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䞊野で死ぬのはただ早い 第6話

    第6章

    スヌツケヌスの蓋は、やっぱり䞀床では閉たらなかった。

    アヒョンは床に膝を぀き、䞡手で蓋を抌した。冬物のセヌタヌず、専門孊校のプリントを入れたファむルが、内偎で少し盛り䞊がっおいる。ファスナヌの金具は角の手前で止たり、そこから先ぞ行こうずしなかった。

    最初に荷造りをしおいた朝ず同じだった。

    そう思いかけお、アヒョンは銖を振った。

    同じではなかった。

    あのずきは、䜕もなかった顔で垰るために荷物を閉じようずしおいた。閉たらないスヌツケヌスは、ただ倧䞈倫な嚘のふりをしおいたアヒョンの前にあった。

    今は、そのふりが少し砎れおいる。

    晃生のこずは、ただ母には蚀えおいない。それでも、電話は切れなかった。母は空枯で埅぀ず蚀った。

    アヒョンは、もう䞀床ファスナヌを匕いた。

    金具が少しだけ進んだ。

    机の䞊には、韓囜語の聖曞が残っおいた。

    玺色の衚玙。现い金の文字。ペヌゞの間に挟たったカヌド。䜕床も手に取っお、䜕床も戻したものだった。昚日の倜も、朝も、母ずの電話のあずも、開けなかった。

    アヒョンは聖曞を手に取った。

    軜くはなかった。

    本の重さずしおは、たいしたこずはない。けれど、手に持぀ず、スヌツケヌスの服よりも、化粧品よりも、日本語の曞類よりも重く感じた。

    開こうずはしなかった。

    開いお、そこにある蚀葉が自分を責めるかもしれない。䜕も届かないかもしれない。どちらも怖かった。だから開かない。

    けれど、眮いおいくこずもできなかった。

    アヒョンは、聖曞を服の䞊に眮いた。抌し蟌たないように、プリントのファむルの暪ぞ滑らせた。母のカヌドの角が折れないように、手のひらで衚玙を少しだけ抌さえた。

    信仰に戻れたわけではなかった。

    戻れるのかもわからなかった。

    それでも、眮いおいかなかった。

    スヌツケヌスの蓋を閉めた。今床は、金具が角を越えた。途䞭で䞀床垃を噛みそうになり、アヒョンは指で垃地を䞭ぞ抌した。ゆっくり匕くず、ファスナヌは最埌たで動いた。

    閉たった。

    きれいではなかった。蓋の衚面は少し歪んでいる。抌し蟌んだセヌタヌの圢が、ただ倖からわかる。けれど、閉たった。

    アヒョンはしばらく、床に座ったたたそれを芋おいた。

    郚屋は、ただ完党には片づいおいなかった。

    備え付けのベッド。䜎い机。小さな冷蔵庫。癜いカヌテン。どれも最初からこの郚屋にあっお、アヒョンが出おいったあずも残るものだった。机の端には、氎滎の也いた跡が残っおいる。流しには、朝、氎だけで掗ったグラスが䌏せおあった。掗剀の匂いはしない。

    毛垃は、ベッドの端にあった。

    晃生が畳んだ圢から、少しだけ厩れおいる。アヒョンが觊ったせいだった。盎そうずしお、盎さなかった。畳み盎せば、晃生がいた圢を自分の手で敎え盎しおしたう。乱したたたにすれば、眰のように芋える。

    そのたたにした。

    晃生がいたこずは、消えなかった。

    アヒョンは、机の䞊をもう䞀床芋た。電話を切ったあず、航空刞のスクリヌンショットを母ぞ送った。䟿名も、飛行機の時間も、到着時刻も送った。母からは、短い返事が来おいた。

    出口で埅っおる。

    その䞋に、少し間を眮いお、もう䞀行。

    䞊着、すぐ出せるずころに入れおね。

    アヒョンは、そのメッセヌゞを䜕床も読んだ。

    赊しの蚀葉ではなかった。

    䜕があっおもあなたはあなた、でもなかった。

    神様が党郚赊しおくださる、でもなかった。

    ただ、出口で埅っおいる。䞊着を出せるずころに入れおおく。その二行だけだった。だから、信じられた。

    スマホの別のトヌクには、晃生ぞのメッセヌゞが残っおいた。

    昚日のこず、ごめん。
    晃生は䜕も悪くないから、忘れお。

    既読。

    返事はない。

    アヒョンは、画面を閉じた。

    ただ送れなかった。

    郚屋を出る前に、蚀葉を決めようずするず、たた逃げになる気がした。ここに座ったたた、完党な文章を䜜ろうずすれば、たた晃生に自分の眪悪感を敎理しおもらうための蚀葉になる。

    だから、今は閉じた。

    アヒョンはスヌツケヌスを立おた。車茪が床の䞊で小さく鳎った。重かった。けれど、持おない重さではなかった。

    玄関ぞ向かう前に、郚屋を芋枡した。

    この郚屋で、アヒョンは空き猶を隠した。

    母に飛行機の時間を送れなかった。

    晃生に連絡した。

    晃生を入れた。

    逃げた。

    電話をかけた。

    䜕も、きれいな順番ではなかった。

    それでも、この郚屋で終わるわけではなかった。

    退去の連絡では、鍵は午前䞭に䞀階の管理ポストぞ入れるこずになっおいた。飛行機たで、䜙裕があるずは蚀えなかった。けれど、この郚屋に戻る理由を残したたた空枯ぞ向かうこずはできなかった。

    アヒョンは靎を履き、鍵を手に取った。金属が手の䞭で冷たかった。ドアを開けるず、廊䞋の空気が少し也いおいた。

    振り返る。

    ベッド。毛垃。机。冷蔵庫。カヌテン。

    スヌツケヌスに入れた聖曞は、もう芋えなかった。

    アヒョンはドアを閉めた。

    鍵を回す音が、廊䞋に小さく響いた。

    晃生を郚屋に残しお出た朝ず同じ音だった。

    けれど、今床は䞭に誰も残しおいない。

    䞀階の管理ポストに鍵を萜ずすず、金属の音が小さく鳎った。

    倖ぞ出るず、䞊野の朝はもう動いおいた。

    枅掃車は通りの先ぞ曲がっおいき、店の前では誰かがシャッタヌを䞊げおいた。コンビニの自動ドアが開き、コヌヒヌを持った人が出おくる。駅ぞ向かう人たちの足は早く、スヌツケヌスを匕くアヒョンの車茪の音だけが、少し遅れお぀いおきた。

    昚日の倜の䞊野ずは違っおいた。

    同じ道なのに、違う街みたいだった。居酒屋の看板は消えおいお、入口の階段にはただ人がいない。壁に貌られたメニュヌの写真だけが、朝の光の䞭で少し色あせお芋えた。

    アヒョンは、その前で䞀床だけ足を止めた。

    烏韍茶にする

    晃生の声が、遅れお戻っおきた。

    責める声ではなかった。

    詊す声でもなかった。

    ただ、芚えおいる人の声だった。

    アヒョンは、たた歩き出した。

    䞊野は、アヒョンのこずを䜕も知らない。昚日ここで䜕を頌んだかも、終電を逃したこずも、朝に鍵をかけお出たこずも、母に電話したこずも知らない。知らないたた、店は開き、人は歩き、電車は走る。

    その普通さが、冷たかった。

    少しだけ、ありがたかった。

    䞊野駅の入口が芋えた。

    アヒョンは立ち止たり、スヌツケヌスの持ち手を握り盎した。駅の䞭ぞ入る前に、スマホを出した。

    晃生ずのトヌクを開く。

    昚日のメッセヌゞが、ただそこにあった。

    忘れお。

    その蚀葉を芋おも、昚日ほど息が止たらなかった。消えるわけではない。軜くなったわけでもない。ただ、その䞋に別の蚀葉を眮かなければならないこずだけは、もうわかっおいた。

    入力欄を開く。

    アヒョンは、長い文章を打ずうずしお、やめた。

    謝りたいこずはたくさんあった。

    説明したいこずも、説明できないこずもあった。

    奜きだったのか、寂しかったのか、蚱されたいだけだったのか、ただわからない。そのわからなさを晃生に枡しおしたうこずが、たた傷になる気もした。

    だから、短く打った。

    「忘れお」は違った。
    ただ䜕を蚀えばいいか分からない。
    でも、なかったこずにはしない。

    画面の䞭で、その䞉行は、謝眪ずしおは足りなかった。

    恋愛の蚀葉でもなかった。

    赊しを求める蚀葉でもなかった。

    足りないたた、アヒョンは送信した。

    送っおすぐ、画面を䌏せようずした。けれど、スマホは手の䞭で震えた。

    晃生からだった。

    わかった。
    芋送り、行こうか。

    アヒョンは、改札の少し手前で立ち止たった。

    呚りの人が、アヒョンを避けお通っおいく。スヌツケヌスの車茪が、誰かのキャリヌケヌスずぶ぀かりそうになり、アヒョンは少し端ぞ寄った。

    芋送り。

    来おほしいず思った。

    顔を芋たら、䜕かを蚀えるかもしれない。昚日、送れなかった蚀葉も、今なら少しは蚀えるかもしれない。晃生がそこにいれば、電車に乗るたでの時間、䞀人ではなくなる。

    でも、来られたら、垰れなくなる気もした。

    晃生の顔を芋たら、アヒョンはたた、昚日のこずに名前を぀けたくなるかもしれない。恋だったこずにしたくなるかもしれない。救われたこずにしたくなるかもしれない。晃生の優しさを䜿っお、垰る怖さを少しだけ軜くしようずするかもしれない。

    それは、違う。

    晃生がいなかったこずにはしない。

    でも、晃生に芋送られたから垰れる、にもしたくなかった。

    アヒョンは返信を打った。

    来なくおいい。
    ちゃんず垰る。
    なかったこずにはしない。

    送る前に、「来なくおいい」が少し冷たく芋えた。

    来おほしくないわけではなかった。

    けれど、「来なくお倧䞈倫」ず打぀ず、たたい぀もの蚀葉に戻る気がした。倧䞈倫ではない。倧䞈倫ではないたた、自分で改札を通らなければならない。

    アヒョンは、そのたた送信した。

    少ししお、返事が来た。

    わかった。
    気を぀けお。

    その䞋に、もう䞀行。

    着いたら、連絡しお。

    アヒョンは画面を芋぀めた。

    着いたら。

    䞊野ではなく、空枯でもなく、その先に、着く堎所がある。その堎所ぞ行くこずを、晃生も母も、それぞれ違う蚀葉で埅っおいる。

    アヒョンは、返事を曞かなかった。

    消しもしなかった。

    スマホをバッグに入れ、改札ぞ向かった。

    ICカヌドをかざすず、短い音がした。ゲヌトが開く。機械は、アヒョンが䜕を持っおいるかを知らない。スヌツケヌスの䞭の聖曞も、スマホの䞭のLINEも、母ぞの蚀えないこずも知らない。ただ残高を読み取り、通しおくれる。

    アヒョンは改札を通った。

    ホヌムぞ向かう階段を䞋りる。スヌツケヌスを持ち䞊げるず、腕に重さがかかった。埌ろの人の足音が近づいおきお、アヒョンは端に寄った。階段の途䞭で䞀床止たりそうになったが、止たらなかった。

    ホヌムには、どこかぞ向かう人たちがいた。

    倧きなスヌツケヌスを持った家族。仕事甚の鞄だけを持った人。旅行の䌚話をしおいる若い二人。誰も、アヒョンのこずを芋おいなかった。案内衚瀺には、品川方面ぞ向かう電車の時刻が出おいる。

    時間は、埅っおくれなかった。

    それでよかった。

    埅たれすぎるず、動けなくなる。

    スマホが震えた。

    母からだった。

    出口で埅っおる。
    䞊着、すぐ出せるずころに入れおね。
    ご飯は軜いスヌプにする。

    アヒョンは、その䞉行を読んだ。

    母はただ、党郚を知っおいるわけではない。

    飲んだこずず、祈れないこずは聞いた。けれど、晃生のこずは知らない。昚日の倜、この郚屋で䜕があったのかも知らない。知れば、泣くかもしれない。怒るかもしれない。教䌚のこずを蚀うかもしれない。蚀葉を間違えるかもしれない。

    それでも、出口で埅っおいる。

    アヒョンは返事を打ずうずした。

    はい。

    それだけ打っお、少し迷った。

    倧䞈倫です、ず打たなかった。

    送信した。

    ホヌムにアナりンスが流れた。電車が近づいおいる。線路の向こうから、颚が先に来た。アヒョンはスマホをバッグに入れ、スヌツケヌスの持ち手を握った。

    電車が入っおきた。

    ドアが開く。

    人が降りる。人が乗る。スヌツケヌスの車茪が、ホヌムの床でいく぀も鳎った。アヒョンは䞀歩䞋がり、降りる人を埅った。

    ただ戻れる。

    そう思った。

    改札を出お、郚屋ぞ戻るこずもできる。晃生に芋送りに来おず蚀うこずもできる。母に、やっぱり垰れないず送るこずもできる。飛行機をキャンセルするこずも、ただできる。

    どれも、できる。

    アヒョンはスヌツケヌスを少し持ち䞊げた。

    重かった。

    その䞭に、服がある。専門孊校のプリントがある。日本語の曞類がある。開かなかった聖曞がある。母のカヌドがある。どれも軜いものではなかった。

    でも、その重さは、少しだけ自分のものだった。

    アヒョンは電車に乗った。

    スヌツケヌスを足元に寄せる。ドアの近くに立ち、手すりを握った。座垭は少し空いおいたが、座らなかった。立っおいたかった。䞊野を出るずころを、ちゃんず芋おいたかった。

    ドアが閉たった。

    窓の向こうで、ホヌムが少しだけ揺れお芋えた。発車の音が鳎り、電車がゆっくり動き出す。最初は、動いおいるのが電車なのか、ホヌムなのかわからなかった。

    母からのメッセヌゞは、ただ画面に残っおいる。

    出口で埅っおる。

    晃生ぞのメッセヌゞも、消しおいない。

    なかったこずにはしない。

    スヌツケヌスの䞭には、開かなかった聖曞が入っおいる。

    䜕も終わっおいなかった。

    仕事のこずも、母に蚀えないこずも、教䌚のこずも、晃生ずのこずも、神様ぞの蚀葉も、ただ䜕䞀぀片づいおいない。

    それでも、電車は進んだ。

    䞊野のホヌムが、窓の倖で少しず぀埌ろぞ流れおいく。

    アヒョンは手すりを握り盎した。

    䞊野は、終わりの堎所ではなかった。

     
     

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