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鼻歌

     幸子は、五十六歳になった。

     会社の更衣室で、ロッカーの扉を閉める時、いつも少しだけ力を込める。
    きちんと閉めないと、誰かがまた何か言う。

     誰か、とは大抵決まっていた。

     今日も、デスクの上から書類が一部、消えていた。
    探さなくても分かる。
    幸子は何も言わずに、もう一度プリントした。

     体が痛い。朝、起き上がる時に、肩から先に痛みが来る。
    病院には行っていない。
    行ったところで、何かが変わるとも思えなかった。

     帰り道、幸子は遠回りをした。

     川沿いの道だった。
    水面に、夕方の光が散っていた。
    小さな魚が跳ねて、輪が広がって、消えた。

     きれいだな。

     それだけだった。
    それだけで、足が少し軽くなった。

     幸子は立ち止まって、しばらく水面を見ていた。


     幸子は、子供の頃から、動物が好きだった。植物も好きだった。

     庭の隅の鉢植えに、毎朝水をやった。
    近所の犬を見つけると、しゃがみこんで、いつまでも撫でていた。
    誰に頼まれたわけでもなかった。

     ある日、近所に住む、頭の良いことで有名なおばさんが、幸子にこう言った。

     「あなたがどんなに犬を可愛がったって、あなたが病気になった時、その犬は、お豆腐一つ買ってきてくれないのよ」

     幸子は、本当に意味が分からなかった。

     「え」幸子は言った。
    「私が動物を可愛がってるのは、お豆腐を買ってきてほしいからじゃないよ。可愛がりたいから可愛がってる。可愛いから可愛がってる。それだけだよ」

     おばさんは、何か言いかけて、黙った。

     幸子は、そのまま鉢植えに水をやりに行った。

     大人になってから、幸子は時々、あのおばさんのことを思い出す。

     あの人は、頭が良かった。損得で物事を測れば、たいていのことに、正しい答えを出せた。

     だけど、幸子の中にあったものは、損得では測れないものだった。

     可愛がりたいから可愛がる。それだけで、十分だった。
    見返りを期待して何かを大事にするのだとしたら、それはもう、大事にすることとは、別の何かだ。


     小学五年生の時、母とこんな話をした。

     夕飯の支度をしている母の後ろで、幸子は宿題もせずに、ぼんやりとそんなことを考えていた。

     「私が死んだら、世界が終わるんだよ」

     母は手を止めずに、笑った。

     「そんなわけないでしょう。あんたが死んだって、世の中は続くわよ」

     「そりゃそうだよ」幸子は言った。
    「だけど、私が死んだ後も世の中が続いたって、私はもう死んでるんだから、見ることも、聞くことも、知ることもできない。それって、世界が終わるのと同じことでしょう」

     母は振り返って、少しの間、幸子を見ていた。

     何か言いかけて、結局、何も言わなかった。

     夕飯の匂いだけが、台所に満ちていた。

     幸子は、その時のことをよく覚えている。

     何かを言い負かしたかったわけではなかった。ただ、そう思っただけだった。
    自分が知っている世界が、自分にとっての世界のすべてだということ。
    それ以外の場所で何が起きていようと、自分が見ていなければ、知らなければ、それは自分の世界には存在しないのと同じだということ。

     五十六歳になった今、幸子は思う。

     あれは、屁理屈じゃなかった。

     自分が知っている人たちが、笑っているかどうか。
    それが、自分にとっての世界のすべてだということ。

     だとしたら——。

     自分さえ良ければいい、という生き方は、結局、自分の世界を貧しくするだけなのだ。知っている誰かが泣いていれば、それは自分の世界の中で誰かが泣いているということで、自分さえ良ければいいと思っている人間は、自分の周りに、泣いている人間を増やしながら生きていくことになる。

     それは、不幸だ。

     幸子は、ずっとそう思って生きてきた。

     それを証明するみたいに、その晩、電話が鳴った。

     叔母からだった。九十二歳、一人暮らし。

     叔母は七人兄弟で、今生きているのは、叔母と、その妹四人だけだった。兄弟のうち、男の子は二人とも、もう亡くなっていた。

     「もしもし」幸子が出ると、挨拶もそこそこに、叔母は話し始めた。

     亡くなった弟二人への恨み言。父親への恨み言。それから、幸子の母——叔母にとっての妹——への、ちくちくとした皮肉。

     一時間近く、それが続いた。

     幸子は、相槌を打ちながら聞いていた。疲れる、というのは事実だった。それは認めていた。

     叔母は、悪い人ではなかった。ただ、権力とか、お金とか、そういうものを大事にする人だった。誰かに負けることが、何よりも嫌いだった。だから、いつも、誰かより上にいなければならなかった。

     幸子は、電話を切ったあと、しばらく考えた。

     叔母さんは、本当は何が欲しいんだろう。

     答えは、分かっている気がした。

     一緒に笑って暮らしたい。それだけなんじゃないかな。

     寂しいなら、寂しいと言えばいい。助けてほしいなら、助けてと言えばいい。

     でも、叔母にはそれができなかった。
    素直に弱さを見せることは、叔母にとって、負けることと同じだった。
    だから、寂しさを、皮肉と悪口の形でしか、差し出せなかった。

     それは、くだらないことだと、幸子は思った。

     くだらなくて、馬鹿馬鹿しくて——それでも、悲しいことだった。

     一人で、毎日、誰かより上にいようとして。

     一人で、誰とも、笑えないまま。

     幸子は、考えた。

     幸せになるのに、賢さなんていらないはずなのに。

     一緒にいる人たちが笑って暮らせていれば、それで幸せなのでは?

     極めて単純なこと。

     なのに、どうして、これほど難しいんだろう。

     叔母は、賢い人だった。
    損得を測ることに長けていた。誰にも負けないように、ずっと身構えてきた。

     地位。お金。正しさ。負けないこと。

     それは、鎧のようなものだと、幸子は思った。

     無防備なまま、ただ「一緒に笑いたい」と本音を差し出すことは、多分、きっと怖いことなのだろう。
    鎧を脱いだ自分が、誰にも求められなかったら?
    差し出した手を、誰も取らなかったら?

     だから人は、鎧を着る。地位や正しさや賢さで、自分を覆う。

     そうしているうちに、鎧の方が、自分そのものになっていく。

     その下にあった、純粋な望みは、自分にも誰にも見えなくなる。

     叔母自身にも、すでにもう見えていないのかもしれない。

     幸子は、自分が、その鎧の存在に気づいていなかったことに、今、気づいた。

     多分、会社で、何か言われ続けているのも、それと関係があるのだろう。

     無防備でいることは、損なことなの?

     それでも。


     会社で、また何か言われた日だった。

     幸子は、定時で帰った。誰にも何も言わずに。

     電車を一本乗り過ごして、海の見える駅で降りた。

     堤防に座って、海を見た。

     夕暮れの海は、橙色と、藍色が混ざり合っていた。
    波が一つ来るたびに、光の粒が散った。

     遠くで、何か跳ねた。イルカではなかった。何かもっと小さな、名前を知らない生き物だった。

     なんて、きれいなんだろう。

     幸子は、声に出さずに、そう思った。

     涙が出た。悲しいからではなかった。
    理由は、自分でもよく分からなかった。
    ただ、きれいだった。それだけのことに、涙が出た。

     幸子は、十八歳の時に書いた小説のことを思い出した。

     何作か書いた。どれも、つまらなかった。
    今ならわかる。
    あの頃の自分は、自分を格好良く見せようとしていた。
    登場人物の誰もが、幸子自身の、見せたい部分だけでできていた。

     それは、小説ではなかった。

     あの頃の自分は、まだ分かっていなかったのだと思う。

     書きたかったのは、格好のいい、私や誰かの話ではなかった。

     この海の、この光の粒の、この一瞬の美しさを、誰かに渡すことだったのだ。

     言葉にできなくて、ずっと持て余していたものが、今、ようやく形になりかけている気がした。


     幸子は、堤防の上で、小さく鼻歌を歌った。

     子供の頃、よく歌っていた歌だった。
    なぜその歌だったのか、もう分からない。
    ただ、口が勝手にその旋律をなぞった。

     誰のためでもなかった。

     ただ、知っている世界に、もう一つ、笑っている瞬間が増えたらいい。それだけだった。

     世の中は、相変わらずだった。

     自分さえ良ければいいと思っている人間たちが、力を持って、いい思いをしている。
    幸子一人が何を思ったところで、その構造が今日明日に変わるわけではないことも、分かっていた。

     それでも。

     幸子の知っている世界には、今、海があって、光があって、名前を知らない生き物が跳ねていて、幸子は鼻歌を歌っている。

     それで、いいのだと思った。

     大きな世界は変えられなくても、自分が知っている世界の中で、誰かが笑っている瞬間を、一つでも増やすこと。

     それが、幸子の仕事だった。

     お金にはならない仕事だった。

     誰にも頼まれていない仕事だった。

     お豆腐は、買ってきてくれないかもしれない。

     それでも、いいのだと幸子は思った。
    可愛がりたいから可愛がる。
    きれいだと思うから、きれいだと思う。
    それだけで、十分だった。
    子供の頃から、ずっとそうだった。

     幸子は、その仕事を続けるつもりだ。

     鎧は、着ない。

     海は、まだ橙色と藍色のままだった。

     光の粒が、もう一度、跳ねた。

    了

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