
【創作大賞】出会いなおそうと言ったから。
【あらすじ】新入社員の瑠衣は、職場の上司(部長)である佐伯慎と出会う。五十歳の佐伯慎と二十二歳の瑠衣は、残業の夜に彼の故郷の桃を分け合ったことをきっかけに、少しずつ距離を縮めていく。しかし慎さんは病で亡くなり、「また出会いなおそう。桃の育つ場所で」という言葉だけを瑠衣に残した。年月が流れ、瑠衣は転勤族の夫と結婚し、かつて働いていた大阪へ戻る。ドラッグストアで働く瑠衣の前に、慎さんを思わせる青年・日向颯太が現れる。これまで、失った恋を忘れられずに背負ってきた時間と、夫と過ごす今の暮らしのあいだで揺れながら、瑠衣は「出会いなおす」「桃の育つ場所で」という言葉の本当の意味に触れていく。
一 金色のサシェ
六月下旬の、そろそろ梅雨が明けようかという日曜日だった。その日は急に気温が上がったせいで、店内の冷房はかなり低い温度にしてあった。秋本瑠衣は、夕方4時少し前に店の外に出た。冷房で冷えた身体がじんわりとほどけていくようだった。入口付近に置いてあるワゴンに手をかけ、押しながら店内に入れる作業をしていると、首のあたりがじっとりとしてきた。ワゴンには季節商品の靴下や、タオル、シーツなどぜんぶで三台あった。いつも4時前にはワゴンを店内に片づける。店と外を往復しているとワゴンを持つ手が少し汗ばんだが、これを片づければ今日の仕事は終わりだった。三つのワゴンを店内に並べ終えて、エプロンで手を拭こうとして躊躇った。手を拭くとオリーブ色のエプロンが汚れそうな気がしたからだった。手のひらを見なくともねっとりとしているのは感覚でわかる。手を鼻に近づけてそっとにおいを嗅いでみた。案の定、血のようなにおいがした。この血を思わせるようなにおいは苦手だった。
手を洗おうと小走りで洗面所に向かった。店の外にある洗面所のドアを勢いよく開けると、鏡に向かった中原さんが髪の毛を直していた。「あっ」という声が聞こえた気がしたが、瑠衣は彼女に向かって「お疲れさまです」と言い、すぐさま石鹸をつけて手を洗った。
「瑠衣さん、お疲れさまです。もう終わりですよね」
そうです、とうなずくと、中原さんはポケットから小さな金色の四角いものを出した。
「はい、これ。どうぞ。お風呂上がりに試してみて」
サシェだった。見ると、『乾燥小じわに(セラム)』と書いてある。
「セラム?」
「そう、この季節、意外と乾燥してるんですよ。今日、新製品のサシェが入ったから、試しに使ってみてください」
「ありがとう」
黒色のエプロンを着けた中原さんは化粧品の担当だった。両手をエプロンのポケットに突っ込んで、身体を左右にゆすったのでエプロンの双子のオリーブが揺れているみたいに見える。
瑠衣はサシェを少し掲げて見せて、
「今夜、使ってみるね。じゃあ、お先に失礼します」
「また明日。お疲れさまでした」
お互い小さく手を振った。
洗面所を出て、店に入り、従業員ドアからバッグヤードに入ると一気に両肩の張りが緩んだ。瑠衣はポケットからサシェを取り出して眺めた。金色のパッケージに水色のしずくが弾けていた。ロッカーの扉についている鏡に向かって「この季節でも乾燥するんだって」と独りごちた。エプロンを外して、専用のロッカーに仕舞う。サシェをバッグのポケットに入れて、タイムカードを打刻した。
家に帰ると、夫は台所で麦茶のボトルを洗っていた。
結婚したころは、台所に立つ人ではなかった。転勤を重ねるうちに、どちらの仕事とも言えないものが、少しずつ二人のあいだに増えていった。麦茶を作ること。洗剤の詰め替えを買うこと。資源ごみの日を覚えておくこと。
「おかえり。暑かったやろ」
「暑かった」
瑠衣はバッグを椅子に置き、手を洗った。石鹸で二度洗っても、手のひらの奥に、血に似たにおいがまだ残っている気がするのだった。
「それ、何」
夫がバッグから少し覗いていた金色のサシェを見た。
「中原さんにもらった。乾燥小じわに効くらしい」
「乾燥小じわ」
夫はその言葉だけを繰り返して、少し笑った。
「俺にも効くかな」
「顔、洗ってからね」
そう言うと、夫はまじめに洗面所へ行こうとした。
瑠衣は笑ってしまった。
こんなふうに瑠衣が笑う日があることを、慎さんは知らないのだ。
三つ年上の転勤族の夫と結婚してから、引っ越しの連続だった。何度引っ越ししたのか指折り数えると、ここで10回目になる。瑠衣は引っ越しすることになぜ?なんて考えたこともなかった。
6回目の引っ越しくらいから、夫は「引っ越しばかりで悪いな」と口にした。10回目のときも「いつも悪いな」と瑠衣を労った。
そのたび「お互い様だよ」というのが瑠衣の口癖になった。夫も職場が変わるのだ、それはそれで大変なはずだった。
瑠衣は若い時に経験した職場での出来事、仕事の大変さを思い出しながら、夫の身になって考える。夫の苦労は、恐らく当時の瑠衣の苦労に匹敵しないとわかっているが、なんとかして夫の気持ちに寄り添いたかった。
当時、瑠衣が新入社員で配属された部署に、同じ時期、本社から異動でやってきた部長がいた。本人もだが家族も、今の瑠衣のように引っ越しの苦労を乗り越えてやってきたはずだった。五十歳に手の届く年齢になって、ようやくそんなことを思い出しては、過ぎてきた人たちの気持ちを考えるようになった。
瑠衣は現在、慎さんと同じ年齢になったのだ。来年になると慎さんを追い越してしまう。彼は五十歳のまま永遠に年を取らない人だった。
ふと窓の外を見ると、空には紫色が滲みだしベランダの洗濯物が揺れていた。夫はソファに座ってテレビを点けた。今日のプロ野球のチャンネルを探している。
「解説、またこの人や」
誰かと聞くと、
「○○や」
解説ではなく、感想ばかり言うOBの選手だった。
「現役の時はなんのタイトルもとってない奴やで。解説になってないからおもろないねん」
だが、そんなおもろない解説者も受け入れての野球観戦だった。
「瑠衣、そろそろ風呂入れてもらおか。日本酒も」
長い間一緒にいれば、基本的な習慣は永遠に続く。
このルーティーンにたまにクスッとなるのだった。いつものことが愛おしいと思える日常があることを、風に揺れる洗濯物に見た気がした。
オリーブグリーンと白の壁、双子のオリーブのキャラクター、木目調の棚。二年働いているうちに、瑠衣はこの店の明るさにも、冷房のにおいにも、季節ごとに入れ替わる棚にも慣れていた。
瑠衣は出社して一番に夕方に片づけたワゴンをまた外に出す作業から始まるが、今朝は小雨が降っていた。ワゴンは雨が止んだら外に出すことにして、まず店内の床をモップがけをした。店の通路はカートを押しながらでもゆったりと選べて、ストレスのない空間になっているのを誇らしく思う。
半分ほどモップがけが終わったころ、向こうから中原さんがモップがけをしながらやってきた。
「瑠衣さん、昨日のセラムどうでした?」
昨夜、もらったセラムをつけてみたのだ。
朝、顔を洗うときにふわっと柔らかい気がしたことを中原さんに伝えると、
「そう、そう、そうなんです。柔らかいでしょう。肌が水分を保ってる証拠なんですよ」
「へえ」
「新製品は進化してますからね」
中原さんは両手をエプロンのポケットに入れて、身体を左右にゆすった。
雨がやんだので季節商品のワゴンを店の外に出した。先ほどの小雨の曇り空が嘘みたいに晴れている。太陽が駐車場のアスファルトに照りつけてかげろうができていた。
瑠衣は夏みたいだと思った。
「わぁー、蝉がすごいですね。梅雨が明けたんですね」
中原さんがもう一台のワゴンを押してきたのだった。
「もう、梅雨明けたの?」
「今朝、ニュースで言ってました。今年は早いって。しかも猛暑らしいですよ」
「体力持たないかも」
瑠衣が弱気になっていると、
「じゃあ、これ飲んでください。ビタミンCです。これすごいんです。Cが2000mg入ってるんですよ」
「その量が良くわからないんだけど」
「大抵の場合多くて1000㎎くらいなんです。それがちゃんと必要な量が入っているんですから」
中原さんはビタミンCは体内で作られないから摂るしかないないということ、摂っても御小水に出てしまうこと。だからやっぱり摂らないとなくなること。そんなことを長く話してくれた。
「昨日のセラムは外から。ビタミンCは内から摂る。これで結構、保てますよ」
「ありがとう。飲んでみます」
中原さんはポケットに両手を入れて身体を左右にゆすった。
パートが終わって店から出ると、生ぬるい湿気が瑠衣の首にすぐさままとわりついた。自転車にまたがり勢いよくペダルを漕いだ。西陽に向かってずんずん進むと、河川敷に出る。家に帰る前にときどき深呼吸する場所がこの河川敷だった。
広い淀川を挟んで向こう側に梅田のビル群が輝いている。
ビル群のあのあたりと定めた方向には、瑠衣が大学卒業後、入社した会社のビルがある場所だった。配属されていた部署は、瑠衣が退職して数年後、委託となり社員はいなくなった。
新入社員で意気揚々と働いていたあのころの生命力が、波打つ川面に反射した西陽のように眩しく思い出された。
川の生ぬるいにおいが鼻を突いた。どうやら風向きが変わったようだ。淀川を渡る電車が先頭を競うように走っていく。逆方向からの電車と滑らかに交差しては、それぞれの目的地へ進んでいく。その下に流れる川面は平静を装いながら、さざ波のような音がかすかに聞こえるだけだった。
耳をすますとそのさざ波の奥の方から、
「瑠衣、また出会いなおそう」と言った慎さんの声が聞こえた気がした。
「出会いなおそう」そういって去って逝った慎さんが頭を過ぎる。
あまりにも突然のことだった。
突然、想像もしなかった辛いことが起こると、人は考えることから逃げたくなって、抜け殻のようになる。瑠衣もそうだった。涙ばかりが出て、何もできなくなってしまう。観たいテレビも、食べたいものもなく、お風呂も、トイレも、呼吸さえもどうでもいいようになってしまった。ただ体だけがあって、心は置いてけぼりだった。
いつ、どこで出会いなおせるのか?
本当に出会えるのか?
普通に考えてみれば、そんなことあり得ない。そう思うのに、慎さんの残した言葉を十字架のように背負っていた。
二 ボールペンの音
瑠衣は大学を卒業した春、通信社に入社した。
このビルのエントランスまでの通路の一角に桜の木が植わっている。地下から生えているのだけれど、一階の通路からは桜の上部が鑑賞できるようになっていた。三分咲きほどの桜の花には美しいオリーブグリーン色をしたメジロが、花を揺らしている。ちょんちょんと小さな足で飛びながら花を揺らすのだった。揺れたところにメジロがいるのに、姿を確認しようと目を凝らすと、いつの間にか次の花へ移っている。瑠衣はメジロの姿を確認できた時はその日が穏やかに過ぎてゆくのを感じた。
葉桜になったころ、一か月間の研修が修了した。研修ののち、瑠衣は大阪支店のお客様サポートセンターに配属されたのだった。
お客様サポートセンターに配属されたのは、瑠衣を含めて六人で、女性が二人、そのほかは全員男性だった。
法人のお客様の問い合わせ窓口の役割をしている部署なので、電話対応の担当者は、役職者を入れて総勢三十名程度。社内異動でこの部署に赴任した部長、総合職の社員ら数名とともに皆のまえで自己紹介が行われた。部長以下社員が終わったところで、新入社員の挨拶となる。赴任したばかりの佐伯部長から、新入社員の挨拶をお願いしますとの合図で、順番に挨拶するのだ。
瑠衣は自分の番が来るまでの、押し寄せてくるこの緊張感が昔から苦手だった。手のひらは汗ばみ、やたらと心臓が大きく鳴り出して皮膚を破って心臓が飛び出しそうに思うのだ。そして緊張は大抵、夕方ごろから頭痛となって瑠衣を煩わすのだった。順番が近づいてくるほどに、身体が湿り気を帯びて脇にじっとりした汗をかいた。
業務をするデスクは一人ずつ仕切られてはいるものの、ベテラン社員の隣に決められていた。何かあったときすぐに質問できるように、と配慮されているのだった。
瑠衣は自分の母親と同年代ほどの女性社員の隣になった。ショートカットで眼鏡をかけた、色白でふっくらとした女性だった。
「西野瑠衣と申します。よろしくお願いいたします」と一礼した。
「山下です。よろしくお願いします。わからないことはすぐに聞いてください」
「ありがとうございます」と言って椅子に座り、バッグから資料や筆記用具をデスクに出して、バッグは一番下の引き出しに仕舞った。
右側の一番上の引き出しを開けると、ボールペンやシャープペンが既に用意されていた。
「筆記用具は引き出しの中のを使って。会社から支給されているものを使用してください」と山下さんが言った。
瑠衣は自分のペンケースをバッグに仕舞った。
デスクの上にはビニールに入った新しいヘッドセットが置かれている。瑠衣は研修で習ったとおり、ヘッドセットをUSBに接続した。
三か月が経った。瑠衣はそれでもわからないことが多く、電話を受けるたびに緊張した。瑠衣は自分の電話の着信ボタンが点灯すると焦ってしまうのだ。キーボードのキーを一つ押せば電話はつながるのに、その動作さえも焦る始末だった。キーを押して、第一声を言い、相手がひとこと疑問を話した時点でメモを取る。たいてい、そこまでが焦っているのだ。自己分析なので他人から見ればどうだかわからない。
通話を終え、メモを見ながら通話内容をパソコンに入力していく。そのあと、デスクに散らばったボールペンを引き出しに片づけた。次の着信に備えて深呼吸する。着信ボタンが点灯する。キーを押す。お客様と通話。内容をパソコンに入力。散らばったボールペンを引き出しにしまう。次の着信に備える……
流れは単純と言えば単純な流れかもしれない。でも通話内容によっては隣の山下さんの指示を仰がなければならないこともあり、隣にベテラン社員がいることのありがたみをひしと感じていた。
午前中の業務が終わると、同期の園田さんとランチに外へ出た。今日はハンバーガーが食べたい、と彼女が言い、美味しいところを見つけたから、と並んで歩く。こうしてお店まで歩くのは、一日のうちでいちばん解放感が味わえる時間だった。
店に着いてそれぞれハンバーガーを注文し、席に着いた。園田さんがクスクス笑いながら言った。
「西野さんさぁ、ボールペンすごくない?」
「何が?」
「着信が点灯すると、途端にボールペンを引き出しから出して」
思い出すと我慢できない、というふうに園田さんは喉の奥で声を殺して笑った。でも彼女は次第に我慢できなくなり、大きな声でワッハッハと笑ったから、瑠衣もわからないままつられて笑った。
「知ってる?引き出し開け始めると、佐伯部長ったら西野さんを心配そうに見てるわよ」
「本当?私、そんなにガチャガチャやってる?」
「やってる。やってるってもんじゃない。隣の山下さんなんて見て見ぬふりよ」
園田さんはアイスコーヒーにシロップとミルクを入れ、ストローでかき混ぜ、あわただしく一口飲んだ。瑠衣は通話を終了したときの自分のデスクが思い出された。ああ、と納得する。入力作業が終わった後、瑠衣は散らばったボールペンを引き出しにしまうときの自分の姿を思い出した。その行動に疑問さえ持たなかったのだ。
「あれ、無意識っぽい」と瑠衣が言うと、
「もしかして、焦ってるの」
「そうかも。いつも散らばったボールペンを片づけるけど、なぜ?なんて考えたこともなかったよ」
「ふーん。そっか」
園田さんは両手でハンバーガーを持ち、大口を開けて頬張った。肉汁が皿に落ちた。瑠衣も園田さんに倣って大きく口を開けて頬張った。
まさか部長が見ているとは思わなかった。散らばったボールペンよりも、その一部始終を部長が見ていることに恥ずかしさを覚えた。
三 幻の桃
梅雨が明けて、ビルの桜の木では蝉が鳴き始めた。桜の蜜を吸えなくなったメジロはどこへ行ったのだろうか。アスファルトのない森や林かも知れないなと思った。きっと春が来たら、また、ここに戻ってきてくれるだろう。
夏の暑い空気が瑠衣の体にまとわりついた。
今日、瑠衣はクレーム対応で寿命が縮まった気がした。
サポートの契約期間がとうに切れているにもかかわらず、「更新案内の連絡がなかったから、こんなことになったのだ、どうしてくれるのか、弁償しろ」という内容で、瑠衣は謝り、新たに契約の手続きの提案をしたのだが、「上を出せ」と言われ、山下さんに代わってもらった。それでもお客様は納得いかずに、佐伯部長が電話を代わることになった。
佐伯部長が話しを終え、通話終了ボタンを押した。瑠衣のヘッドセットを外すと、部長が言った。
「西野さん、電話で殺されることはないから」
目じりの下がった優しい目で部長が笑った。
「すみませんでした。ありがとうございました」
瑠衣は立ち上がって頭を下げた。隣の山下さんにもお礼を言った。
「いいのよ、そんなときのために部長がいるんだから。落ち込むことじゃないからね」と笑ってくれる。
ほっとして椅子に座ると、デスクにはペンが散乱していた。園田さんを見ると、「ほらね」と指さして笑っている。瑠衣はため息交じりの息を吐いて、引き出しにペンをしまった。ホッチキスとスティックのりまで出ていた。
このデスクの惨状を見ながら佐伯部長は代わって対応してくれていたのだと考えると、情けなくなり涙が滲んできたのだった。
ランチタイムの通りのアスファルトに陽炎が揺れているのを見て、夏だったことを思い出した。瑠衣は園田さんと歩きながらも解放された気分にならなかった。
「西野さん、何が食べたい?」
瑠衣は食欲がなかった。
「園田さんの食べたいものでいいよ」
「スタバにしよっか」そういって、瑠衣の一歩前をズンズン歩いていく。
席について、今日のクレーム対応を見ていたらしい園田さんは言った。
「たくましいよね。あんなたくましい人と出会ったの初めてかも。ちょっといいよね、佐伯部長って」
佐伯慎部長は東京本社から異動でこの部署にやってきた。五十歳。南大阪の方の出身と聞いた。妻と娘が一人。
「さぁて、昼からもがんばろう。あたしも部長が助けてくれないかな。西野さんみたいに地味にしてればかまってくれるかしら」
「さあ、どうだろう」瑠衣は首を傾げた。
地味だと、言われなくてもわかっていた。地味と言われて、今更、落ち込む必要もないのに、なぜだか心が沈んでいった。部長にまで迷惑をかけたことと、デスクの惨状が思い出された。自己嫌悪というものだろうか、そのせいで沈んでいるに違いないのだった。
午後からはお客様対応はもちろんのこと、着信が少なくなったのを頃合いにヘッドセットを外した。
瑠衣は午前中のクレームについて本社へ報告することになっていた。その書類作成に取りかかったのだ。
思ったより時間がかかり、残業をしないと終わらなくなっていた。迷った挙句に、瑠衣は部長に残業の許可をもらうことになった。
報告書は大体の形式が決まっているのだが、実際の内容を細かく記入し、その一連の出来事を第三者が読んで理解できるようにしないといけない。瑠衣は書くことについては苦手だった。起承転結に分けて考えれば考えるほど書けない。思うがままに書いてもダメ出しされる。その都度、形式、書式を守らなければ評価さえされないのだ。なぜ、山下さんや部長に交代しなければ処理できなかったのか、自分の落ち度は何か、そんなことを考えて文章にするのが辛いのだ。思えば、卒論前に文章講座に通うことも考えたほどだった。
パソコンの画面とにらみ合いながら、キーボードを頼りなくたたく瑠衣のデスクに佐伯部長がやってきた。
「もう本社もみんな帰ってるだろうから、明日でいいですよ」
「でも、今日、やってしまいたいんです。明日になれば、また対応に追われて書く時間が無いと思いまして」
「そうか、なら、やってしまいなさい」
「ありがとうございます」
のどが渇いたので給水機の水をマグカップに入れた。
水分を摂るとお手洗いに席を立つ頻度が高くなるので、控えたいけれど、のどは渇く。
時計は20時になろうとしていた。閑散としたオフィスの端と端に位置する瑠衣と部長。周りは皆、帰宅したのだろう、二人きりだった。
早くやってしまわねば、と思えば思うほど進まない。
すると部長がどうですかとやってきた。
「あと、少しです。すみません」
その時だった、甘いにおいが漂ってきた。
「桃、食べる?」
見ると部長が桃をのせた皿を手に微笑んでいた。
「休憩だ」そういって、隣の席に座ると果物ナイフで器用に桃を切っていった。皮もスルッと剥けた。こんなに剥けるのを初めて見たこともあり、心なしか感動した。
「うわ、すごいきれい」
「だろ?」
部長の慣れた手つきに見惚れていた。
「どうぞ。ほら、食べて」
瑠衣は用心深く指先で一切れつまんだ。緊張で桃が滑った。
「あ、すみません」
もう一度、ゆっくり落ち着いて一切れをつまみ、口に入れた。
口の中に芳醇な香りと甘さ。その中にどこかの山の土地や空気を感じるみずみずしさが交差した。
なんて美味しい桃だろう。
「美味しい。どこの桃ですか」
「僕の故郷にある桃。小山田の桃だ」
「この桃、めちゃくちゃ美味しいです。なんというか、甘いだけじゃなくて、桃くささもあって、ちゃんと果肉をかみしめる喜びもあります」
「だろ。これは幻の桃って言われてるんだ」
佐伯部長の目じりが下がり、パンダのような優しい顔になった。瑠衣の胸に暖かなものがこみあげてきた。この顔をずっと見ていたいと思った。そのとき、一陣の風が瑠衣の額の前を吹き抜けていった。
四 雨の傘
結局、明日、書類を提出することになり、部長と一緒に会社を出ることになった。
ビルを出ると、雨が降っていた。昼間はあれほど晴れていたのに、夜の雨は遠慮がなかった。アスファルトから立ちのぼる雨のにおいが、駅へ向かう人たちの足元にまとわりついている。
「西野さん、傘は」
「あります」
そう言ってバッグを探したが、折りたたみ傘はなかった。朝、玄関に置いたままだと思い出した。
佐伯部長は、自分の傘を少し瑠衣の方へ傾けた。
「駅まででいいなら、一緒に」
「すみません、部長」
二人で入るには、折り畳み傘は小さい。肩が触れないように歩くと、右腕だけが雨に濡れた。でもそんなことはこれっぽちも構わない。
「会社の外でまで部長と呼ばれると、少し疲れるな」
信号待ちのあいだに、佐伯部長が言った。
瑠衣はどう返事すればいいのかわからずに黙っていた。部長も黙っている。瑠衣は心の中で「佐伯さん」と呼んでみた。だが、声に出して言えそうにもなかった。会社の外と言えども、関係性はどう違うのだろう、とも思うのだった。しかし、瑠衣はもう一度、心の中で「佐伯さん。佐伯さん」と呼んでみた。心臓の音がはちきれんばかりに大きくなっている気がする。鼻から息を吸い、口から息を吐くどさくさに、瑠衣は言った。
「では、佐伯さん」
信号が青に変わり歩き始めるのと同時だった。
「うん。それくらいがいい」
その横顔の左の眉が、ほんの少し上がった。真剣に何かを考えるときの癖なのだと、そのとき初めて知った。
雨で車のライトや街の灯りが滲んで見える。並んで歩く佐伯さんを見上げると、ワイシャツの襟の隙間からのどぼとけが上下していた。瑠衣は、濡れた右腕を左手でさすった。なぜかこのまま駅に着かないでほしいとさえ思った。雨の音が大きくなって、言ってはいけないことを、全部かき消してくれるようだった。
桃を食べた夜から、瑠衣は佐伯部長の声を、ほかの人の声と聞き分けるようになった。フロアの端で誰かに指示を出す声。電話を替わるときの、少し低くなる声。コピー機の前で咳払いをする声。真剣に考える時に上がる左の眉毛。探しているつもりはなかった。けれど、受話器を置いたあと、瑠衣の目はいつも、無意識にその声のする方へ動いていた。
佐伯部長は、瑠衣のボールペンの癖を笑わなかった。ただ一度だけ、山のように散らばったペンを見て、
「今日は、ずいぶん武装したね」と言った。
瑠衣は恥ずかしくなって、ペンを一本ずつ引き出しに戻した。
電話で殺されることはないから。
前に聞いたその言葉が、今日は叱責ではなく、背中に置かれた温かい手のように思えたのだった。
それから何度か、瑠衣は佐伯さんと会社から駅までの帰り道に他愛もない話しをするようになった。「佐伯さん」と呼ぶと、上司ではなくまるで先輩か友だちのように自然に言葉が出てきた。
今日のお昼は園田さんと○○うどんへ行った、とか、自販機でコーヒーを買ったつもりが紅茶だったこと。古書店巡りが趣味だということや学生時代の思い出話もした。古書店は探していた本を見つけるのではなく、探してない本を見つけに行く場所だからワクワクするというと、佐伯さんは「楽しそうだね。僕も古書店巡りに参加させてもらえないかな」と言った。
会社で見たことのない柔らかい笑顔に、彼の前髪が風に靡いた。
「いいですよ。毎月、中旬頃にお得なセールをすることがあるんです。良ければ、その時に」
「ああ、いいね。じゃあ、お願いするよ」そういって、ジャケットの内ポケットから携帯電話を取り出した。
「西野さん、電話番号を教えてもらえるかな。僕のも教えておくから」
「はい、わかりました」瑠衣は佐伯さんに番号を教えた。すると、すぐに着信があった。
「それが僕の番号だから。登録しておいて」
「はい、わかりました」
佐伯さんは少し笑って言った。
「西野さんは本当に真面目だね」
「いえ、そんな。そうだ、あとでメールアドレスをショートメールで送りますね。電話ができない時はメールで連絡ください」
駅の改札に続く階段の前で、佐伯さんはなかなか降りようとしなかった。
「じゃあ、今、くれるかな」
「もちろんです」瑠衣は携帯を操作しながら、身体が熱くなっていくのを感じ、それは、ふんわりしたやわらかなものに包まれている安心感に似ている。
「はい、送りました」
佐伯さんは携帯電話を確認した。
「僕のも送ったから」
瑠衣は携帯メールを開いてみると、ありがとう、と書いてある。
その一言に、涙が出そうになった。
「あ、いえ、こちらこそ」
佐伯さんを見上げると、背後に満月に近い月が輝いていた。
「見て、月がきれいです」
「本当だ」
二人して空を見上げたけれど、瑠衣は月よりも、月を見上げる彼の凛々しい横顔を見ていた。胸の奥が少し苦しくなった。
「じゃあ、降りようか」
先に佐伯さんが降りていく。その一段後ろを瑠衣が降りる。階段を降りたところで「おやすみなさい」と言い合い、それぞれ反対方向へ歩いて行った。瑠衣は携帯電話を抱きしめながら改札を通った。
古書店の小町通りという通りには数件の古書店とブックカフェが何件か軒を連ねている。月に一度、小町通りでスタンプ巡りやまとめ買い割引があったりとイベントが開催される。瑠衣は一人遊びのようにそのイベントを楽しみにしているのだった。
その日はお盆前の蒸し暑い盛りだった。
佐伯さんとの約束までにあと5分ほど。待ち合わせ場所や時間を幾度となくメールで連絡しあって、今日になった。瑠衣はブルーデニムに素足でローヒールのパンプス。ノースリーブのブラウスに羽織のカーディガン。両手が自由に使えるように小さなポシェットを斜めがけにした。地下鉄から地上に出たすぐにあるホテルの前で待ち合わせをしている。
瑠衣が先に到着した。けれど、約束の11時から7分が過ぎてもまだ現れなかった。ちゃんと来てくれるだろうか、事故に遭ってはいないだろうか、奥さんに引き止められていないだろうか、そんな目に見えない不安が過ぎった。だから、彼が現れた時は涙ぐみそうになった。来てくれた。ただそれだけでこんなにも心が弾むのだ。
右手を挙げてやってきた佐伯さんは「遅れてすまない」と両手を合わせた。紺色のリネンのボタンダウンシャツにベージュのチノパン姿だった。見慣れたスーツ姿よりも距離が近くなった気がして、瑠衣の胸は高鳴った。
「いえ、大丈夫です。でも、無事で良かったです。行きましょうか」
瑠衣の右側に佐伯さんがいて、並んで歩いた。捲り上げたシャツから見える腕は筋肉質で、足元は履き込んだ革の茶色いローファーだった。きっと、このローファーとこれまで一緒に歩いてきたんだなと感じる靴だった。
二人は坂を上ったすぐにある古書店から覗いて行くことにした。静かな店内には古い紙のにおいがして、本をめくる音がかすかに聞こえるくらい静寂な空間だった。息をすることも忘れてしまう程、本に囲まれている状況は楽しいものだった。瑠衣は先に棚を見ていく佐伯さんの背後についていった。しばらくして棚から一冊抜き出した彼は、瑠衣にニヤリとして、本を掲げて見せた。『遠野物語』だった。瑠衣は頷いた。
「柳田國男の良さはね、歴史の教科書には載らない『名もなき人たちの心のつぶやき』を、誰よりも優しい目で見つめて、美しい言葉で残してくれたところなんだ」ささやくように言って、本を愛おしそうに見つめながら手に持った。
瑠衣は文庫棚の前で足が止まった。会社では、いつも急いでいる。電話を取ると対応でいっぱいいっぱいになり、気づいたらデスクにはいつもペンが散らばっている。クレームの処理、事務処理もしかり。電話の向こうのお客様の予定に自分を合わせていく。けれど古書店の棚の前では、誰にも急かされなかった。
『第七官界彷徨』を抜いた。タイトルに呼ばれたように思えたのだ。
意味は、すぐにはわからない。けれど、わからないまま惹かれる言葉があった。瑠衣はタイトルを見つめながら、自分の中にも、まだ名前のついていない場所があるような気がした。帯の言葉に、読んでみたいと思えた。
「尾崎翠、か。面白そうな本だね」
隣で佐伯さんが言った。
場所柄なのか会社にいる時より少しだけ声のトーンが低い。休日のラフなスタイルはしっくり来ていて、オフィスで見るより心やすいひとに思えるのだった。
「タイトルが難しいかもしれません。でも、この本、読んでみたいって思います。ほら、ここ。帯に書いてあります。第七官にひびくような詩を書きたい女の子の物語みたいなんです。なんていうか、私探し的な感じです」
そう答えると、彼は少し笑った。
瑠衣はその笑い方を、会社で何度か見たことがあった。部下を安心させる時の笑い方だった。けれど今は、それとは少し違って見えた。
瑠衣はペラペラめくって、棚には戻さずに手に持った。
もう一冊、片岡義男の『スローなブギにしてくれ』を見つけた時、瑠衣は思わず背表紙に指を止めた。
スローなブギにしてくれ。
その言葉には、会社のデスクにはない風景があった。急がなくていい夜、知らない車、少し乾いた恋。そんなものを自分が欲しがっていることに気づいて、瑠衣は少し恥ずかしくなった。
「それも?」
佐伯さんが聞いた。
「はい。タイトルが、ずるいです」
瑠衣がそう言うと、彼は今度は声を出さずに笑った。
佐伯さんが『遠野物語』で、瑠衣はこの二冊にした。
『第七官界彷徨』は、自分の奥へ降りていくための本。
『スローなブギにしてくれ』は、どこか遠くへ行ってしまうための本。
その両方を、瑠衣は欲しいと思った。
レジの前で財布を出そうとすると、佐伯さんが少し手を動かした。
「出すよ」
瑠衣は顔を上げた。ほんの一瞬だけ、会社の空気が二人の間に戻ってきたように思えた。
「いえ。これは、自分で買います」
声は思ったより冷静だった気がする。けれど、自分でも驚くほどはっきりしていた。佐伯さんは何も言わず、手を戻した。
紙袋に入った本を受け取った時、瑠衣は少しだけ胸が熱くなった。たった二冊の古い文庫なのに、会社で使っている名刺よりも、ずっと自分に近いもののような気がした。
店を出ると、午後の光がまぶしかった。時計を見ると午後1時になろうとしている。ずいぶん長く滞在したみたいだった。
佐伯さんは隣を歩いている。けれど瑠衣は、紙袋を胸に抱えながら、少しだけ別の場所を歩いている気がしていた。それは、会社の部下ではない自分。誰かに説明しなくてもいい自分。その入口を、古書店でたしかに買ったのだと思った。
「腹減ったな」
「はい、減りましたね」
この辺なら、瑠衣がときどき利用するインドカレーのお店があった。人気のパスタのお店があり、ホテルのブッフェランチもあった。
「西野さんが食べたいものでいいよ」
瑠衣は古書店の帰りは大ていインドカレーだった。これはなんとなくの相性なのだが、古書のにおいのあとはカレーのにおいが相性が良いように思われたからだ。根拠も理由も何もない。
佐伯さんは「尾崎翠を買って正解だな」といった。瑠衣は胸に抱いた紙袋にぎゅっと力を入れた。
インドカレーの店から出ると、小雨がパラついていた。
「雨だ。朝はあんなにお天気が良かったのに」
佐伯さんは「ほら」と手を出して瑠衣の紙袋を指した。紙袋を自分のトートバッグに入れた。
「せっかくの本が雨に濡れてしまうだろ」
「ありがとうございます」
駅までの道が少し遠い。小雨から大粒の雨に変わるのに時間は掛からなかった。途中、公園の大きな木の下に入った。
「きっと今だけだよ。少し雨宿りしよう」
瑠衣が彼を見上げると、濡れた前髪からしずくが落ちた。しずくを受けようと伸ばした瑠衣の手首を彼は掴んだ。またしずくが落ちる。瑠衣は手首から溶けてしまうんじゃないかと思った。佐伯さんは手首を自分の方へ引き寄せた。自然と瑠衣の身体も引き寄せられて、いつの間にか彼の胸に頭を預けていたのだ。心臓の音が聞こえる。瑠衣の心臓の音も重なった。佐伯さんのシャツからは汗とカレーと雨のにおいがして、懐かしく感じた。このままこうしていたいとさえ願ったのだった。
瑠衣が顔をあげると、唇が塞がれた。次第に舌が絡み合うくちづけとなった。お互いの口の中で溶けあう舌が滑らかに、熱を帯びてだんだん激しく絡み合う。瑠衣は両手を彼の首に回した。とてつもなく長い時間のように思われたのだった。
唇を離して、彼は言った。
「君が嫌ならいいんだ。ただ、一緒にいたいと思う」
雨が木の葉を叩く音が大きくなり、雨粒が木の下まで迫ってきた。
「せめて雨が止むまでこうしていたい」彼は耳元でささやいた。瑠衣は頷き、今度は自分から彼を求めたのだった。
五 慎さんの背中
口の中に入れると冷たくて、土と緑がまじりあう、それでいて清涼な果実の風味が鼻から抜ける。瑠衣は果物ナイフを使ってゆっくり静かに、実をくし形に切った。指先で皮の先端をつまむと、力をいれずとも皮を剝がすことができた。熟した桃はひとつも力を入れることなくスルスル剥けていく。
その一切れを遠慮がちに開いた口にそっと入れた。
「美味いな」
慎さんは目じりを下げて微笑んだ。パンダみたいだと思う。
幻の桃は果肉をかみしめるたびに甘い果汁が口に広がる喜びを教えてくれる。
時折、慎さんは咳をするようになった。
「甘すぎる?」
「いや、そんなんじゃないよ」
窓の外は雨が激しく降ってきた。窓に打ち付けられる雨粒は焙られたガラス玉のように丸く鳴ったり、細くなったりと形を変えてゆく。
「今日はいいお天気ですね」
「まったく、同感だよ」
雨なのに天気がいいと言い合うことは二人の遊びだった。瑠衣はだんだん身体が火照っていくのを感じていた。
咳をする慎さんの背中をさすった。大きな背中をさすりながら、後ろから慎さんを両手で包み込むようにして抱きかかえる。ワイシャツのにおい、頭皮のにおい、タバコのにおい。慎さんのにおいの海に溺れている。そんなふうに感じる大胆な自分にも、もう驚かなくなった。このまま二人で、どこか深いところへ沈んでしまえたらと思った。水の底なら、咳も、時間も、誰かの名前も、少しは遠くなる気がした。離れないように抱いているのに、慎さんの身体はもう、こちら側にとどまりきれないもののようだった。
「瑠衣、また出会いなおそう。もし生まれ変わりなんてものがあるなら、俺はまた桃の育つ場所で待っているよ。君なら、きっと見つけてくれるだろう?」
「はい、見つけます。絶対に」
瑠衣は咳き込んだ慎さんの背中をさすりながら、
「今度は私、誰よりも先に見つけてもらうから」
背中から慎さんを抱きしめた。瑠衣の両手では納まりきらない慎さんを力いっぱいに。
彼は、背後にいる瑠衣に向き直ると唇を寄せてきた。
柔らかい唇に熱を帯びた瑠衣は慎さんを隅々まで忘れないと思った。
六 桃のジュース
その日は商品の入れ替えがあるため、商品が大量に到着する日だった。
朝、朝礼で新しく入るアルバイトの紹介があった。
大抵、大学が長期休暇になる夏休み、冬休みにはアルバイトがやってくる。もちろん瑠衣のように長期で続けたい主婦もいるし、中原さんのような一年ごとの契約社員もいて、オリーブの社員は頻繁に異動があった。馴染んできたら誰かが他所へ行き、誰かがやってくる。そんな光景を見ながら、瑠衣はパートで二年が過ぎた。
新しいアルバイトは大学生の男の子二人だった。一人は長身でわりと肩幅があるため、オリーブグリーン色のエプロンが小さく見えた。もう一人は中肉中背。優等生っぽい子だった。
「今日は商品の入れ替えがあります。商品の入れ替えは二番目にして、一番目にはお客様対応を心がけてください。では今日も一日よろしくお願いします」
そのあと、接客七大用語を唱和する。今日は中原さんの番だった。
身長が低くて色白で、細身の中原さんが皆の前に立つと、心許ないように思うのだ。四十三歳だけれど、まだまだ少女のような風貌だった。
「いらっしゃいませ」一礼。
「かしこまりました」一礼。
「少々お待ちくださいませ」一礼。
・・・・・・
言い終わった中原さんは、よたよたと倒れこむように瑠衣の肩に寄りかかってきた。ふわっと石鹸の香りがした。
「エネルギー使い果たした。今日はもう終わった気がする」
瑠衣はよしよしと背中をさすってあげた。
「これよ、これ。瑠衣さん、背中さするの上手い」
「上手いも下手もないように思うけど」
「ううん、それが全っ然違うんだって。手のひらに熱を持ってるんじゃない?じわっとあったかくなるんだ」
と、瑠衣の手のひらをじーっと見つめた。そしてエプロンのポケットに手を入れて、
「はい、これ」
ピンク色のサシェを出した。
「ハンドクリーム。ほら、ここ。乾燥してる」
「手のひらって乾燥するの?」
「するよ。汗かくでしょ?汗かくところは必ず乾燥がセットになってるんだよ」
「本当に?」
「要するに、汗かくとバリア機能が乱れるんで。これ新商品なんです。試してみてください」
ありがとう、と言って瑠衣はデニムの尻ポケットに仕舞うと、中原さんはエプロンのポケットに両手を入れて身体を左右にゆすった。
「秋本さん」
瑠衣は店長に呼ばれて「はい」と返事した。
「今日は商品の品出しが多いんだけれど、先に日向君と三木君にレジを教えてもらいたいんです。午前中いっぱいお願いします」
「午後は?」
「午後は、別の人に店内のことをお願いするんで、大丈夫ですよ」
日向君は身長が高くて、少し癖毛で芸術家っぽい。エプロンが小さく見える人。三木君は中肉中背の短髪で優等生っぽい人。
瑠衣はそんなふうに二人を覚えた。
「よろしくお願いします」二人そろっておじぎをした。
「パート社員の秋本と申します。近ごろのレジは全部自動なので難しくありません。先ずは私の後ろで、流れを見ていてくださいね」
「あっ、僕、コンビニでアルバイトした経験があるのでレジは怖くないっす」
日向君が言った。
「じゃあ、少しずつやってみましょうか。見るよりやって慣れる方がいいもんね」
二人がハイッと返事をした。
瑠衣は二十二歳の自分を思い出した。どんなことにも好奇心旺盛で、何をやってもすぐに吸収できる気がしていた。覚えること自体が楽しかった。誰よりも早く覚えようと、内なる炎を燃やして同期と競い合っていた。この二人にはそんな向上心が見える気がしたのだ。
最初のお客様数人は瑠衣が対応した。そのあと、試しに日向君に代わってみた。瑠衣はすぐに対応できるように日向君の隣に待機している。自動ドアが開いて外気が入り込んだ時、日向君の太陽のにおいが瑠衣の前を通り過ぎて行った。
アプリの提示、提携カードの有無を聞き、袋は要るかどうかを聞く。日向君は順序よく、そつなく対応していた。クレームや返金、商品の在庫などを聞かれない限り大丈夫だろうと思った。何よりも、仕事をしたくてしようがないという雰囲気も伺えたのだ。
三木君も順応している様子だった。
瑠衣はその様子を店長に報告した。
翌日、今日も食品の商品の入れ替えだった。春から夏へ季節が変わるときは、かなりの入れ替えがある。
毎日の品出し担当者はホワイトボードに割り振られていた。瑠衣は冷蔵庫の食品全般だった。ジュース、牛乳からプリン、ヨーグルト、ロースハムやカット野菜、納豆などのちょっとしたときに必要な食品群だ。
賞味期限の近い日付を手前に、奥には賞味期限が遠いものを。外は汗ばむほどだけれど、店内の冷蔵庫はかなり冷えている。瑠衣はポケットから軍手を取り出して両手につけた。
「次は牛乳からっすか?」
威勢の良い声が瑠衣の頭の上から聞こえた。見上げると、日向君だった。
「ああ、うん、そう。マスカットジュースが終わったら牛乳です」
「おっす」
日向君は瑠衣の隣にしゃがんだ。
身長も手足も長い日向君は、冷蔵庫の奥の商品をそのままの姿勢で簡単に手前に寄せることができた。これまであまり接してこなかった若者らしさを感じて、思わずクスッと笑った。
「なんっすか?」
「いえ。若いなって思って。ああ、ごめんね。私、若い人とあまりかかわりなかったから、日向君が新鮮で」
「そうっすか。新鮮っすか。新鮮なんて、初めていわれました」
日向君は大真面目な顔をして、なんで笑うんっすか、という。
瑠衣は本当に新鮮な気持ちになったから笑いがこみあげてきたのだった。まるで、これまでずっと雨降りだった脳内に、朝の太陽が降り注いだように明るくなっていく感じがした。日向君には信じてもらえないかもしれないけれど、とっても甘い果物の果汁を口いっぱいに含んだようだった。
「あっ、これもっすか」
日向君が手に持っていたのは、桃のジュースだった。忘れていた。この時期から桃が入ってくるんだった。だから入れ替えなのに、と思いながら「そうです。お願いします」と言った。
「おっす」と日向君。
「あ、あ、あー、秋本さんっすよね」
「はい、そうです」とネームカードを彼に見せた。日向君はうん、と頷いた。真面目に名札を読んだのか、左側の眉が少し上がった瞬間、瑠衣の心臓が大きな音を立てた。
遠い昔、あの人も真剣で真面目なときは左側の眉が上がった。亡くなってから、顔をちゃんと思い出したことはほとんどなかった。あの頃から、あの人は老いることなく瑠衣の胸の中にいた。今では、瑠衣はすでに彼の年齢に達していることが不思議だった。二十八歳の年の差がプラスマイナスゼロになった。これから先は、自分の方が年をとるんだと。もしも、自分があの世に行ったら、彼は年老いた瑠衣を見つけることができるだろうか。
「秋本さんは美味しい桃を食べたことあるんっすか」
「美味しい桃?」
「そうっす」
「ずいぶん昔に食べたわ。そうそう、今の日向君くらいの年齢だった。社会人になった頃だけど」
「僕のじいちゃんが桃農家なんです。だから、小さいころは桃ばかり食べて育ったんっすよ」
「へえ。贅沢ね。うらやましい」
日向君が棚の奥の商品を隣の列に並べた。そのあとに、瑠衣は桃のジュースを並べてゆく。
日向君は束の間、作業の手をとめてつぶやいた。
「幻の桃」
一瞬、聞き間違えたのかと思った。瑠衣はゆっくり日向君を見た。日向君は瞬きもせずに瑠衣をじっと見つめている。そして瑠衣に確認するように言った。
「小山田の桃っすよ」
瑠衣はゆっくり頷いた。
「知ってる」
小山田の桃は市場に出回らないから幻の桃と言われている。赤土から潤沢に水分と滋養を蓄えた桃は、かみしめるほどに糖度の高い果汁が口の中を、体中を満たすのだった。あの甘美な果実を思い出して、思わず目頭が熱くなった。
慎さん。
「秋本さん、僕は日向颯太っす。二十二歳っす」
日向君の目じりの下がった笑顔を見て、また目頭が熱くなる。それを見た日向君は、軍手をしたまま手を叩いた。
「さ、次は豆腐、ハム、ちくわっすよ」
瑠衣は豆腐の入っているコンテナを自分のほうへ寄せた。
低くて良く通る、威勢の良い声が瑠衣を追いかけてくる。
七 歯磨きペースト
お昼休憩はコンビニでポテトサラダ、チキンと卵のサンドイッチを買った。以前ならこんな食事じゃ足りなくて、おにぎり、デザートも買っていた。たくさん食べたいけれど、そんなに食べられなくなったみたいで一抹の寂しさが漂う。夫も同じことを言っていた。ラーメンにライス大盛が常だったのに、いまはラーメンしか食べられない。ラーメンも平らげられないときもあるんだ、と。「大盛」だの「お替り無料」だのに惹かれるけれど、食べられないからさみしいという。
その気持ちもわかるのだ。夕飯も量がめっきり少なくなった。そんな変化も同じ年齢だから、同じように生きてゆけるのだと思っている。
「お疲れさまぁ。やれやれだわよ」
中原さんがエプロンを外しながら入ってきた。
季節商品の入れ替えは化粧品も同じだった。冬から夏へ。
「食品が終わったら、手伝おうか」と瑠衣は提案した。
「ありがとうございます。でも大丈夫です。自分が全部しないと何がどこに行ったかわからなくなっちゃうんです」
「そうっすか」
瑠衣はぬるくなったアイスコーヒーをすすった。中原さんがクスクスと笑っている。なに?と目で合図すれば、更に笑う。止まらないみたいだった。瑠衣は、歯磨きをしようと席を立った。歯ブラシにペーストをのせて口に入れた瞬間に、中原さんが背中を叩いたのでペーストが洗面に飛び出した。それを見て、また笑った。
「中原さん、もう、何なの?またやり直しじゃない」
「ごめんなさい」
洗面のペーストを洗い流して、歯磨きのやり直しをする。何があっても磨くのだと思うと、磨くことに信念すら湧いてくる。唇を閉じ、目を瞑ってひたすら磨く。前、奥、上、舌。ゴシゴシゴシ。
口を濯ぎ、メイクを直す。
中原さんが「はい、これ」と差し出したのは「歯磨きペースト」だった。差し出した中原さんの手が震えていた。顔を見るとまだ笑っている。
「口の中がハーブの香りでスッキリしますよ。新製品なんです」
「ありがとう」
「歯磨き粉ひとつでリセットされるって知ってます?」
「なにがリセットされるの」
「癖になりそうなことが、癖にならずに済むらしいですよ」
良くわからないけれど、ふーんと頷き、瑠衣は歯磨きセットのポーチに仕舞った。
社員やパートの休憩がひと通り終わる午後2時を目安に、アルバイトは仕事が終わる。若い人たちがいなくなると急に店内の冷房が効き始めたように感じた。
まさか日向君が「小山田の桃」「幻の桃」という言葉を口にするとは思いもよらなかった。
もしかして、と思った。でもあり得ないことだった。
八 もう一度、桃
「秋本さん、良かったらこの桃どうっすか?」
日向君がビニール袋の中から、一つ取り出した大ぶりの桃。ピンク色のグラデーションが美しく、大ぶりで形のきれいな桃だった。その一つを大事そうに両掌にのせて瑠衣に見せた。
「いいにおいっすよ、ほら」
桃の甘ったるいにおいは皮を剥かなくても漂ってきた。
「うん、本当にいいにおい」
「じいちゃん家が桃農家ってはなし、しましたよね。で、桃を送ってきてくれたんっすよ。たくさんあるから、職場の人に持って行けって、オカンが」
「わー、嬉しい。みんなで分けましょうか?」
「いや、そうじゃなくて。僕は秋本さんに全部もらってほしいっす」
手のひらに持っていた桃を袋にいれて、日向君が「はい。どうぞ」と差し出した。
袋の膨らみから恐らく十数個あるのかもしれないと思った。逆に毎日食べても傷んでしまう可能性もある。そのことを日向君に伝えると、
「なら、中原さんと分けてくださいよ。仲良しなんっすよね」
「ありがとう。じゃあ、そうさせていただきます」
ずしんと重みのある袋だった。
日向君は小山田の桃を知っているだけ。
左眉が上がるだけ。
それだけなのに、瑠衣の中で慎さんが蘇ってしまうのだった。
大切に抱えてロッカーにしまったあと歯を磨いた。
昼食のあとだから、という理由はあった。けれど本当は、口の中に残っている桃の気配を消したかった。
中原さんにもらった試供品の歯磨きペーストは、思ったより強いハーブの香りがした。舌の上が少し痺れるほどだった。
癖になりそうなことが、癖にならずに済むらしいですよ。
中原さんの声を思い出した。
瑠衣は水を含み、長く口をすすいだ。
日向君に聞いてはいけないことが、まだ喉の奥に残っていた。
「磨いてますね、どうですか?スッキリでしょう」
ポケットに手を入れた姿で身体を揺らしている中原さんが嬉しそうに言った。瑠衣はなぜだかわからないけれど、中原さんになら告白してもいいような気がした。
「ねぇ、中原さん。生まれ変わりって信じる?」
中原さんは長いまつ毛のついた目を瞬かせた。
「もし生まれ変わりなんてものがあるなら、俺はまた桃の育つ場所で待っているよ。君なら、きっと見つけてくれるだろう?」と言い残して去って逝った慎さんのことを話した。そのうえで、日向君の桃農家や、幻の桃のことをかいつまんで話をした。中原さんはずっと一点を見つめて動かなかった。瑠衣は、話した後にはなすべきことではなかったかも知れないと後悔した。
「ごめんね、こんな変なこと。忘れて。あり得ない話よね」
中原さんはエプロンのポケットに両手を入れて身体を左右にゆすり始めた。格別に大きく揺れている。
「瑠衣さん、今、何歳?」
「五十歳よ」
「日向君は二十二歳でしょ。慎さんという人は何歳?」
「五十歳だわ」
「その時の瑠衣さんは?」
「二十二歳よ」
「……確かに、変ですよね」
中原さんは、身体の揺れが小さくなった。エプロンのポケットに両手を入れて何かを探り始めた。
「でも、あり得ないからって、違うってことにもならないですよね」
中原さんは言った。 それから少し笑って、
「すでに出会いなおしてるんじゃないですか。だって、瑠衣さんには旦那さんがいるじゃないですか」
「夫?」
「さすがに、あり得ないことにに効くサシェはないですけど」
と言ってポケットから両手を出した。
九 桃の育つ場所まで
暑かった夏が終わり、秋になり、冬になった。
オリーブドラッグのアルバイトの子たちはそれぞれに就職が決まり、辞めていった。日向君は「地域活性化したいっす。だから公務員を目指してます」と言っていた。いくつかの市役所、区役所を受験して、一番行きたかった土地への市役所に決まったらしい。どこの市役所なのかは聞いていない。でも、彼なら明るく、たくましく、思いやりのある社会人になりそうな気がした。
日向君が最後の日、瑠衣は休みだったので、最後の挨拶は出来なかったけれど、それでいいと思っている。
慎さんと重なり、もしかしたら慎さんの生まれ変わりかもしれない、とまで考えたけれど、偶然が重なった出来事だったと捉えるのが正解だと思った。
ある冷え込んだ夜、夫が腰を押さえていた。
「ちょっと張ってるな」
そう言って、畳の上にうつ伏せになった。瑠衣は何も言わず、夫の背中に手を置いた。若いころより薄くなった背中だった。肩甲骨のかたちが、シャツ越しにもわかる。瑠衣はゆっくり夫の背中をさすった。
「背中さするのうまいな」
夫が眠そうな声で言った。
中原さんと同じことを言う、と思い少し笑った。そのあとに慎さんの咳を思い出したのだった。
瑠衣はさする手を止めることなく、ますます執拗にさすった。止めたら、今、どちらの背中に触れているのか、わからなくなりそうだったからだ。
瑠衣は背中をさすりながらも慎さんと過ごした最後の夜を思い出した。
あの日、彼は咳き込んでいた。瑠衣はその背中をさすっていた。さすりながら愛おしく、離れたくないという思いがあった。だが、瑠衣のできることはそこまでだった。
あの頃の瑠衣は慎さんが突然逝ってしまった悲しみに明け暮れていたのだった。来る日も来る日も泣いてばかりだった。でも、と思う。妻は違うのだ。妻は悲しみばかりに明け暮れて泣いてばかりは居られなかったはずだった。入院、葬儀、後始末。やるべきことは山のようにあったに違いない。雑事が悲しみと溶けあって、どれほどの思いだっただろうか。
五十歳の瑠衣はやっとそういうことまで想像できるようになった。二十二歳とは、なんと若かったのだろう。そして、自分の悲しみに対応する力もなかったのだと思った。
夫の背中をさするたび、瑠衣は慎さんのことを思い出した。
けれどその手の下にあるのは、今、ここで一緒に老いていく夫の背中だった。
思い出は消えないけれど、消えないままでも、人は誰かのそばに戻っていけるのかもしれない。
病院には行きたくない、という夫の気持ちは理解できた。病名を告げられたら怖いだろうし、ショックもある。そんな自分と向き合うのが嫌なんだろうと感じるのだ。反面、病院できちんと検査して、正式な病名がわかり、最善の治療方法を伝えてくれたらその通りにやって行けばいいのだ、とも思うのだった。
瑠璃は嫌がる夫を近くのクリニックに連れて行った。検査の結果、大学病院への紹介状を渡された。
クリニックからの帰り道、夫は言った。
「俺、もうアカンのやろか。やり残したことあるねん」
「クリニックで出来ることは限られてるんだよ。設備の整った大学病院じゃないとちゃんと治療できないんだと思うよ」
「せやな」
「うん、そう。せや、せや」
瑠璃は夫の手をとり、つないでマンションまで帰った。手をつないだのは何年ぶりだろうと考えた。わからないくらい遠い昔のはずだった。瑠璃は思う。ゆくゆくは二人とも灰になるんだから、体温のあるうちに手をつないでおきたい、と。
慎さんの妻は、どうだっただろう。慎さんのぬくもりが残る手を握り、そのうちだんだんと冷たくなっていく手を感じたのだろうか。
夫は前立腺がんと診断されたのだった。年齢的にも罹患しやすいのだそう。幸い、前立腺がんステージⅡで左側だけに留まっているものだった。治療はいちばん体に負担のないものをと主治医から言い渡された。治療ののちは経過観察ということになった。
全容が明らかになったせいか、夫は希望を持ち、明るくなった。
「あと、四年。定年したら故郷で暮らしたいなぁ思てるねん。瑠衣、嫌か」
夫の実家のある場所は瑠衣にとって、勝手知ったる場所でもあるのだ。だから「もちろん賛成」と夫に言うと、満面の笑みで「ありがとう。きっと、瑠衣も生活しやすいと思うで。楽しみやな」
「わたしも楽しみ」どちらともなく笑った。
治療は順調に進んだ。結果、三か月に一度の検診を受けるだけでよくなったのだ。夫が定年退職するまでにあと三年となったころ、その土地に出向き、夫婦ふたりが暮らせる中古マンションを購入した。その土地は夫が小学生から高校生までを過ごした場所だった。今では親類縁者は誰もいない。
ただ、あるのは故郷という土地の名前。その名前は夫が幸せだった年代の記憶が詰まっているのだった。
マンションの壁紙やら、クリーニングを行い、正式に引っ越しが決まったのは購入してから二か月経った頃だった。瑠衣が五十五歳になり、夫が五十八歳の年に終の棲家であるマンションに移った。終の棲家はこの先の人生が終わるまで夫と暮らす土地となる。
瑠衣はオリーブドラッグをやめる時が来たのだった。日向颯太君はもう立派に社会人としてどこかの市役所で働いているだろうし、中原さんは再婚して高齢出産で子供を産んだ。
「運命の人と第二の人生を始めます。瑠衣さんも幸せでいてね」そういって、最後に差し出してくれたサシェは「ビタミンC」だった。健康でいて、と言ってくれた気がした。これで、瑠衣にはサシェを差し出してくれる人は居なくなった。
引っ越しが落ち着いたころ、瑠衣は近くの農協で果物や野菜の出荷の手伝いを始めた。新鮮な野菜や果物、手作りのクッキーやパンを店内に並べて売る。土曜と日曜の青空市には夫と一緒に出向いて手伝いにいった。この活動は地域の人たちと交流できるので楽しいものだった。
梅雨が終わるころになると入ってくる果実は多い。さくらんぼ、ぶどう、すいか、桃。一つずつ丁寧に箱詰めしたり、ビニールに入れてリボンをかけたり、見栄え良くして売り場に並べていく。
その日、瑠衣はベテランの女性に「秋本さん、倉庫、お願いします」と言われて、道路を渡った向こう側にある倉庫へ向かった。倉庫の前には新鮮な果物や野菜を乗せたトラックがつけられるように広い駐車場になっている。今日は日曜日なので、夫もこの倉庫の中で手伝いをしているはずだった。
そこへ一台のトラックが入ってきた。
ヘッドライトの光が眩しくて目を閉じた。
「秋本さん、このトラックよ。桃が来たわ。お願いします」
「はい」瑠衣は台車を押してトラックの後方へ寄って行った。
止まったトラックの荷台からは甘くて優しい桃の香りが風に乗って瑠衣の鼻をくすぐった。何度嗅いでも忘れられないこの桃は、言われなくても知っている。小山田の桃なのだ。
運転手がトラックから降りてきたので、瑠衣は「お疲れさまです」と声をかけて見上げたがちょうど逆光で顔はわからなかった。
「秋本さん、ほら、桃っすよ」
聞いたことのある声に瑠衣は呼吸が止まった。見上げた運転手は日向君だった。
「地域活性化っす。言ったでしょう、ここ、一番行きたかった市役所っすよ。桃の育つ場所っす」
「……そう」
瑠衣の喉元にこみあげてくる過去の思いが、言葉を詰まらせた。台車を持つ手が汗ばんで、エプロンで拭いた。
「やぁやぁ、こんにちは」夫は日向君に手を挙げながら倉庫から出てきた。
「こんちはっす」といって日向君は夫に向かって帽子を取った。
「瑠衣、桃の育つ場所まで来たな」
そういって夫は桃の入ったコンテナをゆっくり下ろしながら、笑った。日向君も笑った。
その笑い声の奥で、遠い日の慎さんが、もう一度だけ笑った気がした。(了)