
つまづいて知る地面の温かさ
これまた謙遜していると話が進まないので、謙遜抜きで始めるが。
かつての私は、人一倍ストイックな面とか、努力家な面があったと思う。
(はい、ちゃんと言っておきますが、今はもう、その頃とは「別人」ですけど!!!笑)
で、その当時の自分は、どこか「人に対する目」が、厳しかった気がする。
――とはいえ、表面的にわかりやすくその厳しい目線を他人様に投げることはなかったと思うが。
しかし、内心では、「そんなことは努力でなんとかするしかないじゃない」とか「準備していないのが悪いんだ」とか「我慢、頑張りが足りないんだよ」とか、そんなようなことを、よく「頭の中だけで」思っていた気がする。
――うんうん、そうなのである、かつての自分は、そういう「実は内面的には至極やさしくない奴」なのだった。(笑)
「自分にも、そして実は他人にも、厳しければ厳しいほど良い」という価値観を、どこかで持ち続けていた。
――それを踏まえた、「弱肉強食」の原理を、人間社会にも適用するべきと考えているところもまた、その当時の自分には、あったと思う。
例えば、誰もが「弱者」で生まれて、概ねほとんどの人が「弱者」で人生の最期を迎えることになるはず、というようなことは、すっかり、頭の中にはなかった。
言うなれば、「人に面倒を見てもらわねば大人になれなかった子供時代」と、「この先どうしたって人に面倒をかける可能性のある老後」のことを、正直、忘れていた、あるいは、とりあえずこっちに置いておいていた、というところだと思う。
(変な話、「この先」については、「ありとあらゆる問題は、お金さえあれば、全て解決できるはず」みたいな発想もあったと思う。)
つまり。
表面的にはまるで「人にやさしい」「人当たり良い」かのような「善人面」を下げながら。
どこか、どこまでも、人というものに対して「冷たい」人間だったように思う。
確かに、人一倍苦労して得たものがあったとして、「私は人一倍苦労したから当然なのだ」と感じるのは、致し方ないというところもある。
しかし、それもまた、実は「幸運のうち」だったりもするのだ。
つまり、生きていると、「苦労や努力だけでは、どうにもしようがない、どうしても報われないこと」にも、そのうちぶつかることもあるものなのである。
で、ぶつかっているのに――実はそれ自体「越えられる対象」ではないのに――それに気づかず、「がんばり」という力で突き進もうとして。
その結果「つまづく」、挙句の果てに「派手に転倒する」、なんてことが、起こったりもする。
(そういうことに一度でも遭遇してみないと、「考えが足りない、浅はかだったお前が悪い」という発想に、これまたなるものであったりもするのだが。)
(でも「考えても考えても、考えたところでどうにもできないこと」もまた、あるものなのである。)

――そんなふうに。
つまづいて、すっ転んでみて、地面に跪いて。
それで初めて獲得できた、そんな「目線」があった気がする。
――私は今、「この目線のこの位置から見ている景色」が、案外、嫌いではないのかもしれない。
私から「持って生まれた幸運」というものの、そのたった一部分を取り除いただけでも、ここでこうして、今までにない、地面に座り込むような「景色」に、出会ったりもしているわけである。
(当然になり過ぎていて、失くしてみないとわからない類の「幸運」って、結構あるものである。)
――しかし。
まだ体力的にも、力が残っているうちに、この景色を知れたことも、もしかすると私個人にとっては、ある種の「幸運」だったようにもまた、今なら思える。
「目線」は、この先、いくらでも変わっていくと思う。
それに伴い、私が見て感じる「世界そのもの」も、また変わっていくのであろう。
こちらから冷たい目線を送っていると、その世界は、どこかが、どこまでも、冷え切っている世界だったような気もする。
――私はこれから、この世界を、どこまで「温かく」見ることができるだろう?
――自分自身の目線で、どこまで「温める」ことができるだろう?
と、今、自分に問い直している。
