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もう一度、夫と暮らしなおす場所

    終の棲家を買ったけれど、なんだか胸がざわざわするのが止まらない。

    嬉しいんじゃないのか。
    これでもう、引っ越し生活とはおさらばなのだ。

    この家が最後の引っ越しになるということを、まだうまく認識できずにいる。
    もっと喜ぶべきなのだろうか。
    うーん。
    わからない。

    わかっていることは、この終の棲家を決めた街で、私は息ができ、深呼吸ができ、読書ができて、夜は本来静かなものなのだと知り、安心して眠りたい、ということ。

    何かで読んだけれど、人生で引っ越しをする回数は、平均三回くらいらしい。
    私は十一回。

    以前、帰らないマンションのことを書いた。
    あのとき私は、どこで老いていくのかばかり考えていた。
    けれど今は、誰と最後の時間を過ごすのかを考えている。

    引っ越し回数がもっと多い人は、たくさんいるだろう。
    でも平均が三回だとすると、いくら転勤族であっても、それは多いのだろうなぁ、なんて考える。

    だから、なに。

    引っ越しの回数が多い方がえらいわけじゃない。

    ただ、二年、三年と同じ土地に住んでいると、ソワソワするのだ。
    もうそろそろ……なんて考える。
    一つの土地に、一つの建物に、長くいられなくなったのかもしれない。
    だから、終の棲家にあと二十年、三十年くらい住むのだと思うと、長いなぁと思う。

    けれど、ふと気づいた。
    終の棲家は、私たち夫婦の終わりの場所でもあるのだ。
    そのことに気づいたとき、胸のざわざわが少し形を変えた。

    不安だけではなかった。
    寂しさだけでもなかった。
    まだ引っ越しもしていないのに、私は夫に対して、少しやさしい気持ちになっていた。
    夫が憎かったわけではない。
    嫌いだったわけでもない。
    けれど、声を大きくして「大好き」と叫べるほど、もう若くもない。

    夫婦には、そういう年齢があるのだと思う。
    好きとか、嫌いとか、そういう言葉だけでは足りなくなってくる。

    暮らしの中には、もっと小さな感情がたくさんある。
    腹が立った日。
    黙っていた日。
    同じことで何度も揉めた日。
    こちらの気持ちをわかってくれないと思った日。
    それでも、買い物の帰りに同じ袋を持ち、同じ家に帰ってきた日。
    そういう日が、何年も何年も重なっている。

    恋人だったころのように、胸が跳ねるわけではない。
    けれど、他の誰かと比べてみても、やはり夫がいいと思う。
    それは、華やかな気持ちではなく、
    たぶん、とても深いところにある。

    ひとことで言うなら、親よりも大切な人なのだと思う。
    親よりも長く暮らした人。
    親よりも、私の機嫌の悪さを知っている人。
    親よりも、私のだらしなさを見てきた人。
    親よりも、私の沈黙のそばにいた人。

    いろいろあった。
    本当に、いろいろあった。

    それでも最後に帰ってくる場所を考えたとき、そこにいるのは夫なのだ。

    終の棲家を買うということは、家を買うことだと思っていた。
    けれど、そうではなかったのかもしれない。
    私は、夫と最後の時間を過ごす場所を決めたのだ。
    そう思うと、胸のざわざわの奥から、少しだけあたたかいものが出てきた。

    まだ住んでもいない家。
    まだ見慣れてもいない街。
    まだこっち側にある段ボール。

    その先に、夫と並んで老いていく時間がある。
    それを思うと、不思議とやさしい気持ちになれている。

    終の棲家は、終わりの場所なのに。
    もしかしたら、もう一度、夫と暮らしなおす場所でもあるのかもしれない。


     
     
     
    50代半ば。考えることが多すぎて、言葉にしてみることにしました。 小説やエッセイに、思いを託しています。

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