メインコンテンツへスキップ
見出し画像

遊びは、いつ仕事になったのか 第十九回

    第十九回 どうしたいの

    あの人と夫婦になれる人

    三河社長には、奥さんがいた。

    この奥さんに、私は、本当に世話になった。事あるごとに、声をかけてくれる人だった。ケイ、大丈夫? ケイ、ご飯食べて帰りな。ケイ、気にしなくていいよ。あの、豪放で、恐ろしくて、スパチュラを投げるような社長と、夫婦になれる人なのだ。それだけで、どれほど懐の深い人か、分かってもらえると思う。

    三河社長の工場兼自宅で仕事のときは、飯から何から、この奥さんの世話になった。厨房での日々が、恐怖でひりついていたぶん、私は、この人の温かさに、ずいぶん救われていたのだと思う。


    おすましの雑煮

    正月に、初めて、東京の雑煮を食べさせてもらったことがある。

    一口すすって、私は驚いた。え、おすましなの、と。

    私の家の雑煮は、白味噌だ。とろりと甘い汁に、鰹節をかけて食べる。それが、私の知っている雑煮の、すべてだった。それが、東京では、澄まし汁なのだ。同じ「雑煮」という名前なのに、まるで違う。ちょっとした、けれど確かな衝撃だった。

    いま思えば、あの一杯の雑煮は、私が、故郷から遠く離れた場所にいるという事実と、それでも、この奥さんの食卓に、ちゃんと迎え入れてもらっているという温もりとを、同時に教えてくれていた。


    どうしたいの

    やがて、壊れかけた心が、とうとう、耐えられなくなった。

    私は、社長の家へ、辞めると言いに行った。怒られてもいい。何を言われても、もう無理だ。そう覚悟を決めて、行った。

    ところが、社長は、いなかった。かわりに出てきたのが、あの奥さんだった。

    そして、奥さんは、私に、こう問うた。

    ケイは、どうしたいの。

    責めるでもなく、諭すでもなく、ただ、そう問われた。その瞬間、私は、はっと気づいた。ああ、私は、京都に帰りたかったんだ、と。

    流されるままに東京へ来て、流されるままに二年、働いてきた。自分の意志など、どこにもなかった。その私が、生まれて初めて、自分の望みを、自分の口にした。京都に帰りたいです、と。

    奥さんは、言った。わかった、社長には私から言っておくから。ケイ、気をつけて帰りな、と。

    このときの、ケイは、どうしたいの、という問いは、その後の私の人生で、事あるごとに、奥さんの声となって、私に語りかけてくるようになる。何かに迷うたび、流されそうになるたび、あの人の声が聞こえる。ケイ、あんたは、どうしたいの、と。


    冬の東名を、夜通し

    私は、荷物も何も持たず、そのまま、あの四百ccのバイクにまたがった。

    そして、冬の夜の東名高速を、京都へ向かって、走り出した。

    暗く、寒い高速道路を、ネイキッドのバイクで、普通の服のまま走る。あれがどういうことか、経験のある人なら分かってもらえると思う。怖すぎる。危険だ。やるものではない。寝ずに、五百キロ。深夜のトラックの脇をすり抜けるたび、その巨体に、風で吸い込まれそうになる。実際に、風圧で持っていかれかける。タンクにへばりつくようにしていなければ、すぐにまいってしまう。手袋をしていても、手の感覚など、あっという間に消えていく。集中を切らせば、即、事故だ。いま思えば、正気の沙汰ではない。二度と、やりたくない。次に帰るときは、迷わず新幹線にする。

    けれど、あのときの私は、そうするしかなかった。

    芦ノ湖へ走ったときは、ただ、エンジンの熱に手をかざして、かろうじて生きている自分を確かめるだけだった。行き先などなかった。けれど、いまは違う。同じ寒さ、同じバイクで、私は、帰る場所へ向かって、全身で走っている。流されてばかりだった男が、生まれて初めて、命を賭けて、自分の意志を貫こうとしていた。


    ああ、帰ってきた

    京都に着いたのは、もう、すっかり明るい時間だった。

    疲労困憊で、名神の南インターを出る。そして、街の景色が目に入った、その瞬間だった。

    言いしれぬ安心感と、解放された心の、清々しさが、全身に満ちた。ああ、帰ってきた。そう、心の底から、慰撫された。

    三方を、山に守られた、あの境界の内側。無意識のどこかにずっと潜んでいた、あの安心の場所へ、私は、帰ってきたのだ。芦ノ湖で、エンジンの熱にすがることでしか得られなかった慰撫が、京都の街を見た、たったそれだけで、まるごと満たされていく。私は、二十歳になっていた。

    あの東京での二年で、私は、いろいろなものを手に入れた。仕事のいろはも、遊びのいろはも、量が目を作るということも。そして、ケイ、どうしたいの、という、一生ものの問いも。けれど、それと引き換えのように、私は、心を一度、壊しかけた。

    だからだろう。あの経験から、私は、こう思うようになった。自分に、正直になろう。正直になれないような恋愛は、もう二度としない。だって、あんなに辛いのだから。

    こうして、私の東京は終わり、京都での日々が、また始まる。


    (第二十回へ続く)


     
     
    続ける人の読書室、ケイです。 中小企業や個人事業の 「創業」よりも「継続」を取材して 物語を書いています。 派手な成功談も、 役に立つノウハウもありません。 それでも続けてきた人へ。 有料マガジン「マンスリーベストワン」毎月更新中 企業の創業ストーリー執筆も承ります DM歓迎

    あなたへのおすすめ