読むことは、考えることの代わりにはならない――ショーペンハウエル『知性について』を読む
はじめに
本を読むことは、良いことだと思っていた。
たくさん読む人は、たくさん考えている人だと思っていた。
難しい本を読める人は、知性のある人だと思っていた。
引用できる言葉が多い人は、世界を深く見ている人だと思っていた。
もちろん、それは完全に間違いではない。
本を読むことで、自分の知らなかった世界に触れられる。
自分だけでは到達できなかった言葉に出会える。
今まで曖昧だった感情に、輪郭を与えてもらえることもある。
本は、自分の外側にある言葉を、自分の内側に入れてくれる。
本を読む前の自分には存在しなかった視点が、読んだあとには、なぜか自分の中に住み始めていることがある。
だから、読書は大切だと思う。
でも、ショーペンハウエルを読むと、少し嫌なことを言われる。
お前は本当に考えているのか。
ただ読んでいるだけではないのか。
他人の言葉を、自分の考えだと思い込んでいないか。
知識を増やすことで、自分の頭を使った気になっていないか。
『知性について 他四篇』は、そういう本だった。
ショーペンハウエルは、やさしい思想家ではない。
読んでいると、励まされるというより、刺される。
世界はそんなに美しくない。
人間はそんなに立派ではない。
知性はそんなに高貴なものではない。
読書はいつでも善いものとは限らない。
世間の評価は信用できない。
自分の頭で考えているつもりでも、実は欲望や虚栄に使われているだけかもしれない。
そういうことを、かなり冷たく言ってくる。
でも、その冷たさが効く。
なぜなら、僕たちはあまりにも簡単に「考えた気」になれる時代に生きているからだ。
本を読む。
動画を見る。
誰かの意見を読む。
ニュースを追う。
SNSで言葉を浴びる。
要約を読む。
誰かの鋭い言い回しを保存する。
それだけで、自分も何かを考えたような気持ちになる。
でも、本当にそうなのか。
ショーペンハウエルは、そこを疑う。
読むことは、考えることの代わりにはならない。
この一言が、この本を読む僕にずっと残った。
ショーペンハウエルは、なぜこんなに冷たいのか
ショーペンハウエルの文章には、独特の冷たさがある。
人間への期待が低い。
世間への信頼がない。
知性への見方も甘くない。
読書家や学者に対しても、かなり辛辣である。
でも、この冷たさは、ただの性格の悪さではないと思う。
彼の思想の根底には、「世界の根本は理性ではなく意志である」という考えがある。
かなりざっくり言えば、人間は自分を理性的な存在だと思いたがる。
けれど実際には、欲望、衝動、生存への執着、名誉欲、退屈からの逃避、他人との競争心に大きく動かされている。
人間は、考えてから欲しがるのではない。
欲しがってから、それらしい理由をつける。
ここがショーペンハウエルの鋭さだと思う。
人間は、自分の行動に理由があると思いたがる。
自分の判断は正しいと思いたがる。
自分の好き嫌いには、ちゃんとした根拠があると思いたがる。
自分の怒りは正義で、自分の欲望は必要なもので、自分の失敗には事情があると思いたがる。
でも、ショーペンハウエルはそこをかなり疑う。
本当にそうか。
その理屈は、あとから作ったものではないのか。
お前は考えているのではなく、欲望に言葉を与えているだけではないのか。
そう言ってくる。
つまり、ショーペンハウエルにとって、人間はまず理性でできているわけではない。
欲望がある。
衝動がある。
生きようとする力がある。
認められたい気持ちがある。
勝ちたい気持ちがある。
所有したい気持ちがある。
そのあとに、知性がやってくる。
そして知性は、しばしば真理のためではなく、欲望の弁護士として働く。
欲しいものがある。
すると、人はそれを買うべき理由を探し始める。
嫌いな人がいる。
すると、その人がいかに間違っているかを論理的に説明し始める。
自分が失敗した。
すると、なぜ自分だけが悪いわけではないのかを考え始める。
自分が褒められたい。
すると、それがいかに正当な欲求であるかを語り始める。
こう考えると、かなり嫌な気持ちになる。
でも、たしかに思い当たる。
僕たちは、自分が冷静に考えていると思いたい。
でも実際には、すでに欲しい結論があって、その結論に向かって言葉を組み立てていることがある。
だから、ショーペンハウエルにとって知性は、単純に人間を高める光ではない。
知性は、意志に仕える道具にもなる。
ここを認めるところから、ようやく本当に考えることが始まるのだと思う。
知性は、欲望の道具にもなる
「知性」という言葉には、きれいな響きがある。
知的である。
賢い。
考えが深い。
判断力がある。
本を読んでいる。
論理的である。
そういうものは、だいたい良いこととして扱われる。
でも、ショーペンハウエルは知性をそんなにきれいなものとして見ていない。
知性は、真理に向かう力でもある。
しかし同時に、欲望に使われる道具でもある。
これはかなり大事だと思う。
たとえば、頭のいい人が、必ずしも誠実なわけではない。
むしろ頭がいいからこそ、自分の嘘を上手に正当化できる。
自分の利己心を、もっともらしい言葉で飾ることができる。
自分の弱さを、思想のように見せることができる。
自分の逃げを、合理的判断のように説明できる。
知性があるからといって、すぐに人間が良くなるわけではない。
ここが怖い。
僕たちは、知性を持てば、自分が少し良い人間になれるような気がしている。
本を読めば、視野が広がる。
哲学を知れば、深く考えられる。
歴史を知れば、愚かさから離れられる。
文学を読めば、人間への理解が深まる。
もちろん、そういうことはある。
でも、それは自動的に起こるわけではない。
本を読んだ人間が、他人を見下すこともある。
哲学を知った人間が、自分の面倒くささを正当化することもある。
歴史を知った人間が、ただの皮肉屋になることもある。
文学を読んだ人間が、自分の感受性に酔うこともある。
知性は、危ない。
それは人間を自由にする可能性を持っている。
でも同時に、人間の欲望や虚栄を、より巧妙にする可能性も持っている。
ショーペンハウエル的に言えば、知性はまず意志に仕える。
つまり、自分が何を欲しているのかを見抜かない限り、知性はその欲望に使われる。
だから、知性を持つとは、ただ知識を増やすことではない。
自分の知性が、何に使われているのかを疑うことでもある。
僕は今、本当に考えているのか。
それとも、欲しい結論に向かって理由を集めているだけなのか。
僕は今、真理を探しているのか。
それとも、自分を正当化しているだけなのか。
僕は今、言葉を使っているのか。
それとも、言葉に自分の虚栄を隠しているのか。
ショーペンハウエルの知性論は、ここまで自分に刃を向けてくる。
知性とは、他人より賢く見えるためのものではない。
自分の欲望が、自分の思考をどれだけ歪めているかを見抜くためのものでもある。
そう考えると、「知性について」という題は、かなり厳しい。
それは、賢くなるための話ではない。
賢くなった気になっている自分を疑うための話でもある。
読書は、考えることの代わりにはならない
ショーペンハウエルを読むうえで、どうしても避けて通れないのが読書論である。
ショーペンハウエルは、読書を否定しているわけではない。
むしろ、優れた本や古典を読むことの価値は認めている。
ただし、彼は読書の危険もよく見ている。
それは、読書が「自分で考えること」の代わりになってしまう危険である。
本を読んでいる時、僕たちは他人の頭の動きをなぞっている。
それ自体は悪いことではない。
むしろ、他人の優れた思考に触れることは、本の大きな価値である。
でも、他人の思考をなぞることに慣れすぎると、自分の頭で考えなくなる。
誰かの言葉を覚える。
誰かの概念を使う。
誰かの結論を引用する。
誰かの鋭い文章を借りる。
誰かの思想で自分を飾る。
すると、自分が賢くなったような気がする。
でも、それは本当に自分の考えなのか。
ここでショーペンハウエルは、かなり意地悪なことを言ってくる。
読書中、僕たちは他人に自分の思考を導かせている。
だから、読書ばかりして自分で考えない人は、他人の頭を借りているだけになってしまう。
これは、現代の僕たちにはさらに刺さる。
本だけではない。
SNS。
動画。
ニュース。
レビュー。
まとめ記事。
解説。
インフルエンサーの意見。
AIの文章。
僕たちは、毎日大量の他人の思考に触れている。
それ自体は悪くない。
でも、他人の言葉を浴び続けていると、自分で考えた気になる。
すでに誰かがうまく言っている。
すでに誰かが怒っている。
すでに誰かがまとめている。
すでに誰かが正解らしいものを提示している。
すると、自分の内側から言葉が立ち上がる前に、他人の言葉が入ってくる。
そして、その言葉を自分の考えだと思ってしまう。
これは怖い。
読むことは、考えることの材料にはなる。
でも、読むことは、考えることの代わりにはならない。
この線引きを忘れると、知識は増えても、自分の頭は空っぽになる。
僕は、ここが一番耳に痛かった。
本を読むことは好きだ。
言葉に触れることも好きだ。
誰かが考えたことを、自分の中に入れていく感覚も好きだ。
でも、そのあとに、自分は本当に考えているのか。
読んで満足していないか。
引用して満足していないか。
理解した気になって終わっていないか。
他人の言葉を借りて、自分の文章を強く見せようとしていないか。
ショーペンハウエルは、読書好きにとって、かなり嫌なことを言う。
でも、だからこそ必要だと思う。
読書を否定するためではない。
読書を、本当に自分の思考にするためである。
知識が増えても、知性があるとは限らない
ショーペンハウエルを読むと、「知識」と「知性」は違うのだと思わされる。
知識は、情報である。
知性は、その情報をどう扱うかである。
知識が多い人はいる。
本をたくさん読んでいる。
哲学者の名前をたくさん知っている。
引用ができる。
専門用語を使える。
歴史的背景を説明できる。
体系的に整理できる。
それは確かにすごい。
でも、それだけでは知性ではない。
知性とは、自分の頭で関係を見抜くこと。
物事の本質をつかむこと。
他人の言葉を鵜呑みにしないこと。
欲望や世間の空気に流されないこと。
自分の経験と結びつけて考えること。
そして、必要なら孤独に耐えること。
これがなければ、知識はただの荷物になる。
どれだけ本を読んでも、自分の生活と結びついていなければ、言葉は浮く。
どれだけ情報を持っていても、自分の判断が育っていなければ、他人の言葉に流される。
どれだけ賢そうに話せても、自分の欲望に気づけなければ、知性はただの装飾になる。
現代は、知識が手に入りやすい。
検索すれば出てくる。
要約もある。
解説動画もある。
すぐに答えらしきものが見つかる。
でも、だからこそ知性が問われる。
情報を持っているかどうかではない。
それをどう受け取るか。
どう疑うか。
どう自分の経験に引き寄せるか。
どう自分の言葉に変えるか。
そこに知性がある。
だから、読書家であることと、考える人であることは同じではない。
本を読む人が、そのまま知的な人になるわけではない。
本を読んだあと、自分で考える人。
読んだ言葉を、自分の生活に戻せる人。
他人の思想を、自分の違和感とぶつけられる人。
そういう人が、たぶん知性的なのだと思う。
知識は、外から入ってくる。
でも、知性は、自分の中で働かなければならない。
この違いを忘れると、どれだけ学んでも、自分の頭は他人の言葉の倉庫になってしまう。
倉庫が大きいことは、悪いことではない。
でも、そこから何を取り出し、どう組み替え、自分の生活にどう結びつけるか。
そこまでいって、ようやく知性になる。
自分の頭の中に、他人に奪われない部屋を持つこと
僕は、この本を読みながら、知性とは「自分の頭の中に、他人に奪われない部屋を持つこと」なのではないかと思った。
頭の中には、いろいろなものが入ってくる。
世間の常識。
親の言葉。
学校の評価。
会社の空気。
SNSの反応。
読んだ本。
見た動画。
誰かの成功。
誰かの怒り。
誰かの正義。
誰かの悲しみ。
それらは、知らないうちに自分の中に入ってくる。
そして、いつの間にか、自分の考えのような顔をし始める。
でも、その中に本当に自分の言葉はあるのか。
自分が何を感じたのか。
自分が何に違和感を持ったのか。
自分が何を大切にしたいのか。
自分は何を信じたいのか。
自分は何に怒っているのか。
自分は何を恐れているのか。
そういう声は、静かな場所でなければ聞こえないことがある。
だから、知性には孤独が必要なのだと思う。
孤独というと、寂しいものに聞こえる。
人から離れている状態に見える。
つながれないこと、選ばれないこと、取り残されることのようにも見える。
でも、ショーペンハウエル的に言えば、孤独には別の意味がある。
孤独とは、自分の頭を世間から取り戻す時間である。
人といることは大事だ。
関係の中でしか育たないものもある。
他人の言葉に救われることもある。
でも、ずっと他人の言葉の中にいると、自分の言葉が聞こえなくなる。
だから、一人になる。
誰かを見下すためではない。
世間を馬鹿にするためでもない。
自分だけが特別だと思うためでもない。
自分の頭の中に、誰にも占領されていない部屋を残すためである。
この部屋がないと、人は簡単に流される。
流行に流される。
怒りに流される。
評価に流される。
他人の言葉に流される。
本に流される。
思想に流される。
知性とは、その流れの中で、少しだけ立ち止まれる場所なのだと思う。
僕は、この「部屋」という感覚がすごく大事だと思った。
誰にも見せない場所。
すぐに投稿しない場所。
すぐに評価されない場所。
すぐに結論を出さない場所。
そこで、考える。
自分は何を感じたのか。
なぜこの言葉に引っかかったのか。
なぜこの本を読んで苦しくなったのか。
なぜこの意見に反発したのか。
なぜこの文章を書きたいのか。
そういう問いを置いておける場所。
その部屋がある人は、たぶん豊かだと思う。
孤独は、人間嫌いの言い訳ではない
ただし、ショーペンハウエルを読む時に気をつけたいことがある。
それは、彼の孤独論や世間批判に酔いすぎることだ。
ショーペンハウエルは、人間への見方がかなり厳しい。
世間に対しても、かなり冷たい。
凡庸な人々や流行や学問制度に対して、容赦ない言葉を投げる。
そこが魅力でもある。
でも、危うさもある。
読んでいるうちに、自分が賢い側にいるような気がしてくる。
世間は浅い。
人間は愚かだ。
他人は自分で考えていない。
自分だけはわかっている。
そういう気分になる。
これは、かなり危ない。
なぜなら、それ自体がもう虚栄だからだ。
ショーペンハウエルを読むなら、その毒は他人に向けるだけでは足りない。
自分にも向けなければならない。
自分は本当に考えているのか。
自分も世間の言葉をそのまま使っていないか。
自分の読書も、ただの自己装飾になっていないか。
自分の孤独も、ただ人を避けるための言い訳になっていないか。
自分の知性も、人を見下すための道具になっていないか。
ここまで自分に返して、ようやくショーペンハウエルの毒は効く。
孤独は、人間嫌いの言い訳ではない。
自分の思考を取り戻すための時間である。
だから、孤独の先には、むしろ他人とちゃんと関わる力があるはずだと思う。
他人の言葉に飲まれずに聞く。
世間の空気に流されずに判断する。
自分の考えを持ったうえで、人と関わる。
他人を見下すのではなく、自分の弱さも含めて見る。
そういう孤独なら、必要だと思う。
人と離れるための孤独ではなく、自分を取り戻すための孤独。
そして、自分を取り戻したうえで、もう一度人と関わるための孤独。
そのくらいの距離感で読むと、ショーペンハウエルの孤独論は、ただの人間嫌いではなくなる。
悲観主義は、暗いだけなのか
ショーペンハウエルは「悲観主義の哲学者」と呼ばれる。
人生は苦しみを含んでいる。
欲望は尽きない。
満たされなければ苦しい。
満たされても退屈する。
世界は理性的に整った楽園ではない。
人間は高貴な理性だけで動く存在ではない。
たしかに、暗い。
明るい人生論ではない。
前向きな成功哲学でもない。
読めば元気になる、というタイプの本ではない。
でも、僕はショーペンハウエルの悲観主義を、ただ暗いだけの思想だとは思わなかった。
むしろ、過剰な期待を削るための思想だと思った。
人間はそんなに立派ではない。
人生はそんなに簡単に満たされない。
世間はそんなに賢くない。
読書をしても、自分で考えなければ意味がない。
知性も、欲望に使われることがある。
こういう冷たい前提に立つと、むしろ少し楽になることがある。
なぜなら、最初から世界に期待しすぎなくなるからだ。
期待しすぎるから、幻滅する。
人間を高く見積もりすぎるから、怒る。
自分を理性的だと思いすぎるから、自分の欲望に気づけない。
読書を神聖視しすぎるから、読んでいるだけの自分に酔ってしまう。
ショーペンハウエルは、その期待を削る。
それは暗さでもある。
でも、ある種の解放でもある。
世界に期待しすぎなくなると、世界を少し冷静に見られる。
人間に期待しすぎなくなると、人間の弱さにいちいち驚かなくなる。
自分に期待しすぎなくなると、自分の欲望や虚栄に気づけるようになる。
悲観主義は、すべてを諦めるための思想ではない。
見誤らないための思想でもある。
これは、かなり大事だと思う。
「人生は素晴らしい」と無理に言わなくてもいい。
「人間はみんな立派だ」と無理に信じなくてもいい。
「努力すれば必ず報われる」と思わなくてもいい。
その代わりに、冷静に見る。
人間は欲望に動かされる。
自分も例外ではない。
読書も知性も、虚栄に利用されることがある。
だからこそ、自分の頭を守る必要がある。
ショーペンハウエルの悲観主義には、そういう目を覚ます力がある。
ショーペンハウエルの文体は、なぜ刺さるのか
ショーペンハウエルの文章は、哲学者にしてはかなり読みやすい。
もちろん、内容は難しい。
前提としてカントやドイツ観念論との関係もある。
「意志」や「表象」や「物自体」といった言葉も出てくる。
でも、文章の切れ味はかなり鋭い。
ショーペンハウエルの文章には、ぼんやりしたところが少ない。
断言する。
皮肉る。
切り込む。
人間の弱さを見逃さない。
慰めよりも、醒めた観察を優先する。
この文体が、彼の思想に合っている。
もしショーペンハウエルがやさしい文体だったら、ここまで刺さらなかったかもしれない。
彼の文章は、やさしく手を引くというより、こちらの頭をつかんで現実の方へ向けさせる感じがある。
見ろ。
人間はこうだ。
お前も例外ではない。
読書をしても、自分で考えなければ意味がない。
知性も欲望に使われる。
世間に期待するな。
自分の頭を守れ。
かなりきつい。
でも、必要な時がある。
人は、やさしい言葉だけでは目を覚まさないことがある。
ショーペンハウエルの文章は、苦い薬のようなものだと思う。
飲みやすくはない。
でも、効く。
ただし、薬は使い方を間違えると毒にもなる。
だから、ショーペンハウエルの言葉は、自分を高く見せるために使わない方がいい。
「人間は愚かだ」と他人に向けるだけなら、それはただの皮肉になる。
「読書だけでは意味がない」と他人を裁くだけなら、それもまた虚栄になる。
「自分で考えろ」と言いながら、自分が考えていなければ意味がない。
彼の文章の毒は、まず自分に向けるべきだと思う。
その時だけ、毒は薬になる。
現代では受け入れがたい部分もある
ただし、ショーペンハウエルを読む時には、きちんと距離を取る必要もある。
彼の文章には、現代では明らかに受け入れがたい偏見が含まれている。
特に女性に関する言説には、強い女性蔑視がある。
これは無視してはいけない。
思想家の鋭さと、思想家の偏見は両方見る必要がある。
ショーペンハウエルは、人間の欲望や虚栄を鋭く見抜いた。
しかし、彼自身もまた、時代的偏見や個人的偏見から自由ではなかった。
偉大な思想家だからといって、全部正しいわけではない。
むしろ、偉大な思想家ほど、強い偏見も強い言葉で残してしまうことがある。
だから、読む側には距離が必要である。
受け取るべき鋭さは受け取る。
しかし、受け入れがたい偏見ははっきり退ける。
これは、現代で古典を読む時に必要な姿勢だと思う。
古典は、全部を信じるために読むものではない。
今の自分の頭で、受け取るものと退けるものを分けるためにも読む。
そう考えると、ショーペンハウエル自身が言う「自分で考えること」は、ショーペンハウエルを読む時にも必要になる。
彼の言葉をそのまま信仰してはいけない。
ショーペンハウエルを読む時こそ、自分の頭を明け渡してはいけない。
これは少し皮肉だが、かなり重要だと思う。
どんなに鋭い思想家でも、すべてを預けてはいけない。
本を読むとは、服従することではない。
対話することだ。
受け取る。
疑う。
反発する。
自分の生活に戻す。
今の自分の倫理で判断する。
そこまで含めて、読むことなのだと思う。
ショーペンハウエルの毒に酔わない
ショーペンハウエルには、中毒性がある。
人間は愚かだ。
世間は浅い。
読書だけでは考えたことにならない。
知性も欲望の道具になる。
孤独こそ精神を守る。
こういう言葉は、刺さる。
特に、自分がどこかで世間になじめなかったり、周りの空気に違和感を持っていたり、情報の多さに疲れていたりすると、かなり気持ちよく読めてしまう。
でも、そこが危ない。
ショーペンハウエルの毒は、他人に向けると快感になる。
自分に向けると薬になる。
この違いを忘れない方がいい。
「世間は浅い」と思うのは簡単だ。
でも、自分もその世間の一部ではないのか。
「人は自分で考えていない」と言うのは簡単だ。
でも、自分は本当に考えているのか。
「読書だけでは意味がない」と言うのは簡単だ。
でも、自分の読書はどうなのか。
「知性は欲望に仕える」と言うのは簡単だ。
でも、自分の知性も、自分の欲望に使われていないか。
そこまで戻ってこないと、ショーペンハウエルを読む意味は薄くなる。
彼の毒は、優越感のために使うと危険である。
でも、自分を疑うために使うなら、かなり効く。
僕は、ショーペンハウエルを読む時、いつも少し自分が嫌になる。
自分も読んでいるだけではないか。
自分も知っている言葉で文章を書いているだけではないか。
自分も評価されたいから考えているふりをしているのではないか。
自分の知性も、結局は自分をよく見せるための道具になっていないか。
そういう嫌な問いが出てくる。
でも、その問いが必要なのだと思う。
気持ちよく読むだけなら、ショーペンハウエルではなくてもいい。
読んで少し痛い。
自分の甘さに気づく。
でも、その痛みによって、自分の頭を取り戻す。
それが、この人を読む意味だと思う。
芸術は、欲望から少しだけ離れる時間である
ショーペンハウエルの思想で重要なのは、知性が意志に仕えるだけではないということだ。
知性には、意志から一時的に自由になる可能性もある。
ここはかなり面白い。
普通の知性は、欲望のために働く。
でも、芸術に触れる時、人は欲望から少し離れることがある。
音楽を聴く。
絵を見る。
美しい風景を見る。
小説を読む。
演劇を見る。
建築空間に立つ。
その時、僕たちは一瞬だけ、自分の損得や欲望から離れることがある。
欲しい。
勝ちたい。
認められたい。
所有したい。
優位に立ちたい。
そういうものから少しだけ離れて、ただ見る。
ただ聴く。
ただ感じる。
この時間は、ショーペンハウエルにとって、意志の苦しみから一時的に解放される時間である。
だから、彼の哲学はただ暗いだけではない。
苦しみから離れる道も考えている。
それは、消費の快楽ではない。
欲望を満たすことでもない。
むしろ、欲望から少し離れることによって得られる静かな救いである。
僕にとって、これはかなり重要だった。
喜びとは、欲しいものを手に入れることだけではない。
欲しがり続ける自分から、少し離れることも喜びなのだ。
これは、かなり静かな喜びだと思う。
誰かに見せるための喜びではない。
何かを所有する喜びでもない。
勝つ喜びでもない。
ただ、目の前のものを見る。
ただ、言葉に触れる。
ただ、音に包まれる。
ただ、空間に身を置く。
その一瞬、自分の欲望が少し静かになる。
ショーペンハウエルの芸術論には、そういう救いがある。
だから、彼の悲観主義は、ただ世界を暗く見るだけではない。
欲望に振り回される人間が、ほんの少しそこから離れるための道も示している。
「豊かさ」とは、自分の頭の中に静かな部屋を持つこと
この本を、僕自身のテーマとして「喜び」や「豊かさ」の本として読むなら、ショーペンハウエルの豊かさはかなり静かである。
明るい幸福ではない。
大きな成功でもない。
人からの評価でもない。
消費でもない。
流行への参加でもない。
知識量でもない。
豊かさとは、自分の頭で考えられること。
自分の内側に、他人の言葉で埋め尽くされていない場所があること。
読んだ本を、自分の実感に引き寄せられること。
世間の評価から少し離れられること。
孤独をただの寂しさではなく、精神の自由として使えること。
欲望に動かされている自分を見抜けること。
これは、かなり深い豊かさだと思う。
今の社会では、豊かさは外側に向かいやすい。
何を持っているか。
どこへ行ったか。
誰に見られたか。
どれくらい評価されたか。
どれだけ知っているか。
どれだけ発信できるか。
でも、ショーペンハウエルはそこから少し離れる。
外側に何を足すかではない。
自分の内側に、誰にも占領されない部屋があるか。
この部屋がある人は、たぶん簡単には流されない。
世間が騒いでも、少し距離を取れる。
他人の評価に揺れても、完全には奪われない。
本を読んでも、その本に自分の頭を丸ごと預けない。
孤独になっても、ただ寂しさとして終わらせない。
自分の頭の中に、静かな部屋がある。
僕は、それを豊かさと呼びたい。
その部屋は、誰かに見せるものではない。
そこに賞状を飾る必要もない。
フォロワー数を貼る必要もない。
読んだ本の冊数を並べる必要もない。
自分を賢く見せる必要もない。
ただ、自分が考える場所である。
自分の言葉が、少しずつ生まれる場所である。
それを持てることは、かなり豊かなことだと思う。
noteを書く僕にとってのショーペンハウエル
僕がnoteを書く人間としてショーペンハウエルを読むと、かなり耳が痛い。
noteを書くために、本を読む。
考えをまとめる。
タイトルを考える。
他人の反応を見る。
どうすれば読まれるかを考える。
どうすれば刺さるかを考える。
それは大事だ。
でも、同時に危ない。
読まれるための言葉ばかり探していると、自分の考えが薄くなる。
人の反応ばかり見ていると、自分の違和感が見えなくなる。
本をたくさん読んでいると、それだけで深い文章を書いている気になる。
誰かの思想を借りていると、それだけで自分の文章が強くなった気になる。
でも、本当に大事なのは、その本を読んだあと、自分が何を考えたのかだ。
自分の生活のどこに刺さったのか。
自分の言葉がどう変わったのか。
自分の見方がどう揺れたのか。
自分の欲望や虚栄をどう見抜いたのか。
そこがなければ、文章はただの紹介になる。
ショーペンハウエルを読むと、文章を書くこともまた、自分の頭を守る行為なのだと思う。
他人の言葉をただ並べるのではなく、自分の中で一度沈める。
引用を装飾にしない。
知識を見せびらかさない。
読書を、考えることから逃げるために使わない。
これは、かなり厳しい。
でも、noteを書くなら必要なことだと思う。
読まれる文章を書くことも大事だ。
でも、それ以前に、自分で考えた文章を書くこと。
ショーペンハウエルは、そのことをかなり苦く教えてくれる。
僕は、記事を書く時に、つい「うまく言いたい」と思ってしまう。
かっこよく言いたい。
深く見せたい。
読まれたい。
刺さってほしい。
自分の考えを、少しでも価値のあるものに見せたい。
その気持ちは、完全には消えない。
でも、そこに飲まれると、文章はすぐに嘘になる。
だから、戻る必要がある。
僕は本当に何を考えたのか。
どこで傷ついたのか。
どこで違和感を持ったのか。
この本を読んで、自分の何が揺れたのか。
自分の言葉で言えることは何なのか。
そこに戻る。
読むことは、考えることの代わりにはならない。
書くこともまた、考えることの代わりにはならない。
本当に考えなければ、どれだけ言葉を並べても、自分の文章にはならない。
僕にとっての『知性について』
僕にとって『知性について 他四篇』は、賢くなるための本ではなかった。
むしろ、賢くなった気になっている自分を疑うための本だった。
本を読んでいる。
考えている。
言葉にしている。
文章を書いている。
人より少し深く見ている。
そういう自意識は、すぐに生まれる。
でも、ショーペンハウエルはそこに言う。
本当にそうか。
それは自分の考えか。
他人の言葉をなぞっているだけではないか。
お前の知性は、欲望の言い訳になっていないか。
その読書は、自分の頭を鍛えているのか。
それとも、自分の頭を他人に預けているだけなのか。
厳しい。
でも、その厳しさが必要な時がある。
知性とは、きれいなものではない。
知性とは、自分を飾るものでもない。
知性とは、他人より上に立つためのものでもない。
知性とは、自分の頭を他人に明け渡さないこと。
そして、自分の欲望にも明け渡さないこと。
この本を読んで、僕はそう思った。
たくさん知っていることよりも、自分の頭で考えること。
賢く見えることよりも、自分の虚栄に気づくこと。
他人の言葉を使うことよりも、自分の言葉に変えること。
孤独を恐れないことよりも、孤独の中で自分を取り戻すこと。
それが、僕にとっての知性に近い。
そして、それはそのまま、僕にとっての豊かさにもつながっている。
豊かさとは、たくさんの情報を持っていることではない。
たくさんの本を読んでいることでもない。
深そうなことを言えることでもない。
自分の頭の中に、誰にも占領されない静かな部屋があること。
そこに戻れること。
そこで、自分の言葉を少しずつ育てられること。
それが、この本から受け取った豊かさだった。
おわりに
ショーペンハウエルは、やさしい思想家ではない。
読むと、励まされるというより、少し刺される。
お前は本当に考えているのか。
読んでいるだけではないのか。
世間の言葉を、自分の考えだと思っていないか。
自分の知性も、欲望の言い訳になっていないか。
他人の評価に、自分の頭を明け渡していないか。
そう言われている気がする。
でも、その厳しさは、今の時代にはかなり必要だと思う。
情報は多い。
言葉も多い。
誰かの意見も多い。
わかりやすい答えも多い。
だからこそ、自分の頭で考えることが難しくなっている。
『知性について 他四篇』は、そんな時代にかなり効く本だと思う。
知性とは、たくさん知っていることではない。
知性とは、自分の頭を他人に明け渡さないことだ。
そして、豊かさとは、外側に何かを増やすことだけではない。
自分の内側に、誰にも占領されない静かな部屋を持つこと。
ショーペンハウエルのこの本は、その部屋の守り方を、かなり苦い言葉で教えてくれる。

