
短編小説『旅立ちの夜』 #10
あたしたちは、とぼとぼと歩いた。虹色の橋を、今度は三人横並びで渡った。お父さんとお母さんは迷いなく歩き続けた。あたしはそんなふたりにただついて歩いた。
「よし、ついた」
お父さんが嬉しそうな声で言った。あたしはお母さんを見た。お母さんは、お父さんと同じほうを見ていた。あたしはふたりが見ているものを見た。それは、家だった。見覚えのある、ついさっき、不思議な人に殺された家にそっくりな家だった。
「あれ?」
あたしは首元に手をやった。毛糸をたぐる。今も鍵はない。
「やっとまた、みんなで暮らせる」
お父さんが微笑んだ。
「さ、中に入ろう」
お母さんはそう言うと、見たことがない形の鍵を取り出した。
「それ、おうちの鍵?」
「そうだよ? このおうちの鍵」
「あたし、初めて見る」
「そうだね。こっちのおうちに来るのは、初めてだもんね」
「こっちのおうち?」
「そう」
「どういうこと? じゃあ、あっちのおうちは? あれはニセモノだった、ってこと? あたし、誰かの家の鍵を持って、誰かの家でお父さんとお母さんを待ってたってこと? でも、出されちゃった荷物、みんなあたしたちのものだったじゃん? やっぱり、あっちが本当のおうちなんじゃないの? こっちはニセモノなんじゃない? もしかして、本物のおうち、悪い人に盗られちゃったとか? だから、よく似たおうちにお引越しするの? でも、荷物は? みんなみんな、大事なものだったのに。と、取り返しに――」
お母さんは、うんうんと微笑みながら聞いてくれたけれど、お父さんは、なんだか気まずそうな顔をしていた。
言いたいことがまだあるなら言ってもいいよ、って言われたとしたら、まだ言えた。でも、お父さんの顔を見たら、言葉がのどに詰まった。
みんな黙った。どのくらいの時間黙っていたのかは、正直よくわからない。少なくとも三回は肩が上下に揺れるくらい大きく呼吸をした気がする、ってことくらいしか。
「あのおうちは、ニセモノではないかな。あっちのおうちは――昔みんなで住んでいたおうち」
お母さんが言った。ちゃんと聞こえた。ひとつひとつの言葉は難しくなかった。だけど、よく分からなかった。お母さんが言いたいことが何なのか、あたしにはどうしても分からなかった。
「さっちゃんは、あの家にひとりぼっちでいたの。お父さんとお母さんが、先にお引っ越ししちゃったから。ずっと心配だったの。だから、ちょっと無茶をして、迎えに行ったの」
「無茶?」
「そう。約束をして、川を渡って」
「約束って?」
「罰を受ける約束。ちゃんと罰を受けるから、さっちゃんをここに連れてこさせてくださいって。もう一度、みんなを一緒にしてくださいって――」
お母さんが鍵を開けた。かちゃん、と音が鳴ると同時に、お母さんは猫になった。
「……えっ?」
あたしは、お父さんを見た。お父さんは、いつの間にか犬になっていた。
「ど、どういうこと?」
困惑して、立ち尽くした。ふたり、いや、二匹はそんなあたしのことを気にしているのかいないのか、とことこと家の中へと歩いて行った。二匹を追うように家の中に入る。
驚いた。家の中は、みんなの大切なものでいっぱいだった。この家は、誰かに盗られたり、殺されたりしていない。
「みんなで住んでいたおうちだ。同じ家に引っ越し? 変なの? っていうか、お父さんとお母さんだけ先にお引越しって、どういうこと? 罰っていうのは、犬とか猫になっちゃうって話? なんか、いろいろわかんないよ」
ぼそぼそと呟くと、二匹が突然テーブルの上にぴょんとのって、鳴いて、暴れるように体を動かし始めた。
どうも、紙の取り合いをしているみたいだ。なんだか、あたしにその紙を見てほしいみたい。
あたしは、二匹から紙をそっと取り上げて見てみた。それには小さい文字がぎゅうぎゅうに詰まっていて、漢字もたくさんあって、とても読みにくかった。
だけど、必死になって読んだ。ぽろっと涙がほっぺたを駆け降りた。あたしは涙をぐしぐしと拭った。
「お父さん。お母さん」
声がぷるぷる震えた。お父さんとお母さんは、あたしのことをじっと見ていた。犬や猫の表情を読み取れるほど、犬や猫を知らない。でも、あたしには見えた。ふたりは今、いつものふたりらしく、にっこり微笑んでいる。
「迎えにきてくれて、ありがとう」
ふたりはあたしに顔をこすりつけた。あたしはそんなふたりの頭を、ふたりがいつもそうしてくれたように、よしよしと撫でた。
紙に書いてあったことが本当なら。
あたしはふたりのおかげで、さんずの川っていう川をちゃんと渡ることができたみたい。渡れたおかげで、元のおうちにしがみつき続ける幽霊をやめられたみたい。
あたしは新しい鍵の穴に毛糸を通して、首にかけた。
この世界に慣れるまで、新しい暮らし方を見つけるまで使うことになる大切な鍵を、いつか手放すその時まで、決して無くすことがないように。
旅立ちの夜のことを思い出しながら、窓から差し込むオレンジ色の光を浴びながら、くるんとまるまるふたりの横で丸くなる。
何もかも突然には変われない。だから、今はまだこのままでいい。時が来たら変わればいい。その時までは、このままでいい。
あたしは懐かしくて新しい家で、これからどうやって暮らしていこうかぐるぐると考えながら、ふたりのぬくもりを感じながら、うとうとと眠りについた。
―了―
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