
『追跡者の影』 バーテンダー入船源三 《第18夜》
任侠バーテンダー 入船源三
今回は中編小説への挑戦です。
モクテルの香り
人の噂も七十五日というが、ネットニュースの寿命はもっと短い。
明るい話題なら、よほど世間を騒がせない限り、三日も持たない。悪いニュースの方も、続報がなく、一週間もすれば、人は次の事件へ目を向ける。
忘れることは、人間が生きるために授かった才能なのだろう。
だが、それにしても最近のニュースは、胸くそ悪くなるものが多すぎる。
若い頃、私が出入りしていた事務所では、毎朝、全国紙が何紙も届けられた。世間の動きを知るのも仕事のうちだったから、新聞を読む癖が身についた。今では、その役目をスマートフォンが担っている。
この日、目に留まったのは二つの記事だった。
一つは、独身と偽って女性に近づき、交際だけでなく不妊治療まで受けさせ、子どもまで授かった末に、既婚者だったことが発覚して訴えられた男のニュース。
もう一つは、若い女性が命を落としたストーカー殺人事件だった。
どちらも、男という生き物の情けなさを煮詰めたような話だ。
「愛している」
そんな言葉ほど、使い方を間違えると醜くなるものはない。
🍸
ため息をつきながら記事を閉じ、店の表の看板を「OPEN」に掛け替えに出た。その時だった。
一人の女性が、早足でこちらへ向かってくる。
二十代後半くらいだろうか。
肩越しに時々後ろを振り返りながら歩いていた。
目が合った瞬間、彼女は安堵したように言った。
「すみません。お店、開いていますか?」
「ええ。いま開けたばかりですが、どうぞ。」
ドアを開けると、彼女は礼を言って中へ入った。
席は入口に近い、カウンターの一番端を選んだ。
誰かを待っている席ではない。
逃げ道を確保する席だった。
バーに一人で来慣れている客ではないことは、その雰囲気で分かった。
「お酒でない方がよろしければ、ソフトドリンクもございます」
「実は……お酒、あまり飲めなくて」
「でしたら、今日はモクテルなどいかがでしょう」
「モクテル?」
「ノンアルコールカクテルです。今日はいいミントが入りました。モヒートがおすすめですよ」
彼女は少し考え、小さく頷いた。
「それ、お願いします」
私はトールタンブラーへミントの葉を入れ、軽く押し潰しはじめた。
青い香りが静かに立ち上る。
店の空気が、初夏の風を吸い込んだように変わる。
ブラウンシュガーを加え、搾っておいたライムジュースを注ぐ。
ライムを直接潰す作り方もあるが、余計な苦味が出る。
モヒートは爽やかさが命だ。
氷を入れ、静かに混ぜる。
ソーダを注ぎ、最後にレモンピールをひと搾り。
ストローを添えて差し出した。
「モクテルのモヒート。ノンアルコールです」
彼女は一口飲むと、表情が変わった。
「わぁ……」
「お気に召しましたか」
「すごく美味しいです。それに、香りが……」
ようやく笑顔が浮かんだ。
だが、その笑顔は長く続かなかった。
ドアベルが鳴るたび、肩が小さく震える。
入ってきた客の顔を確認するまで、息を止めているようだった。
その日の客は、常連ばかりだったが、皆、長居せずに勘定に入った。
店内に、彼女だけが残った頃合いをみて、グラスを磨きながら尋ねた。
「どなたか、お待ちですか」
「え?」
「何度か入口を気にしていたので」
彼女は首を横に振る。
「違います」
それきり黙ってしまった。
ストローを持つ指先が震えている。
「実は……」
暫く続いた沈黙のあと、小さな声で言った。
「誰かにつけられている気がするんです」
私は頷いた。
「それで、うちへ?」
「はい……」
「よければ、お話を聞かせてください」
ストーカーの影
彼女は中山美咲と名乗った。
携帯電話ショップ勤務。
半年前、一人の男性客から好意を寄せられた。
最初は花束。
次は高級チョコレート。
ブランド物のハンカチ。
すべて断った。
すると今度は、毎週のように来店するようになった。
担当を指名する。
仕事が終わる時間を待つ。
休日を探る。
店長が注意すると、店へは来なくなった。
だが、終わったわけではなかった。
「見られている気がするんです」
「どんなふうに、ですか?」
「帰る途中で、駅で見かけたり……。SNSも全部見られているみたいで……」
「警察には?」
「相談しました。でも、まだ事件になっていないので、せいぜい警告しかできないって……」
勘違いしている男ほど厄介なものはない。
断られた事実は認めない。
相手にも本当は気持ちがあるのだと、自分に都合のいい物語を作る。
そして、その物語では、主人公にされた相手だけが苦しむ。
その夜は、常連客が入ってきた。
美咲は、その姿を見てようやく肩の力を抜いた。
店を出る頃には、少しだけ笑えるようになっていた。
だが、それは始まりに過ぎなかった。
🍸
一週間後。
美咲は再び店へ現れた。
前よりも顔色が悪い。
「実家へ一泊して帰ってきたんです。そしたらこれが…」
バッグから郵便物の束を取り出した。
「郵便物ですね。何か盗られたとか?」
「違うんです」
美咲は首を激しく振る。
「いつもこんなにきれいには、入っていません」
チラシも封筒も、一枚一枚向きまで揃っていた。
「誰かが抜き出して、全部見たんです」
店内の空気が冷えた。
「住所を知られたわけですね」
美咲は黙って頷いた。
「知り合いに警察官がいます。相談してみませんか?」
「お願いできますか?」
「まあ、とりあえず座ってください」
電話を入れると、一時間ほどで私服の男が現れた。非番だったからか、すぐに来てくれたらしい。
「源さんから呼びだしとは珍しい。まあ、どうせ非番で、外に飲みに行くところだったから、タイミングが良かった」
地域防犯課の岸田だった。
「いつものハイボールで、いいですか?」
ハイボールを一杯飲みながら、美咲の話を最後まで聞いた。
「残念ですが、現状では警察も動きにくい」
岸田は苦い顔をした。
「ただし、相手を知ることは大事です」
「名刺ならあります。電話番号もわかっています」
「それで十分です」と、メモを取った。
帰りがけに、岸田は名刺を出しながら言った。
「何かあればすぐ電話してください」
会計を済ませると笑った。
「源さん、店からの奢りってのは無しか?」
「買収になりますからね」
二人で笑ったが、美咲だけは笑えなかった。
警察は、まだ、当てにはできない。
だが、ヒントをくれた。
昔、世話になった探偵へ電話を入れた。
「頼みたいことがあるんだが…」
美咲の顔を見ながら、依頼をした。
🍸
1週間後。
封筒を持って探偵が現れた。
「面倒をかけたかな?」
「いや、情報が多かったから、片手間仕事だった」
「恩にきる。ありがとう」
「よせやい。これと、美味い酒一杯でチャラさ」と封筒を差し出した。
中には数枚の写真。
休日の公園だった。
滑り台で遊ぶ幼い女の子。
笑顔で見守る女性。
その隣に立つ男。
美咲を追い回している男だった。
「既婚者だったのか」
探偵は煙草に火をつけた。
「娘さんは幼稚園」
「会社は一部上場企業」
「営業部課長で…」
「次の部長候補らしい」
写真を手に取り、見つめた。
「家族があるのにな…なんで」
「だから厄介なんだ」
探偵は吐き捨てるようにに言う。
「失うものが多い人間ほど、なぜか自分だけは大丈夫だと思う」
後日、岸田からも連絡が入った。
「正式な警告が出せると思う。あとは、美咲さんからの訴えを受理するだけだ」と。
剥がれ堕ちる仮面
数日後。
美咲が常連客と話しながら、モクテルを飲んでいる。
ストーカー行為は止まったように思えた。
ドアが開き、ひとりの男が店へ現れた。
「こんばんは」
礼儀正しく頭を下げる。
スーツも靴も一流。
誰が見ても、仕事のできるエリートビジネスマンだ。
美咲だけが青ざめる。
店の空気が凍った。
男は美咲を見て笑った。
「やっと見つけた。ここが美咲さんのお気に入りのバーなんだね」と見回す。
ねっとりとした空気が店の中に張り付く。
美咲は無言だった。
「一緒に飲ませてもらおうかな。美咲ちゃん、いいよね?」と美咲の隣りに座ろうとした。
「申し訳ありません」カウンターを拭きながら言った。
「当店では、お客様が嫌がる行為をされる方には入店をお断りしております」
男は驚いた顔をした。
「誤解ですよ。僕たちはとてもいい関係なんですよ。ねえ?」と同意を求める。
「…」
美咲は黙っていた。
「美咲さんを好きなんです…そう、愛している」
「ご本人が否定している時点で、それは愛ではありませんよ」
男の表情が急に歪む。
「彼女は事情があって……。気持ちを素直に言えないだけなんですよ」
「違います!」
美咲が絞り出すように言った。
「事情があるのは…」
低い声で話しかける。
男の目に怯えが見えた。
「あなたの方じゃありませんかね?」
男の表情が止まった。
「奥様はお元気ですか」
沈黙。
「幼稚園のお嬢さんは?」
男の顔から血の気が引いた。
「……なぜ?」
「個人情報を勝手に探られるのって、気持ち悪いことですよね」
畳みかけると、男の表情に怒りが現れてきた。
「営業部長への昇進の話もあるそうですね」
男は何も言えなかった。
「このまま警察が動けば、会社も知ることになるでしょう」
男の反応を確かめながら、間をあけてから言った
「奥様も…。きっと、お嬢さんも傷つきますよね?」
男は震える声で言った。
「でも……私は美咲さんん……愛してるんだ」
「あなたが愛しているのは、彼女ではありませんね」と、静かに言った。
「あなた愛してるのは、ご自身が作り出した世界です。だが、事が公になれば…。あなたの現実の世界のほうが、壊されるかもしれませんよ」
男は青ざめて俯いた。
それ以上、一言も口を開かなかった。
🍸
数週間後、美咲は友人と店へやって来た。
男は、彼女の前から消えた。
初めて来た日の怯えた表情は、もうない。
「マスター。モヒートを二つお願いします」
頷く。
平穏な毎日を取り戻せたようだ。
「今日も、いいミントが入ってますよ」
タンブラーに葉を落とす。
「人生も、この葉っぱと同じです。」
2杯分のミントを潰しながら言った。
「そのまま噛めばただの苦い葉っぱですが…」と語りかける。
「でも、砂糖とライム、それに炭酸を合わせると、人を笑顔にするドリンクになります…でしょ!」と美咲が明るく言う。
「ありがとうございます」
飲み干してから、改まったように美咲が言った。
「私は何も…。立ち向かう勇気を持ったのは、あなた自身ですよ」
美咲は頷く。
カクテルを一杯ずつ呑んで、二人は笑顔で店を出て行った。
ドアベルが鳴る。
もう、その音に肩を震わせることはないだろう。
私は空になったグラスを磨き、小さく息をついた。
店という場所は、酒を飲むためだけにあるのではない。傷ついた誰かが羽を休め、もう一度前を向くためにある場所でもある。
扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
「お好きな席へどうぞ」