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『ゴースト百貨店』 ⑨終章 温もりのある家 【♯創作大賞2026 ♯お仕事小説部門】

    終章 温もりのある家

        一

    《昭和レトロ百貨店・大ビンテージ博》は開催四日目の月曜日、恐れていた通り入場者数が二千人に届かなかった。千九百六十四人。週初めで天気が下り坂だったのが痛かった。
     火曜日からは、小・中学校の生徒に配布した割引券付きチラシの効果が見込めるが、このままでは目標の三万人には達しない可能性が高い。
     郁実はヤマナミ放送の結城沙織に電話をかけた。
    「沙織さん、郁実です。今、大丈夫? 実は急で申し訳ないんだけど、明日にでも、そちらの局で《昭和レトロ百貨店・大ビンテージ博》のお話ができる機会を頂けないかなと思って」
    「明日は午前中と昼過ぎまでは番組の予定がいっぱいです。でも、午後から夕方にかけてのローカルワイド枠なら、何とかいけそうです」
    「ぜひ、お願い。入場者が三万人に達しないとマルシン百貨店の存亡に関わるの」
    「知っています。……そういえば、郁実さん。ついさっき流れた信毎の速報はご覧になりましたか」
    「いえ、まだ見ていません。ちょっと待って下さい」嫌な予感がした。 
     スマホで信毎のサイトを開くと、《特報》と題した特ダネ記事が載っていた。
    《安売りの王宮が長野市へ進出計画、市中心部に土地を確保か》
     記事によると、全国で食品や日用品、電化製品などのディスカウントストアをチェーン展開する《安売りの王宮》が長野市に大型店を開く計画が進んでいる。郊外型ではなく中心市街地に進出する計画。用地は六千平方メートル超で、長野駅前の《ながの東急百貨店》と並ぶ大規模店になる見通しだ。
     六千平方メートル超、ってマルシン百貨店の本館と新館、駐車場の敷地面積を合わせた広さとほぼ一致する。まさか……。
     記事には完成予想図まで付いている。《安売りの王宮》の特徴である、赤、青、黄など原色をふんだんに使ったビルの外観。ビルの角には子グマのシンボルマークの下に、大きく「年中大バーゲン! 安売りの王宮」と書かれた看板が下がっている。
     さらに目を引くのは、屋上からトグロを巻くように建物の周囲を巡る小型のジェットコースターだ。
    「ありえないわ。こんな奇天烈な建物を長野の中心部に作る気なの?」郁実は思わず声を上げた。
    「そのつもりのようですよ。しかも、その図に描かれた周囲の様子をよく見て下さい。見覚えがあるでしょう」
     図面のド派手な建物は大通りの交差点に建ち、正面の道路はやや傾斜している。それは、善光寺の表参道に繋がる中央通りに面したマルシン百貨店の場所としか思えない。
     敷地面積といい、図面から想定できる位置関係といい、まるでマルシン百貨店の〝跡地〟に建てるのを前提にしている。しかもジェットコースターだなんて……。
     既に郁実たちが勝負に負けた後の土地の活用法まで決まっているのか。だとすると、百貨店の建物は取り壊されて跡形もなくなる運命だ。
    「沙織さん。ありがとう。これで、ますます負ける訳にはいかなくなったわ」
    「こちらも、こんな報道があった以上、ぜひ郁実さんに登場していただいてお話を伺いたいです。《安売りの王宮》には、こちらからも当たってみます。では、明日正午にスタジオ入り口でお待ちしています」
     郁実の心中には、久しぶりに怒りの火球が膨れ上がってきた。絶対に負けるものか。絶対に――。

        二

    「次は、あの安売り商法で有名なディスカウントストア《安売りの王宮》が満を持して長野市へ進出か、という話題です。担当の報道部、結城沙織記者が報告します」
     ヤマナミ放送の午後のワイドショーが始まり、男性キャスターが三番目のテーマとして《安売りの王宮》を取り上げた。
     郁実はこのテーマに関連するゲストとして出演する。だが、まだ紹介されていないので、画面には入らない席で待機中だ。カメラの裏側では南澤が時折、郁実にビデオカメラを向けている。
    「この問題は昨夜、信濃毎日新聞の速報で明らかになり、今朝の新聞紙面でも大きく取り上げられました。こちらのパネルをご覧下さい」沙織が大きめのパネルを指差す。
    「ちょっと待って下さい。今、結城さんは『この問題』と仰いましたね。なぜ、計画ではなく問題なんですか」男性キャスターが遮さえぎった。
    「それも含めて紹介します。まずはここから」
     沙織は我が意を得たりと、パネルの左上の部分の赤い紙を捲った。キャスターとは事前に打ち合わせ済みなのだろう。視聴者の興味を引くテクニックの一つだ。
    「東京に本社を置く《安売りの王宮》は、この十年ほどで全国に進出しています。長野への出店も以前から何度か噂がありましたが、沙汰止みになっていました。理由は、適当な用地が中心部に確保できる見通しが立たなかったから、と言われています」
     沙織は、すぐ下の大きな赤い紙を一気に捲った。
    「しかし、信毎の記事によると、用地取得の目処が立ったため本格的な準備を始めたそうです。記事にはこんな《完成予想図》のイラストも載っています」
    「派手なビルですねえ。どぎついデザイン、と表現したほうが正確かもしれません。これを中心市街地に建てるんですか」男性キャスターが眉をひそめた。
    「しかも、ビルを取り巻く形で小型のジェットコースターを設置する計画です。《安売りの王宮》は以前、東京の繁華街で屋上に観覧車を設けて、地元住民と揉めた経緯があります。今回も実現したら近隣の住宅や商店からクレームが出るでしょうね」
    「実際、中心市街地のどの辺りに建てられそうなんですか」
    「それは、この《完成予想図》のイラストをご覧になれば想像がつきます。明らかに大きな道路の交差点に面しています。加えて、正面の道路が向かって右から左へやや下り傾斜していますね」
    「善光寺表参道に連なる中央通りの真ん中付近ですか。となると、今マルシン百貨店が建っている場所しかありませんね」
    「どう見てもそうですね。この点について、先ほど《安売りの王宮》の本社に訊いてみました。回答はこちらです」沙織がまた、別の赤い紙を捲って、そこだけ手書きの文章を読み上げた。
    「《安売りの王宮》本社広報の回答。『当社が長野市への進出を真剣に検討しているのは事実。進出先については未定ですが、ご指摘の場所も有力候補です』と言っています」
    「マルシン百貨店がある場所が有力候補? でも、今の建物は築百年の歴史的なビルですよね。あれはどうなるんですか」男性キャスターの眉間の皺がさらに深くなった。
    「そこで、今日はゲストをお迎えしています。マルシン百貨店の永阪郁実社長です」
     郁実を狙う3カメの赤ランプが点灯し、モニターに着物姿の郁実の胸から上が映し出された。
    「永阪社長。お忙しいところご出演いただき、ありがとうございます。《安売りの王宮》の長野進出計画で、マルシン百貨店の場所が有力候補とされています。どう思われますか」沙織が訊く。
     郁実は短く一つ呼吸をして、頭の中で飛び交う考えを整理した。ここで失敗する訳にはいかない。
    「何故、私どもの百貨店がある場所が有力候補なのかは分かりません。ただ、当社の経営が厳しいのは事実です。四月までに結果を出さないと、土地・建物が金融機関の手に渡ります。そうなったら、著名なヴォーリズ建築とも言われている本館も、取り壊される恐れがあります。大変、残念ですが」
    「結果を出すとはどういうことですか」沙織が、うまく郁実の出演の目的へ話を向けてくれた。
    「私たちは、これまでのように東京や大阪の有名百貨店の真似をしていたのでは、生き残れないと思っています。そこで考え出したのが《昭和レトロ百貨店》構想です。新しいモノばかりを追いかけずに、古くて良いモノに着目していきます」
    「その前哨戦が、開催中の《昭和レトロ百貨店・大ビンテージ博》なんですね」
    「そうです。金融機関には、このイベントで三万人の入場者を集めることができれば、借金の期限を一年延ばすと約束していただいています。ですから、どうしても今度の日曜日の閉幕日までに、お一人でも多くの方にお越しいただきたいんです」
    「三万人に達しないと土地・建物が金融機関のものになり、《安売りの王宮》に売却されるかもしれないんですね。最後になりますが、何か一言あれば」
    「今回、改めて百貨店の長い歴史を紐解いてみました。すると、マルシン百貨店が、いかに市民、県民の皆様に愛されていたかが分かりました。その理由の一つは、独特の温もりのある建物です。マルシン百貨店の本館はヴォーリズが直接、設計したものではないかもしれません。でも、その設計思想には、ヴォーリズが目指した『温かくて居心地の良い家』が感じられます。これを守るためにも、ぜひ皆様お運び下さい。よろしくお願い致します」郁実は深々と頭を下げた。
    「ありがとうございます。何か大事な話を伺った気がします。では、ここでコマーシャルです」男性キャスターが締め括った。
    「郁実さん。良かったですよ。反響も大きいと思います」沙織が何度も頷きながら近づいてきた。目には光るものがあった。
    「ありがとう、沙織さん。こんなに援護射撃をしてもらって、お礼の言葉もないわ」
     短い時間だったが、郁実としては全力を振り絞ったつもりだ。
     閉幕までに、まだ何かやれることがあるはずだ。郁実の胸には焦りと希望が混在していた。

        三

     翌日の水曜日午後、テレビ東京の『開運! なんでも鑑定団』の公開収録が西浦文芸座で開催された。
     たまたま、ヤマナミ放送が以前から準備していた出張鑑定会の公開収録とコラボレーションする機会に恵まれた。
     放送は残念ながら閉幕後になる。だが、番組をネットしているヤマナミ放送が《昭和レトロ百貨店・大ビンテージ博》の宣伝をしてくれるのがありがたい。
    「始まりました。『開運! なんでも鑑定団』。今日は長野市での出張鑑定会です。長野といえば善光寺。その表参道にほど近い西浦文芸座さんからお送りします」
     派手な蝶ネクタイを付けた司会の中堅お笑い芸人が、軽快な口調で番組をスタートさせた。
    「会場の近くの老舗百貨店で《昭和レトロ百貨店・大ビンテージ博》という『鑑定団』にぴったりのイベントが大々的に開かれておりまして、そこからのお客さんも多数見えています」
     早速、聞き慣れたメロディーと共に、鑑定人たちによる鑑定が始まる。
     最初の依頼人が持ってきた「江戸末期の」掛け軸は真っ赤な偽物と判定された。鑑定価格は五百円。会場から大きな笑いが起きた。
     後方の座席に陣取った郁実も笑い声を上げた。隣の茉里も笑っている。いい雰囲気だ。
    「お父さん。これ、高かったんでしょ。奥さんに怒られますよ」司会者が依頼人をいじる。
    「大丈夫。わしの人生では、もっとこっぴどく怒られたことがあるから」
    「それはどんな話ですか。もしかして……」
    「浮気。大昔じゃけどね。バレてしもうて。カミさんにめちゃくちゃ怒られて」
     会場から、ワーッと先ほどより大きな笑い声が起こった。
    「ちょっとちょっと、お父さん。それ以上は……」司会者が苦笑しながら依頼人の口を押さえる。
     茉里は大笑いしている。だが、郁実の顔は凍りついていた。
     二人のやり取りを聴いて、郁実の耳には周りの声が全く入らなくなった。キーンと鋭い耳鳴りがする。思わず両手で頭を抱えた。茉里が心配顔で覗き込む。
     お父さんの浮気。その言葉だけが、故障したジェットコースターのように頭の中をグルグル回っていた。
     しばらくして、靄もやの向こうから、おぼろげな記憶が蘇ってきた。そうだった。郁実が中学二年生の時、父の浮気が発覚した。東京・銀座のクラブのホステスと……。
     聞きたくない嫌な言葉がたくさん飛び交って耳を塞いだ。それでも、父と母の険悪な言い合いの声が聞こえてくる。それが何カ月も続いた。
     そんな時、郁実は家を飛び出して、表参道から中央通りを下った。行き着いたのが、マルシン百貨店だった。
     それ以来、嫌なことがあると百貨店に入り浸った。そのきっかけが父の浮気による夫婦喧嘩だった事実を思い出させられた。それは郁実の胸の奥に封印してきた暗い記憶だった。
     以前、地元ミニコミ誌が書いた父の浮気を匂わすニセ記事を読んだ時、郁実は急に心臓の鼓動が激しくなった。その原因が今、はっきりした。
     百貨店の建物は洋風の中にも柔らかい和の雰囲気があり、いつも郁実を温かく包み込んだ。お店の人たちもみんな優しく、郁実を可愛がってくれた。
     郁実はこれまで、自分がこれほど百貨店の建物に愛着を覚える理由が分からなかった。だが、今、確信した。マルシン百貨店は郁実にとって、かけがえのない《温もりのある家》なのだ。
     その温もりのある家は長野の市民の人たちにとっても同じだったはずだ。あの頃、百貨店に来ていたお客さんたちは、皆、晴れがましく嬉しそうだった。店内には笑顔と笑い声が溢れていた。
     それが失われる危険が迫っている。だが、あと一踏ん張りで救えるかもしれない。何としても救わなくては。
     郁実は居ても立っても居られず、笑い声の絶えない文芸座を後にした。

        四

     木曜日午前十一時。母の真弓から社長室にいた郁実のスマホに電話がかかってきた。
    「入場者数に不安があるんですって? それなら、また奥寺先生にお願いすればいいでしょう。支援者の県会議員や市会議員のネットワークがあるわ。後援会も熱烈なファンが多いから、千人や千五百人は動員できると思うわよ」
    「あっさり言うわね。お母さん。でも、そんなに何でも頼んでいたら、大きな借りができるでしょ」
    「それは逆よ。ウチには社員と関係者を合わせれば数百票あるわ。政治家に何か依頼をするのは、選挙で集票に協力する『貸し』なのよ。依頼そのものは貸しに付帯する条件に過ぎないわ」
    「それじゃ、これから選挙のたびに集票に協力する関係になるわ」
    「企業と政治家は持ちつ持たれつ。そんな建前を並べている場合じゃないわ。あなたが大好きなマルシン百貨店が存亡の淵に立っているのよ」
    「それでも……。ちょっとだけ考えさせて」郁実は迷いながら電話を切った。
     目の前では南澤がずっとビデオカメラを回していた。
    「南澤さん。聞いていたでしょ。母は、またあの代議士先生に頼めばいい、って言うの。選挙の応援と引き換えにね。でも、私としてはどうしたらいいのか……」
     南澤はカメラを下ろし、じっと郁実を見詰めた。私の本心を見極めようとしている。郁実にはそう感じられた。
    「僕は政治部ではなくずっと社会部の記者なので、特定の政治家とあまり親しい関係になることには抵抗がある。僕なら、歯を食い縛って踏み止まるかな。でも、君はもう記者じゃない。民間企業の社長なんだから、総合的に判断をすればいいよ」
    「……分かりました。私も、ここは踏み止まりたいところですが、背に腹は代えられません。母に動員をお願いするよう頼みます」
     真弓への電話を終えた郁実のスマホに、今度は茉里から声を潜めた電話が入った。
    「商店街連合会の古池会長が、会場に見えています」
     あれだけ私やマルシン百貨店に冷淡だった古池会長が来てくれた。郁実は社長室を飛び出して会場へ急いだ。
     古池は会場の壁に沿って展示している《長野の街とマルシン百貨店の百年史》の写真パネルの前にいた。
     古い写真のパネルに触りながら、古池は中年男と談笑している。権堂商店街の生井だ。生井には〝影の市長〟こと熊谷議員に頼み事をした時に、アシストしてもらった。
    「古池会長。生井さんも。足元の悪い中お越しいただきまして、本当にありがとうございます」
    「あまり、気乗りはしなかったんだが。生井君に『永阪さんが頑張っている。ぜひとも行きましょう』と強く誘われたんでね」
    「会長。そんなことを仰いますが、さっきから、懐かしい懐かしいを連発してますよ。永阪さん。ここを見て下さい。この人、誰だと思います?」
     郁実はパネルのちょっとピンボケの写真にまじまじと見入った。三十年ほど前の夏祭りで、立派な曳山を引く揃いの法被の青年たち。そのうちの一人に見覚えがある。
    「もしかして、古池会長……ですか」
    「その通り。元気に声を上げている様子がよく分かりますよね。では、この人は?」
     生井はすぐ近くの同じ法被姿の男性を指差した。
    「お父さん! ごめんなさい。父ですね。若〜い。こんな姿、見たことがありません。でも、一緒にお祭りに出ていたのなら仲良しだったんですね」 
     古池はそっぽを向いている。だが、眉間に皺を寄せてはいない。照れたような笑みを浮かべている。
    「昔はね。それが、いつの頃からか仲違いするようになった。原因なんてもう覚えていない。本当は、一緒に酒でも酌み交わしたかったんだがね。あんたのお父さんは一国一城の主。こっちも商店街のリーダーに祭り上げられて……。お互い意地になったんだな」
    「そうだったんですか。今度、ぜひ家へ遊びにいらして下さい。父はずっと自宅にいるので、ちょっと寂しがっているんです。来て頂いたら凄く喜ぶと思います」
    「ありがとう。照れ臭いけど、そうさせてもらうか」
    「《昭和レトロ百貨店・大ビンテージ博》の印象はいかがですか。お楽しみいただいていたら、嬉しいんですが」
    「とても面白いね。いろんな昔の品物が見られて楽しい。実は、私の趣味はカメラなんだ。さっき、中古カメラの店主の笹本さんと話し込んでね。もっと早くここへ来ればよかった。商店街のみんなにも、来たほうがいいと伝えるよ」
    「ありがとうございます。お待ちしております!」
     会期はあと三日余りだが、今後は商店街のメンバーも気兼ねなく来てくれるだろう。年齢的にみても関心が高いはずだ。
     郁実は古池と生井を一階の正面玄関まで見送った。
     古池は別れ際、これまでにない笑顔を見せた。そうか。古池も本心では和夫と和解する機会を求めていたんだな、と気付いた。
     古池の来訪で、危急の時に強力な援軍を得た気持ちになった。

        五

     金曜日午前九時五分。郁実は、県知事の北畠不二子に電話をかけた。居留守を使われるのを覚悟していたが、不二子はすぐに出てくれた。
    「郁実さん。頑張っているみたいね。保守のお爺さんたちも、だいぶ軟化しているわよ。今日はどんなご用かしら」
    「開催中の《昭和レトロ百貨店・大ビンテージ博》の入場者数が三万人に達しないと、マルシン百貨店の土地・建物は、信濃銀行さんに差し押さえられます」
    「先日のテレビ番組で見たわ。若いのに着物がよく似合ってらっしゃる。素敵だった。メディアを味方に付けて効果的にアピールするなんて、あなた、政治家に向いているかもしれないわね。ともかく、あのイベントに社運が懸かっている事情は分かったわ」
    「内情をお話ししますと、入場者数は昨日までで、二万人弱です。どうしてももう一息、増やさなければならないんです。知事に来ていただければ、大きな話題になります。短時間で結構なのですが、ぜひ会場へお出ましをと思いまして。勝手なお願いで申し訳ありません」
    「広告塔になってくれという要望ね。それは結構よ。でも、いろいろとスケジュールが詰まっていてね。閉幕の日曜日までに伺えるか……。ご趣旨は承りました。期待に応えられるかどうかは分からないけどね」
     電話を切った郁実は政治家らしい曖昧さで逃げられたかと思った。 
     午後五時四十分。会場前で突然、何台ものカメラのフラッシュが焚かれ、テレビクルーも煌々とライトを点けた。眩しいほどの光の中心にいたのは、晴れやかな笑顔を振りまく不二子だ。
     十人近い番記者やカメラマンらを引き連れた不二子は、迷わずチケット売り場の列に並んだ。
     直前に不二子の秘書から電話が入り、郁実は会場前で出迎えた。不二子が列に並ぶのを見て慌てて駆け寄り、入り口を手で示した。
    「知事。ご招待ですからチケットは結構です。どうぞお入り下さい」
    「それはダメよ。永阪社長。入場者数が大事なんでしょう? 少しでも増やさなくては。秘書室のみんな。あなたたちもちゃんとチケットを買ってね」
     不二子の前に数十人が並んでいるが、知事と取り巻きが突然現れて列に並んだのを見て一様に驚いた表情だ。各局のテレビカメラもその様子をしっかり収めている。
     五分ほど待ってチケットを買うと、不二子はニコニコ顔で入り口のゲートを潜くぐった。
    「わあ、思ったより盛り沢山ね。これはただの物販イベントじゃないわ。長野と日本の昭和の歴史と文化があちこちに散りばめられている」チラッと居並ぶカメラに視線を向けた。
     不二子はまず、《長野の街とマルシン百貨店の百年史》の写真パネルに歩み寄った。写真に見入っていた中高年や家族連れが不二子を取り巻く。
    「お邪魔します。懐かしいですね。この善光寺のご開帳の時、私、駆け出しのアナウンサーで、リポートがしどろもどろだったの。部長にこっぴどく叱られたのよ」
     気さくに話しかける不二子に、子供連れの夫婦が頬を紅潮させている。
     不二子は会場内を歩きながら、行き交う人たちに丁寧に会釈をしていく。握手を求められれば、ニッコリしながら応じる。一緒の写真撮影も断らない。
    「郁実さん。素晴らしいイベントね。目標達成のお役に立てたら嬉しいわ」 
     十五分ほど会場内を回ったあと、不二子は両手を差し出し、郁実を見詰めながら強く握手した。
     忙しい不二子が何故、スケジュールをやり繰りして来てくれたのか。郁実は不二子の振る舞いを見ながら、その理由を理解した。
     不二子は四月末の知事選に再選を目指して出馬する。大勢の人が集まる場所に顔を出すのは当然だ。《昭和レトロ百貨店・大ビンテージ博》はメディアの注目が集まる機会と判断したのだろう。
     県知事の来訪は、今夜のローカルニュースの話題もののコーナーで放送される可能性が高い。明日の新聞にも載るだろう。目標の達成がギリギリの段階になった今、メディアへの目立つ露出はとてもありがたい。
    「お心遣い、まことにありがとうございました」
     颯爽と去って行く不二子の後ろ姿に、郁実は改めて声をかけた。マルシン百貨店を選んでくれた配慮への感謝を込めて。
     不二子が一瞬振り返り、片目を瞑って見せた。

        六

     土曜日午前九時半。開店時刻が近づいた。郁実は、社長室で窓の外を見ていた。時を追って細かい雪の密度が濃くなっている。
     社長室にいても全く落ち着かないので、郁実は《昭和レトロ百貨店・大ビンテージ博》の会場へ向かった。
     会場入り口のチケット売り場の前には、既に長い人の列ができている。売り場近くにいた総務部の治美を見つけ、近くへ呼び寄せた。
    「もう開けましょう。少しでも早く多くの人に入ってもらわなくては」
    「分かりました。では、開場アナウンスをお願いします」
     治美は事務局から、小型メガホンを持ってきて郁実に手渡した。
    「皆様。朝早くからお越しいただき、まことにありがとうございます。会期はあと僅かになりましたが、どうぞお楽しみ下さい。まだ少し早いのですが、多数の方々がお並びなので、今から開場致します」
     入場を待つ人の列の間から歓声が上がった。チケットを買った人たちは我先にと入場していく。チケット売り場に並ぶ行列は途切れない。
     会場にはビートルズの名曲『イエスタデー』が流れている。大型スクリーンでは、若手の人気歌舞伎役者による『外郎売ういろううり』の口上の映像が始まった。
     昨日の金曜日までの入場者数は、二万二千七百十七人。目標達成には、残り二日間で七千三百人が必要だ。ハードルは高い。
     土日であり、昨日の不二子知事の来訪がテレビや新聞で報じられたので、期待はできる。だが、気になるのは激しさを増す雪だ。お客さんの足を止めなければいいんだけど。
     午後四時十五分。郁実のスマホの電話が鳴った。陽子からだ。
    「いよいよ大詰めね。順調にお客さんは入ってる?」
    「もう一踏ん張りしないと、厳しいわね。……何か?」
     気の置けない仲の陽子なのに、切羽詰まっている今の郁実には冗談で返す余裕がなかった。
    「ごめん、ごめん。忙しいのに。いやね、ちょっと、気になる話があるものだから。さっき、旦那から聞いたの。岩下融資部長が今晩、権堂の料亭『水月』で会食する相手について」
    「それが、何か私に関係があるの?」いかん。苛いらつきが伝わりませんように。
    「太田中佐太郎さん。郁実の会社の元副社長でしょ。それと、市会議員の熊谷勇造さん。もちろん、取引先と地元の有力政治家だから別に構わないんだけど、問題はもう一人。旦那によると、これまでこの人との会食の予定が入ったケースはなかったそうなの」
    「銀行って、そんな事実まで把握しようとするのね。何ていう人かしら」「その人の名前は、井上吉雄いのうえよしお。どこの人かは分からないらしいわ。でも、郁実なら知っているかもしれないと思って。……実は、郁実に聞いてほしい、って旦那に頼まれたの。ごめんなさいね。こんな時に」
    「そんなことはないわ。ありがとう。ちょっとこちらでも調べてみるわ」
     電話を切ったが、何かモヤモヤする。おっと、目の前に強い味方がいた。南澤キャップだ。
    「南澤さん。信濃銀行の岩下融資部長が今晩、太田中さん、熊谷市議と会食するんだけど、そこに井上吉雄いのうえよしおという人も加わるの。心当たりはない?」
    「知らないな。あまり珍しい名前じゃないしね。……ちょっと待てよ。この間、《安売りの王宮》について調べた時、資料の中に、そんな名前を見かけた気がする」南澤の目が光っている。
     一分ほどスマホを操作していた南澤が顔を上げた。皮肉な物言いをする時の顔だ。
    「ビンゴだな。井上吉雄。株式会社安売りの王宮の執行役員で店舗開発室長だ。裏方だからネットを検索しても出てこない。同姓同名の別人の可能性もあるが、まず間違いないだろう」
    「岩下、太田中、熊谷と《安売りの王宮》の店舗開発の責任者が今晩、一堂に会する。目的は何かしら。まさか、最後の一日にまた何か仕掛けているのかしら」
     それを確かめるため、郁実と南澤は料亭の近くで張り込むことにした。どうしても太田中に話を訊きたかった。

        七

     会合は、午後六時からと聞いたので、六時半には、料亭「水月」近くの路地の死角になる場所に社用車を止めた。ここなら、万一、会合出席者の誰かが遅れて来ても、見咎められる恐れはない。
    「張り込みなんて、大阪の報道部時代を思い出しますね。もう何年も前のような気がしますけど」
     沈黙に耐えかねて、郁実は軽口を叩いた。だが、後が続かない。時計の針はなかなか進まず、待つ身は辛い。
     午後八時半。粉雪の散らつく玄関の前に、黒塗りのハイヤーが四台、横付けされた。間もなく、玉砂利を敷いた玄関先に数人の人影が見えた。
     郁実は社用車を飛び出し、玄関前に駆けつけた。料亭の女将に見送られた四人の男たちがギョッとした顔をする。
     岩下は顔をしかめ、そそくさとハイヤーに乗り込んだ。《安売りの王宮》の井上吉雄と思われる中年男も、傘で顔を隠しながら車内に消えた。熊谷は、一瞬驚いたようだが、すぐに曖昧な笑顔とともに乗り込んだ。 
     最後に現れた太田中はその場に立ち止まり、郁実をじっと見詰めていた。「太田中さん。作戦会議ですか。それとも、前祝いで乾杯でもしていたんですか」
     郁実は、我ながら言葉に棘があるのに驚いた。思ったより感情的になっていた。
    「ちょっと行こうか。この雪の中で立ち話もできんじゃろう」
     太田中はハイヤーの運転手に一言断って、スタスタと歩き出した。
     目的の場所は、雪の中を歩いて三分ほどの路地の奥にある小さなバーだった。
     重厚な木製のドアを開けると、中は薄暗い。L字型のカウンターだけの落ち着いた雰囲気の店だ。先客はおらず、ワイシャツに蝶ネクタイの三十代と見えるマスターがグラスを磨いている。
    「水割りでいいかな」太田中は郁実と南澤の返事を聞く前に、マスターにオーダーした。
     マスターは棚から太田中の名札が付いたウィスキーのボトルを下ろし、手早く水割りを作った。三人の前にグラスを置くと、表のドアに内鍵を掛け、そのまま奥へ引っ込んだ。
    「乾杯、という雰囲気でもないな。何から話を始めようか。撮影は遠慮してもらうがね」
    「太田中さん。信濃銀行の岩下融資部長と熊谷市議、《安売りの王宮》の店舗開発責任者と会って、何の相談をしていたんですか」
     太田中は細い目をジロっと郁実に向け、微かに笑った。
    「《安売りの王宮》は少々、急いでいてね。信濃銀行がマルシン百貨店の土地・建物を手に入れたら、すぐに譲り受けて店舗の建設に掛かりたいそうだ。それで、責任者が早々と来長したんだ。今夜は前祝いと言ったら、あんたには怒られるだろうがな」
    「最後に、何かまた妨害工作を仕掛けているんですか」
    「安心していい。もう何もしないさ。これまでいろいろやってきたからな」
    「では、小、中学生向けのチラシの配布を止めさせたのは、やっぱり太田中さんが熊谷市議に手を回したんですね」
    「そうじゃよ。だが、真弓さんのほうが一枚上手うわてだった。奥原代議士に頼むなんてな」
    「《安売りの王宮》の誘致も、太田中さんの案なんですか」
    「あれは、シナギンの岩下が持ってきた。というより、もっと根本的なところを見たほうがいいぞ」
    「それは、どういうことですか」
    「すべては岩下の構想に基づいているんだ。本来、五億円の債務はすぐに返さなくても問題はなかった。じゃが、岩下は《安売りの王宮》の長野進出計画を知り、まとまった土地としてマルシン百貨店に目をつけた。それで、わしに相談を持ちかけたんだ」
    「でも、その前に、昼神さんや権野さんが東京のコンサルと組んで持ってきた《百円天国》の話がありましたよね。あの件はどうなんですか」
    「あれも、実際には岩下が書いたシナリオだ。昼神らに話を持ち掛けたのは岩下だ。しかも、企みが露見するのは織り込み済みだった。あの話が立ち消えになった時は、安心しただろ。まあ、ダミーじゃな。あれで、永阪家の親戚の昼神も追放できた」
     太田中は喉を潤すように、水割りのグラスを傾けた。
    「でも、それじゃ、まるで銀行によるマルシンの乗っ取りですよ。なんで太田中さんは、そこまでして岩下さんに協力したんですか」郁実は、声がかすれているのを自覚した。
    「四十五年……。わしは信大を出てから、マルシンに人生の全てを懸けてきた。和夫社長が倒れた後、ワンポイントでも社長を継いでほしい、と頼まれると思った。しかし、後継は娘のあんただった」太田中はチラリと郁実を見た。
    「所詮、わしは永阪家の使用人に過ぎなかった。自分の四十五年間は何だったんだ。そう思ったら、あんなに好きだった会社への愛着もなくなった。当座はあんたを見守るフリをした。機会を見てひっくり返そう、とな」
    「その機会は意外に早くやってきたんですね」南澤が口を挟んだ。
     太田中が南澤を見て小さく頷いた。
    「岩下から土地の売り先の話を聞き、『安売りの王宮』の建物の完成予想図を見て派手な姿に驚いたが、それも面白いと思った。もうマルシン百貨店は完全に消えたほうがいいんじゃ」
     郁実は太田中の目が怒りで血走っているのに気付いた。
    「でも、太田中さんは経営会議で私の社長就任に賛成してくれましたよね」
    「反対しても、わしにお鉢が回ってくる状況ではなかったからな。前にも言ったが、あんたが打ち出した《昭和レトロ百貨店》の方針には反対じゃ。この点は、昼神が言った通り。百貨店経営は遊びじゃない。中古品を売るなんて百貨店マンには考えられない」
    「そんな……。今までのやり方でうまくいかなかったから、知恵を絞ったんです。社会の大きな流れにも合っていると思っています」
    「ダメなものはダメ。明日、結果がどうなるかは分からんが、銀行との約束が達成できなかったら、潔く負けを認めて会社を清算することじゃな」 
     清算という言葉に郁実は戦慄を覚え、体に震えが走った。
    「わしの物語はここまでじゃ。わしは、このままもう少し飲んでいく」
     太田中は瞑目し、黙り込んだ。郁実は南澤に促され、店を出た。ドアベルのカランコロンという響きが寂しげに聞こえた。
    「太田中の小父さん……」郁実は数歩、進んだところで雪道にしゃがみ込んだ。南澤に抱き起こされ、しがみ付いてわんわん泣いた。
     これから、郁実もマルシン百貨店もどうなっていくのか。全く分からない。神様は私をどうしたいのかしら。郁実はその場から一歩も動けなかった。

        八

     日曜日午前七時。恐れていた事態になった。昨夜から激しさを増してきた雪は、呼び名が豪雪と変わった。
    「昨日の深夜から、中部地方の山沿いを中心に激しい雪が降っています。この影響で、北陸新幹線は高崎―長野間で運休です。名古屋と長野を結ぶ在来線の特急《しなの》も止まっています。また、高速道路も長野道と上信越道が早朝から通行止めです。気象庁は長野県北部や新潟県に対し、豪雪に十分警戒するよう呼びかけています」
     NHKテレビの男性アナウンサーが、眉間に少し皺を寄せて伝えている。郁実にしてみれば、泣きたくなるほど厳しいニュースだ。
    《昭和レトロ百貨店・大ビンテージ博》の最終日に向けて、郁実や茉里、花岡、治美のチームは考えられるだけの動員策を採ってきた。
     若者向けの対策として、花岡の提案で金曜日に急遽、SNSのインスタグラムとTikTok、X、YouTubeで発信した。
    「入場者が三万人に達しないと、噂になった『ゴースト百貨店』が実現してしまいます。ちょっとだけでもいいので来て下さい。百年続いた建物を生き残らせて下さい」
     動画で、郁実は目を真っ赤にして訴えた。
    「社長が自ら『ゴースト百貨店』と噂されたと認めている」「クラシックな着物姿が可愛い」「美しすぎる貧乏百貨店社長」――。動画はあっという間に五十万回以上、再生された。Xでも「脱・ゴースト百貨店」「そうだ 長野、行こう!」がトレンド入りした。
     しかし、この交通状況では、東京や大阪、名古屋など長野県外からのビンテージ商品ファンの来訪は期待できない。あとは地元の人たちに来てもらうしかない。
    「郁実さん。行ってきましょう。待っているだけでは埒が明かないでしょ」
     茉里が社員、店員有志に呼びかけ、街頭でのチラシ配りを手配した。
     三十人ほどのメンバーが長野駅や駅前商店街、権堂商店街などの繁華街に分かれて、通行人に割引券付きのチラシを手渡す。西浦建設がワゴン車を三台出してくれた。
     郁実は駅前商店街で先頭に立って「お願いします。お助け下さい」と声を枯らした。
     雪のため人通りはまばらだが、半ば強引にチラシを渡した。商店街の店主らはチラシを配る郁実らの姿を見つけると、笑顔で受け取ってくれた。
     この間まで、郁実が店内を歩くとそっぽを向いた店員や目を伏せた社員たち。今は極寒の雪の中、チラシ配りに精を出している。
    「やっぱり、みんなマルシン百貨店が好きなんだ。あの建物の中で働きたいんだわ」
     郁実の口からこぼれた感慨に、茉里が大きく頷いた。
    「それも、郁実さんの奮闘ぶりを見ていたからですよ。凍りついていたみんなの気持ちを解とかしたのは、郁実さん自身です」
     昨日の入場者数は、三千三百四十四人。これまでの累計では、二万六千六十一人。三万人まで残り三千九百三十九人。明日は最終日だし、天気が良ければクリアできる可能性は十分ある。
     しかし、豪雪で新幹線や在来線、高速道路網が寸断され、期待した最終日の入場者数が思うように伸びない。
     午後三時。通常、最終日はいつもより二時間早い午後六時までだが、何とか七時まで延ばした。あと四時間。まだ、三万人には二千人ほど足りない。絶望感が漂う。
     夕方近くになって、雪の付いた防寒服を着込んだ地元の人の姿が目立ってきた。表参道や中央通りの商店主や店員など顔見知りも多い。
     こんな悪天候の日に、わざわざ来てくれたんだ。郁実を見つけると「頑張ってね」と励ましてくれる。ありがたくて涙が出る。
     午後五時。入場者数はじわじわと増え、二万九千人が目前まで来た。
     あと少し。何とか奇跡を起こして下さい。お願いします。郁実は両手を一つに結び、会場前から善光寺に向かって祈った。

        九

     月曜日午前七時五分。昨夜まで記録的な豪雪に見舞われた長野の空は、今朝、雲一つなく晴れ渡っていた。
    《昭和レトロ百貨店・大ビンテージ博》の閉幕までの入場者総数は二万九千百七十二人。三万人の目標は達成できなかった。
     昨夜、目標未達がはっきりした瞬間、会場にはアーっと大きな嘆声が響き渡った。花岡は歯を食いしばって宙を睨んだ。茉里と治美は互いに手を握って涙ぐんでいた。
     その後、郁実は片付けに入った出店者や会場スタッフに、メガホンでお礼とお詫びの挨拶をした。だが、何を話したのかは全く覚えていない。
     一夜が明けても、郁実はこの現実をどう受け止めたらいいのか分からなかった。
     午前九時。社長室の窓の外の明るい陽光をぼんやりと眺めていると、スマホの電話が鳴った。陽子からだった。
    「残念だったわね。郁実。……あまり、気を落とさないで。張り詰めていた気持ちが途切れると、体にも響くから」
    「ありがとう。陽子の声を聞いただけで、少し気が晴れるわ」
    「こんな時に言いにくいんだけど、旦那から一言、伝えてほしいと頼まれてるの」
     信濃銀行調査部に勤務する夫の梨谷から「午前十一時なら、頭取がお目にかかれるので、お出ましいただきたい」との伝言だった。否も応もなかった。
     午前十時四十五分。郁実は深く積もった雪をザクザク踏んで、中心市街地に建つ信濃銀行本店の正面玄関の前に着いた。昨日までの着物から、今朝はフォーマルな濃紺のワンピースに着替え、コートを羽織っている。
     自宅を出てここまで来る道すがら、郁実の脳裏に浮かんだのは、マルシン百貨店にとって最悪の結末だった。頭取から呼び出された理由は想像がつく。冷厳に言い渡されるのだろう。約束通り融資金五億円の担保である土地・建物を差し押さえる、と。
     それにしても、梨谷は頭取秘書ではなく調査部の係長なのに、何故、頭取の日程調整に関わっているのか。マルシン百貨店の件を目立たせないために、秘書ではなく子飼いの梨谷を通したのだろう、と解釈した。
     午前十時五十分。ロビーに入り、受付の前で南澤と合流した。大理石のカウンターの前に立つと、受付の女性が立ち上がった。
    「永阪様。お待ちしておりました。頭取がお待ちしております」
    「ありがとうございます。もう一人、こちらの南澤が同行してもよろしいでしょうか」
    「秘書からは、多分お二人で来られるので、お上がり頂くようにと言われております」
     南澤の同行があっさり認められたのは意外だった。理由は担保権執行宣言を記録させるために違いない。一層、気が重くなった。南澤さんにそんなシーンを撮ってもらう羽目になるなんて。
    「どうぞ」と中から声がして、二人は、頭取室に入った。
     宮坂頭取は、頭取室の奥にある執務机の大きな椅子に座っていた。郁実と南澤を見向きもしない。前回、ドアのところまで出迎えたのとは大違いの冷淡な対応だ。
     それでも、ソファに座るよう促された。緊張で足がうまく動かない。何とか勧められた中央の椅子に浅く着席した。隣に南澤が座る。こちらは悠然としてビデオカメラで郁実を撮っている。何だか他人事モードで、少しムッとした。
     頭取室には、もう一人入ってきた。岩下融資部長だった。頭取と同様、硬い表情だ。郁実たちと反対側の末席近くに、腰を下ろした。
     役者が揃ったのか、宮坂が自席を離れ、郁実の向かい側のソファに座った。これで、郁実と対峙する形が整った。
     頭取が何かを話そうと唇を動かしかけた時、郁実はスッと立ち上がった。長いソファの最末席の先の床に跪ひざまずき、床に額を擦り付けた。生まれて初めての土下座だ。体が震えた。
    「ご存じの通り、《昭和レトロ百貨店・大ビンテージ博》は入場者総数がお約束した三万人には達しませんでした。ではありますが、曲げてお願い致します。どうか担保権の執行をもうしばらくお待ちいただけませんでしょうか」
     岩下が郁実の話を遮って声を発した。冷淡な口調だった。
    「永阪さん。約束は約束ですよ。土下座なんかしても無駄だ。目標を達成できなかった以上、担保権の執行は粛々と……」
     その時、女性秘書が頭取室へ入ってきた。土下座している郁実を見て一瞬、立ち止まった。だが、すぐに宮坂の下へ足早に歩み寄り、小さなメモを手渡した。
     宮坂はメモを見ると、執務机の後ろの大きな窓に目をやり、近付いて行った。
    「永阪さん。どうぞ頭を上げて。ここへ来てあれをご覧なさい」
     郁実は戸惑いながらも窓辺に立ち、宮坂の指差すほうに目を凝らした。
     頭取室は十五階だが、この高さからもはっきり分かる。百人ほどの人たちが銀行の正面に集まって、何か叫んでいる。
     人々は「マルシン百貨店を潰すな」「『温もりのある家』をなくすな」「キテレツなビルを建てさせるな」と書いた横断幕を広げている。
     最前列の真ん中に立っているのは、商店街連合会の古池会長だった。権堂商店街の生井や善光寺門前街づくりの高遠らの姿も見える。
    「あの方々は、皆さん当行の大事なお取引先です。その方々があんなに一所懸命、訴えておられるのに無視はできません」
     宮坂はいつの間にか、前に見た柔和な表情に戻っていた。
    「それでは、何とか債務返済は猶予していただけるんですか」
    「残念ながら約束の人数には達しなかったが、様々な悪条件の中、あれだけの成果を上げたのは事実。《ゴースト百貨店》なんて揶揄されたが、この十日間は見違えるような大盛況だった。あなたのチャレンジは、マルシン百貨店の新たな可能性を示した。特別に半年後の十月末まで、繰り延べしましょう。それまでに返済の目処をつけて下さい」
    「頭取、それは理屈が通らないのでは……」岩下が鋭い声で割って入った。
    「岩下君。理屈が通らないのは、君のほうではないかな」
     宮坂は、岩下を一睨みすると、執務机の上の内線電話を取り上げた。一言二言話すと、すぐにドアから梨谷が入ってきた。タブレットPC端末を宮坂に手渡す。
    「これは、何だね」宮坂はその端末の画面を岩下に示した。
    《マルシン百貨店の不動産売却、安売りチェーン誘致 信濃銀行主導か》と見出しが踊る記事だった。
     信濃毎日新聞デジタルの「特報」記事だ。配信時刻は午前九時三十分。
    「君もこれは見ただろう。この記事には『融資部が独断で話を進めている。以前の百円ショップも同様だった』とある。理屈が通る説明をしてもらおうか」
     岩下は、顔面蒼白になって口をモゴモゴさせた。
    「……それは、ご説明しようと思っていたところでして……」
     記事は、太田中が一昨日の夜、郁実に語った通りの内容だ。ハッと直観した。太田中が信毎にリークしたに違いない。太田中の小父さん。やっぱり……。
     宮坂は、岩下が悄然として頭取室を出ると、改めて郁実に声をかけた。「私は、山歩きが好きでね。県内の主な山は登っています。ある時気付いたんですが、会社の経営は両足の幅ほどしかない尾根道を歩くのと同じです。両側は断崖絶壁。踏み外したら命はない。文字通り足を引っ張る輩もいる。でも、支えてくれる人たちも必ずいる。慎重に、しかし大胆に、一歩ずつ山頂へ進んでいくしかありません」
     宮坂は一礼して自席に戻った。もう帰れという合図だ。
     ドアを出て、廊下で待っていた梨谷に深く頭を下げた。
    「ありがとうございます。何とお礼を言ったらいいか……」
    「とんでもない。永阪さんや街の皆さんのお陰で、銀行は道を踏み外すのを免れました」
     奇跡が起きた。いや、街の人たちが奇跡を起こしてくれた。郁実は目を瞑り、今回の一件に関わった全ての人たちに感謝した。

        十

     火曜日午前十時十五分。社長室にいた郁実のスマホに一通のメールが届いた。ヤマナミ放送報道部の記者、結城沙織からだった。
    《郁実さん 結果としてマルシン百貨店が救われたのは本当に良かった。今日、午前九時過ぎに《安売りの王宮》からファクスが入りました。『長野進出計画を白紙に戻した』という発表文でした。今後、この計画が蒸し返される可能性はないでしょう。この情報は間もなくニュースで流します。 沙織》
     郁実は、すぐにメールを返した。
    《沙織さん いろいろとご配慮をいただき、ありがとう。もうあの奇天烈な建物は長野に建たない訳ですね。それだけでも安心です。近々、お食事をしましょう。先延ばしになっている若い女性によるアドバイザリーボードの相談もさせていただきたいし。 郁実》 
     スマホを閉じるとノックがあり、茉里が部屋に入ってきた。大型封筒を抱えている。
    「今、信濃銀行の方が社長宛ての書類を持って来られました」
     早速開封してみると、融資部からの通知書だった。《融資金五億円について、返済期限を半年間繰り延べ、十月末日とする》とある。
     何か違和感がある。書類を見返すと、発信者は融資部長だ。しかし、部長の名前は岩下ではない、別人のものだった。
     郁実は思い切って、陽子の夫、梨谷のスマホに電話をかけた。
    「梨谷さん。永阪です。今、少し大丈夫ですか」
    「ちょっとお待ち下さい。場所を移ります。……大丈夫です。どうしました?」
    「昨日は、たいへんありがとうございました。実は、先ほど信濃銀行さんの融資部から、融資金の返済期限繰り延べの通知をいただいたんです。ただ、部長のお名前が岩下さんではなく、別の方だったものですから。どういう事情かな、と思いまして」
    「その件ですか。流石、この間まで記者をしていただけありますね。対外的には今日の夕方に公表の予定ですが、岩下さんは本日付で執行役員融資部長を解任され、総務部付きになったんです」
    「今回の一連の騒動が原因ですか。でも、いきなり解任とは厳しいですね」
    「永阪さんが帰られた後、法務部が岩下さんに面談しました。岩下さんは、《百円天国》も《安売りの王宮》も自分から働きかけたもので、両天秤を掛けていた。進出に熱心だった《安売りの王宮》からは、成功報酬を約束されていた、と認めました。直ちに依願退職すると思います」
    「そこまでしたのは、何故なんですか。執行役員まで務めていたのに」
    「ここからは全くの裏話ですから聞き流して下さい。岩下さんは来期、取締役に昇進するかどうかの瀬戸際だったんです。マルシン百貨店さんの土地・建物を格安で入手して、その手柄で取締役になろうと思っていた――と、もっぱらの噂です」
     梨谷との電話を終えると、南澤が社長室に入ってきた。いつものショルダーバッグだけではなく、ボストンバッグも持っている。すぐに分かった。大阪へ帰るんだ。
    「南澤さん。いろいろと無理ばかり言ってすみませんでした。南澤さんがいなかったら、ここまで辿り着けなかったと思います。感謝します」心を込めて頭を下げた。
    「そんなことはない。永阪がなり振り構わず走り回ったから、みんな付いてきたのさ。《元ナミハヤ記者の新米社長奮戦記・光明編》をまとめたら、こちらのヤマナミ放送でも流してもらえると思う。楽しみにしていてくれ」
     南澤は、長野駅まで送るという郁実の申し出を断った。
    「時間を無駄にしないほうがいい。どうやったら賑わいのある店にできるか、必死に考えて行動しろ。幸い、四カ月前と違って今は協力者が大勢いるから心強いさ」
     まるで近所へ出掛けるような風情で、南澤は去って行った。
     南澤を送り出した後、郁実は本館の屋上に上がって、一人、柵にもたれた。
     長野市内の穏やかな風景を眺めていると、社長就任以来の様々な出来事が脳裏に蘇る。
     いちばん大事なマルシン百貨店の土地・建物は、大勢の人たちの協力で、辛うじて守ることができた。市民に愛されてきた百年建築の本館も、半年は生き延びることになった。
     とはいえ、半年などあっという間だ。それまでに五億円返済の目処を付けなければならない。郁実たちが考えた方向性は正しいのか。このまま進んで行っていいのか。
     信濃銀行の宮坂頭取は、十日間の《昭和レトロ百貨店・大ビンテージ博》で「《ゴースト百貨店》を大盛況に導き、マルシン百貨店の新たな可能性を示した」と認めてくれた。
     確かに、イベントに来たお客さんの多くが百貨店本体の売り場にも立ち寄ってくれた。閑散としていた各フロアの売り場が賑わい、衣料品やバッグ類、アクセサリー、豪華な国内旅行など、高価格だが品質のいい商品が驚くほど売れた。
     質のいい最新の商品と珍しいビンテージ品は共存共栄できるかもしれない。そこに活路があると信じたい。そこに生き残りを懸けよう、と気持ちが固まってきた。
     いつの間にか花岡が現れ、郁実の肩に触れそうなところで柵にもたれた。
    「……大丈夫ですか。僕でよかったら、いつでも何でも話して下さい」 
     二人に気づいた倉島の小父さんが、二重扉の内側に《本日は終了しました》の札を下げるのが見えた。《終了》の二文字が、郁実の胸に突き刺さった。
    「ごめんなさい。やっぱり、南澤さんともう一度、ちゃんと話をしたいの」
     郁実は階段を駆け下り、表通りへ出た。そのまま走って長野駅へ向かった。大学時代、女子ソフトボール部で鳴らしたとはいえ、七年以上も経っている。息が切れるが、もう少しで駅に着く。まだ間に合うはずだ。改札口を潜くぐるのももどかしい。
     在来線のホームへ下りると、名古屋行きの特急《しなの》はまだ発車してはいなかった。
     最後尾の一号車に乗り込み、端から探す。いない。二号車にも、三号車にもいない。先頭車両の六号車に入ったところで、恐ろしい考えが浮かんできた。もしかしたら、新幹線で東京へ向かったのではないか……。 
     その直後、先頭近くの座席にちょっとウエーブのかかった長髪の頭が見えた。
     車内は閑散としていた。南澤はホーム側の四人席に向こう向きで一人座り、何かに熱中していた。すっかり見慣れたハンディータイプのビデオカメラだ。タブレット端末を接続して画面に見入っている。
     これまでに撮影した様々な映像を早送りで映し出す。ほとんどが郁実の画像だ。大勢の人たちに囲まれたり、インタビューを受けたり、何かを凝視したり――。焦点は、いつも郁実の顔に合わせている。笑ったり、怒ったり、涙ぐんだり――。時折、アップの顔を停止させ、そのままにする。近くまで来た郁実には全く気付いていない。
     まったく鈍感なんだから。声をかけたかったが、何故かためらわれた。郁実はゆっくり後退りした。車両からホームへ降りると、車窓の前に立った。
     南澤はまだ、気付かずに作業を続けている。やはり、この人は記者なんだ。さっきから画面の中の私の顔を何百遍も見ているのに、私は一人の取材対象、一つの素材に過ぎないんだ。
     私の気持ちになんか、全く思い至らない、鈍感男だ。
     ホームに発車ベルが鳴り響き、乗車を促す駅員のアナウンスが流れた。
     南澤がモニターから目を上げた。眼前に立つ郁実にようやく気付き、目を見開いた。
    「どうした?」と言っているのが、口の形で分かった。
    「ありがとうございました」郁実も、ゆっくり挨拶の言葉を投げかけた。
     南澤の表情が微かに揺れた。微笑んでいるが、目が潤んでいるようにも見える。え? 南澤さん……。
     昇降口のドアが閉まり、特急《しなの》はゆっくりと動き出した。
    「頑張れよ」さっきよりはっきりと告げているのが分かった。
     郁実は動いていく南澤を視線で追いながら何度も頷いた。
     特急《しなの》は徐々に速度を上げ、ホームから去っていった。線路の先には黒い点になった車両の最後尾しか見えない。
     南澤は大阪へ帰っていった。もう困った時に目の前で頼ることはできない。
     郁実の経営者としての戦いは、まだ始まったばかりだ。これからは、自分と仲間だけで様々な困難に立ち向かわなければならない。
     もちろん頑張りますよ。南澤さん。見ていて下さい。今度会う時は、きっと……。                           (了)

     
     
    広い意味の冒険小説を書いています。元新聞記者としての経験を生かしながら、発想の翼を広げ、時空と世界の境界を超えた作品を今の読者に受け入れられる形で作っていければと思います。

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