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『田中宗弘が50歳で中国語と出会い、57歳で佛教大学通信教育で中国語高校教員免許取得し、大連遼寧師範大学留学し、58歳で大連市に1人赴任して駐在事務所開設』

    あらすじ∥田中宗弘が50歳で友人の頼みで中国語を習い始め、54歳で中国語高校教員免許取得を大学の通信教育で学び取得して、57歳で初めて中国大連遼寧師範大学に留学し、帰国後、高校の先輩の紹介でビルメンテナンス会社へ入社して、そこの社長が中国にビルメンテナンス会社の駐在事務所開設したいが、田中君どうやと面接の時に話があり、田中宗弘は、是非やらさせてくださいと言い、思いきって提案する。それは、自分は、大連遼寧師範大学に2か月しか留学していない為、中国語を話すのが自信がなく、もう一度、同じ大連遼寧師範大学に半年留学して中国語を学びながら、大連市に駐在事務所開設に臨みたいと決意を述べた。社長はよし分かったお前の思うようにやれと言った。

    まず最初に、田中宗弘の生い立ちを紹介します。田中宗弘は、昭和28年4月10日に、福岡県遠賀郡中間町の平屋の長屋に田中家の長男第一子として生まれました。
    保育園は、お寺の保育園に通い、小学校は、遠賀郡中間町の中間小学校に3年生まで通いました。小学校の頃の遊びと言えば、炭鉱町でしたから、あの有名な五木寛之の青春の門の映画に出てくる筑豊炭鉱町と同じ、ボタ山でトロッコに乗ったり、鉄を拾い集めて鉄を買ってくれる店に持って行き小遣いにしたリ、舗装のしていない道路を走るトラックの後ろに走って行って捕まって少し行き手を離して飛び降りたりして遊んでいました。そして、父親の仕事の都合で家族5人(父母おばあちゃん妹と自分)は、田中宗弘が、小学校4年になる4月に福岡県中間駅から汽車に乗り、折尾駅で乗り換え夜行列車で岐阜駅迄来ました。
    岐阜駅では、早朝でしたから、父の会社の方が案内して貰い、朝食会場に行きました。ご飯の横にお椀の中の黒い味噌汁が置いてありました。九州は、白味噌汁だった為、全く合わずに食べれませんでした。
    翌日岐阜市の小学校4年生のクラスに案内して貰いました。担任の先生は、男性で顔の中のあごの長い先生でした。
    田中宗弘は、休み時間同学年の子達が❝よして❞と言いながら、ドッチボール投げに入って行くのを聞き見て驚きました。九州では、❝よして❞は、辞めてということだからです。九州の言葉で言うなら、中に入って遊びたい時は、❝かてて❞と言います。また、ある日、習字の時間の用意で机の上に置いた硯をふざけていた男の子達が、走って触って落として割ってしまいました。その時に、割った男の子達が、ごめん❝まどう❞からねと言いました。❝まどう❞何のことと思いました。分からないのです。後で分かりました。❝まどう❞とは、弁償することだったのです。それから、田中宗弘は、先生をシェンシェイとしか言えず、1000円札をシェンエン札と言って皆に笑われていました。月日は流れ〜田中宗弘は、大学4年生になってました。1年前のオイルショックで急に世の中景気が悪くなり、就職活動で会社訪問しても、昨年のようなコーヒーとケーキが出る(先輩の話しから)ようなことはなく、冷たいような扱いも感じられる会社訪問でした。そんな中、銀行が固いだろうと考え、大学長の推薦を貰う為に成績を優の数を18科目取得しました。そして、田中宗弘は、銀行を受験して合格しました。
    しかし、田中宗弘は、大学卒業後銀行に入社して、毎日7時30分に電車の駅前でチラシ配りをし、9時〜15時迄割当をこなす為に担当地区を歩いて歩いて廻り、18時〜20時迄ロールプレイングで支店長代理や支店長に叱られ、新調した背広の色に支店長代理から文句言われ、毎日夜10時〜11時迄働き、友人との会う約束は全て断り、12月31日は、除夜の鐘を聞くのが当たり前と教えられ、残業時間分は、まともに残業手当もらえず、そんな中、労働監督署が立ち入り検査に入り、本当のことは言えず、他の支店では、支店長代理が、割当の苦労からか?急に蝶々が飛んでいると言い出して、姿を蝶々の飛ぶ手まねをして支店の外へ出て行き、気がおかしくなった等聞くに連れて嫌気が指して、同期入組の戸田博君と共に僅か2年で退職してしまいました。余談になりますが、その支店は、田中宗弘達が退職してから3年以内に4人退職してしまいました。
    その後、田中宗弘は、職探しながら、岐阜市内に出来たばかりのアンビック外語学院(今現在のイーオン)にアルバイトで入社して、直ぐに静岡県静岡市に赴任して、そこの責任者のアパートに泊まり込み、清水市〜浜松市に至る各種の専門学校に教室を借りて英会話学校を始める営業をして、何件ものアンビック外語学院の分校を開設、開設の方法は、その地区に沢山のチラシを新聞に挿入して英語が習いたい人、男女年齢関係なく集め、その地区の専門学校で説明会を開き、田中宗弘は、弁舌らしきものをまくし立てながら、受講生を沢山集めたりしていましたそんな時、両親から、岐阜へ帰って来るように言われ、アンビック外語学院を退職して帰岐したのである。 
    27歳の時、田中宗弘は、将来中国大連市で開設するビルメンテナンス業に出会う事になります。 田中宗弘は、岐阜県職業安定所へ職探しに何度も出かけ、いつの間にか職業安定所の職業紹介係りの中年男性と仲よくなってました。
    何時もように岐阜県職業安定所へ行き、職業相談を申し込み待っていると田中宗弘さんと呼ばれるのを聞いて、職業紹介の3番窓口に行きました。 すると、何時もの中年男性でした。
    田中さんまだ来たばかりの求人が一つある❨総務経理事務❩どうかな? 直ぐに田中宗弘は、お願いしますと言うと担当の中年男性は、求人を出している会社へ電話して、面接してくれるそうだ。明日10時行けるかね?と言うから、田中宗弘は、はい行けますお願いしますと言った。
    そして、担当の中年男性から、紹介状を貰い帰宅の途へ着きました。 田中宗弘は、ビルメンテナンス業て、なんだろうかと思いました。
    面接後、採用されたのが、ビルメンテナンス会社でした。
    面接は、支店長と営業課長代理の2人の下、行われました。本社へ稟議書上げますと言われました。1週間後に連絡があり採用になりました。大卒と言う事で2週間本社で研修を受ける事になりました。研修の日は、本社に各地区から、男女新入社員が沢山集まっていました。
    その中で田中宗弘とよその地区から来た山口進さんが27歳で年長でした。本社の寮で数十人の子らと一緒に生活し、交通機関に乗って、団体で研修出来る大きな建物の中で、講習専門会社から来た講師の方が朝9時〜夜8時迄講義をされました。2週間の講習最後の日に、各グループ毎に魚の骨の絵を書いたB紙に、1つのテーマについて各グループ毎に話しあった結論を纏めて書いて、各グループの代表1人が発表します。
    ここで田中宗弘は、なんとその発表者に当たり大勢の前で発表したのです。その時に同じグループにいたよその地区から来た女性の所へ山田雅史(23年後に中国語習おうと田中宗弘を誘う友人です)が行こうと言い出しました。そして、2人で自家用車で岐阜からその所へドライブしながら行ってその女性に会いました。その女性は、驚ききょとんした顔をしてましたが、会えてありがたいことだと思いました。
    さて、田中宗弘はこの就職したビルメンテナンス会社で、独立する時にとても大切なことを沢山実務でビルメンテナンス業の基礎を学びました。 総務では、正社員、日給社員、パートや警備夜間社員の給与計算の様々な計算方式を学び、125名の社員の1人1人の給与の計算、つまり、会社独自の出勤簿があり、清掃員用・警備員用・技術者用・パート社員用の各種の出勤簿でまちまちな計算方式を使いながら、全て手で電卓を使い計算し、社会保険料・雇用保険料・所得税の計算をし、社員1人1人の給与明細書に手で記入して作成して、社員1人1人の給与明細毎の金種を確定計算して、銀行に金種明細を電話し現金の依頼をして、給与支払日当日に銀行に社員給与全ての現金を取りに行き、支店へ戻り事務の女性と2人で社員1人1人の袋に現金と給与明細を入れました。そして、125名の社員の各現場毎に袋を並べて各現場の社員が支店に取りに来た時に中味をその場で確認してもらい、受領印鑑を押印してもらい給与関係の仕事を毎月25日に終えていました。
    また、年1回の社員慰労会を岐阜市内のホテルや大きな会館で実施計画し、案内チラシを現場毎に配布して出欠席を取り出席社員人数で会席料理の予約をしたリ、カラオケの準備をしたリ、くじ引きを考えたりして、社員の方が喜んでくれる姿を思い浮かべ計画案作りに楽しんでいました。慰労会を終わり、社員1人1人の方が良かったと笑顔で言った時に本当に嬉しく感じほっとしてました。
    人事では、岐阜職業安定所に求人票を提出し、採用面接をしたり、社員効果表を作成して、支店長に提出しました。この頃の岐阜県の最低賃金額は、340円前後だったような気がします。
    最低賃金額が安くて中々人が集まらなく、何時も新聞や職業安定所に募集ばかりしてました。
    経理では、毎日の銀行出し入れから仕訳勘定科目処理や試算表作成を作成して支店長まに提出してました。また、決算処理では、年次決算書20項目位の経費確定の書類を作成をしました。
    決算書各項目の書類関係作成で分からない時は、他の地区の高齢男性の優しい面白い井上課長に聞いて助けて貰っていました。それでもどうしても分からない時は、本社経理課の優しい女性係長に電話して聞いてました。
    労務では、岐阜労働監督署の立ち入り立ち会いや社会保険事務所立ち入り立ち会い等もしました。岐阜労働監督署は、当会社から、西へ歩いて5分かからない場所にあり、良く分からない時は聞きに行きました。社会保険は、入らなければならない条件があり、該当する社員は入らなければならないのですが、中には、嫌がる社員の方もいたりしてましたが、優しく話して納得して入って貰ってました。
    清掃現場作業では、岐阜のホテルの朝の布団上げや夜の布団敷きを応接したリ、市内のビジネスホテルの客室清掃でベットメイクやゴミ集め掃除機掛けをしました。ただ市内のビジネスホテルでは、時々、使ったコンドームがあり平行したリもしました。
    当ビルメンテナンス会社では、昭和54年7月〜昭和62年2月迄の8年間ビルメンテナンス業務の基礎を沢山学ばさせていただきました。
    この経験から独立を考えました。本当にありがたいことです。感謝してます。
    そして、この経験から、田中宗弘は、妻の叔父の山田泰三と共に昭和62年2月から、ビルメンテナンス業を開始する事になるのです。
    創業会社名を建物総合管理株式会社として、資本金1000万円、国民金融公庫から200万円借りて船出しました。
    田中宗弘と叔父山田泰三は、岐阜市内の8坪の小さな事務所を借りました。 この事務所は、昔この中で首吊り自殺があったとの事で借り手が無く、1か月50000円という安い家賃で借りる事が出来ました。机や椅子を叔父の山田泰三の知り合いに中古で貰い、5つ並べて、応接椅子を2脚小さな応接台と共に並べると机の椅子の後を通るのがやっという有様でした。小さなトイレも一番奥に付いていました。
    正面の机に叔父が社長として座り、相迎えの4つの机の正面入って左側奥の机に田中宗弘が座り、後は、適当に社長の奥さんや社長の奥さんのお父さんと女子事務員が座りました。
    社長の奥さんは、偶に来る程度で殆ど来ませんでした。社長の奥さんのお父さんは、身体障害者で話す時に、何時も喉に器械を当てて話して見えました。 事務員の女の子は、まだ20歳という大人しい若い子でした。
    田中宗弘と叔父の山田泰三は、1か月の売り上げ目標を100万円として営業活動をしました。
    そんな中、岐阜県警察の防犯課から呼び出しがありました。 山田泰三と田中宗弘は、岐阜県警察の防犯課へ行きました。なんと防犯課の取り調べ室に入り、警備業務を登録をせずにやっていると言う訴えがあったので、来てもらいましたと言われ、ボールペンで防犯課の方の書いた始末書をみながら、原稿用紙に写しましたが、余りにも文章が長く沢山あり、ボールペンで写し書きしていたものですから、田中宗弘は、途中で写し間違えました。 すると、防犯課の方は、新しい原稿用紙にもう一度最初から書いてくださいと言われました。え〜また最初から書くのかと田中宗弘は、内心がっかりしながら、防犯課の方の指示に従い、新しい原稿用紙にもう一度最初から書き写しました。もう2度と取り調べ室には、きたくないと田中宗弘は、心に思いました。 だから、田中宗弘は、警察員指導教育責任者資格を取得し、岐阜県警察防犯課に警備業務の届出書を提出しました。
    売り上げも順調に伸び、従業員を雇いました。
    営業1名、清掃責任者1名そのいずれも田中宏さんと田中明さんでした。同じものが3つ揃うのは、縁起が良いと言われると信じ大変喜びましたが、田中宏さんは、1年立たない内に退職しました。田中明さんも顔は色黒く身体は、頑丈そうで体格も大きいかったのですが、喘息持ちで3年位勤めて退職されました。非常に残念でした。その後、今度は、田中宗弘が4月10日生まれですが、4月5日生まれの野村隆35歳が入社し、その少し後に、4月7日生まれの井田渉39歳が入社して来ました。これまた、4月生まれが3人揃い組なのです。きっと良い事あるぞと予感がしていました。
    そんなある日、社長が3年過ぎたし、今の事務所が狭く感じられるし、営業活動に支障を来すようになって来た。ようし引っ越し考えるか〜と大きな声で言われました。
    それから数日後、社長の山田泰三は、自分の弧の仲間の不動産屋さんの新しい3階建てビルの1階が空いているので、そこをリホームして新事務を建築して借りる契約をしました。
    田中宗弘、野村隆、井田渉の3人は、新事務所のレイアウトを作りました。『事務所・倉庫・トイレ・洗面所・会議室・社長室及び駐車場5台分の割当等』
    新しい事務所で、営業会議を開き、ビルメンテナンス業における必要な各種資格を全員取らなければならないと決意しました。それから、
    田中宗弘、野村隆、井田渉は、建築物環境衛生管理技術者・ビルクリーニング技能士・清掃作業監督者・室内空気環境測定監督者・害虫防除消毒作業監督者・貯水槽清掃作業監督者・警備員指導教育責任者等の資格を取得しました。
    この資格を取得し、岐阜県環境衛生管理部に
    清掃作業登録・貯水槽清掃作業登録・害虫防除消毒作業登録・空気環境測定登録をしました。
    当社は、後発のビル管理会社だから、よその会社が嫌がるホテル客室整備清掃で岐阜で一番のホテルの客室清掃室数をやろうと言う事になり、ホテル客室整備清掃の室数を増やす事中心に売り上げも伸ばそうと決意しました。
    客室整備清掃業務獲得の営業が始まりました。
    田中宗弘は、建通新聞を見ていて愛知県に15建てのビジネスホテルか新築しているの知りました。早々に営業担当者の井田渉さんと見に行きました。
    現場に新築の建物の事が書いた看板を見つけました。そこには、新築中のビジネスホテルの名前が仮称何々ホテルと書いてあり、1階は、フロントロビー、各種飲食店他バックヤードが入リ2階は、会議室、婚礼関係のブース他が入り、
    3階〜14階は客室、15階はレストランでした。また、ホテル開設準備室があると書いてあり、住所も電話番号も分かったので、直ぐに開設準備室に電話をしました。すると、会ってもいいと言われました。早々現場から近いホテル開設準備室に車を走らせ伺いました。ドアーをノックして中へ入り、応接室で待っていると60歳前後の恰幅のいい男性の人が入って来ました。お互いに名刺交換しました。名刺には、取締役開発担当総務部長と書いてありました。田中宗弘と井田渉は、新築ホテルのビル管理における、客室整備清掃・共用部清掃・床硝子定期清掃・カーペット床面クリーニング・グリストラップ清掃・消防設備点検・貯水槽清掃・害虫防除消毒・空気環境測定の見積もりをさせていただきたい事を伝えました。すると、取締役開発担当総務部長さんは、開口一番何処の馬の骨か分からない者に任せれない、話だけ聞いておくと言われ応接室を後にされました。田中宗弘と井田渉は、その日から、ホテル完成迄に20回以上訪問しました。その甲斐もあって、客室整備清掃・共用部清掃の見積もりをさせて頂く事になりました。田中宗弘と井田渉は、3階〜14階の客室の平面図と1階〜2階の平面図を借りて帰りました。共用部清掃見積もりと客室整備清掃見積もりを取締役開発担当総務部長さんに見せると、もう少し金額なんとかならないかと何度も何度も言われました。田中宗弘と井田渉は、他社の見積もりもきっと出ている。しかし、何度も作り直せと言われることは、まんざらでもない脈はあると信じて、取締役開発担当総務部長さんの言われる通りに何度も金額を考え、赤字にならないように思い切った見積もりを提出しました。すると、取締役開発担当総務部長さんが、見積もりを見てこれで契約しましょう。
    あなた達を見ているととても感じがいいから
    決めましたと嬉しい事を言ってくださいました。本当にありがたいことです。
    感謝してます。
    契約も決まり、新ホテルオープン迄に共用部清掃員と客室整備清掃員合わせて25名〜30名採用しなければなりません。当社としては、岐阜地区中心の会社でしたから、愛知県のこの地区は、誰も知らない全く未開の土地、右も左も分からぬままチラシを田中宗弘の友人の山下雅史の会社に頼みました。勿論、新聞広告も同時にやりました。何回も何回も愛知県のこの地区にチラシを新聞に入れて配布して、30名清掃員採用を目指しました。チラシや新聞広告の甲斐があって、新ホテルオープン前に採用する事が出来ました。新ホテルオープン前に採用した新入社員の方達に客室整備清掃のスペシャリストの井田渉が客室整備清掃のマニュアル『ベッドメイキングに置いては、シーツの張り方を頭の部分の折り目折り方やシーツの足下の部分の折り目入れ方・2名でのベッドメイキングの立ち方・浴槽の洗浄方法・バキュームの仕方・清掃後の点検の仕方及び注意点等』や共用部清掃のマニュアル『モップの持ち方・モップの拭き方・モップの絞り方・洗剤の希釈方法・トイレ清掃用具の使用方法・トイレクリーナーの希釈方法・トイレ目地の清掃方法・トイレ壁面窓の清掃方法・ロビー廊下の床面清掃方法・風除室清掃方法・カーペット床面清掃方法・カーペット床面のしみ取り方法・階段清掃方法等』をこと細かく自ら実技指導教育実習しました。
    そして、新ホテルオープン後いろんな紆余曲折を井田渉が上手に指導して、1年少々の期間で井田渉の代わりの現場清掃責任者の女性も育てて、本社の営業活動に戻りました。
    井田渉は、多治見から、車で1時間掛けて会社に通っています。その多治見市内に新ホテルが建設しているのを見かけました。
    井田渉は、早々に新ホテルの現場の看板を見ると、多治見の陶器販売会社が建てているビジネスホテルでした。10階建てのやや細いような建物でした。井田渉は、直ぐに多治見市内の陶器販売会社に赴きました。そこで、中年男性の社長に挨拶して名刺を出して丁寧に営業をしました。少し偏屈そうな社長でしたが、何回も何回も井田渉が営業に行っていると、他のビルメンテナンス会社も来ているから、見積もり次第だと言われました。
    井田渉は、1階〜10階迄の全ての清掃を客室整備清掃金額・共用部清掃金額・バックヤード清掃金額・ レストラン清掃金額と硝子定期清掃金額・消防設備点検金額・貯水槽清掃金額・害虫防除消毒金額に分けて、それぞれを表の中で分かりやすくして見積もりしました。
    勿論、全て契約出来た時の合計金額と清掃業務だけの合計金額と個々の業務の個別の金額も分かりやすく表に表しました。何社もの競争見積もりとなり、清掃業務だけ契約していただける事になりました。ありがたいことと感謝しました。早々、井田渉は、新ビジネスホテルオープン前迄に清掃員の獲得する計画作成に臨みました。前回の愛知県のビジネスホテルで集めた清掃員の獲得の方法を、多治見のビジネスホテルでも使い、新聞にチラシ配布を何度もしました。そうして、多治見のビジネスホテル清掃で必要な清掃員を獲得し、井田渉が、前回の愛知県での新ホテルオープンでの新入社員清掃教育と同じ教育方法で、自らが責任者として、新ホテルに入り込み、新入清掃社員の清掃の方法を基礎から教育し、1年後には、女性清掃責任者も育てて、岐阜の本社に戻りました。
    井田渉は、県外の三重県のホテルの客室清掃業務の契約を取り、岐阜から2時間掛けて三重県のホテルに入り込み3つの建物の客室整備清掃を各々棟の新入清掃社員に教育し、各々棟の責任者も3名養成して、岐阜の本社に戻って来ました。しかし、井田渉に田中宗弘も同行して、月に何度か必ず三重県のホテルに行き取締役支配人に会って打ち合わせをしていました。
    田中宗弘は、建通新聞を見ていたら、羽島新幹線駅前近くに、10階建てビジネスホテル新規オープンの記事を見つけました。早々に、井田渉と一緒に現地へ行き、建築中のホテルの看板を見つけ、施工主を見ると地元の建築会社でした。この現場から近いので、電話して伺いました。丁度運良く新ビジネスホテルの担当の専務取締役がお見えになり、会ってもらえるとの事で、応援室に通され、専務取締役と名刺交換する事が出来ました。その折に、当社の会社案内をお渡しして、新ビジネスホテル完成後は、是非客室整備清掃業務をやらせて欲しいとお願いしました。すると、専務取締役は、客室整備清掃業務の見積もりを出してくださいと言われました。しかし、自社でも客室整備清掃業務をやるかもしれないと専務取締役は言われました。田中宗弘と井田渉は、ありがとうございますと頭を深々と下げてその場を失礼しました。
    3日後、田中宗弘と井田渉は、羽島の建築会社の専務取締役に電話しました。返事は、来て下さいとの事でした。田中宗弘と井田渉は、客室整備清掃業務の見積もりを持って羽島の新幹線駅前近くに新ビジネスホテルを建築中の建築会社の専務取締役に会いに出かけました。羽島の建築会社に着いて、専務取締役に客室整備清掃業務の見積もりを渡しました。専務取締役は、その場で見積もり書を見て、いくつか質問をして来ました。〘清掃の社員さんは、どうするのですか?〙と、井田渉が答えました。【羽島地区にチラシを新聞に入れて応募を募り、羽島の文化会館の1室をお借りして面接して確保します。また、客室整備清掃する清掃社員の清掃の教育を新ビジネスホテルオープン前何日かいただけるとありがたいのですが】と井田渉が答えました。建築会社の専務取締役は、分かりました検討して後日連絡しますと言われました。
    田中宗弘と井田渉は、会社へ帰る途中車内で契約出来るといいな〜と言いながら帰社しました。後日、羽島の建築会社の専務取締役から、電話が井田渉にありました。井田渉は、嬉しいそうに田中宗弘に羽島の新ビジネスホテル客室整備清掃決まりましたと伝えました。社内は、歓声が上がりました。ありがたいことです。感謝です。直ぐに田中宗弘と井田渉は、羽島の建築会社の専務取締役に会いに出かけました。
    羽島の建築会社の専務取締役に会い、この度の新ビジネスホテル客室整備清掃の契約の御礼を申し上げました。すると、専務取締役は、あなた達2人の性格が気に入ったと言ってくださいました。また、長いお付き合いしましょうとも言ってくださいました。ありがたいことです。感謝です。
    さあ大変、羽島の新ビジネスホテルオープン近くなって来てます。早々に新聞にチラシ入れて客室整備清掃社員を募集し、羽島市民会館で会議室を借りて、そこで、田中宗弘と井田渉は、新羽島のビジネスホテル客室整備清掃作業社員の面接をしました。また、田中宗弘と井田渉は
    新羽島ビジネスホテルオープン前に、客室整備清掃作業社員全員集めて、新羽島ビジネスホテルで客室整備清掃作業の実技講習をしました。
    そして、無事に新羽島ビジネスホテルオープン後の客室整備清掃作業が始まりました。
    井田渉は、何時も同様に、客室整備清掃作業マニュアルを教えて、清掃作業責任者も作り、本社に戻って来ました。
    そんな事で、その後も、田中宗弘と井田渉は、三重県のルートインホテル客室整備清掃業務や岐阜市内の数件のビジネスホテル客室整備清掃業務を手掛けて、また、美濃太田駅近くのビジネスホテル客室整備清掃業務や恵那市内にある観光ホテル客室整備清掃業務も手掛けて行きました。
    そんな中、建築会社の岐阜のゼネコンが建築した長野県軽井沢のゴルフクラブの建物内清掃業務の契約が成立しました。しかし、岐阜からでは、遠方ですから、地元のビル管理会社を田中宗弘と野村隆が探し、長野県軽井沢に出向いて、地元のビル管理会社の社長と会い話し合って、軽井沢のカントリークラブの日常清掃業務を下請けしてもらう契約を締結しました。
    この頃になると、社員数は、250人、売り上げが、年間4億8千万円になりました。その後は、リーマンショック等あり、だんだん売り上げは、下がりました。
    そんな中、友人の山下雅史が中国語習いたいから、一緒にやって欲しいと言って来ました。
    田中宗弘は、何時から何処で誰に習うのかと
    友人の山下雅史に尋ねました。山下雅史は、
    まだ何も決まっていない。田中助けて欲しいと言うのです。
    田中宗弘は、中国語教えれる人を知り合いに聞きました。そしたら、知り合いの方が、岐阜教育大学中国語学科卒業した22歳の女の子を紹介するから、電話番号教えるから、自分で電話してくれと教えてくれました。
    田中宗弘は、早々に、教えてもらった電話番号に電話し、今週土曜日午前10時に国道21号線沿いの喫茶店コメダで待ち合わせする約束をしました。
    その日、田中宗弘は、少し早めに、待ち合わせ場所の国道21号線沿いの喫茶店コメダに着きました。中へ入り、右側の広い席が沢山ある方に行きました。すると、電話で聞いていた鮮やかな真っ赤な上下の服装の若い髪の毛の長い華奢な素敵な普段自分にはとても相手して貰えるようなことはない女性が1人奥の方に座っていました。とても恥ずかしい思いとこんな素敵な女性と話せるのだと周りに自慢げな気持ちで話しかけました。どきどきしながら恥ずかしいやら、うれしくもあり、中国語の先生ですか?と、
    尋ねました。❝はい❞と爽やかな新鮮な初々しい澄んだ声でその華奢な可愛い女性は返事をしました。
    田中宗弘は、コーヒーを飲みながら、中国語学習初めてですがよろしくお願いしますと言い、
    毎週木曜日夜7時〜9時迄の2時間A喫茶店の2階の個室で2人よろしくお願いしますと言いました。授業料は、先生に聞いたら、1人2000円と言う事で決めました。先生は、22歳と言われました。この時、田中宗弘50歳、山田雅史は49歳で中国語と初対面の出会いが始まることになるのです。
    毎週木曜日田中宗弘と山下雅史は素敵な女性の先生と喫茶店2階の個室で中国語を学びました。最初発音が、なかなか出来ずに何回も何回も先生について発音練習しました。
    1年後、急に山下雅史が自分は、手品習いたいから、中国語習うのを辞めると言い出しました。先生にその事を話して1人でもいいですかと聞いたら、いいですよと優しく言われ、自分の心の中でほっとしてました。田中宗弘が52歳の時、先生が、東京の実家に帰らなけりばならなくなりました。後2か月の間に中国語4級の試験受けて下さいと言われ、田中宗弘は、一生懸命中国語学びました。先生の試験もやりました。
    そして、試験を岐阜教育大学に行き、筆記試験と聞いて答える試験を受けました。合格した事を先生に告げるととても喜んで褒めてくれました。これで私も東京の実家に心軽く帰れると言われました。本当に先生に感謝してます。
    その後も今習っている華奢な可愛い女性の先生に紹介された中国人の先生と岐阜大学の留学生の中国人女性に1年位習いました。
    ある日、田中宗弘は、何気なく新聞を見ていると、小さな広告が目に着きました。
    佛教大学通信教育はじめませんか。見ていると、中国語もありました。説明会が名古屋であるのか。早々に、申し込みしました。
    当日、名古屋の会場には、若い沢山の人が来てました。50歳代は、田中宗弘ともう一人男の人が来てました。
    佛教大学通信教育部の方が、1万人の人が当大学の通信教育受けるがしかし、1000人も最後迄つづかないの方が現実、しっかり考えて申し込みして下さいと言われました。
    田中宗弘は、54歳になってましたが、その場で直ぐに佛教大学から来ている佛教大学通信教育学部の方に申し込みをしました。
    1週間後に重い1つの段ボール箱を開けて見ると、教科書25冊【例えば、教育原論・教育心理学・教育方法論・中国語古典文学・英語コミュニケーション・コンピュータ情報処理他】と学習の進め方やレポート提出の仕方や試験の申し込み方法の案内と受験方法等ありました。本当に出来るかな〜とだんだん不安になって心細くなって来ました。そんな時、名古屋の佛教大学通信教育説明会で知り合えた愛知県に住んでいる、国鉄を定年退職した57歳の伏見さんから、電話が、携帯に掛かって来ました。 
    大きな声で、教科書届いたか?心配しんでもいいぞ。1つ1つ計画してゆっくりやればいいからな 
    と笑いながら言ってくれました。
    安心しました。ありがたいことです。感謝です。田中宗弘は、直ぐに25科目を2年半で終了する計画作成に取りかかりました。
    田中宗弘は、仕事しているし、家内からは、家庭生活に支障のない時間にやってくださいと釘刺されていますから、毎朝3時半に起床して、6時迄勉強して、夜は、残業等ありばらばらの空いている時間に勉強してました。特に、12月と1月は、忘年会や新年会が15回位あり、身体の調整で悲鳴を上げていました。
    まず、教育原論なら教科書1冊読んで2つの課題のレポートを400字詰め原稿用紙8枚〜16枚にそれぞれ仕上げて、佛教大学通信教育学部へ送付する。レポート合格したら、翌月この科目の試験を受ける申し込み書を佛教大学通信教育学部へ郵送すると受験票が送って来るから、この科目の過去問題8つ〜10題をそれぞれ解答用紙
    6枚〜9枚作成して、字数で4800字〜7200字で8〜10問題の解答を作成して、1つ1つ何度も読み書いて覚えることにしました。
    実際の試験の時に解答用紙に4800字〜7200字の指定の文字数で書き上げる。この科目は、
    20科目ありました。
    中国語1.2.3と英語コミュニケーションは、違う問題形式でした。
    中国語は、勉強しているから、どうにか出来たような気がしますが、英語は、27か28歳の頃に勤めていたビル管理会社の上司から勧められて英語検定3級を受験して合格して以来29年ぶりの久しぶりで全く忘れてましたから、かなり悩みました。そんな時、知り合いから、英語の本を訳すように1冊3万円で岐阜大学の学生に頼んだら、どうかと言われ、頼みましたが、簡単に断られたので仕方なく自分で辞書片手に1ページ訳すのに何時間も掛けてやるしかなく、ようやく3か月掛かって訳して、どんな問題が出ても英語で書けるように何度も書いて書きまくり練習しました。その練習の甲斐があったのか、英語の試験結果は1回で受かりました。
    そんな中で毎年8月と12月に京都の佛教大学通信教育学部で、朝9時〜6時迄中国語の授業を受けなければならなくて、前日から、ビジネスホテルに泊まり講義を受けました。その中で、
    授業でモンスタービアレンツの問題や部落問題の講義もありました。2年間で4回京都佛教大学通信教育学部に行きましたが、最後の時に、家内が着いて来て、京都の駅で待ち合わせしました。勿論家内は、京都見物でした。
    走行している内に、25科目全て合格しましたが、最後の教育実習が残りました。田中宗弘は、岐阜では、岐阜市立商業高校しか中国語学科がない事を知ってましたから、岐阜市役所教育委員会に行きました。
    そこで、岐阜市教育委員会教育実習担当者から、あなたは、新卒ではないから、ここでは、紹介できないので、自分で岐阜市立商業高校の校長先生に電話して頼んでくださいと言われました。田中宗弘は、え〜と驚きましたが、仕方ないこと、自分でやろうと思いました。
    早々に田中宗弘は、自分で岐阜市立商業高校校長先生に電話をしました。そして、明日15時に岐阜市立商業高校校長室に来るように言われました。
    田中宗弘は、岐阜市立商業高校校長先生から、指定された日の指定された時間に岐阜市立商業高校へ行きました。校長室に案内されました。
    田中宗弘は、校長先生に挨拶して校長室に入りました。応接椅子に座るな否や開口一番校長先生が、大きな声で笑いながら言いました。
    【私よりも年上の教育実習生は、初めてですよ】と、
    田中宗弘も思わず笑顔になりました。
    校長先生は、いいですよ。今年の10月に2週間教育実習に来て下さい言われました。
    ありがとうございますと頭を下げました。
    田中宗弘は、一礼をして校長室を出ました。
    田中宗弘は、岐阜市立商業高校へ教育実習に行く前に、高校で使用する中国語の教科書を岐阜市立商業高校の近くの個人本屋で2冊購入しました。そして、中国語を習っていた北京大学卒業した女性の先生に、5000円支払い予習をしました。
    10月に入り、田中宗弘は、岐阜市立商業高校校長先生との約束通り、自家用車を使わずに、背広を着て、ネクタイ締めて、黒の革靴を履き、大きな黒い車付きの鞄に中国語関係書類を入れて、自宅から、バスに乗り、JR岐阜駅に70分かけて到着し、JR電車に乗り換えて、岐阜駅から西岐阜駅で降りて徒歩約15分位で岐阜市立商業高校に2週間通いました。
    最初の日は、校長先生に挨拶して、職員室に案内されました。そこで、2週間座る自分の席がありました。何十人もいる殆ど自分よりも年下の先生達に向かって、新任の挨拶をしました。
    田中宗弘57歳中国語の教育実習に来ました。
    何も分かりませんので、2週間よろしくお願いします。と挨拶しました。
    先生達から、大きな拍手をいただきました。
    田中宗弘は、ありがたい励ましと思いました。
    授業は、1年生のクラス〜3年生のクラス迄の中国語を専攻している生徒を、中国人女性の講師の先生が、2名いて教えるのを後席で見ていました。時々、中国人女性の講師の先生に代わって、教えたりしました。
    驚いた事に、中国人女性の講師の先生の1人は、田中宗弘が、以前、岐阜市中国語教室の中級を担当している先生でした。しかし、田中宗弘は、初級クラスだったので、余り関わりはありませんでした。
    2週間の教育実習最後に日に、田中宗弘は、自分の子供よりも更に年下の生徒達に中国語を教える授業を20歳年下のクラス担任や校長先生、教頭先生、学年主任、中国担任の先生を前に、45分やりました。あらかじめB紙に、教える中国語を書いておき、当日、黒板に貼り出して、
    授業をしました。生徒1人1人出来るだけ沢山の生徒達に発表してもらうように考えてやりました。
    45分の授業ヒア汗かきながら、どうにかやりました。校長先生始め教頭先生や学年主任の先生から温かい拍手をいただきました。57歳でこんな経験出来る事に感謝でした。
    こうして、2週間の教育実習が終わり、佛教大学通信教育学部へ教育実習終了の文書を提出しました。
    すると、京都府教育委員会から、
    第1種高校中国語教員免許をいただきました。
    田中宗弘は、57歳で中国大連遼寧師範大学に留学した時に、中国の地図を購入して、岐阜市立商業高校の中国語専攻の生徒達にプレゼントしました。突然の田中宗弘の訪問に生徒達は、驚き、中国留学の話聞かせてとせがみました。
    田中宗弘は30分位中国大連遼寧師範大学留学の話をしました。生徒達は、大きな拍手で喜んで楽しんでくれました。
    田中宗弘は、とても心豊かに軽く嬉しく思いました。
    田中宗弘は、57歳で会社を退職してましたから、京都府教育委員会から、第1種高校中国語教員免許取得して、直ぐに岐阜県教育委員会に行きました。
    早々に、高校非常勤講師の事を尋ねました。
    担当者曰く、岐阜県には、中国語教育を実施している高校が、岐阜市立商業高校しかなく、現在2名の中国人女性講師で間に合っています。と
    他はないです。 
    田中宗弘は、やるせない気持ちで自宅に帰り、家内に事情を話しました。
    さあ!これから、どうすると田中宗弘は色々考え決めました。中国に留学しよう。
    毎日留学センターに資料を申し込み、郵送で貰いました。どの大学が良いか?候補を毎日留学センターに聞きました。そして、大連遼寧師範大学留学に決めました。
    11月1日〜12月30日迄中国大連遼寧師範大学留学することになりました。
    10月31日に、中部国際空港に、家内と家内のお母さんが見送りに着てくれました。
    出発ゲートで手を振り別れたあと、1人飛行機の待合コーナーの中国大連行きの待合椅子に腰掛けて、涙が溢れて、ハンカチで何度も何度も目頭を拭いていました。本当にこれでいいのかと寂しくて寂しくて溜まりませんでした。
    飛行機は、中国南方国際航空機で、乗客は、中国人が多かったような気がしましたが、日本からの留学生もいたと思います。
    名前とか書くペーパーが配られ書いていたら、後ろの席のお母さんと幼稚園位の女の子の2人連れのお母さんから、ボールペン貸して下さいと言われ、貸して上げました。
    中国人のような人でした。
    機内の昼食は、コーヒーを飲んで、パンと牛肉炒めとサラダ位のそんなに沢山の量ではありませんでした。まあまあ美味しかったです。
    大連空港には、2時間半位で着きました。到着ロビーでは、沢山の人盛りでした。日本語で書かれたプラカード『加藤正様とか、伊藤恵様とか、書かれてました』を持った中国人の男女の方が、沢山見えて大きな声で日本語で呼んでました。その呼ぶ声に反応して見る見る内に、ご対面を果たしているカップルが出来上がって行きました。とうとう航空ロビーには、誰もいなくなりました。田中宗弘と書かれたプラカードがないのです。誰もいないのです。
    田中宗弘は、どうしようかとただ佇んでじっと立っていました。かなり時間が過ぎてから、
    1人の背の高い細めの中国人女性が、田中宗弘さんですかと日本語で声を掛けて来ました。
    田中宗弘は、はいと答えました。その背の高い細めの中国人女性は、日本語で、ごめんなさい
    道路が混んでいて遅れましたと言われました。
    そして、名前を呉(ご)さんと言われました。
    田中宗弘と中国人案内人の呉さんは、空港のロビーを呉さんの案内で出て、駐車場に向かいました。
    駐車場には、中国人案内人の呉さんの旦那さんと車が停めてありました。呉さんは、田中宗弘のキャリーバックを車のトランクの中に入れましたが、旦那さんが、困った顔をして、呉さんに近づき、中国語で何か言ってました。呉さんから、ごめんなさい。車のトランクの中に車の鍵も入れて締めてしまいました。と
    中国人案内人の呉さんから、タクシーで、大連遼寧師範大学寮にいきましょうと言われ、タクシーを捕まえて、田中宗弘と呉さんは、タクシーに乗りました。旦那さんは、後から、車の合鍵を自宅に取りに帰り、田中宗弘の荷物を大連遼寧師範大学寮に持って来ますとの事でした。
    田中宗弘は、初めての中国大連市の割に広い道路と車の多さに驚きながら、タクシーの外を見てました。
    田中宗弘と中国人案内人呉さんを乗せたタクシーは、無事に大連遼寧師範大学寮の前に到着しました。呉さんが、タクシー代を支払っていました。 寮の建物は、5階建ての外観が白い壁に覆われていました。 1階に、フロントロビーと3人掛けの長椅子3脚・トイレ・小宴会室・売店・大きなレストランがあり、2階〜3階がホテル客室、4階〜5階が留学生用の寮になってました。ただ3階は、一部留学生用の寮になってました。 田中宗弘は中国人案内人の女性呉さんとホテルフロントに行きました。フロントの中に2名の中国人女性がいました。そこで田中宗弘は、呉さんとフロントの女性が中国語で話していることは、全く分かりませんでした。ただ、中国人案内人女性の呉さんの言うがままにしてました。結局4500円の保証金を払い、20回分の洗濯物を洗濯する時の洗濯カードも購入しました。 フロントの中にいたもう一人の若い中国人女性が 、何か面倒なような感じでエレベーターで5階に案内しました。501号室の部屋の前で立ち止まり、鍵を開けて中に案内してくれました。 その時に、フロントの案内して来た女性が5階の階の清掃等担当の小柄な中年女性を紹介してくれました。 田中宗弘と中国人案内人女性の呉さんの2人は、部屋の中に入って、呉さんをベッドの横の棚に毛布が無いのに気づき、5階の清掃担当の中国人の中年女性に言いました。直ぐにその5階清掃担当の中国人中年女性は、毛布を持って来ました。ここで田中宗弘を案内してくれた中国人案内人女性の呉さんはが、私帰りますから、何か分からない事あったら、電話して下さいと呉さんの電話番号を紙に書いて渡してくれました。
    とうとう見知らぬ中国で一人になった田中宗弘は、3畳程の広さの部屋を見回しました。ベッド、小さな机、電話器、黒い小さなポットが目に入りました。それから、トイレの洗面所を見ました。トイレは、水洗でしたが、トイレットペーパは、流せませんでした。勿論、トイレットペーパもありません、取り付けるホルダーは、今にも取れそうな品物でした。田中宗弘は、日本からの持参のトイレットペーパ20個のうち1個を壊れそうなトイレのホルダーに付けました。お尻を拭いた紙を捨てる小さなゴミ箱が1つ置いてありました。風呂の浴槽は、一人用の大きさで中が所どころ錆びていました。田中宗弘は、2か月滞在中一度も浴槽には、入りませんでした。洗面所の壁にシャワーがありました。早速水を出して見ると、三々五々何処に向いて出ているのか分からないデタラメな出方の水でした。また、洗面所の中は、ゴーと言う道路で削岩機でコンクリートを削るような大きなうるさい音がしてました。
    ある時、水が断水して、トイレが流せずに、うんこを一週間分上に上にと積み上げて用を足していました。フロントの中国人の若い女性にいつトイレ流せるようになるのか聞きに行きました。すると、フロントの中国人の若い女性は、私知りませんと言うだけで知らぬ顔なのです。
    日本フロントとの対応の違いをまざまざと見せつけられた気がしたのと同時に、中国て遅れているんだと感じ諦めました。
    部屋には、天上に小さな電球が1つあるだけでとても暗くたまりませんでした。近くの電器店へ行き、机の上に置くスタンドを1台買いました。その時、電器店の定員の若い中国人女性は、箱からスタンドを出して、コンセントに差し込み明かりの付くのを確かめてから、また、スタンドを箱に入れて、渡してくれました。
    日本では、こんな事しないのに中国は、心配だから、確かめるのかなあと感じました。
    走行している内に、田中宗弘は、一人が、寂しくなり、日本の家内に電話しました。日本と中国は時差が1時間しかなく、中国が夕方6時なら日本は、夜7時になります。田中宗弘は、家内から、どうしてのと言われ、うん何でもないよと今日の出来事を話し終えてから、一人涙が止まりませんでした。本当に家内のありがたさを感じていました。
    さあ!夕ご飯何処で何を食べようかと思い、部屋を出ました。中国人案内人女性の呉さんから聞いていたこのホテル1階のレストランへ行きました。中へ入ると、5.6人の若い中国人女性が固まって何か話していました。大きなレストランの中には、10人掛けの丸いテーブルが数十個置いてありました。田中宗弘は、テーブルの椅子に座りました。ウエーターらしき中国人女性がメニューを持って来ました。田中宗弘は、誰もお客様がいない、メニューも見ても分からない、どうしようかと思った瞬間席を立ち外へ出てしまいました。少し歩くとキラキラした派手な明るいレストランがありました。店の入り口外に大きくメニューが電灯で輝いて飾ってありました。沢山メニューあるのを眺めながら、田中宗弘は、1つ食べる物を決めてレストランの中へ入り、席に腰掛けて、店員の中国人の若い男性が持って来たメニューを開き、小魚のフライの写真の絵を指指して店員の中国人の若い男性に注文しました。出て来てのが、大きな一皿に小魚が20匹以上沢山盛り付けられた一皿の料理で、田中宗弘は、小魚の余りの多さにびっくりして食べきれませんでした。後で分かったのですが、中国人は、一皿の料理の量が多いので、普通3人でも二皿注文して食べるとのことでした。
    月曜日となり、田中宗弘は、昨日が日曜日で大学が休めの為、中国人の案内の女性の呉さんと予め休みの大学へ行き、入り口から入り左に行くと右側に1119号室と書かれた留学生の受け室を教えてもらっていました。そして、ここの宋さんと言う日本語の話せる中国人の35歳位の女性に会って話をして下さいと言われたことを、忠実に実行して、1119号室をノックして入りました。中には、一人中国人の若い女性がいました。その女性が、中国語で話し掛けて来ました。田中宗弘は、何を言っているのか分かりません。丁度その時、ドアーがあき、一人の中国人女性が入って来ました。その女性は、田中宗弘に向かって、日本語で留学生の方ですかと尋ねました。田中宗弘は、心の中で宋さんだとほっとしました。田中宗弘は、はいと答えました。宋さんは、田中宗弘に、こちらの机に座って下さいと言われ、大学留学に必要な何枚かの書類を見せて説明して下さいました。そして、宋さんと田中宗弘は、一緒に別の部屋へ行きました。そこで、中国人の若い女性が、いきなり田中宗弘に、中国語で質問をしました。〘日本から大連迄何時間かかりましたか〙と、田中宗弘は、質問の中国語は理解できたのですか、少し動揺していたのか、2時間と答えるつもりが、2か月と答えてしまいました。それで、直ぐに初級2班のクラスに行くようになりました。そうなんです。その時の中国人女性の質問の答えで 留学生のクラスが決まっていたのでした。
    田中宗弘は、留学生クラスが決まったので、宋さんの案内で、2階へ上がり、材料室へ行きました。そこには、中国人の背の高いカッコいい若い男性と中年男性の小太りの頭の毛の薄い意地悪そうな男性の2人がいました。宋さんが、話すと、中年男性の頭の毛の薄い意地悪そうな男性が、3冊の赤色のやや大きい厚くない教科書を田中宗弘にくれました。
    そして、その材料室の前には、初級2班のクラスがありました。
    宋さんは、ドアーをノックして開けて、初級2班のクラスの教室に田中宗弘と入り、授業はしている若い30歳代位の膝上10センチ位の白い毛皮のワンピースを着た美人のツンとした感じの先生に中国語で田中宗弘のことを話しているようでした。宋さんは、初級2班のクラスの教室を出て行かれ、田中宗弘一人になりました。
    教室には、他国の留学生の女性4人と男性5人が、2人掛けの椅子の付いた長方形の机が2列で5脚づつ並んでいました。入り口正面から右側の前から4番目の空いている席に田中宗弘は、座りました。すると、若い30歳代の膝上10センチ位の白い毛皮のワンピースを着た美人のツンとした先生が、中国語で何か話していました。勿論、田中宗弘には、分かりませんでした。何しろ先生は、中国人、ホワイトボードには、中国語が書いてあり、教科書は、開くと全て中国語で書いてあり、その内容の訳は、英語で書いてあり、日本語に訳す勉強ばかりして来た田中宗弘にとっては、何か変でしかし、中国に来たのだから、当たり前なのにと思いました。
    入り口正面から左側の2番目の席に座っている女性が、田中宗弘の方を向いて、日本語で先生が田中宗弘さんの紹介を皆さんにしました。
    田中宗弘さん前に出て自己紹介して下さいと言われました。 日本語で田中宗弘に教えてくれた女性は、日本人かと田中宗弘は、最初思ったのですが、李さんと言う170センチ以上の背の高い髪の毛の肩より長い細い美人の日本の東京大学大学院に韓国の国費で留学している日本語も英語も韓国語も話せる才女だったのです。その李さんには、田中宗弘は、これから何回も授業で助けにもらいました。また、李さんに韓国本場の自家製のとても美味しいキムチを作ってもらい、寮で1人で食べて、美味しくてたまりませんでした。ありがたいことと感謝しました。
    田中宗弘は、静かに椅子から前に行きました。
    中国語で❝ダジャハホ、チヨウツウジエンミエン、チンドゥグァンジャオ❞日本語で、皆さんこんにちは、はじめまして、よろしくお願いします。と言いました。そして、名前、日本から来たことや年齢等を多度多度しい中国語で言い元の席に戻りほっとしてました。ここの初級2班クラスにいる留学生は、ウズベキスタンの女性2人やアメリカの男性1人や韓国人4人と他国からの男性2人が来てました。特に韓国人は、男性2人と女性2人いました。
    実は、大連遼寧師範大学の周りの飲食店は韓国料理の店が、沢山ありました。田中宗弘も李さん達と韓国料理店に食べに行きました。
    大連遼寧師範大学での授業は、月曜日から金曜日迄の第1時限目∶午前8時から9時45分迄(10分途中休憩あります)、15分休憩してから、2時限目∶午前10時から午前11時45分迄だけです。
    科目は、聴覚・総合・口語の3科目です。
    総合と口語は、殆ど毎日あり、聴覚LLは、偶にしか無く担当の先生も大人しい中国人の中年女性でした。
    総合の担当の先生は、徐先生(シュィラオシー)
    口語の担当の先生は、張先生(ジャンラオシー)
    いずれも中国人です。徐先生は、55歳でとても優しい徹底的に教える凄い先生でした。田中宗弘は、一度、徐先生と旦那さんと3人で夕ご飯をレストランで食べました。また、田中宗弘は、徐先生と徐先生の姪子で日本語のできる、日本に留学している女の子と一緒に食事しました。
    大連遼寧師範大学は、12時前に授業が終わるので、田中宗弘は、学食で8元『日本円で8×12円=96円になります。』で昼飯を食べました。寮に戻り、38歳の165センチの細い身体の美人の中国人女性の郭先生【中国語でグォラオシーと言います。】に、1時30分から3時30分迄2時間中国語家庭教師を毎日して貰いました。しかし、まだ時間があるので、田中宗弘は、月曜日水曜日金曜日の4時から6時迄大連遼寧師範大学の日本語学科の大学生の子2人に1時間中国語、1時間日本語をお互い学ぶ中国語で、フーシャンシュエシィと言うやり方で勉強しました。しかし、
    まだ空いている時間があったので、田中宗弘は、大連遼寧師範大学の学生課で大連遼寧師範大学大学院生を1人紹介して貰い空いている日の空いている時間2時間中国語を習いました。
    その大学院生の名前は、文麗(中国語でウエンリーと読みます。)年齢は、30歳と本人は、言ってました。優しい真面目な背の高い少々太り気味のお茶目な女性でした。文麗先生を田中宗弘は、日本からの留学生の女性の玉田さんに家庭教師として紹介して大変玉田さん喜んでもらい、田中宗弘は、文麗先生と玉田さんと一緒に食事にレストランへ行きました。
    ある日、授業が終って、田中宗弘は、徐先生と李さん達初級2班クラスの全員で、1元支払って中国の公共機関のバスに乗って北京ダックを食べにレストランへ行きました。その時、田中宗弘は、中国の公共機関バスは、時刻表が無い、ただ来たバスに乗ればいいことを学びました。
    また、バスの中で、中国人の若い男の子が席に座っていると、徐先生が、その中国人の男の子に、田中宗弘に変わるように言われたのです。
    その中国人の男の子は、静かに黙って席を立ち田中宗弘に変わってくれました。感謝です。
    レストランで北京ダックを食べた帰りに、みんなで中国のカラオケに行きました。田中宗弘は、徐先生と日本の歌手千昌夫の北国の春を徐先生のリクエストで歌いました。それから、
    田中宗弘は、1人で❝大連の街から❞を歌いました。徐先生がとても褒めてくれました。楽しいひとときでした。
    12月のクリスマス会が、大連遼寧師範大学大学講堂で500人以上集めてやることになりました。初級2班クラスも舞台上で全員で歌を歌うことになりました。毎日毎日教室で中国語の歌の練習をしました。曲名は、朋友❝中国語でパンヨウと読みます。❞田中宗弘も寮で1人中国語の歌を暗記しました。そんな中、徐先生が、
    田中宗弘に、1人でカラオケで歌った大連の街からがとても良かったから、クリスマス会の時にみんなの前で歌うように申し込みしましたと言われました。田中宗弘は、嬉しいような不安なような感じを心に感じていました。
    ついに12月のクリスマス会の時がやって来ました。初級2班クラスの全員が、中国語で朋友の歌を一生懸命歌いました。 とうとう田中宗弘の番が来ました。舞台上で、500人以上の前で堂々と大連の街からを歌い上げました。本当に田中宗弘は、感無量でした。徐先生に感謝でした
    12月30日田中宗弘は、2か月の大連遼寧師範大学の留学を終えることになりました。田中宗弘は、留学して、2か月間授業を全て出席しました。また、徐先生の授業は、毎回宿題が出ました。ノートに2ページ位中国語で解答したリする事も多くありました。徐先生は、毎回宿題を見て、赤ボールペンで添削してくれました。そして、必ず最後に二重丸で優秀と書いてくれました。嬉しくてもっと中国語勉強しようと励まされました。授業の後、徐先生から、大学の1階の特別室に来て下さいと言われました。何かなぁ~と田中宗弘は考えましが、分かりませんでした。田中宗弘が、大学の1階の特別室に行くとそこで、徐先生から、クリスマス会で田中宗弘が、歌っている姿の入ったCDを1枚手渡されました。もうびっくりして嬉しくて、徐先生にありがとうございますと頭を下げて心より、御礼を申し上げました。
    田中宗弘は、徐先生から、日本へのおみ上げ買ったのと尋ねられました。まだですと答えると、徐先生は、今から、私の知っているおみ上げ店に案内すると言われ、タクシーでその店に行きました。上品な雰囲気の店でした。田中宗弘は、日本へのおみ上げを沢山買いました。レジで支払いする時に、徐先生が、私の割引カード使ってくださいとレジの中国人の女性に渡しました。その御蔭で、お値打ちに買う事が出来ました。田中宗弘は、ありがとうございますと徐先生に言いました。徐先生は、にっこり笑っていました。
    田中宗弘は、12月31日大連空港から、中部国際空港へ帰国の途に着きました。
    中部国際空港のトイレに入り、日本のトイレの良さに改めて感謝しました。
    田中宗弘は、帰国後、仕事探しに、岐阜県職業安定所にも行きました。なかなか見つからず、この年の5月に、高校の先輩の自宅に相談に行きました。そしたら、先輩の勤める会社社長に話して見ると言われました。
    数日後、先輩から、電話があり、今週金曜日午前10時に先輩の勤める会社に面接に行く事になりました。田中宗弘は、社長室に通されました。割腹の良い太り気味の社長に会いました。
    田中宗弘が経験したビルメンテナンス業の仕事の事を聞かれました。自分で創業した時の事なども聞かれました。沢山ビルメンテナンス業の資格持っているなと言われました。最後に、中国大連遼寧師範大学の留学の事も聞かれました。そして、社長も昔、上海で仕事したような話をされ、田中君きみ中国にビルメンテナンス会社の駐在事務所開設出来るかと質問されました。 田中宗弘は、中国大連市なら出来ますと答えました。ただし、自分は、中国大連遼寧師範大学に2か月しか留学していないから、中国語話すのに、まだ不十分です。もし、許されるなら、中国大連遼寧師範大学にもう一度留学を半年しながら、1年の内に大連市にビルメンテナンス会社の駐在事務所開設しますと言いました。 すると、社長は、分かったきみに任せる。何時からやると田中宗弘に質問されました。
    9月1日入学ですから、8月31日中国大連遼寧師範大学に入寮します。だから、それまでに、日本で準しますと答えました。
    社長は、よし分かったと言われました。
    田中宗弘は、先輩に御礼を言いました。田中宗弘58歳は、6月21日入社する事になりました。
    田中宗弘は、定刻時間よりも30分早く自家用車で会社に出勤しました。会社の駐車場で心を落ち着かせ会社の中に入って、まず、社長に挨拶しました。それから、全社員朝礼な場で、先輩から、全社員に田中宗弘は紹介されました。
    田中宗弘は、緊張もしながら、全社員の前で挨拶をしました。第1日目の始まりでした。
    田中宗弘は、名古屋市ある中国への出張の時に必要な手続きをする中国大連館の出先機関のような場所に行き必要証明書を取得しました。
    また、大連市にある岐阜から出ている銀行にも挨拶しました。なぜなら、中国大連市に行った時に挨拶に誰を尋ねていけば良いか知って置く為でした。
    また、中国大連市にあるビルメンテナンス会社も調べて、アポ取りもしました。何かと田中宗弘は、日本で出来る全ての準備を怠らなく進めて行きました。今回も毎日留学旅行センターに電話で大連遼寧師範大学留学をお願いしました。そんな折、ありがたいことに、
    社長秘書からは、冬に向かうから寒くなる所だからと、ユニクロの暖房下着や常備薬として、風邪薬や胃腸薬等も購入していただきました。
    田中宗弘は、準備も整えて、8月31日中部国際空港から中国大連空港へ中国の南方国際航空で旅立ちました。
    機内食は、何時ものと全く同じ食べ物でした。
    乗客は、少なかった気がします。
    大連空港には、2時間30分ぐらいで到着しました。なんだか懐かしく思いました。
    大連空港から、1人でタクシーに乗り、多少日本語の出来るタクシー運転手と話しながら、大連遼寧師範大学の寮に向かいました。田中宗弘は、寮に到着後、フロントに行き入寮手続きを済ませました。
    今回の部屋は、前よりも広い4階の北側の寒い部屋でした。田中宗弘は、早々に、大学に行き、留学の手続きする為に1119号室に行きましたが、担当者留守の為、少々待ってました。
    暫くして、担当者が見えました。留学の書類関係に記入しました。今度は、初級3班クラスになりました。 明日から、2回目の留学の中国語授業参加となります。田中宗弘は、少し緊張が走るような感覚でした。
    田中宗弘は、朝、1階の大きなレストランでバイキング方式のおかずやお粥をトレーに乗せて大きな10人掛けのテーブルに一人座り周りを見渡すと、背の低い日本人じゃないかと思う男性1人と2人でお喋りしながら食べている日本人ふうの女性がいました。後で分かったのですが、背の低い男性は、日本人でもう3年留学していて、姉が中国人と結婚している男性でした。
    また、2人のお喋りしていた女性も日本人でした。その内一人の玉田さんと言う女性とは、留学している間、同じ中国人家庭教師と一緒に食事したリして、お世話になりました。
    田中宗弘は、初級3班クラスの中に日本人男性が、自分含めて3人いることに気づきました。一人は、27歳で日本を代表するような大手の名のある会社から、中国語のHSK5級取得を目指して派遣された学生でした。もう一人は、身長169センチの69歳の若い頃ヤクザと殴り合いの喧嘩して大怪我をしたことも何回もあると自信たっぷりに言っていた関東に1億円位の新築の家を購入した如何にも強そうな角刈り頭の元気な男の人でした。この男の人とは、留学している半年間殆ど毎日一緒に行動する事が多く寮のロビーの長椅子に腰掛けて時間の許す限り話し合って過ごしてしていたり、田中宗弘は、その男の人の部屋にヒール何本も抱えて持って行き、その部屋にある沢山のヒールを飲み干し、持参したビールも飲みながら話し合っていました。ある時、2人でバスに乗って大連市内のロシア街に行こうとしたのですが、バス乗り間違えて、バス運転手に聞いて物何言っているのか分からず、適当なバス停で降りました。
    そこで、道行く中国人の中年女性何人にか下手な中国語で話しかけてロシア街へ行く方法を聞きました。一人2人と中国人の方に聞きようやく何とか分かり、バスを乗り変えて到着しました。ロシア街は、古く閑散とした状況で見物人は、まだらでした。みあげものも欲しくなるような物も無く、確かロシアの暖かそうな帽子を買いました。また、ある日、大連は、冬は、マイナス15度近い時に2人で大連市内に飲みに行き、帰りにバス停まで震えながら歩いて、始発バス停で並んで待っているとバスが到着しドアーが開くや否やあちらこちらから、並んでいる人を無視して駆け込んで乗って来るのです。
    田中宗弘達は、ただ呆然としていて、乗ろうとしたら、バスのドアーがパシャリと締まり乗れませんでした。仕方無く時刻表の無いバス停でバスを待っているとバスは、直ぐに来ました。
    また、乗れなかった人やあちこちから乗りたい人を田中宗弘達は、負けじとかき分けてバスの中に入りました。もうバスの中は、勿論、寿司詰め状態身動きできません。田中宗弘達は、持っ所という物も近くに無く、バスの運転手も荒い運転ばかりして、身体はその度に大きく揺れ、周りの人の固まりに助けられて、どうにか立っていました。やっとの思いで大連遼寧師範大学前バス停に着きました。暗いマイナス15度近い気温の中の坂町を登り歩いて大学の寮に辿り着きました。田中宗弘達は、フロントロビーの誰もいない長椅子に腰掛けて、2人で寒い暖房も無い、時々、警備員が見回りに来るロビーの長椅子で話し合っていました。午後12時が過ぎた頃、2人は、1階のエレベーターに乗り、4階へそれぞれの部屋に帰りました。
    初級3班クラス14人のリーダーを決めることになり、日本人の27歳の大手の名のある会社から派遣された男性に決まりました。その男性の先輩が、高級班に留学していました。
    科目は、聴覚・総合・口語の3科目は、変わりありませんでした。教科書は、初級3班も初級4班も同じ物で、前よりも少し難しくなっていました。
    授業は、月曜日から金曜日迄の午前8時から
    午前9時45分で中休み10分と15分休んで、午前10時から午前11時45分迄と変わりありませんでした。
    田中宗弘は、久しぶりに初級2班クラスに行き、徐先生と会いました。徐先生も大変喜んでもらいました。
    田中宗弘は、授業が終わると、同じクラスの男の人と他のクラスの日本人3人『一人は、元国税庁の指さす官・一人は、広島の定年退職者・一人は、北海道から来た年配のエンジニア』の5人でよく大学の周りの居酒屋で箱から出したばかりの生温い青島ビール(中国語でチンタオピィージュと言います)を飲みがら、昼飯食べてました。最初は、全員が生温いビールを美味しく無いとこぼしていましたが、だんだん慣れて行き、中国は、冷えたビール飲まないのかぁ~仕方ないと諦めて飲んでいる内に慣れて来ました。
    昼食後、田中宗弘は、毎日中国語家庭教師を雇いました。一人は、前回お世話になった郭先生〘中国語で、グォラオシーと言います。〙には、毎日2時間先生の空いている時間にお願いしました。 もう一人は、大連遼寧師範大学大学院生の黄先生〘中国語で、ホワンラオシーと言います。〙黄先生は、小柄な活発な明るい日本語の全く分からない先生でした。何時も黄先生が、都合の良い日の時間2時間を大連遼寧師範大学の授業の終ってから空いている広い教室で、日本語の全く話せない先生と中国語の話せない田中宗弘が2人で全て中国語で個人授業をしました。黄先生の中国語での説明が、ホワイトボードに書かれた中国語会話文が、何となく聞いていて分かる気がするのです。田中宗弘は、この不思議な楽しい個人授業の時間がとても楽しみでした。黄先生は、田中宗弘が、前回大連遼寧師範大学に留学した時のクリスマス会で5.6人の大学院生達と舞台上で一緒に激しく踊っていた女の子でした。黄先生は、大学院卒業後、シンガポールの会社に就職されました。
    もう一人の家庭教師は、同じく大連遼寧師範大学院生の郭先生です。郭先生は、頭が良く大学院生の代表をしていました。ある日、田中宗弘は、大連遼寧師範大学院生全員集まる会に出て欲しいと家庭教師の大学院生の郭先生に言われ
    その会場へ行きました。会場には、大勢の大学院生達が集めていました。家庭教師の郭先生が、田中宗弘を見つけ、会場の一番前の席に案内してくれました。
    田中宗弘は、家庭教師の郭先生から、中国語で何となく分かるような説明を受けました。
    そして、あちこちうるさい会場が静まり返りました。 会場の一番前の真ん中に、あの田中宗弘の家庭教師の郭先生が立ち何やら話しています。郭先生は、進行役のようでした。また、どうも題は、他国からの留学生にいかにして中国語を教えるかという課題のようでした。
    中国語での大学院生達のやり取りは、全く分からないまま、ただ呆然と田中宗弘は、一番前の席に座り聞いていました。急に進行役の田中宗弘の家庭教師の郭先生から、田中宗弘に質問しているようでした。田中宗弘は、何やら分からずにいると、田中宗弘の席の隣に座っている女の子が、質問内容を日本語で教えてくれました。田中宗弘は、ああそうかと思い、自分のこれまで中国語の事を知っている中国語で答えました。田中宗弘は、ドキドキしてたまりませんでした。進行役の田中宗弘の家庭教師の郭先生をちらっと見ると、先生もこちらを見て微笑んでいました。終ってから、郭先生が、ありがとうと中国語で言ってくれました。【中国語で、シェシェと言います。】後で郭先生から、大連遼寧師範大学院で郭先生が使用していた中国語で書かれた中国語の大きな辞典を1冊いただきました。ありがとうございます。
    もう一人の家庭教師は、大連遼寧師範大学の日本語学科の学生の女の子でした。この学生の女の子とは、相互学習『中国語で、フーシャンシュエシィと言います。』で、1時間日本語、1時間中国語をお互いか教え会い学んで行きます。
    この女の子は、とても優しい170センチ以上ある細い身体の美人でした。卒業後、日本の関東地区の人の大勢集まる施設で働くと言ってました。
    田中宗弘は、9月1日からの留学を12月終わりに終了試験5科目を終え平均点が94点でした。
    本人も大変喜んで満足してました。
    田中宗弘は、大連遼寧師範大学の寮を出て、本格的に大連市内に駐在事務所開設の為、自分の住むマンションを大連市内に住む知り合いになった日本人の方から、信頼のおける大連市内の不動産屋を紹介してもらい、いくつかマンションを不動産屋と一緒に見て回り、紹介してくれる不動産屋のビルの直ぐ近くにある、大連市内中心部にある30階建てのマンションの以前日本人が住んでいたと言う28階の割と綺麗な広い部屋に決めました。部屋の中に入ると右側に広い洗面所とトイレ付き浴室があり、トイレの便座は、前住んでいた日本人が残していました。廊下を挟んで左側には、台所キッチンがありガス器具や戸棚もいい感じでした。真ん中には、かなり広い食卓兼応接室兼広間があり、食卓テーブル椅子や応接台椅子・机・大きな壁掛けテレビかありました。奥の部屋には、備え付けの大きなクローゼットがあり、ベッドも大きなダブルベッドでした。家賃は、1か月65000円でした。田中宗弘は、不動産屋さんに部屋のキーロックの仕方を何度か習いました。
    契約は、岐阜の本社に相談して、本社の了承の元進めて行きました。
    田中宗弘は、中国語の勉強も家庭教師の郭先生にかなり遠いけどバス乗り変えて来ますからと、嬉しいこと言ってもらえて、郭先生の時間に合わせて、1週間毎に予定をしてもらい中国語指導してもらいました。ありがたいことです。感謝です。
    田中宗弘は、中国銀行に口座開設しなければいけない為、家庭教師の郭先生に相談したら、一緒に中国銀行に口座開設に行ってくれると言われ、郭先生の都合のいい空いている時間に、一緒に行って口座開設しました。田中宗弘は、ほっとしました。ありがとうございますと郭先生に御礼をいいました。
    ある日、田中宗弘は、中国銀行に両替に行くと、店の中にいた一人の中国人の中年男性が近づいて来て、日本語で両替に来たのと尋ねて来ました。田中宗弘は、はいと答えると、その中国人中年男性は、銀行両替が日本円1万円で中国元が725元と出ているが、、私は、750元で両替してあげると言われ、田中宗弘が、1万円札1枚渡すとその場で両替してくれました。田中宗弘は、銀行の中で平気に両替してる事にびっくりしました。田中宗弘は、その方の名刺をもらい、大連にいる時の両替を電話して待合せして何度も銀行の中でしました。何か変でしたが、銀行の窓口で両替をお願いしても、銀行の女性もあそこにいる人に両替してもらった方が得だからと教えてくれます。
    田中宗弘は、住んでいるマンションの近くで、77歳の日本人男性で、大連市内で中国語を日本人に中国人女性を先生にして、教えている事が書いてある小冊子を見つけました。田中宗弘は、早々に、その小冊子に書いてある電話番号に電話して、中国語を習いたい事を伝えました。すると、電話にでた男性が、筒田と申します。よろしくお願いしますと言われました。
    田中宗弘は、筒田さんに、中国語学校の場所を聞いて、このマンションから、歩いて何分かかるか尋ねました。筒田さんは、15分〜20分位ですねと言われました。
    直ぐに田中宗弘は、筒田さんが言われた通りの道順で歩いてどうにか辿り着きました。
    筒田さんの中国語学校は、10階建ての綺麗な大きなビルでそのビルの7階にありました。
    この筒田さんとの出会いが、大連市内でビルメンテナンス会社の駐在事務所開設につながるのでした。
    田中宗弘は、大連で知り合いになった中国で建築方法等を学校で教えていると言う日本人男性と自分が住んでいるマンションの1階の喫茶店のスタバでコーヒーを飲みながら、駐在事務所に相応しい物件ないか相談したり、マンションを紹介してくれた不動産屋さんに相談したリしていましたが、なかなか良い物件は見つからず、苦労していました。
    そんな折、田中宗弘は、筒田さんの中国語学校に通って中国語学習が終って帰ろうとしていた時に、筒田さんが、俺の家に飯食べに来いと言われました。はいと答えました。
    そして、田中宗弘と田中宗弘に中国語を教えている中国人女性の先生と一緒に、筒田さんに連れられて、筒田さんの自宅に行きました。
    綺麗な奥さんがとても美味しい料理を作って待ってました。 田中宗弘と田中宗弘を教えている中国人女性の先生は、勧められるまま、お酒飲んで、ワインやら紹興酒元飲んで、ご機嫌になりました。その時に、田中宗弘は、筒田さんに
    、実は、大連にビルメンテナンス会社の駐在事務所を開設するように、日本の本社から言われて探しいますが、なかなか良い物件が見つからず困っていますと言いました。
    すると、筒田さんが、借りているビルの中国語学校の隣の部屋が空いているから、明日田中君見に来ないかと言われました。田中宗弘は、はい行きますと答えました。
    田中宗弘は、翌日、早々に筒田さんの中国語学校に行きました。そして、隣の部屋を見ました。そんなに広く無く机が3つ入れてもまだロッカー等もおけるスペースもあり、気に入ったので、筒田さんにここのオーナーに聞いてもらえるように頼みました。
    後日、筒田さんから、良い返事をいただき、早々に日本の本社に連絡しました。
    社長が大連に3人で来る事になりました。その時に、筒田さんに会ってもらおうと田中宗弘は考えて、筒田さんにお願いをしました。筒田さんは、私で良ければいいよと言ってもらえました。田中宗弘は、ありがとうございますと筒田さんに言いました。
    日本から、社長と営業の先輩2名が大連にお見えになりました。勿論、田中宗弘は、大連空港に3人の方をお迎えに行きました。
    大連空港から、田中宗弘の住んでいるマンションに行き、部屋を見てから、筒田さんの中国語学校に行き、筒田さんに紹介しました。
    社長と筒田さんは、同じ年だと分かると話が弾んでいきました。そして、中国語学校の隣の部屋を社長に見てもらいました。いいじゃないかと社長に言われました。田中宗弘は、安堵の思いでした。
    その夜は、筒田さんも交えて5人で大連市内の筒田さんの知っている美味しい店で会食を楽しみました。
    こうして、田中宗弘は、大連市内にビルメンテナンス会社の駐在事務所を開設したのです。




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    50歳から中国語の勉強をはじめ、57歳で高校の中国語教員免許取得。57歳から計8か月、大連師範大学で留学を経験した元会社社長です。現在67歳です。また59歳で、大連で駐在事務所を開設した経験があります。

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