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僕の好み売ります

    ◆ 序章 人格的IP市場の夜明け


     人格的IP――Personality Intellectual Property。それは、かつて“人間の内側”にしか存在しなかったものだ。十数年前、脳内活動を解析する技術が飛躍的に進歩した。人間の嗜好、価値観、政治的思想、感情反応、行動スタイル――これらがすべて、データとして抽出可能になった。当初は医療や教育の分野で慎重に使われていたが、ある巨大テック企業が宣言した。「人格的嗜好・傾向は、知的財産である」その一言が、世界を変えた。人格的IPは、著作権や特許と同じ“取引可能な財産権”として法制化され、人々は自分の“未来の嗜好”や“価値観の傾向”を、株式のように売り買いするようになった。企業は市場調査をする代わりに、「未来の購買傾向IP」をまとめて買い、商品開発前から“最低限のヒット”を確保する。政治団体は選挙運動ではなく、「政策同意IP」を合法的に買い集め、法案成立の確度を事前に高める。市民は生活費のために、自分の嗜好や価値観を切り売りする。人格は、もはや“自分だけのもの”ではなくなった。


    赤木ショウタは、朝の通勤電車の中で、左手首のスマートバンドをぼんやりと見つめていた。黒い画面の中央で、青い円が脈打つように光っている。自分の人格的IPの残存量を示すインジケーターだ。
    「……また減ってる」
    昨夜よりも、わずかに低い。売買した覚えはない。だが、IPの価値は市場の動きに応じて常に変動する。ショウタにとって、この数字はほとんど“残りの人生”と同義だった。車内の広告モニターには、今日も明るい音楽が流れている。
    〈あなたの未来の嗜好、買い取ります!〉
    〈売るだけで、生活がもっと楽に〉
    ショウタはため息をついた。最初に売ったのは「音楽嗜好IP」だった。契約成立の翌日、昔好きだったバンドの曲を再生しようとしたら――
    〈現在の嗜好IPと一致しないため再生できません〉
    と表示された。選択肢そのものが消えることが、この世界の当たり前だった。電車が停まり、ショウタはホームへ降りた。改札を抜けると、駅前の広場に人だかりができている。スーツ姿の男がタブレットを掲げて叫んでいた。
    「嗜好IP、高値で買います! 特に“映像ジャンル傾向”と“味覚傾向”!査定だけでもどうぞ!」
    ショウタは視線をそらし、足早に通り過ぎようとした。だが、男の声が背中に刺さる。
    「生活が苦しい方、歓迎します!売買履歴は生体認証で完全管理、安心です!」
    安心……か。ショウタは苦笑した。売買履歴は確かにスマートバンドで照会できる。だが、そこに並ぶのは“自分が何を失ったか”の記録だ。音楽。懐かしさ。食の自由。転職の自由。売ったIPの数だけ、世界は狭くなる。職場へ向かう途中、スマートバンドが微かな振動を伝えてくる。画面には、今日のIP価値の変動通知が表示されていた。
    〈今日のアイデンティティ市場では、“購買行動IP”が高騰しています〉
    〈売却すると、生活費の三日分を即時受け取れます〉
    ショウタは唾をのみ込んだ。今月の家賃はまだ払えていない。アプリ画面をタップし、売却手続きに進もうとした。その瞬間――ピッ、ピッ、ピッ!鋭い警告音が手首から鳴り響いた。周囲の人が振り返る。ショウタは慌てて手を引っ込めた。画面には赤い文字が点滅している。
    〈警告:このIPは過去に部分売却済です〉
    ショウタは息を呑んだ。そうだ。あのとき、ほんの少しだけ“日用品の購買行動IP”を売ったのだ。これ以上売れば、本当に“自分”が崩れる。分かっている。分かっているのに、画面に表示された金額が頭から離れない。そのとき、背後から声がした。
    「……困ってるみたいですね」
    振り返ると、見知らぬ女性が立っていた。落ち着いた目をしているが、その奥に、妙に研ぎ澄まされた光がある。
    「あなたの“価値観IP”、少しだけ譲ってほしいの。……正規の査定より、ずっと良い条件で」
    ショウタは眉をひそめた。
    「正規の……? あなた、どこの業者ですか?」
    女性は微笑んだが、名乗らないまま、ショウタのスマートバンドを指先で示す。
    「あなたの売却履歴、興味深いわ。――“まだ取り返しがつく段階”よ」
    ショウタは思わず手首を隠した。
    「……どういう意味ですか?」
    「いずれ分かるわ。もし困ったら、また会いましょう」
    そう言って、女性は人混みに紛れるように消えていった。ショウタはとにかく怪しいと感じたので、それ以上彼女を追いかけることはなかった。


    ◆ 第1章  音楽の好みを売った日

     
    赤木ショウタが五十嵐レンと出会ったのは、仕事帰りの駅前ロータリーだった。ギターケースを背負った青年が、スマートバンドを掲げて声を張り上げている。
    「音楽嗜好IP、買い取ります!“先買い契約”で、あなたの未来の音楽体験を保証します!」
    ショウタは足を止めた。昨日、別のIPを売ったときの警告音がまだ耳に残っている。もう軽率に売るべきではない――そう思っていた。だが、青年の声には、どこか切実な響きがあった。
    「……すみません、少しだけお話、いいですか?」
    声をかけられたのはショウタのほうだった。五十嵐レンは、ショウタのスマートバンドを見て軽く会釈した。
    「あなた、音楽嗜好IPを部分売却してますよね。
    いや、履歴を見たわけじゃないんです。ただ……表情で分かるんです」
    「表情?」
    「音楽を聴いてる人の顔じゃなかったから」
    ショウタは言葉に詰まった。確かに最近、音楽を聴いても心が動かない。売却の影響だと分かっていても、“気分が変わっただけ”と言われれば、そう思えなくもない。レンは続けた。
    「僕、音楽を作ってるんです。プロデューサー志望で。でも、今の時代は“先買い契約”がないと曲が届かない。だから、あなたの嗜好IPを買いたいんです」
    「先買い契約……?」
    「はい。あなたの“音楽嗜好IP”を買うと、あなたの端末では“僕の曲と同じ嗜好の曲”が優先的に再生されるようになります。逆に、嗜好が違う曲は“聴けなくなる”」
    ショウタは眉をひそめた。
    「……聴けなくなる?」
    「権利の問題です。嗜好IPを売った人は、その嗜好に沿った曲だけが“推奨”される。他のジャンルは“非推奨”扱いになって、再生ボタンを押してもエラーが出るんです」
    レンはタブレットを操作し、ショウタに提示した。
    〈買い取り希望:音楽嗜好IP(ジャンル傾向・コード進行嗜好)〉
    〈提示額:生活費の二日分〉
    「あなたの嗜好は、僕の曲と相性がいい。ぜひ、先買い契約を結んでほしいんです」
    ショウタはスマートバンドを見つめた。青い円が、ゆっくりと脈打っている。売れば、生活費が手に入る。売らなければ、家賃の督促が続く。画面をタップし、売却画面を開く。
    〈音楽嗜好IP:売却可能〉
    〈注意:過去に関連IPを売却しています〉
    指が“承認”に触れた瞬間――ピンポン!
    鋭い警告音が鳴った。ショウタは思わず手を引っ込める。画面には赤い文字が点滅していた。
    〈警告:このIPを売却すると、他ジャンルの音楽が再生不可になります〉
    レンは静かに言った。
    「……大丈夫です。あなたの好みは、ほとんど僕の曲でカバーできるはずですから」
    ショウタは息を呑んだ。確かに最近、昔好きだった曲を聴こうとしても、“今の気分じゃない”と感じることが増えていた。ゆっくりと息を吐き、画面を再び見つめる。承認ボタンに触れる。今度は警告音は鳴らなかった。柔らかい電子音が響く。
    〈売却完了〉
    レンは深く頭を下げた。
    「ありがとうございます。本当に……ありがとうございます」
    ショウタは曖昧に笑い、駅へ向かった。帰宅後、ネットで気になるバンドの曲を聴こうとした。再生ボタンを押す。――エラー。
    画面には、淡々とした文字が表示された。
    〈この楽曲は、現在の嗜好IPと一致しないため再生できません〉
    ショウタは息を呑んだ。
    「……マジかよ」
    “気分が変わった”のではない。選択肢が消えたのだ。その夜、ショウタは静かに後悔した。
    だが、もう取り消すことはできなかった。


    ◆ 第2章  会社に縛られるということ


     昼休み、赤木ショウタは社員食堂の隅で、冷めた味噌汁をすすっていた。スマートバンドが震え、画面に通知が浮かぶ。
    〈人事部より:赤木ショウタさん、13時より面談があります〉
    突然の呼び出しに、胸がざわついた。最近、遅刻も欠勤もしていない。仕事のミスも特にないはずだ。食堂を出て会議室に向かうと、白いブラウスの女性が資料を整えていた。
    「赤木さんですね。どうぞ、座ってください」
    落ち着いた声だった。名札には 白鳥ユミ/人事部 とある。
    「今日は、会社の新しい制度について説明があります」
    白鳥はタブレットを開き、ショウタに画面を向けた。
    〈労働価値観IP先買い契約〉
    〈目的:永年勤続の促進〉
    「……価値観IPを、会社が買い取るんですか?」
    「ええ。最近はどの企業も導入しています。社員の“労働観IP”を先買いすることで、“転職志向”を抑制し、長く働いてもらうための制度です」
    ショウタは眉をひそめた。
    「転職志向……?」
    「あなたの履歴を拝見しました」
    白鳥はショウタのスマートバンドを指し示した。
    「赤木さんは、“自分の能力次第で様々な職場に挑戦したい”という労働観IPをお持ちです。これは、会社としては“離職リスク”と判断されます」
    ショウタは言葉を失った。
    「そこで、会社としては、その価値観IPを買い取りたいのです」
    白鳥は淡々と続けた。
    「先買い契約を結ぶと、あなたの端末では“転職関連サービス”が制限されます。閲覧しようとすると、エラーが出るようになります」
    「……それって、職業選択の自由とか……そういうのに引っかからないんですか?」
    白鳥は一瞬だけ目を伏せ、すぐに微笑んだ。
    「大丈夫です。これは“価値観の傾向データ”の先買いであって、もし将来気が変わるようなことがあれば、その時の相場で労働観IPを買い直して頂くことになります。なので、あなたの自由を直接制限するものではありません。法律上の問題はありません」
    その言い方は、どこか“決まり文句”のようだった。
    「もちろん、会社の強制ではありません。ただ、買い取りに応じていただければ、特別手当として給与一ヶ月分が支給されます」
    ショウタの心臓が跳ね上がった。一ヶ月分――それは、今の彼にとって救いの金額だった。白鳥は、売却画面を開いたタブレットをショウタに向けた。
    〈労働観IP:挑戦志向(残存率 68%)〉
    〈売却可能〉
    ショウタは画面を見つめた。青い円が、ゆっくりと脈打っている。迷いながらも、指が“承認”に触れた瞬間――ピンポン!
    鋭い警告音が鳴り響いた。画面には赤い文字が点滅している。
    〈警告:このIPを売却すると、会社の将来の業績に関わらず、あなたは所属し続けることになります〉
    〈転職関連サービスは利用不可になります〉
    ショウタは息を呑んだ。
    「……所属し続けるって、どういう……?」
    「そのままの意味です。会社が傾いても、業績が悪化しても、あなたは“離職リスクゼロの社員”として扱われます」
    白鳥は淡々と続けた。
    「ただし、強制ではありません。赤木さんの自由です」
    ショウタは深く息を吸い、そして――承認ボタンを押した。柔らかい電子音が響く。
    〈売却完了〉
    白鳥は丁寧に頭を下げた。「ありがとうございます。
    これで、あなたは“会社の将来を担う人材”として扱われます」


    職場に戻ると、上司が声を荒げていた。
    「赤木、来月から人員削減だ。お前、別部署に回ってくれ」
    「えっ……聞いてませんけど」
    「俺だって聞いてねえよ。上からの指示だ。それと、残業は増える。悪いな」
    ショウタは言葉を失った。別部署――そこは、社員の間で“地獄”と呼ばれている部署だった。ショウタは思わずスマホを取り出し、転職サイトを開こうとした。
    ――エラー。
    〈このサービスは、現在の労働観IPと一致しないため利用できません〉
    「……売ったから、か」
    ショウタは震える指で画面をスクロールした。画面下部に、小さな文字が表示されていた。
    〈労働観IPの売却により、転職関連サービスは利用不可となりました〉
    ショウタは息を呑んだ。
    「……やっちまった」
    気持ちは変わっていない。ただ、選択肢が消えただけだ。ショウタはスマホを握りしめたまま、
    静かに目を閉じ、早くも訪れた後悔と闘っていた。


    ◆ 第3章  買いたいものが買えない日


     赤木ショウタは、会社を出たあと、まっすぐ帰る気になれず、駅前のベンチに腰を下ろした。夕方の風が、春の匂いを運んでくる。スマートバンドが震えた。
    〈あなたの“政策同意IP:環境対策への同意度”が上昇しています〉
    〈売却すると、生活費の二日分を即時受け取れます〉
    環境対策――特に興味があるわけではない。ただ、金がない。そのとき、視界の端に誰かが立った。
    「……ちょっとよろしいですか?」
    振り返ると、スーツ姿の女性が立っていた。名刺を差し出してくる。
    「加納カナエといいます。市民政策ネットワークのロビー担当です」
    ショウタは名刺を受け取り、軽く会釈した。
    「突然すみません。あなたの“政策同意IP”について、お話したいことがあって」
    「……僕の履歴、見てるんですか?」
    「見ていません。街角でみなさんにお声をかけさせていただいているだけです」
    カナエは淡々と続けた。
    「私たちは、環境対策に関する“市民の同意データ”を先買いしています。選挙運動ではありません。署名活動と同じ効果がありまして、政策の実行には“市民の同意傾向のIP数”が必要なんです」
    「……売ったら、どうなるんですか?」
    「簡単です。あなたの端末では、環境対策に反する行動が“非推奨”扱いになり、購入や利用が制限されます。」
    ショウタは眉をひそめた。
    「行動……?」
    「例えば、プラスチック容器の食品。あなたが同意IPを売却すると、コンビニで購入できなくなります。レジでエラーが出るんです」
    「……マジで?」
    「ええ。環境負荷の高い商品は“非推奨”扱いになりますから」
    カナエはタブレットを開き、ショウタに提示した。
    〈買い取り希望:政策同意IP(環境対策:賛成傾向)〉
    〈提示額:生活費の二日分〉
    「あなたの生活に支障がないのではとお感じでしたら、ぜひ協力していただけませんか?」
    ショウタはスマートバンドを見つめた。青い円が、ゆっくりと脈打っている。売れば、生活費が手に入る。売らなければ、また家賃の督促が来る。画面をタップし、売却画面を開く。
    〈政策同意IP:環境対策(残存率 91%)〉
    〈売却可能〉
    指が“承認”に触れた瞬間――ピンポン!
    鋭い警告音が鳴り響いた。画面には赤い文字が点滅している。
    〈警告:このIPを売却すると、環境対策に反する行動が制限されます〉
    〈対象:プラスチック製品、過剰包装商品、化石燃料車両の利用など〉
    ショウタは息を呑んだ。
    「……行動が制限されるって……」
    「大丈夫です。あなたは普段から環境に悪い行動をしているわけではないでしょう?でしたら日常生活には支障ありません」
    カナエは微笑んだ。ショウタは迷いながらも、画面を再び見つめた。承認ボタンに触れる。柔らかい電子音が響く。
    〈売却完了〉
    カナエは深く頭を下げた。
    「ありがとうございます。あなたのデータは、必ず政策の役に立ちます」


    帰宅途中、ショウタはコンビニに寄った。いつもの唐揚げ弁当を手に取る。レジに置く。
    ――エラー。
    〈この商品は、現在の政策同意IPと一致しないため購入できません〉
    「……は?」
    ショウタは思わず店員を見る。
    「すみません……最近、こういうお客様多くて……」
    仕方なく、紙包装のサラダを買った。翌日の日曜日。日曜日、以前から欲しかったゲーム機の納品があった。ショウタは配達業者から小包を受け取った。
    「こちらへの商品包装がユーザー指定されて、プラスチックの緩衝材が使えなくなったんです。
    気をつけてくださいね。おそらくIPの売却が関係してるみたいで」
    ショウタは不思議に思いながら小包を開けると――新聞紙に包まれたゲーム機本体だった。
    「え、これ……?」
    ショウタは息を呑んだ。新聞紙を開くと、本体表面のカバーが微妙に凹んでいた。
    「……ふざけんなよ……」
    思わず呟いたが、もうどうしようもなかった。自分が売ったIPが、自分の首を絞めていた。
    ショウタは再び深く後悔した。


    ◆ 第4章  食べたい自由


     赤木ショウタは、昼休みにコンビニの前で立ち止まった。スマートバンドが震え、画面に通知が浮かぶ。
    〈あなたの“健康志向IP:食生活改善への同意度”が上昇しています〉
    〈売却すると、生活費の三日分を即時受け取れます〉
    ショウタはため息をついた。健康には無頓着だ。揚げ物もカップ麺も好きだし、夜中にコンビニ弁当を食べることもある。そんな自分の“健康志向”が上昇しているというのは、どうにも腑に落ちない。そのとき、背後から声がした。
    「ちょっとよろしいですか?」
    振り返ると、白いスーツを着た男性が立っていた。柔らかい笑みを浮かべているが、目はどこか鋭い。
    「初めまして。御影トウマと申します。健康食品メーカー《ナチュラ・フーズ》のデータ分析部です」
    名刺を差し出され、ショウタは受け取った。
    「突然すみません。あなたの“健康志向IP”について、お話したいことがありまして」
    「……僕、普段健康に気を使ってないんですけど」
    「ええ、そういう方は多いんですね。だからこそ、あなたのIPが必要なんです」
    御影はタブレットを開き、ショウタに画面を向けた。
    〈買い取り希望:健康志向IP(食生活改善:同意傾向)〉
    〈提示額:生活費の三日分〉
    「弊社は、新しい健康食品のモニタリングを行っています。“健康に無頓着な人が、どのように変化するか”を知りたいんです」
    「……売ったら、どうなるんですか?」
    「簡単です。あなたの端末では、健康に悪い食品が“非推奨扱い”になり、購入できなくなります。揚げ物、砂糖の多い飲料、脂質の高い弁当などですね」
    ショウタは眉をひそめた。
    「……買えなくなる?」
    「はい。レジでエラーが出ます。夜食や深夜の自販機も“非推奨”扱いになります」
    御影は淡々と続けた。
    「あなたのような“健康無関心層”のデータは、非常に価値が高い。ぜひ協力していただけませんか?」
    ショウタはスマートバンドを見つめた。青い円が、ゆっくりと脈打っている。売れば、生活費が手に入る。売らなければ、また家賃の督促が来る。
    画面をタップし、売却画面を開く。
    〈健康志向IP:食生活改善(残存率 89%)〉
    〈売却可能〉
    指が“承認”に触れた瞬間――ピンポン!
    鋭い警告音が鳴り響いた。画面には赤い文字が点滅している。
    〈警告:このIPを売却すると、健康に悪い食品・行動が制限されます〉
    〈対象:揚げ物、砂糖飲料、夜食、深夜自販機など〉
    ショウタは息を呑んだ。
    「……夜食も?」
    「はい。深夜帯の高カロリー食品は“非推奨”扱いになります」
    御影は微笑んだ。
    「ただ、健康には良いことですよ。あなたの身体のためにも」
    ショウタは迷いながらも、画面を再び見つめた。承認ボタンに触れる。柔らかい電子音が響く。
    〈売却完了〉
    御影は丁寧に頭を下げた。
    「ありがとうございます。これで、あなたは“健康志向層”としてモニタリング対象になります」


    仕事で理不尽な叱責を受け、ショウタはストレスでどうしても揚げ物が食べたくなった。
    帰り道のコンビニで、唐揚げ弁当を手に取る。レジに置く。
    ――エラー。
    〈この商品は、現在の健康志向IPと一致しないため購入できません〉
    「……は?」
    ショウタは思わず店員を見る。
    「すみません……最近、こういうお客様多くて……」
    仕方なく、紙包装のサラダと無糖ヨーグルトを買った。
    だが、食べたいものは、食べられなかった。


    翌日の昼休み、同僚が新発売のハンバーガーを買ってきた。
    「これ、めっちゃうまいぞ。食うか?」
    ショウタはスマホで商品情報を確認した。
    ――非推奨。
    〈高脂質食品のため、購入・受け取りが制限されています〉
    「……いや、いいや」
    同僚は不思議そうに首をかしげた。
    ショウタは曖昧に笑ったが、心の底では、自分の選択肢が静かに消えていく感覚があった。
    売ったのは、“不健康な生活”だけのはずだった。だが、自由は、思ったより広い範囲で奪われていた。


    ◆ 第5章  怒れなくなる日


     赤木ショウタは、帰宅途中のバス停でスマートバンドの通知音に足を止めた。
    〈あなたの“感情特性IP:不満表明への同意度”が上昇しています〉
    〈売却すると、生活費の二日分を即時受け取れます〉
    怒り反応――そんなものまで売れるのか、とショウタは思った。最近、腹が立つことがあっても、怒りを表に出す前に気持ちが冷めてしまう。それがIP売却の影響だと分かっていても、“気分が変わっただけ”と言われれば、そう思えなくもない。そのとき、背後から声がした。
    「ちょっといいですか?」
    振り返ると、黒いパーカーを着た青年が立っていた。髪は無造作に伸び、目の下には薄いクマがある。
    「初めまして。諏訪リョウといいます。SNSマーケティング会社《トレンド・スパーク》の分析担当です」
    名刺を差し出され、ショウタは受け取った。
    「突然すみません。あなたが使っている《ミニログ》の投稿傾向について、弊社が委託を受けていまして」
    「……僕の投稿、見てるんですか?」
    「直接見ていません。ただ、《ミニログ》側から“怒り反応の高いユーザー候補”として匿名化されたデータが提供されるんです。遠赤外線通信でのIDマップ検索で、この辺にその候補者がいらっしゃるとうことで」
    リョウは淡々と続けた。
    「弊社は、SNS上の“炎上抑制モデル”を開発しています。そのために、怒りを外に出しにくい人の行動データが必要なんです」
    「……売ったら、どうなるんですか?」
    「簡単です。あなたの端末では、怒りに基づく行動が“非推奨扱い”になり、利用できなくなります。具体的には――」
    リョウは指を折りながら説明した。
    「怒りの投稿ができない。クレーム窓口に繋がらない。怒り系スタンプが送れない。苦情フォームがエラーになる。などですね」
    ショウタは息を呑んだ。
    「……怒るなってこと?」
    「違います。“怒りを外に出す行動”が制限されるだけです。あなたの感情そのものは自由です」
    リョウはタブレットを開き、ショウタに提示した。
    〈買い取り希望:怒り反応IP(不満表明:同意傾向)〉
    〈提示額:生活費の二日分〉
    「あなたの怒り反応IPは、炎上抑制モデルにとても重要なんです。ぜひ協力していただけませんか?」
    ショウタはスマートバンドを見つめた。青い円が、ゆっくりと脈打っている。売れば、生活費が手に入る。売らなければ、また家賃の督促が来る。画面をタップし、売却画面を開く。
    〈怒り反応IP:不満表明(残存率 63%)〉
    〈売却可能〉
    指が“承認”に触れた瞬間――ピンポン!
    鋭い警告音が鳴り響いた。画面には赤い文字が点滅している。
    〈警告:このIPを売却すると、怒りに基づく行動が制限されます〉
    〈対象:SNS投稿、クレーム、苦情申請など〉
    ショウタは息を呑んだ。
    「……クレームもか」
    「はい。怒りを外に出す行動は、すべて“非推奨”扱いになります」
    リョウは微笑んだ。
    「ただ、あなたは最近、怒りを表に出していないでしょう?でしたら日常生活には支障ありません」
    ショウタは迷いながらも、画面を再び見つめた。承認ボタンに触れる。柔らかい電子音が響く。
    〈売却完了〉
    リョウは軽く頭を下げた。
    「ありがとうございます。あなたのデータは、炎上抑制モデルに役立ちます」


    帰宅途中、自転車がショウタの足にぶつかった。
    「すみません!」
    若い男が慌てて頭を下げる。ショウタは一瞬だけ怒りが湧いた。だが、すぐにスマートバンドが震えた。
    〈心拍数と血圧の上昇が検知されています。怒りに基づく行動は非推奨です〉
    怒りを表に出そうとすると、なんだか心が“冷えていく”ような感覚が走った。
    「……大丈夫です」
    自分でも驚くほど、あっさりと言えた。翌日。会社の自販機で、ショウタは缶コーヒーを買おうとした。だが、ボタンを押した瞬間――
    ピッ、ピッ、ピッ!
    〈この商品に対する不満レビューが多いため、怒り反応IP売却者は購入できません〉
    「……は?」
    ショウタは思わず舌打ちした。だが、舌打ちをした瞬間、スマートバンドが震えた。
    〈怒りの行動パターンを検出。怒りに基づく行動は非推奨です〉
    ショウタは息を呑んだ。
    「……怒ることすら、許されないのかよ」
    売ったのは、“怒るような生活”だけのはずだった。だが、怒りを外に出す自由は、静かに奪われていた。


    ◆ 第6章 懐かしさを失う日


     赤木ショウタは、休日の午後、久しぶりに実家の近くを歩いていた。特に理由はない。ただ、身体が勝手に“帰りたい”と感じたのだ。だが、駅前の商店街を歩いても、子どもの頃に通った駄菓子屋の前を通っても、思い出深い気持ちは全くしなかった。そのとき、スマートバンドが震えた。
    〈今日のオススメ売却IPは“追憶IP:幼少期の記憶に無関心ならば売却可能です〉
    〈売却すると、生活費の四日分を即時受け取れます〉
    いわゆる追憶IP――そんなものまで売れるのか、とショウタは思った。画面を閉じようとした瞬間、背後から声がした。
    「……ちょっとよろしいですか?」
    振り返ると、白いコートを着た男性が立っていた。落ち着いた目をしているが、その奥に研究者特有の熱がある。
    「初めまして。榊ユウジといいます。VRアーカイブ企業《メモリア・リンク》で研究をしています」
    名刺を差し出され、ショウタは受け取った。
    「突然すみません。あなたの“追憶IP”について、お話したいことがありまして」
    「……ひょっとして、僕の匿名候補者IPがマップ公開されてました?」
    「ええ、そうなんです。懐かしさをあまりお感じにならない方を探してまして。あなたのIPが必要なんです」
    榊はタブレットを開き、ショウタに画面を向けた。
    〈買い取り希望:追憶IP〉
    〈提示額:生活費の四日分〉
    「弊社は、“懐かしさを感じるVR体験”を作っています。しかし、ノスタルジーは個人差が大きい。“懐かしさを感じにくい人”の行動データは、逆に非常に価値が高いんです」
    「……売ったら、どうなるんですか?」
    「簡単です。あなたの端末では、幼少期の記憶に関わる行動が“非推奨扱い”になり、制限されます。具体的には――」
    榊は指を折りながら説明した。
    「子どもの頃に好きだったものが買えない。幼なじみの方への連絡ができない。昔よく行った場所の検索ができない。古い映画の閲覧が制限される。などですね」
    ショウタは息を呑んだ。
    「……古い映画の閲覧も?」
    「はい。“過去への依存や憧れ”を避けるための仕様です」
    榊は淡々と続けた。
    「あなたのような“ノスタルジー低反応層”のデータは、弊社にとって非常に価値が高い。ぜひ協力していただけませんか?」
    ショウタはスマートバンドを見つめた。青い円が、ゆっくりと脈打っている。売れば、生活費が手に入る。売らなければ、また家賃の督促が来る。
    画面をタップし、売却画面を開く。
    〈追憶IP:幼少期記憶(残存率 52%)〉
    〈売却可能〉
    指が“承認”に触れた瞬間――ピンポン!
    鋭い警告音が鳴り響いた。画面には赤い文字が点滅している。
    〈警告:このIPを売却すると、幼少期に関わる行動が制限されます〉
    〈対象:昔の場所・幼少期に関係のあった人・物・芸術作品など〉
    ショウタは息を呑んだ。
    「……幼なじみへの連絡も?」
    「はい。“過去を引き出す行動”はすべて非推奨扱いになります」
    榊は微笑んだ。
    「ただ、あなたは最近、懐かしさを感じていないでしょう?でしたら日常生活には支障ありません」
    ショウタは迷いながらも、画面を再び見つめた。承認ボタンに触れる。柔らかい電子音が響く。
    〈売却完了〉
    榊は深く頭を下げた。
    「ありがとうございます。あなたのデータは、必ずVRアーカイブの精度向上に役立ちます」


    その日の帰り道。ショウタは、いつものようにコンビニに寄った。特設の駄菓子コーナーの棚に、子どもの頃によく食べた“きなこ棒”を見つけた。恐る恐るレジに置く。
    ――エラー。
    〈この商品は、現在の追憶IPの現状と一致しないため購入できません〉
    「……こんなものも?」
    ショウタは思わず店員を見る。
    「すみません……最近、こういうお客様多くて……」
    ショウタは苦笑し、店を出た。


    翌日。実家に帰ろうと思い、カーナビに住所を入力しようとした。だが、入力欄に文字を打ち込んだ瞬間――ピッ、ピッ、ピッ!
    〈この住所は、現在の追憶IPと一致しないため設定できません〉
    「……嘘だろ」
    ショウタはスマホを取り出し、昔のアルバムアプリを開こうとした。
    ――エラー。
    〈幼少期関連の写真は閲覧できません〉
    ショウタは息を呑んだ。
    「……俺の“過去”って、こんな簡単に消えるのかよ」
    懐かしいなんて普段全く感じていないと思っていた。だが、懐かしさに触れる自由は、既に奪われていた。


    ◆ 第7章  “元の自分”の再構築へ


     赤木ショウタは、深夜のネット掲示板を眺めていた。そこには、正規市場では絶対に見られない単語が並んでいる。
    〈Identity Seed ではなく、“部分IPの闇流通”〉
    〈リストバンドの履歴を読み取れば、売ったIPがすべて分かる〉
    〈同等のIPを闇市場で買い集めれば、人格の再構築が可能〉
    ショウタは息を呑んだ。自分が売ったIPは、音楽嗜好、労働観、政策同意、健康志向、怒り反応、追憶……生活のほとんどを縛る“制限の根源” だった。それらを取り戻すには、正規市場で買い戻すしかない。だが、正規価格は高すぎる。そんなとき、掲示板の書き込みが目に入った。
    〈闇市場なら、正規の1/50の価格で“同等IP”が手に入る〉
    〈時間はかかるが、全く遜色のない人格再構築が可能〉
    ショウタは震えた。
    「……本当に、戻れるのか?」


    古い雑居ビルの地下。ショウタが闇市場に足を踏み入れたとき、中央の机に座る男が、ショウタのリストバンドを指差した。
    「履歴を見せろ。売ったIPが分かれば、必要な“代替IP”を揃えてやる」
    ショウタはリストバンドを差し出した。男は専用の読み取り機にかざす。画面に、ショウタが売ったIPの一覧が表示された。「音楽嗜好IP」、「労働観IP」、「政策同意IP」、「健康志向IP」、「怒り反応IP」、そして「追憶IP」。男は鼻で笑った。
    「ずいぶん売ったな。だが、全部“代替IP”で埋められる。時間はかかるが、品質は正規と遜色ない」
    「……本当に?」
    「同じ傾向のIPを集めれば、元の人格に近い形を再構築できる。ただし――」
    男は人さし指でショウタを指しながら続けた。
    「闇市場のIPは“持続期間が短い”。長くは保たない。それでもいいか?」
    ショウタは迷わなかった。
    「……構わない。今のままじゃ、何もできない」
    男は頷き、ショウタに複数のデータチップを渡した。
    「これが、お前の“代替IP”だ。全部読み込めば、制限は一時的に解除される」
    ショウタは震える手でチップを握りしめた。


    ◆ エンディング  自分が自分であるために


     ショウタは部屋に戻ると、闇市場で手に入れた“代替IP”を次々とリストバンドに読み込ませた。読み込みが完了した瞬間――胸の奥が、久しぶりに“満たされる”感覚 に包まれた。闇市場で手に入れた“代替IP”をすべて読み込ませた瞬間、ショウタの脳裏で、何かが静かに外れる音がした。それは、金属の錠前が外れるような、あるいは、長い間閉ざされていた窓が開くような感覚だった。ショウタは息を吸い込んだ。空気が、いつもよりうまい。まず、音楽アプリを開いた。長い間、「現在の嗜好IPと一致しないため再生できません」と表示され続けた、昔好きだったバンドの曲。再生ボタンを押す。――流れた。イントロのギターが鳴った瞬間、ショウタの背筋に電流が走った。忘れていたはずの旋律が、身体の奥底から蘇る。胸が熱くなり、視界が滲んだ。
    「……これだ……これが、俺の音楽だ……」
    音が部屋の壁に跳ね返り、ショウタの心の輪郭を取り戻していく。次に、コンビニへ向かった。自動ドアが開くと、揚げ物の匂いが鼻をくすぐる。ショウタは、唐揚げ弁当を手に取った。これまで何度もエラーを出され、買えなかった弁当。レジに置く。――通った。電子音が、まるで祝福の鐘のように聞こえた。店を出て、その場で弁当の蓋を開ける。湯気が立ち上り、
    油の香りが鼻腔を満たす。一口食べた瞬間、ショウタは思わず目を閉じた。
    「……うまい……」
    ただの唐揚げなのに、涙が出そうだった。部屋に戻ると、ショウタはすぐに転職アプリを開いた。
    これまで何度も跳ね返された画面が、今日はすんなりと開く。求人情報が、スクロールするたびに次々と表示される。選択肢がある。未来がある。ショウタは胸の奥が熱くなるのを感じた。
    「……俺、まだやり直せるんだ」
    次に、SNSを開いた。会社の理不尽な対応。上司の横暴。制限されていた怒りが、胸の奥で燻っていた。投稿画面を開く。指が滑らかに動く。言葉が溢れる。送信ボタンを押す。――投稿された。画面に自分の怒りが表示された瞬間、胸の奥の重石が外れたように軽くなった。
    「……やっと言えた……」最後に、ショウタは古いアルバムアプリを開いた。これまでエラーで弾かれ続けた幼少期の写真。今日は開いた。画面に映る、小さな自分。笑っている。泥だらけの靴。母親の手。胸が締め付けられた。実家の住所をナビに入力する。問題なく登録された。ショウタは、久しぶりに“帰れる”気がした。


    翌朝、スマートバンドが震えた。
    〈保持IPの持続期間が終了しました〉
    ショウタは息を呑んだ。次の瞬間――音楽アプリはエラー、転職サイトもエラー、唐揚げ弁当は購入不可、SNSの怒り投稿は非推奨、実家の住所はナビ設定不可、そして、古い写真は 再び閲覧制限となった。すべての制限が、元に戻ってしまった。
    「……嘘だろ……」
    ショウタは震える手でSNSを開いた。闇市場の利用者たちが書き込んでいる。
    〈非公式IPは持続期間が短い〉
    〈正規IPの1/50の値段だから当然〉
    〈結局、正規市場で買い戻すしかない〉
    ショウタは膝から崩れ落ちた。
    「本当に……全部、元通りかよ……」
    自由は、ほんの一日だけだった。ショウタは、スマートバンドを強く握りしめた。闇市場のIPでは、自分を取り戻すことはできない。
    ならば――
    「……働くしかない。正規の価格で、全部買い戻す」
    それは、途方もない道のりだった。だが、ショウタは初めて、自分の意思で未来を選んだ。制限だらけの世界で、自分のアイデンティティを取り戻すために。
     
    (終わり)
     
     

     
     
    古亭 蘭寧(こてい らんねい)と申します。創作テーマ = 空想科学 ✕ 精神世界 ✕ 社会課題 ✕ アナロジー ✕ フィクション。 よろしくお願いいたします。

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