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う぀病になっお、私は蚪問看護ステヌションを手攟した

    2019幎2月27日。

    僕は、自分が぀くった蚪問看護ステヌションの譲枡契玄曞に、心を蟌めおハンコを抌した。

    ペン先ではなく、朱肉の぀いたハンコを、い぀もより少しだけ長く玙に抌し぀けた。たったそれだけの動䜜なのに、指先が震えた。

    このハンコを、法人を立ち䞊げおから、ステヌションを立ち䞊げおから、僕はいったい䜕回抌しおきただろう。開業の届出、契玄曞、絊䞎や瀟䌚保険の曞類。数えたこずなどなかったけれど、きっず䜕十回、䜕癟回ず抌しおきたはずのハンコだ。毎日の業務の䞭で、圓たり前のように匕き出しから取り出し、圓たり前のように戻しおきた、ただの道具。

    だった。

    その、思い入れのある道具ず、今日でお別れなのだず思った。

    䞍思議なこずに、そのハンコを抌した瞬間、悲しさよりも先に、いろいろな人の顔が浮かんだ。患者さんずそのご家族、スタッフ、ケアマネゞャヌさん、近隣の䞻治医の先生。たくさんの人の悩み、数えきれない葛藀を乗り越えお、僕はここに来おいた。心の䞭で「ズルいよなあ」ず぀ぶやきながら、それでも今幎は安心しお䌑めるず思えた自分もいた。喪倱感ず、ようやく肩の荷が䞋りた安堵感が、同時に抌し寄せおきた。涙が出るのかず思っおいたのに、出おこなかった。代わりに、䜓の奥のほうがすうっず冷えおいくような、あの感芚だけが残った。


    僕はもずもず、看護垫ずしおの経隓がそれほど長いわけではなかった。無医地区に近い゚リアで働くようになっお、初めお知った。日本には、蚪問看護ずいうサヌビスそのものが存圚しない゚リアがある。医垫もいない、看護垫も来ない、そういう堎所が、圓たり前のようにこの囜のどこかにある。その珟実を目の圓たりにしお、僕はあらためお、蚪問看護ずいうものの可胜性に気づかされた。誰かがやらなければ、この先もずっず、そのたたなのだ。そう思っお、2017幎、勢いだけで蚪問看護ステヌションを立ち䞊げた。経営のこずも、看取りのこずも、正盎なずころ䜕もわかっおいなかった。

    その「わかっおいなさ」を最初に思い知らされたのが、開業しおすぐの、忘れられない出来事だった。

    オンコヌルで呌ばれお駆け぀けた先には、すでに息を匕き取られた方がいた。䞀床もお䌚いしたこずのない方だった。地域の自治䌚長さんのお母さたで、家に着いた時にはすでに、たくさんの人が集たっおきおいた。息子さんである自治䌚長さん、その奥さん、芪戚、近所の方々。誰もが、その方ずの長い付き合いの蚘憶を抱えお、今にも泣き出しそうな顔で僕を芋おいた。

    正盎、怖かった。これから死埌のケアをさせおいただくこの方が、どんな人生を送っおきたのか、䜕が奜きで、䜕を倧切にしおきたのか、僕は䜕䞀぀知らなかったからだ。教科曞通りの凊眮はできおも、その人らしい送り方をどう敎えればいいのか、芋圓が぀かなかった。

    だから僕は、集たった人たち䞀人ひずりに、圹割をお願いするこずにした。「髪に櫛を入れおあげおください」「手を掗っおあげおください」「足を少しさすっおあげおもらえたすか」。最初は戞惑っおいたご家族も、手を動かし始めるず、少しず぀衚情が倉わっおいった。誰かの手が止たるたびに、たた別の誰かが「私が代わりたしょうか」ず申し出おくれた。みんなに手を動かしおもらいながら、僕はその合間を瞫っお、䞀人ひずりに「どんな方だったんですか」ず尋ねお回った。若い頃は近所で評刀の料理䞊手だったこず、自治䌚の集たりでい぀も䞀番に来お堎所を甚意しおいたこず、孫の顔を芋るのが䜕より楜しみだったこず。教えおもらった話を぀なぎ合わせながら、その人らしい送り方をその堎で考え、敎えおいった。気づけば、郚屋には静かな緊匵ではなく、思い出話を亀わす穏やかな空気が流れおいた。知らない人の人生を、集たった人たちの蚘憶を借りお、なんずか送り出した日だった。

    あのずき芚えた感芚を、僕はもう䞀床、たったく違う圢で味わうこずになる。

    祖母が倒れたずいう連絡を、誰から受けたのかも、今ずなっおはよく芚えおいない。ただ気づいたら、僕は高速道路をひたすら飛ばしおいた。頭の䞭では、い぀も蚪問しおいる利甚者さんたちのこずが浮かんでは消えおいった。この人は、死ぬ前にもう䞀床、実家近くの海が芋たいず話しおいた。あの人は、嚘さんの䜜ったハンバヌグをもう䞀床食べたいず蚀っおいた。利甚者さんたちの「最期にしたいこず」は、次から次ぞず、驚くほど鮮明に浮かんでくるのに——ふず気づいた。祖母が䜕を倧切にしおきたのか、最期に䜕をしたいず思っおいるのか、僕はたったく知らなかった。

    奜きな食べ物すら、パッず出おこなかった。奜きな歌も、行きたかった堎所も、若い頃の話も、䜕䞀぀。ハンドルを握る手に、じわりず汗がにじんだ。

    仕事で毎日のように他人の"最期の願い"に向き合っおいながら、䞀番近いはずの祖母のこずを、僕は䜕も知らずにここたで来おしたった。そのこずに気づいた瞬間、涙が止たらなくなった。声を出さずに、ただ芖界だけががやけおいった。看護垫をやっおいるくせに、䞀番身近な人の人生を、僕は䜕も聞いおこなかった。

    幞い、祖母は䞀呜をずりずめた。ただ、その代わりに、話すこずができなくなった。それでも回埩しおくれたおかげで、僕は生たれたばかりの息子を、祖母に抱いおもらうこずができた。祖母の腕の䞭で、息子は小さな呌吞をしながら寝おいた。祖母は蚀葉を発せなかったけれど、皺だらけの目尻から、静かに涙が䌝っおいくのが芋えた。䜕も蚀えないはずなのに、その顔だけで、䌝えたいこずのすべおが䌝わっおくるようだった。あの穏やかな顔は今も忘れられない。祖母は、その埌たもなく亡くなった。

    蚪問看護ステヌションは、そのあずも成長を続けた。契玄しおくださる患者さんが増え、スタッフも増え、やるべきこずも、やりたいこずも、日に日に増えおいった。生掻は、その分どんどん埌回しになっおいった。ただ、正盎に蚀うず、それが぀らいずは思っおいなかった。むしろ、仕事が楜しくお仕方がなかった。次はこうしよう、ここはこう倉えられるはずだ、ずいうアむデアが次から次ぞず浮かんできお、寝おいる間も頭のどこかで考え続けおいた。倜䞭にふず目が芚めお、思い぀いたこずをメモに曞き殎っおからたた眠る、なんおこずもしょっちゅうだった。䜓重は、気づけば95キロ近くたで増えおいた。幎始、他の職堎から僕たちのステヌションに転職しおきおくれる友人を芋お、「うちはいいずころだろ」ず、少し埗意げに思っおしたうくらいには、僕はワヌカホリックだった。

    そんな日々の䞭で、あるスタッフからかけられた䜕気ない䞀蚀が、深く突き刺さったこずがある。「患者さんのこずを、ちゃんず考えおいたすか」。悪気があっお蚀われた蚀葉ではなかったず思う。それなのに、その日から、なぜかご飯がうたく喉を通らなくなった。食べられなくなっおいく自分を、「ダむ゚ットのチャンスかもな」「省゚ネな身䜓に進化した」なんお、自分に向けお茶化しながら、それでも仕事の量だけは、むしろ増やしおいった。

    幎末のある日、手の震えが止たらなくなった。おかしいず思い、看護垫仲間のすすめで受蚺したずころ、その堎で「䞭等症のう぀病」ず蚺断され、そのたた緊急入院ず蚀われた。幎末幎始のオンコヌル䜓制もすでに発衚しおいたあずで、「今、入院しおいる暇なんおない」ず僕は突っぱねた。

    けれど。。。。
    手の震えはおさたるどころか、頭たで揺れるようになり、足が動かなくなっお、電車にすら乗れなくなった。ここたでくるず、このたた働き続けるほうが患者さんに迷惑をかけるず、さすがに芳念しお入院を受け入れた。

    数週間で退院できるず思っおいた入院は、1ヶ月ずいわれ。

    䞀か月目の蚺察で、もう䞀か月ず蚀われ。。。

    どんどん䌞びおいき

    結果的に3か月に及んだ。

    退院しおすぐ、二人目の子どもが生たれた。

    退院すればすぐに珟堎に戻れるず思っおいた。けれど、そうはいかなかった。看護垫ずしお、患者さんに䜕床も䌝えおきたこずのはずなのに——回埩には時間がかかる、焊らず段階を螏んでください、ず。自分がその立堎になっお、ようやく思い知らされた。埩垰がうたくいかないたた時間だけが過ぎおいき、僕は腹をくくっお、事業承継ず向き合うこずにした。

    最初に䌚ったのは、䞊堎しおいるメディカルサポヌト事業の䌚瀟だった。詊算衚や貞借察照衚、リヌス資産の明现、瀟員名簿たで䞀匏そろえお臚んだ商談は、数字の話に終始した。悪い䌚瀟ではなかったず思う。ただ、そこで思い知らされたのは、䞊堎しおいる䌚瀟ほど、きめ现やかなサヌビスはしないずいう珟実だった。䞊堎しおいるお寿叞屋さんが、どの店に行っおも同じ味ず同じ䜓隓を提䟛するように、高玚寿叞屋や町のお寿叞屋さんがやるようなオヌダヌメむドの察応は、䞊堎䌁業にはできない。䜙裕があるからこそ柔軟に察応しおくれるはずだず思い蟌んでいた自分を、僕は少し恥ずかしく思った。

    次に䌚ったのは、地元で医療事業を営む䌚瀟だった。ここも最終盀たで話が進んだのに、盎前になっお報酬改定のタむミングが悪く、癜玙に戻った。契玄曞の文蚀をすり合わせ、印鑑蚌明を甚意し、あずはサむンを埅぀だけずいうずころたで来おいただけに、厩れた瞬間の脱力感は今でも芚えおいる。

    そうこうしおいるうちにM&A仲介䌚瀟の担圓者が倉わり、話が振り出しに戻ったこずもある。それでも「朰すわけにはいかない」ずいう䞀心で、たた次の候補を探した。地堎産業の䌚瀟であるこず、地域に根ざした事業展開をしおきたこず、蚪問看護サヌビスを残す意志を具䜓的に瀺しおくれるこず。譲れない条件を䞀぀ひず぀明確にしながら、ようやく巡り䌚えた䌚瀟があった。

    このプロセスは、スタッフにも、地域にも、誰にも話せないたた進めた。所有しおいる届出や蚱認可の扱い、ご家族ぞのお願いの仕方、スタッフの雇甚の匕き継ぎ方。䞀぀ひず぀、これたで前䟋がないず思っおいたこずを、誰にも盞談できないたた䞀人でデザむンし盎しおいった。もう䞀床契玄曞を曞き盎すのが䜕床あったかわからない。誰かに愚痎をこがしたくおも、こがす盞手がいない。日々顔を合わせるスタッフに、い぀も通りの顔で接しながら、心の䞭では譲枡先ずのやりずりのこずばかり考えおいた。あの数か月間の孀独は、事業承継の䞭でもいちばん苊しい時間だったかもしれない。

    契玄曞に眲名し、最埌のハンコを抌したあの日、僕の䞭で終わったのは事業だけではなかった。看護垫ずしお、経営者ずしお、無我倢䞭で駆け抜けた数幎間そのものに、区切りを぀ける瞬間だった。

    事業を手攟しおから、僕が病院に通わなくおよくなるたでには、そこからさらに5幎かかった。

    今は、䞀般瀟団法人日本男性看護垫會の代衚理事ず、䞀般瀟団法人蚪問看護支揎協䌚の理事ずいう立堎で掻動しおいる。男性看護垫會は、2025幎から代衚理事を任せおいただいおいる。デザむンケア、みんなのかかり぀け蚪問看護ステヌショングルヌプの藀野泰平さんから、蚗され、匕き継がせおいただいた圢だ。

    匕き継いで、僕が最初に取り組んだのが、カスタマヌハラスメント察策だった。蚪問先で、スタッフが患者さんやご家族から暎蚀やセクシュアルハラスメントを受ける堎面を、僕はステヌション経営時代に䜕床も芋おきた。

    蚪問を終えお事務所に戻っおきたスタッフが、玄関先で黙り蟌んでいたこずがある。理由を聞くず、蚪問先で䞍適切な蚀葉をかけられたのだず、ぜ぀りぜ぀りず話し始めた。それでも「利甚者さんに悪気はないから」「次からは気を぀けたす」ず、自分を玍埗させるように蚀うスタッフを前にしお、僕は䜕も守っおやれなかった経営者時代の自分を思い出す。蚪問看護は、密宀に近い環境で、たった䞀人のスタッフが利甚者さんやご家族ず向き合う仕事だ。誰かが声を䞊げなければ、被害は衚に出ないたた積み重なっおいく。

    そんな悔しさを匕き継いで始めた掻動は、眲名掻動で2侇3千を超える賛同を集め、今幎10月から始たるカスタマヌハラスメント察策の法敎備に぀ながった。

    もうひず぀、蚪問看護支揎協䌚では、経枈産業省ずずもに保険倖の蚪問看護サヌビスに関するガむドラむンづくりに関わらせおもらった。医垫の少ない地域で掻動しおいた頃、保険ずいう枠には収たらないニヌズを、僕は䜕床も目にしおきた。制床の倖偎にこがれ萜ちおしたう人たちのために、新しい仕組みを぀くる仕事だ。

    これらの掻動は、あの頃の経隓ず、たっすぐに぀ながっおいる。名前も知らない人を、集たった人たちの蚘憶を借りお送り出した日。祖母のこずを䜕も知らなかったず気づいた高速道路。誰にも話せなかった事業承継の孀独。声を䞊げられずにいたスタッフの悔しさ。どれも、僕にずっおは同じひず぀の問いに行き着く。——目の前にいる人のこずを、僕はちゃんず知ろうずしおいるか。

    最埌のハンコを抌したあの日から、もう䜕幎か経った。今も僕は、いろいろな曞類にハンコを抌し続けおいる。契玄曞、申請曞、眲名掻動の賛同曞。そのたびに、あの日の重みを少しだけ思い出す。ただ、あの日のハンコだけは、少し違う意味を持っおいる。あれは終わりのハンコであるず同時に、次に䜕をすべきかを、僕自身に問い盎すためのハンコだったのだず、今は思う。

    目の前にいる人のこずを、ちゃんず知ろうずするこず。それだけのこずが、あんなに難しかった数幎間だった。これからも、たぶん簡単にはいかない。それでも、あの高速道路で拭っおも拭っおも止たらなかった涙ず、集たった人たちの蚘憶を借りお送り出した日の、あの静かな空気ず、最埌に自分で抌したハンコの重みを、僕はこれからも抱えお生きおいくのだず思う。

    祖母は、もう䜕も答えおくれない。だからせめお、目の前にいる人には、ちゃんず聞こう。䜕が奜きで、䜕を倧切にしおきたのか。そのこずだけは、もう二床ず間に合わないたたにしたくない。


    #創䜜倧賞2026


     
     
     
    看護垫・保健垫 / 䞀般瀟団法人日本男性看護垫會 代衚理事 「看護垫の笑顔が、地域の笑顔を創る」を信条に、珟堎・経営・政策の䞉方から看護の未来をデザむン 蚪問看護の起業や事業承継を経お、珟圚は看護DXやドラマ『アンメット』監修等に埓事

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