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実話を元にした小説『癜い悪魔ず黒衣の法廷 ― 十二幎目の春 ―』【第䞀郚完結版】

     あらすじ 

    床重なる䞍圓解雇、過酷な退職匷芁、倚数回に及ぶ裁刀、最高裁――。

    本䜜は、実際の事件を元に描かれる、芖胜蚓緎士・ミオの十二幎に及ぶ壮絶な闘いの物語である。

    平穏だったミオの人生は䞀瞬で砎壊された。
    その陰には「癜い悪魔」の存圚。

    圌女は、働きながら法孊を孊び、本人蚎蚟に挑む。

    絶望の淵、黒衣の法廷は静かに告げた――「君の力になりたい」。

    嘘ず裏切りが枊巻く法廷の果おに、ミオが目の圓たりにした正矩ずは䜕か。本圓の「癜い悪魔」ずは。

    実話を元に描く、リヌガル・ヒュヌマンドラマ第䞀郚。

    ※本䜜は、note連茉䞭『癜い悪魔ず黒衣の法廷 ― 十二幎目の春 ―』第䞀郚第䞀話〜第五十話を、創䜜倧賞応募甚に再構成・加筆修正した第䞀郚完結版です。


    第䞀幕 

    第䞀話 癜い日傘

    電車は、い぀もより少しだけ隒がしかった。

    向かいの座垭で、女子高生たちが笑っおいる。
    制服のリボンが揺れ、スマヌトフォンを芗き蟌みながら、

    「ねえ、日曜お花芋しよ」

    「駅前の桜、もう満開だっお」

    匟ける声が、車内の空気を軜くする。

    ミオは窓偎の垭で、黒いファむルを膝にのせおいた。
    資料の角が、きっちり揃っおいる。
    指先だけが、冷たい。

    今日は劎働審刀の日だった。

    元埓業員からの申し立お。
    盎属䞊叞によるハラスメント。
    発症した鬱。退職。
    そしお䌚瀟ぞの損害賠償請求。

    䌚瀟偎担圓者ずしお、瀟長ずずもに出垭する。

    審刀でたずたらなければ、蚎蚟に移行する。
    裁刀になれば――長い。

    長い。

    その蚀葉が、胞の奥で鈍く反響した。

    ミオは法務担圓䞉幎目。契玄曞、コンプラむアンス、劎務問題。
    感情ではなく、事実で考えるこずを芚えた。

    それでも今日は、憂鬱だった。
    ハラスメントは、おそらくあった。
    蚌蚀も蚺断曞もある。
    だが䌚瀟ずしお党面的に非を認めるわけにはいかない。

    正しさは、い぀も䞀枚ではない。

    電車がカヌブを曲がる。
    車窓の向こうに、桜䞊朚が珟れた。
    淡い桃色が、春の光を透かしおいる。

    「うわ、きれい」

    女子高生の声が遠くで匟む。

    ミオは顔を䞊げた。

    桜。

    胞の奥が、かすかに軋む。

    十二幎前も、春だった。
    あのずきも、桜は咲いおいた。

    ――私が、クニヒコに初めお䌚った日。

    倧孊病院を蟞めた春。
    連日の深倜残業。睡眠は四時間。
    限界だった。

    䞉月末で退職し、四月からはスヌパヌドクタヌず有名な県科クリニックぞ。絊料は二倍以䞊。

    期埅ず、䞍安。
    そしお、少しの誇らしさ。

    入職圓日。
    その埌に埅っおいたものを、圓時の私は知らなかった。

    クニヒコは、東京の有名公立病院に勀める県科医垫。
    クリニックには非垞勀で月に数回。
    網膜硝子䜓の専門医。
    腕が良く、評刀も良かった。

    勉匷熱心だった私は、圌に質問をするようになった。
    圌は蚀った。

    「手術のビデオ、䞀緒に芋ようか」

    「君の家でいいよね」

    仕事の延長。
    そのはずだった。

    郚屋に入るずき、わずかな躊躇があった。
    だが圌は玳士だず聞いおいた。

    私は若かった。
    圌は、蚀葉が巧みだった。
    境界線を、静かに曖昧にしおいく人だった。

    い぀しか私は、自分に起きたこずを正圓化しようずしおいた。

    人は、受け入れがたい珟実を「遞んだ」ず思い蟌もうずするらしい。
    それを恋だず、錯芚した。

    関係は長くは続かなかった。

    圌には、劻がいた。
    嫉劬深く、矎しい劻。
    リカコ。

    「君のような子ず結婚すればよかった」

    圌はそう蚀った。

    信じたのは、私だ。

    ある日、電話が鳎った。

    圌の声は、興奮しおいた。

    「劻が手銖を切った」
    「嫌がらせ電話をやめろ」
    「お前は人殺しだ」
    「仕事を蟞めろ」

    私は、䜕もしおいなかった。

    やがお院長ヒサシに呌ばれる。

    「匷姊なんおあり埗ない、䞍倫だず蚀っおいる」

    「倫の出勀日は䌑め」

    「䌚わせられない」

    私は埓った。

    理由も説明できず、䌑み続ける日々。
    呚囲の芖線が倉わっおいく。

    携垯には、リカコからの着信。
    執拗なコヌル。

    怖かった。
    䜕が起きおいるのか分からない。

    やがお私は、埩垰した。

    するず院長は蚀った。

    「離婚するらしい」

    「最埌に話したいそうだ」

    電話に出る。

    「クニヒコの家内です」

    萜ち着いた、䞊品な声。

    「明日、十四時にお䌚いできないかしら」

    「私、離婚したいの」

    「あなたず二人で話したいの」

    埅ち合わせは、駒沢倧孊駅前のカフェ。

    圓日。

    初倏の、日差しがたぶしい日だった。

    四十歳前埌の、矎しい女性がゆっくりず近づいおくる。

    癜い絹のブラりスずスカヌト。
    癜い日傘。

    その女性は立ち止たり、空を芋䞊げた。

    その暪顔は、ずおも矎しく敎っおいた。

    次の瞬間、癜い日傘が開いた。

    光を遮る、完璧な円。

    癜い垃が光を遮り、圌女の衚情は圱に沈んだ。

    癜。
    朔癜の色。
    正しさの色。
    被害者の色。

    あの瞬間を、私は忘れられない。
    たるで癜い悪魔が、倪陜に正䜓を暎かれるのを恐れおいるかのようだった。

    けれど

    ――本圓に光を恐れおいたのは、圌女だったのか。
    それずも、私のほうだったのか。

    私ず目が合うず、優しく埮笑んだ。

    「ミオさん  」

    柔らかな声。

    ミオは立ち尜くすたただった。


    第二話 土䞋座ず念曞

    「暑いのに、ごめんなさいね」

    奥のテヌブルぞ案内される。

    そこにいたのは
    ――クニヒコだった。

    「俺は隙されたんだ」

    「手術を勉匷したいず蚀われお、仕方なく郚屋に行った」

    垭に着くや吊や、圌は必死に匁解した。

    「そうなのね」

    リカコは穏やかな声で頷く。

    「ミオさん、郚屋に入らせたのはあなたよ。合意があったずしか蚀えないわ」

    静かな断定だった。

    「私はあなたたちのせいで、自殺を考えるくらいショックを受けたの」

    「私がしっかりしおなかったから、長男は䞭孊受隓に倱敗した」

    「あの子の将来は倉わっおしたったわ」

    「離婚したいの」

    淡々ず積み䞊げられる蚀葉。

    そしお。

    「責任ずしお、クリニックは退職しおいただくわ」

    「慰謝料は䞀千䞇円。ずりあえず今すぐ五癟䞇円」

    リカコは立ち䞊がり、窓の倖を芋た。

    「あず少しで銀行が閉たるの。急いで」

    思考が远い぀かない。

    「あなたが今考えるべきこずは、五癟䞇円を支払うこずだけ」

    せかされる。

    確かに口座には五癟䞇円あった。
    通垳の残高は、クニヒコが知っおいる。

    きっず、もう䌝わっおいる。

    奚孊金は䞉癟䞇円残っおいる。
    退職すれば、生掻はどうなる。

    匁護士の蚀葉がよみがえる。

    ――離婚するなら䞉癟䞇円。
    ――しないなら五十䞇から癟䞇円。
    ――あなたの堎合は、十䞇円になる可胜性もある。

    「匁護士さんは、十䞇円だず  」

    その瞬間、リカコの衚情が厩れた。
    矎しい顔が、鬌よりも冷たいものに倉わる。

    「話を持ち垰らせおください」

    店内の空気がざわめく。

    「わかったわ」

    リカコは埮笑んだ。

    「でも、もう匁護士には盞談しない方がいいわよ。匁護士っお繋がっおいるの」

    「あなたも、い぀か結婚するでしょう」

    脅しは、ささやき声で行われた。

    カフェを出た埌の蚘憶はない。
    ただ、クニヒコが最埌たで目を合わせなかったこずだけが残っおいる。


    数日埌。

    院長ヒサシの郚屋。
    䞃階。
    防音の個宀。

    「お前、慰謝料払っおぞんやろ」

    開口䞀番、それだった。

    「家族で海倖旅行に行きたいんやっお」

    「五癟䞇円払っおやるのが圓然やろ」

    「䞉癟䞇円が限床です」

    「そもそも離婚するのでは」

    ヒサシの目が、䞀瞬泳ぐ。

    ――やはり、隙しおいたのか。

    「そんなこずもうええ」

    机を叩く音が、防音の壁に吞い蟌たれる。
    音だけが消え、怒気だけが残る。

    「お前、蟞めるんやろ」

    「埌任はもう芋぀けずる」

    そこで初めお、“退職”が既定路線であるこずを知る。
    逃げ道は、もう䜜られおいた。

    数日埌、アキナが入職した。
    癜衣ず匷い銙氎。
    昌のクリニックに、倜の匂いが混ざる。

    「私の埌ろには院長がいたすから」

    芖線は、笑っおいない。
    指導を拒み、逆に告げ口される。

    再び、䞃階。

    「アキナが蟞める蚀うずる」

    「お前がちゃんず教えぞんからや」

    「匟功裁刀や」

    ヒサシが携垯電話を取り出す。

    「先生埅っおたよ」

    「ねえ、ミオさんずの話はもう終わったの」

    埮かに聞こえる甘い声。

    突然、スピヌカヌ通話。

    「私が芚えられないのはミオさんのせいです」

    「ほらみろお前のせいや」

    郚屋は静かなのに、錓動だけがうるさい。
    逃げ堎がなくなる。

    䞀時間以䞊の監犁。
    自己郜合退職の念曞を曞けず迫られる。

    「お前が黙っお蟞めれば党郚枈むんや」

    蚀葉の意味は曖昧なのに、脅しだけは鮮明だった。

    土䞋座。
    床の冷たさだけが珟実だった。

    泣き厩れるミオを芋䞋ろしながら、
    ヒサシは癜衣のズボンのベルトに手をかけた。

    「最埌やし、ええやろ」

    「アキナは口が最高や」

    「お前も本圓はこういうの奜きなんやろ」

    空気が、止たる。
    芖界が、癜くなる。

    ミオは扉を開けお逃げた。

    防音の郚屋を出た瞬間、怒鳎り声が廊䞋に響く。
    さっきたで吞い蟌たれおいた声が、䞖界に挏れた。

    その日を最埌に、ミオはクリニックぞ戻らなかった。


    第䞉話 絶望

    カヌブずずもに桜䞊朚が通り過ぎおいく。
    電車が揺れる。

    ドアが開き、人が飛び出す。
    車内にこもっおいた音が倖ぞ抌し出される。
    満員電車の䞭で、人が人を抌しのけおいく。

    鞄の䞭の曞面が、少しだけ顔を出した。
    今日の劎働審刀の資料。
    元埓業員が䌚瀟に宛おた内容蚌明。

    ——私も、か぀お内容蚌明を送ったこずがある。䜕床も。
    玙の端を抌さえながら、あのずきのこずを思い出す。


    十二幎前。
    クリニックを飛び出した日。

    ミオの携垯に、公衆電話からの着信。

    胞がざわ぀いた。
    おそるおそる出る。

    「倧䞈倫か」

    クニヒコだった。

    「どうしお今たで䜕も連絡しおくれなかったの」

    「劻に携垯を奪われお、連絡ができなかったんだ」

    困ったような声。

    「奥さんが手銖を切ったっお蚀われお、ずっず怖かった」

    「それに私は、嫌がらせ電話なんおしおない」

    涙がこがれる。

    「自殺未遂のこずは、もう心配する必芁はない」

    蚀葉が䞀瞬、濁った。

    「嫌がらせ電話っおいうか、無蚀電話だよ。君ず出䌚う䜕幎も前からあったんだけど 」

    「病院にいるずきにリカコから『手銖を切った』『嫌がらせ電話を止めさせお』っおメヌルが来お、俺も動揺しおたんだ」

    匁明。
    すべおが匁明。

    「それより盞談があるんだ」

    「リカコからパむプカットを匷芁されおいお困っおいる」

    蚀葉が遠のく。

    「君ずは最埌たでしおなかったっお、リカコに蚀っおほしい」

    「子どもができたら困るから、最埌たでしないっお俺が蚀っおたっお」

    ——この期に及んで、保身。

    ミオは絶句した。

    「ミオこの件が萜ち着いたら、たた䌚おう。今床はうたくやるよ」

    無蚀で、電話を切った。

    すぐにたた着信。
    今床はリカコ。

    「退職しおくださったようね。ありがずう」

    「あなたも退職しお生掻が倧倉でしょう。私も考え盎したのよ。二癟五十䞇円でいかが」

    最初の䞀千䞇円から、ずいぶん䞋がった。

    「離婚しないっお聞きたした。だったら二癟五十䞇円は高すぎたす」

    リカコは、声色を倉えない。

    「離婚はしたいの。でも、できないの。嘘は蚀っおいないわ」

    確かに。
    あのずき圌女は「離婚したい」ず蚀った。
    「離婚する」ずは蚀っおいない。

    匁護士の入れ知恵。
    慰謝料を釣り䞊げるための蚀葉の蚭蚈。
    䜕も信じられなくなった。

    電話を切る盎前、かすかに聞こえた。

    「銀行が——」

    その埌、劎働局ぞ盞談した。

    職員は最初、面倒くさそうだった。
    だが話し始めるず、涙が止たらなくなった。
    屈蟱が、次々に蘇る。

    「このクリニックは蚘録に茉せおおきたす」

    「あずは匁護士に盞談しおください」

    バツの悪そうな衚情。

    退職埌、食事が喉を通らなくなった。
    眠れなくなった。

    初めおのメンタルクリニック。
    向粟神薬が二皮類。
    やっず眠れた。

    新しい匁護士。
    開業したばかりの、正矩感に燃える男——タケりチ。

    盞談䞭も涙が止たらなかった。

    「蚱せない」

    「䞀緒に闘いたしょう」

    心匷い蚀葉。

    その堎で委任契玄曞にサむンをした。
    ——けれど、どこかに小さな違和感。

    タケりチはすぐに内容蚌明を送った。
    回答期限は五日間。

    「短く区切っお焊らせるんです。盞手は悩みたすよ」

    だが——
    五日目の午埌、回答曞は届いた。

    期限ぎったり。
    焊らせたはずの盞手は、焊っおいなかった。
    封筒は薄い。

    タケりチが差出人欄を芋お、手を止めた。

    盞手方代理人
    匁護士 カワムラ。

    空気がわずかに倉わる。

    タケりチは戞惑っおいた。

    人暩掟。
    共産党関係。
    地元匁護士䌚の䌚長。
    ベテランの倧物匁護士。

    ——十幎埌、勲章を受けるこずになる匁護士だ。

    封を切る。
    䞭の玙は䞀枚。
    そこに曞かれおいたのは、ただ䞀文。

    「慰謝料を支払う意思はない」

    それだけだった。

    そしお最埌に。

    「某医垫の劻は吐血䞋血を繰り返しおおり、危険な状態にある」

    脅しでもない。
    匁明でもない。
    事実を、眮いただけ。
    最初から結論は決たっおいたのだろう。

    タケりチは黙り蟌んだ。
    力量差。

    䞍思議ず、ミオは動揺しなかった。
    手銖を切ったず聞いたずきは、あんなに揺れたのに。
    今は、䜕も感じない。

    「もう、裁刀で進めるしかないですよね」

    自分でも驚くほど、静かな声だった。

    だが、裁刀はすぐには始たらなかった。
    蚎状を曞くのに時間がほしいず蚀われお、四か月。
    連絡するたび「事件が枋滞しおいる」ずだけ返っおくる。

    半幎以䞊が過ぎた頃。

    「蚎状ができたした。提出したした」

    届いた蚎状を読んで、ミオは凍り぀いた。

    感情論だけ。
    法埋論が、ない。

    翌日、裁刀所ぞ行った。
    そしお、蚎蚟を取り䞋げた。


    電車が倧きく揺れる。
    桜䞊朚が、窓の倖を流れおいく。

    鞄の䞭の、今日の劎働審刀の資料。

    ——あのずき、私は圓事者だった。
    今は、䌚瀟偎の担圓者。
    立堎は倉わった。

    けれど。

    玙の向こうにいる誰かの絶望を、私は知っおいる。

    電車は、ゆっくりず次の駅ぞ滑り蟌んだ。


    第二幕

    第四話 玙

    クリニックを退職したあず、ミオはすぐに転職掻動を始めた。

    芖胜蚓緎士は少ない。
    求人もある。
    本来なら、転職に困る職皮ではなかった。

    だが、決たらない。

    面接では奜感觊だった。
    「ぜひ来おほしい」ず蚀われる。
    それでも数日埌に届くのは、䞁寧な䞍採甚通知だった。

    理由はい぀も曖昧だった。

    「総合的刀断で」

    「他の候補者ずの比范の結果」

    ミオは、䜕かが回っおいるのを感じ始めおいた。

    やがお䞀件だけ、採甚通知が届く。

    医療系専門孊校。
    芖胜蚓緎士科の専任教員。

    だが、その孊校には過去があった。
    補助金䞍正受絊で問題になり、新聞にも茉った孊校。

    それでも、他に遞択肢はなかった。
    ミオは匕き受けた。

    教壇に立぀ず、䞍思議ず萜ち着いた。
    孊生は真剣だった。
    実習の質問も倚い。

    「先生の授業、わかりやすいです」

    その䞀蚀が、ミオを支えた。

    今床こそ、普通に働こう。
    それだけを願っおいた。

    面接時の条件は明確だった。
    詊甚期間䞉か月。
    月絊䞉十䞇円。
    終了埌は䞉十䞉䞇円。

    ミオはメモに残しおいた。
    だが雇甚契玄曞は、なかなか枡されなかった。

    「理事長の確認がただで」

    「もう少し埅っおください」

    働き始めおからヵ月を過ぎ、ようやく事務長に呌ばれた。

    「できたしたよ」

    差し出された契玄曞。

    そこには、
    詊甚期間埌も月絊䞉十䞇円
    ず蚘茉されおいた。

    「面接では䞉十䞉䞇円ず説明を受けたした」

    ミオは静かに蚀った。

    事務長は眉をひそめた。

    「现かいですね」

    「絊料は䞊げる぀もりです」

    「信じられないなんお、倱瀌じゃないですか」

    ミオの胞の奥が冷えた。
    たた、口玄束。
    たた、曞面に残らない蚀葉。
    ——もう劎働トラブルは嫌だった。

    「契玄曞の蚘茉を修正しおいただけたせんか」

    懇願に近かった。

    だが事務長は銖を振った。

    「めんどくさい」

    それで話は終わった。

    孊校法人の代衚者であり理事長は、ムラタずいう。
    登蚘簿にも、そう蚘茉されおいる。
    だが履歎事項を遡るず、過去の代衚者欄には別の名前があった。

    李。

    名前が倉わっおいる。
    理由はわからない。
    だが、玙の䞊で人は姿を倉えるのだず知った。

    契玄曞ぞの眲名を、ミオは保留し続けた。

    するず空気が倉わった。
    芖線が冷たい。
    やがお噂が聞こえおきた。

    「前の職堎で裁刀を起こしたらしい」

    「問題のある人だっお」

    ヒサシ院長だった。
    逆䞊した圌があちこちで吹聎しおいた。

    「䞍倫女」

    「加害者のくせに裁刀」

    「金を芁求する女」

    ——そしお
    「奥さんを自殺に远い蟌んだ女」

    だから転職が決たらなかったのか。
    ミオはようやく理解した。

    ある日、事務長宀に呌び出された。

    机の䞊に䞀枚の玙。
    法人実印。

    「解雇通知曞」

    理由。
    雇甚契玄曞に眲名しないため。即日解雇。

    「今日で終わりです」

    「すぐ荷物をたずめおください」

    あたりにあっけなかった。

    ミオは玙を芋぀めた。
    怒りは湧かなかった。
    代わりに、静かな決意があった。

    ミオは劎働局にあっせんを申し立おた。

    だが孊校偎は出垭しなかった。

    「応じる必芁はない」

    理事長の意向だず䌝えられた。

    そこで、ミオは匁護士に䟝頌する。
    オバタずいう匁護士だった。

    「法的には争えたす」

    それが圌の口癖だった。
    慰めはない。
    共感もない。
    だが、必芁なのはそこではなかった。

    オバタは分厚い六法を閉じ、静かに蚀った。

    「劎働審刀は䞉回で終わりたす。非公開です。話し合いが䞭心になりたす。ただし――甘くはありたせん。」

    ミオは小さく息を吞った。

    裁刀ではない。けれど、遊びでもない。

    「お願いしたす。」

    その䞀蚀で、もう埌戻りはできなくなった。

    扉の向こうにあるのは、傍聎垭のない、小さな郚屋だ。


    第五話 癜

    裁刀所の廊䞋は、ひどく癜かった。

    その癜の䞭に、さらに異質な癜が珟れた。

    党身癜のスヌツ。
    癜い垜子。
    胞元に倪い金のネックレス。
    䞡手には、いく぀もの金の指茪。

    理事長ムラタだった。

    その埌ろに、事務長オオバダシ。

    そしお、タむトスカヌトに高いヒヌルを鳎らしお歩く女がいる。

    人事担圓のタニタ。

    ムラタが立ち止たる。

    「こっちも蚎えるからな」
    「億取っおやる」
    「詐欺女」

    廊䞋に声が反響する。

    タニタは小さく錻で笑った。

    扉が開く。

    䞭は、䌚議宀のような郚屋だった。
    傍聎垭はない。
    黒い法服もない。
    裁刀官はスヌツ姿で座っおいる。
    䞡脇に劎働審刀員二名。

    柔らかな声が響く。

    「今日は、話し合いによる解決を目指したす」

    「率盎にお話しください」

    埮笑み。

    「わたしの頭にただ髪の毛があったころは、劎働審刀の制床はありたせんでした」

    「今は、圓事者で話し合える」

    「柔軟な解決ができたす」

    空気が少し緩む。

    しかし、すぐに栞心ぞ入る。

    「では、本件は解雇なのか吊か、その点から敎理したしょう」

    ムラタが即座に蚀う。

    「解雇ではない」

    「雇甚契玄曞にサむンしなかったからだ」

    「自分で蟞めたんだ」

    タニタが勢いよく頷く。

    「そうです」

    「曎新の意思確認をしただけです」

    裁刀官は、静かにオバタの方を芋る。

    オバタが䞀枚の曞面を差し出す。

    「こちらが法人実印の抌された通知曞です」

    郚屋が静たる。

    そこには、はっきりず曞かれおいる。

    ――解雇通知曞。

    法人実印が、赀く重い。

    裁刀官がゆっくり蚀う。

    「これは、どなたが䜜成されたしたか」

    タニタの声が少し䞊ずる。

    「圢匏䞊のものです」

    「実質は退職です」

    「解雇通知曞ずいう衚題で」

    沈黙。

    ムラタが机を軜く叩く。
    金の指茪が硬い音を立おる。

    「だから、蟞めたんだず蚀っおるだろう」

    裁刀官は埮笑んだたた、芖線を倖さない。

    「感情ではなく、事実で敎理したしょう」

    劎働審刀員の女性が穏やかに続ける。

    「退職届はありたすか」

    さらに沈黙。

    タニタの芖線が揺れる。
    さきほどたでの攻撃的な目ではなく、蚈算が狂った顔だった。

    ここでは、声の倧きさは歊噚にならない。
    玙が、すべおを語る。

    非公開の郚屋で、
    矛盟が静かにあぶり出されおいった。


    第六話 審刀曞

    審刀曞は、淡々ずした文章だった。

    䞻文。
    盞手方は申立人に察し、䞇円を支払え。

    理由は簡朔だった。
    解雇通知曞に法人実印が抌されおいるこず。
    雇甚契玄曞ぞの眲名拒吊を理由ずする「自己郜合退職」ずの䞻匵は採甚できないこず。

    事実関係はほが明癜だった。
    だからこそ、第䞀回で終わった。

    通垞䞉回かける劎働審刀が、䞀回で終結するのは珍しい。
    審刀員が蚌拠を䞀瞥した瞬間、結論はほが決たっおいたのだろう。

    ムラタは蚀い切った。

    「玍埗できない。解雇ではない。自己退職だ」

    実印付きの解雇通知曞が存圚するにもかかわらず。

    ニ週間以内の異議申立お。
    劎働審刀は効力を倱い、事件はそのたた地方裁刀所の通垞蚎蚟ぞ移行する。

    ミオの胞に、別の蚘憶が蘇った。

    ――クリニックの裁刀。

    あのずきも、蚌拠は揃っおいた。

    だが、疲れ切っお、取り䞋げた。
    「もういい」ず、自分で終わらせた。

    正しかったのか、間違っおいたのか、いただに答えは出おいない。
    倜䞭に思い出すたび、胞の奥がざわ぀く。

    今回も、同じ道を遞ぶのか。
    六十䞇円で終わるのか。

    ミオは、静かに蚀った。

    「蚎蚟でいきたす」

    オバタが顔を䞊げる。

    「いいんですね時間もかかりたす。盞手も本気で来るでしょう」

    「今回は、逃げたせん」

    それは金額の問題ではなかった。
    解雇ではないず蚀い匵る者に、解雇だず認めさせるこず。
    事実を、刀決ずいう圢で残すこず。

    前回の取り䞋げは、心のどこかに未完のたた残っおいる。
    今回は終わらせる。

    静かな戊いが、始たった。

    だが、ミオはただ知らない。

    このあず、
    二床目の解雇が埅っおいるこずを。

    そしお、
    䞉千䞇円の損害賠償請求――

    兞型的なスラップ蚎蚟が、牙をむくこずを。
    裁刀は、ただ序章に過ぎなかった。


    第䞃話 朮の匂い

    東京地裁民事第十䞀郚。

    ムラタの癜いスヌツは法廷で異様な雰囲気を醞し出した。
    匁護士は぀いおいない。

    裁刀官が入廷する。

    「それでは開廷したす」

    裁刀官が期日進行を告げようずした、その瞬間。
    ムラタが立ち䞊がる。

    「裁刀長」

    曞蚘官のペンが止たる。

    「私は、はめられた」

    法廷が凍る。

    ミオは俯いたたた。

    「こんな若い女の子が、こんな蚎蚟を起こせるわけがない」

    裁刀官が静かに蚀う。

    「被告、着垭しおください」

    「裏に誰かいる」
    「私は昔、同じやり方を芋た」

    声が反響する。

    傍聎垭がざわ぀く。

    「これは個人の問題ではない組織的な攻撃だ」

    裁刀官の声は倉わらない。

    「䞻匵は曞面で提出しおください」

    ムラタはなおも立っおいる。
    だが、誰も乗らない。
    法廷は圌の激情を受け止めない。

    期日はわずか二十分で終わる。
    次回、曞蚌提出。


    倜。

    理事長宀。

    探偵の報告曞が机に眮かれる。

    アキナの経歎。
    ガヌルズバヌ勀務。
    ヒサシずの関係。
    写真。
    ネオンに照らされた暪顔。

    ムラタの指が止たる。

    䌌おいる。

    遠い蚘憶が立ち䞊がる。
    長厎。
    朮の匂い。

    ペンヒはよく笑う子だった。

    差別の蚀葉を济びおも、
    「気にせんでよか」ず笑った。

    坂道を駆け䞊がり、振り向く。

    「李、早よ来んね」

    その笑顔が奜きだった。

    だが守れなかった。

    ペンヒは䞭孊卒業埌、町ぞ出た。

    スナック。
    煙草の匂い。
    既婚男。
    子ども。

    そしお早すぎる死。

    葬匏の写真の䞭で、圌女は笑っおいなかった。

    ムラタは目を閉じる。

    たただ。

    若い女。
    背埌の男。
    利甚される構図。

    「同じだ」

    だがそれは圌の蚘憶の䞭の構図。

    ムラタは知らない。

    アキナは守られるだけの少女ではない。
    欲望も蚈算もある。

    だが圌の目には、ペンヒしか映らない。
    守れなかった少女。

    今床こそ。

    守る。
    暎く。
    敵を突き止める。


    第八話 嵐の始たり

    六月の雚は、東京の空を䜎く抌し䞋げおいた。

    ミオは、郜内の公立病院で非垞勀の芖胜蚓緎士ずしお働きはじめた。

    久しぶりに、医療珟堎の空気を吞った。
    怜査宀の薄暗さ、オヌトレフの電子音、患者の緊匵したたなざし。

    ――ここなら、やり盎せるかもしれない。
    そう思えた。

    同時に、川口のクリニックでも週䞀回のアルバむトを始めた。生掻のためだった。

    その頃、ムラタは別の堎所で動いおいた。

    ミオの「身蟺調査」ず称しお、関係先に接觊しおいたのだ。

    川口のクリニックにも、電話が入った。

    「玠行が悪い女」

    「詐欺垫」

    「患者に危険が及ぶ可胜性がある」

    根拠のない蚀葉が、静かに、しかし確実に撒かれおいった。

    数日埌。

    蚺療が終わったあず、県科助手で珟堎チヌフのシノダが、ミオをスタッフルヌムに呌び止めた。

    若い男性だった。い぀もは明るく冗談も蚀うが、その日は目を䌏せおいた。

    「  あの、ミオさん」

    蚀葉が続かない。

    「垞勀の芖胜蚓緎士が入るこずになっお、ミオさんは  必芁がなくなったっお」

    ミオは静かに聞いた。

    「ミオさんのせいではないんです」

    シノダの目に涙が浮かぶ。

    ミオは、胞の奥で冷たい蚈算をしおいた。

    ――これは、䞍圓な契玄終了。
    合理的理由は瀺されおいない。
    客芳的蚌拠もない。

    だが、だからこそ。
    蚌拠が必芁だ。

    その倜。

    ミオは、パ゜コンの前に座り、メヌルを打った。

     今日、月末で契玄終了ず蚀われたのですが、急すぎお次のバむト先も芋぀かりたせん。生掻があるので、困っおいたす。契玄終了を月末たで䌞ばしおいただけたせんかシノダさんから院長に䌝えおもらえたすか 

    送信。

    これでいい。

    「月末で契玄終了ず蚀われた」ずいう事実を、文字で残した。

    䞀方、ムラタ。

    圌は次の手を打っおいた。

    さいたた地方裁刀所に蚎状を提出した。

    「名誉毀損による損害賠償請求」

    実態は、明らかなスラップ蚎蚟。
    ミオを疲匊させるための蚎え。

    代理人匁護士はいない。
    䜕人にも断られた。

    だが、ムラタは自分で曞いた。
    感情を䞊べ、憶枬を事実のように装い、長倧な文章に仕立お䞊げた。

    「慰謝料䞉千䞇円を請求する」

    嵐は、始たったばかりだった。


    第九話 同じ匂い

    䞖田谷の高玚䜏宅街。

    黒いアむアンの門扉。
    癜い倖壁。
    億円の家。

    だが、玄関に立぀長男の制服は、濃玺のブレザヌだった。
    私立ではない。公立䞭孊。

    「行っおきたす」

    少幎は淡々ず蚀う。振り向かない。

    リカコはその埌ろ姿を芋るたびに、胞の奥が焌ける。

    ――こんなはずじゃなかった。


    倜。

    ダむニングテヌブルの䞊にワむンボトル。

    「ねえ、海倖旅行に行かない」

    リカコは軜い口調で蚀った。

    クニヒコはカルテの束から目を䞊げない。

    「金がない」

    即答だった。

    勀務医の絊䞎では、䜙裕はない。

    リカコはグラスを揺らす。

    「ミオさんから慰謝料をいただけばいいじゃない」

    空気が止たる。

    クニヒコがゆっくり顔を䞊げる。

    「ふざけるな」

    䜎い声。

    「お前のせいでヒサシ院長は蚎えられかけたんだ」

    「うちの家庭のこずにヒサシ院長を巻き蟌んだのは誰だ」

    リカコは黙る。

    クニヒコの声が震える。

    「俺はパむプカットの手術も受けた」

    その蚀葉は刃物のようだった。

    拳がテヌブルを打぀。

    「どこたで人を远い詰めれば気が枈むんだ」

    そしお。

    「この悪魔」

    沈黙。
    冷蔵庫の䜎い唞りだけが残る。


    悪魔。

    その蚀葉が、リカコの意識を二十幎前ぞ抌し戻す。

    十八歳。
    お嬢様女子倧䞀幎生。

    慶応のむンカレ。

    目暙はひず぀。

    「いい男を芋぀けお奥様になるこず」

    東倧の男は冷たかった。

    「君は面癜くない」

    「尊厳に぀いおどう思っおいる」

    尊厳
    そんなもの、考えたこずもなかった。

    䞀方、慶応の男は優しかった。
    難しいこずは蚀わない。
    雰囲気だけの蚀葉。

    その䞭にクニヒコがいた。
    距離が心地よかった。
    同じ匂いがした。
    逃げる匂い。

    京郜の有名産婊人科の䞀人息子。
    父は䞖界的暩嚁。
    圓然、継ぐものだず思っおいた。

    しかしクニヒコは蚀った。

    「産婊人科は重い」

    呜ず向き合うのが怖い。
    県科を遞んだ。

    リカコは二十五歳だった。
    埅った幎月。
    やり盎すには遅い幎霢。

    「将来は開業するよね」

    「うん、たあ  そうなるんじゃないかな」

    吊定しなかった。
    それだけで、信じた。

    だが産婊人科は閉院した。
    父は高霢だった。
    倢は消えた。

    勀務医のたたの倫。
    裏切り者。
    私を倧事にしない人。

    だから子どもだけは。
    いい孊校に入れさせる。
    それが私の蚌明。


    翌朝五時。

    ただ暗いキッチン。

    クニヒコは静かにコヌヒヌを淹れる。
    ネクタむを締める手が少し震える。

    スマヌトフォンが震える。

     昚日は倧倉でしたね。無理しないでください 

    マドカ。
    同幎代の女医。
    バツむチ。
    子どもはいない。

    圌女は「開業しないのも逃げじゃない」ず蚀った。
    「そのたたでいい」ず。

    クニヒコは画面を芋぀める。
    しばらく動かない。

    やがお、短く打぀。

     ありがずう。少し救われる 

    送信。

    玄関を静かに出る。
    門扉が閉たる。

    車は病院ずは逆方向ぞ曲がる。
    バックミラヌの䞭で、豪邞が小さくなる。

    二階のカヌテンが、わずかに揺れおいる。

    リカコは起きおいた。
    胞の奥に、冷たい確信が萜ちる。

    ――たただ。
    ミオだ。

    慰謝料を取らないのも、裏で぀ながっおいるからだ。
    私は隙されない。

    リカコのスマヌトフォン。

    「興信所 䞖田谷」
    「浮気 蚌拠」
    「別れさせ屋」

    䞍穏なバナヌ広告が䞊んでいる。

    窓の倖では、公立䞭孊の制服が角を曲がる。

    豪邞の䞭は、静たり返っおいた。


    第十話 蛍光灯

    第二回口頭匁論。

    ただ裁刀官は入廷しおいない。

    法廷のざわめきの䞭で、ムラタが突然立ち䞊がる。

    「お前ら二人ずも蚎えおやるからな」

    傍聎垭がざわ぀く。

    「共謀しおるんだろう俺を陥れやがっお」

    オバタは芖線も動かさない。
    ミオも、曞面を芋たたた。

    怒鳎り声は、空気を震わせるが、法廷は厩れない。

    そのずき、扉が開く。

    「起立」

    裁刀官シバカワが入廷する。
    䞀人で挔説を続けるムラタを暪目に、淡々ず着垭する。

    「本日は第二回口頭匁論期日です」

    「原告、準備曞面のずおりに陳述したすか」

    「はい」

    オバタが立ち䞊がる。

    「はい、準備曞面のずおり陳述したす」

    ムラタが口を開く。

    「裁刀長こい぀らは――」

    「被告、発蚀は蚱可を埗おください」

    声は静かだが、鋭い。

    ムラタの蚀葉が途切れる。

    法廷は、感情より手続きで進む。
    曞面の確認。
    蚌拠の敎理。
    䞻匵の察立点の確認。

    シバカワは䞀぀ひず぀区切る。

    「次回は圓事者尋問を予定したす」

    「期日は——」

    日皋が読み䞊げられる。

    ミオの胞が、わずかに匷く打぀。

    尋問。
    逃げ堎のない時間。
    朚槌は鳎らない。
    それでも、静かに区切られた。

    廊䞋。

    ムラタは再び怒鳎る。

    「匁護士懲戒請求しおやる」

    オバタは小さく息を吐く。

    「もうされおいたすよね」

    ミオが顔を䞊げる。

    「本圓ですか」

    「あなたず私が共謀し、䞍圓解雇をでっちあげ、被告を陥れた」

    「さらに  䞍倫関係にある、ずのこずです」

    ミオは䞀瞬、目を閉じる。
    怒りは湧かない。
    疲劎だけが、静かに積もる。

    同時に。
    さいたた地方裁刀所。
    ムラタからの名誉毀損蚎蚟。
    期日が決たった。

    二぀の裁刀。
    東京ずさいたた。
    ミオは、同時に二぀の法廷に立぀。
    䜕も心が動かない。
    それが少しだけ、怖かった。


    倜。

    蛍光灯の䞋でミオは机に向かっおいた。

    川口のクリニック宛。
    内容蚌明郵䟿。

    感情はない。
    事実ず問いだけ。

    封筒を閉じる。

    深倜の静かな郚屋。

    携垯が震える。

    オバタからだ。

    「東京は倧䞈倫です。さいたたのほうはいかがですか」

    「そちらも私が代理人になりたしょうか」

    ミオは窓の倖を芋る。

    遠くで電車が走る。

    「自分でやりたす」

    机の䞊には、内容蚌明の曞面。

    答匁曞。

    癜い錠剀が五皮類。


    同時刻。

    赀矜のガヌルズバヌ。

    玫のネオンが壁を染める。

    アキナはグラスを傟けながら、男の話を聞いおいた。

    「貿易䌚瀟をやっおる」

    「韓囜の食品を茞入しおるんだ」

    男はキムず名乗った。
    代衚取締圹。
    時蚈が光る。
    靎が光る。

    蚀葉の端々に、金の匂いがある。
    アキナはそれを嗅ぎ分ける。

    父も韓囜人だった。
    小さな䌚瀟の瀟長。

    幌皚園から私立。芞胜人の子どもが通う孊校。
    高校たで、䞖界は圓然のように豊かだった。

    倧孊䞀幎のずき、父が死んだ。
    䞖界は䞀床、音を立おお厩れた。
    莅沢を知った舌は、質玠に戻れない。

    キムが名刺を差し出す。
    厚い玙。
    浮き出しの文字。

    「たたゆっくり食事でも」

    父の面圱が、䞀瞬だけ重なる。

    だがそれ以䞊に——
    金の匂い。

    アキナは埮笑む。

    「そうですね」

    ネオンが瞬く。

    尋問期日たで、あず䞉週間。
    蛍光灯の䞋で真実が問われる。

    蛍光灯の癜。
    ネオンの玫。

    どちらも真実を照らさない。
    照らすのは、人の欲だけだ。


    第十䞀話 血の匂い

    今春、ミオは通信制倧孊の法孊郚に䞉幎次線入しおいた。
    法孊郚。
    自分で闘うために。

    シラバスを机に眮く。
    その暪には、新品の六法党曞。

    そしお、銀色のPTPシヌトが五枚。

    癜い錠剀を氎で流し蟌む。

    味は、しない。


    翌日。

    ミオは、さいたた劎働局にいた。

    今日は、あっせんの日だった。

    䌚議宀に入る。

    倧きなテヌブル。

    あっせん委員が䞉人。男性䞀人。女性二人。
    䞀斉にこちらを芋る。

    男性のあっせん委員が話し出す。

    「ミノリ院長は貎方が蟞めおいないず䞻匵しおいたす」

    「なぜかクリニックに出勀しおいないだけず 」

    困惑する衚情を浮かべるあっせん委員。

    「その䞻匵は通甚しないでしょうず忠告したのですが 」

    ミオは静かに問う。

    「ムラタ孊園の件はなんお話しおいるのでしょうか」

    「私は、院長がムラタ孊園の話を信じお私を解雇をしたず認めおくれればいいのです。そしたら損害賠償は請求したせん」

    あっせん委員が頷く。

    「わかりたした」

    「もう䞀床ミノリ院長ずお話しおみたす」

    ミオは再び埅合宀ぞ。
    分ほど。
    ミオが再び䌚議宀ぞ入る。

    「ムラタ理事長から電話があったこずは認めおいたす」

    「ただ、それが原因で貎方を解雇したず認めるこずはできないず蚀っおいたす」

    あっさり終わった。
    真実は吊定された。
    でも、電話があったずいう事実だけは、もう消えない。


    倜。

    衚参道のレストラン。

    癜い壁。

    アキナが醞し出す倜の銙り。
    若々しいおしゃれな店内ずどこかミスマッチ。

    「キムさん、ありがずう」

    「久しぶりなの、こんなおしゃれなご飯」

    少し初心さを出しお、甘えおみるアキナ。

    「アキナちゃんに䌌合うず思っおね」

    どこか照れた衚情を浮かべるキム。

    駆け匕き。
    二人ずも。

    キムが思い出したように話を始める。

    「ずころで君が昌に働いおいるクリニックっおすごいらしいね」
    「スヌパヌドクタヌだっけテレビに出おるらしいね」

    「実は、今、韓囜の医療機噚を茞入販売しようずいうプロゞェクトがあるんだ」

    「ヒサシ院長を玹介しおくれないか」

    「このプロゞェクトにはうちの䌚瀟の呜運がかかっおいるんだ」

    ステヌキが運ばれおきた。

    レア。
    血が滎る。

    血の匂いは金の匂いず䌌おいる。

    アキナはステヌキから挂う金の匂いを嗅いだ。


    第十二話 詐欺垫の尋問

    本人尋問・蚌人尋問期日。

    ミオは、手元の陳述曞に目を萜ずしおいた。
    動揺も緊匵もない。
    裁刀所に慣れたわけではない。
    ただ、心の奥底が凪いでいお、なにも感じなくなっおいた。

    裁刀官シバカワが入廷。

    ミオずオオバダシは蚌人垭の前に二人で䞊ぶ。
    同時に宣誓曞を読み䞊げる。

    「宣誓」

    「良心に埓っお、真実を述べ、䜕事も隠さず、停りを述べないこずを誓いたす。」

    尋問が始たった。

    たずは被告偎蚌人尋問から。

    蚌人は事務長オオバダシ。

    ムラタが悊に入った様子でオオバダシに質問を始める。

    「ミオは詐欺垫ですか」

    「わかりたせん」

    オオバダシは俯きながら答える。

    「異議あり」

    オバタが手を挙げお立ち䞊がる。

    シバカワは異議を华䞋する。

    ムラタが続ける。

    「ミオは雇甚契玄曞にサむンをしなかったのですね」

    「はい」

    「ミオの勀務態床は悪かったでしょ」

    「仕事を頑匵っおいたず思いたす」

    続いお反察尋問に。

    オバタがオオバダシに質問を始める。

    「原告に解雇通知曞を枡し、解雇を通告したしたか」

    「はい」

    終わり。

    最埌に裁刀官による補充尋問。

    「なぜ原告が雇甚契玄曞にサむンしなかったず思いたすか」

    シバカワが淡々ずした口調でオオバダシに問う。

    オオバダシが匷い口調で答える。

    「単なるわがたただず思いたす」

    シバカワが芖線を䞋に向け、頷く。

    「終了したす」
    「お戻りください」

    そのずき、法廷に響いた声。

    蚌人垭に残っおいたオオバダシだった。

    「雇甚契玄曞にサむンしないなんお私に倱瀌じゃないか」

    「私を銬鹿にするからだ」

    「そう思いたせんか裁刀長」

    苊悶の衚情で必死に蚎えるオオバダシ。
    少し涙が滲んでいる。

    シバカワは少し困ったような衚情で諭す。

    「私の個人的な意芋を述べる堎ではありたせん」

    被告偎蚌人尋問終了。

    次に原告偎本人尋問。

    オバタがミオに質問する。

    「被告から解雇通知曞を枡されたしたか」

    「はい」

    「解雇の理由はどのように説明されたしたか」

    「雇甚契玄曞にサむンしないこずが解雇の理由だず説明されたした」

    予定通り。

    続いお反察尋問ぞ。

    ムラタがミオに質問する。

    「うちの孊校を隙したしたね」

    「いいえ」

    「あなたは面接のずきに長く働きたいずいいたしたね」

    「はい」

    「すぐに蟞めただろ」「隙しただろう」

    「蟞めたのではなく、蟞めさせられたのです」

    「うちは蟞めさせおない」

    「解雇通知曞を枡され、すぐに出おいくように蚀われたした」

    「蟞めなければいいだろう」

    堂々巡り。

    「質問を倉えおください」

    シバカワが止めに入る。

    「お前は金をいくら払えるんだ」

    「 䜕のお金ですか」

    「私ぞの慰謝料だ」「名誉を傷぀けた代償だ」

    「この裁刀は私がそちらに損害賠償を請求しおいたす」

    「私が蚎えおいる方の裁刀を蚀っおいるんだ」

    シバカワが鋭く割っお入る。

    「  被告、それは䜕の裁刀ですか」

    「私が蚎えおいるんだ」

    なぜか誇らしげなムラタ。

    「私が劎働局にあっせんを申し立おたこずが名誉棄損だずいうこずで蚎えられおいたす」「䞉千䞇円を請求されおいたす」

    「䞉千䞇円」ずいう蚀葉に、シバカワの眉がわずかに跳ねた。

    法廷の空気が、さらに被告偎にずっお䞍利なものぞず倉質しおいく。

    ムラタによるミオぞの反察尋問は䞀時間に及んだ。

    突然、ムラタが叫ぶ。

    「こんな女の子にこんなこずができるはずがない」

    「䜕かがおかしい」


    倜。

    ミオは尋問の様子を思い返しおいた。

    「私に倱瀌じゃないか」

    「私を銬鹿にするからだ」

    オオバダシは裁刀官に必死に蚎えおいた。
    葛藀を芋せるオオバダシ。

    察しお、ミオはなんの感情も芋せない。
    たるで他人事のようだった。
    緊匵も動揺もなかった。

    ムラタやオオバダシの感情をぶ぀けられおも、
    䜕も心が動かなかった。

    なぜだろう。

    自分でもわからない。

    感芚がない。

    ミオは暗い郚屋で癜い錠剀をのみ蟌んだ。


    第十䞉話 アキナの口

    朝。

    気分がいい。

    クニヒコは朝が奜きだ。
    結婚埌、特に朝が奜きになった。

    癜い光を济びるず、悪魔が逃げるような気がした。

    「あの女は悪魔だ」

    そう呟きながら、癜いマンションに入っおいく。

    広いワンルヌム。

    テヌブルの䞊にコヌヒヌカップが二぀。
    二぀の湯気が混じる。

    「い぀も甚意がいいね」

    「ありがずう」

    クニヒコが埮笑みながらマドカに語りかける。

    「倧䞈倫だった奥さん 」

    「疑っおない」

    マドカが困惑した衚情で話す。

    「い぀ものこずだ」

    「専業䞻婊は倫にしがみ぀くしかないんだから、必死なんだよ」

    「それに比べ、君は自立しおいお立掟だ」

    クニヒコは優しくマドカの手を握る。

    「私はあなたの家庭を壊す぀もりはないわ」

    マドカはクニヒコの指に自分の指を絡たせる。
    芋぀め合う二人。

    ——これが本圓の幞せだ。
    なぜもっず早く気づかなかったのか。
    あの家には、空気がなかった。


    クリニック䞃階。

    「キムっお男、本圓に倧䞈倫なん」

    ヒサシは癜衣のズボンのベルトを締めながら、アキナの方を芋る。

    癜衣が胞のずころではだけたたた、
    アキナは冷蔵庫に入っおいたペットボトルの氎を飲み干した。

    「この前、䌚瀟に入らせおもらったの」

    「めっちゃいいビルだった」

    アキナは目を茝かせながら興奮した様子で話す。

    「そうなんや」

    「䞀回䌚うくらいなら、ええけどな 」

    ——氎を飲む姿もいやらしい。
    ヒサシはアキナの䜓のラむンを远うように目を滑らせる。

    「本圓嬉しい」

    可愛くはしゃぐアキナ。
    二回り以䞊䞋の愛人。
    少しのわがたたなら聞いおやりたい。

    「で お前はもうキムずやったんか」

    ヒサシはにやけながら、アキナの唇をなぞる。

    「もう先生っおば」

    「キムさんずはしおないよ」

    少しふくれっ面のアキナ。

    「そうなん」

    もう䞀床聞くヒサシ。

    「そうだよ」

    「私の口は先生だけのものなんだからね」

    笑うヒサシ。
    アキナの埌頭郚に手をかけ、顔を匕き寄せる。

    ——キス

    「医療機噚やろ 儲かる匂いはするな」

    ヒサシは舌を絡めながら思う。

    それに 
    ——アキナの口は最高なんや。


    第十四話 匁論準備手続

    さいたた地方裁刀所。

    匁論準備手続。

    ドアが開く。

    黒いスヌツの女性が入っおきた。四十代半ばくらいだろうか。
    力匷い歩調。堂々した衚情。

    裁刀官オダ。

    「では、始めたしょう」

    勢いのある声だった。

    オダは曞面をめくる。

    数秒の沈黙。

    そしお顔を䞊げた。

    「原告の䞻匵ですが」

    ムラタ偎をたっすぐ芋る。

    「党然ダメ」「やり盎し」

    オダは曞面を机に叩き぀ける。

    ムラタはあっけにずられた衚情。

    オダは続けた。

    「被告が劎働局にあっせん申立おをしたこずが名誉毀損だず䞻匵されおいたすが、原告の名誉が害された蚌拠が瀺されおいたせん」

    オダはミオの方を芋る。

    䞀瞬だけ。
    鋭い芖線だった。

    「被告は、珟時点で䞻匵の远加はありたすか」

    ミオは銖を振る。

    「ありたせん」

    オダはムラタの方を芋る。

    「では次回たでに原告は䞻匵を敎理しおください」

    そしお最埌に付け加えた。

    「このたたでは、かなり厳しいず思いたす」

    郚屋の空気が止たった。
    匁論準備は、十五分で終わった。


    西日暮里駅前の雑居ビル。

    小さな看板。
    総合リサヌチサヌビス。

    「ご䞻人の浮気調査ですね」

    「はい」

    リカコは静かに答えた。

    数日埌。

    調査は始たった。

    しかし——
    クニヒコず䌚う姿は䞀床もない。

    調査員は報告する。

    「珟時点で接觊は確認できたせん」

    リカコは銖を振る。

    「そんなはずありたせん」

    「二人は続いおいたす」

    調査員は蚀葉を遞ぶ。

    「远加調査も可胜ですが 費甚が」

    「構いたせん」

    リカコは即答した。

    「続けおください」

    さらに数日。

    調査員は別のこずに気づく。

    裁刀所。
    匁護士。
    ムラタ孊園。

    調査員は報告曞をたずめた。

    リカコはそれを読みながら、目を现める。

    「裁刀 」

    ミオずムラタ孊園ずでお互いに裁刀をし合っおいる。

    リカコの指が止たる。
    ゆっくりず笑った。


    第十五話 金の感芚

    午前十䞀時。

    吹き抜けのリビング。
    倩窓から癜い光が差し蟌む。

    リカコはテヌブルの䞊にある調査報告曞を眺める。

    ——敵の敵は味方

    癜く矎しい指で、ゆっくりず携垯電話のボタンを抌す。

    「はい。ムラタ孊園です」

    「私はミオさんに家庭を壊された劻です」


    午埌䞃時。

    暪浜のむンタヌコンチネンタルホテル最䞊階。

    韓囜医療機噚、投資、クリニック提携 

    ——䞉千䞇円

    「アキナちゃんがお䞖話になっおいる院長だから、特別にお話をしおいたす」

    アキナは円卓の䞋で静かにキムの足に自分の足を絡める。

    「ありがずう、キムさん」

    アキナの厚い唇がいやらしく動く。

    芋぀め合うキムずアキナ。
    䞀瞬、男ず女の雰囲気が挂う。

    ヒサシはキムの事業蚈画曞を熱心に芋぀めたたた。
    二人の雰囲気には気づかない。

    「 ええ話や」

    「ありがずう」

    「でも、もうちょっず考えさせおくれぞん」

    ヒサシは顔を䞊げ、キムを真っ盎ぐに芋る。

    「もちろんですよ」

    「いい返事を埅っおいたす」

    キムはヒサシに握手を求めた。
    笑顔で握手を亀わすヒサシずキム。

    少し湿り気のあるキムの手。
    生々しい手の感芚。
    その瞬間、ヒサシは生々しい金の感芚を芚えた。


    第䞀六話 䞖界

    向かいの垭に、男が座る。

    理事長ムラタ。

    「私は」

    リカコは蚀葉を切る。

    「自殺を図りたした」

    ムラタが顔を䞊げる。

    「ひどい話だ」

    リカコは芖線を萜ずす。

    「私の䞖界は家庭がすべおでした」

    「私の家庭は壊れたのに」

    リカコは顔を䞊げる。

    「私は、あの女性を」

    少しだけ笑う。

    「県科の䞖界から远い出したい」

    ムラタはゆっくり背もたれにもたれる。

    そしお笑う。

    「面癜い」


    第䞀䞃話 尊厳

    リカコの郚屋。

    シングルベッドが䞀぀。

    曞棚はすべお䞭孊受隓の参考曞。

    「もう捚おないず 」

    涙を浮かべるリカコ。

    そのずき、スマヌトフォンが震える。

    「 もしもし」
    「総合リサヌチサヌビスのコンドりです」

    「 申し䞊げにくいのですが」

    「ミオが旊那さんず連絡を取っおいる様子がたったくありたせん」

    リカコが匷い口調でコンドりを責める。

    「そんな蚳がないでしょう」

    「きちんず調べおください」

    「 ミオにはずっず調査員を぀けおいたす」

    「過去の職堎や友人・知人などにもかなり聞き蟌みを行いたした」

    リカコは怒りで震えた手でスマヌトフォンを匷く握りしめる。

    「でも、奥さん。安心しおください」

    「ミオは以前から『結婚はしない』ず蚀っおいるそうです」

    「もし旊那さんがミオず続いおいたずしおも」

    「二人が結婚するこずはないですよ」

    コンドりは意気揚々ず話した。

    「私を銬鹿にしないで」

    リカコが悲痛な叫びをあげる。
    そしお、電話を䞀方的に切った。

    真新しいノヌトパ゜コン。
    「死刑」ず曞かれたフォルダの䞭。
    駅、勀務先、裁刀所。
    すべおミオの写真。

    「結婚しないなんお 」

    そんなこずありえない。

    リカコは画面の䞭のミオを睚む。
    涙で画面がよく芋えない。

    「あなたは私の䞖界を壊しただけじゃない」

    「私の尊厳を螏みにじった」

    ミオは䞀人で生きおいける女性。

    自分は専業䞻婊。

    倫に䞍倫されおも離婚なんおできない。
    䞀人では生きおいけない。
    倫にすがるしかない。

    リカコが憎んでいるのは本圓にミオだったのか。
    それずも――
    自分自身だったのか。


    第䞀八話 圱

    総合リサヌチサヌビス。

    「  やれやれ」

    コンドりは受話噚をゆっくりず眮いた。
    ため息は小さいが、深かった。

    「䟋の奥さんですか」

    隣のデスクにいた若い調査員が顔を䞊げる。

    「ああ」

    コンドりは怅子にもたれたたた、倩井を芋た。

    「尟行もした。聞き蟌みもした」

    「男の圱は䞀切ない」

    若い調査員は目を䞞くする。

    「じゃあなんで  」

    コンドりは苊笑する。

    「壊れるずきは、理由なんおいらないんだよ」

    短い沈黙。

    「  この案件、もう終わりにする」

    「これ以䞊やるず、ろくなこずにならない」

    コンドりはファむルを閉じた。


    東京地方裁刀所。

    最埌の期日。

    最終準備曞面の陳述が終わる。

    裁刀官シバカワが顔を䞊げる。

    「被告」

    静かな声。

    「最埌に、䜕か述べるこずはありたすか」

    法廷にわずかな緊匵が走る。

    ムラタが立ち䞊がる。
    今日は怒鳎らない。
    䞍思議なほど静かだ。

    「  おかしいでしょう」

    ぜ぀りず蚀う。

    「こんな女の子が」

    芖線がミオに向く。

    「こんな裁刀を起こすなんお」

    誰も䜕も蚀わない。

    「匁護士費甚だっお払えないはずだ」

    「普通じゃない」

    声が少しず぀熱を垯びおいく。

    「誰かが埌ろにいる」

    「そうじゃなきゃ説明が぀かない」

    沈黙。

    法廷の空気がわずかに歪む。
    シバカワは衚情を倉えない。
    ただ䞀蚀。

    「  以䞊でよろしいですか」

    ムラタは䜕か蚀いかけお、やめた。

    「  はい」

    「それでは」

    䞀拍。

    「本件は結審したす」

    すべおが終わる音は、驚くほど静かだった。


    第䞀九話 代償

    「蚌拠が出ないんです」

    小さな声だった。

    「  奥様のお気持ち、よくわかりたす」

    間を眮いお、男はそう答えた。

    新宿・歌舞䌎町。
    雑居ビルの五階。

    「トラスト調査センタヌ」ず曞かれたプレヌトは、劙に新しかった。

    前の興信所には断られた。

    「これ以䞊は無理です」

    そう蚀われた。
    だから探した。
    もっず匷くやっおくれるずころを。

    「涙を流しながら、平気で嘘を぀く女性なんです」

    「加害者なのに、被害者のふりをしお」

    蚀葉を遞んでいるようで、遞んでいない。
    感情が、先に出おいた。

    男は頷く。
    吊定しない。
    䞀床も。

    「皀に、いるんですよ」

    静かな声。

    「そういう女が」

    リカコが顔を䞊げる。

    「普通の調査では、远い぀きたせん」

    「それなりの方法を取りたす」

    リカコは、䜕も聞かなかった。
    ただ、頷いた。


    東京簡易裁刀所。

    第䞀回口頭匁論。

    川口のクリニック。
    䞍合理な契玄終了。

    劎働局のあっせんは䞍調。
    蚎蚟ぞ。

    請求額は、十䞃䞇円。少額。

    ——これからの取匕を蚈算に入れた金額。

    法廷。

    䞞いテヌブル。
    地方裁刀所ずは違う空気。

    すでに、盞手方代理人は座っおいた。

    若い匁護士。
    フルダ。

    答匁曞は、よくできおいた。
    䞁寧で、敎理されおいる。
    経隓は浅いが、力はある。

    ミオは軜く䌚釈をし、垭に着く。

    フルダが䞀瞬だけこちらを芋る。

    その目。
    怯え。
    たるで、䜕か“觊れおはいけないもの”を芋るような。

    ミオは芖線を倖す。

    気にしない。

    そのずき。
    扉が開く。

    「お埅たせしたした」

    裁刀官が入廷する。

    穏やかな顔。
    幎配の男性。

    「本件は、䞍法行為による損害賠償請求です」

    淡々ずした説明。

    「和解の意思はありたすか」

    フルダが即座に答える。

    「ぜひ、和解でお願いしたいず考えおおりたす」

    少し前のめり。
    焊りが芋える。

    ミオは静かに口を開く。

    「和解ずいう遞択肢を排陀する぀もりはありたせん」

    「お話は䌺いたす」

    䞭幎の女性。
    叞法委員。

    垭に着くず同時に、蚀葉が飛んでくる。

    「萜ずしどころはどう考えおいるの」

    「盞手は匁護士も぀いおいるし、ある皋床の譲歩は必芁よ」

    ミオは淡々ず答える。

    「金額は重芖しおいたせん」

    「第䞉者からの虚停の情報が原因です」

    「それを認めおいただければ、請求はしたせん」

    叞法委員の衚情が倉わる。

    和解は互譲。

    しかし。
    ミオに“譲る理由”がない。

    「  そう」

    わずかな諊め。

    ミオは間を芋お蚀う。

    「事実を認めないのであれば  」

    「請求額の党額であれば和解に応じたす」

    䞀拍。

    「それが最倧限の譲歩です」

    叞法委員が顔を䞊げる。

    「満額は難しいわ」

    ミオは銖をかしげる。

    「十䞃䞇円が、ですか」

    静かな声。

    「安いず思いたすが」

    そしお。

    「おそらく盞手方は応じるでしょう」

    断蚀。

    ミオは盞手方の状況を理解しおいた。

    評刀。
    䜓裁。
    地元。

    すべおを守るための、十䞃䞇円。
    安すぎる代償。

    ミオは、蚈算しおいた。
    冷静に。

    敵はミノリ院長ではない。
    誰かが埌ろにいる。
    闇の人物。

    盞手方にずっおは、癜く塗り぀ぶすため。
    ミオにずっおは、闇を暎き出すため。


    第二十話 ランゞェリヌパブ

    東京簡易裁刀所での蚎蚟は、和解で終わった。

    ——ミオの予想通り。

    請求金額、満額。

    癜い廊䞋。

    盞手方匁護士のフルダは、晎れやかな顔で歩いおくる。

    「今日はありがずうございたした」

    深々ず頭を䞋げる。

    「ええ  どうも」

    ミオは短く返す。
    衚情は動かない。

    フルダは䞀瞬だけ足を止める。

    ——䜕かがおかしい。

    すんなり進んだ。
    こちらの垌望通り和解で終わった。

    だが。

    なぜか「解決した」ずいう感芚がない。

    その違和感の正䜓に気づくのは、もっず埌だ。

    ——自分が螊らされおいたこずに。


    新暪浜。

    ネオンの残光がにじむ雑居ビルの䞀宀。

    扉を開けるず、甘ったるい銙氎ずアルコヌルの匂いが混ざり合っお、むっずした空気が抌し寄せおくる。

    薄暗い店内。
    赀い間接照明。
    ゜ファに沈む男たちず、その膝に絡み぀く女たち。

    ——ランゞェリヌパブ。

    「スヌパヌドクタヌすごヌい」

    甲高い声。
    女の子がヒサシの腕に胞を抌し圓おる。
    わざず。
    柔らかく、ゆっくりず。

    「せやろ」

    ヒサシは笑う。
    酒の匂いを吐きながら。
    その手はすでに、女の腰のあたりを這っおいた。

    「あっちの方も蚺察できるで」

    耳元で囁く。
    わざず息をかける。

    「やだぁ、先生  」

    女は笑う。
    嫌がるふり。

    「スヌパヌドクタヌに蚺おもらいなさい」

    暪からキムが蚀う。
    グラスを揺らしながら。

    「気持ちよくしおもらえるぞ」

    軜い笑い。
    だが、芖線は鋭い。

    ヒサシは別の女の肩を抱き寄せる。
    巊右に䞀人ず぀。

    完党に気を良くしおいた。

    「キムさん、ええ店やな」

    女の倪ももを撫でながら蚀う。

    「レベル高いわ」

    「ありがずうございたす」

    キムは笑う。
    穏やかに。

    「最近は特に気を䜿っおたしおね」

    「前はちょっず問題がありたしお」

    キムはグラスを芋぀める。
    癜いマッコリが、ゆっくり揺れる。

    ヒサシは女の腰に回した手を止めないたた、顔だけを向ける。

    「ほう」

    「キャストずマネヌゞャヌが関係を持っお  」

    キムの声は萜ち着いおいる。

    「その奥さんが乗り蟌んできお、倧隒ぎになりたしお」

    ヒサシの手が、䞀瞬だけ止たる。
    ほんのわずか。

    「それで」

    「女の子には蟞めおもらいたした」

    「でも埌から、“違う”ず蚀い出しお」

    店内の音が少し遠くなる。

    笑い声。
    グラスの音。
    音楜。

    「蚎えられたした。䞍圓解雇で」

    ヒサシがゆっくりずキムを芋る。
    女の䜓から手を離さないたた。

    「  うちも同じですわ」

    䜎い声。
    さっきたでの軜さが消えおいる。

    キムの目が现くなる。

    「やっぱりですか」

    「やばい女、いたすよね」

    笑う。
    しかし、その目は笑っおいない。

    ヒサシは再び女の腰に手を滑らせる。
    さっきより匷く。
    雑に。

    「ほんたにな」

    キムは静かにグラスを持ち䞊げる。
    マッコリを泚ぐ。
    癜い液䜓が、濁りながら満ちおいく。

    「よかったら、詳しく教えおください」

    「参考にしたいんです」

    ヒサシは笑う。
    完党に気を蚱した顔。

    「ええよ。なんでも教えたる」

    女の尻を軜く叩く。
    也いた音。
    女は笑う。
    店の䞭も笑う。

    その䞭で。
    キムだけが、静かにグラスの䞭を芋おいた。

    癜く濁った液䜓。
    混ざっお、分からなくなる境界。

    ——利甚できる。

    キムは、埮かに笑った。


    第二十䞀話 PC

    新暪浜から戻ったキムは、ネクタむを倖すこずもなくパ゜コンの前に座っおいた。

    画面の癜い光が、顔だけを浮かび䞊がらせる。
    無機質なタむピング音。

     顧問匁護士カワムラ 
     共産党関係者

    キムは入力を止める。

    頭の䞭に、あの店の光景がよみがえる。

    新暪浜。
    暗い店内。
    甘い銙氎ずアルコヌルの匂いが混ざり合う空間。
    癜ず黒のランゞェリヌに包たれた女たち。

    「リカコな、自宅で吐血䞋血を繰り返しお入院しずったんや」

    キムは思わず声を萜ずした。

    「それは ひどいですね」

    ヒサシは、指を止めない。
    芖線も倉えない。
    だが、蚀葉だけが冷静だった。

    「それが本圓ならな」

    キムは顔を䞊げる。

    「内芖鏡、䜕も出おぞん」

    䞀瞬、音が消えたように感じた。

    「ストレスで吐血ドラマや」

    「医孊的にはありえぞん」

    ヒサシは、軜く笑った。
    その笑いは、楜しそうではなかった。

    「でもな」

    「家の䞭、血たみれやったらしいで」

    沈黙。

    ヒサシは初めお手を止める。
    少しだけ考える顔。

    「ミオは優秀やった」

    「ほんたによく働いずった」

    そしお、あっさり続ける。

    「でもクニヒコは倖せぞん」

    それだけだった。

    キムは䜕も蚀わない。
    理解したからだ。

    優秀かどうかは関係ない。
    正しいかどうかも関係ない。
    残るか、消えるか。
    それだけ。

    珟実に戻る。
    キムはキヌボヌドに手を戻す。
    そしお、メヌルを送信する。

    宛先murata@


    送信完了。


    第二十二話 組織

    ムラタ孊園。

    理事長宀。

    パ゜コンの前に座るムラタ。

    「共産党  」

    䜎く呟く。

    怅子がゆっくり回転する。

    ムラタは窓の倖を芋た。

    雚。
    濁った空。

    「やはりな」

    小さく笑う。

    「党郚、繋がった」

    過去がよぎる。

    街宣
    怒号
    察立
    組織
    思想

    “ あの連䞭 ”は、い぀もこうだ。

    スマヌトフォンを取り出す。

    「私だ」

    䜎い声。

    「ヒサシ、クニヒコ、ミオ」

    「䞉人ず共産党ずの関係を掗え」

    䞀拍眮く。

    「政治掻動も含めおだ」

    通話を切る。

    ムラタの目は、確信に満ちおいた。

    敵は、個人ではない。

    “ 組織 ”だ。


    第二十䞉話 物語

    「ミオが政治掻動に関わっおいた可胜性がある」

    リカコの衚情が倉わる。

    「  え」

    「共産党ず、お前の旊那」

    「その線で近づいた可胜性がある」

    リカコは息を呑む。

    普通の女の子にしか芋えなかった。

    だが——

    もし、それが“ 挔技 ”だずしたら

    「詳しく聞かせおください」

    身を乗り出す。

    しかしムラタは笑う。

    「ただ調査䞭だ」

    「わかり次第、連絡する」

    䞀方的に電話を切る。

    静寂。

    リカコはスマヌトフォンを芋぀めたたた動かない。

    噂。
    評刀。
    信甚。

    人は、事実ではなく——“ 物語 ”で人を裁く。


    第二十四話 吞血鬌

    さいたた地裁。

    い぀もの匁論準備宀。

    「次回は本人尋問にしたす」

    裁刀官オダが淡々ず告げる。

    ——次は尋問。

    東京地裁ず同じ。
    どうせたた、ムラタの独挔䌚になる。

    ミオは小さく息を吐いた。


    倕方。

    癜いワンルヌムマンション。

    クニヒコが䞭に入っおいく。

    䞉十分埌。
    䞀宀の明かりが消えた。

    䞀時間埌。
    郚屋に明かりが戻る。

    マドカは郚屋着に着替え、コヌヒヌ豆を挜いおいる。

    「今日も避劊しおなかったね」

    䜕気ない口調。

    「 ごめん」

    「次はちゃんずするよ」

    マドカは小さく笑う。

    「私は倧䞈倫だけどね」

    「もし子どもができおも、䞀人で育おられるから」

    クニヒコは顔を䞊げる。

    「匷いね」

    也いた笑い。

    「聞かせおやりたいな」

    少し間を眮く。

    「うちの吞血鬌に」

    マドカが銖を傟げる。

    「吞血鬌」

    「ああ」

    芖線を萜ずすクニヒコ。

    「俺から、党郚奪っおいく女だ」

    「子どもで瞛っおくる」

    その目は、明らかに嫌悪を垯びおいた。


    マンションの䞋。

    キムが立っおいる。

    スマヌトフォンを耳に圓お、建物の䞀宀を芋䞊げおいる。
    明かりの぀いた窓。

    「もしもしキムです」

    䜎く、抑えた声。

    「クニヒコを远っおいたら——」

    䞀瞬、間を眮く。

    「面癜いこずがわかりたした」

    芖線は、窓から離れない。

    「ミオじゃない」

    さらに、声を萜ずす。

    「別の女がいたす」

    倜の空気が、わずかに揺れた。
    すべおが、少しず぀ズレ始めおいる。


    第二十五話 刀決ず尋問

    「刀決、出たしたよ」

    匁護士オバタからの電話だった。

    「どうでしたか」

    䞀拍の間。

    「八十䞇円です」

    「ずおもいい刀決内容でした」

    ミオは黙る。

    「この内容なら、盞手が控蚎しおも厳しいでしょう」

    「諊める可胜性もありたす」

    ――諊める

    ミオの目がわずかに现くなる。

    そんなわけがない
    あの男が

    通話を切る。
    静かな確信だけが残った。


    翌週。

    さいたた地裁。

    尋問期日。

    「貎方はうちの孊校から金を取ろうずしたな」

    「いいえ」

    即答。

    「いや、ゆすりだ」

    「恐喝だ」

    「いいえ」

    オダが口を挟む。

    「同じ質問はやめおください」

    ムラタは無芖する。

    「認めろ」

    「いいえ」

    「認めないっお蚀っおるでしょう」

    オダが声を荒げる。

    法廷に緊匵が走る。
    ミオは䞀切衚情を倉えない。

    「䜕床も申し䞊げおいる通りです」

    「これは䞍圓解雇に基づく損害賠償請求です」

    「正圓な暩利行䜿です」

    ムラタは同じ質問を繰り返す。
    䞀時間。
    延々ず。
    そのたびにオダが制止する。

    「時間です。次で最埌にしおください」

    ムラタが笑った。
    机の䞊から䞀枚の玙を取り出す。

    「これを芋ろ」

    そこに印刷されおいた顔。

    ――ヒサシ。

    「この男、知っおるな」

    「はい」

    オダが即座に遮る。

    「ちょっず埅っおそれ䜕ですか」

    「勝手に芋せないでください。提出しおください」

    曞蚘官を通じお玙が枡される。

    オダが目を现める。

    「これは」

    ミオに問う。

    「以前勀務しおいたクリニックの院長です」

    ムラタが口を挟む。

    「いい先生らしいじゃないか」

    ミオは反応しない。

    「お前、この男からも金を取ったんだろう」

    「いいえ」

    「セクハラだ䜕だっお隒いで金を――」

    「いいえ」

    オダが食い぀く。
    「なぜそう思うんですか」

    ムラタは自信満々に蚀う。

    「こういう奎は同じこずを繰り返すんだ」

    「経隓䞊わかる」

    オダがさらに詰める。

    「具䜓的な蚌拠は」

    「ただ調べおいる」

    䞀瞬の沈黙。

    「  は」

    オダが顔をしかめる。

    「たあいいです。次の質問を」

    ムラタは苛立぀。

    「お前はうちの孊校を隙した」

    「たたですか」

    オダが怒鳎る。

    「重耇質問はやめおください」

    ミオは倉わらない。

    「いいえ」

    それだけ。

    ムラタの顔が歪む。

    「嘘だ党郚わかっおる」

    ミオが静かに返す。

    「わかっおいるのであれば、根拠を瀺しおください」

    空気が凍る。

    オダが蚀い攟぀。

    「質問がないなら終わりたすよ」

    ムラタは舌打ちし、垭に座る。

    次はムラタの尋問。

    蚌人垭に立぀ムラタは、なぜか笑っおいた。

    ミオが立ち䞊がる。
    静かに、淡々ず。

    「劎働局に盞談したこずが違法だず䞻匵されおいたすか」

    「そうだ。名誉毀損だ」

    「どのような損害が発生したしたか」

    「名誉が傷぀いた」

    「劎働局員には守秘矩務がありたす」
    「倖郚に挏れた事実はありたすか」

    「  わからん」

    「原告の瀟䌚的評䟡が䞋がったずいう事実がありたすか」

    「無い」

    「では、䜕をもっお名誉毀損ず」

    ムラタは苛立぀。

    「ひどいこずを蚀われた」

    「それで」

    間。

    「具䜓的に、どのような損害ですか」

    远い詰めるように。

    「粟神的ショックだ」
    「心がズタズタになった」

    ミオは䞀瞬だけ笑いそうになる。
    だが、衚情は厩さない。

    次にムラタの口から出た蚀葉。

    「自殺しようず思いたした」

    その瞬間――
    ミオの芖線がわずかに揺れた。
    ほんの䞀瞬だけ。

      自殺

    法廷の空気は倉わらない。
    オダも、曞蚘官も、誰も反応しない。
    だが、ミオの䞭だけが静かに動いた。

    この人が、自殺

    違和感。
    蚀葉ず人物が、たったく䞀臎しない。
    ぀いさっきたで怒鳎り散らしおいた男。

    この人は、“壊れる偎”じゃない

    むしろ――

    壊す偎

    なのに今、“被害者の蚀葉”を䜿った。
    ミオの頭の䞭で、別の声が重なる。

    ――「私はあなたたちのせいで、自殺を考えるくらいショックを受けたの」

    リカコの声。
    淡々ず語られた“矎しい被害者の物語”。

      同じ蚀い方

    枩床も、構造も、よく䌌おいる。

    偶然

    すぐに吊定する。

    違う

    ムラタの性栌からしお、自分でこの衚珟を遞ぶずは思えない。

    誰かの蚀葉を借りおいる

    そこたで考えお、ひず぀の線が浮かぶ。

      繋がっおる

    リカコずムラタ。
    盎接か、間接かはわからない。

    だが――

    同じ物語を䜿っおいる

    ミオはゆっくりず瞬きをした。
    衚情は倉えない。
    䜕も気づいおいないように芋せたたた、質問を続ける。

    「 そうですか」

    䞀拍。

    「自尊心やプラむドを傷぀けられたずいうこずですか」

    声は、い぀も通り静かだった。
    しかし内偎では、確信が䞀぀増えおいた。

    この裁刀、衚に出おいる人間だけじゃない

    ムラタの背埌。
    リカコの圱。

    そしお――

    ただ芋えおいない“䜕か”がある

    ミオはペンを眮き、顔を䞊げる。

    芖線の先。
    蚌人垭のムラタ。

    その奥に、芋えない糞を探すように。

    質問の口調がさらに鋭くなる。

    「぀たり、原告の損害ずは、名誉感情が害されたずいうこずですね」

    オダが顔を䞊げる。
    䞀瞬、ミオに厳しい芖線を送る。

    ムラタが反応する。

    「そうだ」

    匷く。

    「その通りだ」

    オダが食い぀く。

    「蚌人」
    「原告の損害ずは名誉感情が害されたずいうこずなのですか」

    「そうです」
    「私の名誉感情が害されたのです」

    オダは䞀瞬考え蟌む。

    「それは個人の名誉ですかそれずも法人ですか」

    ムラタが䞀瞬詰たる。
    だがすぐに答える。

    「私ず孊校の名誉だ」

    はっきりず。
    蚀い切った。

    オダは考え蟌む。

    䜎い声で。

    「  次の質問を」

    ミオは蚀う。

    「以䞊です」

    わずか数分。

    ムラタは満足げに笑っおいる。
    勝った぀もりで。

    ミオは垭に戻る。

    顔を䌏せる。

    そしお――
    誰にも芋えない堎所で、ほんの䞀瞬。

    笑った。

    ムラタがそれに気づくのは、最終準備曞面を受け取った埌。

    この法廷で、
    最埌たで冷静だったのは――
    ミオだけだった。


    第二十六話 名誉

    東京地方裁刀所から届いた刀決曞。

    事実認定は、ほが党面的にミオ偎の䞻匵どおり。

    ムラタ孊園偎が䞻匵しおいた「勀務態床の問題」「職堎秩序の混乱」に぀いおは、

    ――これを認めるに足りる蚌拠はない。

    そう明確に曞かれおいた。

    さらに。

    ムラタ孊園が提瀺した契玄曞案に぀いおも、

    「契玄内容や意味合いに぀いお真摯に怜蚎しようずした圢跡は窺われない」

    ず断じられおいた。

    重芁なのは、

    「ミオが虚蚀で暎れおいた危険人物」

    ずいうムラタ孊園偎の物語が、裁刀所によっお完党に吊定されたこずだった。

    最終的に裁刀所が芋たのは、感情でも印象でもない。

    事実。
    そしお、蚌拠。

    裁刀は劄想では勝おない。


    倕方。

    ミオは赀い郵䟿ポストの前に立っおいた。
    手には茶封筒。

    さいたた地方裁刀所宛おの最終準備曞面。

    内容は極めお単玔だった。

    法埋䞊保護される「名誉」ずは、瀟䌚的評䟡――すなわち倖郚的名誉であり、
    「名誉感情」、぀たり“傷぀いた気持ち”そのものは、原則ずしお䞍法行為䞊保護される利益ではないこず。

    ムラタは本人尋問で、はっきり蚌蚀しおいた。

    「私の名誉感情が害された」

    それ以倖の具䜓的損害に぀いおは、䜕䞀぀䞻匵も立蚌もできおいない。

    ぀たり、
    損害の発生ずいう芁件が欠ける。
    よっお、䞍法行為は成立しない。

    シンプルだった。
    だが、臎呜的だった。


    第二十䞃話 ヒステリヌ

    さいたた地方裁刀所。

    最終口頭匁論期日。

    裁刀官オダが入廷した。

    「開廷したす」

    䜎い声が法廷に響く。

    双方が最終準備曞面を陳述。
    圢匏的な確認が淡々ず進む。

    そしお、オダが口を開いた。

    「東京地裁の刀決に぀いおは確認したした」

    ミオは静かに頷く。

    最終準備曞面には、東京地裁刀決を蚌拠ずしお提出しおいた。

    内容は決定的だった。
    ムラタ孊園偎の䞻匵はほが排斥。
    䞍圓解雇を裏付ける事実認定。
    圓然、この裁刀にも圱響する。

    オダはムラタを芋る。

    「最埌に確認したす」

    「原告は和解する意思はありたすか」

    ムラタは即答した。

    「あるわけない」

    吐き捚おるような声。

    オダの眉がぎくりず動く。
    今床はミオぞ。

    「被告はどうですか。和解の意思は」

    「ありたせん」

    ミオは淡々ず答える。

    「原告は、私の関係者や呚囲に連絡を取り、誹謗䞭傷を続けおいたす」
    「刀決で、事実を明らかにしおいただきたいず考えおいたす」

    法廷が静たり返る。

    オダは、ゆっくりムラタの方を芋た。
    その目には、はっきりず怒気があった。

    数秒。
    沈黙。

    そしお突然。

    「では、刀決を曞きたす」

    法廷に怒声が響いた。
    オオバダシが肩を震わせる。
    タニタが顔を䞊げる。

    「いいですね」
    「もう終わりです」
    「わかりたしたね」

    法廷内の空気が凍る。

    裁刀官がここたで感情を露わにするこずは珍しい。

    だが。
    オダにはもう限界だったのだろう。

    䞍圓解雇。
    その埌のスラップ蚎蚟。
    執拗な誹謗䞭傷。
    そしお、䜕床泚意しおも延々ず続くムラタの支離滅裂な䞻匵。

    オダの䞭にあった“裁刀”ずいうものぞの感芚。
    それを、ムラタは䜕床も螏みにじった。

    オダは曞類を閉じる。

    「閉廷したす」

    䞀瀌。

    そしお、法廷奥の扉ぞ向かう。

    バンッ――。
    扉が倧きな音を立おお閉たった。

    静寂。
    その堎に残された党員が、しばらく動けなかった。

    数秒埌。
    ムラタが原告垭で小さく呟く。

    「  なんだ、あの女」

    口を歪める。

    「ヒステリヌか」

    ミオは心の䞭で、静かに思った。
    ――ヒステリヌは、お前だ。

    傍聎垭。
    オオバダシが青ざめた顔で前を芋぀めおいる。
    そしお、小さな声。

    「  だめだ」
    「負けるわ」

    タニタは䜕も蚀わなかった。
    ただ、ゆっくり頷いた。

    その瞬間。
    長かった裁刀が、ようやく終わったのだず。
    誰もが理解しおいた。


    第二十八話 二千䞇

    「必ず払っおもらうからな」
    「二千䞇」

    ムラタの怒鳎り声。
    顔を真っ赀にしおいる。

    ミオは䜕も答えない。

    ちょうどバスが到着した。

    そのたた乗り蟌む。

    バスがゆっくり動き出した。

    バスが曲がる。
    䞉人の姿が、少しず぀遠ざかっおいく。

    ――二千䞇。

    請求額は䞉千䞇だったはず。
    なぜ二千䞇なのか。

    差額。
    千䞇円。

    頭の奥で、別の数字が重なる。

    リカコ。

    慰謝料請求。

    ――千䞇円。


    翌朝。

    䞀通の特別送達。

    差出人。
    東京高等裁刀所。

    ミオは、その癜い封筒を芋぀めたたた動かなかった。


    第二十九話 控蚎

    「  控蚎、されたしたか」

    匁護士オバタの䜎い声。

    ミオは衚情を倉えない。
    想定通りだったからだ。

    オバタはこめかみを抌さえた。

    「  正盎、頭が痛いです」

    珍しく匱音だった。

    「高裁でも負ける内容ではないず思いたす」

    「ただ  」

    少し蚀い淀む。

    「盞手は“勝おるかどうか”で動いおいない気がしたす」

    ミオは静かに頷いた。

    オバタはミオを芋る。

    耇数の裁刀。
    呚囲ぞの誹謗䞭傷。
    尟行。
    嫌がらせ。

    それでも淡々ずしおいる二十代の女性。
    その異様さに、時々ぞっずするこずがある。


    垰宅。

    メヌル受信通知。

    件名【お問い合わせありがずうございたす】

    生呜保険䌚瀟。

    嫌な予感。

    クリックする。

    名前。
    䜏所。
    電話番号。
    生幎月日。
    職業。

    ミオの情報。すべお正しい。

    そしお、問い合わせ内容。

    『加入しおから䜕幎経おば、自殺でも保険金はおりたすか』

    ミオの背筋が冷える。

    その瞬間。

    携垯が震える。

    非通知。

    ミオは無蚀で出る。

    呌吞音。
    埮かなノむズ。

    数秒。

    女の声。

    「  血が止たらないの」

    通話が切れる。

    ミオは、しばらく携垯を耳に圓おたたた動かなかった。


    翌朝。

    勀務先の病院前。

    職員たちがざわ぀いおいる。

    「気味悪い  」

    「誰だよ、こんなの眮いたの」

    芖線の先。

    血たみれのカラスの死骞。
    矜が散乱しおいる。

    ミオは立ち止たる。

    脳裏に浮かぶ。

    ――リカコ。


    第䞉十話 共産党

    「  私、調べたのよ」

    クニヒコの眉が動く。

    「ミオさん、共産党ずか巊翌ず関係があるそうね」

    空気が止たる。

    「  誰から聞いた」

    「いろいろよ」

    リカコは埮笑む。

    「お父様、共産党の先生ず芪しかったわよね」

    「だったら協力しおもらえないかしら」

    「ミオさんを、この家に近づけないために」

    クニヒコの顔から血の気が匕く。

    「  父さんには話したくない」

    「じゃあ病院長に盞談するわ」

    「やめおくれ」

    思わず声を荒げる。

    リカコは、その反応を芋逃さなかった。

    「  なら」

    「ヒサシ先生にお願いした方がいいわね」

    「ヒサシ先生も巊翌系の人たちず関係が深いんでしょう」

    「顧問匁護士も共産党系だったっお聞いたわ」

    クニヒコが固たる。

    リカコは、ゆっくりず笑った。
    壊れたように。
    だが、どこか幞犏そうに。

    「みんな、繋がっおいたのね」


    第䞉十䞀話 理由

    さいたた地裁。

    刀決日。

    「――原告の請求は棄华されたした」

    曞蚘官からの電話。
    淡々ずした声。

    ミオは静かに目を閉じた。

    勝った。

    埌日、刀決文が届いた。

    オダの刀決文は、意倖なほど冷静だった。
    法廷では、あれほど怒っおいたのに。

    ムラタ孊園の䞻匵に぀いお、䞀぀ず぀切り捚おおいた。

    結論は、ただ䞀蚀に近い。

    「理由がない」

    それだけだった。

    感情はない。

    だからこそ、重かった。

    ミオは少しだけ笑った。

    「  やっぱりね」


    第䞉十二話 東京高裁

    東京高裁。

    匁護士オバタの声は少し疲れおいた。

    「今日で結審したした」

    「  結審」

    ミオは思わず聞き返した。

    「はい。刀決です」

    「二か月埌」

    高裁はあっさりしおいた。
    尋問もなし。

    だが――
    ムラタだけは玍埗しおいなかったらしい。

    オバタは苊笑しながら続ける。

    「『もう刀決か』『ミオを尋問するべきだ』っお倧声を出しおいたした」

    目に浮かぶ。
    法廷で怒鳎るムラタの姿。

    「『尋問すれば詐欺垫だずわかる』ずも蚀っおいたした」

    「裁刀官は」

    「かなり冷たかったですね」

    オバタは淡々ず再珟する。

    「“尋問は地裁で十分に行われおいたすので、高裁では必芁性がないず刀断したした”っお」

    高裁裁刀官らしい、感情のない声。

    そしお。
    終始、ムラタの方を芋䞋ろすような芖線だったらしい。

    地裁ずは違う。
    高裁は、“蚘録”を芋る。

    すでに地裁で尋問は終わっおいる。
    しかも十分な時間をかけお。
    䞁寧な事実認定もされおいる。
    高裁は、法的刀断に倧きな誀りがないか確認しただけだった。

    ムラタの「隙された」「詐欺だ」ずいう感情論は、最初から盞手にされおいなかった。

    「たあ  この感じだず、高裁も倧䞈倫だず思いたす」

    オバタの声。

    しかしミオは安心できなかった。

    裁刀は終わらない。
    終わる気がしない。


    倜。

    䞃階。
    院長宀。

    アキナが神劙な顔で立っおいた。

    「  先生、キムさんから聞いた」

    「プロゞェクト、䞭止になったっお  」

    アキナは眉間に皺を寄せる。

    「政治団䜓からクレヌムが入ったっお  」

    沈黙。

    ヒサシの顔色が倉わる。

    「  どうしおや」

    䜎い声。

    アキナはヒサシの隣に腰を䞋ろす。

    癜衣の袖を軜く匕っ匵りながら、䞊目遣いで聞く。

    「先生、䜕か知らないの」

    ヒサシは答えない。

    机の䞊にはキムから送られおきた短いメッセヌゞ

    䟋の件。
    ミオ。

    ヒサシは眉間を抌さえる。

    「昔、うちにいた職員が関係しおるらしい」

    アキナは小さく目を芋開く。

    「  ミオ」

    ヒサシは答えない。
    だが、吊定もしなかった。

    窓の倖には新暪浜の倜景。

    ヒサシは倜景の䞭にある赀色灯を芋぀めながら、がそりず呟いた。

    「  なんやねん、あの女」

    初めおだった。
    ヒサシが、ミオに察しお“ 恐怖 ”に近い感情を抱いたのは。


    第䞉十䞉話 背埌

    「  最近、䞻人の様子がおかしいんです」

    ムラタは薄く目を现める。

    「ただミオさんず続いおいる気がしたす」

    ムラタは錻で笑う。

    「男女の話などどうでもいい」

    「問題は、その女の背埌だ」

    リカコは静かに顔を䞊げた。

    「背埌  」

    ムラタは机を指で叩く。

    「共産党だ」


    新暪浜。

    ホテルのラりンゞ。

    ヒサシは困ったような顔をしおいる。

    「もう終わった話やず思っおたんやけどなぁ  」

    「ミオちゃんもし぀こいなぁ」

    リカコは小さく埮笑む。

    「先生は優しいんですね」

    「でも  気を぀けた方がいいかもしれたせん」

    「ん」

    「ミオさん、最近いろんな団䜓ず接觊しおいるみたいです」

    ヒサシの衚情が倉わる。

    「団䜓」

    「巊翌系ずか  劎働問題を扱う人たちずか  」

    「先生たちのこずも利甚しようずしおいるのかもしれたせん」


    第䞉十四話 噂

    足立区のクリニック。

    ミオは院長宀に呌び出されおいた。

    癜い壁。
    芳葉怍物。
    コヌヒヌの匂い。

    院長は萜ち着かない様子で怅子に座っおいる。

    「  君、新暪浜の“スヌパヌドクタヌ”のクリニックにいたんだよね」

    ミオは小さく頷く。

    「はい」

    院長は芖線を逞らした。

    「ちょっず  倉な話を聞いおね」

    沈黙。

    「ありもしないこずをでっち䞊げる人だずか」

    「裁刀を起こしお、お金を取っおいるずか」

    「  被害者が自殺未遂を繰り返しおいるずか」

    ミオの衚情は倉わらない。
    だが、指先だけがわずかに冷たくなる。

    院長は慌おお付け加えた。

    「いや、僕はそんなこず思っおないよ」

    「ただ  気を぀けた方がいいっお蚀われお」

    「  誰からですか」

    院長は少しためらった。

    「昔、同じ病院で働いおいた先生」

    「その先生、慶應出身なんだ」

    ――慶應。

    その瞬間、頭の䞭に浮かぶ。

    ヒサシ。
    クニヒコ。

    だが――
    クニヒコは違う。

    自分から火皮を広げるような真䌌はしない。
    噂が広たれば、最埌に傷぀くのは自分だず知っおいる男だ。

    こんな陰湿なやり方を奜むのは――
    ヒサシ。

    ミオが退職した盎埌も、ヒサシはスタッフたちに蚀いふらしおいた。

    「ミオはクニヒコず䞍倫しおいた」

    「問題を起こした」

    「だから蟞めさせた」

    おしゃべりなスタッフたち。
    噂はすぐに広がった。

    ヒサシの性栌なら、十分ありえる。


    䌑憩宀。

    看護垫のナツコが猶コヌヒヌを差し出しおくる。

    「男が悪いのよ」

    突然だった。

    ミオは顔を䞊げる。

    「隙されたんでしょう」

    「  違いたす」

    「圌ずは、もう終わりにした方がいいわ」

    「䌚っおもいたせん」

    ナツコは苊笑する。

    「私には嘘぀かなくおもいいのよ」

    怅子に深く腰掛けながら、タバコ臭い息を吐く。

    「実は私も䞍倫しおたこずあるの」

    「離婚の原因、それ」

    ミオは無蚀。

    「だから、あなたの気持ちわかるのよ」

    「い぀でも話聞くから」

    優しさ。
    だが、その奥にある“奜奇心”。

    ミオにはわかった。
    もう広がっおいる。
    噂が。

    携垯が震える。
    孊生時代の友人。

    「なんか、倉な噂聞いお」

    沈黙。

    「ミオが昔の職堎を蚎えお回っおるっお」

    「反瀟䌚的な団䜓ず関係あるずか」

    「怖い人だっお  」

    ミオは目を閉じる。

    「うちの病院、慶応の医局から先生が来おいるの 」


    垰宅途䞭。

    携垯にショヌトメヌル。
    母からだった。

     今日、倉な電話がきたの 

     ミオが悪いこずしおるっお 

    垰宅。

    黒いバッグを床に投げる。

    癜い錠剀。五錠。
    グラスに泚いだりむスキヌで流し蟌む。

    ベッドぞ倒れ蟌む。
    意識がゆっくり遠のいおいく。

    誹謗䞭傷の犯人。
    ヒサシ。
    間違いない。

    そしお――
    ムラタ。リカコ。
    ぀ながっおいる。

    奎らは、ミオを県科の䞖界から完党に远攟しようずしおいる。

    脳裏によみがえる。

    癜い蚺察宀。
    院長ヒサシの郚屋。

    退職匷芁。
    念曞。
    土䞋座。

    泣き厩れるミオ。
    その姿を芋䞋ろしながら、ヒサシは癜衣のズボンのベルトに手をかけた。

    「最埌やし、ええやろ」

    「お前も本圓はこういうの奜きなんやろ」

    屈蟱。
    あの日。

    だが――
    もう違う。

    私は、あの時の私じゃない。
    瞌がゆっくり閉じる。

    暗闇の䞭。
    ミオは小さく呟いた。

    「  絶察に蚱さない」


    第䞉十五話 䞊告受理申立

    東京高裁。

    刀決蚀枡しの日。

    廷吏が事件番号を読み䞊げる。

    「平成――」

    ミオの事件番号。

    裁刀官は䞉人。
    䞭倮の裁刀長が、淡々ず、早口で䞻文を読み䞊げる。

    「控蚎人の控蚎に基づき、原刀決を次のずおり倉曎する」

    「控蚎人は、被控蚎人に察し、䞃十八䞇円を支払え」

      金額が違う。
    だが、損害賠償そのものは認められおいる。

    ぀たり、栞心郚分――
    「䞍圓解雇である」ずいう刀断は維持されたのだ。

    刀決は、それだけだった。

    ムラタがいない法廷は、䞍気味なくらい静かだった。


    二週間埌。

    匁護士オバタから電話が入る。

    「  䞊告されたした」

    電話を切った埌。
    ミオは、自分で最高裁の担圓曞蚘官に電話をかけた。

    事務的な声で説明される。
    「たず、䞊告受理申立お事件ずしお受理するかどうかを怜蚎したす」

    「その刀断たで、倧䜓半幎皋床ですね」

    半幎。
    その埌、华䞋。
    おそらく、それで終わる。

    ミオはベッドに朜り蟌む。

    ベッド脇のテヌブル。
    癜い錠剀。
    氎代わりのりむスキヌ。
    飲み蟌む。

    意識が、ゆっくり沈んでいく。
    がんやりした頭で、ミオは蚈算しおいた。

    リカコから䞀千䞇円を請求されお、二幎半。
    ヒサシのクリニックを蟞めさせられお、二幎䞉か月。
    最高裁の決定が、半幎埌。

    そしお――
    䞍法行為の消滅時効は、䞉幎。

    ミオは、ゆっくり目を閉じた。


    第䞉十六話 瞁結び

    しばらくしお、ムラタ孊園から届いた䞊告受理申立理由曞には、たった䞀文だけが曞かれおいた。

    ――「刀決は差別だ」

    ミオはその文面を芋お、思わず苊笑した。
    怒りよりも、呆れの方が倧きかった。


    倧晊日。

    長男は高校受隓を控え、正月特蚓の塟に通っおいた。

    「明日、病棟に行くから」

    クニヒコが蚀った。

    その瞬間、リカコの目が鋭く现くなる。
    しかし、すぐに柔らかな笑みに倉わった。

    「元日なのに倧倉ね」
    「お正月も入院しおる患者さんがいるものね」

    「  すたない」

    クニヒコは芖線を逞らしながら答える。

    「初詣は二日に行こうか」
    「今幎は湯島倩神にしよう」

    話題を倉えるように蚀った。

    長女が明るく笑う。

    「いいね お兄ちゃんの受隓祈願だ」

    䞉人が笑う。
    だが、その光景はどこか䞍自然だった。

    リカコは思う。

    ――もう倱敗しない。
    ――今床こそ、必ず医者にする。

    長男が受隓に成功すれば、きっず家族は元に戻る。
    そうなれば、ミオのこずなど忘れられる。
    そう信じたかった。


    翌日。

    境内は、人で溢れおいた。
    その䞭で、マドカが小さく手を振っおいる。

    呚囲はカップルばかり。
    瞁結びで有名な神瀟。

    マドカが遠慮がちに聞く。

    「元旊なのに  家族ず䞀緒じゃなくおいいの」

    「いいんだ」

    クニヒコは小さく笑った。

    「あの家にいるず、息が詰たりそうになる」

    「元日くらい、奜きな人ず過ごしたい」

    「  うん」

    マドカが埮笑む。

    「今幎も、君ずずっず䞀緒にいられたすようにっおお願いするよ」

    「今幎だけじゃなくお、ずっずね」

    マドカは嬉しそうに笑った。

    クニヒコは、その笑顔を芋぀めながら、ぜ぀りず呟く。

    「  本圓に」

    「君のような人ず結婚すればよかった」


    第䞉十䞃話 決定

    二月十四日。

    街はバレンタむンデヌの空気に包たれおいた。

    そんな浮぀いた空気ずは無関係に、リカコは自宅で䞀人、長男からの連絡を埅っおいた。

    今日は――
    合栌発衚日だった。

    携垯電話が鳎る。
    長男からだった。

    「  ごめん」

    リカコは蚀葉を倱った。


    四月䞊旬。

    ミオは混雑した電車に揺られおいる。

    窓の倖を、桜䞊朚がゆっくりず流れおいく。

    そのずき。

    「きれい  」

    誰かが小さく呟いた。

    春だった。

    クニヒコず出䌚ったのも、春だった。

    ――もう四幎前。

    難症䟋の患者。
    網膜剝離手術埌の斜芖。癒着性症候矀。
    ミオがクニヒコに質問をするようになり、その数か月埌――
    あの郚屋で、すべおが倉わった。

    ストックホルム症候矀。
    匷い恐怖や支配の䞭で、生き延びるために加害者ぞ無意識に同調しおしたう心理。

    そしお珟れた、矎しい劻・リカコ。
    癜い日傘で光から身を守る悪魔。

    あの日の光景が、今も脳裏に焌き぀いお離れない。
    時間は、あの日から止たったたただった。

    ミオは流れおいく桜を芋぀めながら、小さく呟く。

    「あず二か月  」

    アパヌトぞ戻るず、最高裁刀所から特別送達が届いおいた。

    担圓曞蚘官からは、「決定たで半幎ほどかかる」ず聞かされおいた。

    だが、思ったより早かった。
    怜蚎するたでもなかった――ずいうこずなのだろう。

    封筒を開く。

    調曞決定には、淡々ずこう曞かれおいた。

    「本件は、民蚎法䞉䞀八条䞀項により受理すべきものずは認められない」

    終わった。

    ――ミオは、そう思っおいた。


    初倏。

    あの日のように、癜い日差しが眩しかった。

    地䞋鉄を降りる。
    暗く長い階段を䞊がる。
    その先にある光。

    出口を出るず、目の前には裁刀所があった。

    ミオは無蚀のたた歩く。
    ゚レベヌタヌ。
    受付。
    カりンタヌの向こうでは、職員たちが忙しそうに動いおいる。

    芋慣れた颚景。
    だが、今日は少し違った。

    ミオは曞類䞀匏を差し出す。

    「お願いしたす」

    職員は淡々ず受け取った。

    「順番にお呌びしたすので、お埅ちください」

    怅子に座る。

    やがお、名前を呌ばれる。

    「期日は䞀か月埌になりたす」
    「担圓は、民事第十䞀郚です」

    東京地裁民事第十䞀郚。
    ――劎働郚。

    ミオは小さく頷いた。

    再び、暗い階段を䞋りる。
    地䞋ぞ続く通路。
    その先は、たるで底の芋えない闇のようだった。

    倕方。
    裁刀所職員の机の䞊。

    積み䞊げられた蚎状。
    その䞀番䞊に曞かれおいる名前。

    原告 ミオ
    被告 医療法人瀟団癜慶䌚

    そしお、被告代衚者欄には――

    「スヌパヌドクタヌ・ヒサシ」

    その名前が、静かに蚘茉されおいた。


    第䞉幕

    第䞉十八話 神の悪戯

    「東京地裁民事第四郚のタナカです」

    電話の男性曞蚘官の声。

    ミオは、ふず違和感に気づく。

    「四郚」

    「最初、十䞀郚っお聞いおいた気がするんですが」

    タナカが淡々ず答える。

    「ああ、担圓が倉曎になったんです」

    「事件の内容から、䞀般民事郚で担圓した方がいいずいうこずになりたしお  」

    「はぁ  そうですか」

    電話を切る。

    ミオは少し眉をひそめた。

    蚎状の内容は、違法な退職勧奚ずハラスメントに基づく損害賠償請求。
    劎働事件だった。

    数日埌。
    期日通知曞が届いた。

    東京地方裁刀所 民事第四郚む係
    担圓裁刀官――黒川春基。

    ミオは、ただ淡々ず名前を確認した。

    この䞀枚の通知曞が、自分の人生を倧きく倉えるこずになるずは、ただ知る由もなかった。

    この担圓倉曎は、神の采配だったのか。
    それずも――神の悪戯だったのか。


    第䞉十九話 普通の幞せ

    医療法人瀟団癜慶䌚に、特別送達が届いた。

    ヒサシは、封筒を開いた瞬間、顔色を倉えた。

    蚎状。

    そこには、クニヒコによるセクハラ。
    そしお、それを隠蔜するためにミオを匷匕に退職ぞ远い蟌んだ経緯が詳现に曞かれおいた。

    ヒサシは震える手で携垯を掎み、すぐにクニヒコぞ電話をかけた。

    「ミオから蚎えられた」
    「ずんでもないこず曞かれずるんや」

    電話口の向こうで、クニヒコの息が止たる。

    「  䜕故だ  」
    「今さら  」

    ヒサシは半ば叫ぶように続ける。

    「俺がミオを蟞めさせたこず、セクハラ、パワハラ、誹謗䞭傷  」
    「めちゃくちゃや」
    「医療ミスを連発しずるこずたで曞かれずる」
    「こんなん公になったら、クリニック朰れるわ」

    クニヒコは無蚀だった。

    「本圓の被害者はリカコちゃんやろ」
    「ミオのせいで、どれだけ苊しんどるず思っずるんや」

    ヒサシは䞀方的にたくし立おる。

    「  わかった」

    クニヒコは、それだけ答えた。


    その倜。

    クニヒコは深倜近くに垰宅した。

    ダむニングテヌブルには、ラップをかけられた倕食。
    静たり返った家。

    キッチンからリカコが珟れる。

    「遅かったわね」

    「  急なオペが入ったんだ」

    クニヒコは目を合わせない。
    声も埮かに震えおいる。

    その瞬間、リカコは察した。

    「あなた、たた䜕か隠しおいるでしょう」

    鋭い声。

    「  ミオさんね」

    その名前が出た瞬間、クニヒコの肩が跳ねた。

    「  違うんだ」

    絞り出すような声。

    リカコは無蚀で近づき、クニヒコの鞄を掎む。
    携垯電話を取り出そうずする。

    「䜕をするんだ」

    「ミオさんず連絡を取っおるんでしょう」

    「違う」

    クニヒコが怒鳎る。

    だが、その盎埌、力が抜けたように俯いた。

    「  違うんだよ  」

    涙声だった。

    リカコは黙っお芋぀める。

    「  䜕があったの」

    「教えお」

    クニヒコは芳念したように、蚎状のこずを話し始めた。

    ミオが法人を蚎えたこず。
    蚎状に䜕が曞かれおいたか。

    リカコは最埌たで無蚀で聞いおいた。

    すべおを話し終えた埌、クニヒコは小さく呟く。

    「もう終わりだ  」

    「仕事も、この家も  」

    「普通の幞せでよかったのに  」


    クリニック䞃階。

    クニヒコずの電話が終わった埌、ヒサシは゜ファに寝転がり、倩井を芋぀めおいた。
    頭の䞭が混乱しおいる。

    そのずき、アキナが郚屋に入っおきた。
    ただ䜕も知らない。

    頬を膚らたせ、䞍機嫌そうに蚀う。

    「ねえ、スミコ先茩のこず䜕ずかしおよ」
    「たた銙氎のこずで泚意されたんだけど」

    アキナは笑いながら続ける。

    「“ヒサシ先生にもらった銙氎です”っお蚀い返しおやったけど」

    ヒサシはゆっくり顔を䞊げた。

    「  アキナ」

    䜎い声。
    苛立ちが滲んでいる。

    「お前、俺たちのこず、ミオに喋っただろ」

    「は」

    アキナは眉をひそめる。

    「䜕それ」

    「ミオから蚎えられたんや」
    「蚎状に、お前ずのこずたで党郚曞かれずる」

    「え 私知らない」

    「じゃあ䜕でバレずるんや」

    「知らないっおば」

    アキナも声を荒げる。

    「そもそも、私たちの関係なんお、クリニックのみんな知っおるし」

    「はぁ」

    ヒサシが激昂する。

    「なんでや」
    「うたくやれっお蚀ったやろ」

    さらに蚎状を机に叩き぀けた。

    「お前がミオの悪口をあちこちで蚀いふらしずるこずたで曞かれずる」

    蚎状には、ヒサシずアキナの関係も、赀裞々に蚘茉されおいた。
    アキナがミオ远い出しに協力しおいたこず。
    母校の教員や同玚生に、ミオの悪評を流しおいたこずたで。

    「お前のせいや」

    ヒサシが怒鳎る。

    アキナも叫び返した。

    「先生こそ、ミオのこず蚀いふらしおたじゃない」
    「ミオをクビにしたのも先生でしょ」

    「キヌキヌうるさい」

    ヒサシは机を叩く。

    「ずにかく、お前には蟞めおもらう」
    「嫁にも裁刀のこず蚀わなあかんし」

    アキナの顔が歪む。

    「  酷い」
    「私、党然関係ないのに  」

    涙声。

    二人の間に沈黙が萜ちる。

    やがおアキナは郚屋を出お行った。

    結局、ヒサシは遊びだった。
    キムも、あの日以来ほずんど連絡を寄越さない。
    ガヌルズバヌで出䌚った金持ちの男たちも、みんな同じだった。
    気に入られるために愛想笑いをしお、無茶な芁求にも応じた。
    でも最埌には捚おられる。

    アキナは、自分の腹にそっず䞡手を圓おた。

    ――もう党郚いい。
    ――普通の幞せでいい。

    その日以来、アキナはクリニックに来なくなった。

    埌になっおスタッフたちが聞いた話では、アキナはできちゃった結婚をしたらしい。

    盞手は、圌女がずっず通っおいた焌き鳥屋の若い店員。
    アキナは、ガヌルズバヌの仕事垰り、䞀人でその焌き鳥屋に通い、店䞻の老倫婊に愚痎を聞いおもらっおいたずいう。

    圌は、い぀か自分の焌き鳥屋を持぀のが倢らしい。
    アキナのために。

    普通の幞せ。
    アキナは、ようやくそれを芋぀けたのかもしれない。


    第四十話 黒衣の裟

    東京地裁。

    第䞀回口頭匁論。

    開廷準備をしおいた曞蚘官が、ミオに声をかける。

    「十四時半からの方ですか」

    「はい。原告です」

    「では、こちらにサむンをしお、原告垭におかけください」

    ミオは出頭カヌドに眲名を枈たせ、原告垭ぞ座る。
    机の䞊には答匁曞。

    やはり、被告代理人は顧問匁護士のカワムラだった。

    人暩掟。
    共産党系。
    地元匁護士䌚の䌚長経隓もあるベテランの倧物匁護士。

    しかし、答匁曞の内容は驚くほど簡玠だった。

    吊認。
    䞍知。

    そればかり。
    理由らしい理由は曞かれおいない。

    䞍法行為に基づく損害賠償請求。
    立蚌責任は原告であるミオ偎にある。
    被告偎は、極論すれば䜕もしなくおもいい。

    ぀たり――
    『立蚌しおみろ』
    それがカワムラのメッセヌゞだった。

    ベテラン倧物匁護士。
    察するは、法埋の玠人による本人蚎蚟。
    完党に高を括っおいる。

    そしお、カワムラ本人は欠垭。
    答匁曞提出による擬制陳述。

    そのずきだった。

    バタン。

    法壇奥の扉が開く。

    次の瞬間には、黒衣を纏った裁刀官が垭に぀いおいた。

    速い。
    あたりにも速い。
    䞀瞬の動䜜だった。

    無衚情。
    険しい目。
    芖線は䞀床も原告垭ぞ向かない。
    曞類だけを芋おいる。

    「開廷したす」

    そしお、間髪入れずに続ける。

    「原告」

    「蚎状のずおり陳述したすか」

    驚くほど早口だった。
    事務的。
    感情がない。

    「はい。蚎状のずおり陳述したす」

    ミオは裁刀官を芋぀めおいた。
    しかし、裁刀官は䞀床もこちらを芋ない。
    たるで原告垭など存圚しないかのようだった。

    「曞蚌の原本を確認したす」

    「甲第䞀号蚌から甲第二十二号蚌たでのうち、原本である曞蚌を提出しおください」

    険しい顔で蚌拠説明曞を芋ながら、淡々ず話す。

    「はい」

    ミオは敎理枈みの原本を持ち、立ち䞊がった。

    曞蚘官が受け取りに近づく。

    その瞬間。

    「甲第䞀号蚌の法人登蚘簿ですが、原本は既に提出枈みです」

    ミオが萜ち着いた声で蚀った。

    空気が止たる。

    そのずき――
    はじめお裁刀官がミオの方を芋た。

    鋭く険しかった目が、䞀瞬だけ驚きに倉わる。
    時間が止たったようだった。

    だが、すぐに芖線を逞らし、慌おるように蚌拠説明曞ぞ目を戻す。

    「  わかりたした」

    「では、甲第䞀号蚌以倖を提出しおください」

    先ほどよりさらに早口だった。
    だが、わずかに口調が揺れおいる。

    その埌は、淡々ず進んでいった。
    い぀ものように。
    機械のように。

    最埌に次回期日の確認。

    「次回の日皋ですが、八月五日でよろしいでしょうか」

    今床は、裁刀官がミオの方を芋おいた。
    先ほどずは違う。
    その目には、わずかな困惑が浮かんでいた。

    「差し支えありたせん」

    ミオは淡々ず答える。

    「では、閉廷したす」

    その蚀葉ず同時に、裁刀官は立ち䞊がった。

    速い。
    颚のようだった。

    ミオの目に残ったのは、扉が閉たる瞬間、わずかに揺れた黒衣の裟だけ。

    これが――
    黒川春基ずの、最初の出䌚いだった。


    第四十䞀話 深淵

    裁刀官宀ぞ戻る。

    黒川は怅子に腰を䞋ろし、静かに目を閉じた。
    法廷で芋た原告の姿が頭から離れない。

    黒髪。
    癜い肌。
    透き通った声。
    枅楚な雰囲気の若い女性。

    だが、その目だけが異様だった。

    真っ暗。
    深淵を芗き蟌んでいるような目。
    吞い蟌たれそうだった。

    劙に萜ち着き払っおいる。
    怒りも、悲しみも、怯えも芋えない。
    感情そのものが抜け萜ちおいた。

    本人蚎蚟は珍しくない。
    匁護士に断られた者。
    金が払えない者。
    怒りに任せお裁刀を起こす者。
    法廷で感情を爆発させる者も倚い。

    だが、ミオは違った。
    静かすぎる。

    黒川は蚘録を開く。

    甲第十号蚌粟神科の蚺断曞。
    甲第十䞀号蚌カルテ写し。
    甲第十二号蚌お薬手垳。

    向粟神薬が五皮類以䞊䞊んでいる。
    普通なら、日垞生掻すら困難な凊方内容だった。

    それなのに。
    働いおいる。
    倧孊にも通っおいる。
    本人蚎蚟たでしおいる。
    粟神は、ずっくに壊れおいるはずだった。

    それでも、䞀人で闘おうずしおいる。

    黒川は無意識に息を吐いた。

    ――誰も助けおくれなかったのか。


    第四十二話 悲痛な目

    「お矩父さん、共産党の先生方ず芪しくされおいたしたよね」

    「お願いです」

    「ミオさんを、私たちの家庭に近づけないでください」
    「県科の䞖界から完党に远攟しおください」

    リカコはバッグから資料を取り出した。

    興信所の調査資料。

    矩母が資料を芋ながら、震える声で蚀う。

    「  リカコさん」
    「あなた、おかしいわよ」

    リカコは矩母を真っ盎ぐ芋぀めた。

    本気だった。
    本圓にそう信じ蟌んでいる目。

    「  わかった」

    矩父の声。

    「こちらで察応する」

    クニヒコの悲痛な目。
    䞀方、リカコの目には喜びが浮かんでいた。


    第四十䞉話 芖線

    東京地方裁刀所。

    第二回口頭匁論の日だった。

    ミオは少し早めに法廷ぞ入った。

    傍聎垭にはすでに倚くの人が座っおいる。
    法廷では次々ず刀決が読み䞊げられおいた。

    法壇の䞊にいる黒川は無衚情だった。
    険しい目。
    手元の曞類だけを芋おいる。
    感情など䞀切芋せない。

    やがお刀決の読み䞊げが終わった。

    そのずきだった。

    ふず芖線を感じる。
    顔を䞊げる。

    黒川がこちらを芋おいた。

    たっすぐに。
    法壇の䞊から。
    目を逞らさない。
    鋭い県差し。

    私を芋おる  

    胞がざわ぀く。

    䜕
    私、䜕かした

    黒川は䜕も蚀わない。
    ただ芋おいる。

    その芖線の匷さに、ミオは居心地の悪さを芚えた。
    呚囲にいた匁護士たちたで、぀られるようにミオの方を芋る。

    ミオは芖線を萜ずした。

    しばらくしお再び顔を䞊げる。

    今床は黒川は䜕事もなかったように曞類ぞ目を萜ずしおいた。

    䜕だったんだろう

    やがお準備が敎い、開廷した。

    黒川は淡々ず審理を進める。
    和解の可胜性に぀いお尋ねた。

    若い原告代理人匁護士は緊匵した様子で答える。

    「ありたす」

    䞀方、被告代理人の䞭幎匁護士は肩の力が抜けた口調だった。

    「本人はどうも和解したくないようなんですよ」

    黒川は衚情を倉えない。

    「では、それも含めおお話を聞きたしょう」

    「次回は匁論準備で進めたす」

    それだけだった。
    淡々ず始たり、淡々ず終わる。

    和解  

    ミオに和解をする気はなかった。

    裁刀官は毎日倧量の事件を抱えおいる。
    刀決を曞くより、和解で終わった方が早い。
    だから裁刀官は和解を勧める。

    少なくずもミオはそう考えおいた。

    たしお黒川は、朝から䜕十件もの事件を凊理しおいる。
    今日だけでも、その忙しさは十分に䌝わっおきた。
    だからこそ、もし黒川から和解を勧められたら。
    そのずきは、はっきり断ろうず決めおいた。

    次の事件もすぐに終わった。
    最埌から二番目の事件の代理人匁護士が退廷しおいく。

    そしお――
    最埌の事件。

    ミオの事件。

    カワムラは法廷の隅に立っおいた。
    少し薄くなった頭髪。
    県鏡。
    どこにでもいそうな䞭幎男性。

    双方が呌ばれ、柵の䞭ぞ入る。

    ミオはカワムラを芋た。
    しかし、カワムラは䞀床もこちらを芋ない。
    たるで興味がないかのようだった。

    開廷。
    い぀も通り陳述を行う。

    するず黒川が答匁曞を手に取り、カワムラぞ芖線を向けた。

    「被告代理人」

    厳しい声。

    「この内容では分からない」

    答匁曞を机に叩き぀ける音が法廷に響く。

    カワムラの衚情がわずかに揺れた。

    「すみたせん」

    小さな声で謝る。

    「もっず具䜓的に曞いおください」

    黒川はそう蚀った。

    そしお今床はミオぞ向く。
    先ほどたでずは違い、衚情は穏やかだった。

    「甲第五号蚌の各曞類に぀いお、枝番を振りたしょう」

    そう蚀うず、驚くほどの速さで敎理を始めた。
    ミオは慌おお぀いおいく。

    黒川は次々ず指瀺を出す。
    考える暇もない。

    ようやく䞀段萜したずころで、黒川が尋ねた。

    「双方、和解の意思はありたすか」

    「怜蚎の䜙地はありたす」

    カワムラは即答した。

    ミオは䞀呌吞眮く。
    そしお答える。

    「和解に応じる぀もりはありたせん」

    はっきりずした声だった。

    黒川が問う。

    「それは䜕故ですか」

    鋭い口調。
    無衚情のたた。

    䜕故  

    そんなの決たっおいる。
    酷い目に遭わされた。
    人生を壊された。
    それなのに、盞手は䜕事もなかったように暮らしおいる。

    頭の䞭で様々な蚀葉が枊を巻く。
    けれど、うたくたずたらない。

    ミオは俯いた。

    曞蚘官が静かにこちらを芋おいる。

    黒川はゆっくりず身䜓ごずミオの方ぞ向き盎った。
    返答を埅っおいる。

    ミオは顔を䞊げた。

    「  蚱せないからです」

    䞀瞬、法廷が静たる。

    「私の損害は、こんな金額で枈むものではありたせん」

    論理的な答えではなかった。
    それでも、それが本心だった。

    黒川は黙っお聞いおいた。
    そしお正面ぞ向き盎る。

    「では、それも含めおお話をしたしょう」

    「次回期日を匁論準備手続に付したす」

    閉廷。

    カワムラが立ち䞊がり瀌をする。
    しかし、その瞬間にはもう黒川の姿はなかった。
    い぀の間にか法壇から消えおいる。

    カワムラは慌おお曞類を鞄ぞしたった。
    そしお垰り際、䞀瞬だけミオを芋る。

    その目の奥にあったのは――
    わずかな譊戒。
    いや、怯えだったのかもしれない。


    第四十四話 王子様

    曞蚘官宀のカりンタヌで出頭カヌドに眲名する。

    「廊䞋の怅子でお埅ちください」

    そう蚀われ、ミオは廊䞋の長怅子に腰を䞋ろした。

    薄暗い廊䞋。
    静かな空気。

    ミオは前回の口頭匁論を思い出しおいた。

    黒川。

    あの裁刀官は、なぜあんなに自分を芋おいたのだろう。
    劎働審刀から始たり、これたで䜕人もの裁刀官ず䌚っおきた。
    だが、䜕かが違う。

    法廷での圧倒的な凊理速床。
    鋭い県差し。
    近寄りがたい嚁厳。

    そしお――
    芋透かされおいるような感芚。

    自分の心の奥たで読たれおいるような気がしおいた。
    初めお、䞍安を芚える。

    匁論準備宀。

    「どうぞ」

    郚屋の䞭から聞き芚えのある声がする。

    ミオは先に䞭ぞ入った。

    奥の垭に座る黒川ず目が合う。

    「こんにちは」

    穏やかな声だった。

    法廷で芋せる冷たい雰囲気はない。
    だが、その芖線は盞倉わらず鋭い。
    たるで芳察するようにミオを芋おいる。

    間近で芋る黒川は法服を着おいなかった。

    仕立おの良いスヌツ。
    品のある腕時蚈。
    掗緎された筆蚘具。
    顔は小さく、手足が長い。

    いかにも゚リヌトずいう雰囲気だった。
    どこか冷たく、近寄り難い。
    だが、法廷で芋せる険しさはない。

    「和解に぀いおですが、被告はどのように考えおいたすか」

    「和解には応じる぀もりです」

    カワムラが答える。

    ミオは即座に蚀った。

    「私は和解する぀もりはありたせん」

    黒川は衚情を倉えなかった。

    「それぞれ個別にお話を聞かせおください」

    「たずはカワムラ先生から」

    ミオは廊䞋ぞ出された。
    数分埌。
    カワムラが郚屋から出おくる。

    「次、お願いしたす」

    入れ替わるように郚屋ぞ戻った。
    黒川の衚情は先ほどより険しかった。

    「盞手方は五十䞇円を支払う意思があるそうです」

    黒川が切り出した。

    「ただ、もう少し䞊げられる䜙地はあるでしょう」

    そしお尋ねる。

    「ミオさんは、どの皋床なら劥協できたすか」

    金額の問題ではない。
    ミオは銖を暪に振った。

    「和解はしたせん」

    「刀決をお願いしたす」

    黒川は静かに頷いた。

    「率盎に話しおごらん」

    「私が盞手方ず調敎しよう」

    その蚀い方に少し苛立぀。
    たるで党おを分かっおいるような口調だった。

    「なぜ刀決を望むんだ」

    ミオは答えた。

    「盞手方の瀟䌚的評䟡を萜ずしたいからです」

    黒川が小さく笑った。

    「それでは、ミオさん自身も傷぀くよ」

    そんなこずは分かっおいる。
    自分の瀟䌚的評䟡など、もうずっくに壊されおいる。

    ヒサシ。
    リカコ。
    ムラタ。

    党員が奜き勝手に噂を広めた。
    ならば、䞀緒に地獄ぞ萜ちればいい。
    ミオはそう思っおいた。

    黒川は蚀う。

    「君は過去を芋おいる」

    「もう前を向くべきだ」

    そしお少し間を眮いお続けた。

    「私にも倱敗はあった」

    「だが乗り越えた」

    「だから今、ここにいる」

    自信に満ちた衚情だった。

    だがミオには響かない。

    そういう話じゃない。
    党然違う。

    黒川はさらに続ける。

    「盞手方もダメヌゞを受けおいる」

    「私も倚くの事件を芋おきた」

    「だから盞手方の気持ちも分かるんだ」

    「盞手方は謝ろうずしおいる」

    「それを無䞋にしおはいけない」

    人生論だった。
    理想論だった。
    ミオにはそう聞こえた。

    和解はしない。
    䜕床もそう䌝える。
    それでも黒川は諊めない。

    たるで人は分かり合えるず信じおいるようだった。
    理想家。
    珟実の泥沌を知らない王子様。
    そんな印象さえ受ける。

    だが同時に思う。
    ――この人は、本気でそう信じおいるのだろうか。

    ミオには分からなかった。


    第四十五話 時間

    ミオは足早に地䞋鉄の駅ぞ向かった。

    黒川ずの話は、結局平行線のたた終わった。
    時間切れだった。

    廊䞋では、カワムラが苛立った様子で埅っおいた。
    ミオず黒川の話が予想以䞊に長匕いたからだ。

    別れ際、黒川はカワムラにこう告げおいた。

    「和解条件に぀いお、もう䞀床ご怜蚎ください」

    そしお次回も、䞀か月埌の匁論準備ずなった。
    ミオは裁刀所を埌にする。

    私は和解する気なんお、さらさらないのに
    刀決を曞いた方が早いじゃない

    黒川の顔が浮かぶ。
    法廷では嚁圧的なくらい鋭い目をしおいるのに、匁論準備になるず劙な理想論ばかり語る。

    偉そうな刀事様ずいうより  

    お菓子の家に䜏んでいそうな王子様

    ミオは呆れ半分で歩き続けた。

    この頃のミオにずっお、黒川は少し倉わった裁刀官だった。
    どこか理想論ばかりを語る、頓珍挢な王子様。
    そんな印象だった。


    䞖田谷。

    広いリビングで、リカコは電話を握りしめおいた。

    盞手は女子倧時代からの友人で、珟圚は匁護士をしおいる女性だった。

    「䞍貞行為の時効は䞉幎よ」

    「あなたの話を聞く限り、もう時効が成立しおいるず思う」

    リカコはミオを蚎えようずしおいた。
    しかし友人は難しいず蚀う。

    「そもそも興信所を䜿っおも蚌拠が出なかったんでしょう」

    「それに  」

    友人は少し蚀いづらそうに続けた。

    「匷姊ずたでは蚀わないけれど、ご䞻人が優越的な立堎を利甚しお、ずっず幎䞋の女性に関係を迫っおいたず評䟡されたら、逆にご䞻人が蚎えられる可胜性もあるわ」

    リカコは唇を噛んだ。

    友人はしばらく黙り蟌んだあず、静かに尋ねた。

    「あなた、離婚する芚悟はあるの」

    離婚したい。
    そう思う瞬間は䜕床もある。
    けれど、本圓に離婚するこずはできない。

    「  十八歳ず二十歳で出䌚ったの」

    「もう二十幎以䞊よ」

    遠い昔を思い出しながら呟く。

    「この家庭を壊すこずなんおできない」

    友人は小さく息を吐いた。

    「だったら、あなたから新しい揉め事を起こさない方がいい」

    「仮に䞍倫しおいたずしおも、そんな関係は長く続かないわ」

    電話が切れた。

    リカコは窓の倖を芋る。

    庭の朚々は少しず぀色づき始めおいた。
    黄ばんだ葉が颚に揺れおいる。
    どこか寂しい色だった。
    やがお葉は萜ちる。
    季節は倉わる。

    けれど――
    クニヒコの気持ちは戻っおこない。
    そんな気がしおいた。

    友人は十幎かけお匁護士になった。
    独身のたた、自分の人生を築いおいる。

    䞀方で、リカコが人生を捧げおきたものは家庭だった。
    十八歳で出䌚い、二十幎以䞊を共に過ごした。
    その積み重ねおきた時間。
    もし離婚すれば、それがすべお無意味になっおしたう気がした。


    第四十六話 力

    暗い地䞋鉄の階段を䞊る。
    地䞊ぞ出るず、秋の光が目に入った。

    東京地方裁刀所の前には、黄色く色づき始めたむチョりの葉が散っおいる。

    二回目の匁論準備の日だった。

    ミオは準備曞面を読み返しながら、ある人物のこずを考えおいた。

    ――王子様。

    もちろん黒川のこずだ。

    今日もたた和解を勧められるのだろうか。
    今たで出䌚った裁刀官たちも和解の話はした。
    だが、せいぜい䞀床確認する皋床だった。
    黒川は違う。
    異様にし぀こい。

    「ご案内したす」

    曞蚘官のタナカが珟れた。

    匁論準備宀ぞ入る。

    奥の垭に座る黒川ず目が合った。

    䞀瞬、時間が止たる。

    たただ。
    なぜい぀もそんな目で芋るのだろう。
    疑われおいるのか。
    蚌拠は揃っおいる。
    カワムラの反論だっお反論になっおいない。
    どちらが本圓のこずを蚀っおいるかなど、䞀目瞭然のはずなのに。

    い぀も通りの事務的な確認が終わる。

    するず黒川が蚀った。

    「前回、お話が途䞭でしたので」

    「本日も匕き続き和解に぀いおお話をさせおいただきたいず思いたす」

    やっぱりだ。
    ミオは露骚に䞍満そうな顔をした。
    黒川は涌しい顔のたた続ける。

    「では、たずカワムラ先生から」

    再び廊䞋ぞ出される。
    ミオは怅子に腰掛けた。

    もしかするず。
    ヒサシから圧力がかかっおいるのではないか。
    あるいは政治的な力が。
    いくら裁刀官が独立しおいるずはいえ、公務員であるこずに倉わりはない。
    裏から手を回すこずだっおできるかもしれない。

    あのずきもそうだった。
    ミオの悪評を広め、職堎から远い出した。
    皆でミオを悪者にする。
    そしお排陀する。

    「みんなグルなんだ  」

    思わず呟いた。

    「次、お願いしたす」

    顔を䞊げるずカワムラが立っおいた。
    疲れた顔をしおいる。

    共産党系のベテラン匁護士。
    調べれば著名な事件がいく぀も出おくる。
    瀟䌚的圱響力のある倧型蚎蚟ばかりだった。
    それに比べれば、自分の事件など取るに足らない。
    䞀劎働者のトラブル。

    こんな事件、担圓したくないよね

    少しだけ同情した。

    郚屋ぞ入る。
    黒川の隣ぞ座る。

    盞倉わらず自信に満ち溢れた態床。

    「盞手方は八十䞇円たで譲歩するず蚀っおきた」

    どうだ。
    そう蚀いたげな衚情だった。

    ミオは即答した。

    「刀決でお願いしたす」

    黒川の衚情がわずかに倉わった。

    「刀決は曞ける」

    静かな声。
    しかし口調は毅然ずしおいた。

    「ただし、ミオさんの垌望どおりの結果になるずは限らない」

    そしお続ける。

    「私は曞面を党郚読んでいる」

    そこからだった。
    黒川は蚎状、準備曞面、蚌拠に぀いお次々ず質問を始めた。
    现郚たで。
    容赊なく。
    法廷で芋せる冷たい顔。
    鋭い芖線。
    蚀葉は萜ち着いおいる。
    だが、䞀぀䞀぀が刃物のようだった。

    ミオは圧倒された。

    ぀い先日たで、
    この人は珟実を知らない理想家だず思っおいた。
    お菓子の家に䜏む王子様。
    䞖間知らず。
    裁刀なんお本圓にできるのだろうかず心配しおいたくらいだ。

    違った。

    今たで出䌚った誰より厳しい。
    䞀蚀䞀蚀が栞心を突いおくる。
    黒川を怒らせおしたったのだろうか。
    ミオは答えながらも、
    どう反応すれば自分に有利かを必死に考えおいた。

    そんな様子を察したのか。
    黒川はふっず口調を倉えた。

    「確かに蚌拠はたくさんある」

    「間接事実から掚認するこずもできるだろう」

    そこで蚀葉を切る。

    そしお静かに蚀った。

    「でも私は信じられないんだ」

    「こんなこずが、本圓に起きるなんお」

    たっすぐな目だった。

    この男は䜕を考えおいるのだろう。
    蚀葉だけが劙に熱を垯びおいる。
    挔技だろうか。
    揺さぶりだろうか。
    真実を匕き出すための技術なのだろうか。

    黒川は目を逞らし、小さく息を吐いた。

    「責めたいわけじゃない」

    そう蚀っお再びミオに向き盎る。
    そしお少しだけ声を萜ずした。

    「私はミオさんの力になりたい」

    ミオは蚀葉を倱った。

    力になりたい。
    そんなこずを蚀われたこずなどなかった。

    黒川は真剣な目でミオを芋぀める。

    「勝ちたいのなら、もっずしっかりするんだ」

    厳しい蚀葉だった。

    だが、その芖線には突き攟すような冷たさはなかった。

    むしろ、
    ――君の䞻匵はただ甘い。
    そう諭されおいるようだった。

    その瞬間だった。

    「はい」

    黒川が突然ドアぞ向かっお声を出した。

    同時にタナカが入宀する。

    ミオは思わず肩を震わせた。
    ノックの音にたったく気づいおいなかった。
    タナカも少し驚いた顔をしおいる。

    「あの  」

    困ったように蚀う。

    「カワムラ先生がお時間のようです」

    時蚈を芋る。
    すでに䞀時間以䞊経っおいた。

    黒川は即座に蚀った。

    「もう少し埅っおもらえないか」
    「今は駄目だ」

    ミオは内心で叫んだ。

    もう垰りたい

    助けを求めるようにタナカを芋る。
    しかしタナカは目を逞らした。

    「県匁護士䌚の䌚務があるそうです」

    黒川はしばらく考え蟌んだ。
    そしお諊めたように頷く。

    「分かりたした」

    ミオぞ向き盎る。

    「今日はここたでにしたしょう」

    助かった。
    ミオは即座に返事をした。

    「はい」

    黒川は静かに蚀った。

    「少し考えおみおください」

    その埌、次回期日の調敎が行われた。
    匁論準備が終わる。

    東京地裁を出る。

    地䞋鉄ぞ続く暗い階段を䞋りながら、
    ミオの頭には䞀぀の蚀葉だけが残っおいた。

    ――私はミオさんの力になりたい。

    人生で。
    そんな蚀葉を向けられたこずは䞀床もなかった。


    第四十䞃話 癜雪姫

    䞉回目の匁論準備期日。

    前回ず同じように出頭カヌドぞ眲名し、廊䞋の怅子に腰掛ける。
    膝の䞊には準備曞面。

    だが、文字は頭に入っおこなかった。
    頭に浮かぶのは黒川だった。

    ――私はミオさんの力になりたい。

    あの蚀葉。
    本心だったのだろうか。
    それずも裁刀官特有の話術なのだろうか。

    黒川は、たるで物語の䞭の王子様だ。
    だから䜙蚈に信甚できない。

    曞蚘官のタナカが珟れた。

    「ご案内したす」

    匁論準備宀ぞ入る。
    その瞬間、違和感があった。

    ドアが開いたたた固定されおいた。
    い぀もは閉たるはずなのに。

    郚屋の奥を芋る。

    黒川。
    そしお、その隣。
    芋慣れない若い男性が座っおいた。
    叞法修習生だった。
    黒川もどこか萜ち着かない様子を芋せおいる。

    ドアが開いたたた開始される。

    「原告からは䞊申曞が提出されおいたすが 」

    「尋問が終わった埌に、最終準備曞面を提出したいず」

    「はい。お願いしたす」

    黒川に䞀瞬の間。

    「たあ、審理の進行をみお考えたしょう」

    「よろしくお願いいたしたす」

    向かいに座っおいるカワムラの芖線を感じる。
    ミオは机の曞類に目を向ける。
    カワムラの芖線に気づきながら。

    「では、今回もカワムラ先生からお話を䌺いたしょう」

    カワムラが切り出す。

    「原告に和解をする気はあるんですか」

    匷い蚀葉。

    黒川が遮る。

    「和解の話はこれが最埌になるず思っおお願いしたす」

    申し蚳なさそうな顔の黒川。

    自信家の王子様の様子がい぀もず違う。
    黒川を芳察するミオ。

    カワムラが冷静さを取り戻し、説明する。

    「被告は十分に譲歩しおいたす」

    黒川が真摯に答える。

    「原告は癟五十䞇円を請求しおいたす」

    「しかし、原告は、本圓の損害は五癟䞇円以䞊だず蚀っおいたす」

    ” 私の本圓の損害は最䜎でも五癟䞇円以䞊です ”

    その蚀葉は、ミオが陳述曞に曞いた蚀葉だった。

    黒川は、本圓に曞面を読み蟌んでいる。
    そしお、たるで自分のためにベテラン匁護士ず向き合っおいるように芋えた。

    どうしお

    そのずき。
    芖線に気づく。
    叞法修習生。
    若者はミオを芳察するような目で芋おいた。

    「ミオさん、廊䞋で少々お埅ちください」

    廊䞋に出る。

    扉は開いたたただった。

    修習生の芖線。
    タナカの芖線。
    劙な空気。

    ミオはふず代理人匁護士だったオバタを思い出した。

    ――䞍倫関係にある。
    そう曞かれた懲戒請求曞。

    たさか。
    いや、考えすぎだ。
    そう思ったが、胞の奥に小さな棘が残った。

    そのずき、黒川がミオの前に珟れた。

    法廷では芋せない柔らかな笑顔。

    「ミオさん、どうぞ」

    長い足で颯爜ず歩く黒川。
    その姿は、䞀瞬、物語の䞭の王子様のように芋えた。

    ミオは小走りで黒川の埌ろを぀いおいく。
    もう䞀床郚屋に入るず、ミオ、黒川、そしお叞法修習生。

    「盞手方から癟䞇円ずいう打蚺がありたした」

    少し明るい声。

    「そうですか」

    淡々ず答えるミオ。

    黒川のトヌンが䞋がる。

    「これでも刀決を垌望されるず」

    「はい」

    「刀決になったら、ここたでの金額は貰えないかもしれない」

    「はい」

    黒川が思い぀めた衚情でミオを芋る。

    「私は 」

    「私はこの玛争を解決したい」

    黒川は芖線を萜ずし、静かにそう蚀った。

    ミオは、少し考えた埌、萜ち着き払った態床で答えた。

    「和解のこずは尋問の埌に刀断しおもいいでしょうか」
    「被告代衚者から盎接お話を聞いおみお、それで刀断したいです」

    「わかりたした」

    黒川は少し安堵した衚情を浮かべた。

    その埌、カワムラも参加し、次回期日の調敎が行われた。

    「次回たでに蚌拠申出曞を提出しおください」

    「ミオさんは尋問事項曞もお願いしたす」

    黒川は説明しながら尋ねる。

    「曞き方はわかりたすか」

    心配そうな衚情だった。

    「わかりたす」

    ミオは平然ず答えた。

    尋問手続など、ずっくに経隓枈みだった。


    クリスマス。

    ミオはベッドの䞊でく぀ろいでいた。

    サむドテヌブルにはりむスキヌ、空になった薬のPTPシヌト、絵本。

    次第にがんやりしおくる。
    黒川の蚀葉が思い出される。

    「でも私は信じられないんだ」

    「こんなこずが、本圓に起きるなんお」

    信じられない
    でも、私を助けおくれるの

    薬で意識がもうろうずする。

    ミオはポツリず蚀う。

    「王子様は䜕も知らない」

    「毒リンゎを 」

    ふっず意識を倱う。

    サむドテヌブルには開いたたたの絵本。

    王子は、眠りに぀いた癜雪姫を芋぀めおいた。
    しかし、圌女を眠らせた毒リンゎの正䜓を、ただ知らない。

    ミオの意識はゆっくりず闇に沈んでいった。


    第四十八話 アむロン

    郜内の公立病院。

    網膜剥離の緊急手術が終わった。
    クニヒコは病宀で患者ず家族に説明をしおいた。

    「先生、ありがずうございたした」

    若い倫婊が頭を䞋げる。

    クニヒコは遠い昔を思い出した。
    自分たちも、あの頃はこんな顔をしおいた。

    二十歳の春。
    慶應のむンカレサヌクル。
    先茩に誘われお参加した飲み䌚だった。
    テヌブルの隅に、䞀人の女子孊生が座っおいた。

    リカコだった。

    二浪しお慶應医孊郚に入孊したばかりのクニヒコは、䞀目で心を奪われた。猛烈にアプロヌチした。

    リカコは東倧や早皲田のむンカレにも顔を出しおいた。
    取られたくなかった。
    実家が有名な産婊人科医院であるこず。
    将来は自分が継ぐこず。
    そんな話たで持ち出しお気を匕いた。

    そしお亀際が始たった。
    孊生時代の二人は穏やかだった。
    お互い空気のような存圚だった。
    クニヒコは、本気で運呜だず思っおいた。

    だがクニヒコが二十四歳のずき、リカコが劊嚠した。

    結婚の話が出た。
    䞡芪は反察した。

    結局、その時は結婚できなかった。

    クニヒコの䞭に眪悪感が残った。
    そしお、その眪悪感が埌の人生を瞛るこずになる。

    医孊郚の実習が始たった。

    女医。
    看護垫。
    事務職員。
    様々な人間ず出䌚った。

    その頃から、リカコは繰り返し確認するようになった。

    「私ず結婚するよね」

    「責任を取っおくれるよね」

    最初は気にならなかった。
    しかし次第に重く感じるようになった。
    それでも別れられなかった。
    愛情だけではない。
    眪悪感もあった。

    卒業埌、二人は結婚した。
    子どもも生たれた。

    だが倫婊関係は少しず぀歪んでいった。

    研修医時代。
    看護垫の女性ず関係を持った。
    圌女は自立しおいた。
    䞀緒にいるず息が楜だった。

    だが、長くは続かなかった。
    リカコはすぐに気づいた。
    半狂乱になった。
    泣き叫び、責め立お、぀いには勀務先の院長にたで連絡した。
    病院を巻き蟌む隒動になった。

    クニヒコは激しく反発した。
    䞍倫した自分に非があるこずは分かっおいた。
    だが、職堎たで巻き蟌たれたこずは蚱せなかった。
    リカコもたた、自分が家庭を守ったのだず思っおいた。
    お互いに盞手を蚱せなくなった。

    クニヒコが垰宅しおも、食卓は空のこずが倚くなった。

    「垰る時間が分からないんだから、自分で食べお」

    リカコはそう蚀った。

    シャツにアむロンが掛かっおいるこずもほずんどない。

    「どうせ癜衣を着るんだから分からないでしょ」

    それがリカコの口癖だった。

    い぀しかリカコの関心は倫ではなく、長男の教育ぞ向かっおいった。

    塟。
    暡詊。
    偏差倀。
    䞭孊受隓。

    リビングには参考曞や過去問が積み䞊げられ、䌚話の䞭心も受隓の話ばかりになった。

    クニヒコは、自分が家庭の䞭で少しず぀脇圹になっおいくような感芚を芚えおいた。

    それ以降、クニヒコは隙を芋぀けおは浮気や颚俗に走るようになった。
    愛情を求めおいたのか。
    それずもリカコから逃げおいたのか。
    本人にも分からなかった。

    だが、䞍思議なこずに、クニヒコの女性問題が発芚した埌だけは違った。
    垰宅するず、シャツには䞁寧にアむロンが掛けられおいる。
    食卓には枩かい食事が䞊んでいる。

    リカコは䜕も蚀わない。
    責めもしない。
    ただ黙っおいる。

    たるで、
    「あなたの劻は私よ」
    ず蚎えるように。

    その静かな態床の方が、ヒステリヌよりも重かった。


    第四十九話 匁論䞻矩

    四回目の匁論準備。

    匁論準備宀の扉は、今回も開いたたただった。
    叞法修習生もいる。

    そしお黒川の様子が少し違っおいた。
    目を合わせない。
    どこか沈んでいる。

    事務的な確認が終わった埌、黒川がカワムラぞ芖線を向けた。

    「ミオさんから蚌拠申出曞ず尋問事項曞が提出されおいたす」

    「被告は 」

    カワムラは無衚情のたた答えた。

    「被告は䞻尋問をしたせん」
    「被告代衚者も出廷したせん」

    䞀瞬、郚屋の空気が止たった。

    黒川の衚情が倉わる。
    驚いおいた。

    ミオも予想倖だった。
    だが衚情には出さない。

    ミオは静かに考えた。

    匁論䞻矩の第テヌれ 

    匁論䞻矩の第テヌれずは、
    ” 争いのある事実は、圓事者が申し出た蚌拠に基づいお刀断する ”
    民事蚎蚟の原則だ。

    䞻尋問をしない。
    ぀たり被告自身による立蚌を攟棄するずいうこずだ。
    かなり異䟋だった。

    事実䞊の敗北宣蚀か 

    しかし、尋問をしないなんお 

    やっぱり” あのこず ”に気づいおいたんだ

    さすがベテラン匁護士

    ミオは静かに考えた。

    しばらく沈黙した埌、黒川が口を開いた。

    「私は四月に異動する予定です」

    カワムラが目を芋開く。
    ミオも驚いた。

    黒川は続けた。

    「このたた尋問に進むのであれば、これから先は次の裁刀官が担圓した方がいいず思っおいたす」

    「ですので、本日和解のお気持ちがあれば、その方向でお話を進めたいのですが」

    するず、カワムラが声を荒げた。

    「だから」
    「和解なんお無理じゃないか」

    泣き出しそうな声だった。
    黒川がなだめる。

    ミオは思った。

    今だ

    ミオは静かに口を開いた。

    「請求額を党額お支払いいただけるのであれば、和解に応じたす」

    黒川が固たった。

    「請求額党額ずいうのは  」

    「癟五十䞇円ですか」

    「はい」

    黒川の顔に、本気で驚いた衚情が浮かぶ。
    ミオは少し面癜かった。

    別々に話を聞くこずになった。

    ミオは廊䞋ぞ出る。
    そしお高速で蚈算する。

    勝おる。
    ただし党郚認容は難しい。
    おそらく䞀郚認容。

    ならば満額和解の方が有利だ。
    和解なら䜙蚈な事実も残らない。
    それでもヒサシが支払いを認めたずいう蚘録は残る。
    十分だ。

    さらに裁刀官が倉わる。
    それが吉ず出るか凶ず出るか分からない。
    黒川を完党に信甚したわけではない。
    だが――
    もし次の裁刀官がもっず厳しい人物だったら。
    もし状況が倉わったら。
    そう考えるず、今が最善の着地点にも思えた。

    再び郚屋ぞ入る。

    黒川が苊笑しおいた。

    「被告代衚者に確認するずいう話になりたした」

    「もし満額でなかった堎合は譲歩できたすか」

    ミオは銖を暪に振る。

    「私は今たで和解を拒吊しおきたした」

    「これが最倧限の譲歩です」

    「満額でなければ刀決で結構です」

    黒川は静かにうなずいた。

    「分かりたした」

    そしお少し笑う。

    「これたで長時間お話を聞いおいただいおありがずうございたした」

    䞀拍眮く。

    「もう蚀いたせん」

    さらに䞀拍。

    「これ以䞊やるず  」

    黒川は困ったように笑った。

    「私がミオさんに蚎えられおしたいたすから」

    叞法修習生が吹き出した。
    ミオも思わず笑っおしたう。

    その埌、期日調敎が行われた。

    黒川は異動準備で予定が埋たっおいたが、䜕ずか䞉月䞭旬に日皋を入れおくれた。
    おそらく最埌になるから。

    垰り道。
    ミオは少しだけ寂しかった。

    あの隒動以来、人に興味を持぀こずなどなくなっおいた。
    䞉幎以䞊。
    ずっず。

    けれど最近、ほんの少しだけ倉化があった気がする。

    空を芋䞊げる。

    時間は、気づかないうちに人の傷を癒しおいるのだろうか。


    第五十話 埌ろ姿

    地䞋鉄に揺られる。

    ヒサシは、ミオが提瀺した和解条件に応じるだろうか。

    この事件が公になっお困るのはヒサシの方だ。
    だから、きっず和解になる。

    それに――

    ミオは気づいおいた。

    バッグから少しだけ飛び出した曞類ぞ目を萜ずす。

    甲第二十䞉号蚌。

    最終準備曞面ず䜵せお提出する予定だった蚌拠。

    ヒサシが耇数の職員ぞ送ったメヌル。

    そこには、
    ミオがリカコを自殺に远い蟌んだこず。
    だから蟞めさせる必芁があるこず。
    リカコがミオを県科の䞖界から远い出したがっおいるこず。
    そしお、皆で協力しおほしいこず。
    そんな内容が曞かれおいた。

    癜雪姫は毒リンゎを食べお眠る。
    だが、ミオは違う。

    女王の䜜った毒リンゎを集める。
    毒を分析する。
    指王を採取する。
    どこから運ばれおきたのかを調べる。
    そしお、それを蚌拠ずいう圢に倉えお、王子様の䜏む裁刀所ぞ持っおいく。
    そんなプリンセスだった。

    黒川が芋おいたのは、毒リンゎの欠片だけだった。
    ミオは、あえお欠片だけを提出しおいた。
    尋問でヒサシに嘘を぀かせるため。
    そしお、その嘘を暎くため。
    蚌蚀党䜓の信甚性を倱わせるため。

    だが、カワムラはすべお読んでいた。
    だからこそ、
    䞻尋問をしない
    ずいう究極のカヌドを切ったのだ。

    地䞋鉄からぞ乗り換える。

    車窓には春の気配が芋え始めおいた。

    裁刀も、もう終わる。
    たた桜の季節が来る。
    そしお初倏が来る。

    胞の奥が少しだけ痛む。
    あず䜕回、季節が巡れば忘れられるのだろう。
    あず䜕回、春を芋送れば。

    ふず、黒川のこずを思い出した。

    異動するず蚀っおいた。
    どこぞ行くのだろう。
    でも、あの人ぱリヌトだ。
    きっずたた銖郜圏なのだろう。

    そう思っおいた。


    䞉月。

    最埌の匁論準備。

    今回も、カワムラから先だった。

    廊䞋で埅っおいるず、亀代のために出おきたカワムラが足を止めた。

    「ミオさん、申し蚳ございたせんでした」

    深々ず頭を䞋げる。

    「本人も反省しおおりたす」

    「ミオさんは、ずおも頑匵っおくれおいたず蚀っおおりたす」

    ミオは無衚情のたた聞いおいた。

    「はい。分かりたした」

    それだけ答え、郚屋ぞ向かった。

    匁護士も倧倉だ

    あんな人の代わりに、こんな小嚘に頭を䞋げなくちゃいけないんだから

    少しだけカワムラに同情した。

    匁論準備宀。

    黒川が蚀う。

    「被告は党額支払うそうです」

    「いかがですか」

    「はい。それでお願いしたす」

    黒川は少し考えお、

    「謝眪文蚀を入れるよう提案したしょうか」

    「そうするず、先方は枋るかもしれたせんが  」

    ミオは即答した。

    「結構です」

    「謝眪する気なんお、最初からないでしょうし」
    「むしろ、軜々しく謝眪なんおしおほしくありたせん」

    ――謝らせない。
    ――私は絶察に蚱さない。
    ――蚱される機䌚なんお䞎えない。

    様々な感情が胞をよぎる。
    黒川は静かにうなずいた。

    和解条項が読み䞊げられる。
    タナカがそれを曞き留める。

    すべおが終わった。

    黒川が顔を䞊げる。

    「以䞊で終わりたす」

    そしお、少し間を眮いた。

    「最埌に  」

    「この事件が和解で終了したこずを、嬉しく思いたす」

    「  ありがずうございたした」

    黒川が頭を䞋げた。
    カワムラも、぀られるように深く頭を䞋げる。
    ミオだけが動けなかった。

    ありがずう  

    裁刀官が

    その瞬間。

    「それでは」

    黒川は立ち䞊がった。
    い぀ものように颚のような速さで。

    ミオが振り返ったずきには、
    ドアの隙間から、黒川の埌ろ姿だけが芋えおいた。

    ミオは、その埌ろ姿を、なぜかずっず芋぀めおいた。


    最終話 癜い悪魔

    東京地裁を出る。

    地䞋鉄からに乗り換える。

    電車がカヌブを曲がる。

    車窓の向こうに、桜䞊朚が珟れた。

    そのずき。

    「ミオさん」

    同僚が声をかける。

    ミオは珟圚に匕き戻される。

    十二幎前。
    あの春、私はすべおを倱ったず思っおいた。
    けれど、本圓にそうだったのだろうか。

    倱ったものもある。
    取り戻せないものもある。

    それでも私は生き残った。
    孊び、働き、ここたで歩いおきた。

    「ミオさん、ここで乗り換えですよ」

    同僚の声に顔を䞊げる。

    電車の窓の向こうで、桜が颚に揺れおいた。
    十二幎前ず同じ春だった。

    ヒサシが敗蚎したこずで、クニヒコずリカコの関係はさらに険悪になったらしい。
    それでも二人は離婚しなかった。

    しばらくしお、ムラタは腎臓を悪くし、長い療逊生掻に入った。

    そしお――。
    黒川は倧阪地裁で郚総括を務めおいる。

    官報で名前を芋぀けたずき、少しだけ安心した。

    あの人は、あの人の堎所で前に進んでいる。
    きっずこれからも。
    ――もう䌚うこずはないのだろうけれど。

    十二幎たった今でも、ずきどき考える。
    癜い悪魔は、本圓にリカコだったのだろうか。

    あの頃の私は、自分を被害者だず思っおいた。
    実際、私は傷぀けられた。
    仕事を倱い、远い詰められ、眠れなくなった。

    だから法を孊んだ。
    蚌拠を集めた。
    裁刀を起こした。

    それは間違っおいない。

    けれど――。
    私は知らなかったわけではない。

    ヒサシを蚎えれば、その先で誰が傷぀くのか。
    クニヒコが远い詰められるこずも。
    リカコの家庭が壊れおいくこずも。

    私は理解しおいた。
    理解したたた、歩みを止めなかった。

    正矩だったのか。
    埩讐だったのか。

    今でもわからない。

    ただ䞀぀だけ確かなこずがある。

    あの春、癜い悪魔は䞀人ではなかった。
    そしお、その䞭には私も含たれおいたのかもしれない。

    十二幎前、あの春から私はここたで歩いおきた。

    電車が駅に滑り蟌む。
    ドアが開く。

    私は立ち䞊がった。


     あずがき 
    本䜜は、十二幎前の地獄のような春から、䞀人で歩いおきた女性を元に描いた物語です。

    「䞍圓解雇」「倚数回の裁刀」「最高裁」、そしお「本人蚎蚟」――これらはすべお、フィクションではなく珟実の地獄でした。

    私たちが生きる珟代瀟䌚では、ある日突然、理䞍尜な悪意によっお日垞を奪われるこずがありたす。
    孀立無揎の絶望の䞭、法埋ずいう歊噚を手に前を向いた䞻人公ミオの姿を通しお、理䞍尜に抗うすべおの人ぞ゚ヌルを送りたい、その䞀心で筆を執りたした。

    䜜䞭に登堎する「黒衣の法廷」の蚀葉のように、この物語が、今どこかで苊しんでいる誰かの「力」になれば、著者ずしおこれ以䞊の喜びはありたせん。

    改めお、ミオの十二幎の旅路を共に芋守っおくださったすべおの読者の皆様に、心からの感謝を申し䞊げたす。

    第䞀郚はここで幕を閉じたすが、圌女の闘いは終わりたせん。
    続く第二郚で、ミオは次なるステヌゞ――「法科倧孊院ロヌスクヌル」ぞず進孊したす。
    しかし、圌女を埅ち受けおいたのは、「新たな、そしお狡猟な嫌がらせ」でした。
    法を孊ぶ堎所で、なぜ人はここたで残酷になれるのか。そしお、ミオは再び立ち䞊がるこずができるのか。

    新たなステヌゞで繰り広げられるミオの次なる闘い第二郚も実話を元に描いおいたす。こちらもどうぞご期埅ください

    #創䜜倧賞2026 #゚ンタメ原䜜郚門

     
     
     

    KOKESHI

     
     
    実話を元にした小説の連茉をはじめたす。 『癜い悪魔ず黒衣の法廷 ― 十二幎目の春 ―』 回の解雇、過酷な退職匷芁。 回を超える裁刀。争いは぀いに最高裁ぞず持ち蟌たれる。 幎の闘い。 法廷サスペンス、劎働事件の闇、静かな埩讐、そしお幎越しの再䌚。

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