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Nachtwind(夜風)|風まかせ文芸部


    夜半過ぎ。

    国道を走る車のフロントガラスを、横殴りの雨が激しく叩きつけていた。

    ワイパーが左右に振れるたび、ヘッドライトの先に濡れたアスファルトが浮かんでは消える。

    タカシはハンドルを固く握りしめ、アクセルを踏み込んだ。

    助手席には、八歳の息子・ハルト。

    額には冷たい汗が浮き、両の頬だけが異様に赤い。

    「パパ……」

    途切れそうな小さな声。

    「どうした、ハルト」

    「誰か……並んで走ってる」

    タカシは前を見据えたまま、息を詰めた。

    「誰がだ?」

    ハルトは助手席の暗いサイドウィンドウを見つめ、雨粒が流れるガラスを指差した。

    「知らないおじさん。車のすぐ横を、同じ速さで走ってる。『可愛い坊や、一緒においで』って……」

    ぞっとする寒気がタカシの背を走る。

    「熱のせいだ。外には風と雨しかない」

    タカシは自分に言い聞かせるように返した。 出発前、ハルトの熱は四十度を超えていた。救急相談窓口の指示通り、解熱鎮痛の座薬を使ってから車を出したのだ。だが、熱が引く兆しはまだない。

    「パパ……あの人、窓ガラスに顔を押しつけて笑ってるよ」

    「見るな、ハルト! 目を閉じていろ!」

    タカシは助手席の窓から目を背けるように、正面のバックミラーへ視線を上げた。

    鏡の奥の暗闇には、シートの黒い影が落ちているだけだ。

    ――そう見えた。

    次の瞬間、ミラーの奥で何かが蠢いた。

    人の頭ほどの高さに、鋭い角――いや、歪な王冠のような輪郭が浮かび上がる。

    タカシは息を呑み、慌てて視線を前方の道路へと戻した。

    ……見間違いだ。疲れているだけだ。

    もう一度ミラーを確かめたい衝動を必死で抑え、前だけを見つめる。

    「パパ!」

    ハルトが短く叫んだ。

    「あのおじさんが呼んでる! 僕を連れていく気だ!」

    「ハルト、見るな! 目を閉じるんだ!」

    「でも……!」

    「いいから、パパの手を握ってろ!」

    タカシの脳裏に、幼い頃に読んだ古い詩が蘇る。

    夜の荒野を馬で疾走する父と子。

    腕の中で怯える我が子と、暗闇から甘く誘惑する見えない影。

    ――ゲーテの『魔王』。

    「大丈夫だ。パパが絶対に守る」

    「……魔王がいる」

    ハルトの声が引きつる。

    「僕を連れていくって……」

    「そんなものはどこにもいない!」

    「いるよ。……ほら、パパの後ろ」

    タカシは絶対にミラーを見なかった。

    振り向くことすら、恐怖が拒んでいた。ただ前方の雨の路面を睨みつける。

    「坊や」

    不意に、ハルトの口から低く異質な声が漏れ出た。

    「私の娘たちがお前を待っている」

    タカシの背筋を、氷のような悪寒が駆け抜ける。

    「夜の舞踏会だ。朝まで、一緒に踊り明かそう――」

    「ハルト!!」

    タカシの怒号に、ハルトは小さく身を竦めた。

    「パパ……手、手が痛いよ……」

    「え?」

    「魔王が……僕の手を掴んで――」

    そこで、言葉がぷつりと途切れた。

    車内に、不気味なほどの静寂が満ちる。

    叩きつける雨音だけが、やけに遠く響いていた。

    「……ハルト?」

    返答はない。

    タカシは初めて視線を助手席へと落とした。

    息子はだらりと首を傾げ、力なくシートに沈んでいた。

    「おい、返事をしろ……!」

    片手で肩を揺さぶっても、指先ひとつ動かない。

    胸が、動いていない。

    その瞬間、あの詩の、最悪の結末が脳裏をかすめた。

    目的地に辿り着いた父親を待っていた、あの冷たい絶望。

    ハンドルを握る指先から、急速に血の気が引いていく。

    「頼む……頼むから……!」

    タカシはアクセルを踏み抜いた。

    夜の闇を裂いて走る車の前に、やがて総合病院の赤いエントランスサインが見えた。

    救急入口へ車を滑り込ませる。

    ドアが開くなり、タカシはハルトを抱き上げて車を飛び出した。

    「先生! 息子を……誰か助けてくれ!」

    駆け寄ってきた医師と看護師が、すぐにストレッチャーを用意する。

    ハルトの体が処置室へと運ばれていく。

    タカシはその場にへたり込み、両手で顔を覆った。

    「……間に合わなかった。あいつに奪われたんだ……」

    絞り出すような嗚咽が漏れた。

    そのときだった。

    「お父さん」

    処置室から戻ってきた当直医が、肩に手を置いた。

    「大丈夫です。呼吸もあります。心拍も正常ですよ」

    タカシは弾かれたように顔を上げた。

    奥のベッド脇から、規則正しい電子音が小さく響いている。

    「で、でも……車の中で急に痛がって、息が止まったみたいに動かなくなって……!」

    「高熱と痛みで、かなり消耗していたんでしょう。熱が少し下がって、緊張が切れたんだと思います。眠っているだけですよ」

    ストレッチャーへ駆け寄ると、ハルトは穏やかな表情で眠っていた。

    おずおずとその手を握る。

    心地よい、確かな温もりがあった。

    「……生きてる」

    タカシの目から、溢れるように涙がこぼれ落ちた。

    そのとき、エントランスの自動ドアが開き、ひやりとした風が吹き込んできた。

    いつの間にか雨は止み、雲の切れ間から夜空が覗いている。

    「……夜風か」

    タカシは濡れた頬を拭った。

    もう怖くはなかった。冷えた体を心地よく鎮めてくれる、ただの穏やかな風だった。

    不意に。

    ハルトの唇が、微かに動いた。

    「……パパ」

    「ハルト? 気がついたのか?」

    「……おじさん、帰っていったよ」

    タカシの手がピタリと止まった。

    「……え?」

    ハルトは目を閉じたまま、小さく微笑んだ。

    「うん……夜風に乗って、遠くへ……」

    そう呟くと、ハルトは再び静かな寝息を立て始めた。

    タカシは息を呑んだまま、開け放たれた夜の闇を見つめた。

    自動ドアの向こうから、また一陣の風が吹き抜けていく。

    ――Nachtwind。

    夜風。

    ただの風だ。

    タカシはそう思うことにした。

    眠る息子の手を、もう一度だけ強く握り締めながら。



    お題:「夜風」
    下記の企画に参加させていただきました


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    #風まかせ文芸部 #夜風 #短編小説 #ショートショート #怪談 #ホラー小説 #ゲーテ #魔王 #サスペンス #眠れない夜に

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