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窓の外に流れるものは止まっている

    #創作大賞2025
    #エッセイ部門

    公共の交通機関を使う時、窓の外を見ることが減った。
    以前は文庫本や雑誌を読み、今はスマホ。
    朝が早かった時は、少しの眠りの時間に使う。
    考えるより、何かを得ることの方に比重を置くようになった。
    ただそれは、窓の外に新鮮なものはない、と思っていたからかもしれない。

    新入社員が自殺をする報道は珍しくない。
    深夜残業、セクハラにパワハラ、すべてひっくるめてブラック企業。
    メディアやSNSでそんな言葉が飛び交う。
    しかし中にいる人は気づかない。
    20年、30年前の社員は、
    「自分たちもそうだった」
    「それを超えたから今がある」
    転職組の少ない大企業ほど、そんな考えを持つ。
    そして「社会を甘く見ていたんだ」そう思う人たちも少なくない。
    でも若い人たちは、少なくともごく最近まで、自由に街を見ていた人たち。
    社会に出て、やらなければならないことをたくさん抱え、行く先の決まった場所へ出かけていくことに慣れた人たちが、観なくなった窓の外にいたのだ。

    組織の常識と世間の常識は違う。
    組織の求めるものと個人の生き方は違う。
    そのズレを組織は、埋めるために多くの仕事を与え、自由な時間を減らし、外を見せないことで染めていく。
    不思議な社会に戸惑いながらも、必死に受け止めようともがく人は弱い人だと切り捨てられる。
    見えるものより、見なければいけないものに目を向けなければだめだと思わされる。
    やがて組織人という都合の良い人が育ち、人の気持ちへの感度が落ちた人ほど、一般には偉いという肩書を得る。

    信号で止まった先に見えた蕎麦屋が、チェーン店のラーメン屋に変わった。
    角を曲がった酒屋が、コンビニに変わっている。
    古いアパートがあった場所に、きれいなマンションが建った。
    景色は変わっていく。
    バス停にランドセルを背負った子供が走っていく。
    まだ数年しか生きていない子たちが、街の変化に気づいているのに、乗り物の中の大人たちはなにも見えていない。
    生きていくことと仕事をすることが同じになった人たちは、自分たちが流れ乗っていると信じているから、外に興味を持たない。
    乗り物に隔離され、運ばれて、組織の常識に縛られている、自分の状況がわからないのだから、窓の外に興味など持つわけがない。
    見えている人たちは、役に立たないと降ろされてしまう。
    降りる勇気より乗り続けなければならない恐怖が上回る。

    本当はその場所にある建物が絵のように流れていく。
    電車やバスの窓が開かなくなったのは、いつからだろうか。
    窓の外に知り合いの姿を見ても、声をかけるために開く窓がない。
    ほんの窓一枚隔てた外が、声も届かないほどに遠くなった。
    冬は暖かく、夏は涼しい。
    快適な環境が、感じることを忘れさせていく。
    シャッターの前、開店祝いの花を並べている人たちの前で、走っていた子供が足を緩め、その建物を見上げていた。


     
     
    観察型コラムニスト/エッセイスト| 試合と日常の「流れ」を書く 「スワローズ観察日記R」 「紘野涼のフリーハンド」

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