
ちゃんと別れるために、ちゃんと愛したい
待ち合わせの時間を十分過ぎても、連絡はなかった。
スマホの画面は静まり返ったままで、右側には自分の言葉だけが並んでいる。
テーブルの上に、時間だけがゆっくり積もっていくようだった。
ロイヤルミルクティーをポットで頼んだのは、少し長く話すつもりだったからだ。
けれど、一杯目はほとんど減らないまま、表面に薄い冷たさをまとい始めている。
向かいの席は空いたままなのに、そこにあるはずの気配だけが妙にくっきりしていた。
──来ないかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥に小さなざわつきが生まれた。
怒りとも不安とも言い切れない、名前のつかない感情。
そのとき、隣の席から声がこぼれた。
「『ちゃんと別れるために、ちゃんと愛したい』って言われたの」
思わず、手が止まる。
始まる前から終わりを口にするような言葉なのに、どこか目が覚めるような鮮明さがあった。
引き込まれるつもりはなかったのに、意識がそっと隣へ流れていく。
話しているのは、大学生くらいの女の子だ。
向かいの友達にだけ届く声で、慎重に言葉を選んでいる。
「彼、留学するし、私も就職決まってるから。東京にいる間は、ちゃんと向き合いたいって言われて」
ストローを指で回しながら、彼女は少し笑った。
「まだ付き合ってもないのに『愛したい』なんて、重いよね。でも、嘘じゃない気がしたんだ」
『愛したい』
普通なら、そんな言葉をいきなり向けられたら戸惑うだろう。
でも彼は、たぶんあえてその言葉を選んだのだ。
好き、でもなく。
気になる、でもなく。
軽さを許さない言葉を、あえて。
遊びじゃない。
曖昧にしない。
逃げない。
その覚悟を、一番深い言葉に乗せたのだと思った。
胸の奥が、そっと揺れる。
「終わりを前提にする恋」は、どこか後退りしてしまうものだと思っていた。
でも、もしかするとそれは、誠実さの形なのかもしれない。
いつか形を変えていくものに対して、人はどう在ればいいのだろう。
ポットの蓋を外すと、かちゃりと心地よい音が響いた。
中から、細い湯気がまっすぐ立ちのぼる。
まだ温かい。
その確かさが、さっきまでのざわつきを静かに溶かしていく。
二杯目を注ぐかどうか、ほんの一瞬だけ迷った。
隣の彼女の頬が、ふっと緩んだ。
「変かな。でもね…『ちゃんと別れるために、ちゃんと愛したい』って、なんか、すごく真剣に聞こえたんだよね」
彼の言葉は風のようで、それなのに輪郭だけは妙にくっきりしていた。
悲しさもある。
寂しさもある。
でもその奥には、終わりから目を逸らさない、人の重さがある。
中途半端に傷つけ合うよりも。
曖昧に引きずるよりも。
ずっと、誠実だ。
気づけば、予定の時間はとっくに過ぎていた。
結局、待ち合わせの相手は現れなかった。
連絡もないまま、午後の光だけがゆっくりと傾いていく。
けれど、胸の奥にあったざらつきは、いつのまにか跡形もなく消えていた。 空いたままだった向かいの席が、ただの椅子に戻っている。
ロイヤルミルクティーを二杯目まで飲みきる。
最後のひとくちは、少しだけぬるかった。
終わりが見えている関係に、すがったことがある。
隣の席からこぼれ落ちた言葉の破片が、自分の中の何かをそっと整えていた。
いつか別れが来るとしても。
そのとき「ちゃんと愛した」と言える関わり方を選べるだろうか。
どう向き合ったかが、あとに残る。
それが、いつか自分を支えるものになる気がする。
カップをソーサーに戻す。
その小さな音が、背中をそっと押した気がした。
私は静かに席を立った。