもまともじゃない。老婆の馬鹿らしい妄想のために、安住先輩は腹を裂かれて内臓を取り出された。ぼくは脚の骨を折るか関節をおかしくするかしてひどい痛みを受け、もうまともに歩けないかもしれない。ぼくは言った。
「……あんたはもう十分老いてるよ」
老婆は少し黙っていた。
「失礼な子だね」
老婆は不機嫌そうに去っていた。
***
どれくらい時間が経ったか分からない。足の痛みはだいぶマシになったが、感覚がよく分からなくなっていた。
時々老婆が様子を見に来た。黙って聞き耳を立てたり話しかけてきたりしたが、ぼくは一切反応しなかった。
腹が減った。何より喉の渇きが耐えがたくなっていた。ぼくはせんべいに手を伸ばした。袋を裂いた拍子に中身を落としてしまった。拾って食べた。
せんべいを口にすると渇きはいっそう増した。もう抗うことはできなかった。ぼくはペットボトルを手に取り、中身に口をつけた。独特の香りがしたが味はなかった。干上がった地面のように体が水分を求めていた。気が付くと、一本すべて飲み干していた。
数十分した頃に、頭がぼんやりするのを感じた。全身に力が入らなくなっていた。自分でも気づかないうちに、喉から低い唸り声が漏れていた。
しばらくして老婆がやって来た。様子をうかがって、それから鍵が外れるような金属音がした。がたがたと地面が動いた。ぼくがいたのは、キャスターの付いた金属の箱の中だったのだと気付いた。
照明のある通路のようなところに出た。天井にある照明の光が目を刺した。ぼくは目をつぶったが、まぶたを越えて光は目を執拗に攻めていた。動きが止まり、浮遊感が生じた。エレベーターか何かで上がっているようだった。
がたんと揺れるたびに不快な痛みが走ったが、それが体のどこから生じているのかは判別できなかった。扉が開く音がした。上の方に日の光を感じた。とても煩わしく思った。天井にパイプが走っていた。小窓から覗いた工場のような部屋だと気付いた。
ぼくを乗せた箱が停まった。箱の一面がぼくから遠ざかり、床へ開いてスロープのようになった。箱そのものが傾き、ぼくは人形のように床に投げ出された。動くことはできなかった。
ぼくは唸っていた。老婆は懐から大事そうに何かを取り出した。包んでいた布を丁寧に解く。表紙に歪んだ三日月が描かれた古びた本だった。慎重にページを開き、一度だけ目を走らせ、すぐに閉じた。そしてまた布を巻き、胸元に入れた。
老婆は壁に掛かっていた鎌を持ってきて床に置いた。それからぼくの脚を動かした。両脚をぎゅっと折りたたんだ。ぼくは呻いた。老婆はぼくの背中に手を回し、体を横に振るような軌道で手際よく引き起こした。
ぼくは正座しているような格好になった。ぼんやりと目の前のものを見た。流しそうめんの台のような設備だった。
老婆はぼくの髪の毛を掴み上げると、半筒状の流路のほうへ頭を押し出した。台の支柱に胸を持たれるような形になり、間近に黒く変色した流路の底が見えた。
「さいなら」
老婆は静かにそう言った。鎌の刃を喉元に押し当て、すばやく横に引いた。
蛇口をひねったように血が溢れ出てきた。老婆は髪を掴んだまま痙攣する頭を押さえつけ、喉を流路へ向けた。ぼくは何か言おうとしたが、喉の切り口が排水溝から出る空気みたいな音を立てるだけだった。
自分の血液が流路の底をゆっくりと流れていくのが見えた。
***
――ぼくはドアノブに手をかけた。その瞬間、頭の奥がずきんと痛んだ。とても嫌な予感がする。何かがぼくを押しとどめていた。
目の前の扉の木目を眺めた。辿った先に立派な節があった。これのためにこの木材を選んでもおかしくないくらいの見事な節だ。この節を眺めるのは久しぶりだった。
ふと、さっきからぼくを押しとどめようとしている何かは、ぼく自身なのだと思った。いったんそう思うと、そうとしか思えなくなった。はっきりとした理由は分からない。でもこの家に入ってはいけないような気がした。
安住先輩のことを思った。家に入れば何か分かるかもしれない。あの老婆と何か関係がありそうなのだ。
でもやはり、どうしても家に入る気になれなかった。
ぼくはドアノブから手を放し、山道を下りて車に戻った。何度か切り返し、車を出す。なぜか心臓の鼓動が早かった。窓を開けて、風を入れ込む。空は曇ったままで、空気は湿っていた。
家についてからちゃぶ台の前に胡坐をかいて、警察に電話をかけた。うまく話せなかったが、知り合いと連絡が取れなくなっていると伝えた。山の上にあるおばあさんが一人で住んでいる家を調べてほしいと依頼した。
理由を聞かれたが、なんと言えばいいか分からなかった。
歪んだ三日月みたいなマークのことは話しても分からないだろう。
その家に配達に行っていた別の人たちも連絡がつかないのだと話した。向こうの声に一瞬緊張が走ったが、どうやって連絡先を知ったのか問われると口ごもってしまった。個人情報の載ったファイルを見たことは話しづらかった。
前任者に聞きたいことがあって職場の上司から連絡先を聞いたのだとだけ説明した。
電話口は誠実そうな若い男性だったが、「申し訳ないんですけど」と言って、話を聞きには行くかもしれないが、簡単に家の中は調べられないのだと言った。
それはそうなのだろう。
何か事情があって電話に出られないだけということはないでしょうか、とも言われた。違うと思う、と言ったが、明確な根拠は示せなかった。
ぼくは礼を言って電話を切った。警察はまだ本腰を入れてくれる感じではなかった。
今度は安住さんの母親の番号にかけ、警察に捜索依頼を出すようにお願いした。安住さんの母親は、もちろんそうするわ、と言ってくれた。
事件が動いたのは、それから数か月後だった。
山の上に住む老婆が逮捕された。山中から遺体が出たのだ。腹を裂かれた遺体がすでに3体見つかっているらしい。その中の一つは安住先輩のものだった。
店長は腰を抜かすほど驚いていた。ぼくも改めて警察から事情を聞かれた。
「あの家に行っていたんですよね」
話し込んだ担当の刑事が言った。
「ええ」
「本当に危ないところでしたよ。もしかしたら、あなたも危険な目に遭うところだったかもしれません」
「そうですね」
「実は、妙な話がありましてね」
刑事は苦笑して言った。
「なんですか?」
「あの被疑者の戸籍なんですけど」
「ええ」
「明治三十三年二月生まれになってるんですよ」
刑事はおかしそうに言った。
「本当なら126歳ですよ。まあ、古い戸籍ですからね。記載ミスか、改製のときの誤りでしょう」
ぼくは刑事に合わせてぎこちなく笑ってみせたが、本当のところは分からなかった。
***
ぼくは安住さんの実家で出してもらったお茶を啜った。
さきほど線香をあげた仏壇には、笑っている安住さんの遺影が飾られていた。その前にはぼくが持参したクリームパンが置いてあった。
「あの子、パンが好きだったわ」
「ええ、お昼休みはいつもパンでした。よく一緒に食べてたんです」
「そうなのね」
「はい」
「最近も書いているの?」
「はい?」
「小説」
「ああ、お恥ずかしいです」
先輩にもよくそんなことを聞かれた。
「ぼちぼちですね。書いたり書かなかったり」
「そう」
「はい」
「書きなさいよ。あの子、楽しみにしてたもの」
ぼくは笑った。
「そうですね」
ぼくは安住先輩の母親に近況でも聞こうとも思ったが、そんな気は使わなくていいと思った。
「いつも来てくれてありがとうね」
「いえ、そんな」
ぼくは腰を上げた。
「そろそろ行こうと思います」
「そう、気を付けてね」
ぼくはもう一度安住先輩の仏壇に手を合わせて家を出た。母親が玄関先まで見送りに出てくれた。
外に出ると風が肌寒かった。雲がゆったり流れ、柔らかい光が差していた。どこか遠くで鳥が鳴いた。
(了)