
蝉
「すみませんが、背中をかいてくださいませんか」
道を歩いていたらすれ違いざまに男から声を掛けられたので、びっくりして立ち止まった。きちんとした三つ揃いの薄茶色のスーツを着て、髪は短く、丸い眼鏡をかけている。大きな輪郭の顔のわりに神経質そうな顔立ちの男が、僕を見てそこに立っている。
空は晴れて、黄色い日差しが熱い。辺りのものがみんな少しずつ黄色がかって見えるような気がする。ぬるい風がひとわたり、側を走り抜けるように吹いて、真夏のお勝手のような匂いがした。
「背中を、かいてくださいませんか」と男がまた言って、後ろを向いた。そして顔だけこちらを振り返っている。
見ると、薄茶色の背中のちょうど真ん中で、拳ほどもありそうな大きな蝉が一匹、じいじいと鳴いている。鳴き声はそれほど大きくは聞こえない。しかしこちらに聞こえる程度には思い切り鳴いているようである。はじめはよく出来た玩具かと思ったけれど、鳴き声の感じや、胴体やら翅やらの造りがそんな風でもない。まさか木と勘違いしてそこに止まったわけでもないだろうけれど、背中に蝉が、しかもこんな大きな蝉が止まっている人間を見たのははじめてなので、うろたえた。少々気味が悪い。
「背中で蝉が鳴いていますよ」と教えると、
「ええ」と言ってから立て続けに「さっきからそこらがかゆくてたまらないのです。すみませんけれど。」と言う。
背中をかいてあげることは構わないけれど、こんな大きな蝉をはたき落としたり、蝉に触れたりするのは嫌だ。しかし蝉をそうしてどこかへやるか、蝉が自分でどこかへ飛んで行きでもしない限り、男の背中をかいてやることは出来そうにない。蝉はまだ男の背中で、じいじいと鳴いている。 そこで「背中に蝉がいるのです。だからかいてあげることは出来そうにないのです」と、うろたえたなりに言った。すると男は、
「ああ、困ったことになった」と、いかにも神経質な声で、泣きそうな顔をこちらへ振り返ったままじれったそうに言う。
その時、それまでじいじい鳴いていた蝉が鳴きやんで、今にも飛び立たんばかりに羽ばたきをはじめた。男の背中で、体を震わせるようにして薄い翅を細かく羽ばたかせている。あ、飛ぶ、と思ったから、一歩、後ずさりした。飛び去ってくれれば男の背中をかいてやれる、これでもう大丈夫だと思った。
蝉はますます大きく羽ばたきして、もう飛ぶ、と思った瞬間、男の体が大きくなった気がした。いや、大きくなったのではない、背が上へ伸びるのか、と気が付いたと思ったら、蝉の羽ばたきと共に男がゆっくりと浮かび上がった。そして羽ばたく蝉を背中に止まらせたまま、どこかへ飛んで行ってしまった。その間、男は一言も話さなかった。
男がいなくなってしまって、また黙って道を歩き出した。日差しはまだ黄色くて熱い。そして歩きながら、やっぱり蝉をはたき落としてでも背中をかいてやればよかった、と考えた。